第九十二話 戻りすぎた森
【日曜日 11:42/北柵】
鳥が多い。
それだけなら、相沢には危険に見えなかった。
朝が明け、森が戻り、鳥が鳴く。
普通なら、いいことのはずだ。
だが、ダリオは違うと言った。
「多すぎる」
短い声だった。
ダリオは弓を持っている。
まだ引いていない。
矢も番えていない。
だが、指は弦の近くにある。
ガンツは槍を持ち、柵の内側に立っていた。
前へ出ない。
森へ入らない。
だが、いつでも前を止められる位置。
相沢は二人の少し後ろにいた。
そこが自分の位置だと、もう分かっていた。
「鳥が多いと、何が悪い」
ガンツが聞いた。
「戻り方が違う」
「さっきも言ってたな」
「普通は、端から戻る」
ダリオは森を見たまま言った。
「近い枝。低い枝。細い枝。そこに一羽ずつ戻る」
「今は」
「奥から出た」
「追われた?」
「たぶん」
相沢は森を見る。
鳥の声。
羽音。
枝の揺れ。
それらが全部、同じに見える。
だが、ダリオの中では違うのだろう。
戻っている鳥。
逃げている鳥。
押し出されている鳥。
それを分けている。
「赤が動いた?」
相沢が聞く。
「見えない」
「でも、そう思う?」
「奥で何かが動いた」
「赤とは限らない」
「限らない」
ダリオは即答した。
「でも、普通じゃない」
見えたもの。
見えていないもの。
推測。
断定。
ダリオは混ぜない。
相沢はそれがありがたかった。
怖い時ほど、人は言い切りたくなる。
赤が来た。
敵だ。
危ない。
そう言えば、動きやすい。
だが、間違えば村が動く。
動いた村は、戻すのが難しい。
「広場には、どう言う」
ガンツが聞いた。
相沢は少し考えた。
「鳥が多い。北警戒。人は増やさない。作業は止めない」
「赤は」
「見えてないなら言わない」
ダリオが小さく頷いた。
「それでいい」
ガンツは伝令を見る。
「聞いたな」
「はい」
「走るな」
ダリオが先に言った。
若い見張りは、もう一度頷いた。
「走りません」
伝令は北柵を離れた。
早歩き。
息を残す。
相沢はその背中を見送った。
こういう細い手順が、今は命に近い。
◇
【日曜日 11:49/広場中央】
伝令は、広場まで走らなかった。
それだけで、広場はまだ崩れなかった。
ミナが板の前で待っている。
板には、朝の五つ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
水の印には小さな丸。
食料の印には波。
井戸と倉庫の詳細は、それぞれの板にある。
広場には全部を置かない。
伝令が息を整えて言う。
「北、鳥が多い」
ミナが聞く。
「赤は?」
「見えてない」
「音は?」
「鳥。多い。ダリオが、戻り方が違うって」
「攻撃は?」
「なし」
「北に人を増やす?」
「増やさない。作業止めない」
ミナは頷いた。
「広場、そのまま!」
声が飛ぶ。
「北は警戒! でも人は増やさない! 水、食料、仕事、そのまま!」
村人の何人かが北を見た。
だが、動かない。
避難民も顔を上げたが、立たない。
マルタが倉庫前から言う。
「袋は止めないよ!」
ハルトが井戸側から返す。
「水も予定通り!」
リリアが治療所前から言う。
「治療所、変化ありません!」
声が返る。
場所が返る。
相沢がいなくても、広場は処理した。
ミナは板を見た。
北の印を足したくなる。
鳥の印を描きたくなる。
だが、手を止めた。
描かない。
北は北。
広場は広場。
「……描かない」
ミナは自分に言った。
それから、呼ぶ役に言う。
「北から次が来たら、赤が見えたか、攻撃があるか、そこを聞いて」
「分かった」
「鳥が多いだけなら、広場は変えない」
「分かった」
ミナは息を吐いた。
少しだけ手が震えていた。
だが、板には余計な印は増えていなかった。
◇
【日曜日 11:58/北柵】
鳥の声が、さらに増えた。
森が騒がしい。
だが、敵の姿はない。
それがかえって嫌だった。
ガンツが低く言う。
「来るなら来い」
「言うな」
ダリオが短く止めた。
「何でだ」
