第八十六話 夜の続き
【土曜日 0:00/異世界・広場中央】
土の匂いだった。
次に、煙の匂い。
それから、冷えた空気。
相沢は目を開けた。
蛍光灯ではない。
火明かり。
天井ではない。
黒い空。
スマホの白い画面ではない。
焦げた木箱の板。
その前に、相沢は立っていた。
いや、立っていなかった。
膝が落ちた。
「ぐっ……」
土に手をつく。
鞄が肩からずり落ちる。
重い。
想像以上に重い。
日本の部屋では持てた。
だが、ここでは体の疲労がそのまま戻ってくる。
展示会三日分。
新幹線。
撤収。
寝不足。
全部を抱えたまま、異世界の夜に放り込まれた。
「誰だ!」
声。
槍が向く音。
足音。
相沢は顔を上げた。
火明かりの向こう。
ミナがいた。
立っていた。
広場に。
目を見開いている。
「……回し屋?」
その声は、信じていない声だった。
相沢は息を吸う。
「ミナ」
声がかすれた。
ミナの顔が変わる。
「回し屋!」
走りかけた。
途中で、止まった。
走らない。
早歩き。
自分でそう決めたのか。
相沢が言ったからか。
分からない。
だが、ミナは早歩きで来た。
それだけで、相沢は少しだけ安心した。
「本当に戻った……」
「ああ」
「何その荷物」
「持ち込み」
「何を」
「あとで」
「今、顔ひどい」
「それもあとで」
「座って」
「もう膝ついてる」
「じゃあ、ちゃんと座って」
ミナの言葉に、相沢は逆らえなかった。
その場に座る。
広場の土が冷たい。
だが、床ではない。
畳でもない。
ここは村だ。
戻った。
戻ってしまった。
◇
【土曜日 0:02/広場中央】
村は、まだ夜だった。
当然だ。
相沢が日本へ戻ったのは日曜の深夜。
そして、こちらへ戻ったのは土曜の0:00。
時間がどう流れているのか、完全には分からない。
だが、今見える村は夜の続きだった。
広場には火が残っている。
大きくはない。
ただ、消えてはいない。
木箱の板もある。
火。
水。
呼ぶ。
その三つの印が、まだ見えた。
乱れてはいる。
だが、消えていない。
板の横に小石が置かれている。
水の印の横には木片。
呼ぶ印の横には短い枝。
誰かが使った跡がある。
相沢はそれを見て、喉の奥が詰まった。
残っていた。
村は、相沢のいない間も板を使っていた。
「北は」
相沢が言う。
ミナが即答する。
「ガンツが見てる」
「火は」
「二回、小さいのが来た。消した」
「井戸」
「ハルトが見てる。水は減ったけど、残ってる」
「治療所」
「リリアさんがいる。倒れてない。でも寝てない」
「倉庫」
「マルタが怒ってる」
「いつも通りか」
「いつもより怒ってる」
「それは悪い知らせだな」
ミナは少しだけ笑った。
笑って、すぐに顔を引き締めた。
「赤いのは来てない」
「片目は?」
「見てる。たぶん森にいる」
「襲撃は」
「小さいのだけ。試してる感じ」
相沢は頷く。
試している。
赤ゴブリンはまだ学んでいる。
こちらも学んでいる。
勝ったわけではない。
夜が続いているだけだ。
◇
【土曜日 0:05/広場中央】
「その荷物」
ミナが鞄を見る。
「向こうから持ってきたの?」
「ああ」
「変な物ばっかり?」
「たぶん、そう見える」
「何が入ってるの」
「食べ物もある。でも、食料を増やすものじゃない」
「じゃあ何」
「食料を減らさないための物」
ミナは分かったような、分からないような顔をした。
相沢も、説明する体力が足りない。
鞄を開ける。
手が震える。
疲労か、緊張か。
たぶん両方だ。
チャック袋。
食品用ポリ袋。
ラップ。
ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
乾燥わかめ。
だしの素。
乾燥野菜スープ。
小さな食卓塩。
七瀬の飴。
火明かりの中に、現代の物が並ぶ。
異様だった。
村の土の上に置かれた透明な袋。
白いラベル。
プラスチックのスプーン。
小さな塩の容器。
相沢はすぐ、並べすぎたと思った。
見せすぎると人が寄る。
人が寄ると、揉める。
「ミナ」
「何」
「人を呼びすぎるな」
「分かった」
「マルタさんだけ」
「倉庫?」
