第16話 千葉ポートタワーとアヴェ・マリア、そしてぶたさん
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
智博は思い出箱に入っていたアルバムを見ていた。高い場所からの夜景の写真だった。何枚か、若い頃の亜希子も写っている。
「これはなに?どうしてお父さんは写ってないの?」
読書をしていた亜希子。
「ん?これは……千葉ポートタワーの写真よ。撮ってるのがお父さん」
「そうなんだ。ねえねえ何があったの?」
智博は好奇心いっぱいに聞いた。
千葉都市モノレールに乗っているハユンと亜希子。
モノレール内は空いていて、座っている亜希子の前にハユンが立っている。
「ハユンさんも座って」
亜希子は隣の席を叩いて言った。
「僕は大丈夫」
「混んでるわけじゃないし」
亜希子は辺りを見渡して言った。
「僕が座ると反対側が守れない」
「大丈夫よ。日本は安全な国よ」
「人生は何があるかわからない」
ハユンは厳しい顔をした。
「そうだけど……」
「何かあった時に助けられるようにしとかないと」
聞く耳を持たないハユン。
「こんなに空いてるのに……」
亜希子は呟いた。
目の前にいるハユンを見上げると、下から見るハユンの顔は整っていて綺麗だな、と思った。
……見上げているのも、悪くない悪くない……
亜希子はそう自分に言い聞かせた。その時、ハユンと目が合った。気まずくて視線を逸らす二人。
モノレールが停車すると、人々がどっと乗り込んで来た。押しつぶされそうな人混みに戸惑うハユン。その様子を見てくすっと笑う亜希子。
千葉みなと駅に着くと、人混みがごっそり降りていく。その流れに従って、ハユンと亜希子もモノレールを降りた。
千葉みなと駅から十数分ほど歩くと、千葉ポートタワーに辿り着く。
ハユンと亜希子はチケットを買うと、エレベーターに乗った。周りは親しげに密着しているカップルばかりだった。ハユンと亜希子は戸惑いを覚える。
ハユンと亜希子が距離を保ちつつ立っていると、乗り込んで来るカップルたちに押され密着せざるを得なくなる。互いにそっぽを向いてやり過ごすと、エレベーターは地上113メートルにある四階の展望フロア「ビュープロムナード」へ。
エレベーターから降りると、人混みから解放される。
「綺麗」
亜希子は感嘆の声を上げた。360度展望が広がっている。
「海って良いですよね」
亜希子は広がる東京湾を見て言った。
「そうですね」
ハユンは亜希子とこの景色を見られたことに感謝していた。
「晴れて良かったです」
ハユンはそう言うと、ポケットから携帯電話を取り出し景色を撮り出した。どこを撮っても絵になるなあ、と思いながら。
そして、こっそり、海を眺める亜希子の姿も撮影した。
亜希子が周りを見渡すと、手を繋いだカップルや抱き合って自撮りをする人達ばかりだった。亜希子はなんだかみじめな気持ちになった。
「私たち、周りから見たらカップルに見えるのかな……」
亜希子はぽつり呟いた。
「……そうでしょうね、友達なのに」
ハユンはドライに言った。
亜希子は「友達」という言葉に胸がぎゅっと締め付けられた。初めて「友達」と言われた時は嬉しかったのに今は苦しいなんて、自分はわがままなのかもしれないとも思った。
「友達って、恋愛感情があっても友達って言うのかな……」
亜希子はぽつりと呟いた。
「……どうしたんですか」
ハユンは亜希子を心配して言った。
「わがままですよね。今幸せなはずなのに……」
亜希子の悲しげな、今にも泣き出しそうな表情を見てハユンは動揺した。
「何か、食べましょう。三階にレストランがあります。ケーキもあるらしいですよ。チーズケーキもあるかもしれない」
ハユンは亜希子を気遣って言った。亜希子は、ハユンが下調べをしてくれたこと、チーズケーキが好きなことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
亜希子はハユンを戸惑わせたことに罪悪感を感じて、
「行きましょう」
と明るく言った。
千葉ポートタワーには、三階に展望レストランがある。三階と言っても地上109メートル。見晴らしは素晴らしかった。
窓側の席にハユンと亜希子は座った。
ハユンはメニューに目を通す。
「チーズケーキもチョコレートケーキもありますよ、良かった」
「良かったです」
亜希子はハユンが自分の顔色を窺っているのがわかった。ハユンは店員を呼んだ。
「チーズケーキとチョコレートケーキを」
ハユンは亜希子に聞く。
「飲み物は何にしますか?」
「アイスティーをお願いします」
「アイスティーを二つ」
ハユンは指でピースをして頼んだ。
亜希子はそのピースが愛しくて気を取り直した。
「ごめんなさい、ハユンさん」
「ん?」
「さっきはなんだか悲しくなってしまって……」
ハユンは微笑んだ。
「そういう時もありますよ」
