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第九十八話 金曜日の準備

【木曜日 8:22/会社】


 木曜日の朝は、昨日よりも普通だった。


 普通に見えた。


 メールを開く。


 見積もりを確認する。


 D店向け資料を修正する。


 展示会で交換した名刺に礼のメールを送る。


 若手にサンプル発送の手順を確認する。


 ひとつずつ処理する。


 今見るもの。


 後で見るもの。


 残すもの。


 その三つに分けるだけで、机の上は少し落ち着いた。


 だが、相沢の中は落ち着かない。


 村は見えない。


 火は残っているのか。


 水は守られているのか。


 声はまた来たのか。


 赤ゴブリンは、次に何を見せたのか。


 そして。


 食料は、まだ残っているのか。


 考えても分からない。


 それでも考えてしまう。


「相沢さん」


 若手が横から声をかけた。


「このサンプル、D店分は二ケースでいいですか?」


「一ケースでいい」


「一ケースですか? 展示会後だし、多めに出した方がよくないです?」


「多いと、向こうで置き場を食う」


「ああ、バックヤードですか」


「そう。最初は一ケース。動きが見えてから追加」


「なるほど」


 若手はメモを取った。


「最近、相沢さん、置き場の話多いですね」


「売場は置き場で決まる」


「名言っぽい」


「普通の話だ」


 普通の話。


 だが、相沢には普通ではなくなっている。


 場所が決まっていないものは、迷いを生む。


 迷いは遅れになる。


 遅れは、異世界では命に近い。


 会社では欠品や誤配で済む。


 それでも、理屈は同じだった。


     ◇


【木曜日 11:18/会社・会議スペース】


 七瀬との資料確認は、電話で済ませる予定だった。


 だが、七瀬の第一声で、予定は少し崩れた。


『資料、かなり良くなりました』


「ありがとうございます」


『ただ、相沢さん』


「はい」


『昨日、早く寝ました?』


「寝ました」


『何時に?』


「二十二時半……少し過ぎです」


『少し?』


「二十三時前です」


『よしとします』


「得意先に睡眠時間を報告する営業、普通いませんよ」


『倒れそうな顔で来る営業も普通いません』


「昨日よりは戻りました」


『声は戻ってます。顔は見てないので保留です』


「保留」


『はい。分からないものは保留です』


 相沢は一瞬だけ黙った。


 七瀬は気づかないまま続ける。


『D店の店長には、提案数を絞った理由が通りそうです。売場作業の負担軽減、誤認防止、担当者不在時の補充判断。この三つでいきましょう』


「はい」


『あと、商品POPと作業用目印を分ける話、あれ入れてよかったです』


「店長向けですか」


『店長向けでもありますけど、現場向けですね。現場は、売る表示と回す表示が違うので』


 売る表示。


 回す表示。


 相沢はノートの端に書いた。


 村なら。


 食べたいと思わせる印ではない。


 使う順番を間違えない印。


 欲しがらせる印ではない。


 役が迷わない印。


『相沢さん?』


「聞いてます」


『今、また重いやつ考えてましたね』


「仕事には関係あります」


『ならいいです。関係ないなら寝てください』


「何でも睡眠に戻しますね」


『基本です』


 電話の向こうで、七瀬が少し笑った。


『相沢さん、仕事の精度は上がってます。でも、変に詰めすぎです』


「そうですか」


『はい。前はもっと、いい意味で営業っぽく雑でした』


「褒めてます?」


『半分』


「もう半分は」


『心配です』


 相沢は返事に詰まった。


 七瀬は、仕事の話に戻した。


『とにかく、D店提案はこれで進めます。明日午前、店長に軽く当てます』


「よろしくお願いします」