「来る気がない時に言っても、来ない」
「気分の問題だ」
「気分で森は変わらない」
「お前は本当に面倒だな」
「見てるだけだ」
ガンツは鼻を鳴らした。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
緊張の中で、その会話がかろうじて息を作っている。
相沢は森を見た。
「これは、誘いか?」
「分からない」
ダリオが答える。
「鳥を動かして、こっちを北に寄せる?」
「それもある」
「他は」
「南」
相沢は顔を向けた。
「南?」
「北を見せて、南を見る」
片目の時と同じだ。
北で音を鳴らす。
村が北を見る。
その間に南を見る。
昨日、片目がそう動いた。
「南の小屋か」
ガンツが言う。
ダリオは頷く。
「かもしれない」
相沢はすぐに言った。
「伝令。南の小屋に警戒。人は増やさない。入口と火だけ確認」
若い見張りが動こうとする。
ダリオがまた言う。
「走るな」
「はい」
伝令が出る。
相沢は自分の足を見た。
行きたくなる。
南を見たい。
広場を見たい。
井戸も倉庫も治療所も見たい。
だが、それをやれば、全部が相沢に戻る。
それでは駄目だ。
相沢は北柵に残った。
今、自分は北の情報を整理する。
南は南の役が見る。
◇
【日曜日 12:07/南の空き小屋】
南の小屋では、昼前の片づけが続いていた。
避難民の子供たちは、小屋の奥にいる。
入口は空いている。
火はない。
水桶は置いていない。
昨日決めた通りだった。
村の男と避難民の若い男が、入口近くで作業している。
そこへ伝令が来た。
「北、鳥が多い。南も確認。人は増やすな」
村の男が顔を上げる。
「敵か」
「見えてない」
「じゃあ何を」
「入口と火を見ろって」
避難民の若い男がすぐ入口を見る。
「空いてる」
村の男が小屋の中を見る。
「火はない」
子供が一人、立ち上がりかける。
「外?」
避難民の女が止める。
「出ない」
「でも鳥」
「出ない」
若い男が言った。
少し強い声だった。
「入口は空ける。でも出ない」
昨日の板。
入口。
火なし。
逃げ道。
それが残っている。
子供は不満そうにしたが、座った。
村の男が言う。
「外に人を増やすなって言われてる」
「じゃあ、中にいろ」
避難民の若い男が答える。
ぎこちない。
だが、同じ判断だった。
南の小屋は、騒がなかった。
◇
【日曜日 12:16/倉庫前】
倉庫前では、湿った袋の仕分けが続いていた。
鳥の騒ぎは聞こえている。
北の伝令も来た。
だが、マルタは袋から目を離さない。
「手を止めるんじゃないよ」
若い女が言う。
「でも、北が」
「北は北が見る」
「南もって」
「南は南が見る」
「倉庫は」
「私が見る」
マルタは短く言った。
それだけで、作業が戻る。
透明な袋に、丸。
波。
斜線。
布袋にも、紐の色を変える準備が始まっている。
色は多くない。
だから、結び方を変えることにした。
丸の代わりに、輪にした紐。
波の代わりに、二重結び。
斜線の代わりに、端を垂らす。
記録係が必死に写している。
相沢がいなくても、マルタは進めていた。
「袋は便利」
マルタが言う。
「でも、袋がなくても間違えないようにする」
若い女が頷く。
「輪は食べられる」
「まだ違う」
マルタが即座に言う。
「輪は、今のところ使う袋。食べられるかは私が見る」
「はい」
「印を勝手に読んで勝手に食べるな。印は、考える入口だ。答えじゃない」
相沢が聞けば、かなり喜びそうな言葉だった。
だが、相沢はいない。
それでも言葉は生まれていた。
◇
【日曜日 12:28/北柵】
森の鳥が、一瞬だけ静かになった。
全員が止まった。
いや、止まりかけた。
ダリオだけが、すぐに言った。
「息を止めるな」
見張りが息を吐く。
ガンツも、わずかに肩を下げる。
相沢も、自分が息を止めていたことに気づいた。
吐く。
吸う。
止めない。
「来るか」
ガンツが聞く。
ダリオは森を見る。
長い。
いつもより長い沈黙。
それだけで、相沢の背中が冷える。
「まだ、ではない」
ダリオが言った。
