第八十九話 まだ撃たない
【土曜日 13:02/広場中央】
広場は止まらなかった。
止まりかけた。
だが、止まらなかった。
ミナが板の前に立ち、声を張る。
「南の小屋、そのまま! 薪を動かす人は二人ずつ!」
ハルトが井戸側へ戻る。
「井戸、順番変えるな! 水は予定通りだ!」
マルタが倉庫の戸を閉める。
「倉庫は開けないよ! 見るだけで飯は増えない!」
リリアが治療所の入口に立つ。
「治療所は変化ありません。熱の方は中にいます」
声が返る。
場所が返る。
役が返る。
片目が森から見ていても、村は一斉には崩れなかった。
相沢は座ったまま、それを見ていた。
立ちたい。
北へ行きたい。
ダリオの横で森を見たい。
だが、相沢が動くと、広場が動く。
回し屋が走れば、村人も走る。
それはもう、分かっていた。
だから座る。
リリアの視線もある。
オカンの表示が出るまでもない。
今の相沢の役は、走ることではない。
「ミナ」
「何」
「広場の板を変えない」
「分かってる」
「南の小屋に人を増やしすぎない」
「二人ずつにしてる」
「井戸」
「ハルトが見てる」
「倉庫」
「マルタさんが閉めた」
「治療所」
「リリアさん」
ミナは早かった。
相沢が言う前に、ほとんど動いている。
相沢は頷く。
「それでいい」
「回し屋」
「何だ」
「顔、今ちょっと嬉しそう」
「そんな場合か」
「そんな場合じゃないけど、嬉しそう」
相沢は返せなかった。
嬉しい。
たぶん、そうだった。
敵に見られている。
片目がいる。
森の奥に本体もいる。
危険は増している。
それでも、村が崩れていない。
それが、嬉しかった。
◇
【土曜日 13:07/北柵】
ガンツは北柵の内側に立っていた。
槍は低い。
構えすぎていない。
すぐ動ける位置。
ダリオはその少し横。
弓は持っている。
だが、まだ引いていない。
森を見る。
ただ、それだけをしている。
「見えるか」
ガンツが聞いた。
「見える」
「片目か」
「片目」
「本体は」
「奥」
「赤か」
「たぶん」
ダリオは短く答えた。
視線は動かない。
枝の隙間。
低い草。
倒木の陰。
風の揺れ。
その全部を、目で分けている。
「撃てるんだな」
「撃てる」
「なぜ撃たん」
「まだ近い場所を見てない」
「何をだ」
「逃げ道」
ガンツは眉を寄せる。
「逃げる道を見るのか」
「獲物は、撃たれる前から逃げる」
「片目もか」
「片目は逃げるために出てきてる」
ガンツは森を見る。
見えない。
ガンツの目では、そこまで拾えない。
だが、ダリオが言うなら、いる。
それはもう、村の中で少しずつ共有され始めていた。
「ダリオ」
ガンツが低く言う。
「何」
「撃つ時は言え」
「言う」
「俺は前を止める」
「分かってる」
「分かってる顔じゃねぇ」
「森を見てる」
「俺を見ろ」
ダリオは、一瞬だけガンツを見た。
それから森へ戻す。
「前は、あんたが止める」
ガンツは少しだけ口の端を動かした。
「それでいい」
◇
【土曜日 13:12/南の空き小屋】
南の空き小屋では、薪の移動が始まっていた。
避難民の若い男が、不満そうに薪を持ち上げる。
村の男が横で見ている。
「それは奥へ」
「分かってる」
「重いのは持つなって言われただろ」
「これくらい持てる」
「持てるかどうかじゃない。今倒れられると邪魔なんだよ」
言い方が悪い。
だが、マルタやハルトの言葉が移っている。
相沢は遠くからそれを見ていた。
言い方まで移るのは、少し問題かもしれない。
だが、今は効いている。
若い男は舌打ちしながら、軽い薪だけを選ぶ。
村の男は奥の重い束を持つ。
役割が少し見えた。
同じ作業をするのではない。
できる量を合わせる。
南の小屋の入口には、ミナが描いた印が掛けられている。
寝床。
火なし。
薪半分。
入口開ける。
文字ではない。
絵のような印。
避難民の子供が、それをじっと見ていた。
「これ、何」
子供が聞く。
ミナが答える。
「ここで寝る。火は入れない。薪は奥。入口はふさがない」
「どうして入口ふさがないの」
