第八十七話 朝に数える
【土曜日 4:48/治療所前】
鳥の声で、相沢は目を開けた。
最初は、何の音か分からなかった。
高い。
細い。
何度か途切れて、また続く。
警報ではない。
叫びでもない。
枝の折れる音でもない。
鳥だった。
相沢は、しばらく目を開けたまま動かなかった。
火明かりは弱くなっている。
空はまだ暗い。
だが、真っ黒ではない。
東の端が、ほんの少し薄い。
朝が来ていた。
「……朝か」
声がかすれた。
喉が痛い。
体も重い。
眠った時間は短い。
だが、意識は少し戻っている。
少しだけ。
横を見ると、リリアが治療所の入口に座っていた。
寝ていない。
相沢は眉を寄せる。
「リリアさん」
「起きましたか」
「寝ましたか」
「少し」
「嘘ですね」
「アイザワ殿ほどではありません」
「比較対象が悪い」
「はい」
リリアは静かに認めた。
その顔にも疲れがある。
目の下に影。
手元には濡れた布。
薬草の匂い。
治療所の中から、浅い呼吸が聞こえる。
「熱の子は」
「まだ高いです。ただ、夜よりは呼吸が落ち着いています」
「足の傷の人は」
「熱はあります。ですが、出血は止まっています」
「水は」
「ハルト殿が、決めた分だけ運んでいます」
ハルト殿。
リリアがそう呼んだことに、相沢は少しだけ目を向けた。
避難民。
怪我人。
守られる側。
そうではない。
今は井戸を見る者として呼ばれている。
「見に行きます」
「歩けますか」
「たぶん」
「その返事は信用できません」
「じゃあ、歩きます」
「もっと悪いです」
リリアは立ち上がり、相沢の腕に手を添えた。
「一人で行かないでください」
「分かりました」
「今の返事は、少しましです」
「評価が低い」
「実績の問題です」
反論できなかった。
◇
【土曜日 5:06/広場中央】
広場には、人がいた。
夜ほど多くはない。
だが、空ではない。
ミナが木箱の板の前に座っている。
村長がその横にいる。
火を見る役が二人。
呼ぶ役が一人。
水桶のそばには、まだ木片が置かれていた。
板には、夜の三つの印。
火。
水。
呼ぶ。
それだけが残っている。
増えていない。
相沢は、それだけで安心した。
「起きた」
ミナが言った。
「寝た」
「短い」
「寝たうちに入る」
「入れない」
「厳しいな」
「今は厳しくする人が多いよ」
「増えたな」
「増えた」
ミナは少しだけ笑った。
その顔にも疲れがある。
だが、目は動いている。
広場を見る目。
誰がどこにいるか。
火が弱いか。
水桶がどこにあるか。
伝令が戻ったか。
見ている。
「夜は」
相沢が聞く。
「小さい影が二回。近づかなかった」
「火は」
「なし」
「石は」
「なし」
「音だけか」
「音だけ」
嫌な敵だ。
襲わずに削る。
寝かせない。
疑わせる。
動かす。
赤ゴブリンは、夜を使っている。
相沢は東の空を見る。
明るくなれば、少しは見える。
だが、朝になれば朝の問題が来る。
「今日は数える」
相沢が言った。
ミナが頷く。
「うん。人、水、食べ物、怪我人」
「あと、寝た人と寝てない人」
「それも?」
「それも」
相沢は自分の声で言いながら、少し嫌になった。
現代なら勤怠表だ。
こちらでは、生存管理だ。
誰が夜番に立ったか。
誰が動けるか。
誰を休ませるか。
そこを曖昧にすると、昼に崩れる。
村長が静かに言った。
「では、朝の板を作りましょう」
マルタの声が倉庫側から飛んだ。
「夜の板に書くんじゃないよ!」
「承知しております」
村長が少しだけ苦笑する。
相沢も笑いそうになった。
マルタの声が朝に残っている。
それだけで、村は少し生きている感じがした。
◇
【土曜日 5:18/広場中央】
