第九十三話 火を小さくする
【日曜日 18:44/広場中央】
夜の板は、三つだけだった。
火。
水。
呼ぶ。
昨日と同じ。
だが、昨日よりも重い。
井戸への道に石が置かれた。
北で小ゴブリンが三体出た。
水桶を鳴らされた。
伝令の道を見られかけた。
それでも、夜の板は三つだけ。
ミナは板の前に座っていた。
木炭を握っていない。
握ると、描きたくなるからだ。
相沢はそれに気づいていた。
「木炭、置いたんだな」
「持ってると増やす」
「いい判断」
「怖いけど」
「怖い時ほど増やしたくなる」
「うん」
ミナは板を見る。
「火、水、呼ぶ」
「それだけ」
「北は?」
「北が見る」
「倉庫は?」
「マルタさんが見る」
「井戸は?」
「ハルトが見る」
「治療所は?」
「リリアさんが見る」
「南は?」
「南の組が見る」
ミナは小さく息を吐いた。
「渡す」
「ああ」
「消すんじゃなくて、渡す」
「そうだ」
ミナは何度も頷いた。
自分に言い聞かせるように。
その横で、広場の火が小さく揺れている。
火の役が薪を一本持っていた。
太い薪ではない。
細い薪。
火を消さないための薪。
火を大きくしすぎないための薪。
「入れていい?」
火の役が聞いた。
呼ぶ役が答える。
「小さいの一本」
「大きいのは?」
「まだ」
「火、弱くない?」
「弱い。でも見えすぎない」
相沢は黙って聞いていた。
火を見る。
明るくしたくなる。
人は暗いと不安になる。
だが、明るくすれば、森からも見える。
夜の火は、安心であり、目印でもある。
「火、弱いね」
子供が言った。
母親が口を押さえかける。
マルタが倉庫側から言った。
「弱くしてるんだよ」
子供は目を瞬かせる。
「なんで?」
「強い火は、遠くから見える」
「暗いよ」
「暗くても、火はある」
マルタは短く言った。
「火は、あるかないかが先だ。大きいか小さいかは、その次だよ」
相沢は少しだけ頷いた。
その言い方は強い。
だが、分かりやすい。
火はある。
ただし、大きくしない。
今日の村には、それで十分だった。
◇
【日曜日 19:08/北柵】
北では、ガンツとダリオが交代を組んでいた。
完全な交代ではない。
片方が座り、片方が立つ。
座っている方も、武器は手元に置く。
ダリオが座る番だった。
だが、座っていても森を見ている。
ガンツがそれを横目で見る。
「座ってる意味あるのか」
「少しある」
「少しか」
「足が楽」
「目は休んでねぇだろ」
「目は休めない」
「休め」
「無理」
ガンツは呆れたように息を吐いた。
「お前も回し屋と同じだな」
「違う」
「同じだ。自分だけ例外にする」
ダリオは黙った。
森を見る。
少し長い沈黙。
それから、短く言った。
「俺は、見ないと役がない」
「馬鹿言うな」
ガンツの声が低くなる。
「お前が倒れたら、先に気づく目が消える。役ごと消えるんだよ」
ダリオは少しだけ目を動かした。
ガンツを見る。
すぐ森へ戻す。
「じゃあ、少し休む」
「少しじゃねぇ。決めた分だ」
「長い」
「決めた分だ」
ダリオは不満そうにした。
だが、弓を膝に置き、背中を柵へ少し預けた。
目は完全には閉じない。
それでも、姿勢は少し緩む。
ガンツはそれを見届け、森へ向き直った。
「赤は」
「見えない」
「普通か」
「近い」
「まだ普通じゃない」
「少し違う」
「分かった」
ガンツは槍を握る。
「じゃあ、少し違う森を見とく」
ダリオは返事をしなかった。
だが、ほんの少しだけ肩が下がった。
◇
【日曜日 19:31/南の空き小屋】
南の小屋は、昨日より静かだった。
静かすぎるわけではない。
子供の小さな声。
布を直す音。
誰かが咳をする音。
眠れない大人の息。
それらがある。
だが、昨日のような浮き足立つ感じは薄い。
入口は空いている。
火は入れていない。
奥に薪。
手前に寝る場所。
入口近くには、村の男と避難民の若い男が座っている。
立たない。
座る。
だが、入口はふさがない。
その二人の前に、小さな板がある。
ミナが描いたものだった。
火なし。
入口あける。
外へ出ない。
三つだけ。
避難民の子供が板を見ていた。
「外へ出ない」
子供が小さく読むように言った。
文字ではない。
印だ。
だが、もう意味は分かる。
避難民の若い男が頷く。
