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第九十四話 月曜日の朝

【月曜日 5:21/治療所前】


 朝が来た。


 相沢は、それを見ていた。


 帰っていない。


 大阪の部屋ではない。


 天井でもない。


 治療所前の低い屋根。


 湿った土の匂い。


 小さな火の匂い。


 遠くで動く桶の音。


 異世界の朝だった。


 月曜日。


 祝日。


 三連休の最後の日。


 相沢はそのことを知っている。


 だが、それで答えが出たわけではない。


 祝日だから残れたのか。


 帰還条件が乱れているのか。


 まだ分からない。


 視界の端には、夜から何度も出ている表示が残っている。



【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【暦日判定:

 祝日】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 中〜高】


【推奨:

 水分摂取】



「また水か」


 相沢は小さく呟いた。


 横から器が出てきた。


 リリアだった。


「表示より早く出せました」


「競争になってますね」


「ミナが始めました」


「広がってる」


 相沢は水を受け取った。


 飲む前に、器の印を見る。


 丸。


 確認済み。


 それを見てから飲んだ。


 冷たい。


 少し土の匂いがある。


 だが、昨日より怖くない。


 怖くない理由は、水が安全だと完全に分かったからではない。


 確認する手順があるからだ。


「顔が少し戻りました」


 リリアが言った。


「そうですか」


「はい。ただ、まだ無理をする顔です」


「顔、便利すぎませんか」


「悪用しないので安心してください」


「すでにされています」


 リリアは少しだけ笑った。


 治療所の中から、子供の咳が聞こえる。


 昨日より弱い。


 悪い意味ではない。


 喉を裂くような咳ではなく、眠りから戻る咳だった。


「熱の子は」


「まだ見ます。ですが、水は飲めています」


「飴は」


「まだ」


「はい」


 リリアは相沢を見る。


「今日は、どうなりますか」


 相沢は答えようとして、止まった。


 どうなるか。


 分からない。


 赤ゴブリンは昨日、何度も村を見た。


 井戸。


 北。


 伝令。


 火。


 南。


 相沢。


 そして夜中に姿を見せた。


 攻撃ではなく、反応確認。


 なら次は、もっと狙いを絞ってくる。


「分かりません」


 相沢は言った。


「ただ、昨日より嫌な日になる気がします」


 リリアは驚かなかった。


「では、朝のうちに食べてください」


「そこですか」


「そこです」


 相沢は反論できなかった。


     ◇


【月曜日 5:47/広場中央】


 広場は、朝の板に変わっていた。


 夜の三つ。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 そこから、朝の五つへ。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 ミナは眠そうだった。