朝の板は、別に作った。
焦げていない板は少ない。
だから、木箱の側面を外したものを使った。
完全に平らではない。
文字も記号も書きにくい。
だが、使える。
相沢は木炭を持つ。
手が少し震える。
ミナがじっと見る。
「代わる?」
「まだいい」
「震えてる」
「見えてる」
「顔にも出てる」
「顔、働きすぎだな」
「休ませて」
「努力する」
「信用しない」
「村全体でそれ言うのやめないか」
「無理」
ミナは木炭を取った。
「言って。書く」
相沢は一瞬だけ迷った。
だが、木炭を渡した。
小さいことだ。
でも、渡す。
自分で書かない。
それも必要だった。
「人」
相沢が言う。
ミナが大きく丸を描く。
「水」
波。
「食べ物」
袋。
「怪我」
布。
「休む人」
横になった棒人間のような印。
相沢はそれを見て、少しだけ笑った。
「分かりやすい」
「でしょ」
「うまいな」
「褒め方が変」
「よく言われる」
「知ってる」
村長が横から見ている。
「文字より早いですな」
「忙しい時は、こっちの方がいいです」
「では、記録係には後で文字も残させましょう」
「はい。今は見る板。後で残す板」
「見る板。残す板」
村長はその言葉を繰り返した。
分ける。
ここでも分ける。
今動くための情報と、後で残す情報。
混ぜると重くなる。
◇
【土曜日 5:37/井戸前】
井戸前には、ハルトがいた。
腕には布が巻かれている。
顔色は悪い。
だが、座り込んではいない。
井戸のそばに立ち、桶の数を見ている。
近くには避難民の若い男が一人。
村の少年が一人。
ハルトが二人に指示していた。
「満たした桶はこっちだ。空はそっちに置くな。足に引っかかる」
「はい」
「水を汲むのは一度に一人。二人で覗き込むな。落ちる」
「分かった」
相沢は少し離れて止まった。
ハルトは相沢に気づく。
「起きたのか」
「ああ」
「寝てろよ」
「言われすぎて効かなくなってきた」
「効かせろ」
言い方が強い。
だが、遠慮がない分、いい。
相沢は井戸の周りを見る。
木片。
桶。
満水。
空。
汲む順番。
昨夜より整理されている。
「水は」
「まだ足りる。でも無駄にはできない」
「何に使った」
「治療所。火。飲み水。あと、粥の分はまだ触ってない」
「粥の分を残した?」
「朝に食わせるんだろ。残さないと揉める」
相沢はハルトを見た。
その言葉は、村人側ではなく、避難民側から出た言葉だった。
食わせる。
誰に。
どれだけ。
そこは揉める。
ハルトはそれを知っている。
前の村で、水場や力仕事を任されていた男。
中心ではなくても、現場にいた大人。
相沢は頷いた。
「助かる」
ハルトは目を細める。
「助かる、か」
「ああ」
「守られてるだけよりは、ましだ」
言葉が低い。
相沢は返事を急がなかった。
「助けられるのが嫌なんじゃない」
ハルトが続けた。
「何もできないまま座ってるのが嫌なんだ」
相沢は、黙って聞いた。
その言葉は、相沢に向けられているようで、たぶんハルト自身にも向けられていた。
「井戸は任せる」
相沢は言った。
ハルトの顎がわずかに動いた。
「任された」
「ただし、腕は無理するな」
「それは別だ」
「別じゃない」
「水は待たない」
「腕が悪くなったら、もっと待たせる」
ハルトは少しだけ黙る。
それから、舌打ちした。
「分かった。重い桶は持たない」
「それでいい」
「指示は出す」
「それがいい」
ハルトは井戸を見る。
守られるだけの顔ではなかった。
水場を任されてきた大人の顔だった。
◇
【土曜日 6:02/倉庫前】
倉庫前では、マルタが待っていた。
待っていた、というより、入口を塞いでいた。
相沢が近づくと、すぐに言う。