『相沢さんは、今日は変に残業しないでください』


「努力します」


『努力ではなく行動です』


 相沢は思わず笑った。


「同じことを言われました」


『誰に?』


「……いろんな人に」


『本当に最近、見張られてますね』


「そうですね」


 電話を切った後、相沢はしばらくスマホを見ていた。


 見張られている。


 現代でも、異世界でも。


 それは窮屈なはずなのに、少しだけありがたかった。


     ◇


【木曜日 18:36/大阪・自室】


 相沢は、早めに帰宅した。


 七瀬に言われたからではない。


 そう言い訳したくなったが、たぶん言われたからだ。


 部屋に入る。


 鞄を置く。


 上着を脱ぐ。


 机にノートを開く。


 土曜日まで、あと少し。


 正確には、金曜日が終われば転移する可能性が高い。


 前回の結果から見れば、土日祝が滞在対象。


 火曜〇時に帰った。


 なら、次は土曜〇時に行く。


 そう考えるのが自然だ。


 だが、確定ではない。


 相沢はノートに書いた。


 土曜〇時、転移想定。


 ただし未確定。


 準備はする。


 決めつけない。


 その下に、持ち込むものを並べる。


 食品用ポリ袋。


 チャック袋。


 油性ペン。


 ラベルシール。


 小さい計量スプーン。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 メモ帳。


 小さな板の見本。


 多く見える。


 だが、ひとつひとつは少量だ。


 相沢は袋の数をさらに減らした。


 チャック袋は十枚。


 食品用ポリ袋も十枚。


 ラベルシールは一シートだけ。


 塩飴は個包装で十個。


 乾燥わかめは小袋一つ。


 計量スプーンは一つ。


 油性ペンは一本。


 予備を入れたくなる。


 だが、やめた。


 予備を入れすぎると、現地の代替が遅れる。


 持ち込み品は、答えではない。


 見本だ。


「物を増やすな」


 相沢は呟いた。


「使い方を増やせ」


 ノートの文字を見直す。


 自分に言い聞かせるための文字だった。


 食料そのものを増やすことも、考えなかったわけではない。


 もっと持てばいい。


 米。


 缶詰。


 栄養食品。


 袋麺。


 考えれば、いくらでもある。


 だが、それを一度やれば、次もそれを待つ村になる。


 相沢が来るまで耐える村になる。


 それは違う。


 ただ、今回は状況が違う。


 村の食料は、もう多くないはずだった。


 袋で食料は増えない。


 印で粥は濃くならない。


 塩で腹は膨れない。


 分かっている。


 分かっているからこそ、土曜日に戻ったら、まず食料を見なければならない。


 赤ゴブリンを倒すか。


 食料を取りに出るか。


 逃げるか。


 どれかを選ばなければ、村は持たない。


 相沢はペンを止めた。


 逃げる。


 その言葉も、簡単ではない。


 老人。


 子供。


 病人。


 避難民。


 井戸。


 倉庫。


 治療所。


 全部を抱えて森を抜けるなど、現実的ではない。


 森には赤がいる。


 結局、そこに戻る。


 赤をどうにかしなければ、村は動けない。


     ◇


【木曜日 20:11/大阪・自室】


 夕飯を食べた後、相沢は小さな板の見本を作った。


 板といっても、日本で買った薄い木片だ。


 そこに油性ペンで三つ描く。


 人。


 場所。


 目。


 下に小さく、誰、どこ、何と書く。


 文字は村人全員には通じない。


 だが、相沢が説明するためには必要だった。


 次に、別の木片に三つ描く。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 これはミナがすでに理解している。


