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第八十七話 朝に数える

【土曜日 4:48/治療所前】


 鳥の声で、相沢は目を開けた。


 最初は、何の音か分からなかった。


 高い。


 細い。


 何度か途切れて、また続く。


 警報ではない。


 叫びでもない。


 枝の折れる音でもない。


 鳥だった。


 相沢は、しばらく目を開けたまま動かなかった。


 火明かりは弱くなっている。


 空はまだ暗い。


 だが、真っ黒ではない。


 東の端が、ほんの少し薄い。


 朝が来ていた。


「……朝か」


 声がかすれた。


 喉が痛い。


 体も重い。


 眠った時間は短い。


 だが、意識は少し戻っている。


 少しだけ。


 横を見ると、リリアが治療所の入口に座っていた。


 寝ていない。


 相沢は眉を寄せる。


「リリアさん」


「起きましたか」


「寝ましたか」


「少し」


「嘘ですね」


「アイザワ殿ほどではありません」


「比較対象が悪い」


「はい」


 リリアは静かに認めた。


 その顔にも疲れがある。


 目の下に影。


 手元には濡れた布。


 薬草の匂い。


 治療所の中から、浅い呼吸が聞こえる。


「熱の子は」


「まだ高いです。ただ、夜よりは呼吸が落ち着いています」


「足の傷の人は」


「熱はあります。ですが、出血は止まっています」


「水は」


「ハルト殿が、決めた分だけ運んでいます」


 ハルト殿。


 リリアがそう呼んだことに、相沢は少しだけ目を向けた。


 避難民。


 怪我人。


 守られる側。


 そうではない。


 今は井戸を見る者として呼ばれている。


「見に行きます」


「歩けますか」


「たぶん」


「その返事は信用できません」


「じゃあ、歩きます」


「もっと悪いです」


 リリアは立ち上がり、相沢の腕に手を添えた。


「一人で行かないでください」


「分かりました」


「今の返事は、少しましです」


「評価が低い」


「実績の問題です」


 反論できなかった。


     ◇


【土曜日 5:06/広場中央】


 広場には、人がいた。


 夜ほど多くはない。


 だが、空ではない。


 ミナが木箱の板の前に座っている。


 村長がその横にいる。


 火を見る役が二人。


 呼ぶ役が一人。


 水桶のそばには、まだ木片が置かれていた。


 板には、夜の三つの印。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 それだけが残っている。


 増えていない。


 相沢は、それだけで安心した。


「起きた」


 ミナが言った。


「寝た」


「短い」


「寝たうちに入る」


「入れない」


「厳しいな」


「今は厳しくする人が多いよ」


「増えたな」


「増えた」


 ミナは少しだけ笑った。


 その顔にも疲れがある。


 だが、目は動いている。


 広場を見る目。


 誰がどこにいるか。


 火が弱いか。


 水桶がどこにあるか。


 伝令が戻ったか。


 見ている。


「夜は」


 相沢が聞く。


「小さい影が二回。近づかなかった」


「火は」


「なし」


「石は」


「なし」


「音だけか」


「音だけ」


 嫌な敵だ。


 襲わずに削る。


 寝かせない。


 疑わせる。


 動かす。


 赤ゴブリンは、夜を使っている。


 相沢は東の空を見る。


 明るくなれば、少しは見える。


 だが、朝になれば朝の問題が来る。


「今日は数える」


 相沢が言った。


 ミナが頷く。


「うん。人、水、食べ物、怪我人」


「あと、寝た人と寝てない人」


「それも?」


「それも」


 相沢は自分の声で言いながら、少し嫌になった。


 現代なら勤怠表だ。


 こちらでは、生存管理だ。


 誰が夜番に立ったか。


 誰が動けるか。


 誰を休ませるか。


 そこを曖昧にすると、昼に崩れる。


 村長が静かに言った。


「では、朝の板を作りましょう」


 マルタの声が倉庫側から飛んだ。


「夜の板に書くんじゃないよ!」