「遅い」
「寝ろと言われていたので」
「言い訳はうまくなったね」
「成長しました」
「そこは成長しなくていい」
マルタは倉庫の戸を叩く。
「朝だ。数えるよ」
「はい」
「ただし、あんたは中に入らない」
「え?」
「顔が悪い。倒れられると邪魔だ」
「邪魔」
「邪魔だよ」
容赦がない。
だが、正しい。
倉庫は狭い。
中で相沢が倒れれば、本当に邪魔だ。
「じゃあ、外で見ます」
「見るだけ」
「はい」
「口は出していい」
「いいんですか」
「変なところで遠慮するんじゃないよ」
マルタは倉庫の中へ声をかける。
「二人、入るよ。袋は動かすな。まず見る」
若い女と年配の男が中へ入る。
マルタは入口に立ち、指示を出す。
「焦げた袋」
「一つ」
「湿った袋」
「二つ」
「無事な袋」
「七つ」
「昨日開けた袋」
「半分」
「病人用に分けた分」
「小袋一つ」
相沢は外で聞きながら、朝の板とは別の小さな板に印を置く。
焦げ。
湿り。
無事。
開封。
病人用。
文字ではなく、記号で仮に置く。
後で記録係に整理させる。
「湿った袋は」
相沢が言う。
マルタがこちらを見ないまま答える。
「外へ出す。でも朝露に当てない」
「広げる場所は」
「倉庫の横。人が踏まない場所」
「焦げた袋は」
「中身を確認して、混ぜない」
「無事な袋は」
「奥へ戻す」
「開封分は」
「今日の粥」
判断が早い。
相沢は頷く。
「袋、使いますか」
マルタがようやく振り向いた。
「どれに」
「病人用。少量で分ける分」
「透明なやつかい」
「はい。中が見えるので」
「一枚だけ」
「一枚だけ」
「使ったら、戻せるのかい」
「洗えば使えるかもしれない。でも、破れたら終わり」
「なら、病人用だけだね」
「同意」
マルタは短く頷いた。
「持ってきた物は、朝から使いすぎない」
「はい」
「珍しいからって、触らせない」
「はい」
「塩はまだ開けない」
「はい」
「分かってるなら、顔をましにしな」
「そこは難しい」
「寝ろ」
「またそれか」
「みんな言ってるだろ」
相沢は返せなかった。
◇
【土曜日 6:31/広場中央】
朝の数が出始めた。
村長が板の前に座る。
ミナが隣で印を確認する。
相沢は少し離れて座った。
立つな、と三人に言われたからだ。
村人。
避難民。
怪我人。
動ける者。
休ませる者。
見張りに出せる者。
水を運べる者。
倉庫に入れる者。
治療所に近づけない者。
数は、人を冷たくする。
相沢はそう思った。
だが、数えなければ、もっと冷たくなる。
誰かが忘れられる。
誰かに負荷が寄る。
誰かが倒れるまで気づかない。
だから数える。
「避難民十二名」
村長が言う。
「生存十二」
ミナが印を置く。
「重い怪我二」
リリアが言う。
「熱二。ただし、一人は同じ者です」
「重複」
相沢が言う。
ミナが首を傾げる。
「重複?」
「同じ人を二回数えない」
「ああ。じゃあ、印を重ねる?」
「そう」
布の印と熱の印を重ねる。
これで一人。
別に熱の子が一人。
見れば分かる。
「動ける避難民は」
村長が聞く。
ハルトが答える。
「七人。ただし、疲れてる。すぐ重い仕事は無理だ」
避難民側の声。
ハルトが出した。
相沢はそちらを見る。
ハルトは視線を逸らさない。
「軽い仕事なら」
「水の見張り、火の見張り、子供を見るくらいなら回せる」
「力仕事は」
「午後まで待て」
村長は少し考えて、頷いた。
「分かりました」
その一言で、広場の空気が少し変わった。
避難民が、ただの負荷ではなくなった。
声を出す人がいる。
できることと、できないことを言う人がいる。
ハルトは、避難民側の声を出す場所に立ち始めている。
◇