その言い方が、また嫌だった。
「どういう意味だ」
ガンツが聞く。
「来るかもしれない。でも、来る場所が違う」
「北じゃない?」
「北を見せてる」
「本体は?」
「見えない」
「何が来る」
「小さい」
ダリオが弓を上げた。
今度は矢を番える。
ガンツが槍を構えた。
相沢の体も前に出かける。
だが、足を止めた。
前に出るのはガンツ。
先に見るのはダリオ。
自分は、後ろへ返す。
「伝令」
相沢が言う。
声が少し低くなった。
「広場へ。北、小さい影の可能性。人を増やすな。南と井戸は確認だけ。倉庫は閉めるな。治療所は入口を見せすぎない」
若い見張りが頷く。
ダリオが言う。
「走るな」
「分かってます」
伝令が出る。
その直後。
森の低い草が、三つ動いた。
◇
【日曜日 12:31/北柵】
「三つ」
ダリオが言った。
弓を引く。
ガンツが槍を構える。
「ゴブリンか」
「小さい」
「赤ではない」
「違う」
草の中から、小さな影が出た。
普通のゴブリン。
いや、普通より少し痩せている。
三体。
低い姿勢。
走っては来ない。
跳ねるように、左右へ散る。
「柵を見るな」
ダリオが言った。
「何を見る」
ガンツが聞く。
「足」
ガンツは影の足元を見る。
三体は、北柵へまっすぐ来ていない。
左右へ広がっている。
一体は北。
一体は少し東。
一体は、森の端を沿うように西へ。
「散らしてる」
相沢が言った。
「広げるためか」
ガンツが言う。
「北の目を割るため」
ダリオが答えた。
矢を引いたまま、まだ撃たない。
「撃てるか」
「撃てる」
「どれだ」
「西」
「なぜ」
「一番見えにくいところへ行く」
「撃て」
「まだ」
ガンツが歯を食いしばる。
だが、待つ。
ダリオの「まだ」は、もう村の判断の一部になっている。
三体が動く。
西へ行く影が、倒木の陰に入ろうとした。
ダリオが言った。
「今」
矢が飛んだ。
小さな影が倒れた。
残り二体が跳ねる。
北へ来た一体が、柵の前で石を投げた。
小さい石。
狙いは人ではない。
柵の内側の火消し用の水桶。
石が桶に当たり、音を立てた。
見張りが反射的にそちらを見る。
「見るな!」
ガンツが怒鳴った。
「前を見ろ!」
だが、一瞬、目が割れた。
その一瞬を、東へ寄っていたもう一体が走る。
柵ではない。
柵の脇。
伝令の通る細い場所。
「呼ぶ道!」
相沢が叫んだ。
ガンツが動いた。
前に出る。
柵の内側から、槍を突き出す。
ゴブリンは飛び退く。
ダリオが二本目を番える。
「撃つな、まだ!」
相沢が言った。
ダリオの指が止まる。
ガンツが一瞬だけこちらを見る。
「なぜだ!」
「伝令の道を見せるな!」
ゴブリンは逃げようとしていない。
見ている。
どこから人が出るか。
どこが反応するか。
伝令がどこを通るか。
それを見ている。
赤ゴブリンの目だ。
片目はいない。
だが、目の代わりを使っている。
「押し返せ!」
相沢が言った。
「倒すより、道を見せるな!」
ガンツが笑った。
獰猛な笑いだった。
「分かった!」
槍が横に払われる。
ゴブリンは近づけない。
ダリオは矢先を少し下げた。
撃つためではない。
逃げ道を狭めるため。
北へ来た一体が、また石を投げようとする。
その手を、ダリオの矢が抜いた。
殺していない。
落とした。
ゴブリンが叫ぶ。
残りの一体が森へ跳ぶ。
ガンツが追わない。
「追うな!」
相沢が言うより早く、ガンツが言っていた。
森の奥で、何かが動いた。
赤いものは見えない。
だが、見られている。
◇
【日曜日 12:39/広場中央】
北からの報告は短かった。
伝令は顔を青くしていた。
だが、走り崩れてはいない。
「北、小ゴブリン三! 一体倒した! 一体負傷! 一体逃げた!」
ミナが即座に聞く。
「赤は?」
「見えない!」
「北は破られた?」
「破られてない!」
「怪我人は?」
「なし!」
「水は?」
「北の桶に石。当たっただけ!」
ミナは板を見た。
手が動きそうになる。
北。
ゴブリン。
石。
桶。
伝令道。
描きたくなる。
