第九十一話 石
【日曜日 5:12/井戸前】
井戸へ続く細い道の真ん中に、石が置かれていた。
昨日はなかった。
少なくとも、ハルトは見ていない。
井戸の縁ではない。
水に触れる場所でもない。
だが、朝、水を汲みに来る者なら必ず目に入る場所。
そこに、小さな黒い石が一つ。
ただ置かれていた。
「水には触るな」
ハルトが言った。
桶を持っていた若い村人の手が止まる。
「でも、井戸には」
「触るな」
ハルトの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、井戸前にいた者は全員止まった。
「井戸まで来たのか、来てないのか。それを見る前に、水を汲むな」
村の少年が、石を見た。
「昨日もあった?」
「なかった」
ハルトは即答した。
「見間違いじゃ」
「ない」
腕の痛みが、朝の冷気で少し重い。
だが、それは今どうでもよかった。
ハルトは井戸へ続く道を見た。
石。
泥。
踏み固められた土。
草の倒れ方。
桶の位置。
縄。
足跡。
前の村でも、水場はこうやって見ていた。
誰が多く汲んだか。
誰がこぼしたか。
泥が入ったか。
獣が近づいたか。
水が濁ったか。
水場は、ただ水がある場所ではない。
村が生きる場所だ。
「ハルト」
避難民の若い男が言った。
「水、駄目なのか」
「まだ分からない」
「毒か」
「分からないことを言うな」
若い男が口を閉じた。
村人側もざわつきかける。
ハルトはすぐに声を出した。
「井戸に人を集めるな。広場へ言え。水は、まだ死んだと決まってない」
「死んだ?」
村の少年が小さく聞く。
ハルトは石から目を離さずに答えた。
「水が使えなくなることだ」
少年は息を飲んだ。
「だから、先に見る」
◇
【日曜日 5:18/広場中央】
朝の広場は、まだ薄暗かった。
火は小さい。
夜の板には、まだ三つだけが残っている。
火。
水。
呼ぶ。
相沢は治療所前で目を開けたばかりだった。
体は重い。
だが、夜の途中で何度か眠れた。
頭は完全ではないが、昨日よりは少しましだった。
そこへ、伝令が来た。
走りかけて、途中で速度を落としている。
息は荒い。
だが、言葉は残っている。
「井戸、変化!」
ミナが板の前で顔を上げた。
「何!」
「石! 井戸へ行く道に、昨日なかった石!」
「水は?」
「まだ触ってない!」
「ハルトは?」
「見るって!」
広場がざわついた。
水。
その言葉は、火よりも人を動かす。
朝の水。
粥の水。
病人の水。
子供の水。
全員が、井戸の方を見そうになる。
ミナが声を張った。
「広場、そのまま!」
少し声が裏返った。
だが、止めた。
「井戸に集まらない! 火はそのまま! 呼ぶ役、残って!」
相沢は立ち上がろうとした。
リリアの視線が刺さる。
だが、今回は行く必要がある。
「行きます」
「歩いてください」
「はい」
「一人では行かないでください」
リリアはそう言って、自分も立とうとした。
相沢は首を振る。
「リリアさんは治療所を」
「ですが」
「井戸に全員が寄る方が危ない」
リリアは一瞬だけ黙った。
すぐに頷く。
「分かりました。水が使えない可能性があるなら、治療所の残りを確認します」
「お願いします」
ミナが相沢を見る。
「私も」
「広場に残れ」
「でも」
「火、水、呼ぶ。今、水が揺れてる。だから広場は残る」
ミナは唇を噛んだ。
だが、頷いた。
「分かった」
相沢は井戸へ向かった。
走らない。
足を速める。
だが、走らない。
水が危ない時こそ、走らない。
◇
【日曜日 5:24/井戸前】
井戸前には、思ったより人が少なかった。
ハルトが止めたのだろう。
村の少年。
避難民の若い男。
桶を持った村人。
それだけ。
ハルトは井戸へ続く道の手前に立っていた。
腕は吊っている。
顔色は悪い。
だが、目は水場の目だった。
「触ったか」
相沢が聞く。
「誰も触ってない」
「石は」
「あれだ」
井戸へ続く細い道。
踏み固められた土の真ん中に、小さな黒い石。
ただの石に見える。
だが、ただの石なら、なぜそこにある。
「昨日は」
「なかった」