 だが、板の前に立っている。


 昨日より、描く手が速い。


 速すぎない。


 必要な分だけ置く。


 その横で、記録係が残す板を見ていた。


 夜中の赤の出現。


 相沢の表示変化。


 日が変わっても、相沢が消えなかったこと。


 その全部を、見る板には置かない。


 残す板にだけ残す。


「戻らなかったね」


 ミナが小さく言った。


 相沢は少しだけ顔を上げる。


「ああ」


「戻るかもしれなかった?」


「ああ」


「今も、分からない?」


「分からない」


「残れたのか、戻れなくなったのか」


 相沢はミナを見る。


 ミナは板を見ていた。


 月曜日も祝日も、ミナには分からない。


 だが、相沢が日付の変わり目を気にしていたことは分かっている。


 そして、消えなかったことも分かっている。


「そうだな」


 相沢は言った。


「そこは、まだ分からない」


「じゃあ、分からないまま?」


「分からないまま置く」


 ミナは少し考えた。


「昨日の水と同じ?」


「近い」


「水は死んでない。でも疑われた」


「ああ」


「回し屋も、戻ってない。でも理由は分からない」


「そう」


「じゃあ、勝手に決めない」


 相沢は頷いた。


「それでいい」


 ミナは板に何も足さなかった。


 相沢の帰還条件。


 日が変わっても残ったこと。


 その不安は、広場の見る板には載せない。


 今見るべきものではないからだ。


     ◇


【月曜日 6:12/井戸前】


 ハルトは井戸へ続く道を見ていた。


 昨日、石が置かれていた場所。


 そこには、もう石はない。


 だが、跡は残っている。


 小さな黒い汚れ。


 踏み固められた土。


 ぼやけた足跡。


 それらを、ハルトは朝一番に見た。


「今日は何もない」


 村の男が言った。


「今はな」


 ハルトが答える。


「今は、か」


「昨日も、朝まで分からなかった」


「また置かれると思うか」


「分からない」


 村の男は少しだけ眉を寄せる。


 昨日なら、分からないという言葉に不安が増した。


 だが、今日は少し違う。


 分からないまま、見る。


 それを一度やった。


「道を見る」


 ハルトが言う。


「石。泥。草。足跡」


 村の男が続ける。


「桶を見る」


 避難民の若い男が言う。


「印。縄。置き場所」


「水を見る」


 ハルトが言う。


「色。匂い。濁り」


 村の男が頷く。


「飲む前に見る」


「そうだ」


 手順が並ぶ。


 声に出す。


 それだけで、少し落ち着く。


 そこへ相沢が来た。


 走ってはいない。


 歩いている。


 ハルトが先に言った。


「水はまだ死んでない」


「先に言われた」


「聞く顔をしてた」


「顔に出すぎだな」


「便利だ」


「悪用するな」


 ハルトは少しだけ笑った。


 井戸の周りは、昨日より静かだった。


 完全に安心したわけではない。


 だが、騒がない。


「今日は、最初の水を捨てる?」


 相沢が聞いた。


 ハルトは首を振る。


「昨日より少なくていい。道に異常なし。縁にもなし。匂いもない」


「使う?」


「見る水を一回取る。それで変わらなければ使う」


「いい」


「また何でもいいって」


「今のは本当にいい」


 ハルトは鼻を鳴らした。


「井戸は俺が見る」


「ああ」


「お前は全部見るな」


 相沢は少し止まった。


 それから頷く。


「分かった」


「本当か」


「信用ないな」


「ない」


「正しい」


 ハルトは短く笑った。


     ◇


【月曜日 6:39/倉庫前】


 倉庫では、朝の仕分けが始まっていた。


 昨日の続き。


 無事。


 怪しい。


 駄目。


 透明な袋。


 布袋の紐。


 板の記録。


 マルタは、昨日よりも少しだけ機嫌が良さそうだった。


 ただし、顔は怖い。


「今日は塩を開けるよ」


 マルタが言った。


 相沢は少し身構える。


「少量だけです」


「分かってるよ」


「見せすぎると揉めます」


「分かってる」


「使い方を決めてから」


「分かってるって言ってるだろ」


「はい」


 マルタが相沢を睨む。


「今の『はい』は、癖かい」


「マルタさんにはいいかと」


「まあ、いいけどね」


 マルタは小さな包みを見る。


 塩。


 村人にも分かるもの。


 だが、きれいすぎる。


 粒が揃いすぎている。


 量は多くない。


 だが、今の村には、強い。


「これは飯をうまくするためじゃない」


 マルタが周囲に言った。


 集まっていた女たちが頷く。


「病人用。水を飲ませる時。汗をかいた者。力仕事で倒れそうな者。そういう時に、ほんの少し使う」


 相沢は黙って聞いていた。


 ほぼ、言おうとしていたことだった。


 マルタは続ける。


「粥全体に入れたら、一瞬でなくなる。全員が欲しがる。だから入れない」


 若い女が聞く。


「味が良くなるのに?」


「良くなる」


 マルタは否定しない。


「だから駄目だ」


 広場が少し静かになる。


「うまいものは、揉める。今は揉める余裕がない」


 その言い方は厳しい。


 だが、正しい。


 相沢は頷いた。


「使う量は、計量スプーンで決めます」


 相沢は小さな計量スプーンを出した。


 マルタがそれを見る。


「小さいね」


「小さく使うためです」


「いい道具だ」


 マルタは素直に言った。


「だが、これがなくても同じくらいで使えるようにする」


「はい」


「木の匙を削らせる。これと同じくらい」


「それがいいです」


「いい、じゃない。やる」


「分かりました」


 塩は、宝ではなく、運用に入った。


 それが大事だった。


     ◇


【月曜日 7:18/広場中央】


 朝の粥は、昨日より少しだけ落ち着いて配られた。


 薄い。


 だが、遅れは少ない。


 井戸の確認が早かった。


 倉庫の仕分けが進んでいた。


 マルタが塩を粥に入れなかったことに、不満は少し出た。


 だが、先に説明していた分、広がらなかった。


「塩、入れないの?」


 子供が聞いた。


 母親が止める前に、ミナが答えた。


「今日は入れない」


「なんで」


「なくなるから」


「少しだけ」


「少しだけを、病気の人に使う」


「ふうん」


 子供は完全には納得していない。


 だが、それ以上言わなかった。


 小さい説明。


 小さい納得。


 全部は無理でも、少し止まる。


 相沢は椀を受け取った。


 今日も薄い。


 だが、温かい。


 飲み込む。


 体に入る。


 その時、表示が浮かぶ。



【食糧運用:

 分配継続】


【塩:

 限定使用設定】


【混乱要因:

 抑制】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 摂食継続】



「摂食継続」


 相沢は呟いた。


 ミナが横から見る。


「食べろって?」


「ああ」


「じゃあ食べて」


「食べてる」


「考えてる顔」


「顔」


「便利」


「悪用が広がってる」


 ミナは少しだけ笑った。


 その笑いを見て、相沢は少し安心した。


 笑える。


 まだ。


     ◇


【月曜日 7:56/北柵】


 北では、夜番が交代した。


 ガンツはまだいる。


 ダリオもいる。


 交代の意味が薄い。


 だが、二人とも座る時間は増やした。


 それだけでも違う。


 相沢が北へ行くと、ガンツがすぐ睨んだ。


「何しに来た」


「朝の確認」


「座ってろ」


「歩いて来ただけだ」


「歩くなとは言ってねぇ。来るなと言ってる」


「厳しいな」


「信用してねぇからな」


「それは正しい」


 ガンツは舌打ちした。


「自分で言うな」


 ダリオが森を見たまま言った。


「今日は、まだ普通に近い」


「まだ?」


 相沢が聞く。


「まだ」


「赤は?」


「見えない」


「痕跡は」


「少ない」


「昨日、見たいものを見たから?」


「たぶん」


 ガンツが低く言う。


「次は何をしてくる」


 相沢は森を見る。


 見えない。


 相沢には、木々しか見えない。


「赤は、昨日、こっちが崩れにくくなってるのを見た」


「ああ」


「だから、次は崩すより、切り離すかもしれない」


「何を」


「役を」


 ガンツの顔が険しくなる。


 ダリオの目も、少しだけ動いた。


「火を見る人を火から離す。呼ぶ役を迷わせる。井戸役を井戸から動かす。俺を広場から動かす」


「役を場所から剥がすってことか」


「ああ」


 ガンツは槍を握る。


「なら、場所から動くなって話だ」


「そう」


「簡単だな」


「簡単じゃない」


「だろうな」


 ダリオが短く言う。


「声」


「声?」


 相沢が聞く。


「人は、声で動く」


 ガンツが頷く。


「助けを呼ばれたら動く」


「子供の声なら、もっと動く」


 相沢は黙った。


 昨夜、南の小屋で子供が泣いた。


 あれは自然な泣き声だった。


 だが、赤がそれを使うなら。


「声の確認が必要だな」


 相沢が言う。


「どうやってだ」


 ガンツが聞く。


「呼ばれたら、まず場所を返す。誰が、どこで、何を見たか」


「泣き声だけでは動かない」


「そう」


 ガンツは少し嫌そうな顔をした。


「嫌な決まりだな」


「ああ」


「でも、いる」


「いる」


 ダリオが森を見たまま言った。


「声は、見えない」


 相沢は頷いた。


「だから、返す」


     ◇


【月曜日 8:34/広場中央】


 朝の小さな場が作られた。


 全員ではない。


 各役。


 村長。


 ミナ。


 マルタ。


 ハルト。


 リリア。


 ガンツからの伝令。


 ダリオは北。


 相沢は座っている。


 議題は、声だった。


「声で動かされる可能性があります」


 相沢が言った。


 村長が頷く。


「子供の声、怪我人の声、助けを求める声ですね」


「はい」


 ミナの顔が強張る。


「助けてって聞こえたら、どうするの」


「すぐ走らない」


「でも」


「まず返す」


「返す?」


「誰。どこ。何」


 相沢は板に三つだけ描いた。


 人の印。


 場所の印。


 目の印。


「声がしたら、呼ぶ役はこれを聞く。誰が、どこで、何を見たか」


 ハルトが低く言う。


「見てない声なら、動かない」


「そう」


「でも、本当に助けが必要なら」


 リリアが言う。


「近くの役が見る」


「はい。広場全体が動くのではなく、近くの役が確認する」


 マルタが腕を組む。


「倉庫の方で声がしたら、私が見る」


「井戸なら俺」


 ハルトが言う。


「治療所なら私」


 リリアが続ける。


「南なら南の組」


 ミナが言う。


「北なら北」


 村長がまとめる。


「広場は、呼ぶ」


 相沢は頷いた。


「助けないわけじゃない。助ける順番を決める」


 ミナは唇を噛んだ。


 だが、頷いた。


「嫌だけど、分かる」


「嫌な決まりほど、先に決める」


 マルタが言った。


「その場で決めると、だいたい揉める」


「そうです」


 相沢は頷いた。


 村長が板を見る。


「見る板に加えますか」


 相沢は迷う。


 ミナも迷った。


 だが、先にミナが言った。


「呼ぶの下に、小さく三つだけ」


 相沢はミナを見る。


「誰、どこ、何」


「そう。呼ぶ役だけ見る」


 村長が頷いた。


「よいでしょう」


 夜の三つ。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 その呼ぶの下にだけ、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 増やしすぎではない。