「逃げるため」
子供は少し黙った。
ミナも一瞬、言いすぎた顔をした。
だが、すぐに言い直さなかった。
逃げるため。
それは本当だ。
子供は小さく頷いた。
「分かった」
それだけだった。
相沢は遠くで見て、息を吐いた。
安全教育。
小さい。
だが、入っている。
◇
【土曜日 13:18/広場中央】
相沢の視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【外敵観察:
継続】
【集落運用:
維持】
【南小屋:
仮寝床化進行中】
【北柵:
警戒上昇】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
着座継続】
⸻
「分かってる」
相沢は呟いた。
ミナがこちらを見る。
「また座れ?」
「ああ」
「座ってるね」
「座ってる」
「偉い」
「褒め方が雑だ」
「座ってるだけで偉いくらい、普段が悪い」
「返す言葉がない」
ミナは板へ向き直る。
その時、北から二度目の笛が鳴った。
短く一つ。
続けて、もう一つ。
相沢の背中に力が入る。
ミナがすぐ叫ぶ。
「北、何!」
伝令が走りかける。
途中で速度を落とした。
早歩き。
息を残す。
板の前まで来て、短く言う。
「片目、南側へ動いた!」
「南の小屋?」
「見る位置を変えてる!」
ミナが相沢を見る。
相沢は北ではなく、南の小屋を見る。
片目は、こちらの反応を見ている。
北で音を鳴らす。
村が北へ寄るかを見る。
その間に、南を見る。
嫌な動きだ。
「南の作業を止めない」
相沢は言った。
「北へ人を増やさない」
ミナが板に手を置く。
「広場、そのまま! 南もそのまま! 北に行くのは決まってる人だけ!」
声が飛ぶ。
村人が踏みとどまる。
避難民も、顔を上げるだけで止まる。
完全ではない。
何人かは動きかけた。
だが、戻った。
戻れた。
◇
【土曜日 13:24/北柵】
ダリオの目が細くなった。
「来た」
ガンツが槍を握る。
「片目か」
「片目」
「距離は」
「まだ遠い」
「撃てるか」
「撃てる」
「まだか」
「まだ」
ガンツは舌打ちしかけて、やめた。
ダリオの呼吸は変わっていない。
焦っていない。
狙っているのではない。
待っている。
「何を待ってる」
「枝が止まる」
「風か」
「違う。片目が止める」
「枝を?」
「自分で触ってる」
ガンツは森を見る。
やはり見えない。
ダリオだけが、森の中の小さな変化を拾っている。
「片目は、枝の揺れを使ってる」
「隠れてるってことか」
「違う。見せてる」
「見せてる?」
「こっちの目を、そこに置かせる」
ガンツは低く唸った。
「囮か」
「囮の目」
「本体は奥」
「奥」
ダリオは矢を番えた。
まだ引かない。
指だけが弦に触れる。
「今撃つと、片目は逃げる」
「逃げさせるな」
「だから撃たない」
短い。
だが、理由は十分だった。
◇
【土曜日 13:31/広場中央】
南の小屋から、小さな騒ぎが起きた。
薪の束が崩れた。
大きな音ではない。
だが、今の村には十分大きい。
子供が泣きかける。
避難民の女が抱き寄せる。
村人の男が反射的に北を見る。
ミナが声を飛ばした。
「薪だけ! 怪我は!」
「なし!」
南から返る。
「火は!」
「なし!」
「入口は!」
「空いてる!」
ミナが頷く。
「続けて!」
相沢は、そのやり取りを聞いていた。
良い。
報告が短い。
怪我。
火。
入口。
今見るべきものだけ。
薪が崩れた理由は、後でいい。
責めるのも後でいい。
今は止めない。
その時、ハルトが井戸側から広場へ声を投げた。
「水、予定通り!」
マルタも続ける。
「倉庫、閉じたまま!」
リリアも。
「治療所、変化なし!」
役が返る。
相沢を通らない。
村の中で声が回る。
それを森の片目も見ている。
相沢は、ようやく理解した。
片目は、村の弱い場所を探している。
音を出す。
影を見せる。
枝を揺らす。
薪を崩すのは偶然かもしれない。
だが、それへの反応は見られている。
誰が走るか。
誰が止まるか。
