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第九十五話 名前を呼ぶ声

【月曜日 18:41/広場中央】


 夜の板は、三つだった。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 呼ぶの下に、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 それだけ。


 昼に見た人影。


 森の端に落ちた服。


 塩。


 飴。


 帰還条件。


 全部、大事だった。


 だが、夜の板には置かない。


 広場に置くと、広場が全部を見る。


 全部を見ると、何も見えなくなる。


 相沢は木箱に座っていた。


 椀は空になっている。


 ほんの少し塩の混じった粥が、腹の奥に残っていた。


 温かさというより、体を戻すための重さだった。


 ミナが板の前に立つ。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が繰り返す。


「火、水、呼ぶ」


「声がしたら?」


「誰、どこ、何」


「見てない声なら?」


「近くの役が見る。広場は動かない」


「名前を呼ばれても?」


 呼ぶ役が一瞬だけ止まった。


 ミナが見る。


 相沢も見る。


 呼ぶ役は唇を引き結び、それから言った。


「誰、どこ、何」


 ミナは頷いた。


「それでいい」


 その声は硬かった。


 全員が分かっている。


 今日、森は人影を使った。


 次は声かもしれない。


 名前かもしれない。


 助けて、かもしれない。


 母親の声。


 子供の声。


 死んだはずの誰かの声。


 そんなものまで考え始めると、広場の火は急に頼りなく見えた。


 だが、火はある。


 水もある。


 呼ぶ役もいる。


 それだけを見る。


     ◇


【月曜日 19:06/北柵】


 北の森は、夜へ沈み始めていた。


 人影に使われた布は、まだ森の端に落ちている。


 暗くなるにつれて、それは布ではなく、また何か別のものに見え始めていた。


 倒れた人。


 丸まった獣。


 こちらを見ている何か。


 ダリオは、それを見ないようにしていた。


 いや、正確には見ている。


 だが、意味を勝手に足さないようにしていた。


「布」


 ダリオが言った。


 ガンツが横で聞く。


「何だ」


「布だと、言っておく」


「自分にか」


「そう」


 ガンツは鼻を鳴らした。


「俺には、もう人には見えねぇ」


「暗くなると、また変わる」


「面倒だな」


「森は、暗くなると嘘が増える」


 ガンツは槍を膝に置く。


 座っている。


 だが、前を向いている。


「赤は」


「見えない」


「音は」


「少ない」


「普通か」


「近い」


「また近いか」


「普通ではない」


 ガンツは短く息を吐いた。


「今日は、声か」


「たぶん」


「人影の次ならな」


「声は、見えない」


「だから面倒だ」


「そう」


 ガンツは森の奥を睨む。


「もし、俺の声が聞こえたらどうする」


 ダリオが少しだけ目を動かす。


「隣にいる」


「森からだ」


「偽物」


「俺が森に行ってたら」


「なぜ行った」


「例えばだ」


「行くな」


「お前、相沢みたいになってきたな」


「嫌だ」


 ガンツは少しだけ笑った。


 だが、すぐ顔を戻す。


「声が聞こえたら、誰、どこ、何」


「そう」


「見えないなら動かない」


「そう」


「見えても、すぐ動かない」


「そう」


 ガンツは低く言った。


「嫌な夜だ」


 ダリオは森を見たまま答える。


「まだ始まったばかり」


「余計嫌だ」


     ◇


【月曜日 19:32/南の空き小屋】


 南の小屋では、子供たちが早めに横になっていた。


 眠れているわけではない。


 目を閉じているだけの子もいる。


 入口近くには、昨日と同じ板。


 火なし。


 入口あける。


 外へ出ない。


 その下に、新しく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 避難民の若い男が、それを何度も見ていた。