 呼ぶ役の手順だ。


     ◇


【月曜日 9:12/南の空き小屋】


 南の小屋でも、声の確認が伝えられた。


 避難民の若い男が、少し嫌そうに聞いている。


「子供が泣いたら、まず聞けってことか」


 ミナが答える。


「うん」


「泣いてるのに?」


「泣いてるだけなら、中の大人が見る」


「怪我なら」


「怪我って言う」


「言えない時は」


 ミナは止まった。


 少し考える。


 相沢は横にいたが、口を出さなかった。


 ミナが答える。


「近くの大人が見る。でも、広場全部は呼ばない」


 若い男は黙る。


 村の男が言った。


「昨日の夜、泣いたな」


「ああ」


「呼ばなかった」


「ああ」


「呼ばなくてよかった」


「そうだな」


 避難民の若い男は、少しだけ納得した顔をした。


 ミナは板に三つの印を描いた。


 人。


 場所。


 目。


「声がしたら、これ」


 子供が見る。


「誰、どこ、何?」


「そう」


「泣いてるだけは?」


「近くの大人」


「火は?」


「すぐ言う」


「入口は?」


「ふさがない」


 子供は頷いた。


 小屋の中に、少しずつ手順が入る。


 怖さは消えない。


 だが、怖い時に何を見るかは、少しずつ決まっていく。


     ◇


【月曜日 10:03/倉庫前】


 塩の小分けが始まった。


 量は少ない。


 透明な袋に入れるほどではない。


 むしろ見せすぎると危ない。


 マルタは小さな陶片を三つ用意した。


 病人用。


 汗をかいた者用。


 予備。


 それぞれに印をつける。


 相沢の計量スプーンで一杯。


 それを木の匙で再現する。


 削った匙を、記録係が見比べる。


「これくらい」


 相沢が言う。


 マルタが睨む。


「これくらい、が危ないんだよ」


「はい」


「山盛りにする馬鹿が出る」


「出ます」


「だから、すりきり」


「そうです」


「すりきりって何だい」


 相沢は少し考え、匙の上を木片で払って見せた。


「盛らない。上を払う」


「なるほどね」


 マルタは木片を持つ。


「これは必要だ」


「はい」


「匙だけ渡すと、盛る」


「はい」


「払う木も一緒に置く」


「はい」


 若い女が言う。


「細かい」


 マルタが即答する。


「細かいから残るんだよ」


 相沢は黙って頷いた。


 食品メーカーの現場で見てきた小さな違い。


 すりきり。


 小分け。


 表示。


 置き場所。


 それが、ここではそのまま命に近い。


 だが、言いすぎない。


 全部を現代の理屈で押さない。


 村の道具に置き換える。


 マルタがそれをやっている。


「これは、私が持つ」


 マルタが塩をしまう。


「勝手に使ったら」


 若い女が聞く。


「飯抜き」


 周囲が少し笑う。


 マルタは笑わない。


「本気だよ」


 笑いが止まった。


     ◇


【月曜日 10:49/広場中央】


 広場に、短い声が走った。


「南で声!」


 呼ぶ役が反応する。


 ミナがすぐ板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 呼ぶの下の三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


「誰!」


 呼ぶ役が聞く。


 伝令が少し詰まる。


「子供!」


「どこ!」


「南の小屋!」


「何を見た!」


「……見てない! 声だけ!」


 広場が動きかける。


 だが、ミナが叫んだ。


「近くの大人が見る! 広場はそのまま!」


 相沢は立たなかった。


 立ちかけたが、止めた。


 ミナが処理している。


 南の組が見る。


 広場は動かない。


 少しして、南から返事が来た。


「子供が転んだだけ! 怪我なし! 火なし! 入口空いてる!」


 広場が息を吐く。


 ミナも息を吐いた。


 相沢はゆっくり座り直す。


 今のは、ただの事故かもしれない。


 だが、練習になった。


 声に、村が引っ張られなかった。


 ミナが相沢を見る。


「今、立とうとした?」


「少し」


「見た」


「悪かった」


「座って」


「座ってる」


 ミナは少しだけ得意そうにした。


「私、聞けた」


「ああ」


「誰、どこ、何」


「できてた」


「かなり良い?」


「かなり良い」


 ミナは満足そうに頷いた。


     ◇


【月曜日 11:26/北柵】


 北からは、南の声騒ぎも聞こえていた。


 ガンツが広場の方を見る。


「動かなかったな」


 ダリオが答える。


「動かなかった」


「赤か?」


「分からない」


「ただの子供か」


「かもしれない」


「でも、試しにはなった」


「なった」


 ダリオは森を見る。


「森が少し変」


 ガンツの顔がすぐ変わる。


「赤か」


「見えない」


「何が変だ」


「音が遅い」


「音?」


「南の声の後、森が静かになるのが遅かった」


 ガンツは眉を寄せる。


「それは、どういう意味だ」


「森の奥にも、聞いてるものがいる」


「赤か」


「たぶん」


 ガンツは槍を握る。


「今の声騒ぎを聞いたか」


「たぶん」


「村が動かなかったのも」


「たぶん」


 ガンツは低く息を吐いた。


「見られてるな」


「見てる」


 ダリオは短く言った。


 その声には、焦りはない。


 ただ、警戒があった。


「次は来るか」


「分からない」


「嫌な日だな」


「まだ午前」


「余計嫌だ」


     ◇


【月曜日 12:08/広場中央】


 昼前。


 空気が重くなった。


 暑さではない。


 疲れと警戒で、村全体が少し沈んでいる。


 相沢は板を見る。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 そして呼ぶの下に、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 増えた。