誰が叫ぶか。
誰が黙るか。
それを見ている。
「嫌な営業先だな」
相沢は小さく呟いた。
ミナが聞き取れなかった顔をする。
「何?」
「いや。見てるやつは、面倒だと思って」
相沢は森を見る。
見ている相手には、誤魔化せない。
展示会で七瀬に売場を見られた時とは違う。
あれは、良くするための目だった。
通路が詰まらないか。
店の人が困らないか。
食べ物が無駄にならないか。
その先を見ている目だった。
だが、森の奥の目は違う。
崩すために見ている。
誰が走るか。
誰が止まるか。
どこに水があるか。
どこに食料があるか。
誰が疲れているか。
見て、崩すための目だ。
「……質が違うな」
相沢は呟いた。
ミナが眉を寄せる。
「何の話?」
「見る目にも、種類があるって話」
「よく分からない」
「俺も、今分けた」
ミナは森を見そうになって、途中でやめた。
板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
「じゃあ、こっちはこっちで見る」
「ああ」
「崩されないように」
「そうだ」
相沢は頷いた。
見られるということは、誤魔化せないということだ。
敵にも。
味方にも。
だからこそ、見せるものを間違えてはいけない。
◇
【土曜日 13:39/北柵】
ダリオが、初めて弓を引いた。
ぎり、と小さな音がした。
ガンツが動きを止める。
「今か」
「まだ」
「引いたぞ」
「見せる」
「誰に」
「片目に」
ガンツは横目でダリオを見る。
ダリオは森だけを見ている。
弓を引いたまま、撃たない。
矢先は少し下。
本命の位置ではない。
「誘ってるのか」
「少し」
「お前、そんなことできるのか」
「森ではやる」
「人相手じゃねぇぞ」
「獣も見る」
「ゴブリンだ」
「見てるなら同じ」
ダリオの声は平坦だった。
だが、冷えている。
森の向こうで、枝が揺れた。
小さく。
本当に小さく。
ダリオの目が動いた。
「そこじゃない」
矢先が少し上がる。
まだ撃たない。
「見せてる枝の奥。低い根の横」
ガンツは槍を構え直す。
「来るか」
「来ない。逃げる道を見てる」
「逃げる前に撃て」
「逃げる道が決まってから撃つ」
ガンツは黙った。
理屈は分からない。
だが、ダリオの声には迷いがない。
◇
【土曜日 13:44/南の空き小屋】
南の小屋の作業は続いていた。
薪は奥へ。
床に敷ける藁を手前へ。
入口は空ける。
火は入れない。
水桶は置かない。
子供が入口近くで座り込もうとすると、ミナが止めた。
「そこはふさがない」
「なんで」
「逃げる道」
「また?」
「何回でも」
子供はむくれた。
だが、少しずれて座った。
その横で、避難民の女が小さく頭を下げる。
ミナは困ったように手を振った。
「私じゃなくて、板見て」
「板?」
「ここ。入口は空ける」
女は板を見る。
寝床の印。
火なし。
入口。
薪。
言葉がなくても、少し分かる。
「これなら、うちの子にも分かるかもしれない」
女が言った。
ミナは少し考えた。
「子供用に、もっと簡単なの作る?」
相沢は遠くから、その会話を聞いた。
子供用の板。
安全教育。
避難民も含めて。
良い。
かなり良い。
だが、今は増やしすぎるな。
そう言いたい。
相沢が口を開きかけた時、ミナが自分で言った。
「今は増やさない。後で」
相沢は口を閉じた。
ミナが自分で止めた。
それでいい。
◇
【土曜日 13:51/北柵】
ダリオの弓が、少しだけ上がった。
ガンツはそれを見た。
「今か」
「まだ」
「いつだ」
「片目が、自分で安全だと思った時」
ガンツは息を吐いた。
「分からん」
「逃げる方向を決めた時、体が止まる」
「一瞬か」
「一瞬」
「外すなよ」
「外したら、次は近づかない」
「分かってるならいい」
ダリオは矢を引ききった。
今度は、本当に構えた。
森の奥で、鳥が一羽飛んだ。
枝が揺れる。
風ではない。
小さな影が、低い根の横で止まった。
片目。
右目だけが、こちらを見ていた。
遠い。
だが、ダリオには見えている。
