第九十四話 月曜日の朝
【月曜日 5:21/治療所前】
朝が来た。
相沢は、それを見ていた。
帰っていない。
大阪の部屋ではない。
天井でもない。
治療所前の低い屋根。
湿った土の匂い。
小さな火の匂い。
遠くで動く桶の音。
異世界の朝だった。
月曜日。
祝日。
三連休の最後の日。
相沢はそのことを知っている。
だが、それで答えが出たわけではない。
祝日だから残れたのか。
帰還条件が乱れているのか。
まだ分からない。
視界の端には、夜から何度も出ている表示が残っている。
⸻
【帰還条件:
照合中】
【滞在状態:
継続】
【暦日判定:
祝日】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
中〜高】
【推奨:
水分摂取】
⸻
「また水か」
相沢は小さく呟いた。
横から器が出てきた。
リリアだった。
「表示より早く出せました」
「競争になってますね」
「ミナが始めました」
「広がってる」
相沢は水を受け取った。
飲む前に、器の印を見る。
丸。
確認済み。
それを見てから飲んだ。
冷たい。
少し土の匂いがある。
だが、昨日より怖くない。
怖くない理由は、水が安全だと完全に分かったからではない。
確認する手順があるからだ。
「顔が少し戻りました」
リリアが言った。
「そうですか」
「はい。ただ、まだ無理をする顔です」
「顔、便利すぎませんか」
「悪用しないので安心してください」
「すでにされています」
リリアは少しだけ笑った。
治療所の中から、子供の咳が聞こえる。
昨日より弱い。
悪い意味ではない。
喉を裂くような咳ではなく、眠りから戻る咳だった。
「熱の子は」
「まだ見ます。ですが、水は飲めています」
「飴は」
「まだ」
「はい」
リリアは相沢を見る。
「今日は、どうなりますか」
相沢は答えようとして、止まった。
どうなるか。
分からない。
赤ゴブリンは昨日、何度も村を見た。
井戸。
北。
伝令。
火。
南。
相沢。
そして夜中に姿を見せた。
攻撃ではなく、反応確認。
なら次は、もっと狙いを絞ってくる。
「分かりません」
相沢は言った。
「ただ、昨日より嫌な日になる気がします」
リリアは驚かなかった。
「では、朝のうちに食べてください」
「そこですか」
「そこです」
相沢は反論できなかった。
◇
【月曜日 5:47/広場中央】
広場は、朝の板に変わっていた。
夜の三つ。
火。
水。
呼ぶ。
そこから、朝の五つへ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
ミナは眠そうだった。
だが、板の前に立っている。
昨日より、描く手が速い。
速すぎない。
必要な分だけ置く。
その横で、記録係が残す板を見ていた。
夜中の赤の出現。
相沢の表示変化。
日が変わっても、相沢が消えなかったこと。
その全部を、見る板には置かない。
残す板にだけ残す。
「戻らなかったね」
ミナが小さく言った。
相沢は少しだけ顔を上げる。
「ああ」
「戻るかもしれなかった?」
「ああ」
「今も、分からない?」
「分からない」
「残れたのか、戻れなくなったのか」
相沢はミナを見る。
ミナは板を見ていた。
月曜日も祝日も、ミナには分からない。
だが、相沢が日付の変わり目を気にしていたことは分かっている。
そして、消えなかったことも分かっている。
「そうだな」
相沢は言った。
「そこは、まだ分からない」
「じゃあ、分からないまま?」
「分からないまま置く」
ミナは少し考えた。
「昨日の水と同じ?」
「近い」
「水は死んでない。でも疑われた」
「ああ」
「回し屋も、戻ってない。でも理由は分からない」
「そう」
「じゃあ、勝手に決めない」
相沢は頷いた。
「それでいい」
ミナは板に何も足さなかった。
相沢の帰還条件。
日が変わっても残ったこと。
その不安は、広場の見る板には載せない。
今見るべきものではないからだ。
◇
【月曜日 6:12/井戸前】
ハルトは井戸へ続く道を見ていた。
昨日、石が置かれていた場所。
そこには、もう石はない。
だが、跡は残っている。
小さな黒い汚れ。
踏み固められた土。
ぼやけた足跡。
それらを、ハルトは朝一番に見た。
「今日は何もない」
村の男が言った。
「今はな」
ハルトが答える。
「今は、か」
「昨日も、朝まで分からなかった」
「また置かれると思うか」
「分からない」
村の男は少しだけ眉を寄せる。
昨日なら、分からないという言葉に不安が増した。
