第九十八話 金曜日の準備
【木曜日 8:22/会社】
木曜日の朝は、昨日よりも普通だった。
普通に見えた。
メールを開く。
見積もりを確認する。
D店向け資料を修正する。
展示会で交換した名刺に礼のメールを送る。
若手にサンプル発送の手順を確認する。
ひとつずつ処理する。
今見るもの。
後で見るもの。
残すもの。
その三つに分けるだけで、机の上は少し落ち着いた。
だが、相沢の中は落ち着かない。
村は見えない。
火は残っているのか。
水は守られているのか。
声はまた来たのか。
赤ゴブリンは、次に何を見せたのか。
そして。
食料は、まだ残っているのか。
考えても分からない。
それでも考えてしまう。
「相沢さん」
若手が横から声をかけた。
「このサンプル、D店分は二ケースでいいですか?」
「一ケースでいい」
「一ケースですか? 展示会後だし、多めに出した方がよくないです?」
「多いと、向こうで置き場を食う」
「ああ、バックヤードですか」
「そう。最初は一ケース。動きが見えてから追加」
「なるほど」
若手はメモを取った。
「最近、相沢さん、置き場の話多いですね」
「売場は置き場で決まる」
「名言っぽい」
「普通の話だ」
普通の話。
だが、相沢には普通ではなくなっている。
場所が決まっていないものは、迷いを生む。
迷いは遅れになる。
遅れは、異世界では命に近い。
会社では欠品や誤配で済む。
それでも、理屈は同じだった。
◇
【木曜日 11:18/会社・会議スペース】
七瀬との資料確認は、電話で済ませる予定だった。
だが、七瀬の第一声で、予定は少し崩れた。
『資料、かなり良くなりました』
「ありがとうございます」
『ただ、相沢さん』
「はい」
『昨日、早く寝ました?』
「寝ました」
『何時に?』
「二十二時半……少し過ぎです」
『少し?』
「二十三時前です」
『よしとします』
「得意先に睡眠時間を報告する営業、普通いませんよ」
『倒れそうな顔で来る営業も普通いません』
「昨日よりは戻りました」
『声は戻ってます。顔は見てないので保留です』
「保留」
『はい。分からないものは保留です』
相沢は一瞬だけ黙った。
七瀬は気づかないまま続ける。
『D店の店長には、提案数を絞った理由が通りそうです。売場作業の負担軽減、誤認防止、担当者不在時の補充判断。この三つでいきましょう』
「はい」
『あと、商品POPと作業用目印を分ける話、あれ入れてよかったです』
「店長向けですか」
『店長向けでもありますけど、現場向けですね。現場は、売る表示と回す表示が違うので』
売る表示。
回す表示。
相沢はノートの端に書いた。
村なら。
食べたいと思わせる印ではない。
使う順番を間違えない印。
欲しがらせる印ではない。
役が迷わない印。
『相沢さん?』
「聞いてます」
『今、また重いやつ考えてましたね』
「仕事には関係あります」
『ならいいです。関係ないなら寝てください』
「何でも睡眠に戻しますね」
『基本です』
電話の向こうで、七瀬が少し笑った。
『相沢さん、仕事の精度は上がってます。でも、変に詰めすぎです』
「そうですか」
『はい。前はもっと、いい意味で営業っぽく雑でした』
「褒めてます?」
『半分』
「もう半分は」
『心配です』
相沢は返事に詰まった。
七瀬は、仕事の話に戻した。
『とにかく、D店提案はこれで進めます。明日午前、店長に軽く当てます』
「よろしくお願いします」
『相沢さんは、今日は変に残業しないでください』
「努力します」
『努力ではなく行動です』
相沢は思わず笑った。
「同じことを言われました」
『誰に?』
「……いろんな人に」
『本当に最近、見張られてますね』
「そうですね」
電話を切った後、相沢はしばらくスマホを見ていた。
見張られている。
