第11話 ふなばしアンデルセン公園と告白
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
もうすぐ三歳になる智博を寝かしつけると、亜希子は寝室のパソコンで何かを調べはじめる。
部屋に入って来たハユン。
「リビングの電気消して来たよ」
「……」
パソコンに夢中の亜希子は、聞こえたのか聞こえないのか無反応でいる。そして何かをプリンターで印刷する亜希子。
ハユンは亜希子の様子を窺う。
「仕事してこようかな」
ハユンはわざとらしく言った。
「あら、ハユンさん、もしかして拗ねちゃったの?」
亜希子は微笑んだ。
「俺が?拗ねる?そんなわけないだろう」
「家でする仕事なんてないでしょ?」
亜希子はベッドに腰掛けたハユンに抱きついて、印刷をした紙を見せた。
「今度の休みに行くところを調べてたの」
ハユンは紙に印字されている文字を読み上げる。
「ふなばしアンデルセン公園、コスモスまつり?」
「十月一日からですって。智博にコスモス見せたいと思って」
夫婦のベッドの横に小さなベッドがあり、そこで智博が眠っている。
ハユンと亜希子は智博のかわいい寝顔を眺めた。
「そうだな。涼しくなったしな」
亜希子は頷いて、智博のおでこにキスをすると掛け布団を直した。
後日、智博を抱っこしたハユンと亜希子は、アンデルセン公園の風車の前まで来た。
ハユンは智博を下ろすと、亜希子に預けて写真を撮ろうとする。
「こっち向いて」
ハユンは亜希子と智博に風車の前でポーズを取らせた。カメラを向けるハユン。色々な角度から撮る。
一面に広がるコスモスの一つの花に興味を示す智博。その姿もハユンは見逃さずに撮る。智博を慈しみ深く見つめる亜希子。ハユンはその横顔もすかさず撮った。写真を撮れば撮るほど、幸せが増えていく感覚になった。
ハユンと亜希子にとって、この公園は思い出深い場所でもあった……
テーブル付きのベンチで、ハユンと亜希子はいつものように韓国語のレッスンをしていた。
ハユンは亜希子のテキストを開いて言う。
「今日は좋아해요.(チョアヘヨ)をやります。意味は、好きですという意味です」
「チョアヘヨ」
亜希子は繰り返した。
ハユンは周りを見渡して、名前も知らない花が咲いているのを見つけた。少し微笑んで言う。
「例えば、저는 꽃을 좋아해요.(チョヌン ッコッチュル チョアヘヨ)は、私は花が好きです」
亜希子は繰り返して言う。
「チョヌン ッコッチュル チョアヘヨは、私は花が好きです、はい」
「うん。知ってる単語を使って作文してみてください」
「はい……」
亜希子は少し考えて言う。
「저는 하윤 씨를 좋아해요.(チョヌン ハユンシル チョアヘヨ)」
ハユンがハッとした顔で亜希子を見る。私はハユンさんが好きです。という意味だったからだ。
亜希子も自分で言って自分で驚き、笑って誤魔化す。
「そんなこと言われても困りますよね……でも、私の本心です。今日がハユンさんに会う最後の日でもいいんです、それならそれで」
「……」
「私、最近家で何してると思います?」
「?」
ハユンは首を傾げた。
「私、変なんです。ノートにハユンさんの名前ばかり書いてるんです」
亜希子はそう言うと、テーブルにハユンの名前「하윤」と指でなぞって見せた。ハユンは困った顔で少し笑った。
亜希子は再度言う。
「저는 하윤 씨를 좋아해요.(チョヌン ハユンシル チョアヘヨ)ハユンさんが好きです」
ハユンはさらりとした口ぶりで言う。
「ありがとう。저도 아키코씨가 좋아해요.(チョド アキコシガ チョアヘヨ)。この、저도(チョド)の도(ド)は、私も、という意味になります」
亜希子は、もしかして……と思った。
「だから今のは、私も亜希子さんが好きです。という意味です」
嬉しさが込み上げて来る亜希子。
「良いですか?」
そう言うとハユンは、やはりあっさりと次のテキストへ行こうとする。
「え、はい……」
亜希子は仕方なく返事をした。ハユンは続けて言う。
「じゃあ、応用問題を……」
亜希子の告白はすんなり流されたのだった。
亜希子はハユンの声も耳に入らず佇んでいた。
突然ハユンが問う。
「もしかして、さっきのチョアヘヨ、つまり好きです。は、僕と付き合っても良いという意味の好きですか?」
「えっ」
「恋人になっても良いと」
改めて言われると、亜希子は自分が言った言葉に驚いた。
私はハユンさんと恋人同士になりたいと思っているんだ……と実感した。
「……はい」
亜希子は戸惑いつつ返事をした。
「そうですか……。まだ先のことは決めていませんが……数年以内には韓国に帰るかもしれないです。今、恋人になっても別れる時が来る」
「……はい」
「別れを前提に付き合う人はいないでしょう」
「……そうですね」
「だから私も亜希子さんが好きですが、今のままが良いのではないでしょうか」
「……はい」
亜希子は、ハユンが自分に気を遣って好きでもないのにそう言っているのか、本当に好きだがドライな性格なだけなのか判断がつかなかった。