 だが、必要な増え方だった。


 ただし、これ以上増やせない。


 相沢はそう判断した。


 その時、視界の端に表示が出た。



【集落運用:

 昼間維持】


【声誘導対策:

 暫定導入】


【情報混在:

 軽度上昇】


【疲労:

 累積】


【推奨:

 昼食前休息】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 本人含む】



「本人含む」


 相沢は呟いた。


 ミナがすぐ反応する。


「休む?」


「昼食前に少し」


「珍しい」


「学習した」


「赤より?」


「そこはまだ分からない」


 ミナは少し笑った。


 だが、その笑いの途中で、北から笛が鳴った。


 一度。


 短く。


 続けて、もう一度。


 広場の空気が変わる。


 呼ぶ役が声を張る。


「北、何!」


 伝令が来る。


 走らない。


 だが、かなり速い。


 顔が白い。


「北、影!」


 ミナが聞く。


「赤は?」


「見えない!」


「数は!」


「分からない!」


「攻撃は!」


「まだ!」


「何を見た!」


 伝令は息を詰まらせた。


 それから言った。


「森の端に、人がいる!」


 広場が止まった。


 人。


 ゴブリンではない。


 人。


 その言葉は、昨日までのどの声よりも強く、村を揺らした。


     ◇


【月曜日 12:16/北柵】


 森の端に、人影があった。


 小さい。


 痩せている。


 服は破れている。


 子供にも見える。


 大人にも見える。


 距離がありすぎて、分からない。


 ガンツは槍を握ったまま、低く言った。


「人か」


 ダリオは弓を構えていない。


 だが、矢は手にある。


「人に見える」


「人かどうかは」


「分からない」


 相沢は北柵に来ていた。


 呼ばれた。


 自分から走ったわけではない。


 だが、来た。


 見て、背中が冷えた。


 森の端。


 人影。


 助けを求めるように、片手が上がっている。


 声はない。


 ただ、立っている。


「罠だな」


 ガンツが言った。


 言い切った。


 相沢も頷きそうになった。


 だが、止める。


「罠かもしれない」


「同じだ」


「違う」


 相沢は短く言った。


「本当に人かもしれない」


 ガンツがこちらを見る。


「なら助けに行くのか」


「行かない」


「なら同じだ」


「違う。行かない理由を間違えると、後で崩れる」


 ガンツは黙った。


 相沢は森を見る。


 人影は動かない。


 助けを求める手。


 だが、声がない。


 周りの森が静かすぎる。


 ダリオが言った。


「周りに鳥がいない」


「赤は」


「見えない」


「他の影は」


「見えない」


「足元は」


「見えない」


 相沢は息を吐く。


 助けたい。


 その感情はある。


 だが、動けば終わる。


 森へ出れば、赤の場所だ。


 村から役が剥がれる。


 前に出る者が増える。


 広場が北を見る。


 水も火も止まる。


「呼ぶ役に伝える」


 相沢は言った。


「北、森の端に人影。救助に出ない。広場はそのまま。南、井戸、倉庫、治療所、全てそのまま」


 若い見張りが頷く。


 ガンツが低く言う。


「きついな」


「ああ」


 相沢は森を見る。


 人影の手が、少しだけ揺れた。


 胸の奥が、嫌な音を立てた。


「きつい」


 それでも、相沢は動かなかった。


     ◇


【月曜日 12:24/広場中央】


 報告を聞いた広場は、今度こそ大きく揺れた。


「人?」


「生き残り?」


「助けないのか?」


「子供か?」


 声が重なる。


 ミナが板の前に立つ。


 顔は白い。


 だが、声は出た。


「広場、そのまま!」


 ざわめきは止まらない。


 当然だった。


 人がいる。


 森の端に。


 助けを求めているかもしれない。


 それを見て、動かない。


 簡単なことではない。


 村長が前に出た。


「誰も森へ出ません」


 声は静かだった。


 だが、広場に通った。


「確認は北が行います。広場は火、水、呼ぶを維持します」


 村人の一人が言った。


「でも、本当に人なら」


 村長はその男を見る。


「だからこそ、全員で動いてはいけません」


 男は黙らない。


「見捨てるのか」


 その言葉が、広場に落ちた。


 重い。


 避難民の何人かが顔を伏せる。


 自分たちも、見捨てられなかったからここにいる。


 その記憶がある。


 ミナの手が震える。


 相沢はいない。


 北にいる。


 ここは、広場が判断しなければならない。


 ハルトが井戸側から歩いてきた。


「森に出たら、井戸が空く」


 低い声だった。


 男が振り返る。


「今は井戸の話じゃ」


「井戸の話だ」


 ハルトは言った。


「水が止まれば、ここにいる全員が困る。助けるなら、助け方を決めてからだ」


 マルタも続ける。


「倉庫も同じだよ。全員が北を見たら、飯が死ぬ」


 リリアが治療所前から言う。


「治療所も動かしません。怪我人を受ける準備だけします」


 村長が頷いた。


「助けないのではありません。崩れずに助ける方法を探します」


 ミナが板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 そして、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 ミナは震える声で言った。