「ああ」
「村長は?」
「あとで。まず倉庫」
ミナは頷いた。
「分かった。マルタさん呼ぶ。走らない」
「早歩きで」
「分かってる」
ミナは早歩きで倉庫へ向かった。
相沢は広げた物を見下ろす。
全部が貴重に見える。
だが、村の人間には価値が分からない物も多い。
価値が分からない物は、雑に扱われる。
価値が分かる物は、奪い合いになる。
どちらも危ない。
相沢は慌てて、塩を手元に引き寄せた。
塩は分かる。
だからこそ怖い。
マルタの声が蘇る。
◇
【土曜日 0:10/広場中央】
「戻ったって?」
太い声がした。
マルタだった。
肩に布をかけ、片手に木の棒を持っている。
杖ではない。
たぶん、倉庫の扉を押さえる棒だ。
相沢を見るなり、眉間に皺を寄せる。
「ひどい顔だね」
「よく言われます」
「言われるなら直しな」
「優先順位が低くて」
「殴るよ」
「戻ってすぐは勘弁してください」
マルタは鼻を鳴らした。
それから、地面に並んだ物を見た。
目が変わる。
怒鳴る顔ではない。
倉庫番の顔。
何が使えるか。
何が危ないか。
何が揉めるか。
それを見る目だ。
「これが持ってきた物かい」
「ああ」
「塩は」
相沢は小さな容器を手に取った。
「ある。ただ、少ない」
マルタの目が細くなる。
「見せな」
相沢は渡しかけて、止めた。
「まだ渡さない」
マルタは一瞬黙った。
それから、口の端を少しだけ上げた。
「分かってるじゃないか」
「言われたからな」
「開けたら終わりだよ」
「ああ」
「誰が使うか。
いつ使うか。
どれだけ使うか。
決める前に開けるんじゃない」
「そのために、これも持ってきた」
相沢は計量スプーンを出した。
小さい。
銀色ではない。
プラスチックの白。
マルタが怪訝そうに見る。
「何だい、それ」
「量を同じにする道具」
「匙か」
「似てる。ただ、毎回同じ量にしやすい」
「ふん」
マルタは計量スプーンを受け取り、火にかざした。
軽さに驚いたような顔をする。
「頼りないね」
「でも、水に濡れても腐りにくい」
「折れそうだ」
「折れるかもしれない」
「正直だね」
「だから、大事に使う」
マルタはしばらくスプーンを見ていた。
「塩は、今は開けない」
「同意」
「粥に入れるのも、病人用も、決めてから」
「同意」
「勝手に触ったやつは、私が殴る」
「それは……同意」
ミナが横で小さく笑った。
◇
【土曜日 0:16/広場中央】
マルタは次に袋を見た。
透明な袋。
チャック付き。
食品用ポリ袋。
ラップ。
どれも、この村にはない。
「これは?」
「食料を小分けにする袋」
「袋ならある」
「これは湿気を防ぎやすい。虫も入りにくい。中が見える」
「中が見える」
マルタはそこに反応した。
相沢は頷く。
「何が入っているか、開けずに見える」
「それはいい」
「ただし、破れる」
「駄目じゃないか」
「だから全部には使わない。大事なもの、湿らせたくないもの、間違えたくないものだけ」
マルタは袋を一枚持ち上げた。
火明かりが透ける。
向こう側の相沢の指が見える。
「変な袋だね」
「変な袋です」
「だが、使いどころはある」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「だから、マルタさんと決める」
マルタは相沢を見る。
少しだけ沈黙した。
「今のは、まあまあだ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「はい」
マルタは袋を地面に戻す。
「これは全部倉庫に入れるんじゃない」
「え?」
「倉庫に入れたら、みんな倉庫の物だと思う」
相沢は息を止めた。
その通りだった。
倉庫に入った瞬間、共同体の物になる。
それ自体は悪くない。
だが、使い方が決まっていなければ、管理が崩れる。
「最初は分ける」
マルタが言う。
「私が預かる物。
あんたが説明する物。
まだ見せない物」
相沢は頷いた。
「そうしよう」
「そうしよう、じゃない。そうするんだよ」
「はい」
マルタは満足そうに鼻を鳴らした。
◇
【土曜日 0:22/広場中央】
