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第九十一話 石

【日曜日 5:12/井戸前】


 井戸へ続く細い道の真ん中に、石が置かれていた。


 昨日はなかった。


 少なくとも、ハルトは見ていない。


 井戸の縁ではない。


 水に触れる場所でもない。


 だが、朝、水を汲みに来る者なら必ず目に入る場所。


 そこに、小さな黒い石が一つ。


 ただ置かれていた。


「水には触るな」


 ハルトが言った。


 桶を持っていた若い村人の手が止まる。


「でも、井戸には」


「触るな」


 ハルトの声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、井戸前にいた者は全員止まった。


「井戸まで来たのか、来てないのか。それを見る前に、水を汲むな」


 村の少年が、石を見た。


「昨日もあった?」


「なかった」


 ハルトは即答した。


「見間違いじゃ」


「ない」


 腕の痛みが、朝の冷気で少し重い。


 だが、それは今どうでもよかった。


 ハルトは井戸へ続く道を見た。


 石。


 泥。


 踏み固められた土。


 草の倒れ方。


 桶の位置。


 縄。


 足跡。


 前の村でも、水場はこうやって見ていた。


 誰が多く汲んだか。


 誰がこぼしたか。


 泥が入ったか。


 獣が近づいたか。


 水が濁ったか。


 水場は、ただ水がある場所ではない。


 村が生きる場所だ。


「ハルト」


 避難民の若い男が言った。


「水、駄目なのか」


「まだ分からない」


「毒か」


「分からないことを言うな」


 若い男が口を閉じた。


 村人側もざわつきかける。


 ハルトはすぐに声を出した。


「井戸に人を集めるな。広場へ言え。水は、まだ死んだと決まってない」


「死んだ?」


 村の少年が小さく聞く。


 ハルトは石から目を離さずに答えた。


「水が使えなくなることだ」


 少年は息を飲んだ。


「だから、先に見る」


     ◇


【日曜日 5:18/広場中央】


 朝の広場は、まだ薄暗かった。


 火は小さい。


 夜の板には、まだ三つだけが残っている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 相沢は治療所前で目を開けたばかりだった。