 村の男が横で言う。


「見すぎると、分からなくなるぞ」


「じゃあどうしろって」


「覚えろ」


「覚えてる」


「なら、見るな」


「見ないと不安だ」


「見ても不安だろ」


 若い男は黙った。


 その通りだった。


 見ても不安は消えない。


 ただ、見る場所があるだけだ。


 奥で子供が小さく言った。


「声がしたら?」


 避難民の女が答える。


「大人に言う」


「外から?」


「大人に言う」


「名前を呼ばれても?」


 女は一瞬だけ止まった。


 だが、すぐに答えた。


「大人に言う」


「お母さんの声でも?」


 小屋の中が静かになった。


 避難民の女の顔が歪む。


 だが、声は崩さなかった。


「大人に言う」


 子供は布を握った。


「外に行かない?」


「行かない」


「お母さんがいたら?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 村の男が、低く言った。


「本当にいたら、大人が見に行く」


 若い男が続ける。


「でも、お前は出ない」


 子供は小さく頷いた。


 納得したわけではない。


 ただ、言葉を受け取った。


 夜は、そうやって少しずつ越えるしかなかった。


     ◇


【月曜日 20:04/治療所前】


 治療所では、飴の欠片を使った子供が眠っていた。


 完全に楽になったわけではない。


 だが、水は少し飲めた。


 それだけで、リリアの表情はわずかに緩んでいる。


 相沢は入口の外に座っていた。


 広場からは少し離れている。


 だが、火は見える。


 声も届く。


 リリアが小さな器を洗っている。


「飴は、あとどれくらいありますか」


 リリアが聞いた。


「多くはないです」


「数えますか」


「はい。ただ、広場では数えない方がいい」


「欲しがるからですね」


「はい」


「では、私とマルタさんで数えます」


「お願いします」


 相沢は鞄の中を見た。


 飴。


 塩。


 袋。


 ラベル。


 油性ペン。


 計量スプーン。


 どれも、強い。


 強いから、慎重に使う。


 それを少しずつ村が覚えている。


 リリアが言った。


「アイザワ殿」


「はい」


「今日、森へ出なかったことを、後悔していますか」


 相沢はすぐには答えなかった。


 森の端の人影。


 手に見えた布。


 人ではなかった。


 少なくとも、立っていた人間ではなかった。


 それでも、後悔がゼロではない。


「あります」


 相沢は言った。


「でも、出ていたらもっと後悔したと思います」


「そうですか」


「人だったら、違ったかもしれない」


「ですが、人かどうか分からなかった」


「はい」


「では、分からないものとして扱った」


「そうです」


 リリアは器を置いた。


「それでよいと思います」


「優しいですね」


「優しくはありません」


 リリアは静かに言った。


「治療所も同じです。助かるかもしれないからといって、全員に同じ水や薬を使えば、全員を危なくします」


 相沢はリリアを見る。


「助けるにも、順番があります」


「はい」


「それを間違えると、助けたい気持ちごと壊れます」


 リリアの声は淡々としていた。


 だが、その言葉は重かった。


 相沢は頷いた。


「覚えておきます」


「忘れそうな顔です」


「顔」


「便利です」


「悪用です」


 リリアは少しだけ笑った。


     ◇


【月曜日 20:37/広場中央】


 最初の声は、風のように来た。


 誰も、最初は声だと思わなかった。


 森の奥で、何かが鳴った。


 鳥ではない。


 獣でもない。


 人の息に似た音。


 広場の火が小さく揺れる。


 呼ぶ役が顔を上げた。


 ミナも板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 北から笛が一度。


 短い。


 呼ぶ役が声を出す。