 見本はいらないかもしれない。


 だが、現代の道具で描いたものを見せれば、線の太さや配置の参考になる。


 そこまで考えて、相沢は手を止めた。


 押しつけるな。


 村には村の形がある。


 ミナの板は、もうミナのものになり始めている。


 相沢がきれいな板を持ち込んで、それを正解にしてはいけない。


 相沢は、火、水、呼ぶの見本板を鞄から外した。


 持っていくのは、人、場所、目の小板だけ。


 声対策の説明用。


 それだけでいい。


 机の上が少し減る。


 それだけで、呼吸が少し楽になった。


 減らすことは、怖い。


 だが、見える。


     ◇


【金曜日 7:02/大阪・自室】


 金曜日の朝。


 相沢は、予定より早く目が覚めた。


 アラームはまだ鳴っていない。


 外は薄暗い。


 冷蔵庫の音。


 遠くの車。


 大阪。


 相沢は布団の中で、今日が金曜日であることを確認した。


 明日になれば、土曜日。


 転移するかもしれない。


 しないかもしれない。


 そのどちらも、怖い。


 転移すれば、村の状況を見ることになる。


 転移しなければ、村を見られない。


 相沢は起き上がった。


 鞄の中をもう一度確認する。


 少量の袋。


 油性ペン。


 ラベルシール。


 計量スプーン。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 小板。


 メモ帳。


 多すぎない。


 少なすぎない。


 たぶん。


「たぶん、か」


 相沢は苦笑した。


 たぶん、ばかりだ。


 それでも、準備は必要だった。


     ◇


【金曜日 9:27/会社】


 金曜日の会社は、いつもより少し浮ついていた。


 週末前。


 展示会後の疲れ。


 午前中に片づけたい仕事。


 午後に流れ込みそうな連絡。


 全部が混ざっている。


 相沢はノートの上に、今日の三つを書いた。


 D店最終確認。


 サンプル発送。


 週明け見積もり準備。


 それ以外は、残す。


 若手が横からのぞく。


「三つだけですか」


「今日は三つでいい」


「メール来たら?」


「見て、今日必要なら入れる。そうじゃなければ残す」


「割り切りますね」


「割り切らないと、週末が死ぬ」


「週末、何かあるんですか」


 相沢は少し止まった。


「寝る」


「大事ですね」


「ああ」


 本当に大事だ。


 寝る。


 食べる。


 準備する。


 転移するかもしれない夜に、体を崩していては意味がない。


 オカン表示が出なくても、それはもう分かっている。


     ◇


【金曜日 11:42/会社】


 七瀬からメッセージが来た。


『店長に軽く当てました。方向性OKです。来週、正式に商談組みましょう』


 相沢は画面を見て、少し息を吐いた。


 現代側の仕事が、一つ進んだ。


 それは小さいが、必要な勝ちだった。


 返信する。


『ありがとうございます。来週、正式資料に整えて伺います』


 すぐ返る。


『お願いします。あと、週末ちゃんと休んでください』


 相沢は返信に迷った。


 休む。


 普通ならそうだ。


 だが、自分の週末は休みではない。


 土曜日になれば、村へ行く可能性がある。


 赤ゴブリンが待っているかもしれない。


 声の次が来るかもしれない。


 そして、食料が底をつきかけているかもしれない。


 それでも、七瀬には言えない。


『休める時に休みます』


 送る。


 すぐ既読。


『その返事、休まない人の返事です』


 相沢は少し笑った。


『気をつけます』


『それも信用できないです』


 ガンツみたいだ。


 そう思った。


 信用できない。


 その言葉が、今は少しだけ近い。


     ◇


【金曜日 18:54/大阪・自室】


 相沢は定時より少し遅れて帰宅した。


 それでも、普段より早い。


 部屋に入ると、すぐに鞄を机の上へ置いた。


 明日の準備。


 いや、今夜の準備。


 土曜日〇時に転移するなら、日付が変わった瞬間だ。


 以前と同じなら。


 相沢は時計を見る。


 十八時五十四分。


 まだ時間はある。


 夕飯を食べる。


 風呂に入る。


 持ち物を確認する。


 少し寝る。


 寝られるかは分からない。


 だが、横になる。


 相沢はスーパーで買った弁当を開けた。


