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第八十九話 まだ撃たない

【土曜日 13:02/広場中央】


 広場は止まらなかった。


 止まりかけた。


 だが、止まらなかった。


 ミナが板の前に立ち、声を張る。


「南の小屋、そのまま! 薪を動かす人は二人ずつ!」


 ハルトが井戸側へ戻る。


「井戸、順番変えるな! 水は予定通りだ!」


 マルタが倉庫の戸を閉める。


「倉庫は開けないよ! 見るだけで飯は増えない!」


 リリアが治療所の入口に立つ。


「治療所は変化ありません。熱の方は中にいます」


 声が返る。


 場所が返る。


 役が返る。


 片目が森から見ていても、村は一斉には崩れなかった。


 相沢は座ったまま、それを見ていた。


 立ちたい。


 北へ行きたい。


 ダリオの横で森を見たい。


 だが、相沢が動くと、広場が動く。


 回し屋が走れば、村人も走る。


 それはもう、分かっていた。


 だから座る。


 リリアの視線もある。


 オカンの表示が出るまでもない。


 今の相沢の役は、走ることではない。


「ミナ」


「何」


「広場の板を変えない」


「分かってる」


「南の小屋に人を増やしすぎない」


「二人ずつにしてる」


「井戸」


「ハルトが見てる」


「倉庫」


「マルタさんが閉めた」


「治療所」


「リリアさん」


 ミナは早かった。


 相沢が言う前に、ほとんど動いている。


 相沢は頷く。


「それでいい」


「回し屋」


「何だ」


「顔、今ちょっと嬉しそう」


「そんな場合か」


「そんな場合じゃないけど、嬉しそう」


 相沢は返せなかった。


 嬉しい。


 たぶん、そうだった。


 敵に見られている。


 片目がいる。


 森の奥に本体もいる。


 危険は増している。


 それでも、村が崩れていない。


 それが、嬉しかった。


     ◇


【土曜日 13:07/北柵】


 ガンツは北柵の内側に立っていた。


 槍は低い。


 構えすぎていない。


 すぐ動ける位置。


 ダリオはその少し横。


 弓は持っている。


 だが、まだ引いていない。


 森を見る。


 ただ、それだけをしている。


「見えるか」


 ガンツが聞いた。


「見える」


「片目か」


「片目」


「本体は」


「奥」


「赤か」


「たぶん」


 ダリオは短く答えた。


 視線は動かない。


 枝の隙間。


 低い草。


 倒木の陰。


 風の揺れ。


 その全部を、目で分けている。


「撃てるんだな」


「撃てる」


「なぜ撃たん」


「まだ近い場所を見てない」


「何をだ」


「逃げ道」


 ガンツは眉を寄せる。


「逃げる道を見るのか」


「獲物は、撃たれる前から逃げる」


「片目もか」


「片目は逃げるために出てきてる」


 ガンツは森を見る。


 見えない。


 ガンツの目では、そこまで拾えない。


 だが、ダリオが言うなら、いる。


 それはもう、村の中で少しずつ共有され始めていた。


「ダリオ」


 ガンツが低く言う。


「何」


「撃つ時は言え」


「言う」


「俺は前を止める」


「分かってる」


「分かってる顔じゃねぇ」


「森を見てる」


「俺を見ろ」


 ダリオは、一瞬だけガンツを見た。


 それから森へ戻す。


「前は、あんたが止める」


 ガンツは少しだけ口の端を動かした。


「それでいい」


     ◇


【土曜日 13:12/南の空き小屋】


 南の空き小屋では、薪の移動が始まっていた。


 避難民の若い男が、不満そうに薪を持ち上げる。


 村の男が横で見ている。


「それは奥へ」


「分かってる」


「重いのは持つなって言われただろ」


「これくらい持てる」


「持てるかどうかじゃない。今倒れられると邪魔なんだよ」


 言い方が悪い。


 だが、マルタやハルトの言葉が移っている。


 相沢は遠くからそれを見ていた。


 言い方まで移るのは、少し問題かもしれない。


 だが、今は効いている。


 若い男は舌打ちしながら、軽い薪だけを選ぶ。


 村の男は奥の重い束を持つ。


 役割が少し見えた。


 同じ作業をするのではない。


 できる量を合わせる。


 南の小屋の入口には、ミナが描いた印が掛けられている。


 寝床。


 火なし。


 薪半分。


 入口開ける。


 文字ではない。


 絵のような印。


 避難民の子供が、それをじっと見ていた。


「これ、何」


 子供が聞く。


 ミナが答える。


「ここで寝る。火は入れない。薪は奥。入口はふさがない」


「どうして入口ふさがないの」


「逃げるため」


 子供は少し黙った。


 ミナも一瞬、言いすぎた顔をした。


 だが、すぐに言い直さなかった。


 逃げるため。


 それは本当だ。


 子供は小さく頷いた。


「分かった」


 それだけだった。


 相沢は遠くで見て、息を吐いた。


 安全教育。


 小さい。


 だが、入っている。


     ◇


【土曜日 13:18/広場中央】


 相沢の視界の端に表示が浮かんだ。



【外敵観察:

