第九十話 赤いもの
【土曜日 21:18/治療所前】
相沢は、声で目を開けた。
叫びではない。
悲鳴でもない。
短い声。
北からだった。
「まだ」
ダリオの声。
それだけ。
相沢は、しばらく目を開けたまま動かなかった。
薄い布。
治療所の壁。
低い火明かり。
夜の匂い。
戻ってきた現実を、順番に拾う。
寝ていた。
少しだけ。
眠れた。
それが分かった瞬間、体の重さも戻ってきた。
だが、頭の奥の霞は少し薄い。
完全ではない。
それでも、さっきよりはましだった。
「起きましたか」
リリアが言った。
治療所の入口に座っている。
手元には布。
横には水。
相沢は起き上がろうとして、止められた。
「まだ座ったままで」
「状況は」
「大きな変化はありません」
「北は」
「ガンツ殿とダリオ殿が見ています」
「南の小屋は」
「少し落ち着きました。子供が一人泣きましたが、火は使っていません」
「井戸」
「ハルトが見ています」
「倉庫」
「マルタが閉めています」
相沢は息を吐いた。
自分が聞く前に、返ってくる。
必要な場所が、順番に返ってくる。
夜の板は三つだけ。
火。
水。
呼ぶ。
それでも、周辺の役は残っている。
板が少ないから、村が薄くなったわけではない。
むしろ、余計なものが減った分、芯が見えやすい。
「寝ましたか」
リリアが聞いた。
「少し」
「少しでは足りません」
「でも、少し寝ました」
「それは認めます」
リリアは淡々と言った。
褒める気配はない。
ただ、事実として認める。
相沢は少し笑いそうになった。
◇
【土曜日 21:27/広場中央】
相沢は治療所前から広場を見ていた。
立つな、と言われたので、見える範囲だけ見る。
広場の火は小さい。
火を見る役が一人。
その横に、交代要員が座っている。
水桶のそばには、木片が置かれている。
呼ぶ役は、板の横にいる。
走らない。
大声を出しすぎない。
まず場所を聞く。
それが、少しずつ形になっている。
「火、少し弱い」
火を見る役が言う。
「薪は?」
呼ぶ役が聞く。
「小さいの一本」
「大きいのは?」
「まだ」
「じゃあ小さいの一本」
声が小さく回る。
火は守る。
でも、大きくしすぎない。
敵に見せすぎない。
薪を使いすぎない。
その判断が入っている。
相沢は、何も言わなかった。
言わなくていい。
言わないことが、今は仕事だった。
南の小屋から、小さな咳が聞こえた。
誰かが動きかける。
すぐに別の声。
「治療所じゃない。南」
「水いる?」
「聞いてくる」
「走るな」
「分かってる」
早歩き。
小さな足音。
相沢は目を閉じかけた。
回っている。
完璧ではない。
でも、回っている。
◇
【土曜日 21:41/北柵】
北柵では、ガンツが座っていた。
槍は膝の上。
立ってはいない。
だが、すぐ立てる。
ダリオは柵の少し横にいる。
弓は手元。
目は森。
座っていない。
「座れ」
ガンツが言う。
「見えにくい」
「さっき座っても見てただろ」
「今は違う」
「何が」
「森が戻りかけてる」
ガンツは黙った。
「戻ってるなら、いいんじゃねぇのか」
「全部じゃない」
「またそれか」
「虫は少し戻った。鳥はまだ。低い枝が変」
「低い枝」
「あそこ」
ダリオは指ささない。
目線だけで示す。
ガンツは見た。
分からない。
ただの暗い森だ。
「見えねぇ」
「見えなくていい」
「よくねぇだろ」
「あんたは前を見る」
「前も見えねぇんだよ」
ダリオは少しだけ黙った。
「なら、俺が先に言う」
「最初からそうしろ」
「言ってる」
「短いんだよ」
「長いと見落とす」
「またそれか」
ガンツは小さく息を吐いた。
それから立ち上がろうとした。