だが、今日は少し違う。
分からないまま、見る。
それを一度やった。
「道を見る」
ハルトが言う。
「石。泥。草。足跡」
村の男が続ける。
「桶を見る」
避難民の若い男が言う。
「印。縄。置き場所」
「水を見る」
ハルトが言う。
「色。匂い。濁り」
村の男が頷く。
「飲む前に見る」
「そうだ」
手順が並ぶ。
声に出す。
それだけで、少し落ち着く。
そこへ相沢が来た。
走ってはいない。
歩いている。
ハルトが先に言った。
「水はまだ死んでない」
「先に言われた」
「聞く顔をしてた」
「顔に出すぎだな」
「便利だ」
「悪用するな」
ハルトは少しだけ笑った。
井戸の周りは、昨日より静かだった。
完全に安心したわけではない。
だが、騒がない。
「今日は、最初の水を捨てる?」
相沢が聞いた。
ハルトは首を振る。
「昨日より少なくていい。道に異常なし。縁にもなし。匂いもない」
「使う?」
「見る水を一回取る。それで変わらなければ使う」
「いい」
「また何でもいいって」
「今のは本当にいい」
ハルトは鼻を鳴らした。
「井戸は俺が見る」
「ああ」
「お前は全部見るな」
相沢は少し止まった。
それから頷く。
「分かった」
「本当か」
「信用ないな」
「ない」
「正しい」
ハルトは短く笑った。
◇
【月曜日 6:39/倉庫前】
倉庫では、朝の仕分けが始まっていた。
昨日の続き。
無事。
怪しい。
駄目。
透明な袋。
布袋の紐。
板の記録。
マルタは、昨日よりも少しだけ機嫌が良さそうだった。
ただし、顔は怖い。
「今日は塩を開けるよ」
マルタが言った。
相沢は少し身構える。
「少量だけです」
「分かってるよ」
「見せすぎると揉めます」
「分かってる」
「使い方を決めてから」
「分かってるって言ってるだろ」
「はい」
マルタが相沢を睨む。
「今の『はい』は、癖かい」
「マルタさんにはいいかと」
「まあ、いいけどね」
マルタは小さな包みを見る。
塩。
村人にも分かるもの。
だが、きれいすぎる。
粒が揃いすぎている。
量は多くない。
だが、今の村には、強い。
「これは飯をうまくするためじゃない」
マルタが周囲に言った。
集まっていた女たちが頷く。
「病人用。水を飲ませる時。汗をかいた者。力仕事で倒れそうな者。そういう時に、ほんの少し使う」
相沢は黙って聞いていた。
ほぼ、言おうとしていたことだった。
マルタは続ける。
「粥全体に入れたら、一瞬でなくなる。全員が欲しがる。だから入れない」
若い女が聞く。
「味が良くなるのに?」
「良くなる」
マルタは否定しない。
「だから駄目だ」
広場が少し静かになる。
「うまいものは、揉める。今は揉める余裕がない」
その言い方は厳しい。
だが、正しい。
相沢は頷いた。
「使う量は、計量スプーンで決めます」
相沢は小さな計量スプーンを出した。
マルタがそれを見る。
「小さいね」
「小さく使うためです」
「いい道具だ」
マルタは素直に言った。
「だが、これがなくても同じくらいで使えるようにする」
「はい」
「木の匙を削らせる。これと同じくらい」
「それがいいです」
「いい、じゃない。やる」
「分かりました」
塩は、宝ではなく、運用に入った。
それが大事だった。
◇
【月曜日 7:18/広場中央】
朝の粥は、昨日より少しだけ落ち着いて配られた。
薄い。
だが、遅れは少ない。
井戸の確認が早かった。
倉庫の仕分けが進んでいた。
マルタが塩を粥に入れなかったことに、不満は少し出た。
だが、先に説明していた分、広がらなかった。
「塩、入れないの?」
子供が聞いた。
母親が止める前に、ミナが答えた。
「今日は入れない」
「なんで」
「なくなるから」
「少しだけ」
「少しだけを、病気の人に使う」
「ふうん」
子供は完全には納得していない。
だが、それ以上言わなかった。
小さい説明。
小さい納得。
全部は無理でも、少し止まる。
相沢は椀を受け取った。
今日も薄い。
だが、温かい。
飲み込む。
体に入る。
その時、表示が浮かぶ。
⸻
【食糧運用:
分配継続】
【塩:
限定使用設定】
【混乱要因:
抑制】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
摂食継続】
⸻
「摂食継続」
相沢は呟いた。
ミナが横から見る。
「食べろって?」
「ああ」
「じゃあ食べて」
「食べてる」
「考えてる顔」
「顔」
「便利」
「悪用が広がってる」
ミナは少しだけ笑った。
その笑いを見て、相沢は少し安心した。