 継続】


【集落運用:

 維持】


【南小屋:

 仮寝床化進行中】


【北柵:

 警戒上昇】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 着座継続】



「分かってる」


 相沢は呟いた。


 ミナがこちらを見る。


「また座れ?」


「ああ」


「座ってるね」


「座ってる」


「偉い」


「褒め方が雑だ」


「座ってるだけで偉いくらい、普段が悪い」


「返す言葉がない」


 ミナは板へ向き直る。


 その時、北から二度目の笛が鳴った。


 短く一つ。


 続けて、もう一つ。


 相沢の背中に力が入る。


 ミナがすぐ叫ぶ。


「北、何!」


 伝令が走りかける。


 途中で速度を落とした。


 早歩き。


 息を残す。


 板の前まで来て、短く言う。


「片目、南側へ動いた!」


「南の小屋?」


「見る位置を変えてる!」


 ミナが相沢を見る。


 相沢は北ではなく、南の小屋を見る。


 片目は、こちらの反応を見ている。


 北で音を鳴らす。


 村が北へ寄るかを見る。


 その間に、南を見る。


 嫌な動きだ。


「南の作業を止めない」


 相沢は言った。


「北へ人を増やさない」


 ミナが板に手を置く。


「広場、そのまま! 南もそのまま! 北に行くのは決まってる人だけ!」


 声が飛ぶ。


 村人が踏みとどまる。


 避難民も、顔を上げるだけで止まる。


 完全ではない。


 何人かは動きかけた。


 だが、戻った。


 戻れた。


     ◇


【土曜日 13:24/北柵】


 ダリオの目が細くなった。


「来た」


 ガンツが槍を握る。


「片目か」


「片目」


「距離は」


「まだ遠い」


「撃てるか」


「撃てる」


「まだか」


「まだ」


 ガンツは舌打ちしかけて、やめた。


 ダリオの呼吸は変わっていない。


 焦っていない。


 狙っているのではない。


 待っている。


「何を待ってる」


「枝が止まる」


「風か」


「違う。片目が止める」


「枝を?」


「自分で触ってる」


 ガンツは森を見る。


 やはり見えない。


 ダリオだけが、森の中の小さな変化を拾っている。


「片目は、枝の揺れを使ってる」


「隠れてるってことか」


「違う。見せてる」


「見せてる?」


「こっちの目を、そこに置かせる」


 ガンツは低く唸った。


「囮か」


「囮の目」


「本体は奥」


「奥」


 ダリオは矢を番えた。


 まだ引かない。


 指だけが弦に触れる。


「今撃つと、片目は逃げる」


「逃げさせるな」


「だから撃たない」


 短い。


 だが、理由は十分だった。


     ◇


【土曜日 13:31/広場中央】


 南の小屋から、小さな騒ぎが起きた。


 薪の束が崩れた。


 大きな音ではない。


 だが、今の村には十分大きい。


 子供が泣きかける。


 避難民の女が抱き寄せる。


 村人の男が反射的に北を見る。


 ミナが声を飛ばした。


「薪だけ! 怪我は!」


「なし!」


 南から返る。


「火は!」


「なし!」


「入口は!」


「空いてる!」


 ミナが頷く。


「続けて!」


 相沢は、そのやり取りを聞いていた。


 良い。


 報告が短い。


 怪我。


 火。


 入口。


 今見るべきものだけ。


 薪が崩れた理由は、後でいい。


 責めるのも後でいい。


 今は止めない。


 その時、ハルトが井戸側から広場へ声を投げた。


「水、予定通り!」


 マルタも続ける。


「倉庫、閉じたまま!」


 リリアも。


「治療所、変化なし!」


 役が返る。


 相沢を通らない。


 村の中で声が回る。


 それを森の片目も見ている。


 相沢は、ようやく理解した。


 片目は、村の弱い場所を探している。


 音を出す。


 影を見せる。


 枝を揺らす。


 薪を崩すのは偶然かもしれない。


 だが、それへの反応は見られている。


 誰が走るか。


 誰が止まるか。


 誰が叫ぶか。


 誰が黙るか。


 それを見ている。


「嫌な営業先だな」


 相沢は小さく呟いた。


 ミナが聞き取れなかった顔をする。


「何?」


「いや。見てるやつは、面倒だと思って」


 相沢は森を見る。


 見ている相手には、誤魔化せない。