ダリオが短く言う。
「立たない」
ガンツの動きが止まる。
「何だ」
「見てる」
「赤か」
「たぶん」
「どこだ」
「死体があった場所より奥。低い根の右」
「来るか」
「まだ」
その言葉が、夜に落ちた。
まだ。
来ない。
だが、いる。
◇
【土曜日 21:52/広場中央】
北からの伝令は、走ってこなかった。
早歩き。
息は荒いが、言葉は残っている。
「北、変化」
呼ぶ役が聞く。
「何」
「赤、たぶんいる。でも近づいてない」
「火は?」
「なし」
「音は?」
「なし」
「影は?」
「見えない。ダリオが、森が変だって」
呼ぶ役がミナを見る。
ミナは板の前に座っていた。
眠そうだ。
だが、起きている。
「広場、そのまま」
ミナが言う。
「北には行かない。火、水、呼ぶ、そのまま」
相沢は治療所前から見ていた。
口を出さない。
ミナが処理した。
それでいい。
伝令が北へ戻る。
途中で、ハルトが井戸側から声をかけた。
「水、変わりなし」
伝令は頷き、北へ向かった。
情報がつながる。
北から広場へ。
井戸から広場へ。
広場から北へ。
相沢を通らずに。
「アイザワ殿」
リリアが言う。
「はい」
「顔が、また仕事の顔です」
「見てるだけです」
「見ているだけで疲れる人もいます」
「刺しますね」
「必要なので」
相沢は反論できなかった。
◇
【土曜日 22:13/南の空き小屋】
南の小屋では、避難民が眠ろうとしていた。
完全な眠りではない。
誰かが寝返りを打つ。
誰かが咳をする。
誰かが小さく水を求める。
入口は空いている。
火はない。
奥には薪。
手前には人。
入口の横には、ミナが描いた印。
寝る。
火なし。
入口を空ける。
子供が一人、その印を指でなぞっていた。
隣にいた女が囁く。
「もう寝なさい」
「入口、空ける」
「そうね」
「火、だめ」
「そう」
「逃げる道」
女は少し黙った。
それから、子供の頭を撫でた。
「そう。逃げる道」
外では、村の男と避難民の若い男が交代で入口を見ていた。
ぎこちない。
会話は少ない。
だが、同じ場所に立っている。
村の男が言う。
「寒くないか」
避難民の若い男が少し驚いた顔をする。
「寒い」
「だろうな」
「でも、火は入れない」
「ああ」
「寒いな」
「寒い」
それだけ。
だが、それだけで十分だった。
◇
【土曜日 22:26/治療所前】
相沢は水を飲んだ。
リリアに渡されたからだ。
飲まない選択肢はない。
「熱の子は」
「少し汗が出ました」
「良い兆候?」
「良い場合もあります。まだ見ます」
「飴は」
相沢が言うと、リリアは小さく頷いた。
「まだ使っていません」
「使うなら」
「マルタと相談します」
「はい」
「薬を嫌がって飲めない時、水を飲めない時。その時だけ」
リリアは、すでに理解している。
飴は甘いものではない。
今は、治療の補助だ。
子供を喜ばせる道具ではない。
見せれば揉める。
使えば減る。
使うなら、意味がいる。
「アイザワ殿」
「はい」
「あの甘いものは、よく効くのですか」
「効く、というより……口を開けるきっかけになることがあります」
「味で?」
「はい。甘いものは、怖さを少し薄めることがある」
リリアは少しだけ考えた。
「薬草より強いかもしれませんね」
「そういう意味ではないです」
「分かっています」
本当に分かっている顔だった。
リリアは治療所の中を見る。
「怖がっている子には、薬だけでは足りない時があります」
相沢は黙った。
現代では当たり前の小さな飴。
ここでは、薬の前に心を開ける道具になる。
便利。
だが、危うい。
持ってきた物は、全部そうだった。
◇
【土曜日 22:48/北柵】