「井戸そのものには」
「まだ近づいてない」
「足跡は」
「分かりにくい」
「分かりにくい?」
「道の端が、少し均されてる」
ハルトは井戸へ続く道の脇を指した。
土は固い。
だが、井戸の近くは水で湿りやすい。
足跡が残る場所もある。
そこが、妙に読みにくい。
雑ではない。
きれいでもない。
ただ、跡がぼやけている。
相沢は背中が冷えるのを感じた。
片目の死体を回収し、足跡を消した。
赤ゴブリンは、痕跡を消す。
それを村は昨日知った。
今朝、井戸へ続く道に石。
「井戸を壊された?」
相沢が聞く。
「違う」
ハルトは石を指した。
「壊されてない。水にも触られてない。だから余計に嫌だ」
「なぜ」
「水を汚したんじゃない。水を疑わせに来た」
相沢は黙った。
正しい。
おそらく、それが一番近い。
井戸そのものに近づいたなら、見張りに見つかる危険が大きい。
水に何かを入れたなら、痕跡が残る。
だが、道に石を置くだけなら。
朝、水を汲みに来た者は止まる。
井戸を疑う。
水を止める。
人が集まる。
「石をどける前に、見る」
相沢が言う。
ハルトが頷く。
「見るだけだ」
「誰が」
「俺が」
「腕」
「見るだけならできる」
相沢は少し考えた。
「石には触らない。棒で少し動かせるか」
「棒ならある」
村の少年が、短い木の棒を持ってきた。
相沢はそれを受け取らず、ハルトを見る。
「ハルトがやる?」
「ああ」
「ゆっくり」
「分かってる」
ハルトは棒を使い、石に触れた。
石は軽く動いた。
転がる。
下の土に、小さな黒い跡が残る。
赤くはない。
黒い。
泥か。
煤か。
何かの汁か。
分からない。
「匂いは」
相沢が聞く。
ハルトが顔を近づけようとする。
「近づけすぎるな」
「分かってる」
ハルトは少し距離を置いて嗅いだ。
「土。あと、焦げ臭い」
「火?」
「たぶん」
相沢は昨日の片目を思い出す。
森。
赤。
死体。
痕跡。
焦げ。
水。
嫌な組み合わせだった。
◇
【日曜日 5:37/井戸前】
井戸には、まだ近づけていない。
それだけで、周囲の人間は焦り始めていた。
朝の水が遅れる。
粥が遅れる。
病人の水も遅れる。
それが分かるからだ。
村人が言った。
「石は道にあっただけだろ。井戸は無事なんじゃないか」
ハルトが答える。
「無事かどうかを見る」
「だから、見ればいい」
「見る順番がある」
声が強くなりかけた。
相沢は口を挟みそうになった。
だが、止めた。
ここはハルトの場所だ。
ハルトが見る。
ハルトが止める。
ハルトが説明する。
「石が道にある」
ハルトが言った。
「足跡が読みにくい。石に焦げた匂いがある。井戸まで来たかどうかは分からない」
「だから?」
「分からないまま汲むな」
短い。
強い。
村人は黙った。
相沢は頷いた。
「井戸の縁を見よう。近づくのは一人。周りは下がる」
「俺が行く」
ハルトが言う。
「腕」
「見るだけだ」
「桶は使わない」
「分かってる」
ハルトは一歩ずつ進んだ。
井戸までの道。
石のあった場所を避ける。
土を見る。
草を見る。
縁を見る。
縄を見る。
桶を見る。
「縁には、何もない」
ハルトが言った。
周囲の空気が少しだけ緩む。
「縄は」
「いつもの位置」
「桶は」
「動いてない」
「水面は」
「まだ見る」
井戸の中は、まだ暗かった。
朝の光が弱い。
松明を近づけるかどうかで、少し揉めた。
火を井戸に近づけるのは危ない。
だが、見えなければ判断できない。
ハルトが言った。
「火は一つ。近づけすぎない。水面だけ見る」
「桶を下ろす?」
村人が聞く。
「まだ」
ハルトは即答した。
「先に水面を見る。縄も見る。桶は最後」
相沢は頷く。
「いい」
「何でもいいって言うな」
「今のは本当にいい」
ハルトは少しだけ眉を寄せた。
だが、すぐ井戸へ意識を戻した。
松明を少し離してかざす。
水面が見える。
暗い。
揺れている。
濁りは、すぐには分からない。
「昨日と比べて」
相沢が聞く。
「少し暗い」
「朝だから?」
「それもある」
「匂いは」
ハルトは井戸の上の空気を嗅ぐ。
「焦げ臭くはない」
「腐った匂いは」
