第九十七話 売場を見る
【水曜日 7:18/大阪・自室】
相沢は、大阪の部屋で目を覚ました。
天井。
蛍光灯。
カーテンの隙間から入る朝の光。
冷蔵庫の低い音。
森ではない。
広場でもない。
治療所前でもない。
大阪だった。
相沢はしばらく天井を見ていた。
戻ってきた。
そして、まだ戻ったままだ。
そのことに安堵したというより、体がようやく現実の重さを思い出した。
布団の中にいても、肩が重い。
眠ったはずなのに、疲れは抜けていない。
耳の奥には、まだあの声が残っている。
助けて。
誰かの名前。
泣き声。
それから、ダリオの声。
まだ。
相沢は起き上がった。
スマホを見る。
水曜日。
平日。
仕事の日。
村の時間は見えない。
次に転移できるとすれば、土曜日。
それまで、村が持つかは分からない。
ミナは板の前にいるのか。
ガンツは前を見ているのか。
ダリオは森を見ているのか。
ハルトは井戸を離れていないか。
マルタは塩を使いすぎていないか。
リリアは飴を乱用していないか。
考え始めると、止まらない。
「分からないものを混ぜるな」
相沢は小さく言った。
分かること。
今は大阪にいる。
今日は水曜日。
午後にD店へ行く。
七瀬と売場を見る。
分からないこと。
村の現在。
赤ゴブリンの次の手。
土曜日に戻れるかどうか。
相沢は顔を洗った。
蛇口の水は、今日も当たり前のように出た。
昨日よりは、出しっぱなしにしなかった。
◇
【水曜日 8:46/会社】
会社は、昨日より少し落ち着いていた。
展示会後の片づけはまだ残っているが、山は小さくなっている。
名刺も分けた。
サンプル依頼も整理した。
見積もりも、急ぎと保留に分けた。
それだけで、机の上の圧が違う。
若手が相沢の机を見て言った。
「相沢さん、昨日から整理の仕方変わりました?」
「そうか?」
「なんか、前より少ないですよね」
「少ない?」
「項目が」
相沢は少し止まった。
言われて初めて気づく。
ノートの分類は三つだけになっている。
今日やる。
今週やる。
残す。
それ以上、増やしていない。
「増やすと見えなくなるからな」
「展示会後って、つい全部追いたくなりますもんね」
「全部追うと、全部遅れる」
「相沢さん、展示会明けに悟りました?」
「疲れただけだ」
若手は笑った。
「でも、分かりやすいです。僕もそれでやります」
「やりすぎるなよ」
「項目少ないのに、やりすぎってあるんですか」
「ある。少なすぎると、今度は混ざる」
「難しいですね」
「ああ」
相沢は画面を見る。
メール。
見積もり。
D店用資料。
午後の訪問。
全部、現代の仕事だ。
だが、頭の奥には村がある。
村のことを考えすぎると、仕事が崩れる。
仕事を崩せば、次に持ち込むものも、考える時間も、全部崩れる。
現代も、役の一つだ。
そう考えると、少しだけ座り方が変わった。
◇
【水曜日 12:04/会社・休憩スペース】
昼は、社員食堂の定食だった。
白飯。
味噌汁。
焼き魚。
小鉢。
漬物。
昨日のコンビニ弁当より、さらに整っている。
相沢は盆を持ったまま、数秒止まった。
小鉢が二つある。
味噌汁もある。
水も自由に汲める。
それが、重い。
だが、今日は止まりすぎなかった。
席に座る。
箸を取る。
食べる。
残さない。
隣に座った同僚が言った。
「相沢、今日D店?」
「ああ。午後から」
「七瀬さんとこ?」
「そう」
「あそこ、細かいよな」
「細かい方が助かる」
「得意先に言う言葉じゃないな」
「細かいところほど、後で揉めない」
相沢は白飯を口に入れる。
温かい。
普通にうまい。
普通にうまいものを、普通に食べられる。
それは本来、軽いことのはずだった。
だが今は、軽くない。
「相沢、食べるの遅くなった?」
同僚が言う。
「そうか?」
「前はもっと早かった」
「歳だな」
「急に老け込むなよ」
相沢は苦笑した。
食べる速度が落ちた理由を、説明できるはずがない。
白飯の一粒が、村の粥につながるから。
味噌汁の塩気が、マルタの手元の塩につながるから。