笑える。
まだ。
◇
【月曜日 7:56/北柵】
北では、夜番が交代した。
ガンツはまだいる。
ダリオもいる。
交代の意味が薄い。
だが、二人とも座る時間は増やした。
それだけでも違う。
相沢が北へ行くと、ガンツがすぐ睨んだ。
「何しに来た」
「朝の確認」
「座ってろ」
「歩いて来ただけだ」
「歩くなとは言ってねぇ。来るなと言ってる」
「厳しいな」
「信用してねぇからな」
「それは正しい」
ガンツは舌打ちした。
「自分で言うな」
ダリオが森を見たまま言った。
「今日は、まだ普通に近い」
「まだ?」
相沢が聞く。
「まだ」
「赤は?」
「見えない」
「痕跡は」
「少ない」
「昨日、見たいものを見たから?」
「たぶん」
ガンツが低く言う。
「次は何をしてくる」
相沢は森を見る。
見えない。
相沢には、木々しか見えない。
「赤は、昨日、こっちが崩れにくくなってるのを見た」
「ああ」
「だから、次は崩すより、切り離すかもしれない」
「何を」
「役を」
ガンツの顔が険しくなる。
ダリオの目も、少しだけ動いた。
「火を見る人を火から離す。呼ぶ役を迷わせる。井戸役を井戸から動かす。俺を広場から動かす」
「役を場所から剥がすってことか」
「ああ」
ガンツは槍を握る。
「なら、場所から動くなって話だ」
「そう」
「簡単だな」
「簡単じゃない」
「だろうな」
ダリオが短く言う。
「声」
「声?」
相沢が聞く。
「人は、声で動く」
ガンツが頷く。
「助けを呼ばれたら動く」
「子供の声なら、もっと動く」
相沢は黙った。
昨夜、南の小屋で子供が泣いた。
あれは自然な泣き声だった。
だが、赤がそれを使うなら。
「声の確認が必要だな」
相沢が言う。
「どうやってだ」
ガンツが聞く。
「呼ばれたら、まず場所を返す。誰が、どこで、何を見たか」
「泣き声だけでは動かない」
「そう」
ガンツは少し嫌そうな顔をした。
「嫌な決まりだな」
「ああ」
「でも、いる」
「いる」
ダリオが森を見たまま言った。
「声は、見えない」
相沢は頷いた。
「だから、返す」
◇
【月曜日 8:34/広場中央】
朝の小さな場が作られた。
全員ではない。
各役。
村長。
ミナ。
マルタ。
ハルト。
リリア。
ガンツからの伝令。
ダリオは北。
相沢は座っている。
議題は、声だった。
「声で動かされる可能性があります」
相沢が言った。
村長が頷く。
「子供の声、怪我人の声、助けを求める声ですね」
「はい」
ミナの顔が強張る。
「助けてって聞こえたら、どうするの」
「すぐ走らない」
「でも」
「まず返す」
「返す?」
「誰。どこ。何」
相沢は板に三つだけ描いた。
人の印。
場所の印。
目の印。
「声がしたら、呼ぶ役はこれを聞く。誰が、どこで、何を見たか」
ハルトが低く言う。
「見てない声なら、動かない」
「そう」
「でも、本当に助けが必要なら」
リリアが言う。
「近くの役が見る」
「はい。広場全体が動くのではなく、近くの役が確認する」
マルタが腕を組む。
「倉庫の方で声がしたら、私が見る」
「井戸なら俺」
ハルトが言う。
「治療所なら私」
リリアが続ける。
「南なら南の組」
ミナが言う。
「北なら北」
村長がまとめる。
「広場は、呼ぶ」
相沢は頷いた。
「助けないわけじゃない。助ける順番を決める」
ミナは唇を噛んだ。
だが、頷いた。
「嫌だけど、分かる」
「嫌な決まりほど、先に決める」
マルタが言った。
「その場で決めると、だいたい揉める」
「そうです」
相沢は頷いた。
村長が板を見る。
「見る板に加えますか」
相沢は迷う。
ミナも迷った。
だが、先にミナが言った。
「呼ぶの下に、小さく三つだけ」
相沢はミナを見る。
「誰、どこ、何」
「そう。呼ぶ役だけ見る」
村長が頷いた。
「よいでしょう」
夜の三つ。
火。
水。
呼ぶ。
その呼ぶの下にだけ、小さく三つ。
誰。
どこ。
何。
増やしすぎではない。
呼ぶ役の手順だ。
◇
【月曜日 9:12/南の空き小屋】
南の小屋でも、声の確認が伝えられた。
避難民の若い男が、少し嫌そうに聞いている。
「子供が泣いたら、まず聞けってことか」
ミナが答える。
「うん」
「泣いてるのに?」
「泣いてるだけなら、中の大人が見る」
「怪我なら」
「怪我って言う」
「言えない時は」
ミナは止まった。
少し考える。
相沢は横にいたが、口を出さなかった。
ミナが答える。
「近くの大人が見る。でも、広場全部は呼ばない」
若い男は黙る。
村の男が言った。
「昨日の夜、泣いたな」
