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第九十三話 火を小さくする

【日曜日 18:44/広場中央】


 夜の板は、三つだけだった。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 昨日と同じ。


 だが、昨日よりも重い。


 井戸への道に石が置かれた。


 北で小ゴブリンが三体出た。


 水桶を鳴らされた。


 伝令の道を見られかけた。


 それでも、夜の板は三つだけ。


 ミナは板の前に座っていた。


 木炭を握っていない。


 握ると、描きたくなるからだ。


 相沢はそれに気づいていた。


「木炭、置いたんだな」


「持ってると増やす」


「いい判断」


「怖いけど」


「怖い時ほど増やしたくなる」


「うん」


 ミナは板を見る。


「火、水、呼ぶ」


「それだけ」


「北は?」


「北が見る」


「倉庫は?」


「マルタさんが見る」


「井戸は?」


「ハルトが見る」


「治療所は?」


「リリアさんが見る」


「南は?」


「南の組が見る」


 ミナは小さく息を吐いた。


「渡す」


「ああ」


「消すんじゃなくて、渡す」


「そうだ」


 ミナは何度も頷いた。


 自分に言い聞かせるように。


 その横で、広場の火が小さく揺れている。


 火の役が薪を一本持っていた。


 太い薪ではない。


 細い薪。


 火を消さないための薪。


 火を大きくしすぎないための薪。


「入れていい?」


 火の役が聞いた。


 呼ぶ役が答える。


「小さいの一本」


「大きいのは?」


「まだ」


「火、弱くない?」


「弱い。でも見えすぎない」


 相沢は黙って聞いていた。


 火を見る。


 明るくしたくなる。


 人は暗いと不安になる。


 だが、明るくすれば、森からも見える。


 夜の火は、安心であり、目印でもある。


「火、弱いね」


 子供が言った。


 母親が口を押さえかける。


 マルタが倉庫側から言った。


「弱くしてるんだよ」


 子供は目を瞬かせる。


「なんで?」


「強い火は、遠くから見える」


「暗いよ」


「暗くても、火はある」


 マルタは短く言った。


「火は、あるかないかが先だ。大きいか小さいかは、その次だよ」


 相沢は少しだけ頷いた。


 その言い方は強い。


 だが、分かりやすい。


 火はある。


 ただし、大きくしない。


 今日の村には、それで十分だった。


     ◇


【日曜日 19:08/北柵】


 北では、ガンツとダリオが交代を組んでいた。


 完全な交代ではない。


 片方が座り、片方が立つ。


 座っている方も、武器は手元に置く。


 ダリオが座る番だった。


 だが、座っていても森を見ている。


 ガンツがそれを横目で見る。


「座ってる意味あるのか」


「少しある」


「少しか」


「足が楽」


「目は休んでねぇだろ」


「目は休めない」


「休め」


「無理」


 ガンツは呆れたように息を吐いた。


「お前も回し屋と同じだな」


「違う」


「同じだ。自分だけ例外にする」


 ダリオは黙った。


 森を見る。


 少し長い沈黙。


 それから、短く言った。


「俺は、見ないと役がない」


「馬鹿言うな」


 ガンツの声が低くなる。


「お前が倒れたら、先に気づく目が消える。役ごと消えるんだよ」


 ダリオは少しだけ目を動かした。


 ガンツを見る。


 すぐ森へ戻す。


「じゃあ、少し休む」


「少しじゃねぇ。決めた分だ」


「長い」


「決めた分だ」


 ダリオは不満そうにした。


 だが、弓を膝に置き、背中を柵へ少し預けた。


 目は完全には閉じない。


 それでも、姿勢は少し緩む。


 ガンツはそれを見届け、森へ向き直った。


「赤は」


「見えない」


「普通か」


「近い」


「まだ普通じゃない」


「少し違う」


「分かった」


 ガンツは槍を握る。


「じゃあ、少し違う森を見とく」


 ダリオは返事をしなかった。


 だが、ほんの少しだけ肩が下がった。


     ◇


【日曜日 19:31/南の空き小屋】


 南の小屋は、昨日より静かだった。


 静かすぎるわけではない。


 子供の小さな声。


 布を直す音。


 誰かが咳をする音。


 眠れない大人の息。