 白飯。


 鶏肉。


 煮物。


 小さな漬物。


 いつもなら、何も考えずに食べる。


 今は、残さないことを考える。


 ゆっくり食べる。


 全部食べる。


 水を飲む。


 皿を片づける。


 それだけのことが、準備に含まれている。


     ◇


【金曜日 20:16/大阪・自室】


 風呂から上がると、相沢は持ち物を床に並べた。


 鞄。


 着替え。


 靴。


 スマホ。


 腕時計。


 小袋。


 油性ペン。


 小板。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 計量スプーン。


 全部を一度出す。


 そして、戻す。


 入れる順番も決める。


 すぐ使うものは上。


 説明に使う小板は、メモ帳の間。


 食料系はまとめる。


 油性ペンは袋に入れておく。


 漏れないように。


 現代の営業鞄が、異世界用の現場鞄になっていく。


 相沢は手を止めた。


 これでいいのか。


 もっと持てる。


 もっと便利にできる。


 ライト。


 電池。


 薬。


 刃物。


 ロープ。


 考えれば、いくらでもある。


 だが、今の村にそれを入れすぎると、村の力ではなくなる。


 相沢がいなければ使えないもの。


 相沢が持ってこなければ続かないもの。


 そればかり増やせば、村は強くなったように見えて、別の弱さを抱える。


 相沢は鞄を閉じた。


「今回は、ここまで」


 声に出して決める。


 声に出さないと、また増やしたくなる。


     ◇


【金曜日 21:03/大阪・自室】


 スマホが鳴った。


 七瀬だった。


 メッセージではなく、電話。


 相沢は少し驚いて出た。


「お世話になっております。相沢です」


『あ、すみません。業務時間外に』


「大丈夫です。どうしました?」


『D店の件で一点だけ確認です。来週の商談、火曜日か水曜日ならどちらが動きやすいですか?』


「水曜日の方が確実です」


『分かりました。水曜午後で仮押さえします』


「お願いします」


 それで終わると思った。


 だが、七瀬は少し黙った。


『相沢さん』


「はい」


『今日、声は戻ってますね』


「電話のたびに声を確認されますね」


『顔が見えないので』


「声は生きてますか」


『昨日よりは』


「よかったです」


『でも、なんか週末前なのに、仕事終わりの人の声じゃないです』


 相沢は返事に詰まった。


『これから棚卸しでも行くんですか、みたいな声です』


「近いですね」


『近いんですか』


「いえ、気持ちの話です」


『休んでくださいね』


「はい」


『信用してませんけど』


「分かってます」


『分かってるなら、少しは信用される行動をしてください』


 相沢は苦笑した。


「努力します」


『行動です』


「はい」


『その“はい”も怪しいです』


 電話の向こうで、七瀬が小さく息を吐いた。


『まあ、来週ちゃんと来てくれればいいです』


「行きます」


『寝不足で来たら、商談前に説教します』


「得意先に説教される営業」


『現場ではよくあります』


「強いですね」


『食品チーフなので』


 七瀬は少し笑った。


『では、週末、ちゃんと休んでください』


「はい。七瀬さんも」


『私は休みます』


「いいですね」


『相沢さんもです』


「……はい」


 電話が切れた。


 相沢はしばらくスマホを見ていた。


 週末、ちゃんと休む。


 できれば、そうしたい。


 だが、土曜日は近づいている。


     ◇


【金曜日 22:28/大阪・自室】


 相沢は布団に入った。


 鞄は枕元に置いている。


 靴も近くにある。


 以前なら、そんな寝方はしなかった。


 だが、日付が変わる瞬間に転移するなら、準備しておくしかない。


 電気は消した。


 部屋は暗い。


 スマホの画面だけが、枕元で薄く光る。


 金曜日。


 二十二時二十八分。


 あと一時間半ほど。


 眠るには短い。


 待つには長い。


 相沢は目を閉じた。


 森の音はしない。


 大阪の夜。


 車の音。


 隣室の生活音。


 冷蔵庫の音。


 だが、頭の奥では、村の夜が続いている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 声がしたら、まず返す。


