第25話 誰もが包帯を必要としている
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
「警察官?……」
亜希子は智博を抱えながら言った。
「ハユンさん、警察官になるの?」
「うん、今度試験を受けようと思う。受かれば公務員になれる」
智博がぐずったのでハユンが智博を抱く。
亜希子は楽観的なハユンに問いかける。
「危険なお仕事でしょ?公務員なら他にもあるのに……」
「僕はテコンドーをやってたし、体力には自信がある」
「でも、何があるかわからないし、私はハユンさんに何かあったら……どうしていいかわからない」
亜希子は動揺して言った。
「僕が殉職したら、遺族にお金が入るらしい。お義母さんも安心するだろう」
「殉職なんて……そんな日本語一番覚えなくて良い日本語よ」
「平日休みが多いから、どこに行くにも空いてる」
「それは……いいかもしれないけれど……」
「自分の性格を分析したんだ。正義感が強くて物事を論理的に考える。警察官は合ってるだろう」
「……まあ、そう言われればそうだけど」
「なあ、智博。パパはお巡りさんになるぞ」
智博はきゃっきゃと笑った。
ハユンが警察学校へ入ると、亜希子や智博とは離れて六ヶ月間の寮生活をした。
規則正しい生活は、ハユンには苦ではなかった。同期生が厳しい規則に愚痴っていても、ハユンは上手く適応出来た。
ただ、同期が教官から理不尽な仕打ちを受けた時は別だった。
同期に、山本直也という性格は実直だが、手先が器用ではない男がいた。
警察学校の学生は、起床すると身の回りの整理整頓をすることになっている。山本直也は、シーツ交換を苦手としていた。
「いいなあ、ハユンさんは、細やかなことが出来て。今日は大丈夫かなあ……」
山本は呟いた。
ハユンは微笑みながら指摘する。
「ここに、シワがありますよ」
「ありがとう、ハユンさん」
そう言うと山本はシーツを丁寧にマットレスの下へ入れた。
「ハユンさんは几帳面ですね」
「一人暮らしが長かったからですよ」
一日の授業が終わり、部屋へ帰ってくる学生たち。
「またやられた!」
山本は入ってくるなり叫んだ。綺麗に敷いたはずのシーツが荒らされていたのだ。
武川浩一教官が入ってくる。
「早くやり直せ」
山本は再度シーツを敷いた。
ハユンが武川教官に口を出す。
「こんなことして酷いじゃないか」
「酷い?……俺は秩序を教えてるんだ。街の秩序を守るためにお前らは警察官になるんだろう」
「……嫌がらせが、秩序なのか?」
ハユンは武川教官に迫った。
「ハユンさん、ハユンさん、僕なら大丈夫ですよ」
山本がハユンを止める。
「いい根性してるな」
武川教官はそう言うと、ハユンのシーツをはがし、身の回りのものを荒らしてみせた。
「どうだ」
満足げに部屋を出ていく武川教官。
ハユンは黙々と片付ける。
ハユンは警察学校の暗い廊下を端まで歩いた。
夜空を見上げると、星がそわそわしている。ハユンは韓国語で色々なことを考えた。
……いつも、何かしらにつまづいている気がする……
……壁を乗り越えたと思えば、また一層高い壁が待っている……人生はそういうものなのか……
……亜希子や智博がいない生活は、包帯を失くした傷口のようだ……
そんなことを想った。
ハユンは警察学校の公衆電話から電話を掛けた。
トゥルルー、トゥルルー
「はい、もしもし。もしもし?崔です」
「亜希子」
「ハユンさん!どうしたの?」
「……晴れていると、地上の暖かい空気が逃げてしまう……曇っていると、雲が蓋をして暖かい空気が逃げられなくなる……」
「うん」
「それを『放射冷却』と言うんだ……」
「そうなのね。ハユンさん、それを言うために電話を?」
「うん」
「学校は、順調?」
「ああ、うん。順調だよ」
「何か、あったのね」
「……」
「もしかして、辛い思いでもしているの?」
「亜希子」
「うん?」
「愛してる」
「やだ、私もよ、ハユンさん」
「『愛してる』って言って欲しい」
「やだ、はい、ハユンさんを愛してます」
智博がぐずった声を出す。
「うーん」
「智博、パパよ」
「きゃきゃ」
「智博、パパって言って」
「ぱーぱ」
心に込み上げるものがあった。ハユンはまた頑張ろうと思った。
警察官になったハユンが、交番で地図を見ながらお年寄りに道を教えている。
その日は、ハユンが警察官になってはじめての給料日だった。
ハユンがアパートに帰って来る。
「おかえりなさい」
亜希子が智博をだっこして笑顔で出迎える。
「ただいま」
ハユンはそう言うと、智博のほっぺたをつんつんした。
「パパにおかえりなさいって」
亜希子が智博に促す。
「おかえりーなちゃい」
智博が言うと喜ぶハユン。台所で手を洗う。
「今日は豪華だな」
ハユンは食卓の料理を見て言った。キムチはもちろん、プルコギやキンパも並んでいる。
「頑張っちゃった。今日お給料日よ」
「そうだったな」
「さっ、食べましょう」
ハユンと亜希子は手を合わせて言う。
「いただきます」
ハユンは智博をだっこしながら智博の両手も合わせた。
亜希子は心を込めて再度言う。
「いただきます」
「二回目だぞ」
「しみじみそう思ってね。ほんとうに、ありがたいと思ってね」
「……」
亜希子はハユンを見つめた。
「ハユンさん、お疲れ様」
「亜希子もいつもありがとう」
「今日ね、銀行でお金おろした時ね、厚みがあって緊張しちゃった」
微笑むハユン。
「大切に使わないとね」
亜希子は満面の笑みで言った。
「そうだな」
ハユンは亜希子を安心させられたことが、何よりも嬉しかった。
ハユンと亜希子は、智博が三歳になると、船橋市の北側にある鎌ケ谷市に中古の一戸建てを購入した。
この先、何があるかわからない。ハユンはお義母さんの老後の生活も考えて、なるべく貯金をしようとそう決断したのだった。
引越しが一段落すると亜希子は自宅の外観を見ながら、
「私たちが家を買えるなんて夢みたい」
そう呟いた。
「ハユンさん、ありがとう」
「亜希子のおかげだよ。いつも支えてくれてありがとう」
ハユンは亜希子の肩を抱いて言った。
ハユンの誕生日には、ロウソクに火を灯すとはじめて大きな声で歌を歌った。
自宅近くにある貝柄山公園へ智博を連れて行くハユンと亜希子。
子供の日が近いからか、五十匹の鯉のぼりが大空に泳いでいた。壮観だった。智博も元気に走り回っている。
三人は本当に幸せだった。
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