「ない」
「泥は」
「まだ分からない」
「桶で少しだけ取るか」
「専用にする」
ハルトはすぐ言った。
「いつもの桶は使わない。小さい器で、少しだけ取る」
「それがいい」
村の少年が器を持ってくる。
マルタがいつの間にか来ていた。
「井戸の騒ぎなら、倉庫も起きるよ」
「来ちゃ駄目とは言ってません」
「言われても来る」
マルタは器を見て、眉を寄せる。
「それは食べ物用じゃないね」
「水を見るだけ」
「見たら、洗う。洗っても不安なら井戸用にする」
「はい」
相沢は頷いた。
マルタが来ると、物の扱いが締まる。
ハルトは縄を使わず、長い柄のついた小さな器を下ろした。
少しだけ水を取る。
器を引き上げる。
水は揺れている。
色は、明らかには変わっていない。
「飲むな」
ハルトが先に言った。
誰も飲もうとはしていなかったが、先に言った。
相沢はその判断に頷いた。
「見るだけ」
水を白っぽい布の上に少し落とす。
マルタが布を出していた。
染みる。
色はほとんどない。
泥は少ない。
匂いも強くない。
だが、安心はできない。
「水が死んだか」
避難民の若い男が聞く。
ハルトは水を見たまま答えた。
「まだ死んでない」
その言葉で、井戸前の空気が少しだけ緩んだ。
だが、ハルトは続ける。
「でも、誰かが井戸を疑わせに来た」
また空気が固まる。
◇
【日曜日 5:52/広場中央】
報告は、ハルト自身が持ってきた。
相沢は止めなかった。
井戸のことは、ハルトが言う方がいい。
広場には、ミナ、村長、リリア、マルタ、数人の村人がいる。
ガンツは北。
ダリオも北。
ハルトは板の前に立った。
「水は、今すぐ死んだわけじゃない」
最初にそれを言った。
広場が息を吐く。
「でも、井戸へ続く道に、昨日なかった石が置かれていた。井戸の縁じゃない。水にも触られてない。だが、足跡は読みにくくされてる。石には焦げた匂いが少しある」
ミナが板に描こうとする。
相沢が手を上げて止めた。
「見る板には増やさない」
ミナが止まる。
ハルトもこちらを見る。
相沢は言った。
「井戸の板に残す。広場は水だけ」
ミナは頷いた。
夜の板の水の印に、小さな丸を一つ添える。
異常あり。
それだけ。
井戸の詳細は、井戸側で持つ。
「水は使える?」
村人の女が聞いた。
ハルトが答える。
「使う。ただし、朝の最初は少し捨てる。飲み水は器で確認してから。粥用は後にする」
「水を捨てるのか」
別の村人が言った。
声に不満がある。
水は貴重だ。
捨てるという言葉は重い。
ハルトはそちらを見る。
「全部じゃない。最初に汲んだ少しだけだ」
「もったいない」
「腹を壊したら、もっともったいない」
村人は黙った。
リリアが静かに続ける。
「病人には、確認した水だけを使います」
マルタも言う。
「粥もだよ。変な水で食料まで駄目にされたら終わりだ」
相沢は、ハルトを見た。
ハルトが井戸を守り、リリアが病人を守り、マルタが食料を守る。
水一つで、役がつながる。
村長が頷いた。
「では、井戸の判断はハルトに任せます」
村人側が少しざわつく。
避難民の男に井戸を任せる。
その抵抗が、まだある。
出るべき不満だ。
相沢はすぐに消さない。
ハルトも、消さなかった。
「疑うなら、見ろ」
ハルトが言った。
「石は道にあった。井戸の縁じゃない。水には触られてない。昨日と違うのは、石と、読みにくい足跡だ。水はまだ死んでない」
広場が静まる。
「俺が勝手に飲ませるわけじゃない。リリアが病人を見る。マルタが粥を見る。村長が決める。俺は井戸を見る」
それは、役の言葉だった。
避難民の言い訳ではない。
相沢は何も足さなかった。
足す必要がなかった。
◇
【日曜日 6:18/北柵】
北では、ダリオが報告を聞いていた。
伝令から、短く。
「井戸への道に石。水はまだ使える。足跡読みにくい」
ダリオは森を見たまま聞く。
「石の色は」
「黒」
「匂いは」
「焦げ」
「場所は」
「井戸の縁じゃない。道の真ん中」
「置いた」
「たぶん」
ダリオは少しだけ目を細めた。
ガンツが言う。
「赤か」
「たぶん」
「何のためだ」
