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第八十六話 夜の続き

【土曜日 0:00/異世界・広場中央】


 土の匂いだった。


 次に、煙の匂い。


 それから、冷えた空気。


 相沢は目を開けた。


 蛍光灯ではない。


 火明かり。


 天井ではない。


 黒い空。


 スマホの白い画面ではない。


 焦げた木箱の板。


 その前に、相沢は立っていた。


 いや、立っていなかった。


 膝が落ちた。


「ぐっ……」


 土に手をつく。


 鞄が肩からずり落ちる。


 重い。


 想像以上に重い。


 日本の部屋では持てた。


 だが、ここでは体の疲労がそのまま戻ってくる。


 展示会三日分。


 新幹線。


 撤収。


 寝不足。


 全部を抱えたまま、異世界の夜に放り込まれた。


「誰だ!」


 声。


 槍が向く音。


 足音。


 相沢は顔を上げた。


 火明かりの向こう。


 ミナがいた。


 立っていた。


 広場に。


 目を見開いている。


「……回し屋?」


 その声は、信じていない声だった。


 相沢は息を吸う。


「ミナ」


 声がかすれた。


 ミナの顔が変わる。


「回し屋!」


 走りかけた。


 途中で、止まった。


 走らない。


 早歩き。


 自分でそう決めたのか。


 相沢が言ったからか。


 分からない。


 だが、ミナは早歩きで来た。


 それだけで、相沢は少しだけ安心した。


「本当に戻った……」


「ああ」


「何その荷物」


「持ち込み」


「何を」


「あとで」


「今、顔ひどい」


「それもあとで」


「座って」


「もう膝ついてる」


「じゃあ、ちゃんと座って」


 ミナの言葉に、相沢は逆らえなかった。


 その場に座る。


 広場の土が冷たい。


 だが、床ではない。


 畳でもない。


 ここは村だ。


 戻った。


 戻ってしまった。


     ◇


【土曜日 0:02/広場中央】


 村は、まだ夜だった。


 当然だ。


 相沢が日本へ戻ったのは日曜の深夜。


 そして、こちらへ戻ったのは土曜の0:00。


 時間がどう流れているのか、完全には分からない。


 だが、今見える村は夜の続きだった。


 広場には火が残っている。


 大きくはない。


 ただ、消えてはいない。


 木箱の板もある。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 その三つの印が、まだ見えた。


 乱れてはいる。


 だが、消えていない。


 板の横に小石が置かれている。


 水の印の横には木片。


 呼ぶ印の横には短い枝。


 誰かが使った跡がある。


 相沢はそれを見て、喉の奥が詰まった。


 残っていた。


 村は、相沢のいない間も板を使っていた。


「北は」


 相沢が言う。


 ミナが即答する。


「ガンツが見てる」


「火は」


「二回、小さいのが来た。消した」


「井戸」


「ハルトが見てる。水は減ったけど、残ってる」


「治療所」


「リリアさんがいる。倒れてない。でも寝てない」


「倉庫」


「マルタが怒ってる」


「いつも通りか」


「いつもより怒ってる」


「それは悪い知らせだな」


 ミナは少しだけ笑った。


 笑って、すぐに顔を引き締めた。


「赤いのは来てない」


「片目は?」


「見てる。たぶん森にいる」


「襲撃は」


「小さいのだけ。試してる感じ」


 相沢は頷く。


 試している。


 赤ゴブリンはまだ学んでいる。


 こちらも学んでいる。


 勝ったわけではない。


 夜が続いているだけだ。


     ◇


【土曜日 0:05/広場中央】


「その荷物」


 ミナが鞄を見る。


「向こうから持ってきたの?」


「ああ」


「変な物ばっかり?」


「たぶん、そう見える」


「何が入ってるの」


「食べ物もある。でも、食料を増やすものじゃない」


「じゃあ何」


「食料を減らさないための物」


 ミナは分かったような、分からないような顔をした。


 相沢も、説明する体力が足りない。


 鞄を開ける。


 手が震える。


 疲労か、緊張か。


 たぶん両方だ。


 チャック袋。


 食品用ポリ袋。


 ラップ。


 ラベル。


 油性ペン。


 計量スプーン。


 乾燥わかめ。


 だしの素。


 乾燥野菜スープ。


 小さな食卓塩。


 七瀬の飴。


 火明かりの中に、現代の物が並ぶ。


 異様だった。


 村の土の上に置かれた透明な袋。


 白いラベル。


 プラスチックのスプーン。


 小さな塩の容器。


 相沢はすぐ、並べすぎたと思った。


 見せすぎると人が寄る。


 人が寄ると、揉める。


「ミナ」


「何」


「人を呼びすぎるな」


「分かった」


「マルタさんだけ」


「倉庫?」


「ああ」


「村長は?」


「あとで。まず倉庫」


 ミナは頷いた。


「分かった。マルタさん呼ぶ。走らない」


「早歩きで」


「分かってる」


 ミナは早歩きで倉庫へ向かった。


 相沢は広げた物を見下ろす。


