第九十六話 火曜日の大阪
【火曜日 0:07/大阪・自室】
相沢は畳の上に座っていた。
戻った。
大阪に。
自分の部屋に。
だが、体の中だけが、まだ村に残っているようだった。
耳には、森の声が残っている。
助けて。
誰かの名前。
泣き声。
それから、ダリオの低い声。
まだ。
相沢はスマホの画面を見た。
火曜日。
0:07。
三連休は終わっている。
月曜日は祝日だった。
火曜日になった瞬間、帰ってきた。
なら、仮説はかなり強い。
土日だけではない。
祝日も、あちらに残る。
ただし、確定ではない。
表示は、いつものように単純ではなかった。
⸻
【帰還条件:
一致】
【帰還処理:
開始】
⸻
あれは何だったのか。
照合中。
終了判定中。
まるで、向こうも何かを確認していたような表示だった。
「祝日だから、か」
相沢は呟いた。
声が部屋に落ちる。
返事はない。
冷蔵庫の音だけがする。
「……いや、まだ決めるな」
分かること。
月曜日は祝日だった。
月曜日の間は帰らなかった。
火曜日になった瞬間、帰った。
体に傷はない。
痛みもない。
村は崩れていなかった。
分からないこと。
祝日が正式な転移条件なのか。
表示が重かった理由。
赤ゴブリンが、相沢の帰還をどう見ているのか。
村が、今どうなっているのか。
相沢はスマホを置いた。
寝なければならない。
火曜日は仕事だ。
展示会の後処理がある。
見積もりもある。
御礼メールもある。
七瀬にも連絡しなければならない。
食品スーパーD店。
食品チーフ。
現実の得意先。
そう思った瞬間、村の倉庫が浮かんだ。
マルタが塩を睨む顔。
リリアが飴を薬の前だと言った声。
ミナが板の前で叫んだ声。
火、水、呼ぶ。
相沢は布団を敷いた。
横になる。
だが、目を閉じても、広場の火が見えた。
◇
【火曜日 6:42/大阪・自室】
アラームが鳴った。
相沢は一度で止めた。
体が鉛のように重い。
眠ったのか。
落ちていただけなのか。
分からない。
スマホには通知が並んでいた。
会社のメール。
展示会後の社内共有。
サンプル発送依頼。
見積確認。
得意先からの返信。
七瀬からのメッセージもあった。
『昨日は祝日だったので確認遅れました。D店の秋向け提案、今日どこかで電話できますか? あと展示会お疲れさまでした』
昨日。
祝日。
こちらでは休みだった。
あちらでは、声に耐える夜だった。
同じ一日なのに、重さが違いすぎる。
返信を打とうとして、指が止まる。
普通に返せ。
相手は得意先だ。
七瀬は村の人間ではない。
火も水も呼ぶも関係ない。
相沢は短く打った。
『お疲れ様です。午前中、展示会後処理がありますので、十一時半頃なら電話可能です。よろしくお願いいたします』
送信する。
すぐ既読がついた。
『了解です。声が死んでたら午後に回します』
相沢は少しだけ笑った。
まだ声も聞いていないのに。
それから、鏡を見た。
顔色が悪い。
目の下が重い。
髭も伸びている。
七瀬が言いそうだった。
声どころか顔が死んでいる。
相沢は顔を洗った。
水道の水が、勢いよく出る。
透明な水。
いくらでも使える水。
相沢は手を止めた。
蛇口から落ちる水を見た。
井戸。
丸。
波。
斜線。
飲み水。
確認中。
使わない。
「……出しっぱなしにするな」
自分で呟き、蛇口を閉めた。
◇
【火曜日 8:31/会社】
会社は、いつも通りだった。
蛍光灯。
コピー機の音。
パソコンの起動音。
誰かの咳払い。
展示会で使った什器の返却確認。
サンプルの残数。
名刺の束。
現実の仕事が、机の上に積まれている。
「相沢さん、おはようございます」
若手が声をかけてきた。
「おはよう」
「展示会、疲れましたね」
「ああ」
「昨日休みでよかったですよね」
相沢は一瞬だけ止まった。
昨日休み。
そうだ。
こちらでは休みだった。
「そうだな」
「顔、まだ疲れてますよ」
「展示会疲れだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
若手はそれ以上聞かなかった。
聞かれても困る。
森から声がした。
名前を呼ばれた。