「ああ」
「呼ばなかった」
「ああ」
「呼ばなくてよかった」
「そうだな」
避難民の若い男は、少しだけ納得した顔をした。
ミナは板に三つの印を描いた。
人。
場所。
目。
「声がしたら、これ」
子供が見る。
「誰、どこ、何?」
「そう」
「泣いてるだけは?」
「近くの大人」
「火は?」
「すぐ言う」
「入口は?」
「ふさがない」
子供は頷いた。
小屋の中に、少しずつ手順が入る。
怖さは消えない。
だが、怖い時に何を見るかは、少しずつ決まっていく。
◇
【月曜日 10:03/倉庫前】
塩の小分けが始まった。
量は少ない。
透明な袋に入れるほどではない。
むしろ見せすぎると危ない。
マルタは小さな陶片を三つ用意した。
病人用。
汗をかいた者用。
予備。
それぞれに印をつける。
相沢の計量スプーンで一杯。
それを木の匙で再現する。
削った匙を、記録係が見比べる。
「これくらい」
相沢が言う。
マルタが睨む。
「これくらい、が危ないんだよ」
「はい」
「山盛りにする馬鹿が出る」
「出ます」
「だから、すりきり」
「そうです」
「すりきりって何だい」
相沢は少し考え、匙の上を木片で払って見せた。
「盛らない。上を払う」
「なるほどね」
マルタは木片を持つ。
「これは必要だ」
「はい」
「匙だけ渡すと、盛る」
「はい」
「払う木も一緒に置く」
「はい」
若い女が言う。
「細かい」
マルタが即答する。
「細かいから残るんだよ」
相沢は黙って頷いた。
食品メーカーの現場で見てきた小さな違い。
すりきり。
小分け。
表示。
置き場所。
それが、ここではそのまま命に近い。
だが、言いすぎない。
全部を現代の理屈で押さない。
村の道具に置き換える。
マルタがそれをやっている。
「これは、私が持つ」
マルタが塩をしまう。
「勝手に使ったら」
若い女が聞く。
「飯抜き」
周囲が少し笑う。
マルタは笑わない。
「本気だよ」
笑いが止まった。
◇
【月曜日 10:49/広場中央】
広場に、短い声が走った。
「南で声!」
呼ぶ役が反応する。
ミナがすぐ板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
呼ぶの下の三つ。
誰。
どこ。
何。
「誰!」
呼ぶ役が聞く。
伝令が少し詰まる。
「子供!」
「どこ!」
「南の小屋!」
「何を見た!」
「……見てない! 声だけ!」
広場が動きかける。
だが、ミナが叫んだ。
「近くの大人が見る! 広場はそのまま!」
相沢は立たなかった。
立ちかけたが、止めた。
ミナが処理している。
南の組が見る。
広場は動かない。
少しして、南から返事が来た。
「子供が転んだだけ! 怪我なし! 火なし! 入口空いてる!」
広場が息を吐く。
ミナも息を吐いた。
相沢はゆっくり座り直す。
今のは、ただの事故かもしれない。
だが、練習になった。
声に、村が引っ張られなかった。
ミナが相沢を見る。
「今、立とうとした?」
「少し」
「見た」
「悪かった」
「座って」
「座ってる」
ミナは少しだけ得意そうにした。
「私、聞けた」
「ああ」
「誰、どこ、何」
「できてた」
「かなり良い?」
「かなり良い」
ミナは満足そうに頷いた。
◇
【月曜日 11:26/北柵】
北からは、南の声騒ぎも聞こえていた。
ガンツが広場の方を見る。
「動かなかったな」
ダリオが答える。
「動かなかった」
「赤か?」
「分からない」
「ただの子供か」
「かもしれない」
「でも、試しにはなった」
「なった」
ダリオは森を見る。
「森が少し変」
ガンツの顔がすぐ変わる。
「赤か」
「見えない」
「何が変だ」
「音が遅い」
「音?」
「南の声の後、森が静かになるのが遅かった」
ガンツは眉を寄せる。
「それは、どういう意味だ」
「森の奥にも、聞いてるものがいる」
「赤か」
「たぶん」
ガンツは槍を握る。
「今の声騒ぎを聞いたか」
「たぶん」
「村が動かなかったのも」
「たぶん」
ガンツは低く息を吐いた。
「見られてるな」
「見てる」
ダリオは短く言った。
その声には、焦りはない。
ただ、警戒があった。
「次は来るか」
「分からない」
「嫌な日だな」
「まだ午前」
「余計嫌だ」
◇
【月曜日 12:08/広場中央】
昼前。
空気が重くなった。
暑さではない。
疲れと警戒で、村全体が少し沈んでいる。
相沢は板を見る。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