 それらがある。


 だが、昨日のような浮き足立つ感じは薄い。


 入口は空いている。


 火は入れていない。


 奥に薪。


 手前に寝る場所。


 入口近くには、村の男と避難民の若い男が座っている。


 立たない。


 座る。


 だが、入口はふさがない。


 その二人の前に、小さな板がある。


 ミナが描いたものだった。


 火なし。


 入口あける。


 外へ出ない。


 三つだけ。


 避難民の子供が板を見ていた。


「外へ出ない」


 子供が小さく読むように言った。


 文字ではない。


 印だ。


 だが、もう意味は分かる。


 避難民の若い男が頷く。


「そうだ」


「鳥が鳴っても?」


「出ない」


「声がしても?」


「大人に言う」


「火は?」


「入れない」


 子供は頷いた。


 村の男が少し驚いた顔をした。


「覚えてるんだな」


「昨日も言われた」


「そうか」


 それだけだった。


 だが、村の男の声は少し柔らかかった。


 避難民の若い男が、入口の外を見る。


 森は見えない。


 だが、北の空気は少し届く。


「今日の昼、北で出たんだろ」


 村の男が言った。


「ああ」


「怖いか」


「怖い」


 避難民の若い男は即答した。


 村の男は少しだけ笑った。


「俺もだ」


 二人はそれ以上言わなかった。


 同じ場所に座って、同じ入口を見た。


     ◇


【日曜日 20:03/治療所前】


 治療所の入口には、布が少し下げられていた。


 中を見せすぎない。


 だが、空気は通す。


 リリアが決めた形だった。


 相沢は治療所前の木箱に座っている。


 リリアに置かれた。


 ミナに確認された。


 マルタに見られた。


 逃げ場はない。


「座っています」


 相沢が言うと、リリアは中の器を確認しながら答えた。


「見れば分かります」


「先に言いました」


「信用を積みたいのですか」


「はい」


「一日では足りません」


「厳しい」


「積み直しですから」


 相沢は返す言葉がなかった。


 治療所の中では、熱の子が眠っている。


 水を飲めた。


 少し汗も出た。


 まだ安心はできない。


 だが、昨日よりは呼吸が浅くない。


「飴は」


 相沢が言った。


「まだ使っていません」


「はい」


「使う時は、私が決めます。マルタにも伝えます」


「分かりました」


 リリアは少しだけこちらを見た。


「そこは丁寧なのですね」


「リリアさんには」


「ガンツ殿には違うのですか」


「最近、怒られました」


「誰に」


「自分に」


 リリアは首をかしげた。


 相沢は少しだけ笑った。


「前に立つ人に、後ろから丁寧すぎると、距離が変になる」


「なるほど」


「ガンツとは、もう少し短く話した方がいい」


「信頼の形ですね」


「たぶん」


 リリアは頷いた。


「では、私には丁寧で構いません」


「はい」


「ただし、無理をする時の丁寧語は信用しません」


「そこまで見ますか」


「見ます」


 リリアは淡々と言った。


 相沢は黙って水を飲んだ。


     ◇


【日曜日 20:28/広場中央】


 火が一度、少し大きくなった。


 薪が乾きすぎていた。


 ぱち、と音がして、火の粉が上がる。


 広場の何人かが反応する。


 北を見る者。


 南を見る者。


 水桶へ動きかける者。


 ミナがすぐ声を出した。


「火だけ!」


 火の役が答える。


「火だけ!」


「火の粉は?」


「小さい!」


「水は?」


「まだ使わない!」


「薪は?」


「次、細いのにする!」


 広場は止まらなかった。


 だが、相沢は見た。


 今の一瞬で、何人かの目が割れた。


 火。


 北。


 南。


 水。


 全部を見ようとした。


 それは自然だ。


 自然だから危ない。


 ミナも見ていた。


 板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 三つ。


 この三つで足りる。


 足りるようにしなければならない。


「火の役、二人にする?」


 ミナが小さく聞いた。


 相沢は少し考える。


「火の横に一人増やすと、火を見る人が増える」


「駄目?」


「駄目じゃない。でも、火が大きくなるたびに人が寄るかもしれない」


「じゃあ」