森が、少し鳴った。
枝ではない。
土でもない。
低い、喉の奥のような音。
ガンツが立ち上がる。
今度は、ダリオも止めなかった。
「来るか」
「まだ」
「またか」
「でも、近い」
ダリオは弓を持ち上げる。
矢は番えない。
目だけが動く。
「赤か」
「赤」
「見えたのか」
「見えた」
ガンツの顔が変わる。
「どこだ」
「低い根の奥」
「数は」
「一つ」
「他は」
「見えない」
「片目みたいなのは」
「いない」
ガンツは槍を握る。
北の見張りが息を飲む。
ダリオが短く言う。
「息を止めるな」
見張りが、慌てて息を吐いた。
「見るな」
「え?」
「赤を見るな。森の端を見ろ」
「なぜ」
「赤を見ると、周りを見落とす」
見張りは頷いた。
完全には理解していない。
だが、従った。
ガンツが低く言う。
「ダリオ」
「何」
「今度も撃たないのか」
「撃てない」
「距離か」
「違う」
「何だ」
「あれは、撃たせに来てる」
ガンツは黙った。
赤いものが、森の奥で一度だけ動いた。
見えた。
今度は、ガンツにも。
赤い皮。
低い姿勢。
片目より大きい。
ただのゴブリンではない。
見られている。
その感覚が、柵の内側まで届いた。
◇
【土曜日 22:55/広場中央】
北から伝令が来た。
今度は、少し速い。
だが、走り切ってはいない。
板の前で止まり、息を整える。
「北、赤」
ミナの顔が強張る。
「数は」
「一つ。見えた」
「近い?」
「近づいてない。でも、見える場所に出た」
「火は」
「なし」
「音は」
「低い音、一度」
「攻撃は」
「なし」
相沢は、もう座っていられなかった。
体が前に出る。
リリアが腕を掴む。
「アイザワ殿」
「行きます」
「走らないでください」
「走りません」
「一人では行かないでください」
「ミナ」
相沢が呼ぶ。
ミナが立つ。
「広場は私」
「そうじゃない。広場に残れ」
「でも」
「広場に残れ」
相沢は強く言った。
ミナが止まる。
「火、水、呼ぶ。変えるな」
ミナは唇を噛み、頷いた。
「分かった」
「リリアさん」
「私は治療所です」
「お願いします」
リリアは相沢の腕を離した。
「歩いてください」
「はい」
「戻ったら座ってください」
「はい」
「信用はしていません」
「分かってます」
相沢は北へ向かった。
走らない。
足は速める。
だが、走らない。
広場がついてこないように。
回し屋が走れば、村が走る。
それだけは、しない。
◇
【土曜日 23:03/北柵】
赤いものは、まだいた。
相沢にも見えた。
森の奥。
低い根の横。
赤黒い皮膚。
片目より大きい体。
長い腕。
目が、こちらを見ている。
怖い。
最初にそう思った。
強そう、ではない。
怖い。
見ているのに、動かない。
襲ってこない。
逃げもしない。
ただ、こちらを見ている。
「来ないのか」
相沢が聞く。
ダリオが答える。
「来ない」
「撃てるか」
「撃てるかもしれない」
「撃たない?」
「撃たない」
「理由は」
「あれは、俺を見てる」
相沢は息を止める。
ダリオは続けた。
「片目を撃った弓を見てる」
ガンツが低く言う。
「こいつを誘ってる」
「誘ってる?」
「撃たせて、位置を見る。矢の届く距離を見る。外した時の動きも見る」
相沢は森を見る。
赤ゴブリンは、まだいる。
動かない。
まるで展示会で、相手が見積もりの限界を探る時のようだった。
一歩も出さずに、こちらに出させる。
条件を喋らせる。
焦った方が、先に情報を出す。
「嫌な商談だな」
相沢は呟いた。
ガンツが横目で見る。
「何だそれ」
「こっちの手札を見たがってる」
「ああ」
ガンツは槍を握り直す。
「なら、見せるな」