 体は重い。


 だが、夜の途中で何度か眠れた。


 頭は完全ではないが、昨日よりは少しましだった。


 そこへ、伝令が来た。


 走りかけて、途中で速度を落としている。


 息は荒い。


 だが、言葉は残っている。


「井戸、変化!」


 ミナが板の前で顔を上げた。


「何!」


「石! 井戸へ行く道に、昨日なかった石!」


「水は?」


「まだ触ってない!」


「ハルトは?」


「見るって!」


 広場がざわついた。


 水。


 その言葉は、火よりも人を動かす。


 朝の水。


 粥の水。


 病人の水。


 子供の水。


 全員が、井戸の方を見そうになる。


 ミナが声を張った。


「広場、そのまま!」


 少し声が裏返った。


 だが、止めた。


「井戸に集まらない! 火はそのまま! 呼ぶ役、残って!」


 相沢は立ち上がろうとした。


 リリアの視線が刺さる。


 だが、今回は行く必要がある。


「行きます」


「歩いてください」


「はい」


「一人では行かないでください」


 リリアはそう言って、自分も立とうとした。


 相沢は首を振る。


「リリアさんは治療所を」


「ですが」


「井戸に全員が寄る方が危ない」


 リリアは一瞬だけ黙った。


 すぐに頷く。


「分かりました。水が使えない可能性があるなら、治療所の残りを確認します」


「お願いします」


 ミナが相沢を見る。


「私も」


「広場に残れ」


「でも」


「火、水、呼ぶ。今、水が揺れてる。だから広場は残る」


 ミナは唇を噛んだ。


 だが、頷いた。


「分かった」


 相沢は井戸へ向かった。


 走らない。


 足を速める。


 だが、走らない。


 水が危ない時こそ、走らない。


     ◇


【日曜日 5:24/井戸前】


 井戸前には、思ったより人が少なかった。


 ハルトが止めたのだろう。


 村の少年。


 避難民の若い男。


 桶を持った村人。


 それだけ。


 ハルトは井戸へ続く道の手前に立っていた。


 腕は吊っている。


 顔色は悪い。


 だが、目は水場の目だった。


「触ったか」


 相沢が聞く。


「誰も触ってない」


「石は」


「あれだ」


 井戸へ続く細い道。


 踏み固められた土の真ん中に、小さな黒い石。


 ただの石に見える。


 だが、ただの石なら、なぜそこにある。


「昨日は」


「なかった」


「井戸そのものには」


「まだ近づいてない」


「足跡は」


「分かりにくい」


「分かりにくい?」


「道の端が、少し均されてる」


 ハルトは井戸へ続く道の脇を指した。


 土は固い。


 だが、井戸の近くは水で湿りやすい。


 足跡が残る場所もある。


 そこが、妙に読みにくい。


 雑ではない。


 きれいでもない。


 ただ、跡がぼやけている。


 相沢は背中が冷えるのを感じた。


 片目の死体を回収し、足跡を消した。


 赤ゴブリンは、痕跡を消す。


 それを村は昨日知った。


 今朝、井戸へ続く道に石。


「井戸を壊された?」


 相沢が聞く。


「違う」


 ハルトは石を指した。


「壊されてない。水にも触られてない。だから余計に嫌だ」


「なぜ」


「水を汚したんじゃない。水を疑わせに来た」


 相沢は黙った。


 正しい。


 おそらく、それが一番近い。


 井戸そのものに近づいたなら、見張りに見つかる危険が大きい。


 水に何かを入れたなら、痕跡が残る。


 だが、道に石を置くだけなら。


 朝、水を汲みに来た者は止まる。


 井戸を疑う。


 水を止める。


 人が集まる。


「石をどける前に、見る」


 相沢が言う。


 ハルトが頷く。


「見るだけだ」


「誰が」


「俺が」


「腕」


「見るだけならできる」


 相沢は少し考えた。


「石には触らない。棒で少し動かせるか」


「棒ならある」


 村の少年が、短い木の棒を持ってきた。


 相沢はそれを受け取らず、ハルトを見る。


「ハルトがやる?」


「ああ」


「ゆっくり」