 全部が貴重に見える。


 だが、村の人間には価値が分からない物も多い。


 価値が分からない物は、雑に扱われる。


 価値が分かる物は、奪い合いになる。


 どちらも危ない。


 相沢は慌てて、塩を手元に引き寄せた。


 塩は分かる。


 だからこそ怖い。


 マルタの声が蘇る。


     ◇


【土曜日 0:10/広場中央】


「戻ったって?」


 太い声がした。


 マルタだった。


 肩に布をかけ、片手に木の棒を持っている。


 杖ではない。


 たぶん、倉庫の扉を押さえる棒だ。


 相沢を見るなり、眉間に皺を寄せる。


「ひどい顔だね」


「よく言われます」


「言われるなら直しな」


「優先順位が低くて」


「殴るよ」


「戻ってすぐは勘弁してください」


 マルタは鼻を鳴らした。


 それから、地面に並んだ物を見た。


 目が変わる。


 怒鳴る顔ではない。


 倉庫番の顔。


 何が使えるか。


 何が危ないか。


 何が揉めるか。


 それを見る目だ。


「これが持ってきた物かい」


「ああ」


「塩は」


 相沢は小さな容器を手に取った。


「ある。ただ、少ない」


 マルタの目が細くなる。


「見せな」


 相沢は渡しかけて、止めた。


「まだ渡さない」


 マルタは一瞬黙った。


 それから、口の端を少しだけ上げた。


「分かってるじゃないか」


「言われたからな」


「開けたら終わりだよ」


「ああ」


「誰が使うか。

 いつ使うか。

 どれだけ使うか。

 決める前に開けるんじゃない」


「そのために、これも持ってきた」


 相沢は計量スプーンを出した。


 小さい。


 銀色ではない。


 プラスチックの白。


 マルタが怪訝そうに見る。


「何だい、それ」


「量を同じにする道具」


「匙か」


「似てる。ただ、毎回同じ量にしやすい」


「ふん」


 マルタは計量スプーンを受け取り、火にかざした。


 軽さに驚いたような顔をする。


「頼りないね」


「でも、水に濡れても腐りにくい」


「折れそうだ」


「折れるかもしれない」


「正直だね」


「だから、大事に使う」


 マルタはしばらくスプーンを見ていた。


「塩は、今は開けない」


「同意」


「粥に入れるのも、病人用も、決めてから」


「同意」


「勝手に触ったやつは、私が殴る」


「それは……同意」


 ミナが横で小さく笑った。


     ◇


【土曜日 0:16/広場中央】


 マルタは次に袋を見た。


 透明な袋。


 チャック付き。


 食品用ポリ袋。


 ラップ。


 どれも、この村にはない。


「これは?」


「食料を小分けにする袋」


「袋ならある」


「これは湿気を防ぎやすい。虫も入りにくい。中が見える」


「中が見える」


 マルタはそこに反応した。


 相沢は頷く。


「何が入っているか、開けずに見える」


「それはいい」


「ただし、破れる」


「駄目じゃないか」


「だから全部には使わない。大事なもの、湿らせたくないもの、間違えたくないものだけ」


 マルタは袋を一枚持ち上げた。


 火明かりが透ける。


 向こう側の相沢の指が見える。


「変な袋だね」


「変な袋です」


「だが、使いどころはある」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


「だから、マルタさんと決める」


 マルタは相沢を見る。


 少しだけ沈黙した。


「今のは、まあまあだ」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


「はい」


 マルタは袋を地面に戻す。


「これは全部倉庫に入れるんじゃない」


「え?」


「倉庫に入れたら、みんな倉庫の物だと思う」


 相沢は息を止めた。


 その通りだった。


 倉庫に入った瞬間、共同体の物になる。


 それ自体は悪くない。


 だが、使い方が決まっていなければ、管理が崩れる。


「最初は分ける」


 マルタが言う。


「私が預かる物。

 あんたが説明する物。

 まだ見せない物」


 相沢は頷いた。


「そうしよう」


「そうしよう、じゃない。そうするんだよ」


「はい」


 マルタは満足そうに鼻を鳴らした。


     ◇


【土曜日 0:22/広場中央】


 乾燥わかめを見た時、ミナが首を傾げた。


「これは草?」


「海の草みたいなもの」


「海?」


「大きな水の場所」


「池?」


「池より大きい」


「湖?」


「もっと大きい」


「意味分からない」


「俺も説明が下手だと思う」


 マルタが袋を睨む。


「食えるのかい」


「食える」


「そのまま?」


「いや、水で戻す。粥に少し混ぜる」


「少し?」


「少し。増える」


「増える?」


 マルタの目が鋭くなる。


 相沢はすぐ訂正した。


「食料が増えるわけじゃない。水を吸って広がるだけ。腹をごまかす補助」


「味は」


「海の匂いがする。塩気も少し」


「強いのかい」


「入れすぎると強い」


「じゃあ、今は入れない」


「はい」


 即答した。


 マルタが相沢を見る。


「早いね」


「学んだので」


「誰に」