「そうだ」
「鳥が鳴っても?」
「出ない」
「声がしても?」
「大人に言う」
「火は?」
「入れない」
子供は頷いた。
村の男が少し驚いた顔をした。
「覚えてるんだな」
「昨日も言われた」
「そうか」
それだけだった。
だが、村の男の声は少し柔らかかった。
避難民の若い男が、入口の外を見る。
森は見えない。
だが、北の空気は少し届く。
「今日の昼、北で出たんだろ」
村の男が言った。
「ああ」
「怖いか」
「怖い」
避難民の若い男は即答した。
村の男は少しだけ笑った。
「俺もだ」
二人はそれ以上言わなかった。
同じ場所に座って、同じ入口を見た。
◇
【日曜日 20:03/治療所前】
治療所の入口には、布が少し下げられていた。
中を見せすぎない。
だが、空気は通す。
リリアが決めた形だった。
相沢は治療所前の木箱に座っている。
リリアに置かれた。
ミナに確認された。
マルタに見られた。
逃げ場はない。
「座っています」
相沢が言うと、リリアは中の器を確認しながら答えた。
「見れば分かります」
「先に言いました」
「信用を積みたいのですか」
「はい」
「一日では足りません」
「厳しい」
「積み直しですから」
相沢は返す言葉がなかった。
治療所の中では、熱の子が眠っている。
水を飲めた。
少し汗も出た。
まだ安心はできない。
だが、昨日よりは呼吸が浅くない。
「飴は」
相沢が言った。
「まだ使っていません」
「はい」
「使う時は、私が決めます。マルタにも伝えます」
「分かりました」
リリアは少しだけこちらを見た。
「そこは丁寧なのですね」
「リリアさんには」
「ガンツ殿には違うのですか」
「最近、怒られました」
「誰に」
「自分に」
リリアは首をかしげた。
相沢は少しだけ笑った。
「前に立つ人に、後ろから丁寧すぎると、距離が変になる」
「なるほど」
「ガンツとは、もう少し短く話した方がいい」
「信頼の形ですね」
「たぶん」
リリアは頷いた。
「では、私には丁寧で構いません」
「はい」
「ただし、無理をする時の丁寧語は信用しません」
「そこまで見ますか」
「見ます」
リリアは淡々と言った。
相沢は黙って水を飲んだ。
◇
【日曜日 20:28/広場中央】
火が一度、少し大きくなった。
薪が乾きすぎていた。
ぱち、と音がして、火の粉が上がる。
広場の何人かが反応する。
北を見る者。
南を見る者。
水桶へ動きかける者。
ミナがすぐ声を出した。
「火だけ!」
火の役が答える。
「火だけ!」
「火の粉は?」
「小さい!」
「水は?」
「まだ使わない!」
「薪は?」
「次、細いのにする!」
広場は止まらなかった。
だが、相沢は見た。
今の一瞬で、何人かの目が割れた。
火。
北。
南。
水。
全部を見ようとした。
それは自然だ。
自然だから危ない。
ミナも見ていた。
板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
三つ。
この三つで足りる。
足りるようにしなければならない。
「火の役、二人にする?」
ミナが小さく聞いた。
相沢は少し考える。
「火の横に一人増やすと、火を見る人が増える」
「駄目?」
「駄目じゃない。でも、火が大きくなるたびに人が寄るかもしれない」
「じゃあ」
「火の役は一人。呼ぶ役が声だけ助ける」
「声だけ」
「近づかない」
ミナは頷いた。
「火は一人。声は呼ぶ役」
「そう」
「水は勝手に使わない」
「そう」
ミナは火の役に伝えた。
火の役は少し不安そうだったが、頷いた。
自分一人で火を見る。
だが、声は返ってくる。
それでいい。
◇
【日曜日 21:06/井戸前】
ハルトは井戸の横に座っていた。
立っていない。
相沢に言われたからではない。
リリアに睨まれたからでもない。
自分で決めた。
ただし、視線は井戸から外さない。
横には村の男が立っている。
今日、半刻だけ任せた男だった。
桶の印を見ている。
丸。
波。
斜線。
飲み水。
確認中。
使わない。
「丸は飲み水」
村の男が言う。
「そうだ」
「波は」
「まだ見る水」
「斜線は」
「使うな」
「分かってる」
「分かってるなら言え」
村の男は少し不満そうにした。
だが、言った。
「丸は飲み水。波は見る水。斜線は使わない」