小鉢を残すことが、どうしてもできなくなったから。
相沢は最後まで食べた。
味噌汁も飲み切った。
水も一杯飲んだ。
表示は出ない。
それでも、どこかで誰かに見られている気がした。
◇
【水曜日 14:02/食品スーパーD店・バックヤード】
D店のバックヤードは、忙しかった。
段ボール。
台車。
値札。
品出し前の商品。
冷蔵ケースへ向かう通路。
売場の明るさとは違う、少し湿った現場の匂い。
相沢は入店し、事務所で受付を済ませた。
七瀬は、台車の横で値札を確認していた。
白いシャツに黒いエプロン。
髪は後ろでまとめている。
手には赤ペン。
完全に仕事中の顔だった。
「お疲れ様です」
相沢が声をかけると、七瀬は顔を上げた。
「お疲れ様です」
そこで一度止まる。
七瀬は相沢の顔を見た。
「寝ました?」
「寝ました」
「何時間?」
「そこ聞きます?」
「顔を見れば聞きます」
「そこそこです」
「便利な言葉ですね」
「職業病です」
「それも便利に使いすぎです」
七瀬は台車を押した。
「先に売場見ます。その後、バックヤードで資料確認しましょう」
「お願いします」
「声は昨日より生きてますね」
「資料は?」
「資料も生きてます」
「よかったです」
「ただ、相沢さん本人はまだ半分死んでます」
「商談前に言うことですか」
「倒れられると困るので」
相沢は苦笑した。
リリアとも、ミナとも、少し違う。
だが、同じ方向から見られている気がした。
◇
【水曜日 14:17/食品スーパーD店・売場】
売場は明るかった。
照明。
POP。
値札。
平台。
冷蔵ケース。
客の声。
カゴの音。
商品が整然と並んでいる。
だが、七瀬はその整然の中で、少し眉を寄せていた。
「ここです」
七瀬が指したのは、常温総菜の棚だった。
相沢の会社の商品も一部入っている。
展示会で提案した新商品も、この棚に入れる想定だった。
「空きはあります。ただ、多くはないです」
「三SKUくらいですか」
「最初は二つまでですね」
「二つ」
「増やすと、売場は埋まります。でも、補充が乱れます」
七瀬は棚の下段を指す。
「見てください。似た色が多いんです」
相沢はしゃがんだ。
パッケージの色。
袋の形。
値札の位置。
確かに似ている。
売場で見れば、違う商品だと分かる。
だが、忙しい時。
バックヤードから補充する時。
担当者が違う時。
間違える可能性は高い。
「似てますね」
「はい。売場担当なら分かります。でも、応援の人は間違えます」
「担当者不在時ですね」
「そうです」
七瀬は棚から一つ商品を取り、隣の商品と並べた。
「似たものを増やすなら、目印が必要です。色でも、置き場所でも、POPでもいいです」
目印。
印。
丸。
波。
斜線。
相沢は言葉を飲み込んだ。
「目印がないと、売場が覚えている人に依存します」
七瀬が続ける。
「その人が休むと、崩れます」
相沢は棚を見たまま、しばらく黙った。
ミナがいない広場。
マルタがいない倉庫。
ハルトがいない井戸。
誰か一人に依存すると、崩れる。
「相沢さん?」
「すみません。かなり分かりやすいです」
「また、かなり」
「本当に」
「ならよかったです」
七瀬は少しだけ笑った。
「提案は、商品そのものより、置き方込みでお願いします」
「置き方込み」
「はい。売って終わりじゃなくて、店で回る形まで」
相沢は頷いた。
「分かりました」
店で回る形。
村で回る形。
線がまた、つながった。
◇
【水曜日 14:46/食品スーパーD店・バックヤード】
バックヤードに戻ると、七瀬は段ボールの山を指した。
「ここも問題です」
段ボールには商品名が印字されている。
だが、向きがばらばらだ。
手書きのメモもある。
古い値札も貼られている。
一見すると整理されているようで、よく見ると迷う。
「これは、間違えますね」
相沢が言うと、七瀬は頷いた。
「間違えます。特に夕方のピーク前」
「忙しい時ほど、見ない」
「はい。人は見る余裕がない時に間違えます」
相沢は段ボールの置き方を見た。