片目は、南の小屋を見ていた。
広場を見ていた。
井戸を見ていた。
そして、弓を引くダリオを見た。
逃げる。
そう決めた瞬間。
ダリオが言った。
「今」
弦が鳴った。
◇
【土曜日 13:52/広場中央】
音は、広場まで届いた。
矢の音。
相沢にはそう分かった。
理由はない。
ただ、分かった。
広場の人間が、今度こそ止まりかける。
だが、ミナが叫んだ。
「広場、そのまま!」
声が少し裏返った。
それでも出た。
南の小屋では、薪を持った男が動きを止めかけ、また動かした。
ハルトが井戸で叫ぶ。
「水、止めるな!」
マルタが倉庫の戸に手を当てる。
「開けないよ!」
リリアが治療所の中を見る。
「中はそのまま!」
相沢は立ち上がらなかった。
拳だけを握った。
北を見る。
森は、昼の光の中でも暗い。
数拍。
何も起きない。
長い。
長すぎる。
そして、北からガンツの声が響いた。
「当たった!」
広場が揺れた。
歓声になりかけた。
だが、ダリオの声が続いた。
「まだ見るな!」
歓声が止まった。
相沢は息を止める。
まだ見るな。
それは、倒した敵を見るなという意味ではない。
森を見るなという意味でもない。
今、勝った顔をするな。
そういう声だった。
◇
【土曜日 13:55/北柵】
片目は、低い根の横に倒れていた。
矢は首のあたりに刺さっている。
声はない。
手足が一度だけ動き、それから止まった。
ガンツは柵の内側から見ていた。
「落としたな」
「落とした」
ダリオは弓を下ろさない。
矢をもう一本、指に挟んでいる。
「見に行くか」
ガンツが聞く。
「行かない」
「死んだぞ」
「死んだ」
「なら」
「本体が見てる」
ガンツの顔が変わる。
ダリオは森のさらに奥を見る。
片目の倒れた場所ではない。
その後ろ。
木々の重なり。
影の濃いところ。
「赤か」
ガンツが低く言う。
「赤」
ダリオが答えた。
「見えるのか」
「見えない」
「ならなぜ分かる」
「森が止まった」
ガンツは黙った。
ダリオは続ける。
「鳥が戻らない。虫も鳴らない。片目が倒れた後に、逃げる音がない」
「向こうも止まってる」
「こっちを見てる」
ダリオの声は、低かった。
片目を倒した男の声ではない。
次を見ている男の声だった。
◇
【土曜日 14:03/広場中央】
北から伝令が戻った。
息は荒い。
だが、言葉は短い。
「片目、倒した!」
広場がざわつく。
今度は抑えきれない。
小さな歓声。
息を吐く声。
誰かが膝をつく音。
避難民の子供が、何が起きたのか分からず大人を見る。
マルタがすぐに言う。
「騒ぎすぎるんじゃないよ!」
ハルトも言う。
「水場に寄るな!」
ミナが板に手を置く。
「広場、戻して! 南の小屋、続けて! 井戸、予定通り!」
相沢は伝令を見る。
「ダリオは」
「北。まだ弓構えてる」
「ガンツは」
「北」
「赤は」
「分からない」
分からない。
それが正しい。
見えないものを見えたと言わない。
それだけで、報告は信用できる。
相沢は頷いた。
「片目を見に行くな」
村長がすぐ続ける。
「誰も森へ出ない。北へ集まらない」
ミナが北の印に大きく斜線を入れる。
見に行かない。
分かりやすい。
村人の何人かが不満そうにする。
倒した敵を見たい。
安心したい。
確認したい。
だが、それで人が動けば、片目の役目は最後に果たされる。
死んだ後に、人を集める。
それは嫌だった。
「倒したからこそ、動かない」
相沢が言った。
自分にも言い聞かせていた。
◇
【土曜日 14:18/広場中央】
少しずつ、村は作業に戻った。
完全には戻らない。
空気は高ぶっている。
当然だ。
片目を倒した。
ずっと見られていた目を、一つ潰した。
その意味は大きい。
だが、相沢はまだ喜びきれなかった。
表示が出る。
⸻
【敵斥候:
片目個体、行動停止】
【外敵観察能力:
一部低下】
【集落士気:
上昇】
【警戒:
継続】
【推奨:
森への接近禁止】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