【土曜日 7:04/広場中央】
粥を作る時間になった。
ここが、朝の一番危ないところだった。
腹が減っている。
夜を越えた。
怪我人がいる。
避難民がいる。
村人も疲れている。
全員が食べたい。
全員に食べさせたい。
だが、食料は増えていない。
相沢が持ってきた乾燥わかめも、だしの素も、塩もある。
でも、それは解決ではない。
使えば減る。
使い方を間違えれば、揉める。
「今日は、持ってきた物は使わない」
相沢が言った。
ミナが少し驚く。
「使わないの?」
「朝は使わない」
マルタが即座に言う。
「そうだね」
相沢は続ける。
「まず、今までのやり方で配る。ただし、病人用だけ透明な袋で分ける」
「なぜ?」
村長が聞く。
「今日いきなり味を変えると、誰が多い少ないで揉める。塩もだしも、匂いが強い。わかめも見た目が違う」
マルタが頷く。
「見慣れないものは、飯の時に出すな」
「はい」
「出すなら、先に見せて、試してからだ」
「はい」
ミナは少し残念そうだった。
相沢はそれに気づいた。
「使わないんじゃない。使うために、今日は使わない」
「分かるような、腹立つような」
「俺もそう思う」
「じゃあ言い方変えて」
「無理」
ミナは小さく息を吐いた。
「でも、分かった」
それでいい。
納得ではなく、理解。
今はそれで足りる。
◇
【土曜日 7:38/広場中央】
粥が配られた。
薄い。
少ない。
だが、温かい。
椀を受け取る手が、少しずつ落ち着いていく。
避難民も並ぶ。
村人も並ぶ。
完全に同じ量ではない。
病人用は別。
子供も少し違う。
だが、見える形で分けた。
マルタが立ち、リリアが病人用を確認し、ハルトが避難民側に声をかける。
「押すな」
ハルトの声。
「足の悪い者を先に通せ」
「でも」
「でもじゃない。こっちで決めた」
避難民の若い男が口を閉じる。
ハルトは強く言いすぎない。
だが、引かない。
水場を任されてきた男の声だった。
相沢はそれを見ていた。
役があると、人は立てる。
ハルトも、ミナも、マルタも、リリアも。
そして、自分も。
役がなければ、ただ不安に押し流される。
「アイザワ殿」
村長が椀を差し出した。
「あなたの分です」
「俺は後で」
「今です」
リリアが横から言った。
ミナも見る。
マルタも見る。
ハルトまで見た。
「……食べます」
相沢は椀を受け取った。
薄い粥。
塩気はほとんどない。
日本で食べた弁当やおにぎりを思い出す。
白飯。
肉。
だし。
味噌汁。
冷えた水。
全部が遠い。
相沢は粥を口に入れた。
薄い。
温かい。
それだけで、体に入っていく。
残す選択肢はなかった。
◇
【土曜日 8:12/倉庫前】
朝食後、マルタは相沢を倉庫前へ呼んだ。
ただし、椅子代わりの木箱に座らされた。
「立つな」
「はい」
「説明しな」
「はい」
地面に、透明な袋を一枚。
普通の布袋を一つ。
湿った穀物を少量。
乾いた穀物を少量。
それから、ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
塩。
塩はまだ閉じたまま。
マルタが、近くの者を三人だけ呼んだ。
倉庫に入れる者。
食料を分ける者。
記録係。
多く呼びすぎない。
相沢は説明する。
「これは、中が見える袋です」
「見えるね」
「湿気を完全に防ぐわけじゃない。でも布よりは防ぎやすい」
「破れる」
「破れる。火にも弱い」
「駄目なところから言うね」
「先に言わないと、信用できないので」
マルタが鼻を鳴らした。
「いい」
相沢はラベルを出す。
「この白い紙は、印をつけるもの」
「紙ならある」
「これは貼れる」
「貼れる?」
相沢は袋にラベルを貼った。