「よし」
ハルトは頷いた。
避難民の若い男が横で見ている。
「お前、先生みたいだな」
「うるさい」
ハルトは短く返した。
だが、怒ってはいない。
村の男が桶を一つ持ち上げる。
「これは丸」
「飲み水」
「治療所に持っていく」
「誰に渡す」
「リリアさん」
「途中で誰かに言われたら」
「渡さない」
「子供に水って言われたら」
「広場か井戸に言えと言う」
「よし」
手順が、人の口に移る。
ハルトはそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
前の村で、水場を任されていた時も、似たことをしていた。
誰が桶を持つか。
誰に渡すか。
どこに置くか。
当たり前のことを、当たり前にする。
村が焼かれた時、それが全部崩れた。
今、少し戻っている。
完全ではない。
自分の村でもない。
だが、水場は水場だ。
守る場所は、ここにある。
◇
【日曜日 21:42/北柵】
森が静かになった。
今度の静けさは、昼のような急なものではない。
夜が深くなった静けさだった。
虫の声がある。
鳥はいない。
風はある。
枝は自然に揺れている。
ダリオは低く言った。
「普通に近い」
ガンツが聞く。
「普通でいいのか」
「近い」
「本当に細けぇな」
「違うから」
「何が」
「完全に普通なら、言う」
「普通だって?」
「そう」
「お前が普通って言う日、来るのか」
「来る」
ガンツは少し笑った。
「なら、聞くまでは信じねぇ」
ダリオは森を見たまま、小さく頷いた。
相沢は北にはいない。
それでいい。
今、北に相沢はいらない。
ガンツはそれを意識していた。
昼、相沢は自分が弱いところだと言った。
赤が相沢を動かそうとするかもしれない。
それは、おそらく当たっている。
相沢は、村の後ろを回す男だ。
だが、後ろを回す男が前に出れば、村は一瞬そちらを見る。
赤はそこを見ている。
「ダリオ」
「何」
「赤が回し屋を狙うなら、どう来る」
「本人を呼ぶ」
「声か」
「声。子供。火。水。南」
「多いな」
「動きそうなもの」
ガンツは低く唸った。
「つまり、あいつが動きそうなもの全部か」
「そう」
「面倒だな」
「そう」
ダリオは短く答えた。
ガンツは広場の方を見る。
火は小さい。
相沢は見えない。
座っているはずだ。
座っていろ。
ガンツは声に出さずに思った。
◇
【日曜日 22:16/広場中央】
相沢は座っていた。
だが、眠ってはいない。
広場の火を見ている。
水の動きを見ている。
呼ぶ役の交代を見ている。
見ているだけ。
そう言い訳したくなる。
だが、見ているだけでも疲れる。
リリアの言葉を思い出す。
見ているだけで疲れる人もいます。
その通りだった。
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【夜間運用:
継続】
【火力:
小規模維持】
【水管理:
安定】
【伝令経路:
警戒継続】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
睡眠準備】
⸻
「睡眠準備」
相沢は呟いた。
ミナがすぐ振り向いた。
「寝る?」
「まだ」
「出たんでしょ」
「準備」
「じゃあ準備」
ミナは容赦がない。
「治療所前?」
「広場でいい」
「リリアさんに怒られる」
「治療所前で」
「最初からそう言って」
ミナは立ち上がり、呼ぶ役に声をかける。
「回し屋、治療所前。広場は私」
「分かった」
「火、水、呼ぶ。変えない」
「分かった」
相沢は反論しようとして、やめた。
ミナが自分で引き継いでいる。
なら、邪魔をしない方がいい。
木箱から立ち上がる。
少しふらついた。
ミナが見た。
「今の、ふらついた」
「少し」
「少しじゃない」
「少しだ」
「リリアさんに言う」
「言わなくていい」
「言う」
相沢は諦めた。
これも、役が回っているということなのだろう。
◇
【日曜日 22:31/治療所前】
治療所前に戻ると、リリアが布を用意していた。
相沢は何も言っていない。
だが、もう用意されていた。
「早いですね」
「ミナが先に来ました」
「密告が早い」
「報告です」
リリアは淡々と言った。
「ふらついたそうですね」