「誰か、分からない。どこ、森の端。何を見た、人影。まだ、それだけ」


 広場が少し静まった。


「それだけで全員は動かない」


 ミナは続けた。


「北が見る。広場は、戻す」


 声は弱かった。


 だが、言った。


     ◇


【月曜日 12:39/北柵】


 人影は、まだ森の端にいた。


 動かない。


 倒れない。


 近づかない。


 ただ、手を上げている。


 ガンツが低く言う。


「長すぎる」


 ダリオも頷く。


「人なら、動く」


「怪我で動けないなら?」


 相沢が聞く。


「倒れる」


「立ったままは変か」


「変」


 ダリオは矢を番えた。


 人影を狙ってはいない。


 その周囲を見ている。


「撃つなよ」


 ガンツが言う。


「撃たない」


「人かもしれねぇ」


「撃たない」


 ダリオの声は変わらない。


 相沢は森を見る。


 喉が渇く。


 助けたい。


 助けたいと思う自分がいる。


 同時に、行くなと言う自分もいる。


 そして、赤がそれを見ている気がする。


 人影の手が、もう一度揺れた。


 その時、ダリオが短く言った。


「手じゃない」


 ガンツが反応する。


「何」


「あれは、手じゃない」


 相沢は目を凝らす。


 分からない。


「布?」


 ダリオは矢先を少し動かす。


「枝に結んでる」


 ガンツが息を吐く。


「人じゃねぇのか」


「服はある。中身がないかもしれない」


 相沢の背中が冷えた。


 服。


 枝。


 人影に見せたもの。


 助けを求める手に見せた布。


 赤ゴブリンは、声の次に形を使った。


 人を動かす形。


「伝令」


 相沢が言った。


「人影ではない可能性。服か布。森に出ない。広場はそのまま」


 伝令が頷く。


 ガンツが森を睨む。


「悪趣味だな」


「ああ」


 相沢は低く答えた。


 腹の底が冷えていた。


 これは、ただの魔物の動きではない。


 村人の心を、明確に狙っている。


     ◇


【月曜日 12:52/広場中央】


 報告が戻る。


「人影ではない可能性! 服か布! 森へ出ない!」


 広場が大きく息を吐いた。


 怒りも混じる。


 安堵も混じる。


 気持ち悪さも混じる。


「人じゃなかったのか」


「分からないって」


「服って何だ」


「誰の服だ」


 また揺れかける。


 ミナが声を出す。


「誰かは、まだ分からない! 北が見る! 広場はそのまま!」


 今度は、さっきより少し強かった。


 村長が頷く。


「見えたものだけを扱います」


 マルタが低く言う。


「嫌なものを見せられたね」


 ハルトが井戸側へ戻りながら言った。


「だから、動くな」


 リリアは治療所の入口を少し広げた。


 怪我人を受ける準備。


 だが、人を出さない。


 それぞれが、自分の場所で嫌なものを受け止める。


 広場は、森へ流れなかった。


     ◇


【月曜日 13:18/北柵】


 ダリオは矢を放った。


 人影ではない。


 その上の枝。


 布を吊っている細い枝。


 矢が枝を折る。


 人影が崩れた。


 服のようなものが、低い草へ落ちる。


 中身はない。


 少なくとも、立っていた人間ではない。


 ガンツが低く唸る。


「人形か」


「たぶん」


 ダリオが言う。


「取りに行くか」


 ガンツが聞く。


 相沢は首を振る。


「行かない」


「情報にはなる」


「なる。でも、今じゃない」


 ガンツは少しだけ笑った。


「お前が言うなら、今回は信用する」


「珍しいな」


「少しはな」


 相沢は森を見る。


 人影は崩れた。


 だが、森の奥は静かだ。


 赤は見えない。


 見えないが、見ている。


 たぶん。


 相沢は拳を握った。


 助けを求める形。


 それを使ってきた。


 次は、もっと直接来る。


 そう思った。


     ◇


【月曜日 13:42/広場中央】


 昼の粥は、また遅れた。


 だが、今度の遅れは昨日より小さかった。


 広場が一度揺れた。


 人影で揺れた。


 それでも、火と水と呼ぶは残った。


 食料の配膳も戻った。


 マルタが椀を配りながら言う。


「今日は、嫌なものを見た。だから食いな」


 誰も文句を言わなかった。


 薄い粥。


 塩は入っていない。


 だが、温かい。


 ミナは椀を持ったまま、相沢の隣に座った。


「人じゃなかった」


「ああ」


「よかったって思った」


「俺も」


「でも、服だった」


「ああ」


「誰かの服かもしれない」


「そうだな」


 ミナは唇を噛んだ。


「嫌だね」


「嫌だ」


「赤いの、嫌だね」


「ああ」


 相沢は椀を見る。


 薄い粥。


 温かい。


 人影に見えた布。


 助けを求める手に見えた枝。


 それでも、村は昼飯を食べている。


 食べる。


 残さない。


 その地味な行為が、今日はやけに強く見えた。


 表示が浮かぶ。



【敵誘導:

 人影偽装】


【集落反応:

 動揺/復帰】


【救助衝動:

 発生】


【過剰移動:

 抑制】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 摂食継続】



「食べろって」


 ミナが言った。


「見えたのか?」


「顔」


「便利すぎる」


「食べて」


「ああ」


 相沢は粥を飲んだ。


 薄い。


 だが、飲み込んだ。


     ◇


【月曜日 14:27/広場中央】


 昼食後、村長が短く言った。


「今日、我々は森へ出ませんでした」


 広場の何人かが顔を上げる。


「人かもしれないものを見ても、出ませんでした。これは、簡単なことではありません」


 静かな声だった。


「見捨てたのではありません。崩れずに見ることを選びました」


 相沢は村長を見る。


 村長は続ける。


「助けるためには、助ける側が崩れてはいけません」


 その言葉は、広場にゆっくり落ちた。


 避難民の女が、子供の肩を抱く。


 ハルトが井戸の方から聞いている。


 マルタが倉庫前で腕を組む。


 リリアが治療所の入口に立つ。


 ミナが板の前にいる。


 ガンツとダリオは北。


 それぞれの場所で、聞いている。


「森のものは、後で確認します。今は出ません」


 村長は言った。


「今は、火、水、呼ぶ。人、水、食料、仕事、休む人。それを戻します」


 ミナが板を見る。


 戻す。


 広場が少しずつ動き出す。


 相沢は、村長の背中を見ていた。


 自分が言わなくても、村長が言った。


 それが大きかった。


     ◇


【月曜日 15:03/北柵】


 森の端に落ちた服は、そのままだった。


 風で少し動く。


 人には見えない。


 もう、ただの布に近い。


 だが、誰のものかは分からない。


 ガンツが言う。


「夕方まで放っておくか」


 ダリオが答える。


「放る」


「夜は?」


「見えない」


「じゃあ、取りに行くなら夕方前か」


 相沢は首を振る。


「取りに行かない」


「ずっとか」


「今日中は」


「情報を捨てることになる」


「ああ」


 ガンツは相沢を見る。


「前なら、取りに行くって言いそうだったな」


「言ったかもな」


「今は?」


「行きたい。でも行かない」


「それでいい」


 ダリオが短く言った。


 相沢は少しだけ笑いそうになった。


 ダリオにそれでいいと言われる日が来るとは思っていなかった。


「赤は見てるか」


 相沢が聞く。


「たぶん」


「見えてる?」


「見えてない」


「でも、見てる」


「たぶん」


 相沢は森を見る。


 今日、赤ゴブリンはまた一つ知った。


 村は、人影を見ても森へ出ない。


 それは強さでもある。


 同時に、次はもっと強い人影を使うかもしれない。


 声。


 形。


 次は、名前かもしれない。


 相沢は嫌な想像をした。


 誰かの名前を呼ぶ声。


 ミナ。


 ハルト。


 リリア。


 回し屋。


 もし、森の奥から自分を呼ぶ声がしたら。


 相沢は、動かずにいられるのか。


 答えは出なかった。


     ◇


【月曜日 15:41/広場中央】


 午後の板に、小さな項目が足された。


 見る板ではない。


 残す板。


 赤の誘導。


 石。


 鳥。


 小ゴブリン。


 人影。


 記録係が書く。


 相沢が補う。


 ミナが横で見ている。


「嫌な記録」


 ミナが言った。


「必要な記録」


「次に使う?」


「使われたくないけど、使う」


「石、鳥、小さいの、人影」


「次は声かもしれない」


 ミナの顔が強張る。


「声は嫌」


「俺も嫌だ」


「誰かの声?」


「分からない」


「また分からない」


「分からないまま、用意する」


 ミナは板を見る。


 誰。


 どこ。


 何。


「声がしたら、これ」


「そう」


「名前を呼ばれても?」


 相沢は少し止まった。


「それでも、これ」


「回し屋って呼ばれても?」


「それでも」


「私が呼ばれても?」


「それでも」


 ミナは黙った。


 少し怒ったような顔だった。


 だが、怒っている相手は相沢ではない。


 たぶん、赤ゴブリンだ。


「嫌な決まり」


「ああ」


「でも、決める」


「ああ」


 ミナは残す板に、小さく書き足した。


 声。


 名前でも、すぐ走らない。


 相沢はそれを見て、喉の奥が少し重くなった。


     ◇


【月曜日 16:28/治療所前】


 熱の子が、少し目を開けた。


 リリアが水を含ませる。


 相沢は入口の外にいる。


 中へは入らない。


 見すぎない。


 任せる。


 子供が小さく言った。


「甘いの」


 相沢の手が止まる。


 リリアも少しだけ止まった。


 昨日、飴のことを覚えたのか。


 それとも、誰かが話したのか。


 分からない。


 リリアは静かに言った。


「今は水です」


「甘いの」


「水を飲めたら、考えます」