だが、描かない。
「広場、そのまま!」
ミナは叫んだ。
「北は破られてない! 怪我人なし! 水、井戸確認! 倉庫、作業続けて! 南、入口確認!」
マルタが倉庫前から返す。
「倉庫、続ける!」
ハルトが井戸側から返す。
「井戸、水確認する!」
リリアが治療所前から返す。
「治療所、変化なし!」
南からも声が上がる。
「入口、空いてる! 火なし!」
声が返る。
ミナは息を吐いた。
震えている。
だが、止まっていない。
北で戦闘が起きた。
それでも広場は、全部を北へ流さなかった。
◇
【日曜日 12:47/北柵】
倒した小ゴブリンは、柵の外、森の手前に転がっていた。
取りに行かない。
もう、誰も言わなかった。
ガンツは槍を持ったまま、息を整えている。
ダリオは森を見ている。
相沢は、北柵の内側で座り込んだ。
足に力が入らなくなった。
「座ったな」
ガンツが言う。
「自主的に」
「珍しい」
「うるさい」
ガンツは少し笑った。
だが、すぐ森を見る。
「今のは何だ」
「試し」
相沢が答える。
「だろうな」
「北を破るためじゃない。伝令の道、水桶、反応を見るため」
ダリオが頷く。
「西のやつは、見えにくいところへ行った」
「東のやつは、呼ぶ道を見た」
「北のやつは、桶を鳴らした」
ガンツが低く唸る。
「全部、目か」
「目と音」
相沢は言った。
赤ゴブリンは、片目を失った。
だから、別の見方を使ってきた。
小ゴブリンを散らし、石を投げ、音を作り、視線を割る。
ただの襲撃ではない。
運用を見に来た。
「嫌なやつだ」
ガンツが言った。
「ああ」
相沢は頷いた。
ダリオが森を見たまま言う。
「でも、見せなかった」
相沢は顔を上げる。
「何を」
「全部は」
短い。
だが、十分だった。
全部は見せなかった。
伝令の道は完全には割られていない。
北は追わなかった。
広場は崩れなかった。
井戸も倉庫も南も動きすぎなかった。
それは、勝ちではない。
だが、負けでもない。
◇
【日曜日 13:08/広場中央】
相沢が広場へ戻ると、ミナが板の前に立っていた。
顔は白い。
だが、板は増えていない。
朝の五つ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
その横に、残す板が置かれている。
北の小襲撃は、そこに記録係が書いていた。
見る板ではない。
残す板。
相沢はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「増やさなかった」
ミナが言った。
「え?」
「私、増やさなかった」
「ああ」
「褒めて」
「かなり良い」
「またそれ」
「本当に良い」
ミナは少しだけ笑った。
だが、すぐに顔を引き締める。
「北、怖かった?」
「怖かった」
「回し屋も?」
「怖かった」
「じゃあ、怖くても増やさない」
「そう」
「怖くても、全部見ない」
「そうだ」
ミナは板を見る。
「分かった気がする」
「何が」
「見るって、増やすことじゃないんだね」
相沢は黙った。
それは、相沢が何度も失敗していることだった。
不安になると、情報を増やす。
項目を増やす。
確認を増やす。
だが、増やしすぎると、見えなくなる。
ミナは、それを今、自分の言葉にした。
「そうだな」
相沢は言った。
「見るために、減らすこともある」
ミナは頷いた。
その時、システム表示が浮かんだ。
⸻
【小規模襲撃:
北柵周辺】
【人的損耗:
なし】
【防衛線:
維持】
【敵行動:
反応確認/伝令経路確認の可能性】
【集落運用:
継続】
【情報混在:
抑制】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
中〜高】
【推奨:
着座】
⸻
「着座」
相沢は呟いた。
ミナが木箱を指した。
「はい」
「早い」
「表示より早くなりたい」
「何と競ってるんだ」
「オカン」
「勝たなくていい」
ミナは少しだけ笑った。
相沢は木箱に座った。
今度は、素直に。
◇
【日曜日 13:36/広場中央】