「少し」
「少しではありません」
「見てないのに」
「ミナが言いました」
「信用されてる」
「はい」
相沢は黙って座った。
水を渡される。
飲む。
布をかけられる。
抵抗しない。
「今日は、少しは寝てください」
「努力します」
「努力ではなく、行動です」
「目を閉じます」
「それでいいです」
リリアは治療所の入口に座った。
相沢の少し横。
近すぎず、遠すぎず。
中の病人も見える。
広場も少し見える。
相沢も見える。
位置取りがうまい。
「リリアさん」
「はい」
「今日は、かなり動きましたね」
「村がですか」
「はい」
「アイザワ殿も、座りました」
「そこを評価されるのは複雑です」
「必要な評価です」
リリアは広場を見る。
「動くことが役の時もあります。動かないことが役の時もあります」
「分かってはいるんですが」
「分かっていることと、できることは違います」
「刺しますね」
「必要なので」
今日、何度同じようなことを言われたか分からない。
だが、嫌ではなかった。
相沢は目を閉じた。
火の音。
水桶の音。
遠くの声。
北から、短い声。
「まだ」
ダリオだ。
まだ。
まだ来ない。
まだ終わらない。
まだ見ている。
相沢はその声を聞きながら、浅く息を吐いた。
◇
【日曜日 23:18/南の空き小屋】
南の小屋で、子供が泣いた。
大きな泣き声ではない。
夢を見たのだろう。
短く、細い声。
だが、夜の村には十分響く。
入口の若い男が立ち上がりかけた。
村の男が肩を押さえる。
「立つな」
「子供が」
「中の大人が見る」
「でも」
「入口をふさぐな」
若い男は止まった。
中で避難民の女が子供を抱き寄せる。
「大丈夫」
「火」
「火は外」
「外、怖い」
「出ない」
女の声も震えていた。
だが、言葉は決まっている。
出ない。
入口は空ける。
火は入れない。
大人に言う。
小屋の中で、別の子供が起きかける。
女が低く言う。
「寝てなさい」
入口の若い男は、外へ出たくなるのを堪えた。
広場へ知らせるべきか。
少し迷う。
だが、板を見る。
火なし。
入口あける。
外へ出ない。
子供の泣き声。
怪我ではない。
火ではない。
入口も空いている。
若い男は小さく息を吐いた。
「知らせない」
村の男が言った。
「いいのか」
「火でも怪我でもない」
「泣いてる」
「泣く」
村の男は短く言った。
「子供は泣く」
若い男は黙った。
それから頷いた。
南の小屋は、広場を呼ばなかった。
◇
【日曜日 23:46/広場中央】
広場の火は小さく続いていた。
呼ぶ役が交代した。
水の役も交代した。
ミナはまだ起きている。
だが、板の前から少し離れて座っていた。
板に近すぎると、触りたくなる。
木炭は置いたまま。
持たない。
広場の端に、村長が立っている。
「ミナ」
「はい」
「休みなさい」
「まだ」
「その返事は、アイザワ殿に似ています」
ミナは顔をしかめた。
「それは嫌」
「では、休みなさい」
「……少しだけ」
「少しではなく、決めた分です」
村長の声は穏やかだった。
だが、逃げ道はなかった。
ミナは渋々立ち、交代の少女に板を渡す。
「火、水、呼ぶ」
「分かってる」
「増やさない」
「分かってる」
「北から来たら、赤が見えたか、攻撃があるか聞く」
「分かってる」
「本当に?」
「ミナも休んで」
ミナは言葉に詰まった。
周囲で小さな笑いが起きる。
ミナは少しだけ頬を膨らませたが、木陰の休む場所へ向かった。
広場は止まらなかった。
ミナが離れても、板は残った。
役も残った。
◇
【月曜日 0:03/治療所前】
日付が変わった。
相沢は目を開けた。
何かが起きたわけではない。
ただ、体がその時刻を覚えているようだった。
月曜日。
祝日。
三連休の最後の日。
それは分かっている。
分かっているが、それで安心できるほど、転移の条件を知っているわけではなかった。
土曜日に来た。
日曜日も残った。
では、祝日の月曜日はどうなる。
その答えを、相沢はまだ持っていない。
月曜になった瞬間、いつものように強制帰還するのか。
それとも、祝日だからこのまま残るのか。
あるいは、赤ゴブリンや村の状況とは別に、何か別の条件が動いているのか。
分からない。
分からないまま、日付だけが変わった。
