第18話 はじめて触れた手(鴨川シーワールド)
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
出会って半年ほど経ったハユンと亜希子は、毎晩メールでやり取りするようになっていた。
だいたいが、おやすみなさい、といった挨拶的なものだったが、亜希子には一日に一瞬でもハユンが自分を思い出してくれる瞬間があるということが嬉しかった。
この日も亜希子が夕食を済ませたところでハユンからメールが入った。
「今度の週末、予定がなければ遠出しませんか」
亜希子は手帳を見てスケジュールを確認する。金曜、土曜には「休」と書いてあった。
亜希子はメールを返信する。
「私は金曜日と土曜日連休です。どちらでも大丈夫です」
「どこか、行きたいところはありますか」
考える亜希子。懸命に考えるが浮かばない。雑誌をパラパラめくるがめぼしい情報はない。困り果てた。
亜希子は部屋を見渡してみた。ベッドにあったイルカのぬいぐるみが目に入った。それを見て閃いた。
「鴨川シーワールドはどうですか?」
亜希子はメールを打つ。
「鴨川シーワールドですね。ちょっと待ってください」
ハユンはそう返信して地図を広げた。
亜希子はハユンからのメールを開く。
「地図を見ましたが、シーワールドなら距離的に泊まりで行った方がいいと思いますがどうですか」
亜希子はその一文を読んで、
「泊まり?!」
と声に出して言った。
亜希子に着信があった。カッチーニのアヴェ・マリアが流れる。
電話に出る亜希子。
「もしもし」
「亜希子さんが良ろしければ、インターネットでホテルを予約してもらいたいと思って」
「はい……大丈夫です」
亜希子はとりあえずノートパソコンを開き、旅行サイトを開いた。
「ホテルを検索しようと思うんですけど、条件とかありますか?」
「温泉に入ってみたいです」
「温泉あり、と」
「金曜と土曜で一泊」
「はい」
「シングルを二部屋」
「シングル二部屋、はい」
亜希子は別々の部屋で少しホッとした。
「日が近いから、空きがあるかどうか……」
そう言って亜希子は検索ボタンを押した。
「ありました!一つだけ、一つだけ空室のあるホテルがありました」
「じゃあ、そこにしましょう」
亜希子は表示されたホテルの紹介ページの写真を見ていく。
「温泉もあって、朝食と夕食もついて、わあ凄く美味しそうです」
「良かった。楽しみです。ではおやすみなさい」
ハユンはあっさり電話を切った。
亜希子は電話を置くと、
「ハユンさんと旅行?」
一人呟いた。
金曜日。
鴨川シーワールドのシャチショーの場所取りをしているハユンと亜希子。
ハユンが聞く。
「イルカショーじゃないんですか」
「シャチショーの方が濡れるそうなんですよ」
亜希子はなるべく前に行こうとする。
「前過ぎませんか?だいぶ濡れますよ」
ハユンは焦った。
「良いんですよ」
亜希子はきらきらした顔で言った。
「どうして」
ハユンは濡れるのがなぜ良いのか分からなかった。
「それが醍醐味です」
「だいごみ?」
ハユンははじめて聞く単語だった。
「濡れることを楽しむために来たんですから、存分に濡れましょう」
「寒いじゃないですか」
「私は着替え持って来ましたから。ハユンさんは持ってないですか?」
「僕はポンチョで頑張ります」
シャチショーが始まると、思った通りシャチが水しぶきを容赦なく吹きかけてくる。
水がかかるたびに小さくなるハユン。亜希子はその様子を見て聞く。
「ハユンさん、シャチ怖いんですか?」
「怖くないです。恐ろしいだけです」
「怖いんですね?ひゃー」
そう叫びながら亜希子は楽しそうに水を浴びている。亜希子がこんなにはしゃいでいるのをハユンは初めて見た。
シャチショーのお姉さんが挨拶する。
「これで、この回のショーは終わりです。ありがとうございましたー」
「すごーい。ハユンさん、こんなに濡れました」
亜希子は満足そうに言った。
亜希子が着替えてハユンの元へ来ると、ハユンは腕時計を見て言った。
「まだ一時半ですね。チェックインは……」
「十五時からです」
「ちょっと早いな……海にでも行きましょうか」
「良いですね。行きましょう」
海沿いをハユンが借りたレンタカーでしばらく走る。
亜希子はハユンの運転姿を見て言う。
「さっきから思ってたんですけど、ハユンさん車の運転上手ですね」
「そうですか?右ハンドルは慣れません」
「韓国は?」
「左ハンドルです」
「そうなんですか」
「だから慎重になっています」
前原海水浴場に着いた。季節外れの海は人もまばらだった。
ハユンと亜希子は砂浜に腰を下ろした。空気も澄んで、冬凪の波の音は耳に心地よかった。
無言の時が流れる。
ハユンは静かに言う。
「海は良いですね」
「そうですね」
亜希子はハユンの横顔を見た。風が柔らかくハユンの髪を撫でている。
亜希子は胸が締め付けられて、瞳を海へ戻した。
「穏やかな海ですね」
「そうですね」
ハユンはさざなみを触りたくなった。
「波を触りに行きましょうか」
「はい」
ハユンは立ち上がると、亜希子も立ち上がろうとするが砂に足を取られて上手くいかない。
ハユンは手を差し出して亜希子を立ち上がらせた。
二人がはじめて触れた瞬間だった。
二人は気まずくなりすぐに手を離した。その離し方が素っ気なく感じられて亜希子は少し傷ついた。