「承知しております」


 村長が少しだけ苦笑する。


 相沢も笑いそうになった。


 マルタの声が朝に残っている。


 それだけで、村は少し生きている感じがした。


     ◇


【土曜日 5:18/広場中央】


 朝の板は、別に作った。


 焦げていない板は少ない。


 だから、木箱の側面を外したものを使った。


 完全に平らではない。


 文字も記号も書きにくい。


 だが、使える。


 相沢は木炭を持つ。


 手が少し震える。


 ミナがじっと見る。


「代わる?」


「まだいい」


「震えてる」


「見えてる」


「顔にも出てる」


「顔、働きすぎだな」


「休ませて」


「努力する」


「信用しない」


「村全体でそれ言うのやめないか」


「無理」


 ミナは木炭を取った。


「言って。書く」


 相沢は一瞬だけ迷った。


 だが、木炭を渡した。


 小さいことだ。


 でも、渡す。


 自分で書かない。


 それも必要だった。


「人」


 相沢が言う。


 ミナが大きく丸を描く。


「水」


 波。


「食べ物」


 袋。


「怪我」


 布。


「休む人」


 横になった棒人間のような印。


 相沢はそれを見て、少しだけ笑った。


「分かりやすい」


「でしょ」


「うまいな」


「褒め方が変」


「よく言われる」


「知ってる」


 村長が横から見ている。


「文字より早いですな」


「忙しい時は、こっちの方がいいです」


「では、記録係には後で文字も残させましょう」


「はい。今は見る板。後で残す板」


「見る板。残す板」


 村長はその言葉を繰り返した。


 分ける。


 ここでも分ける。


 今動くための情報と、後で残す情報。


 混ぜると重くなる。


     ◇


【土曜日 5:37/井戸前】


 井戸前には、ハルトがいた。


 腕には布が巻かれている。


 顔色は悪い。


 だが、座り込んではいない。


 井戸のそばに立ち、桶の数を見ている。


 近くには避難民の若い男が一人。


 村の少年が一人。


 ハルトが二人に指示していた。


「満たした桶はこっちだ。空はそっちに置くな。足に引っかかる」


「はい」


「水を汲むのは一度に一人。二人で覗き込むな。落ちる」


「分かった」


 相沢は少し離れて止まった。


 ハルトは相沢に気づく。


「起きたのか」


「ああ」


「寝てろよ」


「言われすぎて効かなくなってきた」


「効かせろ」


 言い方が強い。


 だが、遠慮がない分、いい。


 相沢は井戸の周りを見る。


 木片。


 桶。


 満水。


 空。


 汲む順番。


 昨夜より整理されている。


「水は」


「まだ足りる。でも無駄にはできない」


「何に使った」


「治療所。火。飲み水。あと、粥の分はまだ触ってない」


「粥の分を残した?」


「朝に食わせるんだろ。残さないと揉める」


 相沢はハルトを見た。


 その言葉は、村人側ではなく、避難民側から出た言葉だった。


 食わせる。


 誰に。


 どれだけ。


 そこは揉める。


 ハルトはそれを知っている。


 前の村で、水場や力仕事を任されていた男。


 中心ではなくても、現場にいた大人。


 相沢は頷いた。


「助かる」


 ハルトは目を細める。


「助かる、か」


「ああ」


「守られてるだけよりは、ましだ」


 言葉が低い。


 相沢は返事を急がなかった。


「助けられるのが嫌なんじゃない」


 ハルトが続けた。


「何もできないまま座ってるのが嫌なんだ」


 相沢は、黙って聞いた。


 その言葉は、相沢に向けられているようで、たぶんハルト自身にも向けられていた。


「井戸は任せる」


 相沢は言った。


 ハルトの顎がわずかに動いた。


「任された」


「ただし、腕は無理するな」


「それは別だ」


「別じゃない」


「水は待たない」


「腕が悪くなったら、もっと待たせる」


 ハルトは少しだけ黙る。


 それから、舌打ちした。


「分かった。重い桶は持たない」


「それでいい」


「指示は出す」


「それがいい」


 ハルトは井戸を見る。


 守られるだけの顔ではなかった。