 名前を呼ばれても、走らない。


 相沢は布団の中で、自分に言い聞かせる。


 次に戻った時、自分が一番危ない。


 村に言ったことを、自分が破るかもしれない。


 助けて、と聞こえれば走りたくなる。


 ミナの声がすれば動きたくなる。


 リリアの声がすれば振り向く。


 ガンツが呼べば前へ行く。


 ダリオが短く言えば、従うかもしれない。


 赤ゴブリンは、それを見ている。


 そして、腹が減れば、人はもっと簡単に動く。


 赤が待っている理由が、そこにあるのなら。


 相沢は目を開けた。


 天井が暗い。


「動くな」


 自分に言った。


「誰、どこ、何」


 声にすると、少しだけ落ち着く。


 だが、眠れない。


     ◇


【金曜日 23:41/大阪・自室】


 眠れないまま、時間だけが進んだ。


 相沢は起き上がった。


 水を飲む。


 トイレへ行く。


 戻る。


 鞄を確認しそうになり、やめる。


 もう確認した。


 これ以上見ると、増やしたくなる。


 スマホを見る。


 二十三時四十一分。


 あと十九分。


 相沢は畳に座った。


 鞄を肩にかけるか迷う。


 かける。


 靴を履くか迷う。


 履く。


 前回、どこまで持っていけるかは試している。


 だが、転移条件が完全に分かっているわけではない。


 それでも、準備はする。


 相沢は靴紐を結んだ。


 部屋の中で靴を履いている。


 普通に考えればおかしい。


 だが、もう普通だけでは動けない。


 スマホをポケットへ。


 腕時計を確認。


 鞄の位置を確認。


 水を一口飲む。


 深呼吸。


 あと十分。


 相沢の心臓が、少しずつ速くなる。


     ◇


【金曜日 23:58/大阪・自室】


 スマホの画面が、二十三時五十八分を示していた。


 相沢は立っていた。


 畳の上。


 靴を履いて。


 鞄を肩にかけて。


 部屋の電気は消している。


 カーテンの隙間から、街の光が入る。


 大阪の夜。


 この部屋から、また消えるのか。


 それとも、何も起きないのか。


 何も起きなければ。


 それはそれで、村へ行けないということだ。


 相沢は息を吐いた。


「分からないものを、混ぜるな」


 分かること。


 今は金曜日の夜。


 もうすぐ土曜日。


 準備はした。


 鞄は軽い。


 持ち込みは絞った。


 分からないこと。


 転移するか。


 村が無事か。


 赤ゴブリンが何をしているか。


 食料が、どれだけ残っているか。


 相沢はスマホを見た。


 二十三時五十九分。


 秒が進む。


 五十。


 五十一。


 五十二。


 胸の奥が冷える。


 五十三。


 五十四。


 五十五。


 ミナの板。


 ガンツの槍。


 ダリオの弓。


 ハルトの井戸。


 マルタの倉庫。


 リリアの治療所。


 五十六。


 五十七。


 五十八。


 五十九。


 日付が変わった。


     ◇


【土曜日 0:00/???】


 足元が消えた。


 音が消えた。


 大阪の光が白くほどける。


 胃が浮く。


 息が詰まる。


 視界の端に、表示が走った。



【曜日境界:

 通過】


【暦日判定:

 土曜日】


【転移条件:

 一致】


【滞在処理:

 開始】


【対象:

 相沢誠司】


【持込対象:

 照合中】



「来た」


 相沢は声にした。


 次の瞬間、足元に土の感触が戻った。


 冷たい空気。


 煙の匂い。


 湿った木の匂い。


 遠くの火。


 そして、誰かの声。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は目を開けた。


     ◇


【土曜日 0:01/広場中央】


 広場だった。


 夜だった。


 火は小さい。


 水桶はある。


 呼ぶ役が立っている。


 板がある。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 その下に、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 残っている。