「分かってる」


 ハルトは棒を使い、石に触れた。


 石は軽く動いた。


 転がる。


 下の土に、小さな黒い跡が残る。


 赤くはない。


 黒い。


 泥か。


 煤か。


 何かの汁か。


 分からない。


「匂いは」


 相沢が聞く。


 ハルトが顔を近づけようとする。


「近づけすぎるな」


「分かってる」


 ハルトは少し距離を置いて嗅いだ。


「土。あと、焦げ臭い」


「火?」


「たぶん」


 相沢は昨日の片目を思い出す。


 森。


 赤。


 死体。


 痕跡。


 焦げ。


 水。


 嫌な組み合わせだった。


     ◇


【日曜日 5:37/井戸前】


 井戸には、まだ近づけていない。


 それだけで、周囲の人間は焦り始めていた。


 朝の水が遅れる。


 粥が遅れる。


 病人の水も遅れる。


 それが分かるからだ。


 村人が言った。


「石は道にあっただけだろ。井戸は無事なんじゃないか」


 ハルトが答える。


「無事かどうかを見る」


「だから、見ればいい」


「見る順番がある」


 声が強くなりかけた。


 相沢は口を挟みそうになった。


 だが、止めた。


 ここはハルトの場所だ。


 ハルトが見る。


 ハルトが止める。


 ハルトが説明する。


「石が道にある」


 ハルトが言った。


「足跡が読みにくい。石に焦げた匂いがある。井戸まで来たかどうかは分からない」


「だから?」


「分からないまま汲むな」


 短い。


 強い。


 村人は黙った。


 相沢は頷いた。


「井戸の縁を見よう。近づくのは一人。周りは下がる」


「俺が行く」


 ハルトが言う。


「腕」


「見るだけだ」


「桶は使わない」


「分かってる」


 ハルトは一歩ずつ進んだ。


 井戸までの道。


 石のあった場所を避ける。


 土を見る。


 草を見る。


 縁を見る。


 縄を見る。


 桶を見る。


「縁には、何もない」


 ハルトが言った。


 周囲の空気が少しだけ緩む。


「縄は」


「いつもの位置」


「桶は」


「動いてない」


「水面は」


「まだ見る」


 井戸の中は、まだ暗かった。


 朝の光が弱い。


 松明を近づけるかどうかで、少し揉めた。


 火を井戸に近づけるのは危ない。


 だが、見えなければ判断できない。


 ハルトが言った。


「火は一つ。近づけすぎない。水面だけ見る」


「桶を下ろす?」


 村人が聞く。


「まだ」


 ハルトは即答した。


「先に水面を見る。縄も見る。桶は最後」


 相沢は頷く。


「いい」


「何でもいいって言うな」


「今のは本当にいい」


 ハルトは少しだけ眉を寄せた。


 だが、すぐ井戸へ意識を戻した。


 松明を少し離してかざす。


 水面が見える。


 暗い。


 揺れている。


 濁りは、すぐには分からない。


「昨日と比べて」


 相沢が聞く。


「少し暗い」


「朝だから?」


「それもある」


「匂いは」


 ハルトは井戸の上の空気を嗅ぐ。


「焦げ臭くはない」


「腐った匂いは」


「ない」


「泥は」


「まだ分からない」


「桶で少しだけ取るか」


「専用にする」


 ハルトはすぐ言った。


「いつもの桶は使わない。小さい器で、少しだけ取る」


「それがいい」


 村の少年が器を持ってくる。


 マルタがいつの間にか来ていた。


「井戸の騒ぎなら、倉庫も起きるよ」


「来ちゃ駄目とは言ってません」


「言われても来る」


 マルタは器を見て、眉を寄せる。


「それは食べ物用じゃないね」


「水を見るだけ」


「見たら、洗う。洗っても不安なら井戸用にする」


「はい」


 相沢は頷いた。


 マルタが来ると、物の扱いが締まる。


 ハルトは縄を使わず、長い柄のついた小さな器を下ろした。


 少しだけ水を取る。


 器を引き上げる。


 水は揺れている。


 色は、明らかには変わっていない。


「飲むな」


 ハルトが先に言った。


 誰も飲もうとはしていなかったが、先に言った。