「分かった」
ダリオが短く言った。
「見せない」
弓は構えていない。
だが、指は矢に触れている。
撃てる。
でも、撃たない。
今度の「撃たない」は、片目の時とは違う。
倒すために待っているのではない。
見せないために、撃たない。
◇
【土曜日 23:11/北柵】
赤ゴブリンが、少しだけ首を傾けた。
人間のような動きだった。
それが、余計に気持ち悪い。
ガンツが低く唸る。
「笑ってやがるのか」
「分からない」
相沢は言った。
本当に分からない。
だが、笑っているようにも見える。
見下しているのか。
挑発しているのか。
それとも、ただ観察しているだけか。
ダリオが言う。
「目は笑ってない」
「見えるのか」
相沢が聞く。
「少し」
「何を見てる」
「俺。ガンツ。柵。火」
「俺は?」
「見た」
相沢の背中が冷える。
「いつ」
「今」
赤ゴブリンの顔が、わずかに動いた。
相沢と目が合った。
距離がある。
暗い。
それでも、分かった。
見られた。
相沢は、思わず息を止めそうになる。
すぐに吐いた。
止めるな。
息を止めるな。
ダリオが見張りに言った言葉を、自分に使う。
「アイザワ」
ガンツが言った。
「何だ」
「下がれ」
「まだ」
「下がれ」
声が低い。
命令に近い。
「お前を見た。なら、ここに置くな」
相沢は反論しかけて、止まった。
ガンツが正しい。
相沢がここに立ち続けると、赤ゴブリンは相沢を見る。
回し屋がどこに立つか。
誰が話しかけるか。
誰が反応するか。
それを拾われる。
「分かった」
相沢は一歩下がった。
悔しい。
だが、正しい。
前はガンツ。
森はダリオ。
後ろは相沢。
今、相沢が前に残る場所ではない。
◇
【土曜日 23:18/広場中央】
相沢が広場へ戻ると、ミナが板の前にいた。
顔は硬い。
だが、板は変えていない。
火。
水。
呼ぶ。
三つだけ。
「赤は」
ミナが聞く。
「見えた」
「来る?」
「今は来てない」
「倒さないの?」
「今は倒さない」
「片目は倒したのに」
「赤は、撃たせに来てる」
ミナは眉を寄せる。
「撃たせに?」
「こっちの届く距離、弓の位置、反応を見るため」
「嫌なやつ」
「嫌なやつだ」
相沢は板を見る。
三つだけ。
火。
水。
呼ぶ。
変えたくなる。
北を入れたくなる。
赤を入れたくなる。
危険。
敵。
見張り。
そう書きたくなる。
だが、書けば全員が見る。
全員が北を見る。
広場が北へ傾く。
「板は変えない」
相沢が言う。
ミナは頷いた。
「変えてない」
「いい」
「でも、怖い」
「俺も怖い」
ミナは少しだけ驚いた顔をした。
「回し屋も?」
「怖い」
「そうなんだ」
「そうだ」
相沢は短く言った。
怖くないふりをしても、たぶん見られる。
敵にも。
味方にも。
なら、怖いことは認める。
認めた上で、板を変えない。
「怖いから、増やさない」
相沢が言う。
ミナが板を見る。
「怖いと、増やしたくなる」
「そう」
「火、水、呼ぶだけ」
「そう」
「北は、北が見る」
「そうだ」
ミナは深く息を吸った。
それから、板の横に座り直した。
「分かった」
◇
【土曜日 23:31/北柵】
赤ゴブリンは、しばらくそこにいた。
動かない。
襲わない。
逃げない。
ただ見ている。
それが、北柵の人間を削っていく。
ガンツは立っていた。
ダリオも立っていた。
だが、後ろの見張りには座らせた。
立ち続けると、赤を見る。
赤だけを見る。
周りが消える。
それは危ない。
「交代」
ガンツが言う。
「まだ立てます」
若い見張りが答える。
「立てるかどうかじゃねぇ。目が固まってる」
「でも」
「座れ」
見張りは座った。
不満そうだが、座った。