 水場を任されてきた大人の顔だった。


     ◇


【土曜日 6:02/倉庫前】


 倉庫前では、マルタが待っていた。


 待っていた、というより、入口を塞いでいた。


 相沢が近づくと、すぐに言う。


「遅い」


「寝ろと言われていたので」


「言い訳はうまくなったね」


「成長しました」


「そこは成長しなくていい」


 マルタは倉庫の戸を叩く。


「朝だ。数えるよ」


「はい」


「ただし、あんたは中に入らない」


「え?」


「顔が悪い。倒れられると邪魔だ」


「邪魔」


「邪魔だよ」


 容赦がない。


 だが、正しい。


 倉庫は狭い。


 中で相沢が倒れれば、本当に邪魔だ。


「じゃあ、外で見ます」


「見るだけ」


「はい」


「口は出していい」


「いいんですか」


「変なところで遠慮するんじゃないよ」


 マルタは倉庫の中へ声をかける。


「二人、入るよ。袋は動かすな。まず見る」


 若い女と年配の男が中へ入る。


 マルタは入口に立ち、指示を出す。


「焦げた袋」


「一つ」


「湿った袋」


「二つ」


「無事な袋」


「七つ」


「昨日開けた袋」


「半分」


「病人用に分けた分」


「小袋一つ」


 相沢は外で聞きながら、朝の板とは別の小さな板に印を置く。


 焦げ。


 湿り。


 無事。


 開封。


 病人用。


 文字ではなく、記号で仮に置く。


 後で記録係に整理させる。


「湿った袋は」


 相沢が言う。


 マルタがこちらを見ないまま答える。


「外へ出す。でも朝露に当てない」


「広げる場所は」


「倉庫の横。人が踏まない場所」


「焦げた袋は」


「中身を確認して、混ぜない」


「無事な袋は」


「奥へ戻す」


「開封分は」


「今日の粥」


 判断が早い。


 相沢は頷く。


「袋、使いますか」


 マルタがようやく振り向いた。


「どれに」


「病人用。少量で分ける分」


「透明なやつかい」


「はい。中が見えるので」


「一枚だけ」


「一枚だけ」


「使ったら、戻せるのかい」


「洗えば使えるかもしれない。でも、破れたら終わり」


「なら、病人用だけだね」


「同意」


 マルタは短く頷いた。


「持ってきた物は、朝から使いすぎない」


「はい」


「珍しいからって、触らせない」


「はい」


「塩はまだ開けない」


「はい」


「分かってるなら、顔をましにしな」


「そこは難しい」


「寝ろ」


「またそれか」


「みんな言ってるだろ」


 相沢は返せなかった。


     ◇


【土曜日 6:31/広場中央】


 朝の数が出始めた。


 村長が板の前に座る。


 ミナが隣で印を確認する。


 相沢は少し離れて座った。


 立つな、と三人に言われたからだ。


 村人。


 避難民。


 怪我人。


 動ける者。


 休ませる者。


 見張りに出せる者。


 水を運べる者。


 倉庫に入れる者。


 治療所に近づけない者。


 数は、人を冷たくする。


 相沢はそう思った。


 だが、数えなければ、もっと冷たくなる。


 誰かが忘れられる。


 誰かに負荷が寄る。


 誰かが倒れるまで気づかない。


 だから数える。


「避難民十二名」


 村長が言う。


「生存十二」


 ミナが印を置く。


「重い怪我二」


 リリアが言う。


「熱二。ただし、一人は同じ者です」


「重複」


 相沢が言う。


 ミナが首を傾げる。


「重複?」


「同じ人を二回数えない」


「ああ。じゃあ、印を重ねる?」


「そう」


 布の印と熱の印を重ねる。


 これで一人。


 別に熱の子が一人。


 見れば分かる。


「動ける避難民は」


 村長が聞く。


 ハルトが答える。


「七人。ただし、疲れてる。すぐ重い仕事は無理だ」


 避難民側の声。


 ハルトが出した。


 相沢はそちらを見る。


 ハルトは視線を逸らさない。


「軽い仕事なら」


「水の見張り、火の見張り、子供を見るくらいなら回せる」


「力仕事は」


「午後まで待て」


 村長は少し考えて、頷いた。


「分かりました」


 その一言で、広場の空気が少し変わった。