 相沢はその判断に頷いた。


「見るだけ」


 水を白っぽい布の上に少し落とす。


 マルタが布を出していた。


 染みる。


 色はほとんどない。


 泥は少ない。


 匂いも強くない。


 だが、安心はできない。


「水が死んだか」


 避難民の若い男が聞く。


 ハルトは水を見たまま答えた。


「まだ死んでない」


 その言葉で、井戸前の空気が少しだけ緩んだ。


 だが、ハルトは続ける。


「でも、誰かが井戸を疑わせに来た」


 また空気が固まる。


     ◇


【日曜日 5:52/広場中央】


 報告は、ハルト自身が持ってきた。


 相沢は止めなかった。


 井戸のことは、ハルトが言う方がいい。


 広場には、ミナ、村長、リリア、マルタ、数人の村人がいる。


 ガンツは北。


 ダリオも北。


 ハルトは板の前に立った。


「水は、今すぐ死んだわけじゃない」


 最初にそれを言った。


 広場が息を吐く。


「でも、井戸へ続く道に、昨日なかった石が置かれていた。井戸の縁じゃない。水にも触られてない。だが、足跡は読みにくくされてる。石には焦げた匂いが少しある」


 ミナが板に描こうとする。


 相沢が手を上げて止めた。


「見る板には増やさない」


 ミナが止まる。


 ハルトもこちらを見る。


 相沢は言った。


「井戸の板に残す。広場は水だけ」


 ミナは頷いた。


 夜の板の水の印に、小さな丸を一つ添える。


 異常あり。


 それだけ。


 井戸の詳細は、井戸側で持つ。


「水は使える?」


 村人の女が聞いた。


 ハルトが答える。


「使う。ただし、朝の最初は少し捨てる。飲み水は器で確認してから。粥用は後にする」


「水を捨てるのか」


 別の村人が言った。


 声に不満がある。


 水は貴重だ。


 捨てるという言葉は重い。


 ハルトはそちらを見る。


「全部じゃない。最初に汲んだ少しだけだ」


「もったいない」


「腹を壊したら、もっともったいない」


 村人は黙った。


 リリアが静かに続ける。


「病人には、確認した水だけを使います」


 マルタも言う。


「粥もだよ。変な水で食料まで駄目にされたら終わりだ」


 相沢は、ハルトを見た。


 ハルトが井戸を守り、リリアが病人を守り、マルタが食料を守る。


 水一つで、役がつながる。


 村長が頷いた。


「では、井戸の判断はハルトに任せます」


 村人側が少しざわつく。


 避難民の男に井戸を任せる。


 その抵抗が、まだある。


 出るべき不満だ。


 相沢はすぐに消さない。


 ハルトも、消さなかった。


「疑うなら、見ろ」


 ハルトが言った。


「石は道にあった。井戸の縁じゃない。水には触られてない。昨日と違うのは、石と、読みにくい足跡だ。水はまだ死んでない」


 広場が静まる。


「俺が勝手に飲ませるわけじゃない。リリアが病人を見る。マルタが粥を見る。村長が決める。俺は井戸を見る」


 それは、役の言葉だった。


 避難民の言い訳ではない。


 相沢は何も足さなかった。


 足す必要がなかった。


     ◇


【日曜日 6:18/北柵】


 北では、ダリオが報告を聞いていた。


 伝令から、短く。


「井戸への道に石。水はまだ使える。足跡読みにくい」


 ダリオは森を見たまま聞く。


「石の色は」


「黒」


「匂いは」


「焦げ」


「場所は」


「井戸の縁じゃない。道の真ん中」


「置いた」


「たぶん」


 ダリオは少しだけ目を細めた。


 ガンツが言う。


「赤か」


「たぶん」


「何のためだ」


「人を集めるため」


 ガンツは舌打ちした。


「井戸にか」


「井戸。広場。水」


「来たのか」


「たぶん、近くまでは」


「井戸までか」


「分からない」


「分からない、ばかりだな」


「見てないものは、分からない」


 ガンツは少しだけ黙った。


 それから、頷いた。


「それでいい」


 ダリオは森を見る。


「赤は、村の中を見たがってる」


「昨日見ただろ」


「もっと」


「何を」