着座継続】
⸻
「分かってる」
相沢は呟いた。
ミナが横に来る。
「倒したんだよね」
「ああ」
「喜んでいい?」
「少しは」
「少し?」
「全部喜ぶと、たぶん危ない」
ミナは森を見る。
見えない。
だが、暗い。
「赤いのがいる?」
「たぶん」
「片目が死んだの、見たかな」
「見たと思う」
「怒る?」
「分からない」
「怖がる?」
「それも分からない」
相沢は朝の板を見る。
寝床。
水。
食料。
仕事。
声。
どれも、まだ途中だ。
片目を倒しても、食料は増えない。
水も増えない。
寝床も完成しない。
不満も消えない。
ただ、敵の目を一つ潰した。
それだけだ。
だが、それだけでも大きい。
◇
【土曜日 14:32/北柵】
ダリオが広場へ戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
弓は下ろしている。
だが、矢は一本、すぐ取れる位置にある。
ガンツも一緒だった。
片目の死体は、まだ森の根元に置いたままだ。
取りには行かない。
ダリオがそう言った。
ガンツも、今回は従った。
広場の視線がダリオに集まる。
ダリオは居心地悪そうに眉を寄せた。
歓声が起きかける。
その前に、ダリオが言った。
「見るな」
全員が黙る。
短すぎる。
だが、効いた。
ガンツが補う。
「森を見るなって意味じゃねぇ。浮かれるなって意味だ」
ダリオは少しだけ頷いた。
「片目は倒した」
村人が息を飲む。
「でも、赤が見た」
広場の空気が沈む。
ダリオは続ける。
「向こうは、こっちが片目を倒せると知った」
それは勝利ではある。
同時に、情報を渡したことでもある。
相沢は頷いた。
「次は、片目と同じ見方をしない」
ダリオがこちらを見る。
「たぶん」
「次は、もっと隠す?」
「もっと隠すか、もっと近づく」
ガンツが槍を握り直す。
「来るなら止める」
ダリオが短く言う。
「来る前に見る」
相沢は二人を見た。
前を止める男。
先に気づく男。
後ろを回す自分。
やっと、形になってきた気がした。
◇
【土曜日 14:49/広場中央】
村長が、片目撃破を広場の板に残そうとした。
マルタがすぐ止めた。
「それは今の板じゃないよ」
「記録は必要です」
「残す板に書きな。見る板にはいらない」
相沢は思わず笑いそうになった。
マルタは徹底している。
今見るものと、後で残すもの。
片目撃破は重要だ。
だが、今の運用板に入れると、全員がそこを見る。
見るべきものが増えすぎる。
「残す板に書きましょう」
相沢が言った。
「内容は短く」
記録係が木炭を持つ。
ダリオが言う。
「片目。南を見る位置。低い根。矢。赤が奥」
記録係が困った顔をする。
「もう少し、言葉を」
ダリオは黙った。
相沢が補う。
「片目の斥候を、南小屋確認中に発見。ダリオが射る。森の奥に赤の反応あり。死体は取りに行かない」
記録係が板に書く。
ダリオは少し不満そうだった。
「長い」
「記録だからな」
「森では長いと死ぬ」
「記録では短すぎると後で困る」
ダリオは少し考える。
「そうか」
「そうだ」
「面倒だな」
「俺もそう思う」
ダリオはそれで黙った。
相沢は、その短いやり取りで少しだけダリオのことが分かった気がした。
この男は、言葉が嫌いなのではない。
余計な言葉が、森では邪魔なのだ。
◇
【土曜日 15:12/南の空き小屋】
南の空き小屋は、どうにか形になった。
完璧ではない。
床は硬い。
隙間風もある。
薪も半分残っている。
だが、倉庫横よりはいい。
入口は空いている。
火は置かない。
病人は入れない。
子供が端に座り、避難民の女が布を広げている。
村人の男が、薪を奥へ押し込む。
互いにぎこちない。
だが、同じ場所で作業している。
相沢は入口の外に座っていた。
立っていると怒られるからだ。
ミナが横に来る。
「これでいい?」
「今日の仮なら」
「仮ばっかり」
「今は仮でいい。決めすぎると、変えられない」
「でも、仮だと不安」
「分かる」
相沢は小屋の中を見る。