そして呼ぶの下に、小さく三つ。
誰。
どこ。
何。
増えた。
だが、必要な増え方だった。
ただし、これ以上増やせない。
相沢はそう判断した。
その時、視界の端に表示が出た。
⸻
【集落運用:
昼間維持】
【声誘導対策:
暫定導入】
【情報混在:
軽度上昇】
【疲労:
累積】
【推奨:
昼食前休息】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
本人含む】
⸻
「本人含む」
相沢は呟いた。
ミナがすぐ反応する。
「休む?」
「昼食前に少し」
「珍しい」
「学習した」
「赤より?」
「そこはまだ分からない」
ミナは少し笑った。
だが、その笑いの途中で、北から笛が鳴った。
一度。
短く。
続けて、もう一度。
広場の空気が変わる。
呼ぶ役が声を張る。
「北、何!」
伝令が来る。
走らない。
だが、かなり速い。
顔が白い。
「北、影!」
ミナが聞く。
「赤は?」
「見えない!」
「数は!」
「分からない!」
「攻撃は!」
「まだ!」
「何を見た!」
伝令は息を詰まらせた。
それから言った。
「森の端に、人がいる!」
広場が止まった。
人。
ゴブリンではない。
人。
その言葉は、昨日までのどの声よりも強く、村を揺らした。
◇
【月曜日 12:16/北柵】
森の端に、人影があった。
小さい。
痩せている。
服は破れている。
子供にも見える。
大人にも見える。
距離がありすぎて、分からない。
ガンツは槍を握ったまま、低く言った。
「人か」
ダリオは弓を構えていない。
だが、矢は手にある。
「人に見える」
「人かどうかは」
「分からない」
相沢は北柵に来ていた。
呼ばれた。
自分から走ったわけではない。
だが、来た。
見て、背中が冷えた。
森の端。
人影。
助けを求めるように、片手が上がっている。
声はない。
ただ、立っている。
「罠だな」
ガンツが言った。
言い切った。
相沢も頷きそうになった。
だが、止める。
「罠かもしれない」
「同じだ」
「違う」
相沢は短く言った。
「本当に人かもしれない」
ガンツがこちらを見る。
「なら助けに行くのか」
「行かない」
「なら同じだ」
「違う。行かない理由を間違えると、後で崩れる」
ガンツは黙った。
相沢は森を見る。
人影は動かない。
助けを求める手。
だが、声がない。
周りの森が静かすぎる。
ダリオが言った。
「周りに鳥がいない」
「赤は」
「見えない」
「他の影は」
「見えない」
「足元は」
「見えない」
相沢は息を吐く。
助けたい。
その感情はある。
だが、動けば終わる。
森へ出れば、赤の場所だ。
村から役が剥がれる。
前に出る者が増える。
広場が北を見る。
水も火も止まる。
「呼ぶ役に伝える」
相沢は言った。
「北、森の端に人影。救助に出ない。広場はそのまま。南、井戸、倉庫、治療所、全てそのまま」
若い見張りが頷く。
ガンツが低く言う。
「きついな」
「ああ」
相沢は森を見る。
人影の手が、少しだけ揺れた。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「きつい」
それでも、相沢は動かなかった。
◇
【月曜日 12:24/広場中央】
報告を聞いた広場は、今度こそ大きく揺れた。
「人?」
「生き残り?」
「助けないのか?」
「子供か?」
声が重なる。
ミナが板の前に立つ。
顔は白い。
だが、声は出た。
「広場、そのまま!」
ざわめきは止まらない。
当然だった。
人がいる。
森の端に。
助けを求めているかもしれない。
それを見て、動かない。
簡単なことではない。
村長が前に出た。
「誰も森へ出ません」
声は静かだった。
だが、広場に通った。
「確認は北が行います。広場は火、水、呼ぶを維持します」
村人の一人が言った。
「でも、本当に人なら」
村長はその男を見る。
「だからこそ、全員で動いてはいけません」
男は黙らない。
「見捨てるのか」
その言葉が、広場に落ちた。
重い。
避難民の何人かが顔を伏せる。
自分たちも、見捨てられなかったからここにいる。
その記憶がある。
ミナの手が震える。
相沢はいない。
北にいる。
ここは、広場が判断しなければならない。
ハルトが井戸側から歩いてきた。
「森に出たら、井戸が空く」
低い声だった。
男が振り返る。
「今は井戸の話じゃ」
「井戸の話だ」
ハルトは言った。
「水が止まれば、ここにいる全員が困る。助けるなら、助け方を決めてからだ」
マルタも続ける。