村は動かなかった。
そんなことを言えるわけがない。
相沢はパソコンを開く。
メールが多い。
件名を見て、優先順位をつける。
今日中。
午前中。
返信だけ。
保留。
その作業をしていると、自然に板を思い出した。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
こちらの仕事も、結局同じだ。
全部を同じ場所に置くと、処理できない。
分ける。
今見るもの。
後で見るもの。
残すだけのもの。
相沢はノートに線を引いた。
展示会後処理。
D店。
サンプル発送。
見積。
社内報告。
その横に、小さく、今見る、後で見る、残す、と書く。
書いてから、自分で少し嫌になった。
大阪に戻っても、やっていることが村と同じだ。
だが、手は止まらなかった。
◇
【火曜日 11:31/会社・会議スペース】
七瀬から電話が来た。
相沢は会議スペースに入り、ドアを半分閉めた。
「お世話になっております。相沢です」
『お世話になっております。D店、七瀬です』
仕事の声だった。
だが、次の一言で崩れた。
『声、死んでますね』
「第一声それですか」
『展示会明けにしても、ちょっと低すぎません?』
「寝不足です」
『でしょうね。顔も死んでそう』
「電話です」
『声で分かります』
相沢は椅子に座った。
声で分かる。
便利な人間が多すぎる。
『で、秋向け提案の件なんですけど』
「はい」
『展示会で見た常温総菜系、D店だと売場に置ける数が限られます。なので、種類を増やすより、見分けやすさを優先したいです』
「見分けやすさ」
『はい。似たようなパッケージが並ぶと、売場もバックヤードも間違えます』
相沢の手が止まった。
似たような袋。
丸。
波。
斜線。
『相沢さん?』
「聞いてます」
『本当ですか』
「本当に」
『誰が見ても間違えない方が強いです。担当者が休みの日でも回るので』
相沢はノートに書いた。
誰が見ても間違えない。
担当者が休みでも回る。
文字にした瞬間、広場が浮かぶ。
自分が消えた後も、ミナは板の前にいた。
呼ぶ役は三つを見ていた。
火、水、呼ぶ。
『相沢さん、聞いてます?』
「聞いてます。すみません。かなり重要です」
『かなり?』
「かなり」
『なんか重いですね』
「職業病です」
『それ、便利な言葉ですね』
七瀬は少し笑った。
『あと、味が強いものは気をつけたいです』
「味が強いもの?」
『試食では強い方が勝ちますけど、売場では揉めます。売りたい商品だけ目立たせると、他が死にます』
他が死ぬ。
飯が死ぬ。
マルタの声が重なる。
「うまいものは、揉める」
『え?』
「あ、いえ。分かります。試食では良くても、運用で揉める」
『そうです。言い方は変ですけど、そうです』
七瀬は一呼吸置いた。
『相沢さん、今日、本当に大丈夫ですか』
「大丈夫です」
『昼、食べました?』
「まだです」
『今、十一時半です』
「これが終わったら」
『何を食べる予定ですか』
「コンビニで」
『おにぎり一個とか言いませんよね』
相沢は黙った。
『言うつもりだった顔ですね』
「電話です」
『声で分かります』
「悪用ですよ」
『何の話ですか』
「こっちの話です」
『じゃあ、ちゃんと食べてください。展示会明けで倒れられたら、D店の提案が止まります』
「得意先都合ですね」
『はい。だから食べてください』
相沢は少し笑った。
現代側の、別の種類のオカンだった。
◇
【火曜日 12:18/会社近くのコンビニ】
相沢はコンビニの棚の前に立っていた。
弁当。
おにぎり。
サンドイッチ。
惣菜。
味噌汁。
カップ麺。
水。
当たり前のように並んでいる。
村なら、何日分だろう。
何人分だろう。
考えたくないのに、考えてしまう。
廃棄時間の近い商品に、値引きシールが貼られている。
相沢はそれを見た。
賞味期限。
消費期限。
先入れ先出し。
倉庫の湿った袋。
怪しいもの。
駄目なもの。
使えるもの。
混ぜるな。
相沢は弁当を一つ取った。
味噌汁も取った。
水も取った。
ついでに塩飴の小袋を見つけて、手が止まった。
塩。
飴。
強いもの。
使い方を決めないと揉めるもの。