現代でも、異世界でも。
それは窮屈なはずなのに、少しだけありがたかった。
◇
【木曜日 18:36/大阪・自室】
相沢は、早めに帰宅した。
七瀬に言われたからではない。
そう言い訳したくなったが、たぶん言われたからだ。
部屋に入る。
鞄を置く。
上着を脱ぐ。
机にノートを開く。
土曜日まで、あと少し。
正確には、金曜日が終われば転移する可能性が高い。
前回の結果から見れば、土日祝が滞在対象。
火曜〇時に帰った。
なら、次は土曜〇時に行く。
そう考えるのが自然だ。
だが、確定ではない。
相沢はノートに書いた。
土曜〇時、転移想定。
ただし未確定。
準備はする。
決めつけない。
その下に、持ち込むものを並べる。
食品用ポリ袋。
チャック袋。
油性ペン。
ラベルシール。
小さい計量スプーン。
塩飴。
乾燥わかめ。
メモ帳。
小さな板の見本。
多く見える。
だが、ひとつひとつは少量だ。
相沢は袋の数をさらに減らした。
チャック袋は十枚。
食品用ポリ袋も十枚。
ラベルシールは一シートだけ。
塩飴は個包装で十個。
乾燥わかめは小袋一つ。
計量スプーンは一つ。
油性ペンは一本。
予備を入れたくなる。
だが、やめた。
予備を入れすぎると、現地の代替が遅れる。
持ち込み品は、答えではない。
見本だ。
「物を増やすな」
相沢は呟いた。
「使い方を増やせ」
ノートの文字を見直す。
自分に言い聞かせるための文字だった。
食料そのものを増やすことも、考えなかったわけではない。
もっと持てばいい。
米。
缶詰。
栄養食品。
袋麺。
考えれば、いくらでもある。
だが、それを一度やれば、次もそれを待つ村になる。
相沢が来るまで耐える村になる。
それは違う。
ただ、今回は状況が違う。
村の食料は、もう多くないはずだった。
袋で食料は増えない。
印で粥は濃くならない。
塩で腹は膨れない。
分かっている。
分かっているからこそ、土曜日に戻ったら、まず食料を見なければならない。
赤ゴブリンを倒すか。
食料を取りに出るか。
逃げるか。
どれかを選ばなければ、村は持たない。
相沢はペンを止めた。
逃げる。
その言葉も、簡単ではない。
老人。
子供。
病人。
避難民。
井戸。
倉庫。
治療所。
全部を抱えて森を抜けるなど、現実的ではない。
森には赤がいる。
結局、そこに戻る。
赤をどうにかしなければ、村は動けない。
◇
【木曜日 20:11/大阪・自室】
夕飯を食べた後、相沢は小さな板の見本を作った。
板といっても、日本で買った薄い木片だ。
そこに油性ペンで三つ描く。
人。
場所。
目。
下に小さく、誰、どこ、何と書く。
文字は村人全員には通じない。
だが、相沢が説明するためには必要だった。
次に、別の木片に三つ描く。
火。
水。
呼ぶ。
これはミナがすでに理解している。
見本はいらないかもしれない。
だが、現代の道具で描いたものを見せれば、線の太さや配置の参考になる。
そこまで考えて、相沢は手を止めた。
押しつけるな。
村には村の形がある。
ミナの板は、もうミナのものになり始めている。
相沢がきれいな板を持ち込んで、それを正解にしてはいけない。
相沢は、火、水、呼ぶの見本板を鞄から外した。
持っていくのは、人、場所、目の小板だけ。
声対策の説明用。
それだけでいい。
机の上が少し減る。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
減らすことは、怖い。
だが、見える。
◇
【金曜日 7:02/大阪・自室】
金曜日の朝。
相沢は、予定より早く目が覚めた。
アラームはまだ鳴っていない。
外は薄暗い。
冷蔵庫の音。
遠くの車。
大阪。
相沢は布団の中で、今日が金曜日であることを確認した。
明日になれば、土曜日。