「人を集めるため」
ガンツは舌打ちした。
「井戸にか」
「井戸。広場。水」
「来たのか」
「たぶん、近くまでは」
「井戸までか」
「分からない」
「分からない、ばかりだな」
「見てないものは、分からない」
ガンツは少しだけ黙った。
それから、頷いた。
「それでいい」
ダリオは森を見る。
「赤は、村の中を見たがってる」
「昨日見ただろ」
「もっと」
「何を」
「水で、どれだけ崩れるか」
ガンツは井戸の方向を見た。
見えない。
だが、広場の声は届く。
大きな混乱はない。
「崩れてねぇな」
「まだ」
「またそれか」
「まだ、崩れてない」
ダリオは短く言い直した。
◇
【日曜日 6:42/井戸前】
井戸前では、確認作業が続いた。
最初に汲んだ少量の水は、飲まずに捨てた。
捨てる場所も決めた。
井戸の近くではない。
食料の近くでもない。
子供が触らない場所。
ハルトが決めた。
「そこまでいる?」
村の少年が聞く。
「いる」
「少しだけなのに」
「少しでも、分からないものは分ける」
相沢はその言葉に少し驚いた。
分ける。
ハルトが使った。
マルタと相沢がずっと言っていた言葉だ。
水場の実務に落ちている。
ハルトは続ける。
「飲める水。見る水。捨てる水。混ぜるな」
相沢は頷いた。
「その通り」
ハルトがちらりと見る。
「今のは、合ってるか」
「かなり」
「ならいい」
桶にも印をつけることになった。
ミナが木片を持ってきた。
丸。
波。
斜線。
飲み水。
確認中。
使わない。
文字ではなく印。
ハルトはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「増やしすぎるな」
「三つだけ」
ミナが答える。
「今はね」
相沢が思わず言うと、マルタが遠くから鼻を鳴らした。
「言われる側になったね」
「心に刺さります」
「刺さっときな」
小さな笑いが起きた。
井戸前で笑いが起きた。
それだけで、少し勝った気がした。
だが、相沢はすぐにその気を抑える。
勝ってはいない。
石が置かれただけで、村は揺れた。
赤ゴブリンは、それを知ったかもしれない。
◇
【日曜日 7:09/広場中央】
朝の粥は遅れた。
水の確認があったからだ。
腹を空かせた者が増える。
声も少し荒くなる。
だが、配膳は崩れなかった。
マルタが立つ。
リリアが病人用を確認する。
ハルトが井戸から来た水の印を確認する。
ミナが列を見る。
相沢は座っている。
座っているだけではない。
座らされている。
「今日、薄いね」
子供が言った。
母親が慌てて止める。
マルタが先に言った。
「薄いよ」
広場が少し止まる。
「水の確認で遅れた。食料も増えてない。今日は薄い」
隠さない。
誤魔化さない。
薄いなら薄いと言う。
相沢は、その方がいいと思った。
変に誤魔化すと、不信になる。
「でも、全員に回す」
マルタは続けた。
「病人と子供は先。見張りと力仕事は減らしすぎない。文句は後で聞く。今は椀を受け取りな」
強い。
マルタの声は、食料の前で強い。
村人も避難民も、椀を受け取る。
不満はある。
だが、列は崩れない。
相沢は薄い粥を受け取った。
昨日より薄い。
だが、温かい。
食べる。
残さない。
食べながら、井戸への道に置かれた石を思い出す。
水が揺れれば、食料も揺れる。
食料が揺れれば、人が揺れる。
赤ゴブリンは、たぶんそれを見たかった。
◇
【日曜日 7:46/広場中央】
朝食後、村長が小さな場を作った。
全員ではない。
各役だけ。
ミナ。
マルタ。
リリア。
ハルト。
ガンツからの伝令。
ダリオは北。
相沢は座ったまま。
議題は、井戸への道に置かれた石。
「敵が井戸まで近づいたと見るべきでしょうか」
村長が言う。
ハルトが答える。
「井戸まで来たかは分からない。でも、井戸へ来る者を止める場所には置いた」
「水は」
「今のところ使える」
「今のところ」
「そうだ」
ハルトは曖昧にしない。
分かることと分からないことを分けている。
相沢はそれを評価した。
「アイザワ殿」
村長が見る。
「敵の狙いは何でしょう」
相沢は少し考える。
