第19話 嫌いなハユンさん
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
その日、ハユンと亜希子は葛西臨海公園へ『ダイヤと花の大観覧車』に乗るために来ていた。
地上117メートルの眺望が味わえるという触れ込みだった。
ハユンと亜希子は観覧車に乗り込む。スタッフがドアを閉めると、二人は向かい合って座った。二人は密室に緊張していた。
気を紛らわすように景色を見渡す二人。徐々に二人のゴンドラは上昇して行く。
「綺麗」
亜希子は呟いた。
しばらくの沈黙の中、ゴンドラはどんどん上昇して行く。
「ハユンさん、私たち、千葉を出て東京まで来ちゃいましたね。ここ江戸川区ですよ」
「はみ出すのは良くないことです」
「えっ?……どういうことですか?」
亜希子の問いかけにも、ハユンは沈黙している。何かを考えているようだった。
亜希子はそんなハユンの横顔を見て、ふと不安になった。ハユンがなんだか遠く感じた。
頂点近くなり、ハユンは口を開く。
「話があります」
ハユンは努めて平坦に言った。
「はい……」
「僕たち、会うのやめませんか」
「急に、どうしたんですか」
亜希子は不安が的中したと思った。
「友達としても、もう会わないということですか」
「そうです。距離が近くなり過ぎました」
いつか来ると思っていた別れが今日だなんて、亜希子は信じたくなかった。
「私のこと、やっぱり嫌いになりましたか」
「いいえ、好きです」
「それならどうして……別れるなら嫌いと言ってください」
「好きな人に嫌いとは言えない」
「私は言えますよ。ハユンさんなんて嫌いです」
亜希子は、ハユンを嫌いと言って、自分が傷つくのを感じた。
ハユンはそう言われても仕方ないと思った。
「そうですか……僕は、毎日亜希子さんのことで頭がいっぱいなんです」
「……それは……恋じゃないですか?」
「苦しくて……もう耐えられない……」
ハユンはうつむいた。
「……良いですよ。私、ハユンさんのこと大嫌いだし、大嫌いです」
亜希子は自分の心を傷つけるために言った。
「……もしかして僕に嫌われる為に言ってますか」
「そうですよ、嫌われないと辛すぎるでしょ?好きなのに。両思いなのに」
「……」
「ハユンさんが私のことが嫌いならどんなに良いか。嫌いだって言ってくださいよ」
亜希子はハユンの袖を引っ張った。
「やっぱり言えません」
「自分が悪くなりたくないから?私は、飛行機のおもちゃよりは丈夫ですよ」
「今が一番幸せだから、今別れるのが一番良いと思ったんです。幸せなうちに別れたい」
「そんな……」
亜希子は、現実を突きつけられた気分だった。
ゴンドラが地上に戻って来た。ハユンは亜希子を先に降ろすと後に続いた。
ハユンと亜希子は沈黙のまま少し歩くと、亜希子は涙を溜めて言う。
「さよならは言わないです。また会えると思ってます」
ハユンは諭すような口調で言う。
「僕が存在しなかったように生きた方がいい。良い人と出会って幸せでいて下さい」
「……ハユンさんは私と会えなくなっても悲しくはないんですか?」
「僕は、今別れることで、元気な亜希子さんだけを思い出に出来る。亜希子さんは死ぬこともないし悲しい顔をすることもない」
ハユンの迷いのない言葉に亜希子は諦めるしかない、説得する言葉など持ち合わせていないのだと思い知った。そして振り絞るように言った。
「一瞬でも……私のことを一瞬でも好きになってくれてありがとうございました……さっきは、嫌いなんて言ってごめんなさい。私はハユンさんと出会えて良かったです。笑顔で別れましょう」
「……僕からも、ありがとう」
「仕事なんで……じゃあ」
そう言うと亜希子は、ハユンを背に向けて駅へと歩き出した。
ハユンはその後ろ姿が消えるまでずっと見送ると、反対方向へ歩き出す。