そのまま買い物かごに入れかけて、戻す。
今買うな。
今日は仕事中だ。
持ち込み準備は、帰ってから整理する。
売場で衝動的に買うと、失敗する。
相沢は代わりに、弁当と味噌汁と水だけを買った。
◇
【火曜日 12:36/会社・休憩スペース】
弁当の白飯を見た瞬間、相沢は箸を止めた。
白い。
多い。
温かい。
村の粥とは違う。
薄くない。
粒がある。
食べきれない量ではない。
だが、重い。
横の席で、若手が弁当を半分ほど残していた。
「もう無理っす」
悪気はない。
本当に腹がいっぱいなのだろう。
相沢は何も言わなかった。
言うべきではない。
ここは日本だ。
異世界の食料事情を持ち込んで説教する場所ではない。
だが、見てしまう。
残った白飯。
揚げ物。
小袋のソース。
割り箸。
それらが、数字に見える。
五十五人。
七日分。
十日にはならない。
でも少し伸ばせる。
「相沢さん、食べないんですか」
若手が聞いた。
「食べる」
相沢は箸を動かした。
白飯を口に入れる。
味噌汁を飲む。
温かい。
濃い。
うまい。
それが少し苦しい。
だが、残さない。
残せない。
相沢は弁当を最後まで食べた。
味噌汁も飲み切った。
水も飲んだ。
表示は出ない。
それでも、頭の中で声がした気がした。
摂食継続。
「……食べたぞ」
相沢は小さく呟いた。
「何か言いました?」
「何でもない」
◇
【火曜日 14:04/会社】
午後は、展示会の名刺整理だった。
名刺。
メモ。
商談内容。
見込み度。
サンプル要否。
次回連絡。
机に広げると、すぐ混ざる。
相沢は小さな付箋を使った。
今日中。
今週中。
保留。
三つだけ。
若手が横から見た。
「相沢さん、めちゃくちゃ整理早いですね」
「増やすと死ぬ」
「え?」
「分類を増やすと、処理が死ぬ」
「ああ、そういう意味ですか」
若手は少し笑った。
「展示会後って、全部大事に見えますもんね」
「そうだな」
「でも全部はできない」
「そう」
全部はできない。
だから、見るものを減らす。
それは村でも会社でも同じだった。
相沢は名刺を三つに分けた。
その手つきは、昨日より迷いが少なかった。
異世界で得たものが、現実の仕事にも出ている。
良いことなのか。
悪いことなのか。
分からない。
ただ、仕事は進んだ。
◇
【火曜日 16:28/会社・会議スペース】
七瀬に資料を送った後、すぐ返信が来た。
『見やすいです。前より分類が少なくて助かります。ただ、提案数を絞った理由だけ、商談時に説明できるようにしたいです』
相沢は画面を見て頷いた。
提案数を絞った理由。
増やさない理由。
ただ減らしたのではない。
見えるようにするために減らした。
相沢は返信を打つ。
売場とバックヤードの双方で誤認を減らすため。
担当者不在時でも補充判断しやすくするため。
初回導入時は売れ筋確認を優先するため。
その三点で整理します、と送った。
すぐ既読がつく。
『それでいきましょう。あと、ちゃんと食べました?』
相沢は少し迷って、弁当の空容器を写真に撮った。
送らない。
得意先に送るものではない。
何をしている。
相沢は文章で返した。
『食べました。弁当と味噌汁です』
七瀬から返信が来る。
『よろしい。声はまだ死んでますけど、資料は生きてます』
相沢は会議スペースで小さく笑った。
資料は生きている。
飯は少しずつ死ぬ。
言葉が変なところでつながる。
◇
【火曜日 19:12/大阪・自室】
帰宅すると、部屋は朝のままだった。
畳。
鞄。
スマホの充電器。
脱いだ上着。
現実は、相沢がどれだけ遠くへ行っても、普通に散らかっている。
相沢は鞄を置き、机にノートを開いた。
異世界用。
そう書くわけにはいかない。
表紙には、ただ「改善メモ」と書いてある。
相沢はペンを持った。
まず、祝日のことを書く。
月曜日は祝日だった。
火曜日の〇時で帰還した。
祝日は滞在対象である可能性が高い。
ただし、表示はいつもより重かった。
照合中。
終了判定中。
あれを、なかったことにはしない。
次に、村のことを書く。
声。
名前。
人影。
それでも村は動かなかった。
火、水、呼ぶ。
誰、どこ、何。