乾燥わかめを見た時、ミナが首を傾げた。
「これは草?」
「海の草みたいなもの」
「海?」
「大きな水の場所」
「池?」
「池より大きい」
「湖?」
「もっと大きい」
「意味分からない」
「俺も説明が下手だと思う」
マルタが袋を睨む。
「食えるのかい」
「食える」
「そのまま?」
「いや、水で戻す。粥に少し混ぜる」
「少し?」
「少し。増える」
「増える?」
マルタの目が鋭くなる。
相沢はすぐ訂正した。
「食料が増えるわけじゃない。水を吸って広がるだけ。腹をごまかす補助」
「味は」
「海の匂いがする。塩気も少し」
「強いのかい」
「入れすぎると強い」
「じゃあ、今は入れない」
「はい」
即答した。
マルタが相沢を見る。
「早いね」
「学んだので」
「誰に」
「マルタさんに」
「よし」
ミナがまた笑いかけて、慌てて口を閉じた。
相沢はだしの素も見せる。
「これは味をつける粉」
「粉か」
「少量で匂いと味が出る。ただ、使いすぎると濃い。塩も入ってる」
「なら、これも今は開けない」
「同意」
「開ける物がないじゃないか」
「そういう話になる」
マルタは少しだけ笑った。
初めて、まともに笑ったように見えた。
「持ってきたのに使わない」
「使うために、先に止める」
「変な男だね」
「よく言われます」
◇
【土曜日 0:29/広場中央】
最後に、飴が残った。
小さな個包装。
透明な袋越しに、色が見える。
ミナが目を留めた。
「これは?」
「甘いもの」
「甘い?」
「子供が好きそうなもの」
ミナの顔が変わった。
その瞬間、相沢は失敗しかけたと思った。
甘いもの。
子供。
避難民。
泣いていた子。
それだけで、配りたくなる。
だが、配ると揉める。
誰に渡す。
誰に渡さない。
なぜあの子だけ。
なぜ怪我人ではない。
なぜ見張りではない。
小さな飴一つで、村の空気は割れる。
「今は配らない」
相沢は言った。
ミナが顔を上げる。
「でも」
「分かる。でも、今は駄目だ」
マルタも頷いた。
「甘いものは、塩より揉めるよ」
「塩より?」
ミナが驚く。
「塩は飯になる。甘いものは、欲になる」
マルタの言葉は重かった。
相沢は飴の袋を見る。
七瀬がくれたもの。
顔が危ないから。
子供にも配れそうな顔をしていたから。
配るなら、ちゃんと考えて配ってください。
「これは、泣き止ませるために使うんじゃない」
相沢は言った。
「じゃあ何に使うの」
ミナが聞く。
「たぶん、動かないと危ない子に使う」
「動かないと危ない?」
「水を飲ませたい子。
薬を飲ませたい子。
怖くて口を開けない子。
そういう時の補助」
リリアに見せるべきだ。
相沢は思った。
これは倉庫ではなく、治療所側かもしれない。
だが、全部をリリアに渡すのも危ない。
管理はマルタ。
使う判断はリリア。
記録は誰か。
また役が増える。
「飴は、マルタさんが預かる。でも、使う時はリリアさんと相談」
相沢が言う。
マルタは頷いた。
「それがいい」
ミナも、少し遅れて頷く。
「分かった。子供に見せない方がいいね」
「そう」
「見せたら欲しがる」
「そう」
「欲しがったら、困る」
「そう」
ミナは飴の袋から目を逸らした。
それは、少し大人の顔だった。
◇
【土曜日 0:36/広場中央】
相沢は持ち込み品を三つに分けた。
今すぐ倉庫へ持っていく物。
説明してから使う物。
まだ見せない物。
マルタは一つずつ確認する。
「袋の一部と塩は私」
「塩は開けない」
「分かってる」
「計量スプーンも一緒に」
「これは塩の横」
「ラベルと油性ペンは?」
「あんたが説明するまで触らない」
「だしの素とわかめは?」
「試すまで開けない」
「飴は?」
「見せない。リリアと相談」
相沢は頷いた。
やっと、少し形になった。
持ってきた物が、ただの異物ではなく、村の中の場所を持ち始めた。
その時、視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【携行物確認:
完了】
【異物混入リスク:
中】
【管理未確定物:
多数】
【推奨:
分類】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
