第10話 カレーライスを箸で食べる日(受容)
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
夕方と呼ばれる時間になった頃、智博はカレーライスを家で作っていた。
亜希子が下半身不随になってから週に一、二回は智博が手料理を作るようになっていた。カレーライスは父の大好物なので、料理が出来なくなった亜希子の代わりに作ろうと思い立ったのだった。
それに、智博は最近特にハユンが落ち込んでいるように感じていた。あんな事件があったのだから無理もないが、口数が少なくなっていることを智博は気に掛けていた。
病院からハユンと亜希子が帰ると、エプロンをした智博が玄関で出迎える。
「おかえりー」
「この匂いは……今日はカレーライスなのね」
亜希子は努めて明るく言った。
「ハユンさん、今日はカレーライスよ」
ハユンは返事もせず塞いでいるようだった。智博は二人をリビングへ通す。
「絶対美味しいよ。何せルーがダイヤモンドカレーだから!」
と言って、智博は三人分のカレーライスを皿によそう。
ハユンと亜希子は、黙ってテーブルについていた。ハユンは食器棚へ向かうと、箸を三膳取り出してテーブルへ置き、目の前のカレーライスを食べ始めた。
「ハユンさん、どうしてお箸で食べてるの?」
亜希子は心配そうに言う。
「ん?」
ハユンは箸でカレーを食べていることに気づいた。
……そうか、カレーを食べる時はスプーンか、とハユンはぼんやり思った。
智博は二人の異変に気づく。
「どうしたの、お父さん」
「いや……」
ハユンはそう言うと、スプーンを三本食器棚から取り出し、カレーライスをまた食べ出す。
正直、味もよく分からなかった。ハユンは自分で思っているよりも、ショックを受けているようだった。
「智博も一緒に食べよう」
亜希子は明るい口調で言った。
「う、うん」
様子がおかしい二人を見て、智博は何かあったのかな?と思ったものの、両親の喧嘩など見た事もないし、二人の間でいざこざがあったわけではないのは明白だった。だったら何があったというんだろう?智博も味のしないカレーライスを食べた。
夕食後、食器を洗っているハユン。
亜希子はリビングのベッドに横になりながら、窓に映る自分の姿を眺めていた。外は夜になり、カーテンを閉めたいがそれが叶わない。しかし、カーテンを閉めたらそこに映る自分も消えてしまう。それも心細かった。
……自分の未来を仄めかしているようで。
皿洗いを終えたハユンがベッドにやって来る。
亜希子はどこか上の空で話し出す。
「お医者様の言う通り、下半身不随になって良かったのね、私」
ハユンは納得しない。
「なってなかったらもっと早くがんが分かっていただろう」
「それはわからないわ」
亜希子はむきになって言った。
「亜希子には助かる道があったんだ。あんなことがなければ」
「そんなこと言ったら、あの夜、最初からあなたの選んだ赤のストールをしていたら……」
「違う。俺が君を一人にしたからだ」
「違うわ。私が勝手に家に戻ったからよ」
苦しそうに胸を押さえる亜希子。
「どうした、痛いのか?」
「……大丈夫よ」
「痛いんだろう?」
食い下がるハユンに亜希子は戸惑って恐る恐る聞く。
「痛かったら、ハユンさん耐えられる?ハユンさん、耐えられないから……」
ハユンは限界に近い心で居たが、辛いはずの亜希子が自分を気遣っていることが心苦しかった。
ハユンは気を確かに持って言う。
「さっきもらった薬を飲もう」
そう言って鎮痛剤をシートから一錠取り出すと、亜希子へ渡して水を取りに台所へ行く。
戻ってきたハユンは、コップの水を亜希子に渡す。亜希子は言われた通り水を飲み干すとうつむいた。
「私、ハユンさんを悲しませてばかりで……」
「俺の事は気にするな」
亜希子はハユンの顔を見る。
「……私たち、出会わなかったら」
「そんなこと言うな」
「だってハユンさん、私と会わなければ……」
「地獄だっただろう」
「えっ?」
亜希子は、地獄という言葉に驚いた。