「火の役は一人。呼ぶ役が声だけ助ける」


「声だけ」


「近づかない」


 ミナは頷いた。


「火は一人。声は呼ぶ役」


「そう」


「水は勝手に使わない」


「そう」


 ミナは火の役に伝えた。


 火の役は少し不安そうだったが、頷いた。


 自分一人で火を見る。


 だが、声は返ってくる。


 それでいい。


     ◇


【日曜日 21:06/井戸前】


 ハルトは井戸の横に座っていた。


 立っていない。


 相沢に言われたからではない。


 リリアに睨まれたからでもない。


 自分で決めた。


 ただし、視線は井戸から外さない。


 横には村の男が立っている。


 今日、半刻だけ任せた男だった。


 桶の印を見ている。


 丸。


 波。


 斜線。


 飲み水。


 確認中。


 使わない。


「丸は飲み水」


 村の男が言う。


「そうだ」


「波は」


「まだ見る水」


「斜線は」


「使うな」


「分かってる」


「分かってるなら言え」


 村の男は少し不満そうにした。


 だが、言った。


「丸は飲み水。波は見る水。斜線は使わない」


「よし」


 ハルトは頷いた。


 避難民の若い男が横で見ている。


「お前、先生みたいだな」


「うるさい」


 ハルトは短く返した。


 だが、怒ってはいない。


 村の男が桶を一つ持ち上げる。


「これは丸」


「飲み水」


「治療所に持っていく」


「誰に渡す」


「リリアさん」


「途中で誰かに言われたら」


「渡さない」


「子供に水って言われたら」


「広場か井戸に言えと言う」


「よし」


 手順が、人の口に移る。


 ハルトはそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。


 前の村で、水場を任されていた時も、似たことをしていた。


 誰が桶を持つか。


 誰に渡すか。


 どこに置くか。


 当たり前のことを、当たり前にする。


 村が焼かれた時、それが全部崩れた。


 今、少し戻っている。


 完全ではない。


 自分の村でもない。


 だが、水場は水場だ。


 守る場所は、ここにある。


     ◇


【日曜日 21:42/北柵】


 森が静かになった。


 今度の静けさは、昼のような急なものではない。


 夜が深くなった静けさだった。


 虫の声がある。


 鳥はいない。


 風はある。


 枝は自然に揺れている。


 ダリオは低く言った。


「普通に近い」


 ガンツが聞く。


「普通でいいのか」


「近い」


「本当に細けぇな」


「違うから」


「何が」


「完全に普通なら、言う」


「普通だって?」


「そう」


「お前が普通って言う日、来るのか」


「来る」


 ガンツは少し笑った。


「なら、聞くまでは信じねぇ」


 ダリオは森を見たまま、小さく頷いた。


 相沢は北にはいない。


 それでいい。


 今、北に相沢はいらない。


 ガンツはそれを意識していた。


 昼、相沢は自分が弱いところだと言った。


 赤が相沢を動かそうとするかもしれない。


 それは、おそらく当たっている。


 相沢は、村の後ろを回す男だ。


 だが、後ろを回す男が前に出れば、村は一瞬そちらを見る。


 赤はそこを見ている。


「ダリオ」


「何」


「赤が回し屋を狙うなら、どう来る」


「本人を呼ぶ」


「声か」


「声。子供。火。水。南」


「多いな」


「動きそうなもの」


 ガンツは低く唸った。


「つまり、あいつが動きそうなもの全部か」


「そう」


「面倒だな」


「そう」


 ダリオは短く答えた。


 ガンツは広場の方を見る。


 火は小さい。


 相沢は見えない。


 座っているはずだ。


 座っていろ。


 ガンツは声に出さずに思った。


     ◇


【日曜日 22:16/広場中央】


 相沢は座っていた。


 だが、眠ってはいない。


 広場の火を見ている。


 水の動きを見ている。


 呼ぶ役の交代を見ている。


 見ているだけ。


 そう言い訳したくなる。


 だが、見ているだけでも疲れる。


 リリアの言葉を思い出す。


 見ているだけで疲れる人もいます。


 その通りだった。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【夜間運用:

 継続】


【火力:

 小規模維持】


【水管理:

 安定】


【伝令経路:

 警戒継続】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 睡眠準備】



「睡眠準備」


 相沢は呟いた。


 ミナがすぐ振り向いた。


「寝る?」


「まだ」


「出たんでしょ」


「準備」


「じゃあ準備」


 ミナは容赦がない。


「治療所前?」


「広場でいい」


「リリアさんに怒られる」


「治療所前で」


「最初からそう言って」


 ミナは立ち上がり、呼ぶ役に声をかける。


「回し屋、治療所前。広場は私」


「分かった」


「火、水、呼ぶ。変えない」


「分かった」


 相沢は反論しようとして、やめた。


 ミナが自分で引き継いでいる。


 なら、邪魔をしない方がいい。


 木箱から立ち上がる。


 少しふらついた。


 ミナが見た。


「今の、ふらついた」


「少し」


「少しじゃない」


「少しだ」


「リリアさんに言う」


「言わなくていい」


「言う」


 相沢は諦めた。


 これも、役が回っているということなのだろう。


     ◇


【日曜日 22:31/治療所前】


 治療所前に戻ると、リリアが布を用意していた。


 相沢は何も言っていない。


 だが、もう用意されていた。


「早いですね」


「ミナが先に来ました」


「密告が早い」


「報告です」


 リリアは淡々と言った。


「ふらついたそうですね」


「少し」


「少しではありません」


「見てないのに」


「ミナが言いました」


「信用されてる」


「はい」


 相沢は黙って座った。


 水を渡される。


 飲む。


 布をかけられる。


 抵抗しない。


「今日は、少しは寝てください」


「努力します」


「努力ではなく、行動です」


「目を閉じます」


「それでいいです」


 リリアは治療所の入口に座った。


 相沢の少し横。


 近すぎず、遠すぎず。


 中の病人も見える。


 広場も少し見える。


 相沢も見える。


 位置取りがうまい。


「リリアさん」


「はい」


「今日は、かなり動きましたね」


「村がですか」


「はい」


「アイザワ殿も、座りました」


「そこを評価されるのは複雑です」


「必要な評価です」


 リリアは広場を見る。


「動くことが役の時もあります。動かないことが役の時もあります」


「分かってはいるんですが」


「分かっていることと、できることは違います」


「刺しますね」


「必要なので」


 今日、何度同じようなことを言われたか分からない。


 だが、嫌ではなかった。


 相沢は目を閉じた。


 火の音。


 水桶の音。


 遠くの声。


 北から、短い声。


「まだ」


 ダリオだ。


 まだ。


 まだ来ない。


 まだ終わらない。


 まだ見ている。


 相沢はその声を聞きながら、浅く息を吐いた。


     ◇


【日曜日 23:18/南の空き小屋】


 南の小屋で、子供が泣いた。


 大きな泣き声ではない。


 夢を見たのだろう。


 短く、細い声。


 だが、夜の村には十分響く。


 入口の若い男が立ち上がりかけた。


 村の男が肩を押さえる。


「立つな」


「子供が」


「中の大人が見る」


「でも」


「入口をふさぐな」