考えすぎると、また全部を板に載せたくなる。
それを抑える。
「井戸を壊すことではなく、井戸を疑わせることだった可能性があります」
「疑わせる」
「はい。水が危ないと思えば、全員が井戸を見る。井戸へ行く。広場が薄くなる。火や倉庫や治療所が手薄になる」
マルタが低く言う。
「嫌なやつだね」
「はい」
「石一つで、人を動かす」
ハルトが言った。
その言葉が、広場に落ちる。
石一つ。
それだけで村が動く。
動き方を間違えれば、崩れる。
「では、今後は井戸への道に異物があっても、人を集めない」
村長が言う。
「はい」
相沢は頷いた。
「井戸役が見る。広場は水の印だけ。詳細は井戸板。治療所と倉庫には、必要な分だけ伝える」
「北は」
「北にも伝える。ただし、北から人を動かさない」
伝令が頷く。
「ガンツに言います」
「ダリオにも」
「はい」
ミナが板に小さく描く。
いや、描こうとする。
石。
目。
人が集まらない。
相沢が止めようとすると、ミナが先に言った。
「残す板。見る板じゃない」
「……よし」
「今、止めようとしたでしょ」
「した」
「私も分かってる」
「助かる」
ミナは少しだけ得意そうにした。
◇
【日曜日 8:22/倉庫前】
倉庫では、湿った袋の確認が始まった。
井戸の騒ぎで遅れていた作業だ。
だが、遅れたからといって雑にはできない。
むしろ、こういう時ほど雑になる。
相沢は木箱に座らされている。
マルタの命令だった。
「今日は立つな」
「昨日も言われました」
「今日もだよ」
透明な袋。
ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
塩はまだ開けない。
並べる物は少なくした。
見せすぎない。
使いすぎない。
今日は、袋とラベルだけ。
「湿った袋を開ける」
マルタが言う。
「混ぜるな。無事なところ、怪しいところ、駄目なところ。三つに分ける」
相沢は頷く。
「見た目で判断しきれないものは、怪しいところ」
「食えるかもしれないものを捨てるのかい」
若い女が聞く。
マルタが答える。
「捨てるとは言ってない。混ぜないと言ってる」
相沢は小さく息を吐く。
その通りだ。
捨てるかどうかではない。
まず、混ぜない。
安全なものと怪しいものを一緒にすると、全部が怪しくなる。
「これは?」
若い女が穀物を少し見せる。
湿っている。
匂いは弱い。
変色はない。
マルタが嗅ぐ。
「怪しい」
「食べられそうですが」
「だから怪しい」
相沢はラベルを貼った透明な袋を出す。
丸ではない。
斜線でもない。
波のような印。
確認中。
「怪しいものは、この印」
「食べられるものは」
「丸」
「駄目なものは」
「斜線」
ミナが横で見ていた。
「三つだけ」
マルタが言う。
「三つだけ」
相沢も言う。
「増やしたら殴るよ」
「はい」
倉庫前に、少しだけ笑いが出た。
だが、作業は真剣だった。
食料は、食う前に減る。
湿って、こぼれて、混ざって、間違えて。
なら、減らないように分ける。
◇
【日曜日 9:05/倉庫前】
透明な袋の効果は、思ったより大きかった。
中が見える。
それだけで、村人の反応が違う。
「開けなくても見える」
若い女が言った。
「そう」
相沢が答える。
「でも、息が詰まりそうだね」
「長く入れっぱなしにしない方がいいものもある」
「便利なのに?」
「便利でも、全部に向いてるわけじゃない」
マルタが頷く。
「布袋も要る。籠も要る。これは、間違えたくない時に使う」
「病人用とか」
「そう」
「怪しいものとか」
「そう」
使いどころが決まる。
物が、村の中で場所を持ち始める。
相沢はそれを見て、少しだけ安心した。
だが、同時に怖かった。
現代の物は、強い。
強すぎる。
使えば便利だ。
だからこそ、頼りすぎる。
袋がなくなった時、どうするか。
ラベルがなくなった時、どうするか。
油性ペンが書けなくなった時、どうするか。
「マルタさん」
「何だい」
「この袋がなくても、同じ分け方ができるようにしたいです」
マルタは相沢を見た。
「今からそれを言うかい」
「はい」