極めて高】
【推奨:
着座】
⸻
「もう座ってる」
相沢は呟いた。
ミナがすぐ反応する。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「分類しろ。あと座れ」
「座ってるね」
「座ってる」
「寝ろとは言わないの?」
「たぶん、表示されたら俺が無視するから」
ミナは眉を寄せた。
「寝て」
「無理だ」
「言うと思った」
「なら言うな」
「言わないと腹立つから」
同じような会話。
それが、少しだけ嬉しかった。
戻ってきた。
夜は続いている。
だが、会話も続いている。
◇
【土曜日 0:43/北柵】
ガンツが来たのは、その少し後だった。
北柵を離れてはいない。
伝令が走ったのだろう。
いや、早歩きで呼びに行ったのかもしれない。
ガンツは広場の端に立ち、相沢を見る。
「戻ったか」
「ああ」
「死んでねぇな」
「そっちもな」
「俺は死なねぇ」
「言い切るな」
「言い切るために立ってる」
相沢は少しだけ笑った。
ガンツはその顔を見る。
「ひどい顔だな」
「今日だけで何回言われるんだ」
「寝てねぇ顔だ」
「寝てない」
「馬鹿か」
「仕事だった」
「知らん」
「そうだな」
ガンツは鞄を見る。
「武器か?」
「違う」
「食い物か?」
「少し」
「なら倉庫だな」
「マルタさんと決めてる」
「ならいい」
即答だった。
ガンツはマルタの管理能力を疑っていない。
相沢も、そこは同じだった。
「北は?」
相沢が聞く。
「静かだ」
「静かすぎる?」
「そうだ」
「赤は」
「見てる気がする」
「片目は」
「一度、木の間に見えた。弓のやつが気づいた」
「ダリオか」
「ああ。目はいい」
ダリオ。
弓。
短剣。
森を見る役。
相沢は頷く。
「ダリオを呼べるか」
「今か」
「いや、後でいい。まず休ませてるなら休ませる」
「休んではいねぇ」
「だよな」
「お前もだ」
「分かってる」
「分かってねぇ顔だ」
相沢は返せなかった。
ガンツは少しだけ目を細める。
「戻ってすぐで悪いが」
「何だ」
「朝まで、まだ長い」
相沢は広場の火を見る。
火は小さい。
だが、まだ燃えている。
朝は来ていない。
夜は続いている。
「分かった」
「分かるな。座れ」
「座ってる」
「なら、立つな」
ガンツはそれだけ言って、北へ戻った。
背中が広い。
前を見る背中だった。
◇
【土曜日 0:51/広場中央】
村長が来た。
リリアも来た。
リリアは相沢を見るなり、眉をひそめた。
「アイザワ殿」
「はい」
「座っていますね」
「はい」
「それは良いです」
「褒められた」
「ですが、顔色は良くありません」
「よく言われます」
「言われる数を誇らないでください」
「すみません」
リリアは膝をつき、相沢の手首に触れた。
脈を見る。
相沢は少しだけ動きを止めた。
現代では、七瀬に水を飲まされる。
異世界では、リリアに脈を取られる。
逃げ場がない。
「熱はありません」
「よかった」
「良くはありません。疲労が強いです」
「分かりますか」
「見れば分かります」
「顔ですか」
「顔もです」
リリアは静かに言った。
「声も、手も、座り方もです」
相沢は黙った。
見られている。
七瀬も見る。
リリアも見る。
見る人が増えている。
ありがたい。
逃げにくい。
「アイザワ殿」
「はい」
「戻ってくださったことは、助かります」
「はい」
「ですが、倒れられると困ります」
「はい」
「なので、今すぐ全部を見ようとしないでください」
相沢は返事に詰まった。
リリアは、まっすぐ刺してくる。
静かに。
正確に。
「……努力します」
「その返事は信用しません」
「それもよく言われます」
「では、改善してください」
ミナが横で小さく頷いている。
マルタも頷いている。
村長まで頷いていた。
相沢は軽く包囲されていた。
◇
【土曜日 1:03/広場中央】
村長は、相沢が持ってきた物を見て、深く息を吐いた。
「これらが、アイザワ殿のいた場所の品ですか」
「一部です」
「ずいぶん、不思議ですな」
「便利です。でも、使い方を間違えると揉めます」
