第20話 その日は突然(蜜々しいハユン)
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
その日は、突然だった。
本の森書店で亜希子は中年の男性客に怒鳴られている。
男性は表紙の破れている雑誌を手にして罵声を浴びせる。
「こんなもん売り物にして恥ずかしくないのか!」
「申し訳ありません。交換させていただきますので」
亜希子は頭を下げる。
「謝って済むことか?俺に無駄足を強いたんだぞ!そもそもどうしてこんなもんを置いとくのか!」
亜希子はずっと頭を下げるが、怒りが収まらない客。
「私が対応します」
店長の柿田幸司がやって来て、亜希子を対応から外す。
ほとほと疲れてしまった亜希子は涙を浮かべながら退勤の準備をする。
千葉理科大学大学院の研究室にいたハユン。
ふと窓の外へ目をやると雨が降り出していた。ハユンは亜希子に電話を掛けた。
着替え終わった亜希子が帰ろうとすると、カッチーニのアヴェ・マリアが携帯電話から流れた。「ハユンさん」の文字にすがるような気持ちで電話に出る。
「もしもしハユンさん」
か細い声で出る亜希子。
「亜希子さん、今日傘持ってますか?今、雨降ってます」
「持ってないですけど、買って帰ります」
「雨の度に傘を買っていたら家が傘だらけになる」
「大丈夫です」
「……なんか声が変だ。亜希子さん何かありましたか?」
亜希子は躊躇して答えない。
「何かあったんですね。分かった。迎えに行きます」
亜希子は救われた思いだった。
亜希子は甘えることにした。
韓国語で気持ちを伝える。
「빨리 만나고 싶어(パルリ マンナゴ シッポ)」
早く会いたい、という意味だった。
「僕も早く会いたい」
雨は激しくなっていた。ハユンは本の森書店の従業員出入口に着くと、亜希子に電話をする。
「着きました」
「今行きます」
亜希子は出てくると、ハユンの傘の中に入る。
「ごめん遅くなって」
「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう」
「何か困ったことがあったらなんでも言って欲しい」
ハユンは頼りにされるのが喜びだった。
「……離れたくない」
亜希子は思わず口走った。
亜希子が顔を見上げると、ハユンの顔が目の前にあった。亜希子はキスってこうやってするのかな、とぼんやり思った。
ハユンも胸が疼いて口を開いた。
「僕たち、結婚しませんか?」
「え?」
亜希子は耳を疑った。
ハユンは再度言う。
「結婚……しましょう」
「……私たち、キスもしてないですよ」
「……今、しそうになった」
「でも……してないです」
「亜希子さん『離れたくない』って言った。結婚すれば離れなくて済む」
「たしかにそうですけど……」
亜希子は戸惑いを隠せない。
ハユンはしばし何かを考えて言う。
「それに、このまま行けば、僕たちは子供ができるようなことをする可能性もあるでしょう」
亜希子は照れてうつむいた。
「その時に、責任を取れる状態にしておきたい。結婚しましょう」
「私……プロポーズされたんですか?」
亜希子は目を丸くして言った。
「そうです。僕が誰かと結婚するとしたら、それは亜希子さんしかありえないから」
ハユンはそう言うと、亜希子を優しく抱きしめた。
「結婚してください」
「……はい」
抱きしめられながら亜希子は、ハユンと一緒に生きて行こうと決意した。
そして、ハユンと亜希子はそっと唇を合わせた。
北初富駅を降りて、亜希子のアパートへ向かうハユンと亜希子。
「結婚て……まだ付き合ったばかりなのに……私の何が良かったんですか?」
「だいたい、亜希子さんのことは分かってます。料理が苦手なこととか」
「良い事言ってくださいよぉ」
亜希子は頬を膨らませた。
ハユンは思い出していた。アンデルセン公園で雨に降られた時に亜希子が言った言葉を。
……「散々だったんじゃないですか。雨にも降られて」
「ううん、散々な方が思い出に残るから。ハユンさんとの思い出はたくさん欲しい」……
「亜希子さんはそう言いました。僕は、亜希子さんとなら、この先、何があっても乗り越えられると思う」
ハユンは亜希子に優しく微笑んだ。
「それに、」
「それに?」
亜希子は頭を傾げた。
「それに、僕たちは物を大切にするところが似ている」
亜希子は、たしかに、と思った。
「そんな二人が結婚しないなんて許されない」
ハユンは真剣だった。
「ハユンさん、おおげさ」
そう言って亜希子は笑った。
「僕は亜希子さんの全てが好きです。亜希子さんに出会えて本当に感謝しています」
亜希子は、ハユンが雪の日以来めっきり愛情表現が濃くなっていることに気づいていた。
蜜々しい。そんな言葉はないかもしれないが本当にそんな感じなのだ。
嬉しいがこそばゆくもあり、自分には贅沢な言葉や愛情だった。
「ハユンさん、すごく、蜜々しい」
「ん?」
ハユンは、何年日本に住んでいても、知らない言葉があるんだな、と思った。
この日も亜希子のアパートのドアまで行くと、ハユンは言う。
「じゃあ、また」
亜希子は心から言う。
「今日はありがとう」
ハユンは微笑んだ。
「鍵、ちゃんと閉めてね。中の鍵も」
亜希子はドアを閉めると、言われた通り鍵を掛けた。
ハユンは鍵のガチャという音を聞いて満足して帰って行った。
北習志野駅で、ハユンと亜希子は待ち合わせをして落ち合った。
バスを待っている時、街角のフラワーカーが目に入ったハユンはそこへ走った。追いかける亜希子。
「ハユンさん、どうしたの?」