 若い男は止まった。


 中で避難民の女が子供を抱き寄せる。


「大丈夫」


「火」


「火は外」


「外、怖い」


「出ない」


 女の声も震えていた。


 だが、言葉は決まっている。


 出ない。


 入口は空ける。


 火は入れない。


 大人に言う。


 小屋の中で、別の子供が起きかける。


 女が低く言う。


「寝てなさい」


 入口の若い男は、外へ出たくなるのを堪えた。


 広場へ知らせるべきか。


 少し迷う。


 だが、板を見る。


 火なし。


 入口あける。


 外へ出ない。


 子供の泣き声。


 怪我ではない。


 火ではない。


 入口も空いている。


 若い男は小さく息を吐いた。


「知らせない」


 村の男が言った。


「いいのか」


「火でも怪我でもない」


「泣いてる」


「泣く」


 村の男は短く言った。


「子供は泣く」


 若い男は黙った。


 それから頷いた。


 南の小屋は、広場を呼ばなかった。


     ◇


【日曜日 23:46/広場中央】


 広場の火は小さく続いていた。


 呼ぶ役が交代した。


 水の役も交代した。


 ミナはまだ起きている。


 だが、板の前から少し離れて座っていた。


 板に近すぎると、触りたくなる。


 木炭は置いたまま。


 持たない。


 広場の端に、村長が立っている。


「ミナ」


「はい」


「休みなさい」


「まだ」


「その返事は、アイザワ殿に似ています」


 ミナは顔をしかめた。


「それは嫌」


「では、休みなさい」


「……少しだけ」


「少しではなく、決めた分です」


 村長の声は穏やかだった。


 だが、逃げ道はなかった。


 ミナは渋々立ち、交代の少女に板を渡す。


「火、水、呼ぶ」


「分かってる」


「増やさない」


「分かってる」


「北から来たら、赤が見えたか、攻撃があるか聞く」


「分かってる」


「本当に?」


「ミナも休んで」


 ミナは言葉に詰まった。


 周囲で小さな笑いが起きる。


 ミナは少しだけ頬を膨らませたが、木陰の休む場所へ向かった。


 広場は止まらなかった。


 ミナが離れても、板は残った。


 役も残った。


     ◇


【月曜日 0:03/治療所前】


 日付が変わった。


 相沢は目を開けた。


 何かが起きたわけではない。


 ただ、体がその時刻を覚えているようだった。


 月曜日。


 祝日。


 三連休の最後の日。


 それは分かっている。


 分かっているが、それで安心できるほど、転移の条件を知っているわけではなかった。


 土曜日に来た。


 日曜日も残った。


 では、祝日の月曜日はどうなる。


 その答えを、相沢はまだ持っていない。


 月曜になった瞬間、いつものように強制帰還するのか。


 それとも、祝日だからこのまま残るのか。


 あるいは、赤ゴブリンや村の状況とは別に、何か別の条件が動いているのか。


 分からない。


 分からないまま、日付だけが変わった。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【曜日境界:

 通過】


【暦日判定:

 祝日】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【帰還予定:

 未確定】


【夜間運用:

 継続】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 睡眠継続】



「……帰らない」


 相沢は小さく呟いた。


 安堵より先に、不安が来た。


 祝日だから残っているのか。


 それとも、帰れなくなっているのか。


 その違いは大きい。


 リリアが気づく。


「どうしました」


「日付が変わった」


「戻る時刻、ですか」


「その可能性があった」


「今は」


「戻ってない」


「それは、良いことではないのですか」


 相沢はすぐには答えられなかった。


 良い。


 たぶん、良い。


 今ここで消えれば、村は夜を越える途中で一人分の役を失う。


 だが、帰らない理由が分からない。


 それは、別の怖さだった。


「良いことかもしれない」


 相沢は言った。


「でも、分からない」


 リリアは少しだけ黙った。


 それから、静かに言う。


「では、今は分からないものとして置いてください」


 今日、何度も聞いた考え方だった。


 分かることと、分からないことを混ぜない。


 相沢は息を吐いた。


「そうします」


「なら、寝てください」


「そこに戻りますか」


「戻ります」


 リリアは淡々と言った。


 相沢はもう一度、表示を見る。


【滞在状態:継続】


 帰れないのか。


 帰らないだけなのか。


 答えは出ない。


 夜は、まだ続いている。


     ◇


【月曜日 0:28/北柵】


 北では、ダリオが急に顔を上げた。


 森ではない。


 空を見る。


 ガンツが気づく。


「何だ」


「鳥じゃない」


「じゃあ何だ」


「分からない」


「またか」


 ダリオは空から森へ視線を戻す。


 それから、広場の方を見る。


「変だ」


「森か」


「違う」


「何が」


「アイザワ」


 ガンツの顔が変わった。


「どうした」


「分からない。でも、変だ」


「見えたのか」


「見えてない」


「なら何で」


「森じゃないところが、少し動いた」


 ガンツは舌打ちした。


「分からん」


「俺も」


「でも、変なんだな」


「変」


 ガンツは伝令を呼んだ。


「治療所へ。回し屋の様子を見ろ。走るな。騒ぐな」


 伝令が頷く。


 ダリオが続ける。


「北は変化なし、と言え」


「はい」


「アイザワだけ確認」


「はい」


 伝令は早歩きで広場へ向かった。


 ガンツは森を見る。


 赤は見えない。


 だが、今は森よりも、治療所の方が気になった。


「おい、回し屋」


 ガンツは低く呟いた。


「動くなよ」


     ◇


【月曜日 0:36/治療所前】


 伝令が治療所前に来た。


 息は残っている。


 声も抑えている。


「北、変化なし」


 リリアが顔を上げる。


「では、なぜこちらへ」


「ダリオが、アイザワを確認しろと」


 相沢は目を開けた。


「ダリオが?」


「はい。森じゃないところが変だと」


「何だそれ」


 相沢は起き上がろうとした。


 リリアが止める。


「動かないでください」


「でも」


「確認は私がします」


 リリアは相沢の額に手を当てた。


 熱はない。


 脈を見る。


 少し速い。


 呼吸を見る。


 浅い。


「痛みは」


「ない」


「息苦しさは」


「少し」


「表示は」


 相沢は黙った。


 視界の端に、また表示が揺れた。



【曜日境界:

 通過】


【暦日判定:

 祝日】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【外敵行動:

 未確定】


【集落運用:

 継続】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 安静】



「帰還条件、照合中」


 相沢は言った。


 リリアには意味が分からない。


 だが、相沢の顔を見て、悪いものだと判断した。


「今すぐ何か起きますか」


「分からない」


「痛みは」


「ない」


「体は」


「重い」


「それは前からです」


「はい」


 リリアは伝令を見る。


「北へ。アイザワ殿は安静。大きな変化なし。ただし、表示に変化あり」


 伝令は頷く。


「表示に変化あり」


「騒がないでください」


「はい」


 伝令は戻っていく。


 相沢は天井ではなく、夜空を見た。


 曜日境界。


 祝日。


 帰還条件。


 照合中。


 赤ゴブリン。


 村。


 夜。


 全部が別々の問題ではなく、どこかでつながり始めている気がした。


     ◇


【月曜日 0:52/広場中央】


 広場には、まだ三つの印だけがある。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 だが、呼ぶ役の表情が少し硬い。


