第17話 かわいらしい傲慢
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
本八幡駅の改札を出るハユンと亜希子。
街角でバイオリンを弾いているおじいさんがいる。ハユンは亜希子がバイオリンをしていたのを思い出して歩きながら尋ねた。
「あれは上手いの?」
「いいと思うわよ」
亜希子は微笑んだ。
「どう聴いても下手だろう」
ハユンは納得出来なかった。
亜希子は信号に立ち止まって言う。
「味があっていいじゃない。下手でも良いのよ。弾くのを楽しんでいるのが伝わる」
ハユンはそういうもんなのか?と思った。
亜希子は思い出したように言う。
「カッチーニのアヴェ・マリアなんですけど、聴いてみますか?」
「はい、聴きたいです」
「後で、教会で聴きましょう」
「はい」
信号が青になると二人はまた歩き出した。
教会らしき建物が見えて来た。亜希子は尋ねる。
「あの教会ですか?」
「そうです」
入口に「カトリック市川教会」と表札があった。
外観はこじんまりとして外壁に淡い色合いの模様があった。
「模様が……かわいいですね」
亜希子は思わず口にした。
ハユンが案内する。
「亜希子さんの見たがっていたマリア像はあちらにあります」
教会の脇にひっそりと白いマリア像があった。とても静かで清らかな佇まいだった。
亜希子は思わず手を合わせた。ハユンはしばし見守った。
亜希子は目を開けると尋ねた。
「教会の中って見れるんですか?」
「入りますか?」
「お願い事があって……」
「お願いを叶えてくれるかは分からないですよ。祈りとお願いは違うから」
「そうなんですか?」
「それに、叶わない方がいい願いもある」
「大丈夫です。私のは確実に叶った方がいいお願いです」
そこへ鼻歌を歌いながら歩いて来る男性がいる。ローマンカラーを着た主任司祭の春田雅弘神父だった。
「おお、ハユンさん」
「神父様こんにちは」
ハユンが挨拶すると、亜希子も会釈をした。神父というと堅苦しい人物を想像していたが、亜希子は洒脱な印象を持った。
春田神父はハユンが女性といるのを珍しく思って聞く。
「こちらは?」
「友人です。友人の、澤田さんです」
「はじめまして。澤田です」
亜希子は再度会釈した。
ハユンは、一応神父に聞く。
「中は、入っても大丈夫ですよね?」
「大丈夫、大丈夫。教会は誰にも開かれてるからね、ご自由に」
そう言うと春田神父はまた鼻歌を歌いながら司祭館へ入って行った。
聖堂の重い扉を開けて、ハユンは亜希子を案内する。
聖堂内はひっそりとして、左右にはシンプルなステンドグラスからカラフルな光が差し込んでいた。亜希子は息を飲んだ。
亜希子は静かに祭壇の前まで歩みを進めると、二回手を叩いた。
パンパン
という音が響いた。
「どうした」
ハユンは驚いて言った。
「こうやって、神様を呼び出すんじゃないんですか?」
亜希子はきょとんとしていた。
ハユンは優しく微笑む。
「神はどこにでもいるから大丈夫」
そう言って、見本として両手を合わせて見せた。亜希子も同じく両手を合わせてしばし目を閉じた。
十秒ほどして目を開けると、亜希子は十字架のイエスを見て不思議そうに言う。
「あの人は……どうして今も十字架に架かっているんですか?かわいそう……」
亜希子は心が痛んで言った。
「ああ……それは、イエスほどの人を十字架に架けたのが人間だから、それを忘れないようにするためですよ。人間は愚かで傲慢だから」
「そうなんですか……」
「亜希子さんは傲慢じゃないから、知らなくて良い話ですよ、きっと」
「私も傲慢ですよ?」
「そうですか?」
ハユンは意外に思った。
「さっきも、電車で座りたいなって。みんな早く降りないかなって思っちゃいました。……疲れてるのはみんな同じなのに……」
ハユンは亜希子のかわいらしい傲慢さに胸をくすぐられた。
「あ、カッチーニのアヴェ・マリア」
亜希子とハユンは長椅子に腰掛けると、亜希子はカバンから音楽プレーヤーを取り出してハユンにイヤホンを渡した。
「亜希子さんも一緒に聴きましょう」
「音が……」
「一緒に」
ハユンは譲らず、片方ずつ耳にイヤホンを差し込んだ。
亜希子は再生ボタンを押した。
アヴェ・マリアが流れだす。
哀しくて切ない曲調だった。
「弦が泣いているようですね」
ハユンは思わず呟いた。
「そうなんです。本当にそうなんです。弾いてると、そういう気持ちになるんです」
「今度聴かせてくださいよ、亜希子さんのバイオリンで」
その言葉に、亜希子の表情が固まった。ハユンは異変に気づいた。
「どうしたんですか」
「暗い話だから、言わないようにしてたんですけど……私、もうバイオリン弾けないんです」
ハユンはなぜだろう、と一瞬思った。
「私、大学2年の時に交通事故に遭って、左手にしびれが残ってしまって、弦が思うように押さえられなくなって……」
「すみません」
「ハユンさんが謝る必要、全くないですよ」
「知らなかったから」
「言ってなかったんだから当然です」
亜希子は微笑んで見せた。
「団地に住んでいたのに、稽古代を払ってくれた両親には感謝してます。でも……」
「でも?」
ハユンは聞き返す。
「でも、本当にバイオリンが好きでした……」
ハユンは励ます言葉もなかった。流れているアヴェ・マリアもより一層悲しく響いた。好きなものを奪われることがどんなに悲しいか、ハユンも経験があった。
亜希子は音楽を止めて言った。
「だから……さっきの方のように、弾けることを楽しむのが一番なんです。もう、それだけでほんとに奇跡なんです。弾けなくなって、それがわかったんです」
亜希子は目を潤ませた。
「それに、音楽は『音を楽しむ』って書くでしょう?」
「そうですね」
ハユンは亜希子を抱きしめたいと思ったが、そんな資格が自分にはないことに切なく思った。
教会を後にしたハユンと亜希子は、駅に向かって歩き出した。
「お願い……聞いて貰えるといいな」
「……」
「ハユンさん、私が何をお願いしたか聞かないんですか?」
「聞くもんじゃないでしょう」
「そうですか?」
不満そうな亜希子。
「言いたいんですか?」
「ハユンさん喜ぶかな、と思って」
ハユンは聞いてみることにした。
「何、お願いしたんですか?」
「もちろん、ハユンさんのことです」
「?」
「ハユンさんがずっと健康で居られますように、って」
「自分のことは?」
「あ、お願いするの忘れました」
そう言って亜希子は笑った。
ハユンは、亜希子が自分のことを願わなかったことに感心した。他人の僕の健康を願ってくれた……そんな人に、これまで会ったことはなかった。これからも会うかどうか……とぼんやり思った。
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