「北、何!」


 伝令は来ない。


 北からガンツの声が届いた。


「声だ! まだ動くな!」


 広場が固まる。


 声。


 ついに来た。


 相沢は治療所前で立ち上がりかけた。


 リリアが見た。


 相沢は自分で止まった。


 座り直す。


 ミナが叫んだ。


「誰!」


 北から少し遅れて返る。


 ガンツの声。


「分からん!」


「どこ!」


「森の奥!」


「何を見た!」


 少し間。


 ダリオの声が届いた。


「何も見えない!」


 ミナは板を見た。


 声だけ。


 見えていない。


 森の奥。


 分からない。


「広場、そのまま!」


 ミナが叫んだ。


「声だけ! 見えてない! 火、水、呼ぶ!」


 広場は震えた。


 だが、動かなかった。


     ◇


【月曜日 20:43/北柵】


 森の奥から、声がした。


 言葉ではない。


 まだ。


 ただ、人が息を漏らすような音。


 泣き声にも聞こえる。


 うめき声にも聞こえる。


 ガンツは槍を握る。


「人か」


「分からない」


 ダリオが答える。


「位置は」


「奥。遠い」


「赤は」


「見えない」


「布は」


「動いてない」


 森の端に落ちた布は、暗がりの中で揺れていない。


 風は弱い。


 音は、布より奥から来ている。


 また声がした。


 今度は、少し高い。


 子供のようにも聞こえる。


 ガンツの肩が動く。


 ダリオが短く言う。


「動くな」


「分かってる」


「肩が動いた」


「うるせぇ」


 声がまた来る。


 今度は、かすかに言葉の形を持っていた。


 助けて。


 そう聞こえた。


 見張りの一人が息を呑む。


 ガンツが怒鳴る。


「前を見ろ!」


 見張りが戻る。


 ダリオが森を見る。


「声だけ」


「分かってる」


「見えない」


「分かってる」


「なら、行かない」


「分かってる!」


 ガンツの声が荒くなる。


 だが、足は動いていない。


 槍は柵の内側。


 前へ出ない。


 ダリオが短く言う。


「怒るな」


「無理だ」


「怒ると、見えるものが減る」


「お前、本当に面倒だな」


「見てるだけだ」


 そのやり取りで、見張りの呼吸が少し戻った。


 声は、また森の奥で揺れた。


 助けて。


 今度は、そう聞こえた者が多かった。


 だが、誰も森へ出なかった。


     ◇


【月曜日 20:51/広場中央】


 広場に伝令が来た。


 走ってはいない。


 だが、顔は青い。


「声! 森の奥! 助けて、みたいに聞こえる!」


 ミナがすぐ聞く。


「誰!」


「分からない!」


「どこ!」


「森の奥!」


「何を見た!」


「何も見えない!」


 広場がざわつく。


「助けてって」


「本当に人じゃ」


「昼の服の」


「誰かいるんじゃ」


 ミナの手が震える。


 だが、板を見る。


 誰。


 分からない。


 どこ。


 森の奥。


 何。


 何も見えない。


 それなら。


「広場は動かない!」


 ミナが叫んだ。


「声だけ! 見えてない! 北が見る!」


 それでも、一人の女が立ち上がりかけた。


「でも、子供なら」


 マルタが鋭く言った。


「座りな」


「でも」


「座りな」


 女は震えながら座った。


 リリアが治療所前から言う。


「怪我人を受ける準備はしています。ですが、こちらからは出ません」


 ハルトが井戸側から言う。


「井戸は動かさない」


 村長が広場中央に立つ。


「声に、村を渡してはいけません」


 その言葉で、少し静まった。


 声に、村を渡さない。


 それが、今夜の意味だった。


     ◇


【月曜日 21:08/治療所前】


 相沢は座っていた。


 両手を膝の上で握っている。


 強く握りすぎて、指が白い。


 森の声は、ここまで届いた。


 助けて。


 そう聞こえた。