ハユンは葛西臨海公園を歩くことにした。亜希子と別れたことが良かったのか分からない。良かったような気もするし、重大な過ちを犯したようにも感じた。
満員電車に乗った亜希子は、携帯電話を取り出してハユンの連絡先を着信拒否にして削除した。
……一つの恋が終わった……
亜希子は電車の窓に映る自分の顔を眺める。
右側に居る女性が薬指に結婚指輪をしている。その他の人達の薬指も見る。あの男性もあの女性も結婚指輪をしている。
……この人達はみな誰かと結ばれているんだ……大切な人と出会って結婚までして……そんな奇跡を経験してるんだ……私はひとりぼっちなのに……
結婚指輪など自分には到底届かないものなのかもしれない。
……ハユンさん……本当に好きだったな……とぼんやり思った。
海の見える場所まで来たハユンは、一人で歩いて行く。韓国語で思いを巡らす。
……元々こうだったじゃないか。一人で生まれて、味方もなく一人で生きて来たような人生だった……これからもそれが続くだけだ……続くだけ
ハユンは深呼吸して、水面が揺れるのをじっと見つめた。
……これは過ちじゃない。亜希子さんにとってもこれで良かったはずだ……自分との未来なんて描く方が悲惨なはず……
そう、自分に言い聞かすように言葉を巡らせた。
「わー」
ハユンは周辺が騒がしくなったのに気づいた。顔を上げる。
……雪か……初雪……
海に雪が吸い込まれて行く。雪は儚くも美しかった。
……どうして……
ハユンは無性に悲しくなった。
韓国には初雪をカップルで見ると永遠に一緒にいられるというジンクスがあった。
……別れなど告げなければ、僕たちはずっと永遠にいられたかもしれない……
この景色を亜希子と見られないことがこんなに切ないものだと思わなかった。
……亜希子さんとの日々を、自分が壊してしまったんだ……誰でもない、この自分が……この手で
ハユンに後悔が襲う。
もう、亜希子は人生の一部になっていた。
……やっぱり亜希子さんと見たい。どんな景色も亜希子さんと見たい……
気づくとハユンは走り出していた。
駅へ着いたハユンは、亜希子が仕事だと言っていたことを思い出した。
亜希子は本の森書店で涙ぐみそうになるのをどうにか耐えながら、レジを担当していた。笑顔を作ってはいたがぎこちなく苦しかった。
ハユンが本の森書店へやって来る。亜希子を探すハユン。
しかし、見当たらない。
レジの亜希子は、客の本を落としてしまう。
「申し訳ありません。新しいものと交換いたします」
亜希子は客に謝罪して落とした本を拾うためにしゃがんだ。
ちょうどその時、ハユンはレジへ来た。レジでも亜希子の姿は確認出来なかった。
……この先、亜希子さんに一生会えないかもしれない……
そんなことが頭をよぎる。本当に愚かなことをした、とハユンは思った。
ハユンが辺りを見渡している時に、亜希子は本を探しにレジを離れていた。
ハユンは携帯電話を取り出して亜希子に電話を掛けた。
ツーツー、おかけになった電話は電源が入っていないか、 電波の届かない場所にあるため、かかりません……
繋がらない。
二人は会えなかった。
呆然と立ち尽くすハユン。
本の森書店が閉店し、ロッカールームで亜希子や同僚は帰る準備をしていた。
「ねえ、澤田さん、雪降ってるみたいよ」
三木ひじりが言った。
「雪……」
亜希子にはどこか他人事だった。
「傘持ってないよー」
「私も」
亜希子は感情なく言った。雨だろうが雪だろうが、どうでも良かった。
「じゃ、澤田さんお先に」
「お疲れ様です」
三木ひじりは帰って行った。
本の森書店の従業員出入口から出て来る亜希子。
雪を見上げる。傘もない。亜希子は仕方ないと歩み出した。
その時、横から傘が差し伸べられた。
ハユンだった。
亜希子は驚いて言った。
「どうしたんですか?」