「君を産んでくれたお義母さんだから花を贈って感謝したい」
「優しいのね」
「贈り物は贈る側もプレゼントをもらってるんだ」
「?」
亜希子は意味が分からなかった。
「プレゼントした側も満たされるから」
「満たされるってあまり使わないけど、なんか良いわね。満たされる」
店員さんが見繕った小ぶりでささやかな花束を見て満足気なハユン。
街の外れにある亜希子が育った団地へ到着した。
チャイムを鳴らすと、亜希子の母、澤田裕子が顔を出す。裕子はハユンを一瞥すると、
「何もないけどどうぞ」
と中へ招き入れた。
お茶を淹れる裕子。
亜希子とハユンはリビングで正座している。
「駅から遠かったでしょう」
そう言いながら裕子はハユンにお茶を出した。ハユンは、後ろに隠していた小さな花束を出して言う。
「おかあさん、これを」
「私はあなたを産んだつもりはないけどねえ」
「お母さん、ハユンさんになんていうこと言うの?」
「受け取れば良いんだろう?」
裕子は花束を台所へ持って行くと、棚を探っていくつかの花瓶から一つを取り出した。
「ハユンさん、ごめんなさいね」
「大丈夫」
ハユンは、お義母さんは緊張しているのかもしれないと思って、お茶を一口飲んだ。
「はいよ」
そう言うと、裕子は花瓶をテーブルに無造作に置いた。
亜希子は一呼吸置いて切り出す。
「ハユンさんからお話があるの」
「何」
裕子は素っ気なく言った。ハユンは勇気を出して言う。
「亜希子さんと、結婚させてください」
「……そういうことだったのか。亜希子に付き合ってる人が居たなんて知らなかったもんだから」
「付き合い出したのは最近なの」
「最近付き合ってもう結婚?」
裕子は怪訝な顔をした。
亜希子は焦った。
「ずっと……デートみたいなことはしてたのよ」
「ん?」
「友達として、色んなところ行ったり。ね?」
亜希子はハユンに同意を求めた。
「はい」
ハユンは同意する。
「どういう人かはちゃんと分かってるから安心して、お母さん」
「亜希子さんはとても素敵な人です」
ハユンは丁寧な口調で言った。
裕子はそっぽを向いて言う。
「結婚して幸せになるかどうか……ましてや国際結婚なんて」
「私は幸せよ、お母さん」
亜希子は裕子に縋るように言った。
「ハユンさんね、生命保険には入りなさい」
「お母さん、そんなこと言わないで。いきなり」
亜希子は焦って制止する。
「お父さんが事故に遭って、私がどんだけ大変な思いしたか、亜希子、あんたはよく知ってるだろう」
「入ります。生命保険ですよね。入ります」
ハユンは笑顔で答えた。
「ハユンさん……」
亜希子は申し訳なかった。
「お義母さんは亜希子さんを心配して言ってるんだよ。僕もその方が安心だから。お義母さんも安心してください」
ハユンは穏やかに言った。
「浮気しただの、なんだのって言ったって、私は助けられないからね」
裕子は冷たく言い放った。
「僕は、浮気なんてしません。亜希子さんを悲しませることはもうしないと決めたんです」
「もう?なんかあったのか?」
「ううん、大したことじゃないわ」
亜希子はハユンを庇って言った。
裕子は見せつけられているような、嬉しいような、複雑な気持ちでハユンを見つめた。
帰りのバス停でバスを待っているハユンと亜希子。
「ハユンさんのご両親にもご挨拶しないとね」
「……」
ハユンは口を堅く閉ざしている。
「韓国まで……行きましょうか、私」
「それは、僕がしたくないんだ」
「どうして?」
「……」
答えないハユン。沈黙が二人を包む。
北習志野駅行きのバスが来たが、二人は乗らなかった。
「今、電話で報告するよ」
ハユンは携帯電話を取り出すと、電話を掛けた。スピーカーにして韓国語で話す。
「お母さん」
「珍しいねハユン、元気にしてる?」
「日本で結婚することにしたよ。じゃあ」
「待って、ハユン」
「……」
「久しぶりに電話して来たと思ったらそれだけなんて……」
「反対しても無駄だよ」
「反対はしないよ。そんなことは分かってる」
亜希子は韓国語が聞き取れず、不安そうにしている。
「ハユンも結婚する歳になったんだね。相手の子は良い子なのね?」
「今まで会った人の中で一番善良だよ」
ハユンは愛しそうに亜希子の頬を撫でた。
「そうなのね。ハユンて名前は女の子が欲しかったからお腹にいる時に名付けた名前よ。娘を嫁にやったと思うことにするから」
「……」
「幸せにね。お父さんには私から言っておくから」
「じゃあ」
電話を切るハユン。
亜希子が心配そうに言う。
「私、ほとんど聞き取れなかった。私もまだまだ勉強しなくっちゃ……お義母さんなんだって?」
「結婚して良いってよ。母親も僕のことは諦めてるから。今はもう、父親と弟と三人家族だと思ってるんだろう」
亜希子は、父親、という言葉に引っかかった。ハユンさんはお父さんをアルコール依存症で亡くしていたはず。
「ハユンさん、聞いちゃいけないことかもしれないけど……前にお父さんは亡くしたって」
「ああ、今は母も再婚して義理の父親がいる。もう何年も話すらしてない。折り合いが悪いんだ。僕は愛されるような子供でもなかったから」
「そうなの……」
「弟はかわいいけど、僕には居場所がない」
亜希子はハユンの人生を慮って言う。
「私たち、幸せになりましょうね」
子犬のように自分を見上げる亜希子を、ハユンは抱きしめた。
「幸せな家族を作ろう」
ハユンはそう言って、しばらく亜希子と抱き合った。
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