 聞こえたのだ。


 聞き間違いではない。


 少なくとも、相沢の耳にはそう届いた。


 リリアが横にいる。


「アイザワ殿」


「動かない」


 相沢は先に言った。


「まだ何も言っていません」


「言われる前に」


「では、もう一つ」


「はい」


「手を開いてください」


 相沢は自分の手を見る。


 握りしめている。


 ゆっくり開く。


 掌に爪の跡が残っていた。


 リリアはそれを見て、何も言わずに水を差し出す。


「飲んでください」


「今?」


「今です」


 相沢は水を飲む。


 喉が乾いていた。


 声を聞いただけで、体が戦う準備をしていたのだと分かる。


 走るため。


 判断するため。


 助けに行くため。


 だが、走らない。


「きついですね」


 リリアが言った。


「ああ」


「今は丁寧でなくて構いません」


「助かる」


「ただし、動くのは許しません」


「そこは変わらないのか」


「変わりません」


 相沢は息を吐いた。


 森の奥から、また声がした。


 今度は少し低い。


 男の声にも聞こえる。


 相沢は目を閉じた。


 誰。


 分からない。


 どこ。


 森の奥。


 何。


 見えていない。


 声だけ。


 動かない。


     ◇


【月曜日 21:34/北柵】


 声は、形を変え始めた。


 最初はうめき声。


 次は、助けてに似た音。


 その次は、泣き声。


 そして今は、名前のような音が混じっていた。


 ガンツが槍を握る手に力を込める。


「今、何て言った」


 見張りの一人が震えながら言う。


「ミナ、って」


「黙れ」


 ガンツが即座に言った。


「聞こえたことを勝手に決めるな」


 見張りは口を閉じる。


 ダリオが森を見ている。


「似せてる」


「ミナにか」


「名前に」


「誰の」


「聞く側が知ってる名前」


 ガンツの顔が険しくなる。


「そんなことまでできるのか」


「分からない」


「赤か」


「たぶん」


 声がまた来る。


 今度は、確かに名前のように聞こえた。


 だが、誰の名前にも聞こえた。


 ミナ。


 リリア。


 母さん。


 助けて。


 全部が混ざったような声。


 気持ちが悪い。


 ガンツは低く言う。


「聞くな」


 ダリオが答える。


「聞こえる」


「じゃあ、決めるな」


「そう」


 ダリオは弓を上げた。


 森の奥を狙わない。


 声がした場所から少し外れた枝を狙う。


「何を撃つ」


 ガンツが聞く。


「音の横」


「横?」


「声に目を取られるな」


 矢が飛んだ。


 枝が折れる。


 森の奥で、何かが跳ねた。


 声が止まる。


 ガンツが槍を構える。


「いたか」


「何かは」


「赤か」


「違う。小さい」


 草が揺れた。


 小さな影が森の奥へ消える。


 声は消えた。


 ダリオが弓を下げる。


「声を出すものがいた」


「ゴブリンか」


「たぶん」


「人じゃねぇな」


「少なくとも、今の声は」


 ガンツは息を吐いた。


 怒りで、喉の奥が熱かった。


「悪趣味どころじゃねぇな」


「そう」


 ダリオは森を見たまま言った。


「でも、止まった」


     ◇


【月曜日 21:48/広場中央】


 伝令が戻った。


「声、止まりました! ダリオが音の横を撃った! 小さい影が逃げました! 人は見えてません!」


 広場が息を吐く。


 誰かが泣きそうになる。


 誰かが怒る。


 誰かが口元を押さえる。


 ミナは板の前に立っていた。


 顔色は悪い。


 だが、声は出た。


「声だけだった。人は見えてない。広場は動かなかった」


 誰かが呟く。


「よかった」


 ミナがすぐ言う。


「よかった、だけじゃない」


 広場が静かになる。


「嫌だった。でも、動かなかった」


 相沢は治療所前からその声を聞いていた。


 ミナは続ける。