「周りの人たちが、みんな幸せそうに見える時があるんです。自分だって不幸なわけじゃないのに……」
亜希子は遠くの海を見つめた。
「私、欲張りですよね」
「僕も欲張りですよ。亜希子さんの写真、さっき撮ったんです。勝手に撮ってごめんなさい」
ハユンは携帯電話の写真を見せた。
「いつ……」
亜希子は気恥しかった。
「亜希子さんをもっと撮りたいです。後でまた撮って良いですか」
「えっ」
亜希子は特に外見に自信があるわけでもなかった。
「私を撮っても……」
「なるべく亜希子さんとの思い出を残したい……」
亜希子はその言葉に、ハユンと自分に起こるすべての出来事は、思い出として整理する時が来るんだ、と切なくなった。
「……思い出のために、私たちは会っているんですよね。私たちに未来は存在しないですもんね」
亜希子は切実な目でそう言うと、外に広がる海を見つめた。泣きそうだったのだ。涙が見えないように、なるべく遠くを見つめた。
……こんなに広い世界で、国境を越えて出会ったのに別れる運命だなんて……
でも、だからこそ一瞬一瞬が尊く感じた。
切ないのはハユンも同じだった。恋をしたことがなかったハユンには、自分のこの感情が何なのか自分でもよく分からなかった。恋なんだろうとは思っていたが、ブレーキを踏む方が自然だった。
「良いですよ。後で写真撮ってください」
亜希子は吹っ切れたように言った。ハユンは、今まで見た事のない亜希子の表情に少し戸惑った。
「今を大事にしましょう。別れる日が来るのは仕方ないですもんね」
亜希子は笑顔に戻っていた。ハユンは亜希子の表情に少し安心した。
ケーキと飲み物が運ばれて来る。亜希子はチーズケーキを口に運ぶと、
「美味しいっ」
そう言ってにっこり微笑んだ。ハユンも微笑み見返す。
ふいに亜希子は問う。
「どうして……日曜日はいつも会うのが午後なんですか?やっぱり……日曜日くらいはゆっくり寝ていたいからですか」
「教会のミサに行ってます。カトリックなんで」
ハユンはそう言うと、アイスティーを飲んだ。
「そうなんですか……カトリックってことはクリスチャンなんですか?」
「そうです」
「すみません。寝てるとか言って……カトリックって、マリア像とかある方ですか?」
「そうです」
「私、カッチーニのアヴェ・マリアを弾くのが好きでした」
「亜希子さんは、バイオリンを弾けるんでしたね。今は弾かないんですか」
「もう、はい」
亜希子は言葉少なに答えた。
「カッチーニのアヴェ・マリアはどういう曲ですか」
「美しくて悲しいんです……」
「悲しさの中に美しさはあるから」
ハユンは呟いた。
「見てみたいです」
亜希子は身を乗り出して言った。
「何をですか?」
「マリア様」
「ああ……今度、案内しますよ」
「お願いします」
亜希子はハユンに関するものは皆知りたかった。なるべく同じ景色を見たい、そう思ったのだった。ハユンの真面目さは信仰から来るものなのだろうか、とも思った。
ハユンは心の中でカッチーニのアヴェ・マリアを想像していた。この世に「アヴェ・マリア」という曲は作曲家の数だけ存在していると言われているが、亜希子がどんな曲が好みなのか知りたかった。共有したいと思った。
レストランを後にしたハユンと亜希子は、四階の展望フロアに戻って来た。
東京湾ごしの夕日が素晴らしく輝いている。ハユンも亜希子も吸い込まれるように夕日に釘付けになった。
夕日に照らされた亜希子の横顔を、ハユンは写真に撮った。シャッターの音に気づいた亜希子は、ハユンに体を向けて微笑んだ。それが智博が見つけた写真だった。
ハユンと亜希子はラーメンを食べて帰ることにして、「ぶたさん」というラーメン屋でラーメンを待っていた。
「ここのラーメンは、日本で食べたラーメンの中で一番美味しいです」
ハユンは楽しみに待ちながら言った。
「さっきも聞きました」
亜希子はそんなハユンのまっすぐなところが好きだな、と思った。
「そうでしたね」
ハユンは、はにかんで笑った。
「ここのラーメンを食べた時に、本当に思いました。ラーメンは実に」
「偉大です?」
亜希子が遮って言う。ハユンは目を丸くした。
「なぜわかったんですか?」
「わかりますよ」
亜希子は得意げな顔をして言った。不思議そうにしているハユン。
ラーメンが運ばれて来る。ハユンはにんにくをたっぷり入れる。
……ハユンさんはにんにくの匂いとか気にしないんだ……もしかして、わたしだから?……ってことはないかっ……
思いを巡らせている亜希子の顔を見てハユンは聞く。
「にんにく嫌いですか?」
「いえ、」
ハユンは、どうですか?とばかりに勧める。
「はい……お願いします」
亜希子のラーメンの上に、にんにくを乗せるハユン。亜希子は考え過ぎないようにラーメンをすすった。
「美味しい……美味しいです」
亜希子の言葉にハユンは嬉しく思った。
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