ハユンは亜希子の顔をじっと見た。
「地獄だったんだ。韓国の実家にも母親が再婚してから居場所はなかったし、大学にも居場所がなかった。君だけだったんだ。俺を受け入れてくれたのは」
「そうなの?」
ハユンは頷いた。
「でも私、ハユンさんから神様まで奪ってしまったでしょう?」
ハユンは天井を仰いだ。
「私、これ以上神様を嫌いになって欲しくないの。悲しいの……私があなたから大切なものを奪ってしまったようで」
「……」
「思うの。誰かが私と同じ目に遭わなきゃいけなかったのだとしたら、私で良かったって。私が耐えれば良いだけだから」
ハユンはうつむいた。
「ほんとよ。それにね、『すべてのことには時季がある』って、ハユンさんの好きな聖書の言葉でしょ?」
「ああ……」
頷くハユン。
リビングの廊下には、下に降りて来ていた智博がいた。何か言い合いをしているような声がして、下に降りて来ていたのだった。
亜希子の声がする。
「約束して。私が死ぬ日まで、」
ハユンは、死という言葉が心に突き刺さるような気がした。廊下にいる智博も耳を疑った。
「死ぬ日まで、毎日幸せを感じて生きるって。死んだって、ちょっと会えなくなるだけよ。ね」
ハユンは慈しみを持った目で亜希子を見つめた。
「今まで苦しめて悪かった」
「ううん」
「最後まで聞いて欲しい」
「……うん」
「君と出会わなければ良かったかと言えばそんなことはないんだ。こんなに大事に思える人に出会えて幸せなんだと思う。絶対に出会えて良かった」
亜希子は穏やかな顔で話を聞く。ハユンは続ける。
「教会で祈った日……検査の結果が何であっても、すべてを受け入れますと祈ったんだ。だから、私を主の元へ戻してくださいと」
「そうだったの……」
リビングへ智博が入って来る。
「お母さん、何かの病気なの?」
ハユンは焦った。
「智博」
「死ぬってどういうこと?」
智博は泣きそうな声で言った。
「聞いてたのか」
ハユンは諦めたように言った。
「珍しく言い合いしてるような声がしたから」
亜希子は覚悟した表情で言う。
「聞こえたのね」
「お父さん、どういうこと?お母さん死んじゃうの?ねえ」
智博は動揺して、ハユンの肩を揺さぶった。
「お母さんは……」
「ハユンさん」
亜希子は阻止しようとするがハユンは続ける。
「智博も大人だから、言った方がいい」
ハユンは亜希子を諭すと、智博をベッドに座らせた。
「お母さんは病気なんだ。がんだ」
「がんってどこ?」
智博はすがるように聞く。
「色々なところに転移してる」
智博は一瞬絶望した。
「でも、治療すれば治るんじゃないの?」
「医者によると、残りの人生を有意義に過ごすことを考えた方がいいらしい」
「そんな……治る見込みがないってこと?」
「そうだ」
ハユンは厳しく答えた。亜希子も実感が体に染み入るようだった。
家中が鉛のように沈んだ。
「でもね私、お医者さんが言うように、まだ時間があるならそれに感謝したいの」
「……そうだな」
ハユンは頷くと、智博の肩を抱いた。
家中が雨の止んだ後のような静けさに包まれた。
ふと、亜希子は閃く。
「ハユンさん、あの棚の上にあるワイン色のトランクを取って欲しいの」
亜希子は指を指すと、ハユンがこれか?と確認してトランクを亜希子に渡す。
「これね、宝箱なの」
そう言うと亜希子はトランクを開けた。
中には映画のチケットの半券やノート、紙切れなど雑多なものが入っている。
「思い出箱とも言うかも知れないわ」
「思い出箱?」
智博は興味を惹かれた。
「そう、今まで行った場所の、思い出になるものを取っておいたの。三人の思い出」
ハユンは身に覚えのある、コスモスの写真が印字してある紙を取り出した。
「『ふなばしアンデルセン公園コスモス祭り』か……智博を連れて行ったよな」
「そうなの?」
智博は身を乗り出して言う。
「その時の話しましょう。アンデルセン公園は思い出がたくさんあるの」
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