ミナが広場を戻した。
ダリオが音の横を撃った。
ガンツが前を維持した。
ハルト、マルタ、リリアも役を離れなかった。
そこまで書いて、相沢はペンを止めた。
村が自分なしで少し回っている。
それを書くのが、少し怖かった。
嬉しいはずなのに。
必要なはずなのに。
自分がいなくても回る。
その事実は、安心と寂しさの両方を持っていた。
相沢は次のページを開いた。
持ち込み候補を考える。
塩飴は少量でいい。
塩は増やしすぎない。
小袋は便利だが、袋そのものに頼らせない。
ラベルと油性ペンは、村の印へ置き換えるための見本にする。
輪ゴムや結束バンドは使えるかもしれない。
小さい計量スプーンは予備がいる。
乾燥わかめも、ほんの少しなら役に立つ。
だが、食料を増やすためではない。
水を飲ませる。
体を戻す。
手順を作る。
そのためだ。
相沢は赤字で書いた。
物を増やすな。
使い方を増やせ。
村の道具に置き換える。
七瀬の言葉も書く。
誰が見ても間違えない。
担当者が休みでも回る。
味が強いものは揉める。
その横に、村の言葉を書く。
火、水、呼ぶ。
誰、どこ、何。
分からないものを混ぜない。
現代の売場と、異世界の広場。
全然違う場所なのに、同じ線でつながっている。
◇
【火曜日 20:46/大阪・自室】
夕飯は、スーパーで買った惣菜だった。
焼き魚。
白飯。
味噌汁。
小さなサラダ。
相沢は全部を机に並べた。
多い。
そう思ってしまう。
だが、今日は食べる。
食べないと、次に持たない。
箸を取る。
焼き魚の塩気が強い。
うまい。
同時に、村の塩を思い出す。
マルタは全体の粥には入れなかった。
見張りと力仕事にだけ、少し使った。
正しい。
うまいものは揉める。
相沢は魚を食べながら、考える。
次に持ち込むものは、味を良くするためではない。
村を回すため。
見張りが倒れないため。
病人が水を飲むため。
食料が混ざらないため。
声に釣られないため。
そこまで考えて、箸が止まった。
声に釣られないために、持ち込めるものはあるか。
物ではない。
手順だ。
誰。
どこ。
何。
それを、もっと見やすくするもの。
小さな板。
印。
紐。
置き場所。
相沢は食事を終えてから、ノートに書き足した。
呼ぶ役用の小板。
誰、どこ、何。
名前を呼ばれても、まず小板を見る。
小板は現地で作れる。
持ち込むのは、形を見せるための見本だけでいい。
◇
【火曜日 22:18/大阪・自室】
風呂から上がると、スマホに七瀬からメッセージが来ていた。
『資料確認しました。明日、D店で売場見ながら話せますか? 無理なら電話で』
相沢は少し考えた。
D店へ行く。
売場を見る。
バックヤードを見る。
誰が見ても間違えない仕組みを見る。
それは、村に使える。
同時に、七瀬に顔を見られる。
また言われるだろう。
顔が死んでいる。
声が死んでいる。
でも、行った方がいい。
現代にいる時間も、村のために使う。
それは危険でもある。
全部を村に寄せると、現実が崩れる。
相沢は返信した。
『明日午後、D店に伺います。売場確認しながらご相談させてください』
返信はすぐ来た。
『了解です。ちゃんと寝てから来てください。寝不足の営業は、提案より先に心配されます』
相沢は画面を見て、少し笑った。
リリアと似たことを言う。
ミナとも似ている。
オカンとも似ている。
周りに増えすぎだ。
だが、悪くない。
相沢はスマホを伏せた。
布団に入る。
目を閉じる。
大阪の夜。
遠くの車の音。
隣室の生活音。
冷蔵庫の音。
森の音ではない。
それでも、耳の奥で、まだ聞こえる。
まだ。
相沢は息を吐いた。
「土曜日まで、持ってくれ」
誰に言ったのか分からない。
村にか。
ミナにか。
ガンツにか。
ダリオにか。
自分にか。
返事はない。
スマホの画面は暗い。
大阪の夜は静かだった。
その静けさが、かえって遠くの村を思い出させた。
相沢は目を閉じたまま、もう一度だけ呟いた。
「まだ、終わってない」
それから、ようやく眠りに落ちた。
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