 北からの伝令。


 治療所への確認。


 表示の変化。


 それらが、薄く広場に届いている。


 ミナは休む場所から戻りかけた。


 村長が止める。


「まだ休みの時間です」


「でも」


「広場は動いています」


「回し屋が」


「リリアが見ています」


「でも」


「ミナ」


 村長の声が少しだけ強くなった。


「あなたが戻ると、広場がアイザワ殿を見る」


 ミナは止まった。


 唇を噛む。


 だが、戻らない。


「……分かりました」


「火、水、呼ぶ」


 村長が言う。


 ミナは小さく答えた。


「火、水、呼ぶ」


「今、見る場所はそこです」


「はい」


 ミナは休む場所へ戻った。


 完全には眠れない。


 それでも、戻った。


 広場は、相沢の異変に引っ張られかけた。


 だが、まだ引っ張られていない。


     ◇


【月曜日 1:17/北柵】


 伝令が戻った。


「アイザワ、安静。大きな変化なし。表示に変化あり」


 ガンツが眉を寄せる。


「表示ってやつか」


「はい」


 ダリオが聞く。


「動いた?」


「アイザワは動いてません」


「違う。周り」


「治療所はそのまま。広場もそのまま」


 ダリオは少しだけ頷いた。


「ならいい」


 ガンツは森を見る。


「赤は」


「見えない」


「今夜、来ると思うか」


 ダリオは答えるまでに少し時間を置いた。


「分からない」


「嫌な返事だな」


「でも、赤が今来たら、村はアイザワを見る」


「それが狙いか」


「かもしれない」


 ガンツの手に力が入る。


「なら、来るな」


「来るかもしれない」


「なら止める」


「見る」


 短いやり取り。


 それで足りた。


 ガンツは前を見る。


 ダリオは森を見る。


 広場には戻らない。


 相沢の様子を見に行かない。


 行きたい気持ちはある。


 だが、行かない。


 ここを空ければ、赤が喜ぶ。


     ◇


【月曜日 1:46/治療所前】


 相沢は眠れなかった。


 目を閉じても、表示の言葉が残る。


 祝日。


 帰還条件。


 照合中。


 今まで、転移は理不尽だった。


 だが、どこかで一定のルールがあった。


 土曜日に来る。


 日曜日に残る。


 月曜日に戻る。


 そう思っていた。


 だが、今日は月曜日でも祝日だ。


 祝日だから残っているだけなのか。


 それとも、帰還の条件そのものが揺れているのか。


 分からない。


 分からないことを混ぜるな。


 今日、何度も言った。


 なら、自分にも使う。


 分かること。


 月曜日になった。


 月曜日は祝日。


 帰還は起きていない。


 表示はいつもと違う。


 体が重い。


 痛みはない。


 村は動いている。


 赤は見えていない。


 分からないこと。


 祝日が正式な転移条件なのか。


 帰還が遅れているだけなのか。


 表示変化の意味。


 赤の狙い。


 相沢はゆっくり息を吐いた。


 混ぜるな。


 そう思った瞬間、表示が一つ増えた。



【判断補助:

 分類実行】


【未確定項目:

 保持】


【推奨:

 追加判断保留】



「保留」


 相沢は呟いた。


 リリアがこちらを見る。


「また表示ですか」


「ああ」


「何と」


「判断を保留しろ」


「良い表示です」


「そうですね」


「では、保留してください」


 リリアの言い方は静かだった。


 だが、逃げ道はなかった。


 相沢は目を閉じた。


 分からないものは、分からないまま置く。


 今夜はそれでいい。


 村がそうしている。


 自分も、そうする。


     ◇


【月曜日 2:24/広場中央】


 夜は続いた。


 火は小さい。


 水は守られている。


 呼ぶ役は眠そうだが、起きている。


 南の小屋は静か。


 倉庫は閉まっている。


 井戸の桶には印がある。


 治療所の布は少し下がっている。


 北にはガンツとダリオがいる。


 相沢は眠りかけている。


 完全な安全ではない。


 だが、完全な崩壊でもない。


 村は、薄い夜の上に乗っていた。


 その時、森の奥で、低い音がした。


 北から笛が一度。


 短く。


 広場が止まりかける。


 呼ぶ役が声を出す。


「北、何!」


 伝令は来ない。


 代わりに、北からガンツの低い声が届いた。


「動くな!」


 広場が止まる。


 いや、止まりかけたまま、踏みとどまる。


 ミナが休む場所から顔を上げる。


 村長が視線で止める。


 火の役が火を見る。


 水の役が桶を見る。


 呼ぶ役が立つ。


 だが、走らない。


 北から、ダリオの声がした。


「見せてるだけ!」


 続いて、ガンツ。


「広場はそのまま!」


 ミナが、休む場所から叫んだ。


「火、水、呼ぶ!」


 広場が動きを戻す。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 夜の板が、夜を支えた。


     ◇


【月曜日 2:31/北柵】


 森の奥に、赤いものがいた。


 見える。


 だが、遠い。


 昨夜よりも遠い。


 ただ、わざと見える位置にいる。


 赤ゴブリンは動かない。


 襲わない。


 ただ立っている。


 ガンツが槍を握る。


「来るか」


「来ない」


 ダリオが言う。


「見せてるだけ」


「何を」


「自分を」


「何のためだ」


「広場を動かすため」


 ガンツは歯を食いしばった。


 今、赤ゴブリンが姿を見せれば、広場は北を見る。


 そして、相沢の表示異常もある。


 村は相沢を見る。


 北を見る。


 火を見る。


 水を見る。


 目が割れる。


 その狙いだ。


「撃てるか」


「遠い」


「届くか」


「届くかもしれない」


「撃つな」


 ガンツが先に言った。


 ダリオが少しだけ目を動かす。


「撃たない」


「見せに来たなら、こっちも見せねぇ」


「そう」


 赤ゴブリンが、ゆっくり首を傾けた。


 人間のような動き。


 気持ち悪いほど静か。


 ガンツは低く言った。


「見てろ、ダリオ」


「見てる」


「俺は前を見る」


「分かってる」


「広場は」


 遠くから、ミナの声が届く。


「火、水、呼ぶ!」


 ガンツは口の端を少しだけ上げた。


「戻ったな」


「戻った」


 ダリオは森を見たまま言った。


 赤ゴブリンは、しばらくそこにいた。


 やがて、森の奥へ消えた。


 音は少ない。


 逃げたのではない。


 見て、引いた。


     ◇


【月曜日 2:49/治療所前】


 相沢は目を開けていた。


 北の声は聞こえた。


 赤が見えたことも、伝令から聞いた。


 立ち上がろうとはしなかった。


 リリアに止められたからではない。


 自分で止めた。


 広場が戻った。


 ミナが叫んだ。


 ガンツが止めた。


 ダリオが見た。


 相沢が行かなくても、村は反応した。


 それが分かったからだった。


「行きませんでしたね」


 リリアが言った。


「ああ」


「今、丁寧ではありませんね」


「ガンツがいたから」


「私はここにいます」


「あ」


 相沢は少し固まった。


 リリアは小さく笑った。


「構いません。今の方が自然でした」


「そうですか」


「はい」


 相沢は息を吐いた。


 疲れている。


 だが、少しだけ軽い。


 動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動かなかった。


 それは、小さいが大きい。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【敵主力:

 遠隔視認】


【敵行動:

 誘導/反応確認】


【集落反応:

 過剰集中なし】


【対象:

 相沢誠司】


【過剰介入:

 抑制】


【帰還条件:

 照合中】


【滞在状態:

 継続】


【推奨:

 睡眠再開】



「睡眠再開」


 相沢は呟いた。


 リリアが布を直す。


「従ってください」


「分かりました」


「今度は丁寧ですね」


「難しいですね」


「使い分けです」


 リリアは淡々と言った。


 相沢は目を閉じた。


 赤は来た。


 だが、村は崩れなかった。


 相沢も動かなかった。


 夜はまだ終わらない。


 そして、月曜日になっても、相沢はまだここにいる。


 それが祝日のせいなのか。


 別の異常なのか。


 まだ分からない。


 だが、今は動かない。


 分からないものを、分からないまま置く。


 それも、今日覚えた役の一つだった。


     ◇


【月曜日 4:58/広場中央】


 夜明け前。


 一番冷える時間。


 広場の火は、まだ小さく残っていた。


 水桶もある。


 呼ぶ役は交代している。


 南の小屋は静か。


 井戸も静か。


 倉庫も閉じている。


 北からは、ときどき短い声。


「まだ」


 その声は、もう恐怖だけではなかった。


 村の夜の一部になっている。


 相沢は、浅い眠りの中でその声を聞いた。


 まだ。


 まだ終わらない。


 だが、まだ持っている。


 東の空が、少しだけ薄くなり始めた。


 月曜日の朝が近づいていた。


 三連休の最後の日。


 残れたのか。


 帰れなくなったのか。


 その違いは、まだ分からない。


 相沢の視界の端で、誰にも見えない表示が一つだけ、静かに揺れていた。



【帰還条件:

 照合中】



 まだ、帰らない。


 それが救いなのか。


 危険なのか。


 今の相沢には、分からなかった。

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