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【曜日境界:
通過】
【暦日判定:
祝日】
【帰還条件:
照合中】
【滞在状態:
継続】
【帰還予定:
未確定】
【夜間運用:
継続】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
睡眠継続】
⸻
「……帰らない」
相沢は小さく呟いた。
安堵より先に、不安が来た。
祝日だから残っているのか。
それとも、帰れなくなっているのか。
その違いは大きい。
リリアが気づく。
「どうしました」
「日付が変わった」
「戻る時刻、ですか」
「その可能性があった」
「今は」
「戻ってない」
「それは、良いことではないのですか」
相沢はすぐには答えられなかった。
良い。
たぶん、良い。
今ここで消えれば、村は夜を越える途中で一人分の役を失う。
だが、帰らない理由が分からない。
それは、別の怖さだった。
「良いことかもしれない」
相沢は言った。
「でも、分からない」
リリアは少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「では、今は分からないものとして置いてください」
今日、何度も聞いた考え方だった。
分かることと、分からないことを混ぜない。
相沢は息を吐いた。
「そうします」
「なら、寝てください」
「そこに戻りますか」
「戻ります」
リリアは淡々と言った。
相沢はもう一度、表示を見る。
【滞在状態:継続】
帰れないのか。
帰らないだけなのか。
答えは出ない。
夜は、まだ続いている。
◇
【月曜日 0:28/北柵】
北では、ダリオが急に顔を上げた。
森ではない。
空を見る。
ガンツが気づく。
「何だ」
「鳥じゃない」
「じゃあ何だ」
「分からない」
「またか」
ダリオは空から森へ視線を戻す。
それから、広場の方を見る。
「変だ」
「森か」
「違う」
「何が」
「アイザワ」
ガンツの顔が変わった。
「どうした」
「分からない。でも、変だ」
「見えたのか」
「見えてない」
「なら何で」
「森じゃないところが、少し動いた」
ガンツは舌打ちした。
「分からん」
「俺も」
「でも、変なんだな」
「変」
ガンツは伝令を呼んだ。
「治療所へ。回し屋の様子を見ろ。走るな。騒ぐな」
伝令が頷く。
ダリオが続ける。
「北は変化なし、と言え」
「はい」
「アイザワだけ確認」
「はい」
伝令は早歩きで広場へ向かった。
ガンツは森を見る。
赤は見えない。
だが、今は森よりも、治療所の方が気になった。
「おい、回し屋」
ガンツは低く呟いた。
「動くなよ」
◇
【月曜日 0:36/治療所前】
伝令が治療所前に来た。
息は残っている。
声も抑えている。
「北、変化なし」
リリアが顔を上げる。
「では、なぜこちらへ」
「ダリオが、アイザワを確認しろと」
相沢は目を開けた。
「ダリオが?」
「はい。森じゃないところが変だと」
「何だそれ」
相沢は起き上がろうとした。
リリアが止める。
「動かないでください」
「でも」
「確認は私がします」
リリアは相沢の額に手を当てた。
熱はない。
脈を見る。
少し速い。
呼吸を見る。
浅い。
「痛みは」
「ない」
「息苦しさは」
「少し」
「表示は」
相沢は黙った。
視界の端に、また表示が揺れた。
⸻
【曜日境界:
通過】
【暦日判定:
祝日】
【帰還条件:
照合中】
【滞在状態:
継続】
【外敵行動:
未確定】
【集落運用:
継続】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
安静】
⸻
「帰還条件、照合中」
相沢は言った。
リリアには意味が分からない。
だが、相沢の顔を見て、悪いものだと判断した。
「今すぐ何か起きますか」
「分からない」
「痛みは」
「ない」
「体は」
「重い」
「それは前からです」
「はい」
リリアは伝令を見る。
「北へ。アイザワ殿は安静。大きな変化なし。ただし、表示に変化あり」
伝令は頷く。
「表示に変化あり」
「騒がないでください」
「はい」
伝令は戻っていく。
相沢は天井ではなく、夜空を見た。
曜日境界。
祝日。
帰還条件。