ダリオが言う。
「赤を見るな」
「でも、赤が」
「赤を見るな。枝を見る」
「枝?」
「赤の横じゃない。少し離れた枝」
「なぜ」
「赤が動く前に、枝が変わる」
見張りは分かったような、分からないような顔をした。
それでも、赤から視線を外した。
ガンツが低く言う。
「教え方が雑だな」
「見れば分かる」
「分からねぇから聞いてるんだろ」
「慣れる」
「お前な」
ガンツは呆れたように言う。
だが、声には少しだけ笑いが混ざっていた。
緊張が、ほんの少しだけ緩む。
赤ゴブリンは、まだ動かない。
◇
【土曜日 23:47/治療所前】
相沢は治療所前に戻された。
リリアに。
ほぼ強制だった。
「北を見に行った分、座ってください」
「行く必要はありました」
「否定はしません」
「なら」
「座ってください」
「はい」
相沢は座る。
リリアは水を差し出す。
相沢は飲む。
ここまで一連の流れになっている。
「赤を見ましたか」
リリアが聞いた。
「見ました」
「どうでしたか」
「嫌な相手です」
「強い?」
「強いと思います。でも、それより、見てくる」
「見る」
「はい。こちらがどう動くか、見ている」
リリアは少し考えた。
「では、見せるものを選ぶ必要がありますね」
相沢はリリアを見る。
淡々と言った。
だが、正確だった。
「そうです」
「怪我人を見せない。薬を見せない。水の残りも見せない」
「はい」
「疲れている人も、できるだけ見せない」
「そうです」
リリアは治療所の入口を見る。
「では、入口の布を少し下げます」
「完全には閉じないでください」
「中の空気が悪くなりますから」
「はい」
「見えすぎず、閉じすぎず」
リリアはすぐに動いた。
入口の布を少し下げる。
中の様子は見えにくくなる。
だが、空気は通る。
現場の判断だった。
相沢は頷いた。
言わなくても、リリアは分かる。
それがありがたかった。
◇
【日曜日 0:04/広場中央】
日付が変わった。
相沢にとっては、意味のある時刻だった。
だが、転移は起きない。
日曜日。
休日は続いている。
ここに残る。
村の夜も続いている。
広場の火は小さい。
水桶は残っている。
呼ぶ役は交代した。
北から、まだ短い声が届く。
「まだ」
ダリオ。
赤ゴブリンは、まだいる。
相沢はスマホがないことを思い出した。
当然だ。
ここでは見ない。
時間は、システム表示か、空気で知るしかない。
その時、視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【休日継続中】
【夜間警戒:
継続】
【敵主力:
視認済】
【敵行動:
挑発/射程確認の可能性】
【推奨:
過剰反応禁止】
【推奨:
水分摂取】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
中〜高】
【推奨:
睡眠再開】
⸻
「水分摂取」
相沢は呟いた。
リリアが水を差し出した。
「表示より早い」
「顔に出ています」
「顔、便利ですね」
「便利ですが、悪いです」
「そこまで言いますか」
「言います」
相沢は水を飲む。
少しだけ、体に戻る。
眠気も戻る。
赤が見えているのに眠る。
それは怖い。
だが、眠らなければ、明日動けない。
動けなければ、村が困る。
いや。
違う。
動けない時に、村が回るようにしたい。
そのために、今日ずっとやってきた。
なら、自分が寝ることも、その試験だ。
◇
【日曜日 0:22/北柵】
赤ゴブリンが、ようやく動いた。
ほんの少し後ろへ。
森の奥へ。
ガンツが槍を握る。
「下がるぞ」
ダリオが弓を上げる。
だが、引かない。
「撃たないのか」