 子供は弱く顔をしかめる。


 相沢は口を出しかけた。


 出さない。


 リリアが見る。


 リリアが決める。


 子供は少しだけ水を飲んだ。


 咳き込む。


 だが、吐かなかった。


 リリアは頷いた。


「少しだけ使います」


 相沢は飴を出した。


 ひとつ全部ではない。


 砕いた小さな欠片。


 リリアがそれを受け取る。


 子供の口へ入れる。


 子供の顔が、ほんの少しだけ緩む。


 相沢は胸が詰まった。


 現代なら、どうでもいい飴。


 ここでは、水を飲むための道具になる。


 そして、揉める火種にもなる。


 リリアはすぐに言った。


「これは薬の前です。甘いものではありません」


 入口にいた女たちが頷く。


 マルタがいつの間にか来ていた。


「今のを聞いたね」


 女たちが頷く。


「欲しがったから出すんじゃない。飲ませるために使う。勝手に求めたら、出さない」


 厳しい。


 だが、必要だった。


 相沢は何も足さなかった。


 飴も、運用に入った。


     ◇


【月曜日 17:12/広場中央】


 夕方の板を作る時間が来た。


 朝から増えたものが多すぎる。


 声。


 名前。


 人影。


 塩。


 飴。


 帰還条件。


 赤ゴブリン。


 どれも重要だ。


 だが、夜の見る板には置けない。


 ミナは板の前で、木炭を持たずに立っていた。


「今日も三つ?」


 ミナが聞く。


「三つ」


 相沢が答える。


「火、水、呼ぶ」


「そう」


「呼ぶの下に、誰、どこ、何」


「それは残す」


「北は?」


「北が見る」


「声は?」


「呼ぶが見る」


「人影は?」


「北が見る。広場は出ない」


「戻らなかったことは?」


 相沢は止まった。


 ミナがこちらを見る。


「それは」


 相沢は少し息を吐く。


「俺が保留する」


「一人で?」


「表示は俺にしか見えない」


「でも、回し屋が変だと広場が見る」


「だから、リリアさんと村長にだけ伝える」


「私は?」


 ミナの声が少し硬くなる。


 相沢は迷った。


 だが、言う。


「ミナにも伝える。ただ、板には載せない」


 ミナは少しだけ表情を緩めた。


「分かった」


「隠すんじゃない。広場に置かない」


「渡す?」


「ああ。リリアさん、村長、ミナに渡す」


「じゃあ、広場からは消す」


「そう」


 ミナは頷いた。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 呼ぶの下に、小さく三つ。


 誰。


 どこ。


 何。


 夜の板は、それだけになった。


     ◇


【月曜日 18:03/広場中央】


 夜が近づく。


 森が暗くなる。


 人影に使われた布は、まだ森の端に落ちている。


 誰も取りに行っていない。


 それを不満に思う者もいる。


 怖いと思う者もいる。


 正しい判断だと思う者もいる。


 全部ある。


 だが、村は動いている。


 火を小さくする。


 水を分ける。


 病人用を準備する。


 南の小屋の入口を確認する。


 北の交代を組む。


 休む人を、見えない場所へ送る。


 相沢は座って見ている。


 今日は、自分から座った。


 そのことに、ミナが少し驚いた顔をした。


「自分で座った」


「見なくていいものが多すぎる」


「見るために?」


「減らす」


 ミナは少し笑った。


「覚えたね」


「遅いけどな」


「遅くても、覚えた」


 その時、表示が浮かぶ。



【夜間運用:

 移行準備】


【敵誘導履歴:

 蓄積】


【集落反応:

 維持】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 夕食摂取】



「夕食摂取」


 相沢は言った。


 ミナが椀を出す。


「はい」


「早い」


「オカンより早く」


「勝たなくていい」


「今日は勝つ」


「何の勝負だ」


 椀の粥は薄い。


 だが、少しだけ違った。


 病人用ではない。


 全体用でもない。


 見張りと力仕事用の椀に、ほんのわずか、塩が使われていた。


 相沢は気づいた。


 ほんの少しだけ。


 味ではなく、体が気づくくらいの量。


「塩」


 相沢が言うと、ミナが頷いた。


「マルタさんが決めた。見張りと力仕事の人だけ、少し」


「全員には?」


「入れない」


「揉めなかった?」


「少し」


「どうした」


「マルタさんが睨んだ」


「強いな」


「強い」


 相沢は粥を飲んだ。


 ほんの少しの塩。


 それだけで、体が少し戻る気がした。


 食料は増えていない。


 敵も消えていない。


 帰還条件も分からない。


 だが、村は昨日より少しだけ、使うものを使えるようになっている。


 遠く、北からダリオの声がした。


「まだ」


 夜が来る。


 まだ、終わらない。


 だが、まだ持っている。

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