避難民の子供が、入口の印を見ている。
逃げ道。
火なし。
寝る場所。
それだけは分かる。
「仮でも、場所があるだけで違う」
相沢が言う。
ミナは頷いた。
「さっきの子、少し落ち着いてた」
「それならいい」
「でも、片目がここ見てたんだよね」
「ああ」
「嫌だね」
「嫌だな」
ミナは森の方を見ないようにしながら言った。
「倒したのに、まだ嫌だね」
「本体がいるからな」
「いつ倒す?」
相沢は答えなかった。
倒す。
その言葉は簡単だ。
だが、赤ゴブリン本体は片目ではない。
村の食料。
水。
寝不足。
避難民。
持ち込み品。
全部が絡んでいる。
戦闘だけで終わる相手ではない。
「今は、倒されないようにする」
相沢は言った。
ミナは少し不満そうだった。
だが、頷いた。
◇
【土曜日 15:36/広場中央】
広場に戻ると、村の空気が少し変わっていた。
片目を倒したことで、確かに士気は上がっている。
声が少し大きい。
動きが少し速い。
だが、速すぎる者もいる。
危ない。
相沢はすぐに分かった。
「ミナ」
「何」
「今日は、勝った日じゃない」
「片目倒したのに?」
「倒した。でも、勝った日じゃない」
ミナは板を見る。
寝床。
水。
食料。
仕事。
声。
どれも残っている。
「片目を倒した日」
「そう」
「勝った日ではない」
「そう」
ミナは少し考えた。
それから、広場に向かって言った。
「片目は倒した! でも、今日の仕事は残ってる!」
言い方が直球だった。
だが、効いた。
マルタがすぐ続ける。
「飯は増えてないよ!」
ハルトも。
「水も増えてない!」
ガンツが少し遅れて言う。
「赤も死んでねぇ!」
最後にダリオが、森を見たまま短く言った。
「見てる」
広場が静かになる。
その一言が一番効いた。
見てる。
まだ。
だから、動ける。
だから、浮かれない。
◇
【土曜日 16:04/広場中央】
夕方までにやることが決まった。
南の小屋の寝床を仕上げる。
井戸の当番を組む。
倉庫の湿った袋を広げる。
病人用の食料を透明な袋で分ける。
塩はまだ開けない。
飴も見せない。
ダリオは片目を倒した場所を、森の記録板に残す。
ガンツは北柵の立ち位置を変える。
相沢は座る。
最後だけ、全員から言われた。
「俺だけ仕事がおかしくないか」
相沢が言うと、リリアが即答した。
「正常です」
マルタも言う。
「一番足りてない仕事だよ」
ミナが頷く。
「座る役」
「そんな役はない」
「今できた」
ハルトまで言った。
「回し屋が倒れたら、邪魔だ」
「それ流行らせるな」
ガンツが笑った。
ダリオは笑わなかった。
森を見ている。
だが、少しだけ口の端が動いた気がした。
気のせいかもしれない。
◇
【土曜日 16:28/北柵】
夕方の光が森に入り始めた。
昼より見えにくい。
影が伸びる。
木の根元が黒くなる。
片目の死体は、まだそのままだった。
取りに行かない。
ダリオはそう決めた。
ガンツも同意した。
相沢も、遠くから同意した。
死体を取りに行けば、森に引き出される。
片目の死体を得ても、食料にはならない。
情報にはなるかもしれない。
だが、今は危険が勝つ。
ダリオは北柵で森を見ていた。
ガンツが横に立つ。
「惜しいか」
「何が」
「死体だ。調べれば分かることもある」
「分かる」
「なら」
「今じゃない」
ダリオは短く言った。
「赤が見てる」
ガンツは森を見る。
「まだか」
「たぶん」
「見えないんだろ」
「見えない」
「じゃあなぜ」
「森が戻らない」
また、それだった。
森が戻らない。
鳥が戻らない。
虫が鳴らない。
風があるのに、枝が自然に揺れていない。
ダリオだけが、それを読んでいる。
「お前が黙ると怖いな」
ガンツが言った。
ダリオは少しだけ目を動かす。
「喋ってる」
「短すぎるんだよ」
「長いと見落とす」
「そうかよ」
ガンツは槍を持ち直した。
「なら、短く言え。来るか」
ダリオは森を見た。
長い沈黙。
それから、短く答えた。
「まだ」
◇
【土曜日 17:02/広場中央】