村人たちが少しざわつく。
紙が袋に張り付いている。
それだけで驚きがある。
「剥がれることもある。濡れると弱い。でも、短い間なら使える」
「印は?」
「丸は病人用。二本線は開封済み。斜線は触るな」
記録係がすぐ板に写す。
丸。
二本線。
斜線。
マルタが言う。
「増やしすぎるなよ」
「三つだけです」
「今はね」
「今は」
相沢は計量スプーンを持つ。
「これは塩に使う。ただし、今日はまだ開けない」
「いつ開ける」
マルタが聞く。
「昼か夜。まず、誰が使うか決める。病人用にするのか、全体の粥に少し入れるのか、保存用にするのか」
「保存用?」
「塩は味だけじゃない。食べ物を守ることにも使える」
マルタの目が変わった。
「詳しく」
「ただ、量が少ない。今は保存に使うほどないかもしれない」
「なら、無駄にできないね」
「はい」
マルタは塩を見た。
小さい容器。
村全体を救うには、あまりにも少ない。
だが、知識と運用の入口にはなる。
「まずは、病人用かね」
「俺もそう思います」
「リリアに聞く」
「はい」
決まっていく。
物が、ただの物ではなく、役割を持っていく。
相沢はそれを見て、少しだけ呼吸が楽になった。
◇
【土曜日 8:49/広場中央】
広場の朝の板には、印が増えていた。
だが、夜の板とは別だった。
人。
水。
食べ物。
怪我。
休む人。
そして、倉庫の小さな板。
袋。
塩。
触るな。
病人用。
開封済み。
村は、板だらけになりかけている。
危ない。
相沢はすぐにそう思った。
板が増えすぎると、誰も見なくなる。
だが、今は止めるより、整理する段階だ。
「板を置く場所を決めます」
相沢が言う。
村長が頷く。
「広場に全部置くのではない?」
「はい。広場は全体。倉庫は倉庫。治療所は治療所。井戸は井戸」
ミナが言う。
「じゃあ、広場の板には全部書かない」
「そう」
「でも、広場で全部見たい」
「見たいけど、見すぎると迷う」
ミナは少し不満そうにする。
だが、すぐ考える顔になった。
「広場には、どこを見るかだけ?」
「それがいい」
相沢は板に四つの印を置く。
倉庫。
井戸。
治療所。
北。
その下に、人の印。
「何かあれば、場所の役から呼ぶ。広場が全部を直接見ない」
「広場は、呼ばれたらつなぐ?」
「そう」
「呼ぶ役の仕事が増える」
「だから、交代がいる」
ミナは頷いた。
理解が早い。
早すぎて、少し怖い。
相沢のやり方を吸収している。
良いことだ。
だが、相沢みたいになりすぎるのは良くない。
「ミナ」
「何」
「全部見ようとするなよ」
「それ、回し屋が言う?」
「だから言ってる」
ミナは少し黙った。
「分かった。腹立つけど」
「俺も腹立つ」
「自分に?」
「ああ」
ミナは小さく笑った。
◇
【土曜日 9:23/北柵】
相沢は北柵へ行った。
リリアには止められた。
ミナにも止められた。
マルタには怒られた。
それでも、行った。
ただし、走らない。
ガンツに呼ばれてから行く。
その条件で許された。
北柵では、ガンツが槍を持っていた。
ダリオもいた。
弓を手にして、森を見ている。
ダリオは細身だが、目の動きが速い。
森の奥。
枝。
影。
光。
それを拾っている。
「来たか」
ガンツが言った。
「呼んだだろ」
「呼んだが、本当に来るな」
「どっちだ」
「顔が悪い」
「もう慣れた」
「慣れるな」
ダリオが森を見たまま言う。
「片目、夜明け前に一度見えた」
相沢はそちらを見る。
「場所は」
ダリオが木の間を指す。
「あそこ。低い枝の下。すぐ消えた」
「数は」
「片目だけ。たぶん」
「赤は」
「見てない」
相沢は森を見る。
見えない。
相沢の目では拾えない。