上から見える情報。
横から見える情報。
台車に載せた時に見える情報。
どの方向から見ても分かるか。
それが大事だ。
村の袋も同じだった。
置いた時だけ分かる印では足りない。
持った時。
重ねた時。
急いでいる時。
暗い時。
誰が見ても、同じ意味になる必要がある。
「表示は、上だけじゃ弱いですね」
相沢が言った。
七瀬が少し目を細める。
「そうです。横にも欲しいです」
「台車に積むと、上が見えない」
「そうです」
「棚下に入れると、正面しか見えない」
「そうです」
「じゃあ、正面と側面ですね」
「話が早いですね」
「最近、向きで失敗する現場を見たので」
「展示会ですか」
「まあ、そんなところです」
七瀬は深く追及しなかった。
代わりに、段ボールの一つに付箋を貼る。
「仮で貼るなら、ここです」
「正面の右上」
「はい。人はだいたいここを見ます」
「なぜですか」
「慣れです。値札もPOPも、だいたい目が探す位置があります」
相沢は頷く。
村では、そうとは限らない。
文字も読めない者がいる。
だから、位置と形で覚える必要がある。
右上。
入口側。
井戸側。
火の横。
呼ぶ役の板。
場所そのものに意味を持たせる。
「相沢さん、今、また別のこと考えてません?」
「考えてます」
「正直ですね」
「仕事には関係あります」
「ならいいです」
七瀬は赤ペンで資料に丸をつけた。
「商品数を絞って、置き方と補充表示まで提案。これならD店で通しやすいです」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「相沢さん、今日中に全部やろうとしないでください」
「顔に出てます?」
「顔に出てます」
「便利ですね」
「便利です」
◇
【水曜日 15:28/食品スーパーD店・休憩スペース横】
商談というほど堅い場ではなかった。
休憩スペース横の小さな机で、資料を広げる。
七瀬は売場の写真を見ながら、商品を二つに絞った。
「これと、これですね」
「三つ目は外しますか」
「外します」
「理由は」
「味はいいです。でも、パッケージが似ています。初回で混ぜると、補充ミスが出ます」
「味がいいのに?」
「味がいいからこそ、後で入れます」
相沢はペンを止めた。
「味がいいからこそ、後で」
「はい。最初に全部入れると、どれが効いたか分からないです」
それは、そのまま村にも当てはまる。
塩。
飴。
袋。
ラベル。
全部一気に入れると、何が効いたか分からない。
何が揉めたかも分からない。
相沢はメモする。
「段階導入」
七瀬が読み上げる。
「急にコンサルっぽくなりましたね」
「営業です」
「営業さん、昼は食べましたか」
「食べました」
「何を」
「社員食堂の定食です」
「全部?」
「全部」
「よろしい」
「得意先に食事報告する営業、あまりいませんよ」
「させてるのは相沢さんの顔です」
「顔の責任」
七瀬は少し笑って、それから資料に視線を戻した。
「で、導入時の売場POPですが、見た目よりも作業用の意味を持たせたいです」
「作業用?」
「お客さん向けのPOPと、店員向けの目印は違います」
相沢は顔を上げた。
「違う」
「はい。お客さん向けは、買いたくなる表示。店員向けは、間違えない表示」
相沢はその言葉をゆっくり受け取った。
買いたくなる表示。
間違えない表示。
村に必要なのは、後者だ。
食べたくなる印ではない。
間違えない印。
欲しがらせる印ではない。
使う順番を守る印。
「それ、かなり重要です」
「また、かなり」
「すみません。でも、本当に」
「じゃあ、資料に入れてください」
「入れます」
相沢はペンを走らせた。
現代の売場は、明るい。
整っている。
命の危険はない。
それでも、間違えないための仕組みが必要だ。
なら、村ではなおさらだ。
◇
【水曜日 16:12/食品スーパーD店・売場】
帰る前に、七瀬がもう一度売場を見た。
相沢も横に立つ。
客が商品を取る。
店員が補充する。
値札を見る。
棚の奥を確認する。
何気ない動き。