「では、まず使い方を決める」
「はい」
村長は頷いた。
「マルタ」
「塩は私が預かる。開けないよ」
「よろしい」
「袋も一部だけ。全部は出さない」
「よろしい」
「甘いものは、リリアと相談して使う」
村長がリリアを見る。
リリアは飴を見る。
「薬を飲ませる時に使えるかもしれません」
「ただし、見せたら欲しがる」
マルタが言う。
「なら、見せません」
リリアの返事は早かった。
相沢は少しだけ安心した。
早い。
この村は、以前より判断が早い。
相沢にとっては数日ぶり。
村にとっては夜の続き。
それでも、変わっている。
「アイザワ殿」
村長が言う。
「戻って早々に申し訳ありませんが、状況をお伝えします」
「お願いします」
「避難民十二名は、全員生きております」
相沢は息を止めた。
全員。
「ただし、二名は熱が出ております」
リリアが続ける。
「煙を吸った子と、足の傷が深い男です」
「水は」
相沢が聞く。
ハルトが少し離れた場所から答えた。
「残ってる。でも少ない」
「井戸は使える?」
「使える。けど、夜に人を寄せすぎないようにしてる」
「木片は」
「戻してる」
「よし」
ハルトは少しだけ顎を引いた。
守られるだけの顔ではなかった。
水場を任されてきた大人の顔だった。
「食料は」
相沢が聞く。
マルタが答える。
「朝に数える。今は触ってない」
「今、数えない?」
「暗い。間違える。朝でいい」
相沢は頷いた。
「その判断がいい」
「当たり前だよ」
「俺なら数えたくなってました」
「だろうね」
マルタは容赦なく言った。
◇
【土曜日 1:17/広場中央】
広場の板に、新しい印が増えそうになった。
村長が、相沢の持ち込んだ物を直接書き込もうとしたのを、マルタが止めた。
「夜の板に増やすんじゃないよ」
「しかし、記録は必要です」
「朝の板に書く。今の板は、火、水、呼ぶ」
相沢は思わずマルタを見た。
正しい。
あまりにも正しい。
夜の板は増やさない。
今見るべきものを増やしすぎると、村が迷う。
「マルタさん」
「何だい」
「今の、すごく助かる」
「私は倉庫番だよ。混ぜるなって言ってるだけさ」
「それが助かる」
マルタは少しだけ照れたように鼻を鳴らした。
「変な褒め方するね」
「よく言われます」
「誰に」
「最近、いろんな人に」
ミナが笑った。
リリアも、少しだけ目元を緩めた。
その空気が、一瞬だけ広場を軽くした。
だが、すぐに北から音がした。
枝が折れる音。
広場の全員が、同時にそちらを見そうになる。
「東と広場、そのまま!」
ミナが叫んだ。
相沢より早かった。
声が通る。
人が止まる。
見る場所を持っている人間だけが、北を見る。
それ以外は、動かない。
相沢は動きかけて、止まった。
ミナが見ている。
ガンツが前にいる。
ダリオが森を見る。
今、相沢が走る場所ではない。
相沢は座ったまま、拳を握った。
◇
【土曜日 1:20/北柵】
伝令が来た。
若い村人。
息は荒いが、走りすぎてはいない。
早歩きと小走りの間。
自分で抑えたのが分かる。
「北、影!」
ミナが聞く。
「数は!」
「三つ!」
「火は!」
「なし!」
「音は!」
「低い! でも近づいてない!」
聞き方が変わっている。
返し方も変わっている。
相沢は、それを聞くだけで状況が少し見えた。
影三つ。
火なし。
音あり。
近づかない。
試している。
ミナが相沢を見る。
判断を求める目ではない。
確認の目だ。
「追わない」
ミナが先に言った。
相沢は頷く。
「追わない」
「北はガンツ」
「広場はミナ」
「倉庫はマルタ」
「治療所はリリア」
「井戸はハルト」
ミナは一つずつ確認した。
村が小さく応える。
「北は俺だ!」
遠くからガンツの声。
「倉庫はこっちだよ!」
マルタ。
「治療所、変化ありません!」
リリア。
「井戸、詰まってない!」
ハルト。
声が返る。
相沢は広場の板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
それだけで、まだ回っている。
相沢の胸の奥に、熱いものが来た。
自分がいなくても。