昼の粥は、さらに遅れた。
北の小襲撃。
井戸の確認。
倉庫の仕分け。
全部が重なった。
それでも、配膳は崩れなかった。
マルタが言う。
「今日は遅い。薄い。だが、回す」
誰も笑わなかった。
だが、誰も列を崩さなかった。
ハルトが井戸の印を確認する。
リリアが病人用を受け取る。
ミナが列を見る。
村長が後ろに立つ。
ガンツとダリオの分は、北へ運ぶ。
北を空けない。
それも決まった。
相沢は椀を受け取る。
薄い粥。
温かい。
朝よりさらに少ない。
だが、手順を経た水で作られている。
仕分けた食料で作られている。
誰かが勝手に開けた袋ではない。
誰かが慌てて汲んだ水ではない。
その意味が、椀の軽さとは別に重かった。
「アイザワ殿」
村長が横に座った。
珍しい。
「はい」
「村は、今日も揺れました」
「はい」
「ですが、倒れてはいません」
相沢は椀を見る。
「はい」
「これは、あなた一人の働きではありません」
相沢は村長を見る。
村長は広場を見ていた。
「ミナが広場を見ました。ハルトが井戸を見ました。マルタが食料を見ました。リリアが治療所を見ました。ガンツとダリオが北を見ました」
「はい」
「あなたは、座りました」
「そこを並べますか」
「大事なことです」
村長は静かに言った。
「アイザワ殿が動かないことで、動ける者もおります」
相沢は返事に詰まった。
それは、褒め言葉のようで、かなり重い指摘だった。
自分が動くと、誰かの役を奪う。
自分が見すぎると、誰かが見なくなる。
自分が走ると、村が走る。
だから、座る。
「難しいですね」
相沢が言う。
「難しいです」
村長は頷いた。
「ですが、必要です」
◇
【日曜日 14:08/北柵】
昼の粥が北へ届いた。
ガンツは片手で受け取り、すぐ食べようとした。
ダリオは森を見たまま受け取らない。
運んできた若い女が困る。
「ダリオさん」
「置いて」
「どこに」
「そこ」
ダリオは目を離さずに言う。
ガンツが椀を受け取り、柵の内側の平らな石に置いた。
「食え」
「後で」
「今食え」
「見てる」
「食いながら見ろ」
「こぼす」
「子供か」
ガンツが呆れる。
若い女が少しだけ笑った。
ダリオは不満そうに眉を寄せたが、椀を取った。
森から目を完全には離さないまま、少し食べる。
「薄い」
「全員薄い」
ガンツが言う。
「知ってる」
「文句か」
「感想」
「面倒だな」
ダリオはまた森を見る。
だが、椀は手放さない。
少しずつ食べている。
ガンツはそれを見て、鼻を鳴らした。
「森を見る男も、粥は食うんだな」
「食わないと見えなくなる」
「分かってるならいい」
北柵の緊張が、少しだけ緩んだ。
だが、森の奥はまだ落ち着かない。
鳥は戻った。
虫も鳴いている。
小さい獣も、少し戻った。
だが、ダリオはまだ普通とは言わなかった。
◇
【日曜日 14:42/倉庫前】
湿った袋の仕分けは、昼過ぎに一区切りついた。
完全ではない。
だが、分けた。
無事。
怪しい。
駄目。
透明な袋と、布袋の紐。
記録係の板。
マルタの目。
それらで、混ざることは防げた。
「七日分が十日にはならないね」
若い女が言った。
相沢は頷いた。
「なりません」
「じゃあ、どれくらい?」
「分かりません。でも、間違えて捨てる分と、間違えて開ける分は減ります」
「それで伸びる?」
「少し」
「少しか」
「少しです」
相沢は正直に言った。
「でも、その少しで夜を越えることがあります」
若い女は黙った。
マルタが横から言う。
「飯は、少しずつ死ぬんだよ」
相沢はマルタを見る。
「湿って、こぼれて、混ざって、間違えて。そうやって少しずつ死ぬ」
マルタは分けた袋を見る。
「なら、少しずつ守るしかない」
相沢は頷いた。
「はい」
「派手じゃないね」
「派手じゃないです」
「でも、嫌いじゃないよ」
マルタはそう言って、怪しい袋をもう一度見た。
「これは夕方までに広げる。日が落ちたら戻す。夜露に当てるな」
「はい」
「記録係、書いたかい」
「書きました」
「なら、次。病人用」