「水で、どれだけ崩れるか」


 ガンツは井戸の方向を見た。


 見えない。


 だが、広場の声は届く。


 大きな混乱はない。


「崩れてねぇな」


「まだ」


「またそれか」


「まだ、崩れてない」


 ダリオは短く言い直した。


     ◇


【日曜日 6:42/井戸前】


 井戸前では、確認作業が続いた。


 最初に汲んだ少量の水は、飲まずに捨てた。


 捨てる場所も決めた。


 井戸の近くではない。


 食料の近くでもない。


 子供が触らない場所。


 ハルトが決めた。


「そこまでいる?」


 村の少年が聞く。


「いる」


「少しだけなのに」


「少しでも、分からないものは分ける」


 相沢はその言葉に少し驚いた。


 分ける。


 ハルトが使った。


 マルタと相沢がずっと言っていた言葉だ。


 水場の実務に落ちている。


 ハルトは続ける。


「飲める水。見る水。捨てる水。混ぜるな」


 相沢は頷いた。


「その通り」


 ハルトがちらりと見る。


「今のは、合ってるか」


「かなり」


「ならいい」


 桶にも印をつけることになった。


 ミナが木片を持ってきた。


 丸。


 波。


 斜線。


 飲み水。


 確認中。


 使わない。


 文字ではなく印。


 ハルトはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。


「増やしすぎるな」


「三つだけ」


 ミナが答える。


「今はね」


 相沢が思わず言うと、マルタが遠くから鼻を鳴らした。


「言われる側になったね」


「心に刺さります」


「刺さっときな」


 小さな笑いが起きた。


 井戸前で笑いが起きた。


 それだけで、少し勝った気がした。


 だが、相沢はすぐにその気を抑える。


 勝ってはいない。


 石が置かれただけで、村は揺れた。


 赤ゴブリンは、それを知ったかもしれない。


     ◇


【日曜日 7:09/広場中央】


 朝の粥は遅れた。


 水の確認があったからだ。


 腹を空かせた者が増える。


 声も少し荒くなる。


 だが、配膳は崩れなかった。


 マルタが立つ。


 リリアが病人用を確認する。


 ハルトが井戸から来た水の印を確認する。


 ミナが列を見る。


 相沢は座っている。


 座っているだけではない。


 座らされている。


「今日、薄いね」


 子供が言った。


 母親が慌てて止める。


 マルタが先に言った。


「薄いよ」


 広場が少し止まる。


「水の確認で遅れた。食料も増えてない。今日は薄い」


 隠さない。


 誤魔化さない。


 薄いなら薄いと言う。


 相沢は、その方がいいと思った。


 変に誤魔化すと、不信になる。


「でも、全員に回す」


 マルタは続けた。


「病人と子供は先。見張りと力仕事は減らしすぎない。文句は後で聞く。今は椀を受け取りな」


 強い。


 マルタの声は、食料の前で強い。


 村人も避難民も、椀を受け取る。


 不満はある。


 だが、列は崩れない。


 相沢は薄い粥を受け取った。


 昨日より薄い。


 だが、温かい。


 食べる。


 残さない。


 食べながら、井戸への道に置かれた石を思い出す。


 水が揺れれば、食料も揺れる。


 食料が揺れれば、人が揺れる。


 赤ゴブリンは、たぶんそれを見たかった。


     ◇


【日曜日 7:46/広場中央】


 朝食後、村長が小さな場を作った。


 全員ではない。


 各役だけ。


 ミナ。


 マルタ。


 リリア。


 ハルト。


 ガンツからの伝令。


 ダリオは北。


 相沢は座ったまま。


 議題は、井戸への道に置かれた石。


「敵が井戸まで近づいたと見るべきでしょうか」


 村長が言う。


 ハルトが答える。


「井戸まで来たかは分からない。でも、井戸へ来る者を止める場所には置いた」


「水は」


「今のところ使える」


「今のところ」


「そうだ」


 ハルトは曖昧にしない。


 分かることと分からないことを分けている。