 展示会で七瀬に売場を見られた時とは違う。


 あれは、良くするための目だった。


 通路が詰まらないか。


 店の人が困らないか。


 食べ物が無駄にならないか。


 その先を見ている目だった。


 だが、森の奥の目は違う。


 崩すために見ている。


 誰が走るか。


 誰が止まるか。


 どこに水があるか。


 どこに食料があるか。


 誰が疲れているか。


 見て、崩すための目だ。


「……質が違うな」


 相沢は呟いた。


 ミナが眉を寄せる。


「何の話?」


「見る目にも、種類があるって話」


「よく分からない」


「俺も、今分けた」


 ミナは森を見そうになって、途中でやめた。


 板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


「じゃあ、こっちはこっちで見る」


「ああ」


「崩されないように」


「そうだ」


 相沢は頷いた。


 見られるということは、誤魔化せないということだ。


 敵にも。


 味方にも。


 だからこそ、見せるものを間違えてはいけない。


     ◇


【土曜日 13:39/北柵】


 ダリオが、初めて弓を引いた。


 ぎり、と小さな音がした。


 ガンツが動きを止める。


「今か」


「まだ」


「引いたぞ」


「見せる」


「誰に」


「片目に」


 ガンツは横目でダリオを見る。


 ダリオは森だけを見ている。


 弓を引いたまま、撃たない。


 矢先は少し下。


 本命の位置ではない。


「誘ってるのか」


「少し」


「お前、そんなことできるのか」


「森ではやる」


「人相手じゃねぇぞ」


「獣も見る」


「ゴブリンだ」


「見てるなら同じ」


 ダリオの声は平坦だった。


 だが、冷えている。


 森の向こうで、枝が揺れた。


 小さく。


 本当に小さく。


 ダリオの目が動いた。


「そこじゃない」


 矢先が少し上がる。


 まだ撃たない。


「見せてる枝の奥。低い根の横」


 ガンツは槍を構え直す。


「来るか」


「来ない。逃げる道を見てる」


「逃げる前に撃て」


「逃げる道が決まってから撃つ」


 ガンツは黙った。


 理屈は分からない。


 だが、ダリオの声には迷いがない。


     ◇


【土曜日 13:44/南の空き小屋】


 南の小屋の作業は続いていた。


 薪は奥へ。


 床に敷ける藁を手前へ。


 入口は空ける。


 火は入れない。


 水桶は置かない。


 子供が入口近くで座り込もうとすると、ミナが止めた。


「そこはふさがない」


「なんで」


「逃げる道」


「また?」


「何回でも」


 子供はむくれた。


 だが、少しずれて座った。


 その横で、避難民の女が小さく頭を下げる。


 ミナは困ったように手を振った。


「私じゃなくて、板見て」


「板?」


「ここ。入口は空ける」


 女は板を見る。


 寝床の印。


 火なし。


 入口。


 薪。


 言葉がなくても、少し分かる。


「これなら、うちの子にも分かるかもしれない」


 女が言った。


 ミナは少し考えた。


「子供用に、もっと簡単なの作る?」


 相沢は遠くから、その会話を聞いた。


 子供用の板。


 安全教育。


 避難民も含めて。


 良い。


 かなり良い。


 だが、今は増やしすぎるな。


 そう言いたい。


 相沢が口を開きかけた時、ミナが自分で言った。


「今は増やさない。後で」


 相沢は口を閉じた。


 ミナが自分で止めた。


 それでいい。


     ◇


【土曜日 13:51/北柵】


 ダリオの弓が、少しだけ上がった。


 ガンツはそれを見た。


「今か」


「まだ」


「いつだ」


「片目が、自分で安全だと思った時」


 ガンツは息を吐いた。


「分からん」


「逃げる方向を決めた時、体が止まる」


「一瞬か」


「一瞬」


「外すなよ」


「外したら、次は近づかない」


「分かってるならいい」


 ダリオは矢を引ききった。


 今度は、本当に構えた。


 森の奥で、鳥が一羽飛んだ。


 枝が揺れる。


 風ではない。


 小さな影が、低い根の横で止まった。


 片目。


 右目だけが、こちらを見ていた。


 遠い。


 だが、ダリオには見えている。


 片目は、南の小屋を見ていた。