照合中。
赤ゴブリン。
村。
夜。
全部が別々の問題ではなく、どこかでつながり始めている気がした。
◇
【月曜日 0:52/広場中央】
広場には、まだ三つの印だけがある。
火。
水。
呼ぶ。
だが、呼ぶ役の表情が少し硬い。
北からの伝令。
治療所への確認。
表示の変化。
それらが、薄く広場に届いている。
ミナは休む場所から戻りかけた。
村長が止める。
「まだ休みの時間です」
「でも」
「広場は動いています」
「回し屋が」
「リリアが見ています」
「でも」
「ミナ」
村長の声が少しだけ強くなった。
「あなたが戻ると、広場がアイザワ殿を見る」
ミナは止まった。
唇を噛む。
だが、戻らない。
「……分かりました」
「火、水、呼ぶ」
村長が言う。
ミナは小さく答えた。
「火、水、呼ぶ」
「今、見る場所はそこです」
「はい」
ミナは休む場所へ戻った。
完全には眠れない。
それでも、戻った。
広場は、相沢の異変に引っ張られかけた。
だが、まだ引っ張られていない。
◇
【月曜日 1:17/北柵】
伝令が戻った。
「アイザワ、安静。大きな変化なし。表示に変化あり」
ガンツが眉を寄せる。
「表示ってやつか」
「はい」
ダリオが聞く。
「動いた?」
「アイザワは動いてません」
「違う。周り」
「治療所はそのまま。広場もそのまま」
ダリオは少しだけ頷いた。
「ならいい」
ガンツは森を見る。
「赤は」
「見えない」
「今夜、来ると思うか」
ダリオは答えるまでに少し時間を置いた。
「分からない」
「嫌な返事だな」
「でも、赤が今来たら、村はアイザワを見る」
「それが狙いか」
「かもしれない」
ガンツの手に力が入る。
「なら、来るな」
「来るかもしれない」
「なら止める」
「見る」
短いやり取り。
それで足りた。
ガンツは前を見る。
ダリオは森を見る。
広場には戻らない。
相沢の様子を見に行かない。
行きたい気持ちはある。
だが、行かない。
ここを空ければ、赤が喜ぶ。
◇
【月曜日 1:46/治療所前】
相沢は眠れなかった。
目を閉じても、表示の言葉が残る。
祝日。
帰還条件。
照合中。
今まで、転移は理不尽だった。
だが、どこかで一定のルールがあった。
土曜日に来る。
日曜日に残る。
月曜日に戻る。
そう思っていた。
だが、今日は月曜日でも祝日だ。
祝日だから残っているだけなのか。
それとも、帰還の条件そのものが揺れているのか。
分からない。
分からないことを混ぜるな。
今日、何度も言った。
なら、自分にも使う。
分かること。
月曜日になった。
月曜日は祝日。
帰還は起きていない。
表示はいつもと違う。
体が重い。
痛みはない。
村は動いている。
赤は見えていない。
分からないこと。
祝日が正式な転移条件なのか。
帰還が遅れているだけなのか。
表示変化の意味。
赤の狙い。
相沢はゆっくり息を吐いた。
混ぜるな。
そう思った瞬間、表示が一つ増えた。
⸻
【判断補助:
分類実行】
【未確定項目:
保持】
【推奨:
追加判断保留】
⸻
「保留」
相沢は呟いた。
リリアがこちらを見る。
「また表示ですか」
「ああ」
「何と」
「判断を保留しろ」
「良い表示です」
「そうですね」
「では、保留してください」
リリアの言い方は静かだった。
だが、逃げ道はなかった。
相沢は目を閉じた。
分からないものは、分からないまま置く。
今夜はそれでいい。
村がそうしている。
自分も、そうする。
◇
【月曜日 2:24/広場中央】
夜は続いた。
火は小さい。
水は守られている。
呼ぶ役は眠そうだが、起きている。
南の小屋は静か。
倉庫は閉まっている。
井戸の桶には印がある。
治療所の布は少し下がっている。
北にはガンツとダリオがいる。
相沢は眠りかけている。
完全な安全ではない。
だが、完全な崩壊でもない。
村は、薄い夜の上に乗っていた。
その時、森の奥で、低い音がした。
北から笛が一度。
短く。
広場が止まりかける。
呼ぶ役が声を出す。
「北、何!」
伝令は来ない。
代わりに、北からガンツの低い声が届いた。
「動くな!」
広場が止まる。
いや、止まりかけたまま、踏みとどまる。
ミナが休む場所から顔を上げる。
村長が視線で止める。
火の役が火を見る。
水の役が桶を見る。