亜希子は声を振り絞って聞く。
「でも、恋人にはなれなくても、ずっと友人ではいてもらえますか?」
「……あなたが望むなら」
「ありがとうございます」
亜希子は、自分がこんなに積極的な性格だと知らなかった。
ハユンは諭すように言う。
「さっき、亜希子さんは会うのが今日で最後でもいいと言っていましたが、いつか別れは来ます……それは今日じゃなくても良いでしょう」
「……そうですね」
「今日はこの辺にして、少し歩きませんか」
「はい」
亜希子はそう答えると、テキストを閉じた。買う時に破れていた表紙には絆創膏が貼ってある。
二人が歩いて行くと、ハート型の花のアーチがあった。百八十センチはあるであろうハユンと同じくらいの大きなアーチだった。
ハユンは近くにいた人に声を掛け、写真を撮ってもらおうとする。
亜希子は振られたような嬉しいような気分だったので、一緒に撮ってもらおうとするハユンの気持ちが分からなかった。それも、ハート型のアーチの前で撮るなんて。
しばらく散歩していると、亜希子はふと思った。もう何年も一緒にいるみたいだな、と。ハユンは亜希子の足元を気にしながら言う。
「この先に僕の秘密の好きな場所があるんですけど、行ってみますか」
「ハユンさん、アンデルセン公園はじめてじゃないんですか」
「はじめてじゃないです。はじめて来た時は雪だった」
「えっ?雪?」
「はい」
ハユンは携帯電話に入っている写真を見せた。雪景色のアンデルセン公園だった。
「雪の日に、一人で来たんですか?」
「一緒に来る人いなくて」
亜希子は、なんて寂しいんだろうと思った。
ハユンさんは一人でも平気な人なんだろうか……感性は皆違うからそれでも不思議ではないけれど……
「一人で雪の日に来るなんて、寂しくないですか?」
「僕はいつも一人だから、寂しくはないですよ。慣れてます」
「そうですか……」
ハユンと亜希子は、少し険しい道に入っていく。少しぬかるんでいる道で、
「スニーカーで来て良かったです」
亜希子は素直な感想をこぼした。
「僕も亜希子さんがスニーカーを履いて来てくれて嬉しかったです」
突然、雨が降り出した。戻るにも中途半端だった。ハユンは着ていたパーカーを脱いで亜希子に差し出し、雨よけにして二人は足早に歩いて行く。
途中、水溜まりがあったが、ハユンが水溜まりを避けるように亜希子を誘導した。亜希子はハユンの気配りが嬉しく頼もしく感じた。
「ここです」
ハユンは林の中の屋根付きの休憩所に案内する。
二人はホッとして、体についた雨粒を払うと、そこにあったベンチに座った。
「秘密の好きな場所ってここなんですか?」
「そうです」
緑に囲まれて静謐な感じのする空間だった。
「素敵な場所ですね」
亜希子はこの場所を気に入った。雨の音が二人を包む。
ハユンは、さっきの亜希子からの告白に、ドライな反応をしてしまったことに少し罪悪感を感じていた。そしてふと口を開いた。
「散々だったんじゃないですか。雨にも降られて」
「ううん、散々な方が思い出に残るから。ハユンさんとの思い出はたくさん欲しいです」
ハユンはその言葉を聞いて、亜希子と別れる時がいつか来るんだと急に悲しくなった。
アンデルセン公園からの帰り、バスが駅に着く。ハユンは亜希子を先に降ろした。亜希子が言う。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「私はあのバス停のバスなので、ここで」
「そうですか。気をつけて。では」
改札へ入るハユン。
「バイバイ」
亜希子は小さく手を振った。ハユンが雑踏の中を歩いて行く。
亜希子はハユンの背中を見つめているとふと思いつく。
……ハユンさんと将来恋人になれるならハユンさんは見えなくなる前に振り返る……
そう強く念じた。
ハユンは人混みに紛れていく。
亜希子が諦めかけたその瞬間、ハユンは振り返った。ハユンは亜希子を探す仕草を見せて目が合うと手を振った。
亜希子は全身から嬉しさが込み上げて来るのを感じた。見えるように強く手を振り返す亜希子。その姿をハユンは確認すると、階段を上っていく。
亜希子はハユンが見えなくなっても、雑踏を見つめていた……
亜希子が話し終えると、智博は思い出箱の中からハート型の花のアーチの前の二人の写真を見つけ出す。
「あったよ」
写真の中の亜希子は浮かない顔をしている。
ハユンは申し訳ない気持ちで苦笑いした。
「それで、僕が生まれるまで何があったの?お父さんとお母さんのこういう話、もっと聞かせてよ」
「また今度ね。私はまだまだ生きるから。早く寝なさい」
亜希子は智博を部屋から追い出す仕草をした。仕方なく出ていく智博。
ハユンは少し笑って言う。
「良く覚えてるな」
「ハユンさんは忘れちゃったの?」
「忘れるわけないだろう」
亜希子は微笑んだ。ハユンも照れて笑った。
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