 広場を見ていた。


 井戸を見ていた。


 そして、弓を引くダリオを見た。


 逃げる。


 そう決めた瞬間。


 ダリオが言った。


「今」


 弦が鳴った。


     ◇


【土曜日 13:52/広場中央】


 音は、広場まで届いた。


 矢の音。


 相沢にはそう分かった。


 理由はない。


 ただ、分かった。


 広場の人間が、今度こそ止まりかける。


 だが、ミナが叫んだ。


「広場、そのまま!」


 声が少し裏返った。


 それでも出た。


 南の小屋では、薪を持った男が動きを止めかけ、また動かした。


 ハルトが井戸で叫ぶ。


「水、止めるな!」


 マルタが倉庫の戸に手を当てる。


「開けないよ!」


 リリアが治療所の中を見る。


「中はそのまま!」


 相沢は立ち上がらなかった。


 拳だけを握った。


 北を見る。


 森は、昼の光の中でも暗い。


 数拍。


 何も起きない。


 長い。


 長すぎる。


 そして、北からガンツの声が響いた。


「当たった!」


 広場が揺れた。


 歓声になりかけた。


 だが、ダリオの声が続いた。


「まだ見るな!」


 歓声が止まった。


 相沢は息を止める。


 まだ見るな。


 それは、倒した敵を見るなという意味ではない。


 森を見るなという意味でもない。


 今、勝った顔をするな。


 そういう声だった。


     ◇


【土曜日 13:55/北柵】


 片目は、低い根の横に倒れていた。


 矢は首のあたりに刺さっている。


 声はない。


 手足が一度だけ動き、それから止まった。


 ガンツは柵の内側から見ていた。


「落としたな」


「落とした」


 ダリオは弓を下ろさない。


 矢をもう一本、指に挟んでいる。


「見に行くか」


 ガンツが聞く。


「行かない」


「死んだぞ」


「死んだ」


「なら」


「本体が見てる」


 ガンツの顔が変わる。


 ダリオは森のさらに奥を見る。


 片目の倒れた場所ではない。


 その後ろ。


 木々の重なり。


 影の濃いところ。


「赤か」


 ガンツが低く言う。


「赤」


 ダリオが答えた。


「見えるのか」


「見えない」


「ならなぜ分かる」


「森が止まった」


 ガンツは黙った。


 ダリオは続ける。


「鳥が戻らない。虫も鳴らない。片目が倒れた後に、逃げる音がない」


「向こうも止まってる」


「こっちを見てる」


 ダリオの声は、低かった。


 片目を倒した男の声ではない。


 次を見ている男の声だった。


     ◇


【土曜日 14:03/広場中央】


 北から伝令が戻った。


 息は荒い。


 だが、言葉は短い。


「片目、倒した!」


 広場がざわつく。


 今度は抑えきれない。


 小さな歓声。


 息を吐く声。


 誰かが膝をつく音。


 避難民の子供が、何が起きたのか分からず大人を見る。


 マルタがすぐに言う。


「騒ぎすぎるんじゃないよ!」


 ハルトも言う。


「水場に寄るな!」


 ミナが板に手を置く。


「広場、戻して! 南の小屋、続けて! 井戸、予定通り!」


 相沢は伝令を見る。


「ダリオは」


「北。まだ弓構えてる」


「ガンツは」


「北」


「赤は」


「分からない」


 分からない。


 それが正しい。


 見えないものを見えたと言わない。


 それだけで、報告は信用できる。


 相沢は頷いた。


「片目を見に行くな」


 村長がすぐ続ける。


「誰も森へ出ない。北へ集まらない」


 ミナが北の印に大きく斜線を入れる。


 見に行かない。


 分かりやすい。


 村人の何人かが不満そうにする。


 倒した敵を見たい。


 安心したい。


 確認したい。


 だが、それで人が動けば、片目の役目は最後に果たされる。


 死んだ後に、人を集める。


 それは嫌だった。


「倒したからこそ、動かない」


 相沢が言った。


 自分にも言い聞かせていた。


     ◇


【土曜日 14:18/広場中央】


 少しずつ、村は作業に戻った。


 完全には戻らない。


 空気は高ぶっている。


 当然だ。


 片目を倒した。


 ずっと見られていた目を、一つ潰した。


 その意味は大きい。


 だが、相沢はまだ喜びきれなかった。


 表示が出る。



【敵斥候:

 片目個体、行動停止】


【外敵観察能力:

 一部低下】


【集落士気:

 上昇】


【警戒:

 継続】


【推奨:

 森への接近禁止】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 着座継続】



「分かってる」


 相沢は呟いた。


 ミナが横に来る。


「倒したんだよね」


「ああ」


「喜んでいい?」


「少しは」


「少し?」


「全部喜ぶと、たぶん危ない」


 ミナは森を見る。


 見えない。


 だが、暗い。


「赤いのがいる?」


「たぶん」


「片目が死んだの、見たかな」


「見たと思う」


「怒る?」


「分からない」


「怖がる?」


「それも分からない」


 相沢は朝の板を見る。


 寝床。


 水。


 食料。


 仕事。


 声。


 どれも、まだ途中だ。


 片目を倒しても、食料は増えない。


 水も増えない。


 寝床も完成しない。


 不満も消えない。


 ただ、敵の目を一つ潰した。


 それだけだ。


 だが、それだけでも大きい。


     ◇


【土曜日 14:32/北柵】


 ダリオが広場へ戻ってきたのは、それからしばらく後だった。


 弓は下ろしている。


 だが、矢は一本、すぐ取れる位置にある。


 ガンツも一緒だった。


 片目の死体は、まだ森の根元に置いたままだ。


 取りには行かない。


 ダリオがそう言った。


 ガンツも、今回は従った。


 広場の視線がダリオに集まる。


 ダリオは居心地悪そうに眉を寄せた。


 歓声が起きかける。


 その前に、ダリオが言った。


「見るな」


 全員が黙る。


 短すぎる。


 だが、効いた。


 ガンツが補う。


「森を見るなって意味じゃねぇ。浮かれるなって意味だ」


 ダリオは少しだけ頷いた。


「片目は倒した」


 村人が息を飲む。


「でも、赤が見た」


 広場の空気が沈む。


 ダリオは続ける。


「向こうは、こっちが片目を倒せると知った」


 それは勝利ではある。


 同時に、情報を渡したことでもある。


 相沢は頷いた。


「次は、片目と同じ見方をしない」


 ダリオがこちらを見る。


「たぶん」


「次は、もっと隠す?」


「もっと隠すか、もっと近づく」


 ガンツが槍を握り直す。


「来るなら止める」


 ダリオが短く言う。


「来る前に見る」


 相沢は二人を見た。


 前を止める男。


 先に気づく男。


 後ろを回す自分。


 やっと、形になってきた気がした。


     ◇


【土曜日 14:49/広場中央】


 村長が、片目撃破を広場の板に残そうとした。


 マルタがすぐ止めた。


「それは今の板じゃないよ」


「記録は必要です」


「残す板に書きな。見る板にはいらない」


 相沢は思わず笑いそうになった。


 マルタは徹底している。


 今見るものと、後で残すもの。


 片目撃破は重要だ。


 だが、今の運用板に入れると、全員がそこを見る。


 見るべきものが増えすぎる。


「残す板に書きましょう」


 相沢が言った。


「内容は短く」


 記録係が木炭を持つ。


 ダリオが言う。


「片目。南を見る位置。低い根。矢。赤が奥」


 記録係が困った顔をする。


「もう少し、言葉を」


 ダリオは黙った。


 相沢が補う。


「片目の斥候を、南小屋確認中に発見。ダリオが射る。森の奥に赤の反応あり。死体は取りに行かない」


 記録係が板に書く。


 ダリオは少し不満そうだった。


「長い」


「記録だからな」


「森では長いと死ぬ」


「記録では短すぎると後で困る」


 ダリオは少し考える。


「そうか」


「そうだ」


「面倒だな」


「俺もそう思う」


 ダリオはそれで黙った。


 相沢は、その短いやり取りで少しだけダリオのことが分かった気がした。


 この男は、言葉が嫌いなのではない。


 余計な言葉が、森では邪魔なのだ。


     ◇


【土曜日 15:12/南の空き小屋】


 南の空き小屋は、どうにか形になった。


 完璧ではない。


 床は硬い。


 隙間風もある。


 薪も半分残っている。


 だが、倉庫横よりはいい。


 入口は空いている。


 火は置かない。