「次も、声が来るかもしれない。名前を呼ぶかもしれない。でも、誰、どこ、何。見てないなら、すぐ走らない」


 呼ぶ役が小さく繰り返す。


「誰、どこ、何」


 別の者も続ける。


「誰、どこ、何」


 声が広場に薄く広がる。


 呪文ではない。


 祈りでもない。


 手順だった。


 手順が、恐怖の上に置かれる。


     ◇


【月曜日 22:16/倉庫前】


 マルタは倉庫の戸を確認していた。


 声の騒ぎがあっても、戸は開けなかった。


 中の袋も動かさなかった。


 それは正しい。


 正しいが、気持ちが良いわけではない。


 若い女が言った。


「声、怖かったです」


「怖かったね」


 マルタが答える。


「子供みたいでした」


「そう聞こえるようにしたんだよ」


「本当に子供だったら」


「北が見る」


「でも」


 マルタは女を見る。


「倉庫から全員が出たら、飯が死ぬ」


 女は黙った。


「飯が死んだら、本物の子供も助けられない」


 マルタは戸に手を置く。


「嫌な理屈だよ。でも、いる」


 女は小さく頷いた。


 マルタは塩の小さな包みを確認する。


 動いていない。


 飴の残りも、リリアと確認した。


 勝手に減っていない。


 この状況で、減っていない。


 それは小さな勝ちだった。


「明日、塩の匙をもう一本作る」


 マルタが言った。


 若い女が驚く。


「今ですか」


「今考えるんだよ。怖い夜ほど、明日の道具を考える」


「強いですね」


「強くないよ」


 マルタは短く言った。


「怖いから、手を動かすんだ」


     ◇


【月曜日 22:47/井戸前】


 ハルトは井戸の横で、桶の印を確認していた。


 丸。


 波。


 斜線。


 声がした時、井戸前の若い男が一歩動いた。


 ハルトは止めた。


 怒鳴らなかった。


 肩を掴んだだけだった。


 今、その若い男は気まずそうに立っている。


「動きました」


 若い男が言った。


「一歩な」


「すみません」


「次は止まれ」


「はい」


「声がしたら」


「誰、どこ、何」


「井戸なら」


「井戸が見る」


「森なら」


「北が見る」


「水は」


「井戸が見る」


「よし」


 ハルトは桶を見る。


 水面は暗い。


 だが、静かだ。


「俺も動きかけた」


 ハルトが言った。


 若い男が驚く。


「ハルトさんも?」


「声は嫌だ」


「はい」


「だから、手順がいる」


 ハルトは井戸へ視線を戻す。


「強いから止まれるんじゃない。決めてるから止まれる」


 若い男はその言葉をしばらく聞いていた。


 それから頷いた。


「決めてるから」


「そうだ」


 ハルトは腕の痛みを少し感じた。


 だが、顔には出さない。


 井戸は静かだった。


 今は、それでいい。


     ◇


【月曜日 23:18/治療所前】


 相沢は、ようやく少し眠気を感じていた。


 声の緊張が抜けた反動だった。


 リリアが布を直す。


「眠れそうですか」


「少し」


「では、寝てください」


「今度は素直に寝ます」


「よい傾向です」


「評価が雑になってきましたね」


「疲れていますので」


「リリアさんも休んでください」


「交代が来ます」


「本当に?」


「本当です」


 リリアは治療所の中を見る。


 年配の女が一人、起きている。


 交代要員だ。


 相沢は頷いた。


「ならいいです」


「確認しましたね」


「癖です」


「悪い癖と、必要な癖があります」


「今のは」


「半分です」


「厳しい」


 リリアは少しだけ笑った。


 その時、表示が浮かぶ。



【敵誘導:

 音声模倣】


【集落反応:

 抑制成功】


【役割維持:

 継続】


【対象:

 相沢誠司】


【過剰介入:

 抑制】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【推奨:

 睡眠】



「睡眠」


 相沢は呟いた。


「短くなりましたね」


 リリアが言う。


「圧が強い」


「従ってください」


「ああ」


 相沢は目を閉じた。


 森の声は、もうしない。


 だが、耳には残っている。


 助けて。


 誰かの名前。


 泣き声。


 それが全部、本物ではなかったとしても、心には残る。


 それでも、村は動かなかった。


 誰も森へ走らなかった。


 それは冷たいことではない。


 守るための我慢だった。


     ◇


【月曜日 23:52/広場中央】


 夜は落ち着いていた。


 落ち着いているように見えるだけかもしれない。


 だが、火は小さいまま残っている。


 水もある。


 呼ぶ役も交代している。


 南の小屋は静か。


 井戸は守られている。


 倉庫は閉じている。


 治療所の布は少し下がっている。


 北にはガンツとダリオがいる。


 板の前にはミナがいる。


 ミナは木炭を持っていない。


 板には、余計な印が増えていない。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 それだけだった。


 相沢は治療所前から、その板を見ていた。


 もうすぐ日付が変わる。


 月曜日が終わる。


 祝日が終わる。


 三連休が終わる。


 今度こそ、帰るのか。


 それとも、帰れないのか。


 分からない。


 だが、昨日とは違う。


 相沢は、広場を見た。


 村は、まだ動いている。


 自分が見ていない間も、火は守られた。


 水は守られた。


 声にも、名前にも、村は走らなかった。


 自分が消えたら、揺れる。


 それは間違いない。


 だが、崩れるだけではない。


 そう思えることが、怖くもあり、少しだけ救いでもあった。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【曜日境界:

 接近】


【暦日判定:

 祝日終了】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 終了判定中】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 姿勢安定】



「来た」


 相沢は小さく言った。


 リリアが顔を上げる。


「戻るのですか」


「分からない」


「また、分からないのですね」


「ああ」


「では、座っていてください」


「座ってる」


「手は」


 相沢は自分の手を見る。


 また握りかけていた。


 ゆっくり開く。


「開いた」


「よろしいです」


 リリアは静かに頷いた。


 広場では、ミナがこちらを見た。


 何かを察したのだろう。


 相沢は小さく頷いた。


 ミナの顔が強張る。


 だが、板から離れない。


 呼ぶ役に何かを言っている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 そのまま。


 相沢は息を吐いた。


 遠く、北からダリオの声が届く。


「まだ」


 まだ。


 まだ終わらない。


 でも、今はそれでいい。


 表示が変わった。



【帰還条件:

 一致】


【帰還処理:

 開始】


【滞在状態:

 終了】



「あ」


 相沢の声が漏れた。


 リリアが手を伸ばす。


「アイザワ殿」


「リリアさん」


 言い切る前に、視界が白くなった。


 火の匂い。


 水桶の音。


 遠くの声。


 ミナの声。


「火、水、呼ぶ!」


 ガンツの低い声。


「前を見ろ!」


 そして、ダリオの声。


「まだ」


 次の瞬間、相沢は畳の上に倒れていた。


     ◇


【火曜日 0:00/大阪・自室】


 蛍光灯は消えていた。


 部屋は暗い。


 カーテンの隙間から、街の光が細く入っている。


 冷蔵庫の低い音。


 スマホの充電ランプ。


 畳の匂い。


 大阪の部屋だった。


 相沢はしばらく動けなかった。


 体が重い。


 だが、痛みはない。


 血もない。


 腕も足も動く。


 戻った。


 戻れた。


 相沢はゆっくり体を起こした。


 スマホを見る。


 火曜日。


 0:00。


 三連休は終わっている。


 月曜日は、祝日だった。


 だから残れたのかもしれない。


 火曜日になったから帰ったのかもしれない。


 そう考えれば、筋は通る。


 だが、あの表示は何だった。


 照合中。


 終了判定中。


 いつもより、少しだけ重かった。


 相沢はスマホを握ったまま、畳に座り込む。


 頭の中に、まだ声が残っている。


 助けて。


 誰かの名前。


 森の奥の声。


 それから、ミナの声。


 火、水、呼ぶ。


 相沢は深く息を吐いた。


 村は、崩れていなかった。


 自分が消える瞬間も、ミナは板の前にいた。


 ガンツは前を見ていた。


 ダリオは森を見ていた。


 リリアは手を伸ばしていた。


 ハルトは井戸を守っているはずだった。


 マルタは倉庫を閉じているはずだった。


 相沢はスマホの画面を見た。


 火曜日。


 仕事の日。


 展示会明けの片づけ。


 御礼メール。


 見積もり。


 サンプル。


 七瀬への連絡。


 現実が、何事もなかったように並んでいる。


 だが、相沢の耳には、まだ北の声が残っていた。


「まだ」


 相沢は暗い部屋で、小さく呟いた。


「まだ、終わってない」


 スマホの画面が、冷たく光っていた。

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