「撃たない」
「今なら」
「遠い」
「追うか」
「追わない」
ガンツは頷いた。
「追わない」
赤ゴブリンは、一度だけ止まった。
振り返ったように見えた。
目が、夜の中で鈍く光る。
それから、森の奥へ消えた。
音は少ない。
逃げる音ではない。
去る音だった。
ダリオは、しばらく弓を上げたままだった。
「消えたか」
ガンツが聞く。
「見えない」
「いるか」
「分からない」
「なら」
「まだ」
ガンツは息を吐いた。
「今日は、その言葉ばっかりだな」
「まだだから」
「そうだな」
北柵に、重い静けさが戻った。
◇
【日曜日 0:39/広場中央】
伝令が戻った。
「赤、森の奥へ下がった!」
広場が息を吐く。
歓声はない。
片目の時より、静かだった。
見た者が少ないからではない。
分かっているからだ。
終わっていない。
赤が下がっただけ。
相沢は頷いた。
「板はそのまま」
ミナも頷く。
「火、水、呼ぶ」
「そう」
「北は?」
「北が見る」
「分かった」
ハルトが井戸側から言う。
「水、変わりなし」
マルタが倉庫側から言う。
「倉庫、触らせてない」
リリアが治療所前から言う。
「治療所、変化ありません」
役が返る。
赤が出ても、下がっても、村は役で返す。
相沢は少しだけ目を閉じた。
よし。
そう思った。
だが、同時に、怖いとも思った。
赤ゴブリンは、こちらの役を見た。
火。
水。
呼ぶ。
北。
治療所。
倉庫。
井戸。
南の小屋。
全部ではないにしても、いくつかは見ただろう。
次は、そこを狙うかもしれない。
どこを狙われても、村が崩れないようにしなければならない。
◇
【日曜日 1:06/治療所前】
相沢は再び目を閉じた。
眠るために。
今度は、自分から。
リリアが少し驚いたように見えた。
「寝ます」
相沢が言う。
「はい」
「北に変化があったら」
「必要なら起こします」
「必要じゃなければ」
「起こしません」
「判断は」
「こちらでします」
相沢は頷いた。
それが言えた。
お願いします、ではなく、判断はこちらでします。
リリアがそう言えるようになっている。
「分かりました」
相沢は言った。
リリアは少しだけ目元を緩めた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
異世界でその言葉を聞くのは、少し不思議だった。
だが、悪くなかった。
広場の火が揺れる。
北から、遠くダリオの声。
「まだ」
その声は、不安でもあり、安心でもあった。
まだ終わらない。
だが、まだ見ている者がいる。
相沢は、今度こそ眠りに落ちた。
◇
【日曜日 3:44/北柵】
夜の一番深いところで、ダリオはまだ森を見ていた。
座っている。
ガンツに座らされた。
だが、目は開いている。
弓は膝の上。
指は弦の近く。
ガンツは横で短く眠っていた。
完全には寝ていない。
だが、目を閉じている。
ダリオは森を見る。
虫が鳴っている。
鳥はいない。
風がある。
枝は自然に揺れている。
赤はいない。
たぶん。
それでも、森は完全には戻っていない。
片目がいた場所。
赤が立った場所。
死体が消えた場所。
そこだけ、夜が少し濃い。
ダリオは、小さく息を吐いた。
「まだ」
誰に言ったわけでもない。
自分に言った。
森に言った。
それから、広場の方を少しだけ見た。
火は小さい。
水桶の影が見える。
呼ぶ役が座っている。
南の小屋も静かだ。
村は、眠ろうとしている。
完全には眠れない。
だが、倒れてはいない。
ダリオは森へ視線を戻した。
赤いものは見えない。
だが、いる。
いつか来る。
その時、先に気づく。
それが、自分の役だった。