だが、よく見ると、全部に順番がある。
誰かが決めた通路。
誰かが決めた棚。
誰かが決めた表示。
それがあるから、売場は売場として動いている。
「売場って、派手じゃないですね」
相沢が言った。
七瀬は少し意外そうに見る。
「急にどうしました」
「いや、動いてる時は普通に見える。でも、止まらないようにするには、かなり細かい」
「そうですね。売れてる売場ほど、裏は地味です」
「地味」
「はい。派手なのはPOPとか新商品です。でも本当に効くのは、欠品しないこと、間違えないこと、担当者が休んでも回ることです」
相沢は黙った。
村も同じだ。
赤ゴブリンを倒すことは派手だ。
だが、本当に効いているのは、火が残ること。
水が守られること。
呼ぶ役が走らないこと。
倉庫が開きっぱなしにならないこと。
治療所が見せすぎないこと。
北が空かないこと。
「相沢さん?」
「すみません。考えてました」
「また重いやつですか」
「少し」
「じゃあ、持って帰ってください。売場で倒れられても困るので」
「倒れません」
「声の次は顔が戻るといいですね」
「努力します」
「努力じゃなくて睡眠です」
相沢は思わず笑った。
「それ、昨日も似たようなことを言われました」
「誰にですか」
「……いろんな人に」
「相沢さん、最近見張られてません?」
「見張られてますね」
「でしょうね」
七瀬は冗談として受け取った。
相沢も、それ以上は言わなかった。
◇
【水曜日 18:07/大阪・帰宅途中】
帰りの電車は混んでいた。
相沢は吊革につかまりながら、スマホにメモを打った。
商品を増やすな。
置き方を決める。
お客向け表示と作業向け表示は違う。
店員向けの目印。
担当者不在でも回る。
段階導入。
全部一気に入れない。
打ちながら、村の言葉へ置き換える。
食料を増やすな。
使い方を決める。
村人向けの印と管理役向けの印は違う。
呼ぶ役用の小板。
担当者が倒れても回る。
少しずつ入れる。
全部一気に持ち込まない。
電車が揺れた。
相沢はスマホを握り直す。
画面には、七瀬からのメッセージが来ていた。
『今日はありがとうございました。資料、明日また確認します。あと、今日は早く寝てください』
相沢は返信する。
『こちらこそありがとうございました。今日の売場確認、かなり参考になりました。早めに寝ます』
すぐ返る。
『“かなり”が出たので、本当に参考になったんですね。寝てください』
相沢は画面を見て、少しだけ笑った。
現代の方が、別の意味で逃げ場がない。
◇
【水曜日 19:24/大阪・自室】
相沢は机にノートを開いた。
今日のD店で見たことを、異世界用に置き換える。
そのままでは使えない。
スーパーの棚と、村の倉庫は違う。
POPと木の板は違う。
段ボールと布袋も違う。
だが、考え方は使える。
まず、印を二種類に分ける。
全員が見る印。
管理する者だけが見る印。
全員が見る印は、少なくていい。
火。
水。
呼ぶ。
誰。
どこ。
何。
管理する者だけが見る印は、もう少し細かくていい。
無事。
怪しい。
駄目。
病人用。
見張り用。
力仕事用。
予備。
全部を広場に出すな。
広場に出せば、全員が見る。
全員が見ると、欲しがる。
欲しがると、揉める。
相沢はペンを走らせた。
次に、置き場所。
正面から見える印。
横から見える印。
暗くても触って分かる紐。
見本として、色付きの輪ゴムを持っていくか。
いや、輪ゴムに依存させるな。
紐の結び方で置き換える。
輪。
二重結び。
端を垂らす。
マルタがすでに始めていたやり方だ。
相沢は頷いた。
自分が持ち込むのは、答えではない。
見本だ。
村の道具へ置き換えるための、一時的な形。
次に、声対策。
呼ぶ役用の小板。
誰。
どこ。
何。
名前を呼ばれても、まずそこを見る。
声だけなら動かない。
見た者がいるなら、その場所の役が見る。
広場は走らない。
相沢はそこでペンを止めた。
小板を持っていくべきか。
いや、板は現地で作れる。
持っていくなら、油性ペンで書いた簡単な見本くらいでいい。