 避難民が、ただの負荷ではなくなった。


 声を出す人がいる。


 できることと、できないことを言う人がいる。


 ハルトは、避難民側の声を出す場所に立ち始めている。


     ◇


【土曜日 7:04/広場中央】


 粥を作る時間になった。


 ここが、朝の一番危ないところだった。


 腹が減っている。


 夜を越えた。


 怪我人がいる。


 避難民がいる。


 村人も疲れている。


 全員が食べたい。


 全員に食べさせたい。


 だが、食料は増えていない。


 相沢が持ってきた乾燥わかめも、だしの素も、塩もある。


 でも、それは解決ではない。


 使えば減る。


 使い方を間違えれば、揉める。


「今日は、持ってきた物は使わない」


 相沢が言った。


 ミナが少し驚く。


「使わないの?」


「朝は使わない」


 マルタが即座に言う。


「そうだね」


 相沢は続ける。


「まず、今までのやり方で配る。ただし、病人用だけ透明な袋で分ける」


「なぜ?」


 村長が聞く。


「今日いきなり味を変えると、誰が多い少ないで揉める。塩もだしも、匂いが強い。わかめも見た目が違う」


 マルタが頷く。


「見慣れないものは、飯の時に出すな」


「はい」


「出すなら、先に見せて、試してからだ」


「はい」


 ミナは少し残念そうだった。


 相沢はそれに気づいた。


「使わないんじゃない。使うために、今日は使わない」


「分かるような、腹立つような」


「俺もそう思う」


「じゃあ言い方変えて」


「無理」


 ミナは小さく息を吐いた。


「でも、分かった」


 それでいい。


 納得ではなく、理解。


 今はそれで足りる。


     ◇


【土曜日 7:38/広場中央】


 粥が配られた。


 薄い。


 少ない。


 だが、温かい。


 椀を受け取る手が、少しずつ落ち着いていく。


 避難民も並ぶ。


 村人も並ぶ。


 完全に同じ量ではない。


 病人用は別。


 子供も少し違う。


 だが、見える形で分けた。


 マルタが立ち、リリアが病人用を確認し、ハルトが避難民側に声をかける。


「押すな」


 ハルトの声。


「足の悪い者を先に通せ」


「でも」


「でもじゃない。こっちで決めた」


 避難民の若い男が口を閉じる。


 ハルトは強く言いすぎない。


 だが、引かない。


 水場を任されてきた男の声だった。


 相沢はそれを見ていた。


 役があると、人は立てる。


 ハルトも、ミナも、マルタも、リリアも。


 そして、自分も。


 役がなければ、ただ不安に押し流される。


「アイザワ殿」


 村長が椀を差し出した。


「あなたの分です」


「俺は後で」


「今です」


 リリアが横から言った。


 ミナも見る。


 マルタも見る。


 ハルトまで見た。


「……食べます」


 相沢は椀を受け取った。


 薄い粥。


 塩気はほとんどない。


 日本で食べた弁当やおにぎりを思い出す。


 白飯。


 肉。


 だし。


 味噌汁。


 冷えた水。


 全部が遠い。


 相沢は粥を口に入れた。


 薄い。


 温かい。


 それだけで、体に入っていく。


 残す選択肢はなかった。


     ◇


【土曜日 8:12/倉庫前】


 朝食後、マルタは相沢を倉庫前へ呼んだ。


 ただし、椅子代わりの木箱に座らされた。


「立つな」


「はい」


「説明しな」


「はい」


 地面に、透明な袋を一枚。


 普通の布袋を一つ。


 湿った穀物を少量。


 乾いた穀物を少量。


 それから、ラベル。


 油性ペン。


 計量スプーン。


 塩。


 塩はまだ閉じたまま。


 マルタが、近くの者を三人だけ呼んだ。


 倉庫に入れる者。


 食料を分ける者。


 記録係。


 多く呼びすぎない。


 相沢は説明する。


「これは、中が見える袋です」


「見えるね」


「湿気を完全に防ぐわけじゃない。でも布よりは防ぎやすい」


「破れる」


「破れる。火にも弱い」


「駄目なところから言うね」


「先に言わないと、信用できないので」


 マルタが鼻を鳴らした。


「いい」