「倉庫も同じだよ。全員が北を見たら、飯が死ぬ」
リリアが治療所前から言う。
「治療所も動かしません。怪我人を受ける準備だけします」
村長が頷いた。
「助けないのではありません。崩れずに助ける方法を探します」
ミナが板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
そして、小さく三つ。
誰。
どこ。
何。
ミナは震える声で言った。
「誰か、分からない。どこ、森の端。何を見た、人影。まだ、それだけ」
広場が少し静まった。
「それだけで全員は動かない」
ミナは続けた。
「北が見る。広場は、戻す」
声は弱かった。
だが、言った。
◇
【月曜日 12:39/北柵】
人影は、まだ森の端にいた。
動かない。
倒れない。
近づかない。
ただ、手を上げている。
ガンツが低く言う。
「長すぎる」
ダリオも頷く。
「人なら、動く」
「怪我で動けないなら?」
相沢が聞く。
「倒れる」
「立ったままは変か」
「変」
ダリオは矢を番えた。
人影を狙ってはいない。
その周囲を見ている。
「撃つなよ」
ガンツが言う。
「撃たない」
「人かもしれねぇ」
「撃たない」
ダリオの声は変わらない。
相沢は森を見る。
喉が渇く。
助けたい。
助けたいと思う自分がいる。
同時に、行くなと言う自分もいる。
そして、赤がそれを見ている気がする。
人影の手が、もう一度揺れた。
その時、ダリオが短く言った。
「手じゃない」
ガンツが反応する。
「何」
「あれは、手じゃない」
相沢は目を凝らす。
分からない。
「布?」
ダリオは矢先を少し動かす。
「枝に結んでる」
ガンツが息を吐く。
「人じゃねぇのか」
「服はある。中身がないかもしれない」
相沢の背中が冷えた。
服。
枝。
人影に見せたもの。
助けを求める手に見せた布。
赤ゴブリンは、声の次に形を使った。
人を動かす形。
「伝令」
相沢が言った。
「人影ではない可能性。服か布。森に出ない。広場はそのまま」
伝令が頷く。
ガンツが森を睨む。
「悪趣味だな」
「ああ」
相沢は低く答えた。
腹の底が冷えていた。
これは、ただの魔物の動きではない。
村人の心を、明確に狙っている。
◇
【月曜日 12:52/広場中央】
報告が戻る。
「人影ではない可能性! 服か布! 森へ出ない!」
広場が大きく息を吐いた。
怒りも混じる。
安堵も混じる。
気持ち悪さも混じる。
「人じゃなかったのか」
「分からないって」
「服って何だ」
「誰の服だ」
また揺れかける。
ミナが声を出す。
「誰かは、まだ分からない! 北が見る! 広場はそのまま!」
今度は、さっきより少し強かった。
村長が頷く。
「見えたものだけを扱います」
マルタが低く言う。
「嫌なものを見せられたね」
ハルトが井戸側へ戻りながら言った。
「だから、動くな」
リリアは治療所の入口を少し広げた。
怪我人を受ける準備。
だが、人を出さない。
それぞれが、自分の場所で嫌なものを受け止める。
広場は、森へ流れなかった。
◇
【月曜日 13:18/北柵】
ダリオは矢を放った。
人影ではない。
その上の枝。
布を吊っている細い枝。
矢が枝を折る。
人影が崩れた。
服のようなものが、低い草へ落ちる。
中身はない。
少なくとも、立っていた人間ではない。
ガンツが低く唸る。
「人形か」
「たぶん」
ダリオが言う。
「取りに行くか」
ガンツが聞く。
相沢は首を振る。
「行かない」
「情報にはなる」
「なる。でも、今じゃない」
ガンツは少しだけ笑った。
「お前が言うなら、今回は信用する」
「珍しいな」
「少しはな」
相沢は森を見る。
人影は崩れた。
だが、森の奥は静かだ。
赤は見えない。
見えないが、見ている。
たぶん。
相沢は拳を握った。
助けを求める形。
それを使ってきた。
次は、もっと直接来る。
そう思った。
◇
【月曜日 13:42/広場中央】
昼の粥は、また遅れた。
だが、今度の遅れは昨日より小さかった。
広場が一度揺れた。
人影で揺れた。
それでも、火と水と呼ぶは残った。
食料の配膳も戻った。
マルタが椀を配りながら言う。
「今日は、嫌なものを見た。だから食いな」
誰も文句を言わなかった。
薄い粥。
塩は入っていない。
だが、温かい。
ミナは椀を持ったまま、相沢の隣に座った。
「人じゃなかった」
「ああ」
「よかったって思った」
「俺も」
「でも、服だった」
「ああ」
「誰かの服かもしれない」
「そうだな」
ミナは唇を噛んだ。
「嫌だね」
「嫌だ」