夕方の広場に、薄い匂いが流れ始めた。
粥を温め直す匂い。
まだ、だしは使っていない。
わかめも使っていない。
塩も開けていない。
匂いは弱い。
だが、腹は反応する。
相沢は椀を見て、昼から何も食べていないことを思い出した。
リリアに見つかった。
「アイザワ殿」
「はい」
「食べてください」
「まだ配膳が」
「食べてください」
「はい」
反論の余地はなかった。
椀を受け取る。
薄い粥。
朝と同じ。
いや、少し薄いかもしれない。
だが、温かい。
相沢は食べる。
米粒のようなものが舌に残る。
噛むほどではない。
飲むに近い。
それでも食べる。
残さない。
マルタが横目で見ていた。
「全部食いな」
「食べてます」
「あんた、食う時も考えてる顔をするね」
「考えてます」
「やめな」
「難しい」
「飯は仕事じゃないよ」
相沢は少し止まった。
七瀬と似たことを言われた。
食べることまで仕事にしないでください。
異世界でも、同じところを刺される。
「……はい」
相沢は短く答えた。
マルタはふんと鼻を鳴らした。
「今の返事は、少しだけましだ」
◇
【土曜日 17:36/広場中央】
夕方の板は、少し減らした。
寝床。
水。
食料。
北。
声。
仕事は、各場所に移した。
広場で全部を見ない。
昼に決めたことを、夕方用に落とす。
ミナが板を見ながら言う。
「減らしたのに、まだ多い」
「夕方は仕方ない」
「夜は?」
「火、水、呼ぶ」
「戻す」
「戻す」
ミナは頷いた。
その顔は疲れている。
だが、少しだけ自信もあった。
相沢は言う。
「ミナも休め」
「少し後で」
「それ、俺の悪い癖だ」
「知ってる」
「真似するな」
「してない」
「してる」
ミナは不満そうに口を曲げた。
その時、ダリオが北から戻ってきた。
弓を持っている。
顔は変わらない。
だが、空気が少し重い。
ガンツも一緒だ。
「どうした」
相沢が聞く。
ダリオは短く答えた。
「赤が動いた」
広場の空気が止まる。
ガンツが補う。
「近づいてはいねぇ」
「なら」
「片目の死体を持っていった」
相沢は黙った。
森の奥を見る。
見えない。
だが、見えないからこそ嫌だった。
赤ゴブリンが、片目の死体を回収した。
それは感情か。
情報隠しなのか。
次の仕掛けなのか。
分からない。
ダリオはさらに言った。
「足跡を消してる」
「赤が?」
「たぶん」
相沢の背中が冷える。
敵は、見ているだけではない。
学んでいる。
こちらが記録する前に、痕跡を消す。
片目を倒して終わりではない。
相手も、次に進んでいる。
◇
【土曜日 17:49/広場中央】
表示が浮かんだ。
⸻
【敵斥候:
片目個体、消失】
【敵行動:
痕跡処理の可能性】
【敵学習段階:
上昇】
【集落士気:
上昇後、不安定】
【本日夜間重点:
警戒】
【本日夜間重点:
休息交代】
【本日夜間重点:
情報混在防止】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
夜間板の簡略化】
⸻
「簡略化」
相沢は呟いた。
ミナが聞く。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「夜の板を減らせ」
「合ってる」
「合ってるな」
相沢は板を見た。
寝床。
水。
食料。
北。
声。
そこから、夜に必要なものだけを残す。
火。
水。
呼ぶ。
そして、北。
いや。
北を入れると増える。
だが、今夜は必要か。
相沢が迷った時、ダリオが言った。
「北は板にいらない」
相沢が顔を上げる。
「なぜ」
「北は見てる」
ガンツも頷いた。
「俺とこいつが見る。板に入れると、みんな北を見る」
相沢は息を吐いた。
正しい。
夜の板に北を入れれば、広場の人間が北を気にしすぎる。
北は北の役が見る。
広場は、火、水、呼ぶ。
「火、水、呼ぶ」
相沢が言う。
ミナが頷く。
「夜は、それだけ」
マルタが言う。
「倉庫も板に入れないよ。私が見る」
ハルトが続ける。
「井戸も、水に入ってる。俺が見る」