 相沢はラベルを出す。


「この白い紙は、印をつけるもの」


「紙ならある」


「これは貼れる」


「貼れる?」


 相沢は袋にラベルを貼った。


 村人たちが少しざわつく。


 紙が袋に張り付いている。


 それだけで驚きがある。


「剥がれることもある。濡れると弱い。でも、短い間なら使える」


「印は?」


「丸は病人用。二本線は開封済み。斜線は触るな」


 記録係がすぐ板に写す。


 丸。


 二本線。


 斜線。


 マルタが言う。


「増やしすぎるなよ」


「三つだけです」


「今はね」


「今は」


 相沢は計量スプーンを持つ。


「これは塩に使う。ただし、今日はまだ開けない」


「いつ開ける」


 マルタが聞く。


「昼か夜。まず、誰が使うか決める。病人用にするのか、全体の粥に少し入れるのか、保存用にするのか」


「保存用?」


「塩は味だけじゃない。食べ物を守ることにも使える」


 マルタの目が変わった。


「詳しく」


「ただ、量が少ない。今は保存に使うほどないかもしれない」


「なら、無駄にできないね」


「はい」


 マルタは塩を見た。


 小さい容器。


 村全体を救うには、あまりにも少ない。


 だが、知識と運用の入口にはなる。


「まずは、病人用かね」


「俺もそう思います」


「リリアに聞く」


「はい」


 決まっていく。


 物が、ただの物ではなく、役割を持っていく。


 相沢はそれを見て、少しだけ呼吸が楽になった。


     ◇


【土曜日 8:49/広場中央】


 広場の朝の板には、印が増えていた。


 だが、夜の板とは別だった。


 人。


 水。


 食べ物。


 怪我。


 休む人。


 そして、倉庫の小さな板。


 袋。


 塩。


 触るな。


 病人用。


 開封済み。


 村は、板だらけになりかけている。


 危ない。


 相沢はすぐにそう思った。


 板が増えすぎると、誰も見なくなる。


 だが、今は止めるより、整理する段階だ。


「板を置く場所を決めます」


 相沢が言う。


 村長が頷く。


「広場に全部置くのではない?」


「はい。広場は全体。倉庫は倉庫。治療所は治療所。井戸は井戸」


 ミナが言う。


「じゃあ、広場の板には全部書かない」


「そう」


「でも、広場で全部見たい」


「見たいけど、見すぎると迷う」


 ミナは少し不満そうにする。


 だが、すぐ考える顔になった。


「広場には、どこを見るかだけ?」


「それがいい」


 相沢は板に四つの印を置く。


 倉庫。


 井戸。


 治療所。


 北。


 その下に、人の印。


「何かあれば、場所の役から呼ぶ。広場が全部を直接見ない」


「広場は、呼ばれたらつなぐ?」


「そう」


「呼ぶ役の仕事が増える」


「だから、交代がいる」


 ミナは頷いた。


 理解が早い。


 早すぎて、少し怖い。


 相沢のやり方を吸収している。


 良いことだ。


 だが、相沢みたいになりすぎるのは良くない。


「ミナ」


「何」


「全部見ようとするなよ」


「それ、回し屋が言う?」


「だから言ってる」


 ミナは少し黙った。


「分かった。腹立つけど」


「俺も腹立つ」


「自分に?」


「ああ」


 ミナは小さく笑った。


     ◇


【土曜日 9:23/北柵】


 相沢は北柵へ行った。


 リリアには止められた。


 ミナにも止められた。


 マルタには怒られた。


 それでも、行った。


 ただし、走らない。


 ガンツに呼ばれてから行く。


 その条件で許された。


 北柵では、ガンツが槍を持っていた。


 ダリオもいた。


 弓を手にして、森を見ている。


 ダリオは細身だが、目の動きが速い。


 森の奥。


 枝。


 影。


 光。


 それを拾っている。


「来たか」


 ガンツが言った。


「呼んだだろ」


「呼んだが、本当に来るな」


「どっちだ」


「顔が悪い」


「もう慣れた」


「慣れるな」


 ダリオが森を見たまま言う。


「片目、夜明け前に一度見えた」


 相沢はそちらを見る。


「場所は」


 ダリオが木の間を指す。


「あそこ。低い枝の下。すぐ消えた」