「赤いの、嫌だね」
「ああ」
相沢は椀を見る。
薄い粥。
温かい。
人影に見えた布。
助けを求める手に見えた枝。
それでも、村は昼飯を食べている。
食べる。
残さない。
その地味な行為が、今日はやけに強く見えた。
表示が浮かぶ。
⸻
【敵誘導:
人影偽装】
【集落反応:
動揺/復帰】
【救助衝動:
発生】
【過剰移動:
抑制】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
摂食継続】
⸻
「食べろって」
ミナが言った。
「見えたのか?」
「顔」
「便利すぎる」
「食べて」
「ああ」
相沢は粥を飲んだ。
薄い。
だが、飲み込んだ。
◇
【月曜日 14:27/広場中央】
昼食後、村長が短く言った。
「今日、我々は森へ出ませんでした」
広場の何人かが顔を上げる。
「人かもしれないものを見ても、出ませんでした。これは、簡単なことではありません」
静かな声だった。
「見捨てたのではありません。崩れずに見ることを選びました」
相沢は村長を見る。
村長は続ける。
「助けるためには、助ける側が崩れてはいけません」
その言葉は、広場にゆっくり落ちた。
避難民の女が、子供の肩を抱く。
ハルトが井戸の方から聞いている。
マルタが倉庫前で腕を組む。
リリアが治療所の入口に立つ。
ミナが板の前にいる。
ガンツとダリオは北。
それぞれの場所で、聞いている。
「森のものは、後で確認します。今は出ません」
村長は言った。
「今は、火、水、呼ぶ。人、水、食料、仕事、休む人。それを戻します」
ミナが板を見る。
戻す。
広場が少しずつ動き出す。
相沢は、村長の背中を見ていた。
自分が言わなくても、村長が言った。
それが大きかった。
◇
【月曜日 15:03/北柵】
森の端に落ちた服は、そのままだった。
風で少し動く。
人には見えない。
もう、ただの布に近い。
だが、誰のものかは分からない。
ガンツが言う。
「夕方まで放っておくか」
ダリオが答える。
「放る」
「夜は?」
「見えない」
「じゃあ、取りに行くなら夕方前か」
相沢は首を振る。
「取りに行かない」
「ずっとか」
「今日中は」
「情報を捨てることになる」
「ああ」
ガンツは相沢を見る。
「前なら、取りに行くって言いそうだったな」
「言ったかもな」
「今は?」
「行きたい。でも行かない」
「それでいい」
ダリオが短く言った。
相沢は少しだけ笑いそうになった。
ダリオにそれでいいと言われる日が来るとは思っていなかった。
「赤は見てるか」
相沢が聞く。
「たぶん」
「見えてる?」
「見えてない」
「でも、見てる」
「たぶん」
相沢は森を見る。
今日、赤ゴブリンはまた一つ知った。
村は、人影を見ても森へ出ない。
それは強さでもある。
同時に、次はもっと強い人影を使うかもしれない。
声。
形。
次は、名前かもしれない。
相沢は嫌な想像をした。
誰かの名前を呼ぶ声。
ミナ。
ハルト。
リリア。
回し屋。
もし、森の奥から自分を呼ぶ声がしたら。
相沢は、動かずにいられるのか。
答えは出なかった。
◇
【月曜日 15:41/広場中央】
午後の板に、小さな項目が足された。
見る板ではない。
残す板。
赤の誘導。
石。
鳥。
小ゴブリン。
人影。
記録係が書く。
相沢が補う。
ミナが横で見ている。
「嫌な記録」
ミナが言った。
「必要な記録」
「次に使う?」
「使われたくないけど、使う」
「石、鳥、小さいの、人影」
「次は声かもしれない」
ミナの顔が強張る。
「声は嫌」
「俺も嫌だ」
「誰かの声?」
「分からない」
「また分からない」
「分からないまま、用意する」
ミナは板を見る。
誰。
どこ。
何。
「声がしたら、これ」
「そう」
「名前を呼ばれても?」
相沢は少し止まった。
「それでも、これ」
「回し屋って呼ばれても?」
「それでも」
「私が呼ばれても?」
「それでも」
ミナは黙った。
少し怒ったような顔だった。
だが、怒っている相手は相沢ではない。
たぶん、赤ゴブリンだ。
「嫌な決まり」
「ああ」
「でも、決める」
「ああ」
ミナは残す板に、小さく書き足した。
声。
名前でも、すぐ走らない。
相沢はそれを見て、喉の奥が少し重くなった。
◇
【月曜日 16:28/治療所前】
熱の子が、少し目を開けた。
リリアが水を含ませる。
相沢は入口の外にいる。
中へは入らない。
見すぎない。
任せる。
子供が小さく言った。
「甘いの」
相沢の手が止まる。
リリアも少しだけ止まった。