転移するかもしれない。
しないかもしれない。
そのどちらも、怖い。
転移すれば、村の状況を見ることになる。
転移しなければ、村を見られない。
相沢は起き上がった。
鞄の中をもう一度確認する。
少量の袋。
油性ペン。
ラベルシール。
計量スプーン。
塩飴。
乾燥わかめ。
小板。
メモ帳。
多すぎない。
少なすぎない。
たぶん。
「たぶん、か」
相沢は苦笑した。
たぶん、ばかりだ。
それでも、準備は必要だった。
◇
【金曜日 9:27/会社】
金曜日の会社は、いつもより少し浮ついていた。
週末前。
展示会後の疲れ。
午前中に片づけたい仕事。
午後に流れ込みそうな連絡。
全部が混ざっている。
相沢はノートの上に、今日の三つを書いた。
D店最終確認。
サンプル発送。
週明け見積もり準備。
それ以外は、残す。
若手が横からのぞく。
「三つだけですか」
「今日は三つでいい」
「メール来たら?」
「見て、今日必要なら入れる。そうじゃなければ残す」
「割り切りますね」
「割り切らないと、週末が死ぬ」
「週末、何かあるんですか」
相沢は少し止まった。
「寝る」
「大事ですね」
「ああ」
本当に大事だ。
寝る。
食べる。
準備する。
転移するかもしれない夜に、体を崩していては意味がない。
オカン表示が出なくても、それはもう分かっている。
◇
【金曜日 11:42/会社】
七瀬からメッセージが来た。
『店長に軽く当てました。方向性OKです。来週、正式に商談組みましょう』
相沢は画面を見て、少し息を吐いた。
現代側の仕事が、一つ進んだ。
それは小さいが、必要な勝ちだった。
返信する。
『ありがとうございます。来週、正式資料に整えて伺います』
すぐ返る。
『お願いします。あと、週末ちゃんと休んでください』
相沢は返信に迷った。
休む。
普通ならそうだ。
だが、自分の週末は休みではない。
土曜日になれば、村へ行く可能性がある。
赤ゴブリンが待っているかもしれない。
声の次が来るかもしれない。
そして、食料が底をつきかけているかもしれない。
それでも、七瀬には言えない。
『休める時に休みます』
送る。
すぐ既読。
『その返事、休まない人の返事です』
相沢は少し笑った。
『気をつけます』
『それも信用できないです』
ガンツみたいだ。
そう思った。
信用できない。
その言葉が、今は少しだけ近い。
◇
【金曜日 18:54/大阪・自室】
相沢は定時より少し遅れて帰宅した。
それでも、普段より早い。
部屋に入ると、すぐに鞄を机の上へ置いた。
明日の準備。
いや、今夜の準備。
土曜日〇時に転移するなら、日付が変わった瞬間だ。
以前と同じなら。
相沢は時計を見る。
十八時五十四分。
まだ時間はある。
夕飯を食べる。
風呂に入る。
持ち物を確認する。
少し寝る。
寝られるかは分からない。
だが、横になる。
相沢はスーパーで買った弁当を開けた。
白飯。
鶏肉。
煮物。
小さな漬物。
いつもなら、何も考えずに食べる。
今は、残さないことを考える。
ゆっくり食べる。
全部食べる。
水を飲む。
皿を片づける。
それだけのことが、準備に含まれている。
◇
【金曜日 20:16/大阪・自室】
風呂から上がると、相沢は持ち物を床に並べた。
鞄。
着替え。
靴。
スマホ。
腕時計。
小袋。
油性ペン。
小板。
塩飴。
乾燥わかめ。
計量スプーン。
全部を一度出す。
そして、戻す。
入れる順番も決める。
すぐ使うものは上。
説明に使う小板は、メモ帳の間。
食料系はまとめる。
油性ペンは袋に入れておく。
漏れないように。
現代の営業鞄が、異世界用の現場鞄になっていく。
相沢は手を止めた。
これでいいのか。
もっと持てる。
もっと便利にできる。
ライト。
電池。
薬。
刃物。
ロープ。
考えれば、いくらでもある。