「いいね」
マルタは笑わなかった。
だが、目が少しだけ柔らかくなった。
「物に頼りきると、物が切れた時に死ぬ」
「はい」
「袋は便利。だが、印と置き場所の方が大事」
「そうです」
「なら、布袋にも同じ印を縫うか、紐を変えるかだね」
相沢は頷いた。
マルタは早い。
現代道具を見て、すぐ村の道具に置き換えようとしている。
「記録係を呼びます」
「呼びすぎるなよ」
「一人だけ」
「よし」
◇
【日曜日 9:44/北柵】
ダリオは、井戸の石の報告を聞いた後、森の端を見続けていた。
赤は見えない。
だが、痕跡がある。
あるような気がする。
気がするだけでは報告できない。
ダリオは、それを分けていた。
見えたもの。
聞こえたもの。
そう思うだけのもの。
混ぜると危ない。
森でも、村でも同じだ。
「何か見えるか」
ガンツが聞く。
「まだ」
「赤は」
「見えない」
「じゃあ何を見てる」
「戻り方」
「森の?」
「そう」
ガンツは横に座る。
今朝から、座ることに少しだけ慣れた。
不本意だが、体は楽だ。
「戻ってるか」
「半分」
「半分か」
「虫は戻った。鳥は少し。小さい獣はまだ」
「小さい獣」
「いつもなら、あそこの根元にいる」
「そんなものまで見てるのか」
「いると、森が普通」
「いないと」
「普通じゃない」
ガンツは森を見る。
やはり、普通かどうか分からない。
だが、ダリオが普通ではないと言うなら、そうなのだろう。
「井戸の石も、赤か」
ガンツが聞く。
「たぶん」
「井戸を壊しに来たわけじゃない」
「たぶん」
「じゃあ何だ」
「触ったら、村が動くか見た」
「動いたか」
「少し」
「崩れたか」
「崩れてない」
ガンツは小さく笑った。
「なら、こっちの勝ちか」
ダリオは少し黙った。
「まだ」
「だろうな」
ガンツは槍を握り直した。
「でも、一つは勝ちだ」
ダリオは答えなかった。
森を見ている。
だが、否定もしなかった。
◇
【日曜日 10:16/広場中央】
広場には、朝の板が置かれた。
夜の三つから、朝の五つへ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
昨日より、置くのが早い。
ミナが描く。
記録係が残す。
村長が見る。
相沢は座っている。
今朝の重点は、井戸の異常と食料の仕分けだった。
だが、全部を広場には書かない。
広場には、水の印に小さな丸。
食料の印に小さな波。
詳細は井戸板と倉庫板。
ミナが言った。
「広場、少なく見える」
「それでいい」
「前なら、不安だった」
「今は?」
「ちょっと不安」
「正直だな」
「でも、全部書く方がもっと不安」
「かなり良い」
ミナは少し得意そうにする。
「褒め方が変」
「通常運転だ」
「それも変」
相沢は少しだけ笑った。
その時、システム表示が浮かぶ。
⸻
【集落運用:
朝間移行中】
【井戸異常:
暫定管理】
【食糧仕分け:
進行中】
【情報混在:
低下傾向】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
中】
【推奨:
水分摂取】
⸻
「水分摂取」
相沢は呟いた。
ミナがすぐ水を差し出そうとして、止まる。
「井戸の水、確認済み?」
「確認済み」
ハルトが井戸側から答えた。
「飲み水の印、丸だ」
ミナはそれを聞いてから水を渡した。
「はい」
「ありがとう」
「今、聞いてから渡した」
「良い判断」
「でしょ」
小さな成功。
水一杯でも、手順が入った。
◇
【日曜日 10:49/広場中央】
村長が、相沢に言った。
「アイザワ殿」
「はい」
「この石の件、敵が村の運用を崩そうとしていると見てよいですか」
「たぶん」
「たぶん」
「断定はできません。でも、そう見た方が安全です」
村長は頷いた。
「では、次も同じようなことが起きると」
「はい。火、水、食料、寝床、伝令。どこかに、小さい異常を置いてくる可能性があります」
ミナの手が動きかけた。
全部板に描こうとしたのだろう。
だが、止まった。
相沢はそれを見た。
ミナは自分で手を止めた。
「描かないのか」