 板が、残っている。


 相沢はその場で息を止めた。


 広場の何人かが振り向いた。


 最初に見つけたのは、ミナだった。


 ミナは板の前にいた。


 顔は疲れている。


 目の下に影がある。


 だが、立っていた。


「回し屋」


 ミナの声が震えた。


 それでも、板から離れなかった。


 相沢は、何か言おうとした。


 喉が詰まる。


 戻れた。


 村はある。


 板もある。


 ミナもいる。


 その事実が、一気に胸に来た。


 相沢はようやく言った。


「……助かった」


 ミナが目を見開いた。


「褒め方、普通になった」


「本当に、助かった」


 ミナは少しだけ唇を噛んだ。


 泣きそうに見えた。


 だが、泣かなかった。


「増やさなかったよ」


「ああ」


「声、来たよ」


「ああ」


「でも、増やさなかった」


「ああ」


 相沢は頷いた。


 その横で、村長が静かに歩いてきた。


「アイザワ殿」


「村長」


「お戻りになりましたか」


「はい」


「村は、持ちました」


 その言葉は短かった。


 だが、重かった。


 村は、持った。


 相沢がいない間も。


 赤ゴブリンが森にいる間も。


 声が来た夜も。


 人影を見せられた後も。


 村は、持った。


 相沢は広場を見た。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 それがまだ、夜を支えていた。


     ◇


【土曜日 0:08/広場中央】


 報告は、広場で全部聞かなかった。


 ミナが先に言った。


「見る板には載せない」


「そうだな」


「戻ってきたことも、広場には増やさない」


「いい」


「回し屋の荷物も、今は見せない」


「いい」


 相沢は鞄に手をやりかけて、止めた。


 今、広場で鞄を開ければ、全員が見る。


 袋。


 飴。


 道具。


 それは火種になる。


 ミナが止める前に、自分で止まれた。


「荷物は、朝。マルタさんとリリアさんと村長。必要ならミナ」


「私は必要」


「必要だな」


 ミナは少しだけ頷いた。


 村長が言う。


「今は、夜の運用を続けます」


「はい」


 相沢は頷いた。


 その時、北から笛が一度鳴った。


 広場が反応する。


 呼ぶ役が声を出した。


「北、何!」


 少し間。


 北から、ガンツの声が届く。


「誰か戻ったのか!」


 広場に、ほんの少しだけ笑いが漏れた。


 ミナが叫ぶ。


「回し屋、戻った!」


 ガンツの返事は短かった。


「座らせろ!」


 今度は、もう少し笑いが起きた。


 相沢は額に手を当てた。


「第一声がそれか」


 ミナが木箱を指す。


「はい」


「早いな」


「ガンツも言った」


「分かった」


 相沢は木箱に座った。


 戻ったばかりなのに。


 立っていたいのに。


 まず座る。


 それが、今の村の形だった。


     ◇


【土曜日 0:21/広場中央】


 伝令が北へ走らず、早歩きで向かった。


 戻ったことだけを伝える。


 荷物のことは言わない。


 帰還条件のことも言わない。


 広場は、火、水、呼ぶ。


 それだけを維持する。


 相沢は木箱に座ったまま、周囲を見る。


 避難民の子供たちは小屋の中。


 南の入口は空いている。


 火は入れていない。


 井戸側には、ハルトの姿がある。


 片腕をかばいながらも、座っている。


 立ち続けてはいない。


 だが、井戸から離れていない。


 倉庫は閉じている。


 マルタの姿は見えないが、戸の横に小さな印がある。


 閉。


 相沢にはそう見えた。


 治療所の入口には布。


 中は見えすぎない。


 リリアがその前に立っている。


 相沢と目が合う。


 リリアは少しだけ息を吐いたように見えた。


 だが、こちらへ走ってこない。


 治療所を離れない。


 それが、相沢には一番こたえた。


 皆、動きたいはずだ。


 聞きたいはずだ。


 でも動かない。


 役を離れない。


 村は本当に、持っていた。


     ◇


【土曜日 0:39/北柵】


 北から戻ってきた伝令は、ガンツの言葉をそのまま持ってきた。


「北、そのまま。アイザワは座ってろ。荷物は朝。ダリオが、森はまだ普通じゃない、と」


 相沢は頷いた。


「分かった」


 ミナが見る。


「行かないよね」


「行かない」


「北、見たい?」


「見たい」


「でも?」


「行かない」


 ミナは満足そうではなかった。


 安心した顔でもなかった。


 ただ、確認した顔だった。


「北は北が見る」


「ああ」


「広場は広場が見る」


「ああ」


「回し屋は」


 ミナが少し詰まる。


 相沢は自分で言った。


「座る」


「そう」


 その時、視界の端に表示が浮かんだ。



【転移処理:

 完了】


【滞在状態:

 開始】


【集落状態:

 夜間運用継続】


【持込対象:

 照合完了】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労:

 中】


【推奨:

 状況確認制限】


【推奨:

 着座継続】



「着座継続」


 相沢は呟いた。


 ミナが言う。


「オカンも言ってる?」


「ああ」


「勝った」


「何に」


「先に座らせた」


「競うな」


 ミナは少しだけ笑った。


 その笑いは疲れていた。


 でも、確かに笑いだった。


     ◇


【土曜日 1:12/治療所前】


 夜の運用が落ち着いてから、相沢は治療所前へ移った。


 自分で歩いた。


 だが、リリアに指定された。


「ここに座ってください」


「戻って早々ですね」


「戻って早々だからです」


 リリアは水を差し出す。


「飲んでください」


「はい」


「荷物は」


「朝まで開けません」


「よろしいです」


「怪我人は」


「増えていません」


 相沢は器を持った手を止めた。


「増えてない?」


「はい。大きな怪我人は出ていません」


「熱の子は」


「まだ見ています。ですが、水は飲めています。飴は、決めた量以上は使っていません」


 相沢は息を吐いた。


「ありがとうございます」


「私だけではありません」


「はい」


「マルタさんが管理しています。ミナも見ています。子供本人も、少し我慢を覚えました」


「子供も」


「甘いものは、欲しくなりますから」


「そうですね」


 リリアは相沢を見る。


「アイザワ殿」


「はい」


「戻ってきてすぐ、全部確認しようとしないでください」


「しません」


「今、嘘の顔です」


「顔」


「便利です」


 相沢は水を飲んだ。


 冷たい。


 井戸の水。


 印を経た水。


 大阪の水とは違う。


 だが、怖くない。


 怖くないくらいには、村の手順を信じられる。


「村は、持ちました」


 リリアが静かに言った。


「はい」


「それをまず、受け取ってください」


 相沢は返事に少し詰まった。


 受け取る。


 自分がいなくても、村が持ったことを。


 それは喜ぶべきことだった。


 だが、胸の奥が少し痛む。


「難しいですね」


「難しいでしょう」


「でも、必要ですね」


「はい」


 リリアは淡々と頷いた。


 その淡々さが、今はありがたかった。


     ◇


【土曜日 2:03/広場中央】


 夜は続いた。


 赤ゴブリンは姿を見せなかった。


 声も来なかった。


 それが逆に不気味だった。


 だが、広場は動いている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 呼ぶの下の三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 相沢が戻っても、板は変わらなかった。


 そこが大事だった。


 相沢は治療所前から広場を見ていた。


 ミナが板の前に立つ。


 呼ぶ役が水を飲む。


 交代の少女が火を見る。


 村長が少し離れて全体を見る。


 それぞれの場所に、それぞれがいる。


 相沢は立ち上がらない。


 夜の中で、それが一番難しい。


 動かないこと。


 確認しないこと。


 任せること。


 大阪で作ってきた小板は、鞄の中にある。


 朝になれば使える。


 だが、今は使わない。


 夜の運用を壊してまで、新しいものを入れない。


 それも、今日の判断だった。


     ◇


【土曜日 4:58/広場中央】


 夜明け前。


 空が少しずつ薄くなる。


 相沢は、ほとんど眠れなかった。


 だが、横にはなった。


 目を閉じた時間もある。


 それだけでも、前よりはましだった。


 北から、短い声が届く。


「まだ」


 ダリオの声。


 相沢は目を開けた。


 まだ。


 まだ終わらない。


 だが、まだ持っている。


 広場の火は小さい。


 水はある。


 呼ぶ役は立っている。


 ミナは板の前にいる。


 そして相沢は、そこに戻ってきた。


 何かを解決したわけではない。


 赤ゴブリンを倒したわけでもない。


 食料が増えたわけでもない。


 転移条件が完全に分かったわけでもない。


 それでも、ひとつ分かったことがある。


 相沢がいない間も、村は完全には崩れなかった。


 それは、強い。


 同時に、赤ゴブリンもそれを見ている。


 次は、もっと強く来る。


 相沢はそう思った。


 東の空が白くなる。


 朝の板に変える時間が近づいている。


 ミナが木炭を持った。


 火、水、呼ぶ。


 夜を、朝へ渡す。


 相沢は立ち上がりかけて、止めた。


 ミナがこちらを見る。


「座ってて」


「ああ」


 相沢は座り直した。


 ミナは板に、朝の五つを描き始めた。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 その手は、少し震えていた。


 だが、止まらなかった。


 その時、倉庫の方から、低い声がした。


「アイザワ」


 相沢は顔を上げた。


 マルタが倉庫の戸の前に立っていた。


 夜を越えた顔ではなかった。


 数を見た顔だった。


「村は持ったよ」


 マルタは言った。


「だが、飯はもう持たない」


 広場の空気が、少しだけ止まった。


 ミナの木炭も止まる。


 朝の板の上で、食料の印だけが、やけに黒く見えた。

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