リリアが言う。
「治療所は、私が見ます」
役がある。
だから、板から減らせる。
相沢はそのことに気づいた。
板がすべてを背負う必要はない。
役が背負えばいい。
◇
【土曜日 18:12/広場中央】
夜の板が作られた。
火。
水。
呼ぶ。
三つだけ。
昨日と同じ。
だが、昨日とは違う。
南の小屋がある。
井戸役がある。
倉庫の管理がある。
治療所の判断がある。
ダリオの森の記録がある。
ハルトの声がある。
見えないものが増えた。
だから、見える板は減らせた。
相沢はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
改善は、増やすことだけではない。
減らすことでもある。
七瀬なら、売場に置きすぎです、と言うかもしれない。
マルタなら、混ぜるな、と言う。
オカンなら、推奨、分類、と出す。
全部同じところへ向かっている。
「回し屋」
ミナが言った。
「何」
「今日は、少し回ったね」
「少しな」
「片目も倒した」
「それも少しじゃない」
「でも、赤いのがいる」
「ああ」
森を見る。
夕方の森は暗い。
片目の死体はもうない。
赤ゴブリンが持っていった。
何のために。
分からない。
だが、向こうもこちらを村として見始めている。
ただの餌場ではない。
ただの逃げる人間ではない。
崩れない場所。
目を潰す場所。
そう認識された。
それは、勝利でもあり、危険でもあった。
◇
【土曜日 18:37/広場中央】
夜番の交代が組まれた。
ガンツは北。
ダリオも北。
ただし、二人とも立ち続けない。
交互に座る。
これをリリアが譲らなかった。
ガンツは不満そうだったが、マルタに睨まれて黙った。
ハルトは井戸。
ただし、重い桶は持たない。
ミナは広場。
ただし、途中で交代。
相沢は治療所前。
ただし、寝る。
「寝る」
リリアが言った。
「はい」
「目を閉じるだけではなく、寝る」
「努力します」
「信用しません」
「ですよね」
ミナが横で言う。
「寝なかったら、明日板に書く?」
「何を」
「回し屋、寝ない。触るな」
「触るなはおかしい」
マルタが笑った。
ハルトも少し笑った。
ダリオだけは笑わない。
森を見ている。
だが、ガンツがその肩を軽く叩いた。
「お前も交代で座れ」
「見える」
「座っても見ろ」
「少し見にくい」
「座って見ろ」
ダリオは不満そうにした。
だが、低い柵の内側に腰を下ろした。
弓は膝の上。
目は森。
座っても、見ている。
相沢はそれを見て、少し安心した。
◇
【土曜日 19:06/治療所前】
夜が落ちた。
相沢は治療所前に座っていた。
薄い布をかけられている。
横には水。
少し離れたところに、リリア。
中には病人。
広場には火。
板には三つの印。
火。
水。
呼ぶ。
南の小屋には避難民が入っている。
完全には静かではない。
子供の声。
布を敷く音。
小さな咳。
薪がずれる音。
井戸の桶の音。
北からは、時々ガンツの低い声。
それに、ダリオの短い声。
「まだ」
その一言だけが、夜の中に落ちる。
まだ来ない。
まだ撃たない。
まだ終わらない。
相沢は目を閉じた。
眠れるかは分からない。
だが、今日は少しだけ違う。
片目は倒した。
寝床は置いた。
水は分けた。
食料は守る方向に動き始めた。
声の道も作った。
全部、途中。
全部、仮。
だが、全部、ないよりはましだった。
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【夜間運用:
簡略化済】
【敵主力:
未確認】
【斥候個体:
排除済】
【集落依存率:
低下傾向】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
睡眠】
⸻
相沢は声に出さずに思った。
分かってる。
今度は、本当に従う。
遠くで、ダリオの声がした。
「まだ」
その一言を最後に、相沢の意識はゆっくり沈んだ。
夜は来た。
片目はいない。
だが、森の奥には、まだ赤いものがいる。