だが、文字は読めない者もいる。
なら、絵だ。
人の印。
場所の印。
目の印。
それなら、ミナたちがもう理解している。
相沢はノートに、簡単な印を三つ描いた。
人。
場所。
目。
下手だ。
だが、意味は分かる。
◇
【水曜日 20:31/大阪・自室】
夕飯は簡単に済ませた。
昨日ほど重くはなかった。
だが、残さなかった。
食べ終えてから、相沢は鞄を出した。
次に持っていくものを、実際に並べる。
食品用ポリ袋。
チャック袋。
油性ペン。
ラベルシール。
輪ゴム。
小さな計量スプーン。
塩飴。
乾燥わかめ。
それから、小さなメモ帳。
多い。
相沢はすぐにそう思った。
多い。
便利そうに見えるものほど危ない。
持っていけるから持っていく、では駄目だ。
村がそれなしで回らなくなるものは、入れすぎるな。
相沢は一つずつ減らした。
チャック袋は少量。
ポリ袋も少量。
ラベルシールは見本程度。
輪ゴムは、紐の結び方を説明するための仮道具。
塩飴は数を絞る。
乾燥わかめは、迷った末にさらに減らす。
食料を増やすためではない。
水を飲ませるため。
味を変えるため。
体を戻すため。
使いどころを間違えれば、揉める。
机の上には、最初の半分ほどしか残らなかった。
「少ないな」
相沢は呟いた。
少ない。
だが、その方がいい。
多すぎると、見えなくなる。
◇
【水曜日 21:18/大阪・自室】
スマホが鳴った。
七瀬からだった。
電話ではない。
メッセージ。
『すみません、一点だけ。今日の資料、商品数を絞った理由のところ、「売場作業の負担軽減」も入れてください。店長に刺さります』
相沢はすぐ返信した。
『承知しました。誤認防止、担当者不在時の補充判断、売場作業の負担軽減の三点で整理します』
既読。
『それでお願いします。あと寝てください』
相沢は少し笑った。
『今、準備しています』
送ってから、しまったと思った。
すぐに返事が来る。
『何の準備ですか』
相沢は画面を見た。
答えられない。
異世界へ持っていく準備です。
赤ゴブリンに声で釣られないための小板を考えています。
そんなことを言えるはずがない。
相沢は少し考え、返信した。
『明日の資料修正です』
少し間が空いた。
『それならいいです。でも寝てください』
『はい』
『「はい」だけだと信用できません』
相沢は思わず声を出して笑った。
ガンツみたいなことを言う。
リリアみたいでもある。
ミナみたいでもある。
『二十三時までには寝ます』
『二十二時半で』
『厳しいですね』
『顔が死んでる人には厳しくします』
相沢は画面を伏せた。
完全には休めない。
だが、休まないと次がない。
それはもう、十分分かっている。
◇
【水曜日 22:06/大阪・自室】
机の上は、ようやく片づいた。
持っていくものは少ない。
ノートには、印と手順。
鞄には、見本だけ。
相沢は最後に、メモ帳の一ページに大きく三つ描いた。
人。
場所。
目。
その下に、小さく書く。
誰。
どこ。
何。
これは村人には読めないかもしれない。
だが、相沢が説明するために必要だった。
説明した後は、ミナが村の印に直せばいい。
相沢はペンを置いた。
その時、ふと怖くなった。
土曜日に戻った時、このメモを使う相手がいるのか。
ミナは無事か。
ガンツは。
ダリオは。
リリアは。
ハルトは。
マルタは。
考え始めると、また混ざる。
相沢はノートを閉じた。
「分からないものを、混ぜない」
言っても、不安は消えない。
だが、暴れにくくはなる。
相沢は布団に入った。
大阪の夜。
遠くの車の音。
冷蔵庫の音。
隣室の生活音。
森の音ではない。
それでも、耳の奥にはまだ残っている。
まだ。
相沢は目を閉じた。
「土曜日まで、持ってくれ」
昨日と同じ言葉だった。
だが、今日は少しだけ違う。
祈るだけではない。
次に持っていくものは、机の横に置いてある。
多くはない。
派手でもない。
だが、村で使える形に近づけたつもりだった。
相沢は息を吐いた。
眠る。
今は、それも役の一つだった。