呼ぶ役が立つ。
だが、走らない。
北から、ダリオの声がした。
「見せてるだけ!」
続いて、ガンツ。
「広場はそのまま!」
ミナが、休む場所から叫んだ。
「火、水、呼ぶ!」
広場が動きを戻す。
火。
水。
呼ぶ。
夜の板が、夜を支えた。
◇
【月曜日 2:31/北柵】
森の奥に、赤いものがいた。
見える。
だが、遠い。
昨夜よりも遠い。
ただ、わざと見える位置にいる。
赤ゴブリンは動かない。
襲わない。
ただ立っている。
ガンツが槍を握る。
「来るか」
「来ない」
ダリオが言う。
「見せてるだけ」
「何を」
「自分を」
「何のためだ」
「広場を動かすため」
ガンツは歯を食いしばった。
今、赤ゴブリンが姿を見せれば、広場は北を見る。
そして、相沢の表示異常もある。
村は相沢を見る。
北を見る。
火を見る。
水を見る。
目が割れる。
その狙いだ。
「撃てるか」
「遠い」
「届くか」
「届くかもしれない」
「撃つな」
ガンツが先に言った。
ダリオが少しだけ目を動かす。
「撃たない」
「見せに来たなら、こっちも見せねぇ」
「そう」
赤ゴブリンが、ゆっくり首を傾けた。
人間のような動き。
気持ち悪いほど静か。
ガンツは低く言った。
「見てろ、ダリオ」
「見てる」
「俺は前を見る」
「分かってる」
「広場は」
遠くから、ミナの声が届く。
「火、水、呼ぶ!」
ガンツは口の端を少しだけ上げた。
「戻ったな」
「戻った」
ダリオは森を見たまま言った。
赤ゴブリンは、しばらくそこにいた。
やがて、森の奥へ消えた。
音は少ない。
逃げたのではない。
見て、引いた。
◇
【月曜日 2:49/治療所前】
相沢は目を開けていた。
北の声は聞こえた。
赤が見えたことも、伝令から聞いた。
立ち上がろうとはしなかった。
リリアに止められたからではない。
自分で止めた。
広場が戻った。
ミナが叫んだ。
ガンツが止めた。
ダリオが見た。
相沢が行かなくても、村は反応した。
それが分かったからだった。
「行きませんでしたね」
リリアが言った。
「ああ」
「今、丁寧ではありませんね」
「ガンツがいたから」
「私はここにいます」
「あ」
相沢は少し固まった。
リリアは小さく笑った。
「構いません。今の方が自然でした」
「そうですか」
「はい」
相沢は息を吐いた。
疲れている。
だが、少しだけ軽い。
動かなかった。
動けなかったのではない。
動かなかった。
それは、小さいが大きい。
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【敵主力:
遠隔視認】
【敵行動:
誘導/反応確認】
【集落反応:
過剰集中なし】
【対象:
相沢誠司】
【過剰介入:
抑制】
【帰還条件:
照合中】
【滞在状態:
継続】
【推奨:
睡眠再開】
⸻
「睡眠再開」
相沢は呟いた。
リリアが布を直す。
「従ってください」
「分かりました」
「今度は丁寧ですね」
「難しいですね」
「使い分けです」
リリアは淡々と言った。
相沢は目を閉じた。
赤は来た。
だが、村は崩れなかった。
相沢も動かなかった。
夜はまだ終わらない。
そして、月曜日になっても、相沢はまだここにいる。
それが祝日のせいなのか。
別の異常なのか。
まだ分からない。
だが、今は動かない。
分からないものを、分からないまま置く。
それも、今日覚えた役の一つだった。
◇
【月曜日 4:58/広場中央】
夜明け前。
一番冷える時間。
広場の火は、まだ小さく残っていた。
水桶もある。
呼ぶ役は交代している。
南の小屋は静か。
井戸も静か。
倉庫も閉じている。
北からは、ときどき短い声。
「まだ」
その声は、もう恐怖だけではなかった。
村の夜の一部になっている。
相沢は、浅い眠りの中でその声を聞いた。
まだ。
まだ終わらない。
だが、まだ持っている。
東の空が、少しだけ薄くなり始めた。
月曜日の朝が近づいていた。
三連休の最後の日。
残れたのか。
帰れなくなったのか。
その違いは、まだ分からない。
相沢の視界の端で、誰にも見えない表示が一つだけ、静かに揺れていた。
⸻
【帰還条件:
照合中】
⸻
まだ、帰らない。
それが救いなのか。
危険なのか。
今の相沢には、分からなかった。