「数は」


「片目だけ。たぶん」


「赤は」


「見てない」


 相沢は森を見る。


 見えない。


 相沢の目では拾えない。


 だが、ダリオが見たなら、そこにいたのだろう。


「試してるな」


 相沢が言う。


 ガンツが頷く。


「ああ」


「こっちの夜の動きも見てた」


「だろうな」


「朝の配膳も見られてるかもしれない」


「飯まで見るのか」


「嫌なやつなら見る」


「嫌なやつだな」


「そうだ」


 ダリオが短く言う。


「でも、近づいてない」


「なぜ」


 相沢が聞く。


「たぶん、こっちが崩れなかったから」


 ダリオの答えに、相沢は目を向けた。


 ダリオは森を見たまま続ける。


「夜、音を出した。影も出した。でも、みんな走らなかった。火も増えなかった。井戸も詰まらなかった」


「見てたのか」


「森を見てたら、村も少し見える」


 目が良い。


 それは森だけではない。


 村の乱れも見ている。


 相沢は頷いた。


「ダリオ」


「何」


「見えたことを、後で板に残せるか」


「絵は下手だ」


「場所だけでいい。木の形とか、低い枝とか」


「それならできる」


「頼む」


 ダリオは少しだけ頷いた。


 ガンツが横で言う。


「弓のやつを記録係にするのか」


「森の記録だけ」


「増えるな」


「増やしすぎないようにする」


「お前が言うと信用できねぇ」


「よく言われる」


 その時、ダリオが弓を少し持ち上げた。


 弦に指がかかる。


 ガンツが低く聞く。


「撃てるか」


「撃てる」


「なら撃つか」


「まだ撃たない」


「なぜだ」


「あれは、見せてる枝だ」


 ダリオは森の一点から目を離さない。


「本体は、もう少し奥にいる」


 相沢は息を止めた。


 撃てる。


 だが撃たない。


 倒すためではなく、見るために弓を構えている。


 ダリオは、森を見る男だった。


     ◇


【土曜日 10:02/広場中央】


 朝の整理が終わりかけた頃。


 相沢は広場に戻った。


 椅子代わりの木箱に座らされる。


 もはや、誰も相沢を立たせようとしない。


 それはそれで居心地が悪い。


 村長が朝の板を見ながら言う。


「今日、決め直すべきことがあります」


「避難民のことですね」


「はい。受け入れることは、すでに決めました」


 村長は静かに言った。


「ですが、受け入れた後の置き場所までは、まだ足りておりません」


 相沢は頷いた。


 助けた。


 受け入れた。


 それで終わりではない。


 どこで寝るか。


 誰が水を使うか。


 誰が食料を受け取るか。


 誰が働けるか。


 揉めた時、誰に言うか。


 そこを曖昧にすれば、善意はすぐに火種になる。


「議題を分けましょう」


 相沢が言った。


「寝る場所。

 食料。

 水。

 仕事。

 揉めた時の声」


 ミナが板に印を置く。


 寝床。


 袋。


 水。


 手。


 声。


 最後の印を置いて、ミナが顔を上げた。


「声?」


「不満や困りごとを、誰に言うか」


 相沢はハルトを見る。


 ハルトは少し離れて立っていた。


 避難民側の数人も、その後ろにいる。


 村人たちもいる。


 どちらも黙っている。


 村長が言う。


「昼前に、動ける者を集めましょう。受け入れの決定を変えるためではありません。受け入れた後、村を止めないためです」


 相沢は頷いた。


「その方がいいです」


「村人側の不満も出るでしょう」


「出した方がいいです」


 ミナが驚いた顔をする。


「出した方がいいの?」


「隠すと、後で腐る」


 マルタが倉庫側から言った。


「食い物と同じだね」


「はい」


 相沢は頷く。


「出す場所を決めます。言っていい場所を作る。言いっぱなしにしない」


 村長は静かに息を吐いた。


「難しいですな」


「難しいです」


「ですが、必要ですな」


「はい」


     ◇


【土曜日 10:16/広場中央】


「ハルト」


 相沢が呼ぶ。


 ハルトが少し眉を動かす。


「昼前の話し合いで、避難民側の声を出してほしい」


 広場が少し静かになる。