作業は続く。
派手ではない。
だが、進んでいる。
◇
【日曜日 15:18/広場中央】
午後の広場は、朝より静かだった。
疲れが出ている。
当然だった。
夜から井戸。
井戸から食料。
食料から北。
北から昼。
村は止まっていないが、疲れている。
相沢は板を見る。
休む人の印が、あまり動いていない。
危ない。
「休む人を動かします」
相沢が言った。
ミナが頷く。
「誰から?」
「夜番に入る人」
「ガンツとダリオ?」
「北は交代が難しい。まず、広場と井戸と倉庫」
ハルトが井戸側から来ていた。
「井戸は俺が」
「だから交代」
「まだ見られる」
「見られるかどうかじゃない」
相沢が言うと、ハルトは嫌そうな顔をした。
「それ、俺の言葉だな」
「借りる」
「返せ」
「使ってから」
ミナが少し笑う。
ハルトは舌打ちした。
だが、拒否はしなかった。
「井戸は半刻、村の男に見させる。俺は横で座る」
「横で口を出しすぎるな」
「それは無理だ」
「努力」
「……努力する」
相沢は頷いた。
マルタにも休ませる。
リリアにも水を飲ませる。
ミナも座らせる。
相沢自身も座る。
休息管理。
オカンが出る前にやる。
そう思った瞬間、表示が浮かんだ。
⸻
【集落疲労:
上昇】
【判断精度:
低下予兆】
【推奨:
役割別休息】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
本人含む】
⸻
「本人含む」
相沢は呟いた。
ミナが覗く。
「本人含む?」
「俺も休めって」
「正しい」
「知ってた」
「じゃあ休んで」
「はい」
反論しない。
今日は、それができた。
◇
【日曜日 16:02/広場中央】
休息は、思ったより難しかった。
休めと言われても、休めない者が多い。
見ていたい。
動いていたい。
何かしていないと怖い。
それは村人も避難民も同じだった。
だから、休む場所も決めた。
広場から少し離れた木陰。
北が見えない場所。
井戸が見えない場所。
倉庫が見えない場所。
見えると休まない。
マルタが言った。
「なるほどね。見えない場所に置くのかい」
「はい」
「怠け者に見えないように?」
「それもあります」
「休んでる姿を見ると、腹が立つ者もいる」
「はい」
「見えなきゃ、腹も立ちにくい」
「そうです」
マルタは頷いた。
「嫌なところまで見てるね」
「仕事でよくあります」
「どこの働き場も面倒だね」
「かなり」
マルタは短く笑った。
休む人の印が、少しずつ動く。
広場の板から、休む場所の小さな板へ。
それだけで、広場が少し軽くなる。
ミナが言った。
「休む人を見えるところに置くと、みんな気にする」
「そう」
「見えないと、忘れる?」
「完全に忘れるのは駄目。役の人が覚える」
「広場は全部覚えない」
「そう」
ミナは頷いた。
「また減らす話だ」
「増やすより難しい」
「うん」
◇
【日曜日 16:47/北柵】
森は、夕方に向かって色を変え始めていた。
昼のざわつきは、少し落ち着いた。
だが、ダリオはまだ弓を手放さない。
ガンツも、槍を近くに置いて座っている。
相沢は北へ来ていた。
今回は、呼ばれてから来た。
自分からではない。
「どうだ」
相沢が聞く。
ダリオは森を見る。
「普通に近い」
「普通?」
「近い」
「普通ではない?」
「少し違う」
ガンツが言う。
「こいつの普通は細かすぎる」
「細かい方が助かる」
相沢が言うと、ガンツは肩をすくめた。
「それはそうだ」
ダリオが森の低い枝を見る。
「今日は、もう大きくは来ないかもしれない」
「なぜ」
「見たいものは見た」
「赤が?」
「たぶん」
相沢は黙る。
赤ゴブリンが今日見たもの。
井戸の石で、村がどれだけ揺れるか。
鳥で、北へ人が寄るか。
小ゴブリンで、伝令の道や水桶に反応するか。
食料や南や治療所が崩れるか。
そして。
村は、完全には崩れなかった。
「次は、もっと強いか」
ガンツが言う。
ダリオは答えない。
相沢が代わりに言った。
「強いというより、狙いが絞られるかもしれない」