だが、今の村にそれを入れすぎると、村の力ではなくなる。
相沢がいなければ使えないもの。
相沢が持ってこなければ続かないもの。
そればかり増やせば、村は強くなったように見えて、別の弱さを抱える。
相沢は鞄を閉じた。
「今回は、ここまで」
声に出して決める。
声に出さないと、また増やしたくなる。
◇
【金曜日 21:03/大阪・自室】
スマホが鳴った。
七瀬だった。
メッセージではなく、電話。
相沢は少し驚いて出た。
「お世話になっております。相沢です」
『あ、すみません。業務時間外に』
「大丈夫です。どうしました?」
『D店の件で一点だけ確認です。来週の商談、火曜日か水曜日ならどちらが動きやすいですか?』
「水曜日の方が確実です」
『分かりました。水曜午後で仮押さえします』
「お願いします」
それで終わると思った。
だが、七瀬は少し黙った。
『相沢さん』
「はい」
『今日、声は戻ってますね』
「電話のたびに声を確認されますね」
『顔が見えないので』
「声は生きてますか」
『昨日よりは』
「よかったです」
『でも、なんか週末前なのに、仕事終わりの人の声じゃないです』
相沢は返事に詰まった。
『これから棚卸しでも行くんですか、みたいな声です』
「近いですね」
『近いんですか』
「いえ、気持ちの話です」
『休んでくださいね』
「はい」
『信用してませんけど』
「分かってます」
『分かってるなら、少しは信用される行動をしてください』
相沢は苦笑した。
「努力します」
『行動です』
「はい」
『その“はい”も怪しいです』
電話の向こうで、七瀬が小さく息を吐いた。
『まあ、来週ちゃんと来てくれればいいです』
「行きます」
『寝不足で来たら、商談前に説教します』
「得意先に説教される営業」
『現場ではよくあります』
「強いですね」
『食品チーフなので』
七瀬は少し笑った。
『では、週末、ちゃんと休んでください』
「はい。七瀬さんも」
『私は休みます』
「いいですね」
『相沢さんもです』
「……はい」
電話が切れた。
相沢はしばらくスマホを見ていた。
週末、ちゃんと休む。
できれば、そうしたい。
だが、土曜日は近づいている。
◇
【金曜日 22:28/大阪・自室】
相沢は布団に入った。
鞄は枕元に置いている。
靴も近くにある。
以前なら、そんな寝方はしなかった。
だが、日付が変わる瞬間に転移するなら、準備しておくしかない。
電気は消した。
部屋は暗い。
スマホの画面だけが、枕元で薄く光る。
金曜日。
二十二時二十八分。
あと一時間半ほど。
眠るには短い。
待つには長い。
相沢は目を閉じた。
森の音はしない。
大阪の夜。
車の音。
隣室の生活音。
冷蔵庫の音。
だが、頭の奥では、村の夜が続いている。
火。
水。
呼ぶ。
誰。
どこ。
何。
声がしたら、まず返す。
名前を呼ばれても、走らない。
相沢は布団の中で、自分に言い聞かせる。
次に戻った時、自分が一番危ない。
村に言ったことを、自分が破るかもしれない。
助けて、と聞こえれば走りたくなる。
ミナの声がすれば動きたくなる。
リリアの声がすれば振り向く。
ガンツが呼べば前へ行く。
ダリオが短く言えば、従うかもしれない。
赤ゴブリンは、それを見ている。
そして、腹が減れば、人はもっと簡単に動く。
赤が待っている理由が、そこにあるのなら。
相沢は目を開けた。
天井が暗い。
「動くな」
自分に言った。
「誰、どこ、何」
声にすると、少しだけ落ち着く。
だが、眠れない。
◇
【金曜日 23:41/大阪・自室】
眠れないまま、時間だけが進んだ。
相沢は起き上がった。
水を飲む。
トイレへ行く。
戻る。
鞄を確認しそうになり、やめる。
もう確認した。
これ以上見ると、増やしたくなる。
スマホを見る。