先に波に近づいて行くハユン。亜希子は追いかけて衝動的にハユンの左手を握った。
ハユンは驚いて繋がれた手を見つめると、
「ダメです」
そう言って再度振りほどいた。
「ごめんなさい」
亜希子は謝った。
ハユンは波打ち際まで行くと、無邪気に波と戯れている。亜希子は傷ついた心のままハユンのそんな姿を眺めていた。
……愛しいと思う気持ちは罪なのだろうか……
そうハユンを眺めながら思った。
ホテルのチェックインを済ますと、ハユンと亜希子はそれぞれの部屋の鍵を持ってエレベーターを待つ。
亜希子が意を決して言う。
「食事の時は、私が迎えに行きます」
「僕は一人で食事します」
優しいがどこか突き放すようなハユンの口調だった。
「そうですか……」
亜希子はうつむいた。
五階に着くと、隣同士の部屋へそれぞれ入っていく。
亜希子は部屋に入ると、悲しい気持ちでいっぱいだった。
部屋に浴衣があるのに気づく。温泉にでも入って気分を変えようと思いついた。
亜希子が温泉浴場へ行こうと浴衣とタオルを持って廊下へ出ると、同じく浴衣とタオルを持ったハユンと出くわした。
ハユンと亜希子は驚き、無言のままエレベーターへ乗り込んだ。七階へ着くと、それぞれ男湯と女湯に入って行った。
夕食は十七時半からだった。亜希子は十七時十五分になったのを確認するとドアを開けて廊下へ出た。またもや廊下へ出て来たハユンに出くわす。
亜希子は、縁があるってことかな……とぼんやり思いながら、断られるのを覚悟して言った。
「やっぱり一緒に食べませんか」
「僕は一人で」
ハユンはやはり優しいが突き放すような口調で言った。
ハユンと亜希子はエレベーターに乗り込む。二階のレストランに着くと、二人は待機用に並べられている椅子に座った。
十七時半になり、給仕たちが客の名前を確認してテーブルへ案内し出す。
「澤田様とチェ様」
二人は呼び出され、窓際の席へ案内された。
「きっと、予約が一緒だから一緒の席なんですよ」
亜希子は囁いた。
「仕方ない。一緒に食べましょう」
ハユンは諦めたように言った。
亜希子は仕方ないという言葉に引っかかったが、一緒に食べられるのは嬉しかった。
「ハユンさん、飲み物は何にしますか?」
ハユンはリストを眺めた。亜希子は、
「私、ワイン飲んじゃお」
と手で給仕を呼ぶ。
「すみません。この赤ワインと、ハユンさんは?」
「オレンジジュースを」
「かしこまりました」
給仕が去ると亜希子はつまらなそうに言う。
「旅行に来てもオレンジジュースなんですね」
「はい。羽目を外すタイプではないので」
給仕がワインとオレンジジュースを運んで来る。
亜希子はワインをグラスに注いで一気に飲み干した。ハユンは呆気に取られた。
亜希子は思い切って聞いてみた。
「ハユンさん、どうして食事も私と一緒は嫌だったんですか?一緒に食べた方が楽しいじゃないですか。私のこと嫌いですか?」
ハユンは嫌い、という言葉に少し驚いた。嫌いなはずはなかったからだった。
「……一緒にいることに慣れると、離れた時に悲しくなるから。僕たちはいつか離れる……いつも一緒は良くない」
「そんなんじゃ、一生恋人も出来ませんね」
亜希子は半ばやけになって言った。ハユンは黙ったままだった。反応がないことに亜希子は少し苛立った。
「ハユンさん、信心深いから、神父さんにでもなったら良いんじゃないですか?本で読んだんですけど、独身制なんですってね、神父さんって」
ハユンは静かに言う。
「子供の頃はなりたかった」
「でしょー。もう、ぴったりですよ、なりましょう神父さんに。ね、ね」
亜希子は酔いが回って来たのか、乱暴に言った。
「神父はミサでワインを飲みます」
ハユンは冷静に言った。
「そうですか」
「だから諦めた」
亜希子は意味が分からなかった。
「ワインが好きじゃないんですか?」
「父はアルコール依存症で死にました」
「……」
亜希子には初耳だった。
「だから、僕は一生酒は飲まない。だから神父にもならない」
「そうだったんですね……」
亜希子は、まだまだハユンさんの知らないことがたくさんあるんだろうな、とぼんやり思った。
「さっき、僕が亜希子さんのことを嫌いかと言いましたよね?」
「言いましたよ」
亜希子は大きく頷いた。
「……子供の頃に、誕生日プレゼントに飛行機の模型を買ってもらいました。ずっと前から母に頼んでいたものでした」
「はい……それで?」
「その飛行機で大事に遊んでいたんです。大事に。大事に遊んでいたのに……壁にぶつけて壊してしまったんです」
亜希子の胸がぎゅっとした。
ハユンはその時の自分を思い出していた。壊れた飛行機の前で泣いている自分を。
「僕は、同じ思いをしたくないだけなんです」
ハユンはそう言うと、オレンジジュースを飲んだ。
亜希子はその悲しげなハユンの顔に問いかける。
「……もしかして……私が、その飛行機みたいな存在だってことですか?」
「そうです。大事なほど、触れない方がいいんです。眺めているだけ。それがいいんです。……さっき、亜希子さんの手に触れてしまったのも後悔しています」
「……」
亜希子は、ハユンさんは思った以上に繊細なんだと感じた。何を言ったら良いのかも分からなかった。
その後はただただ沈黙の中で食事をした。
食事を終えると、それぞれまた別の部屋へと帰って行った。
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