 相沢はそれを評価した。


「アイザワ殿」


 村長が見る。


「敵の狙いは何でしょう」


 相沢は少し考える。


 考えすぎると、また全部を板に載せたくなる。


 それを抑える。


「井戸を壊すことではなく、井戸を疑わせることだった可能性があります」


「疑わせる」


「はい。水が危ないと思えば、全員が井戸を見る。井戸へ行く。広場が薄くなる。火や倉庫や治療所が手薄になる」


 マルタが低く言う。


「嫌なやつだね」


「はい」


「石一つで、人を動かす」


 ハルトが言った。


 その言葉が、広場に落ちる。


 石一つ。


 それだけで村が動く。


 動き方を間違えれば、崩れる。


「では、今後は井戸への道に異物があっても、人を集めない」


 村長が言う。


「はい」


 相沢は頷いた。


「井戸役が見る。広場は水の印だけ。詳細は井戸板。治療所と倉庫には、必要な分だけ伝える」


「北は」


「北にも伝える。ただし、北から人を動かさない」


 伝令が頷く。


「ガンツに言います」


「ダリオにも」


「はい」


 ミナが板に小さく描く。


 いや、描こうとする。


 石。


 目。


 人が集まらない。


 相沢が止めようとすると、ミナが先に言った。


「残す板。見る板じゃない」


「……よし」


「今、止めようとしたでしょ」


「した」


「私も分かってる」


「助かる」


 ミナは少しだけ得意そうにした。


     ◇


【日曜日 8:22/倉庫前】


 倉庫では、湿った袋の確認が始まった。


 井戸の騒ぎで遅れていた作業だ。


 だが、遅れたからといって雑にはできない。


 むしろ、こういう時ほど雑になる。


 相沢は木箱に座らされている。


 マルタの命令だった。


「今日は立つな」


「昨日も言われました」


「今日もだよ」


 透明な袋。


 ラベル。


 油性ペン。


 計量スプーン。


 塩はまだ開けない。


 並べる物は少なくした。


 見せすぎない。


 使いすぎない。


 今日は、袋とラベルだけ。


「湿った袋を開ける」


 マルタが言う。


「混ぜるな。無事なところ、怪しいところ、駄目なところ。三つに分ける」


 相沢は頷く。


「見た目で判断しきれないものは、怪しいところ」


「食えるかもしれないものを捨てるのかい」


 若い女が聞く。


 マルタが答える。


「捨てるとは言ってない。混ぜないと言ってる」


 相沢は小さく息を吐く。


 その通りだ。


 捨てるかどうかではない。


 まず、混ぜない。


 安全なものと怪しいものを一緒にすると、全部が怪しくなる。


「これは?」


 若い女が穀物を少し見せる。


 湿っている。


 匂いは弱い。


 変色はない。


 マルタが嗅ぐ。


「怪しい」


「食べられそうですが」


「だから怪しい」


 相沢はラベルを貼った透明な袋を出す。


 丸ではない。


 斜線でもない。


 波のような印。


 確認中。


「怪しいものは、この印」


「食べられるものは」


「丸」


「駄目なものは」


「斜線」


 ミナが横で見ていた。


「三つだけ」


 マルタが言う。


「三つだけ」


 相沢も言う。


「増やしたら殴るよ」


「はい」


 倉庫前に、少しだけ笑いが出た。


 だが、作業は真剣だった。


 食料は、食う前に減る。


 湿って、こぼれて、混ざって、間違えて。


 なら、減らないように分ける。


     ◇


【日曜日 9:05/倉庫前】


 透明な袋の効果は、思ったより大きかった。


 中が見える。


 それだけで、村人の反応が違う。


「開けなくても見える」


 若い女が言った。


「そう」


 相沢が答える。


「でも、息が詰まりそうだね」


「長く入れっぱなしにしない方がいいものもある」


「便利なのに?」


「便利でも、全部に向いてるわけじゃない」


 マルタが頷く。


「布袋も要る。籠も要る。これは、間違えたくない時に使う」


「病人用とか」


「そう」


「怪しいものとか」