二十三時四十一分。
あと十九分。
相沢は畳に座った。
鞄を肩にかけるか迷う。
かける。
靴を履くか迷う。
履く。
前回、どこまで持っていけるかは試している。
だが、転移条件が完全に分かっているわけではない。
それでも、準備はする。
相沢は靴紐を結んだ。
部屋の中で靴を履いている。
普通に考えればおかしい。
だが、もう普通だけでは動けない。
スマホをポケットへ。
腕時計を確認。
鞄の位置を確認。
水を一口飲む。
深呼吸。
あと十分。
相沢の心臓が、少しずつ速くなる。
◇
【金曜日 23:58/大阪・自室】
スマホの画面が、二十三時五十八分を示していた。
相沢は立っていた。
畳の上。
靴を履いて。
鞄を肩にかけて。
部屋の電気は消している。
カーテンの隙間から、街の光が入る。
大阪の夜。
この部屋から、また消えるのか。
それとも、何も起きないのか。
何も起きなければ。
それはそれで、村へ行けないということだ。
相沢は息を吐いた。
「分からないものを、混ぜるな」
分かること。
今は金曜日の夜。
もうすぐ土曜日。
準備はした。
鞄は軽い。
持ち込みは絞った。
分からないこと。
転移するか。
村が無事か。
赤ゴブリンが何をしているか。
食料が、どれだけ残っているか。
相沢はスマホを見た。
二十三時五十九分。
秒が進む。
五十。
五十一。
五十二。
胸の奥が冷える。
五十三。
五十四。
五十五。
ミナの板。
ガンツの槍。
ダリオの弓。
ハルトの井戸。
マルタの倉庫。
リリアの治療所。
五十六。
五十七。
五十八。
五十九。
日付が変わった。
◇
【土曜日 0:00/???】
足元が消えた。
音が消えた。
大阪の光が白くほどける。
胃が浮く。
息が詰まる。
視界の端に、表示が走った。
⸻
【曜日境界:
通過】
【暦日判定:
土曜日】
【転移条件:
一致】
【滞在処理:
開始】
【対象:
相沢誠司】
【持込対象:
照合中】
⸻
「来た」
相沢は声にした。
次の瞬間、足元に土の感触が戻った。
冷たい空気。
煙の匂い。
湿った木の匂い。
遠くの火。
そして、誰かの声。
「火、水、呼ぶ!」
相沢は目を開けた。
◇
【土曜日 0:01/広場中央】
広場だった。
夜だった。
火は小さい。
水桶はある。
呼ぶ役が立っている。
板がある。
火。
水。
呼ぶ。
その下に、小さく三つ。
誰。
どこ。
何。
残っている。
板が、残っている。
相沢はその場で息を止めた。
広場の何人かが振り向いた。
最初に見つけたのは、ミナだった。
ミナは板の前にいた。
顔は疲れている。
目の下に影がある。
だが、立っていた。
「回し屋」
ミナの声が震えた。
それでも、板から離れなかった。
相沢は、何か言おうとした。
喉が詰まる。
戻れた。
村はある。
板もある。
ミナもいる。
その事実が、一気に胸に来た。
相沢はようやく言った。
「……助かった」
ミナが目を見開いた。
「褒め方、普通になった」
「本当に、助かった」
ミナは少しだけ唇を噛んだ。
泣きそうに見えた。
だが、泣かなかった。
「増やさなかったよ」
「ああ」
「声、来たよ」
「ああ」
「でも、増やさなかった」
「ああ」
相沢は頷いた。
その横で、村長が静かに歩いてきた。
「アイザワ殿」
「村長」
「お戻りになりましたか」
「はい」
「村は、持ちました」
その言葉は短かった。
だが、重かった。
村は、持った。
相沢がいない間も。
赤ゴブリンが森にいる間も。
声が来た夜も。
人影を見せられた後も。
村は、持った。
相沢は広場を見た。
火。
水。
呼ぶ。
それがまだ、夜を支えていた。
◇
【土曜日 0:08/広場中央】
報告は、広場で全部聞かなかった。
ミナが先に言った。
「見る板には載せない」
「そうだな」