「……雪が降ったから」
ハユンは気まずそうに言った。
「雪……が降ったら……どうして?」
亜希子はまだ信じられない気持ちだった。
「寒いから……心配だから」
「コートも着てますし……大丈夫です」
「滑るかもしれないし」
「これくらいの雪、大丈……きゃ」
亜希子は滑りそうになり、ハユンが抱き寄せる。
「……亜希子さんと見たいと思いました」
「何を?」
「初雪を一緒に見たいと思った。韓国では、初雪を一緒に見ると永遠に一緒にいられるんです」
「……」
「いつも亜希子さんと色んな景色を見てきたから……これからもずっと一緒に見たい」
亜希子は耳を疑った。
「今……これからもずっとって……言いましたか?」
「僕の恋人になってくれませんか」
亜希子は信じられない気持ちだった。
「僕のこと、やっぱり嫌いですか?」
「……大好きです」
亜希子はハユンの胸を叩いた。
「長かったっ!長かったっ!」
ハユンに抱きつく亜希子。ハユンは驚いて、しかし、恐る恐るゆっくり亜希子を抱きしめた。
傘は地上に落ちていた。
ハユンが亜希子を見つめて口を開く。
「愛してます」
「韓国語では?」
「사랑해요(サランヘヨ)」
亜希子は繰り返す。
「サランヘヨ」
そう言うとハユンに再び強く抱きついた。
ハユンは自分のロングコートの中に亜希子を入れた。きらきらと輝きながら降る雪を、じっくり眺めるハユンと亜希子。
街が白く染まっていく。
亜希子は涙ぐみながら、これは現実なんだ……と噛み締めていた。
気づくと二十分くらい経っていた。
「亜希子さん、家に送ります」
「えっ?」
「家はどこですか?」
「……北初富です」
「一緒に帰ろう」
亜希子は戸惑った。ハユンさんが家に来るの?と、動揺した。
家に来たら、部屋に上がってもらって……お茶を出して……と頭の中が忙しかった。
北初富駅に着くと、アパートまでの道をハユンに案内する。
「ここを左です」
相合傘の亜希子とハユンは足元を気遣いながら信号を渡った。
「ここを右です」
右に曲がると、ストレートの道が続く。
亜希子はこの後に起こることに不安になっていた。パジャマは脱ぎっぱなしだったかもしれない……部屋が散らかっているかもしれない……などと不安になった。
とうとう、亜希子の住んでいるアパートが見えて来る。
亜希子は指をさした。
「あのアパートの二階です」
「わかりました」
その言葉に亜希子は、ハユンが引き返すのかと思った。しかし、亜希子に付いてくるハユン。
階段下まで来た時ハユンが言う。
「この二階ですか」
「はい、201です」
「はい」
そう言うと、ハユンは亜希子に続いて二階まで上って行った。
亜希子はカバンから部屋の鍵を取り出すと鍵穴を探しながら言う。
「散らかってますよ」
「中には入らない」
ハユンはきっぱり言った。
亜希子が鍵を開けると、ハユンは
「じゃあ、おやすみなさい」
と言ってゆっくりドアを閉めた。
亜希子は部屋に一人取り残された。安心したような、残念なような気持ちだった。亜希子は鍵をそうっと静かに閉める。
ピンポ~ン。ピンポ~ン。
チャイムが鳴り亜希子は驚きながらドアを開けた。
ハユンだった。
「鍵はちゃんと閉めて」
「閉めましたよ」
「音がしなかった」
「音がしないように閉めたから」
「どうして」
「どうしてって……傷つかないように……ガチャって音がしたらハユンさんが傷つくかと思って……」
「ちゃんとガチャって閉めて。中の鍵もちゃんと閉めて」
「はい……」
亜希子が呆気に取られていると、ハユンが再度ドアを閉める。
亜希子はガチャっと鍵を掛けて、中の鍵も掛けた。
外でその音を確認したハユンは、満足そうにして帰って行った。
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