昨日、飴のことを覚えたのか。
それとも、誰かが話したのか。
分からない。
リリアは静かに言った。
「今は水です」
「甘いの」
「水を飲めたら、考えます」
子供は弱く顔をしかめる。
相沢は口を出しかけた。
出さない。
リリアが見る。
リリアが決める。
子供は少しだけ水を飲んだ。
咳き込む。
だが、吐かなかった。
リリアは頷いた。
「少しだけ使います」
相沢は飴を出した。
ひとつ全部ではない。
砕いた小さな欠片。
リリアがそれを受け取る。
子供の口へ入れる。
子供の顔が、ほんの少しだけ緩む。
相沢は胸が詰まった。
現代なら、どうでもいい飴。
ここでは、水を飲むための道具になる。
そして、揉める火種にもなる。
リリアはすぐに言った。
「これは薬の前です。甘いものではありません」
入口にいた女たちが頷く。
マルタがいつの間にか来ていた。
「今のを聞いたね」
女たちが頷く。
「欲しがったから出すんじゃない。飲ませるために使う。勝手に求めたら、出さない」
厳しい。
だが、必要だった。
相沢は何も足さなかった。
飴も、運用に入った。
◇
【月曜日 17:12/広場中央】
夕方の板を作る時間が来た。
朝から増えたものが多すぎる。
声。
名前。
人影。
塩。
飴。
帰還条件。
赤ゴブリン。
どれも重要だ。
だが、夜の見る板には置けない。
ミナは板の前で、木炭を持たずに立っていた。
「今日も三つ?」
ミナが聞く。
「三つ」
相沢が答える。
「火、水、呼ぶ」
「そう」
「呼ぶの下に、誰、どこ、何」
「それは残す」
「北は?」
「北が見る」
「声は?」
「呼ぶが見る」
「人影は?」
「北が見る。広場は出ない」
「戻らなかったことは?」
相沢は止まった。
ミナがこちらを見る。
「それは」
相沢は少し息を吐く。
「俺が保留する」
「一人で?」
「表示は俺にしか見えない」
「でも、回し屋が変だと広場が見る」
「だから、リリアさんと村長にだけ伝える」
「私は?」
ミナの声が少し硬くなる。
相沢は迷った。
だが、言う。
「ミナにも伝える。ただ、板には載せない」
ミナは少しだけ表情を緩めた。
「分かった」
「隠すんじゃない。広場に置かない」
「渡す?」
「ああ。リリアさん、村長、ミナに渡す」
「じゃあ、広場からは消す」
「そう」
ミナは頷いた。
火。
水。
呼ぶ。
呼ぶの下に、小さく三つ。
誰。
どこ。
何。
夜の板は、それだけになった。
◇
【月曜日 18:03/広場中央】
夜が近づく。
森が暗くなる。
人影に使われた布は、まだ森の端に落ちている。
誰も取りに行っていない。
それを不満に思う者もいる。
怖いと思う者もいる。
正しい判断だと思う者もいる。
全部ある。
だが、村は動いている。
火を小さくする。
水を分ける。
病人用を準備する。
南の小屋の入口を確認する。
北の交代を組む。
休む人を、見えない場所へ送る。
相沢は座って見ている。
今日は、自分から座った。
そのことに、ミナが少し驚いた顔をした。
「自分で座った」
「見なくていいものが多すぎる」
「見るために?」
「減らす」
ミナは少し笑った。
「覚えたね」
「遅いけどな」
「遅くても、覚えた」
その時、表示が浮かぶ。
⸻
【夜間運用:
移行準備】
【敵誘導履歴:
蓄積】
【集落反応:
維持】
【帰還条件:
照合中】
【滞在状態:
継続】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
夕食摂取】
⸻
「夕食摂取」
相沢は言った。
ミナが椀を出す。
「はい」
「早い」
「オカンより早く」
「勝たなくていい」
「今日は勝つ」
「何の勝負だ」
椀の粥は薄い。
だが、少しだけ違った。
病人用ではない。
全体用でもない。
見張りと力仕事用の椀に、ほんのわずか、塩が使われていた。
相沢は気づいた。
ほんの少しだけ。
味ではなく、体が気づくくらいの量。
「塩」
相沢が言うと、ミナが頷いた。
「マルタさんが決めた。見張りと力仕事の人だけ、少し」
「全員には?」
「入れない」
「揉めなかった?」
「少し」
「どうした」
「マルタさんが睨んだ」
「強いな」
「強い」
相沢は粥を飲んだ。
ほんの少しの塩。
それだけで、体が少し戻る気がした。
食料は増えていない。
敵も消えていない。
帰還条件も分からない。
だが、村は昨日より少しだけ、使うものを使えるようになっている。
遠く、北からダリオの声がした。
「まだ」
夜が来る。
まだ、終わらない。
だが、まだ持っている。