「戻ってきたことも、広場には増やさない」
「いい」
「回し屋の荷物も、今は見せない」
「いい」
相沢は鞄に手をやりかけて、止めた。
今、広場で鞄を開ければ、全員が見る。
袋。
飴。
道具。
それは火種になる。
ミナが止める前に、自分で止まれた。
「荷物は、朝。マルタさんとリリアさんと村長。必要ならミナ」
「私は必要」
「必要だな」
ミナは少しだけ頷いた。
村長が言う。
「今は、夜の運用を続けます」
「はい」
相沢は頷いた。
その時、北から笛が一度鳴った。
広場が反応する。
呼ぶ役が声を出した。
「北、何!」
少し間。
北から、ガンツの声が届く。
「誰か戻ったのか!」
広場に、ほんの少しだけ笑いが漏れた。
ミナが叫ぶ。
「回し屋、戻った!」
ガンツの返事は短かった。
「座らせろ!」
今度は、もう少し笑いが起きた。
相沢は額に手を当てた。
「第一声がそれか」
ミナが木箱を指す。
「はい」
「早いな」
「ガンツも言った」
「分かった」
相沢は木箱に座った。
戻ったばかりなのに。
立っていたいのに。
まず座る。
それが、今の村の形だった。
◇
【土曜日 0:21/広場中央】
伝令が北へ走らず、早歩きで向かった。
戻ったことだけを伝える。
荷物のことは言わない。
帰還条件のことも言わない。
広場は、火、水、呼ぶ。
それだけを維持する。
相沢は木箱に座ったまま、周囲を見る。
避難民の子供たちは小屋の中。
南の入口は空いている。
火は入れていない。
井戸側には、ハルトの姿がある。
片腕をかばいながらも、座っている。
立ち続けてはいない。
だが、井戸から離れていない。
倉庫は閉じている。
マルタの姿は見えないが、戸の横に小さな印がある。
閉。
相沢にはそう見えた。
治療所の入口には布。
中は見えすぎない。
リリアがその前に立っている。
相沢と目が合う。
リリアは少しだけ息を吐いたように見えた。
だが、こちらへ走ってこない。
治療所を離れない。
それが、相沢には一番こたえた。
皆、動きたいはずだ。
聞きたいはずだ。
でも動かない。
役を離れない。
村は本当に、持っていた。
◇
【土曜日 0:39/北柵】
北から戻ってきた伝令は、ガンツの言葉をそのまま持ってきた。
「北、そのまま。アイザワは座ってろ。荷物は朝。ダリオが、森はまだ普通じゃない、と」
相沢は頷いた。
「分かった」
ミナが見る。
「行かないよね」
「行かない」
「北、見たい?」
「見たい」
「でも?」
「行かない」
ミナは満足そうではなかった。
安心した顔でもなかった。
ただ、確認した顔だった。
「北は北が見る」
「ああ」
「広場は広場が見る」
「ああ」
「回し屋は」
ミナが少し詰まる。
相沢は自分で言った。
「座る」
「そう」
その時、視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【転移処理:
完了】
【滞在状態:
開始】
【集落状態:
夜間運用継続】
【持込対象:
照合完了】
【対象:
相沢誠司】
【疲労:
中】
【推奨:
状況確認制限】
【推奨:
着座継続】
⸻
「着座継続」
相沢は呟いた。
ミナが言う。
「オカンも言ってる?」
「ああ」
「勝った」
「何に」
「先に座らせた」
「競うな」
ミナは少しだけ笑った。
その笑いは疲れていた。
でも、確かに笑いだった。
◇
【土曜日 1:12/治療所前】
夜の運用が落ち着いてから、相沢は治療所前へ移った。
自分で歩いた。
だが、リリアに指定された。
「ここに座ってください」
「戻って早々ですね」
「戻って早々だからです」
リリアは水を差し出す。
「飲んでください」
「はい」
「荷物は」
「朝まで開けません」
「よろしいです」
「怪我人は」
「増えていません」
相沢は器を持った手を止めた。