 ハルトはすぐには答えなかった。


「俺が?」


「ああ」


「俺は、村に受け入れさせるために立つのか」


「違う」


 相沢は首を振った。


「もう受け入れは決まってる。だから、次は中で揉めないようにする」


 ハルトは黙った。


「避難民側で、何ができて、何が無理か。

 水をどれだけ使うか。

 誰が動けるか。

 誰を休ませるか。

 それを言える人がいる」


「俺は中心じゃなかった」


「中心じゃなくていい。現場を知ってる人がいる」


 ハルトは腕の布を見る。


「守れなかった村の声でもいいのか」


 その言葉は低かった。


 相沢はすぐには答えなかった。


「守れなかったから、分かることがあると思う」


 綺麗な言葉にはしたくなかった。


 だが、嘘にもしたくなかった。


「今ここにいる人を、座らせっぱなしにしないための話だ」


 ハルトは相沢を見る。


 しばらくして、短く言った。


「分かった」


 それだけだった。


 だが、十分だった。


     ◇


【土曜日 10:41/広場中央】


 朝の作業が一段落した。


 村は、眠っていない者を少しずつ休ませ始めた。


 ガンツは拒否した。


 マルタに怒鳴られた。


 リリアに静かに刺された。


 最終的に、北柵の近くで座ることになった。


 完全な休息ではない。


 だが、立ち続けるよりはましだ。


 ミナも交代で水を飲んだ。


 ハルトは重い桶を持たず、井戸前の指示に回った。


 ダリオは森を見た後、低い枝の位置を小さな板に残していた。


 絵は確かに上手くない。


 だが、どの枝の下に片目がいたかは分かった。


 小さな変化が、あちこちにある。


 相沢はそれを見ていた。


 全部がうまくいっているわけではない。


 食料は少ない。


 水も十分ではない。


 赤ゴブリンはまだいる。


 片目もいる。


 受け入れた避難民の置き場所は、これから揉める。


 持ち込んだ物も、まだほとんど使えていない。


 問題は山ほどある。


 それでも、村は止まっていない。


 その時、表示が浮かんだ。



【集落状態:

 夜間危機を暫定通過】


【人的損耗:

 死亡なし】


【食糧残量:

 要管理】


【水資源:

 制限運用中】


【外部避難民:

 受入済】


【運用未整備:

 寝床】

【運用未整備:

 水配分】

【運用未整備:

 労務分担】

【運用未整備:

 不満受付経路】


【本日重点:

 受入後運用】

【本日重点:

 食糧再配分】

【本日重点:

 休息管理】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 着座継続】



「着座継続」


 相沢は呟いた。


 ミナが横から覗く。


「オカン?」


「ああ」


「何て?」


「座ってろって」


「正しい」


「正しいな」


「今日は従う?」


「たぶん」


「信用できない」


「全員それ言うな」


 ミナは少し笑った。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 広場の向こうで、避難民と村人が少しずつ集まり始めている。


 もう、受け入れるかどうかの話ではない。


 受け入れた人たちと、どう一緒に回すか。


 その話し合いが近づいていた。


 相沢は朝の板を見る。


 寝床。


 食べ物。


 水。


 仕事。


 声。


 どれも軽くない。


 だが、話さなければならない。


 受け入れは終わった。


 だからこそ、ここからが始まる。


 善意だけでは、村は回らない。


 受け入れたなら、運用がいる。


 相沢は深く息を吐いた。


 そして、座ったまま言った。


「昼前に、置き場所を決めよう」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 村にか。


 避難民にか。


 ハルトにか。


 それとも。


 まだ森の奥で見ている赤い影にか。


 朝は来た。


 受け入れも終わった。


 だが、村が一つになるのは、まだこれからだった。

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