 病人は入れない。


 子供が端に座り、避難民の女が布を広げている。


 村人の男が、薪を奥へ押し込む。


 互いにぎこちない。


 だが、同じ場所で作業している。


 相沢は入口の外に座っていた。


 立っていると怒られるからだ。


 ミナが横に来る。


「これでいい?」


「今日の仮なら」


「仮ばっかり」


「今は仮でいい。決めすぎると、変えられない」


「でも、仮だと不安」


「分かる」


 相沢は小屋の中を見る。


 避難民の子供が、入口の印を見ている。


 逃げ道。


 火なし。


 寝る場所。


 それだけは分かる。


「仮でも、場所があるだけで違う」


 相沢が言う。


 ミナは頷いた。


「さっきの子、少し落ち着いてた」


「それならいい」


「でも、片目がここ見てたんだよね」


「ああ」


「嫌だね」


「嫌だな」


 ミナは森の方を見ないようにしながら言った。


「倒したのに、まだ嫌だね」


「本体がいるからな」


「いつ倒す?」


 相沢は答えなかった。


 倒す。


 その言葉は簡単だ。


 だが、赤ゴブリン本体は片目ではない。


 村の食料。


 水。


 寝不足。


 避難民。


 持ち込み品。


 全部が絡んでいる。


 戦闘だけで終わる相手ではない。


「今は、倒されないようにする」


 相沢は言った。


 ミナは少し不満そうだった。


 だが、頷いた。


     ◇


【土曜日 15:36/広場中央】


 広場に戻ると、村の空気が少し変わっていた。


 片目を倒したことで、確かに士気は上がっている。


 声が少し大きい。


 動きが少し速い。


 だが、速すぎる者もいる。


 危ない。


 相沢はすぐに分かった。


「ミナ」


「何」


「今日は、勝った日じゃない」


「片目倒したのに?」


「倒した。でも、勝った日じゃない」


 ミナは板を見る。


 寝床。


 水。


 食料。


 仕事。


 声。


 どれも残っている。


「片目を倒した日」


「そう」


「勝った日ではない」


「そう」


 ミナは少し考えた。


 それから、広場に向かって言った。


「片目は倒した! でも、今日の仕事は残ってる!」


 言い方が直球だった。


 だが、効いた。


 マルタがすぐ続ける。


「飯は増えてないよ!」


 ハルトも。


「水も増えてない!」


 ガンツが少し遅れて言う。


「赤も死んでねぇ!」


 最後にダリオが、森を見たまま短く言った。


「見てる」


 広場が静かになる。


 その一言が一番効いた。


 見てる。


 まだ。


 だから、動ける。


 だから、浮かれない。


     ◇


【土曜日 16:04/広場中央】


 夕方までにやることが決まった。


 南の小屋の寝床を仕上げる。


 井戸の当番を組む。


 倉庫の湿った袋を広げる。


 病人用の食料を透明な袋で分ける。


 塩はまだ開けない。


 飴も見せない。


 ダリオは片目を倒した場所を、森の記録板に残す。


 ガンツは北柵の立ち位置を変える。


 相沢は座る。


 最後だけ、全員から言われた。


「俺だけ仕事がおかしくないか」


 相沢が言うと、リリアが即答した。


「正常です」


 マルタも言う。


「一番足りてない仕事だよ」


 ミナが頷く。


「座る役」


「そんな役はない」


「今できた」


 ハルトまで言った。


「回し屋が倒れたら、邪魔だ」


「それ流行らせるな」


 ガンツが笑った。


 ダリオは笑わなかった。


 森を見ている。


 だが、少しだけ口の端が動いた気がした。


 気のせいかもしれない。


     ◇


【土曜日 16:28/北柵】


 夕方の光が森に入り始めた。


 昼より見えにくい。


 影が伸びる。


 木の根元が黒くなる。


 片目の死体は、まだそのままだった。


 取りに行かない。


 ダリオはそう決めた。


 ガンツも同意した。


 相沢も、遠くから同意した。


 死体を取りに行けば、森に引き出される。


 片目の死体を得ても、食料にはならない。


 情報にはなるかもしれない。


 だが、今は危険が勝つ。


 ダリオは北柵で森を見ていた。


 ガンツが横に立つ。


「惜しいか」


「何が」