だが、ダリオが見たなら、そこにいたのだろう。
「試してるな」
相沢が言う。
ガンツが頷く。
「ああ」
「こっちの夜の動きも見てた」
「だろうな」
「朝の配膳も見られてるかもしれない」
「飯まで見るのか」
「嫌なやつなら見る」
「嫌なやつだな」
「そうだ」
ダリオが短く言う。
「でも、近づいてない」
「なぜ」
相沢が聞く。
「たぶん、こっちが崩れなかったから」
ダリオの答えに、相沢は目を向けた。
ダリオは森を見たまま続ける。
「夜、音を出した。影も出した。でも、みんな走らなかった。火も増えなかった。井戸も詰まらなかった」
「見てたのか」
「森を見てたら、村も少し見える」
目が良い。
それは森だけではない。
村の乱れも見ている。
相沢は頷いた。
「ダリオ」
「何」
「見えたことを、後で板に残せるか」
「絵は下手だ」
「場所だけでいい。木の形とか、低い枝とか」
「それならできる」
「頼む」
ダリオは少しだけ頷いた。
ガンツが横で言う。
「弓のやつを記録係にするのか」
「森の記録だけ」
「増えるな」
「増やしすぎないようにする」
「お前が言うと信用できねぇ」
「よく言われる」
その時、ダリオが弓を少し持ち上げた。
弦に指がかかる。
ガンツが低く聞く。
「撃てるか」
「撃てる」
「なら撃つか」
「まだ撃たない」
「なぜだ」
「あれは、見せてる枝だ」
ダリオは森の一点から目を離さない。
「本体は、もう少し奥にいる」
相沢は息を止めた。
撃てる。
だが撃たない。
倒すためではなく、見るために弓を構えている。
ダリオは、森を見る男だった。
◇
【土曜日 10:02/広場中央】
朝の整理が終わりかけた頃。
相沢は広場に戻った。
椅子代わりの木箱に座らされる。
もはや、誰も相沢を立たせようとしない。
それはそれで居心地が悪い。
村長が朝の板を見ながら言う。
「今日、決め直すべきことがあります」
「避難民のことですね」
「はい。受け入れることは、すでに決めました」
村長は静かに言った。
「ですが、受け入れた後の置き場所までは、まだ足りておりません」
相沢は頷いた。
助けた。
受け入れた。
それで終わりではない。
どこで寝るか。
誰が水を使うか。
誰が食料を受け取るか。
誰が働けるか。
揉めた時、誰に言うか。
そこを曖昧にすれば、善意はすぐに火種になる。
「議題を分けましょう」
相沢が言った。
「寝る場所。
食料。
水。
仕事。
揉めた時の声」
ミナが板に印を置く。
寝床。
袋。
水。
手。
声。
最後の印を置いて、ミナが顔を上げた。
「声?」
「不満や困りごとを、誰に言うか」
相沢はハルトを見る。
ハルトは少し離れて立っていた。
避難民側の数人も、その後ろにいる。
村人たちもいる。
どちらも黙っている。
村長が言う。
「昼前に、動ける者を集めましょう。受け入れの決定を変えるためではありません。受け入れた後、村を止めないためです」
相沢は頷いた。
「その方がいいです」
「村人側の不満も出るでしょう」
「出した方がいいです」
ミナが驚いた顔をする。
「出した方がいいの?」
「隠すと、後で腐る」
マルタが倉庫側から言った。
「食い物と同じだね」
「はい」
相沢は頷く。
「出す場所を決めます。言っていい場所を作る。言いっぱなしにしない」
村長は静かに息を吐いた。
「難しいですな」
「難しいです」
「ですが、必要ですな」
「はい」
◇
【土曜日 10:16/広場中央】
「ハルト」
相沢が呼ぶ。
ハルトが少し眉を動かす。
「昼前の話し合いで、避難民側の声を出してほしい」
広場が少し静かになる。
ハルトはすぐには答えなかった。
「俺が?」
「ああ」
「俺は、村に受け入れさせるために立つのか」