「そう」


 使いどころが決まる。


 物が、村の中で場所を持ち始める。


 相沢はそれを見て、少しだけ安心した。


 だが、同時に怖かった。


 現代の物は、強い。


 強すぎる。


 使えば便利だ。


 だからこそ、頼りすぎる。


 袋がなくなった時、どうするか。


 ラベルがなくなった時、どうするか。


 油性ペンが書けなくなった時、どうするか。


「マルタさん」


「何だい」


「この袋がなくても、同じ分け方ができるようにしたいです」


 マルタは相沢を見た。


「今からそれを言うかい」


「はい」


「いいね」


 マルタは笑わなかった。


 だが、目が少しだけ柔らかくなった。


「物に頼りきると、物が切れた時に死ぬ」


「はい」


「袋は便利。だが、印と置き場所の方が大事」


「そうです」


「なら、布袋にも同じ印を縫うか、紐を変えるかだね」


 相沢は頷いた。


 マルタは早い。


 現代道具を見て、すぐ村の道具に置き換えようとしている。


「記録係を呼びます」


「呼びすぎるなよ」


「一人だけ」


「よし」


     ◇


【日曜日 9:44/北柵】


 ダリオは、井戸の石の報告を聞いた後、森の端を見続けていた。


 赤は見えない。


 だが、痕跡がある。


 あるような気がする。


 気がするだけでは報告できない。


 ダリオは、それを分けていた。


 見えたもの。


 聞こえたもの。


 そう思うだけのもの。


 混ぜると危ない。


 森でも、村でも同じだ。


「何か見えるか」


 ガンツが聞く。


「まだ」


「赤は」


「見えない」


「じゃあ何を見てる」


「戻り方」


「森の?」


「そう」


 ガンツは横に座る。


 今朝から、座ることに少しだけ慣れた。


 不本意だが、体は楽だ。


「戻ってるか」


「半分」


「半分か」


「虫は戻った。鳥は少し。小さい獣はまだ」


「小さい獣」


「いつもなら、あそこの根元にいる」


「そんなものまで見てるのか」


「いると、森が普通」


「いないと」


「普通じゃない」


 ガンツは森を見る。


 やはり、普通かどうか分からない。


 だが、ダリオが普通ではないと言うなら、そうなのだろう。


「井戸の石も、赤か」


 ガンツが聞く。


「たぶん」


「井戸を壊しに来たわけじゃない」


「たぶん」


「じゃあ何だ」


「触ったら、村が動くか見た」


「動いたか」


「少し」


「崩れたか」


「崩れてない」


 ガンツは小さく笑った。


「なら、こっちの勝ちか」


 ダリオは少し黙った。


「まだ」


「だろうな」


 ガンツは槍を握り直した。


「でも、一つは勝ちだ」


 ダリオは答えなかった。


 森を見ている。


 だが、否定もしなかった。


     ◇


【日曜日 10:16/広場中央】


 広場には、朝の板が置かれた。


 夜の三つから、朝の五つへ。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 昨日より、置くのが早い。


 ミナが描く。


 記録係が残す。


 村長が見る。


 相沢は座っている。


 今朝の重点は、井戸の異常と食料の仕分けだった。


 だが、全部を広場には書かない。


 広場には、水の印に小さな丸。


 食料の印に小さな波。


 詳細は井戸板と倉庫板。


 ミナが言った。


「広場、少なく見える」


「それでいい」


「前なら、不安だった」


「今は?」


「ちょっと不安」


「正直だな」


「でも、全部書く方がもっと不安」


「かなり良い」


 ミナは少し得意そうにする。


「褒め方が変」


「通常運転だ」


「それも変」


 相沢は少しだけ笑った。


 その時、システム表示が浮かぶ。



【集落運用:

 朝間移行中】


【井戸異常:

 暫定管理】


【食糧仕分け:

 進行中】


【情報混在:

 低下傾向】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 中】


【推奨:

 水分摂取】



「水分摂取」


 相沢は呟いた。


 ミナがすぐ水を差し出そうとして、止まる。


「井戸の水、確認済み?」


「確認済み」


 ハルトが井戸側から答えた。


「飲み水の印、丸だ」


 ミナはそれを聞いてから水を渡した。


「はい」


「ありがとう」


「今、聞いてから渡した」


「良い判断」


「でしょ」


 小さな成功。


 水一杯でも、手順が入った。


     ◇


【日曜日 10:49/広場中央】


 村長が、相沢に言った。


「アイザワ殿」


「はい」


「この石の件、敵が村の運用を崩そうとしていると見てよいですか」


「たぶん」


「たぶん」


「断定はできません。でも、そう見た方が安全です」


 村長は頷いた。


「では、次も同じようなことが起きると」


「はい。火、水、食料、寝床、伝令。どこかに、小さい異常を置いてくる可能性があります」


 ミナの手が動きかけた。


 全部板に描こうとしたのだろう。


 だが、止まった。


 相沢はそれを見た。


 ミナは自分で手を止めた。


「描かないのか」


 相沢が聞く。


「描いたら、全部見る」


「そう」


「だから、役の人に言う」


「そう」


 村長が深く頷いた。


「火は火の役へ。水はハルトへ。食料はマルタへ。治療所はリリアへ。北はガンツとダリオへ。広場は、呼ぶ」


「はい」


 相沢は頷く。


 村長の口から出た。


 それが大きい。


 相沢の仕組みではなく、村長の言葉になった。


 相沢は少しだけ肩の力を抜いた。


「アイザワ殿」


「はい」


「休んでください」


「今ですか」


「今です」


 村長まで言い始めた。


 ミナが笑う。


 マルタも遠くで笑った。


 相沢は反論しようとして、やめた。


「分かりました」


 ミナが目を丸くする。


「素直」


「学習した」


「赤より?」


「そこは負けたくない」


 広場に、小さな笑いが起きた。


 井戸へ続く道に石が置かれた朝。


 水が揺れた朝。


 それでも、笑いが出た。


 相沢は、それを悪くないと思った。


     ◇


【日曜日 11:22/治療所前】


 相沢は治療所前に戻った。


 横になるほどではない。


 だが、座る。


 水を飲む。


 薄い布を肩にかける。


 リリアが満足そうに頷いた。


「今日は、少し聞き分けが良いです」


「言い方」


「事実です」


「否定できない」


 治療所の中から、子供の声がした。


 弱いが、昨日より少しはっきりしている。


「水」


 リリアがすぐ立つ。


 相沢も動きかけた。


 リリアが振り返る。


「私が見ます」


「はい」


 相沢は座り直す。


 リリアは中へ入る。


 水を渡す前に、器を見る。


 印を見る。


 確認済みの水。


 それから、子供の口元へ運ぶ。


 小さな動き。


 だが、手順が入っている。


 相沢はそれを見ていた。


 昨日なら、もっと自分が動こうとしていた。


 今日は、少しだけ座っていられる。


 村が動いているから。


 自分が全部見なくても、誰かが見ているから。


 その時、北から短い笛が鳴った。


 一度。


 相沢の背筋が伸びる。


 だが、立たない。


 まず、広場を見る。


 ミナが板の前で顔を上げた。


「北、何!」


 伝令が来る。


 早歩き。


 息を残して。


「森、普通じゃない!」


 ミナが聞く。


「赤?」


「見えない!」


「音は?」


「なし!」


「動きは?」


「ダリオが、戻りすぎてるって!」


 相沢は眉を寄せた。


 戻りすぎている。


 森が戻らない、ではない。


 戻りすぎている。


 それは、どういう意味だ。


 伝令も分からない顔をしている。


 だが、ダリオはそう言った。


 相沢は立ち上がった。


 今度は、リリアも止めなかった。


 ただ、一言だけ言った。


「歩いてください」


「はい」


     ◇


【日曜日 11:34/北柵】


 北柵に着くと、ダリオが森を見ていた。


 ガンツも立っている。


 緊張している。


 だが、敵は見えない。


「戻りすぎてるって何だ」


 相沢が聞く。


 ダリオは森を見たまま答える。


「鳥が多い」


「多い?」


「さっきまで少なかった。今、多すぎる」


「いいことじゃないのか」


 相沢が言うと、ダリオは首を振った。


「鳥が戻る時は、端から戻る」


「今は?」


「奥から一斉に出た」


 ガンツが低く言う。


「追われたのか」


「たぶん」


 ダリオは弓を持つ。


 まだ構えない。


「赤が奥で動いた」


「見えた?」


「見えない」


「でも鳥が出た」


「そう」


 相沢は森を見る。


 鳥の声がする。


 多い。


 確かに多い。


 だが、相沢にはそれが普通か異常か分からない。


 ダリオには分かる。


「来るか」


 ガンツが聞く。


 ダリオは少し黙った。


「分からない」


「まだ、じゃないのか」


「まだ、ではない」


 その言葉で、空気が変わった。


 ダリオが「まだ」と言わなかった。


 相沢は息を止めそうになる。


 すぐ吐く。


「広場には」


 相沢が言う。


「全部は言わない。鳥が多い。北警戒。人を増やすな。それだけ」


 ガンツが頷く。


「伝令」


 若い見張りが動く。


 ダリオが短く言う。


「走るな」


「はい」


 伝令は早歩きで戻る。


 相沢は森を見た。


 赤は見えない。


 だが、森がざわついている。


 井戸への道に置かれた石。


 食料の仕分け。


 村が崩れなかった。


 次の手が来る。


 たぶん、早い。


 ダリオが弓を持ち上げた。


 まだ撃たない。


 だが、今度は待つためではない。


 来るかもしれないものを、先に見るためだった。

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