「増えてない?」
「はい。大きな怪我人は出ていません」
「熱の子は」
「まだ見ています。ですが、水は飲めています。飴は、決めた量以上は使っていません」
相沢は息を吐いた。
「ありがとうございます」
「私だけではありません」
「はい」
「マルタさんが管理しています。ミナも見ています。子供本人も、少し我慢を覚えました」
「子供も」
「甘いものは、欲しくなりますから」
「そうですね」
リリアは相沢を見る。
「アイザワ殿」
「はい」
「戻ってきてすぐ、全部確認しようとしないでください」
「しません」
「今、嘘の顔です」
「顔」
「便利です」
相沢は水を飲んだ。
冷たい。
井戸の水。
印を経た水。
大阪の水とは違う。
だが、怖くない。
怖くないくらいには、村の手順を信じられる。
「村は、持ちました」
リリアが静かに言った。
「はい」
「それをまず、受け取ってください」
相沢は返事に少し詰まった。
受け取る。
自分がいなくても、村が持ったことを。
それは喜ぶべきことだった。
だが、胸の奥が少し痛む。
「難しいですね」
「難しいでしょう」
「でも、必要ですね」
「はい」
リリアは淡々と頷いた。
その淡々さが、今はありがたかった。
◇
【土曜日 2:03/広場中央】
夜は続いた。
赤ゴブリンは姿を見せなかった。
声も来なかった。
それが逆に不気味だった。
だが、広場は動いている。
火。
水。
呼ぶ。
呼ぶの下の三つ。
誰。
どこ。
何。
相沢が戻っても、板は変わらなかった。
そこが大事だった。
相沢は治療所前から広場を見ていた。
ミナが板の前に立つ。
呼ぶ役が水を飲む。
交代の少女が火を見る。
村長が少し離れて全体を見る。
それぞれの場所に、それぞれがいる。
相沢は立ち上がらない。
夜の中で、それが一番難しい。
動かないこと。
確認しないこと。
任せること。
大阪で作ってきた小板は、鞄の中にある。
朝になれば使える。
だが、今は使わない。
夜の運用を壊してまで、新しいものを入れない。
それも、今日の判断だった。
◇
【土曜日 4:58/広場中央】
夜明け前。
空が少しずつ薄くなる。
相沢は、ほとんど眠れなかった。
だが、横にはなった。
目を閉じた時間もある。
それだけでも、前よりはましだった。
北から、短い声が届く。
「まだ」
ダリオの声。
相沢は目を開けた。
まだ。
まだ終わらない。
だが、まだ持っている。
広場の火は小さい。
水はある。
呼ぶ役は立っている。
ミナは板の前にいる。
そして相沢は、そこに戻ってきた。
何かを解決したわけではない。
赤ゴブリンを倒したわけでもない。
食料が増えたわけでもない。
転移条件が完全に分かったわけでもない。
それでも、ひとつ分かったことがある。
相沢がいない間も、村は完全には崩れなかった。
それは、強い。
同時に、赤ゴブリンもそれを見ている。
次は、もっと強く来る。
相沢はそう思った。
東の空が白くなる。
朝の板に変える時間が近づいている。
ミナが木炭を持った。
火、水、呼ぶ。
夜を、朝へ渡す。
相沢は立ち上がりかけて、止めた。
ミナがこちらを見る。
「座ってて」
「ああ」
相沢は座り直した。
ミナは板に、朝の五つを描き始めた。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
その手は、少し震えていた。
だが、止まらなかった。
その時、倉庫の方から、低い声がした。
「アイザワ」
相沢は顔を上げた。
マルタが倉庫の戸の前に立っていた。
夜を越えた顔ではなかった。
数を見た顔だった。
「村は持ったよ」
マルタは言った。
「だが、飯はもう持たない」
広場の空気が、少しだけ止まった。
ミナの木炭も止まる。
朝の板の上で、食料の印だけが、やけに黒く見えた。