相沢が聞く。
「描いたら、全部見る」
「そう」
「だから、役の人に言う」
「そう」
村長が深く頷いた。
「火は火の役へ。水はハルトへ。食料はマルタへ。治療所はリリアへ。北はガンツとダリオへ。広場は、呼ぶ」
「はい」
相沢は頷く。
村長の口から出た。
それが大きい。
相沢の仕組みではなく、村長の言葉になった。
相沢は少しだけ肩の力を抜いた。
「アイザワ殿」
「はい」
「休んでください」
「今ですか」
「今です」
村長まで言い始めた。
ミナが笑う。
マルタも遠くで笑った。
相沢は反論しようとして、やめた。
「分かりました」
ミナが目を丸くする。
「素直」
「学習した」
「赤より?」
「そこは負けたくない」
広場に、小さな笑いが起きた。
井戸へ続く道に石が置かれた朝。
水が揺れた朝。
それでも、笑いが出た。
相沢は、それを悪くないと思った。
◇
【日曜日 11:22/治療所前】
相沢は治療所前に戻った。
横になるほどではない。
だが、座る。
水を飲む。
薄い布を肩にかける。
リリアが満足そうに頷いた。
「今日は、少し聞き分けが良いです」
「言い方」
「事実です」
「否定できない」
治療所の中から、子供の声がした。
弱いが、昨日より少しはっきりしている。
「水」
リリアがすぐ立つ。
相沢も動きかけた。
リリアが振り返る。
「私が見ます」
「はい」
相沢は座り直す。
リリアは中へ入る。
水を渡す前に、器を見る。
印を見る。
確認済みの水。
それから、子供の口元へ運ぶ。
小さな動き。
だが、手順が入っている。
相沢はそれを見ていた。
昨日なら、もっと自分が動こうとしていた。
今日は、少しだけ座っていられる。
村が動いているから。
自分が全部見なくても、誰かが見ているから。
その時、北から短い笛が鳴った。
一度。
相沢の背筋が伸びる。
だが、立たない。
まず、広場を見る。
ミナが板の前で顔を上げた。
「北、何!」
伝令が来る。
早歩き。
息を残して。
「森、普通じゃない!」
ミナが聞く。
「赤?」
「見えない!」
「音は?」
「なし!」
「動きは?」
「ダリオが、戻りすぎてるって!」
相沢は眉を寄せた。
戻りすぎている。
森が戻らない、ではない。
戻りすぎている。
それは、どういう意味だ。
伝令も分からない顔をしている。
だが、ダリオはそう言った。
相沢は立ち上がった。
今度は、リリアも止めなかった。
ただ、一言だけ言った。
「歩いてください」
「はい」
◇
【日曜日 11:34/北柵】
北柵に着くと、ダリオが森を見ていた。
ガンツも立っている。
緊張している。
だが、敵は見えない。
「戻りすぎてるって何だ」
相沢が聞く。
ダリオは森を見たまま答える。
「鳥が多い」
「多い?」
「さっきまで少なかった。今、多すぎる」
「いいことじゃないのか」
相沢が言うと、ダリオは首を振った。
「鳥が戻る時は、端から戻る」
「今は?」
「奥から一斉に出た」
ガンツが低く言う。
「追われたのか」
「たぶん」
ダリオは弓を持つ。
まだ構えない。
「赤が奥で動いた」
「見えた?」
「見えない」
「でも鳥が出た」
「そう」
相沢は森を見る。
鳥の声がする。
多い。
確かに多い。
だが、相沢にはそれが普通か異常か分からない。
ダリオには分かる。
「来るか」
ガンツが聞く。
ダリオは少し黙った。
「分からない」
「まだ、じゃないのか」
「まだ、ではない」
その言葉で、空気が変わった。
ダリオが「まだ」と言わなかった。
相沢は息を止めそうになる。
すぐ吐く。
「広場には」
相沢が言う。
「全部は言わない。鳥が多い。北警戒。人を増やすな。それだけ」
ガンツが頷く。
「伝令」
若い見張りが動く。
ダリオが短く言う。
「走るな」
「はい」
伝令は早歩きで戻る。
相沢は森を見た。
赤は見えない。
だが、森がざわついている。
井戸への道に置かれた石。
食料の仕分け。
村が崩れなかった。
次の手が来る。
たぶん、早い。
ダリオが弓を持ち上げた。
まだ撃たない。
だが、今度は待つためではない。
来るかもしれないものを、先に見るためだった。