「どこを」
「今日、少し揺れたところ」
「井戸か」
「井戸。伝令。休息。あと、南の小屋」
ガンツは槍を見た。
「全部じゃねぇか」
「全部じゃない。倉庫はマルタさんが締めてる。治療所はリリアさんが見せすぎてない。広場はミナが増やさなかった」
「じゃあ、弱いところは」
相沢は少し迷った。
「俺だ」
ガンツがこちらを見る。
ダリオも一瞬だけ視線を向けた。
「お前か」
「ああ」
「何でだ」
「俺が動くと、村が動く。赤もそれを見てる」
ガンツは黙った。
ダリオが短く言う。
「見た」
「赤が?」
「昨夜、お前を見た」
相沢は頷いた。
「だから、次は俺を動かそうとするかもしれない」
ガンツの顔が険しくなる。
「なら、動くな」
「ああ」
「本当にだぞ」
「分かってる」
「信用できねぇ」
「俺もだ」
ガンツは舌打ちした。
「自分で言うな」
ダリオが森を見たまま言った。
「動いたら、止める」
「誰が」
相沢が聞く。
「見えた者が」
短い。
だが、重い。
相沢は頷いた。
「頼む」
◇
【日曜日 17:23/広場中央】
夕方の板を作る時間になった。
朝の五つから、夜の三つへ。
昨日もやった。
だが、今日は少し違う。
北で小襲撃があった。
井戸に異常があった。
食料の仕分けも途中。
休息も管理中。
減らすのが怖い。
ミナは板の前で、木炭を握ったまま止まっていた。
「減らす?」
相沢が聞く。
「減らす」
ミナは答えた。
だが、手が動かない。
「怖い?」
「怖い」
「俺も怖い」
「でも、減らす?」
「減らす」
ミナは深く息を吸った。
火。
水。
呼ぶ。
三つを残す。
北は消す。
食料も消す。
休む人も消す。
ただし、消えたわけではない。
北は北が見る。
食料はマルタが見る。
休む人は各役が見る。
井戸はハルトが見る。
治療所はリリアが見る。
南は南の組が見る。
広場は、火、水、呼ぶ。
「消すんじゃない」
ミナが言った。
「渡す」
相沢はミナを見る。
ミナは板を見たまま続けた。
「広場から消すんじゃない。役に渡す」
相沢はしばらく黙った。
それから頷く。
「かなり良い」
「またそれ」
「今日は、それ以上が出ない」
「じゃあ許す」
ミナは火、水、呼ぶの三つを描いた。
夜の板。
昨日と同じ。
だが、昨日より重い。
そして、昨日より強い。
◇
【日曜日 18:11/広場中央】
夜の準備が始まった。
小屋の入口を確認する。
井戸の水を分ける。
倉庫の袋を戻す。
病人用を分ける。
北の交代を決める。
休む者を休ませる。
全部が同時に動く。
だが、広場の板は三つだけ。
火。
水。
呼ぶ。
相沢は木箱に座って見ていた。
立つと、怒られる。
座っていると、少し見える。
動いている人間が。
自分を見ずに判断する人間が。
ミナが広場を見る。
ハルトが井戸を見る。
マルタが倉庫を見る。
リリアが治療所を見る。
ガンツが前を見る。
ダリオが森を見る。
村長が全体を見る。
そして相沢は、座っている。
それが、今日の役だった。
表示が浮かぶ。
⸻
【夜間運用:
簡略化済】
【外敵行動:
観察継続の可能性】
【集落状態:
疲労高/崩壊なし】
【運用評価:
役割分散、進行】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
過剰介入禁止】
【推奨:
夕食摂取】
⸻
「夕食摂取」
相沢は呟いた。
ミナが椀を持ってきた。
「はい」
「早い」
「オカンに勝つ」
「だから勝たなくていい」
椀の粥は薄い。
だが、温かい。
相沢は受け取り、食べた。
残さない。
考えすぎないように。
だが、考えてしまう。
今日、赤ゴブリンは村を見た。
村も、少しだけ自分たちを見た。
何が揺れるか。
何が止まるか。
誰が見られるか。
誰が見なくていいか。
夜はまた来る。
赤いものは、まだ森にいる。
だが、村もまだ崩れていない。
相沢は薄い粥を飲み込んだ。
温かさが、腹に落ちた。
遠く、北からダリオの声がした。
「まだ」
その一言が、今日も夜の始まりを告げた。