戻ってきても。
村は、少しだけ自分たちで回っている。
◇
【土曜日 1:32/広場中央】
北の影は、それ以上近づかなかった。
音も遠のいた。
赤ゴブリンか。
片目か。
ただの斥候か。
分からない。
だが、村は崩れなかった。
誰も一斉に走らなかった。
倉庫にも、井戸にも、人が殺到しなかった。
その事実が、何より大きい。
相沢は座ったまま、深く息を吐いた。
その瞬間、疲れが一気に戻ってきた。
視界が少し揺れる。
リリアがすぐ気づいた。
「アイザワ殿」
「大丈夫」
「信用しません」
「早い」
「横になってください」
「今?」
「今です」
七瀬と同じ言い方だった。
相沢は反論しようとして、言葉を失った。
ミナが腕を組む。
「寝て」
マルタも言う。
「寝な」
村長まで言う。
「アイザワ殿、今は村が見ます」
その言葉が、一番効いた。
今は村が見ます。
相沢は広場を見る。
ミナ。
マルタ。
リリア。
ハルト。
村長。
北にはガンツ。
森にはダリオ。
全員が完璧ではない。
だが、場所にいる。
役にいる。
相沢だけが全部を見る必要はない。
「……分かった」
相沢は言った。
ミナが目を丸くする。
「素直」
「今、驚くな」
「だって」
「俺も驚いてる」
相沢は、リリアに支えられながら立ち上がった。
鞄はマルタが持つ。
「これは私が預かる」
「中身を」
「開けないよ。決める前にはね」
「頼みます」
「頼まれた」
マルタは短く答えた。
◇
【土曜日 1:46/治療所前】
治療所の前に、相沢用の場所が作られた。
中ではない。
中は病人と怪我人がいる。
相沢は、入口横の壁にもたれる形で座らされた。
横になるほどではない。
だが、動けない位置。
見えるが、走れない位置。
リリアの判断だった。
「ここなら、見えます」
「はい」
「ですが、すぐ走れません」
「はい」
「そこが良いです」
「分かりやすい」
リリアは薄い布を相沢にかけた。
「少し眠ってください」
「眠れるかな」
「目を閉じるだけでも」
「はい」
治療所の中から、小さな咳が聞こえる。
避難民の子供か。
相沢は目を開けたまま、そちらを見る。
「アイザワ殿」
「はい」
「今、見るのは私です」
リリアが言った。
静かな声。
だが、強い。
相沢は息を吐く。
「お願いします」
「はい」
リリアは少しだけ頷いた。
相沢は目を閉じる。
暗い。
すぐに眠れるわけではない。
頭の中には、まだ火、水、呼ぶが残っている。
その横に、袋。
塩。
飴。
守るため。
増やすためではない。
そして、もう一つ。
村が見ます。
その言葉が、ゆっくり沈んでいく。
◇
【土曜日 2:03/治療所前】
相沢は眠っていなかった。
だが、目は閉じていた。
呼吸は少しだけ整った。
その耳に、村の声が届く。
「北、変化なし」
「井戸、問題なし」
「倉庫、閉めたよ」
「治療所、熱一人」
「火、弱い。薪足す?」
「少しだけ」
「呼ぶ人、交代」
「走るなよ」
「分かってる」
声が細くつながっている。
相沢を通っていない。
村の中で、声が回っている。
それは完璧ではない。
たぶん、抜けもある。
間違いも起きる。
でも、回っている。
相沢は目を閉じたまま、少しだけ笑いそうになった。
その時、視界の端に表示が浮かんだ。
目を閉じているのに、見える。
⸻
【集落運用:
夜間継続中】
【外部持込品:
仮管理】
【依存率:
低下傾向】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
限界域】
【推奨:
睡眠】
⸻
相沢は声に出さずに思った。
分かってる。
今度は、少しだけ従えそうだった。
遠くで、ガンツの声がした。
「北、見る」
ミナの声が返る。
「広場、見る」
マルタの声。
「倉庫、触らせない」
リリアの声。
「治療所、見ます」
ハルトの声。
「井戸、見る」
火明かりが、まぶたの裏で揺れる。
相沢は、ようやく意識を手放した。
夜はまだ終わっていない。
だが、今度は相沢一人の夜ではなかった。
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