「死体だ。調べれば分かることもある」


「分かる」


「なら」


「今じゃない」


 ダリオは短く言った。


「赤が見てる」


 ガンツは森を見る。


「まだか」


「たぶん」


「見えないんだろ」


「見えない」


「じゃあなぜ」


「森が戻らない」


 また、それだった。


 森が戻らない。


 鳥が戻らない。


 虫が鳴らない。


 風があるのに、枝が自然に揺れていない。


 ダリオだけが、それを読んでいる。


「お前が黙ると怖いな」


 ガンツが言った。


 ダリオは少しだけ目を動かす。


「喋ってる」


「短すぎるんだよ」


「長いと見落とす」


「そうかよ」


 ガンツは槍を持ち直した。


「なら、短く言え。来るか」


 ダリオは森を見た。


 長い沈黙。


 それから、短く答えた。


「まだ」


     ◇


【土曜日 17:02/広場中央】


 夕方の広場に、薄い匂いが流れ始めた。


 粥を温め直す匂い。


 まだ、だしは使っていない。


 わかめも使っていない。


 塩も開けていない。


 匂いは弱い。


 だが、腹は反応する。


 相沢は椀を見て、昼から何も食べていないことを思い出した。


 リリアに見つかった。


「アイザワ殿」


「はい」


「食べてください」


「まだ配膳が」


「食べてください」


「はい」


 反論の余地はなかった。


 椀を受け取る。


 薄い粥。


 朝と同じ。


 いや、少し薄いかもしれない。


 だが、温かい。


 相沢は食べる。


 米粒のようなものが舌に残る。


 噛むほどではない。


 飲むに近い。


 それでも食べる。


 残さない。


 マルタが横目で見ていた。


「全部食いな」


「食べてます」


「あんた、食う時も考えてる顔をするね」


「考えてます」


「やめな」


「難しい」


「飯は仕事じゃないよ」


 相沢は少し止まった。


 七瀬と似たことを言われた。


 食べることまで仕事にしないでください。


 異世界でも、同じところを刺される。


「……はい」


 相沢は短く答えた。


 マルタはふんと鼻を鳴らした。


「今の返事は、少しだけましだ」


     ◇


【土曜日 17:36/広場中央】


 夕方の板は、少し減らした。


 寝床。


 水。


 食料。


 北。


 声。


 仕事は、各場所に移した。


 広場で全部を見ない。


 昼に決めたことを、夕方用に落とす。


 ミナが板を見ながら言う。


「減らしたのに、まだ多い」


「夕方は仕方ない」


「夜は?」


「火、水、呼ぶ」


「戻す」


「戻す」


 ミナは頷いた。


 その顔は疲れている。


 だが、少しだけ自信もあった。


 相沢は言う。


「ミナも休め」


「少し後で」


「それ、俺の悪い癖だ」


「知ってる」


「真似するな」


「してない」


「してる」


 ミナは不満そうに口を曲げた。


 その時、ダリオが北から戻ってきた。


 弓を持っている。


 顔は変わらない。


 だが、空気が少し重い。


 ガンツも一緒だ。


「どうした」


 相沢が聞く。


 ダリオは短く答えた。


「赤が動いた」


 広場の空気が止まる。


 ガンツが補う。


「近づいてはいねぇ」


「なら」


「片目の死体を持っていった」


 相沢は黙った。


 森の奥を見る。


 見えない。


 だが、見えないからこそ嫌だった。


 赤ゴブリンが、片目の死体を回収した。


 それは感情か。


 情報隠しなのか。


 次の仕掛けなのか。


 分からない。


 ダリオはさらに言った。


「足跡を消してる」


「赤が?」


「たぶん」


 相沢の背中が冷える。


 敵は、見ているだけではない。


 学んでいる。


 こちらが記録する前に、痕跡を消す。


 片目を倒して終わりではない。


 相手も、次に進んでいる。


     ◇


【土曜日 17:49/広場中央】


 表示が浮かんだ。



【敵斥候:

 片目個体、消失】


【敵行動:

 痕跡処理の可能性】


【敵学習段階:

 上昇】


【集落士気:

 上昇後、不安定】


【本日夜間重点:

 警戒】

【本日夜間重点:

 休息交代】

【本日夜間重点:

 情報混在防止】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 夜間板の簡略化】



「簡略化」


 相沢は呟いた。


 ミナが聞く。


「オカン?」


「ああ」


「何て?」


「夜の板を減らせ」


「合ってる」


「合ってるな」


 相沢は板を見た。


 寝床。


 水。


 食料。


 北。


 声。


 そこから、夜に必要なものだけを残す。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 そして、北。


 いや。


 北を入れると増える。


 だが、今夜は必要か。


 相沢が迷った時、ダリオが言った。


「北は板にいらない」


 相沢が顔を上げる。


「なぜ」


「北は見てる」


 ガンツも頷いた。


「俺とこいつが見る。板に入れると、みんな北を見る」


 相沢は息を吐いた。


 正しい。


 夜の板に北を入れれば、広場の人間が北を気にしすぎる。


 北は北の役が見る。


 広場は、火、水、呼ぶ。


「火、水、呼ぶ」


 相沢が言う。


 ミナが頷く。


「夜は、それだけ」


 マルタが言う。


「倉庫も板に入れないよ。私が見る」


 ハルトが続ける。


「井戸も、水に入ってる。俺が見る」


 リリアが言う。


「治療所は、私が見ます」


 役がある。


 だから、板から減らせる。


 相沢はそのことに気づいた。


 板がすべてを背負う必要はない。


 役が背負えばいい。


     ◇


【土曜日 18:12/広場中央】


 夜の板が作られた。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 三つだけ。


 昨日と同じ。


 だが、昨日とは違う。


 南の小屋がある。


 井戸役がある。


 倉庫の管理がある。


 治療所の判断がある。


 ダリオの森の記録がある。


 ハルトの声がある。


 見えないものが増えた。


 だから、見える板は減らせた。


 相沢はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。


 改善は、増やすことだけではない。


 減らすことでもある。


 七瀬なら、売場に置きすぎです、と言うかもしれない。


 マルタなら、混ぜるな、と言う。


 オカンなら、推奨、分類、と出す。


 全部同じところへ向かっている。


「回し屋」


 ミナが言った。


「何」


「今日は、少し回ったね」


「少しな」


「片目も倒した」


「それも少しじゃない」


「でも、赤いのがいる」


「ああ」


 森を見る。


 夕方の森は暗い。


 片目の死体はもうない。


 赤ゴブリンが持っていった。


 何のために。


 分からない。


 だが、向こうもこちらを村として見始めている。


 ただの餌場ではない。


 ただの逃げる人間ではない。


 崩れない場所。


 目を潰す場所。


 そう認識された。


 それは、勝利でもあり、危険でもあった。


     ◇


【土曜日 18:37/広場中央】


 夜番の交代が組まれた。


 ガンツは北。


 ダリオも北。


 ただし、二人とも立ち続けない。


 交互に座る。


 これをリリアが譲らなかった。


 ガンツは不満そうだったが、マルタに睨まれて黙った。


 ハルトは井戸。


 ただし、重い桶は持たない。


 ミナは広場。


 ただし、途中で交代。


 相沢は治療所前。


 ただし、寝る。


「寝る」


 リリアが言った。


「はい」


「目を閉じるだけではなく、寝る」


「努力します」


「信用しません」


「ですよね」


 ミナが横で言う。


「寝なかったら、明日板に書く?」


「何を」


「回し屋、寝ない。触るな」


「触るなはおかしい」


 マルタが笑った。


 ハルトも少し笑った。


 ダリオだけは笑わない。


 森を見ている。


 だが、ガンツがその肩を軽く叩いた。


「お前も交代で座れ」


「見える」


「座っても見ろ」


「少し見にくい」


「座って見ろ」


 ダリオは不満そうにした。


 だが、低い柵の内側に腰を下ろした。


 弓は膝の上。


 目は森。


 座っても、見ている。


 相沢はそれを見て、少し安心した。


     ◇


【土曜日 19:06/治療所前】


 夜が落ちた。


 相沢は治療所前に座っていた。


 薄い布をかけられている。


 横には水。


 少し離れたところに、リリア。


 中には病人。


 広場には火。


 板には三つの印。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 南の小屋には避難民が入っている。


 完全には静かではない。


 子供の声。


 布を敷く音。


 小さな咳。


 薪がずれる音。


 井戸の桶の音。


 北からは、時々ガンツの低い声。


 それに、ダリオの短い声。


「まだ」


 その一言だけが、夜の中に落ちる。


 まだ来ない。


 まだ撃たない。


 まだ終わらない。


 相沢は目を閉じた。


 眠れるかは分からない。


 だが、今日は少しだけ違う。


 片目は倒した。


 寝床は置いた。


 水は分けた。


 食料は守る方向に動き始めた。


 声の道も作った。


 全部、途中。


 全部、仮。


 だが、全部、ないよりはましだった。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【夜間運用:

 簡略化済】


【敵主力:

 未確認】


【斥候個体:

 排除済】


【集落依存率:

 低下傾向】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 睡眠】



 相沢は声に出さずに思った。


 分かってる。


 今度は、本当に従う。


 遠くで、ダリオの声がした。


「まだ」


 その一言を最後に、相沢の意識はゆっくり沈んだ。


 夜は来た。


 片目はいない。


 だが、森の奥には、まだ赤いものがいる。

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