「違う」
相沢は首を振った。
「もう受け入れは決まってる。だから、次は中で揉めないようにする」
ハルトは黙った。
「避難民側で、何ができて、何が無理か。
水をどれだけ使うか。
誰が動けるか。
誰を休ませるか。
それを言える人がいる」
「俺は中心じゃなかった」
「中心じゃなくていい。現場を知ってる人がいる」
ハルトは腕の布を見る。
「守れなかった村の声でもいいのか」
その言葉は低かった。
相沢はすぐには答えなかった。
「守れなかったから、分かることがあると思う」
綺麗な言葉にはしたくなかった。
だが、嘘にもしたくなかった。
「今ここにいる人を、座らせっぱなしにしないための話だ」
ハルトは相沢を見る。
しばらくして、短く言った。
「分かった」
それだけだった。
だが、十分だった。
◇
【土曜日 10:41/広場中央】
朝の作業が一段落した。
村は、眠っていない者を少しずつ休ませ始めた。
ガンツは拒否した。
マルタに怒鳴られた。
リリアに静かに刺された。
最終的に、北柵の近くで座ることになった。
完全な休息ではない。
だが、立ち続けるよりはましだ。
ミナも交代で水を飲んだ。
ハルトは重い桶を持たず、井戸前の指示に回った。
ダリオは森を見た後、低い枝の位置を小さな板に残していた。
絵は確かに上手くない。
だが、どの枝の下に片目がいたかは分かった。
小さな変化が、あちこちにある。
相沢はそれを見ていた。
全部がうまくいっているわけではない。
食料は少ない。
水も十分ではない。
赤ゴブリンはまだいる。
片目もいる。
受け入れた避難民の置き場所は、これから揉める。
持ち込んだ物も、まだほとんど使えていない。
問題は山ほどある。
それでも、村は止まっていない。
その時、表示が浮かんだ。
⸻
【集落状態:
夜間危機を暫定通過】
【人的損耗:
死亡なし】
【食糧残量:
要管理】
【水資源:
制限運用中】
【外部避難民:
受入済】
【運用未整備:
寝床】
【運用未整備:
水配分】
【運用未整備:
労務分担】
【運用未整備:
不満受付経路】
【本日重点:
受入後運用】
【本日重点:
食糧再配分】
【本日重点:
休息管理】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
着座継続】
⸻
「着座継続」
相沢は呟いた。
ミナが横から覗く。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「座ってろって」
「正しい」
「正しいな」
「今日は従う?」
「たぶん」
「信用できない」
「全員それ言うな」
ミナは少し笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
広場の向こうで、避難民と村人が少しずつ集まり始めている。
もう、受け入れるかどうかの話ではない。
受け入れた人たちと、どう一緒に回すか。
その話し合いが近づいていた。
相沢は朝の板を見る。
寝床。
食べ物。
水。
仕事。
声。
どれも軽くない。
だが、話さなければならない。
受け入れは終わった。
だからこそ、ここからが始まる。
善意だけでは、村は回らない。
受け入れたなら、運用がいる。
相沢は深く息を吐いた。
そして、座ったまま言った。
「昼前に、置き場所を決めよう」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
村にか。
避難民にか。
ハルトにか。
それとも。
まだ森の奥で見ている赤い影にか。
朝は来た。
受け入れも終わった。
だが、村が一つになるのは、まだこれからだった。