「マルタさんに」


「よし」


 ミナがまた笑いかけて、慌てて口を閉じた。


 相沢はだしの素も見せる。


「これは味をつける粉」


「粉か」


「少量で匂いと味が出る。ただ、使いすぎると濃い。塩も入ってる」


「なら、これも今は開けない」


「同意」


「開ける物がないじゃないか」


「そういう話になる」


 マルタは少しだけ笑った。


 初めて、まともに笑ったように見えた。


「持ってきたのに使わない」


「使うために、先に止める」


「変な男だね」


「よく言われます」


     ◇


【土曜日 0:29/広場中央】


 最後に、飴が残った。


 小さな個包装。


 透明な袋越しに、色が見える。


 ミナが目を留めた。


「これは?」


「甘いもの」


「甘い?」


「子供が好きそうなもの」


 ミナの顔が変わった。


 その瞬間、相沢は失敗しかけたと思った。


 甘いもの。


 子供。


 避難民。


 泣いていた子。


 それだけで、配りたくなる。


 だが、配ると揉める。


 誰に渡す。


 誰に渡さない。


 なぜあの子だけ。


 なぜ怪我人ではない。


 なぜ見張りではない。


 小さな飴一つで、村の空気は割れる。


「今は配らない」


 相沢は言った。


 ミナが顔を上げる。


「でも」


「分かる。でも、今は駄目だ」


 マルタも頷いた。


「甘いものは、塩より揉めるよ」


「塩より?」


 ミナが驚く。


「塩は飯になる。甘いものは、欲になる」


 マルタの言葉は重かった。


 相沢は飴の袋を見る。


 七瀬がくれたもの。


 顔が危ないから。


 子供にも配れそうな顔をしていたから。


 配るなら、ちゃんと考えて配ってください。


「これは、泣き止ませるために使うんじゃない」


 相沢は言った。


「じゃあ何に使うの」


 ミナが聞く。


「たぶん、動かないと危ない子に使う」


「動かないと危ない?」


「水を飲ませたい子。

 薬を飲ませたい子。

 怖くて口を開けない子。

 そういう時の補助」


 リリアに見せるべきだ。


 相沢は思った。


 これは倉庫ではなく、治療所側かもしれない。


 だが、全部をリリアに渡すのも危ない。


 管理はマルタ。


 使う判断はリリア。


 記録は誰か。


 また役が増える。


「飴は、マルタさんが預かる。でも、使う時はリリアさんと相談」


 相沢が言う。


 マルタは頷いた。


「それがいい」


 ミナも、少し遅れて頷く。


「分かった。子供に見せない方がいいね」


「そう」


「見せたら欲しがる」


「そう」


「欲しがったら、困る」


「そう」


 ミナは飴の袋から目を逸らした。


 それは、少し大人の顔だった。


     ◇


【土曜日 0:36/広場中央】


 相沢は持ち込み品を三つに分けた。


 今すぐ倉庫へ持っていく物。


 説明してから使う物。


 まだ見せない物。


 マルタは一つずつ確認する。


「袋の一部と塩は私」


「塩は開けない」


「分かってる」


「計量スプーンも一緒に」


「これは塩の横」


「ラベルと油性ペンは?」


「あんたが説明するまで触らない」


「だしの素とわかめは?」


「試すまで開けない」


「飴は?」


「見せない。リリアと相談」


 相沢は頷いた。


 やっと、少し形になった。


 持ってきた物が、ただの異物ではなく、村の中の場所を持ち始めた。


 その時、視界の端に表示が浮かぶ。



【携行物確認:

 完了】


【異物混入リスク:

 中】


【管理未確定物:

 多数】


【推奨:

 分類】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 極めて高】


【推奨:

 着座】



「もう座ってる」


 相沢は呟いた。


 ミナがすぐ反応する。


「オカン?」


「ああ」


「何て?」


「分類しろ。あと座れ」


「座ってるね」


「座ってる」


「寝ろとは言わないの?」


「たぶん、表示されたら俺が無視するから」


 ミナは眉を寄せた。


「寝て」


「無理だ」


「言うと思った」


「なら言うな」


「言わないと腹立つから」


 同じような会話。


 それが、少しだけ嬉しかった。


 戻ってきた。


 夜は続いている。


 だが、会話も続いている。


     ◇


【土曜日 0:43/北柵】


 ガンツが来たのは、その少し後だった。


 北柵を離れてはいない。


 伝令が走ったのだろう。


 いや、早歩きで呼びに行ったのかもしれない。


 ガンツは広場の端に立ち、相沢を見る。


「戻ったか」


「ああ」


「死んでねぇな」


「そっちもな」


「俺は死なねぇ」


「言い切るな」


「言い切るために立ってる」


 相沢は少しだけ笑った。


 ガンツはその顔を見る。


「ひどい顔だな」


「今日だけで何回言われるんだ」


「寝てねぇ顔だ」


「寝てない」


「馬鹿か」


「仕事だった」


「知らん」


「そうだな」


 ガンツは鞄を見る。


「武器か?」


「違う」


「食い物か?」


「少し」


「なら倉庫だな」


「マルタさんと決めてる」


「ならいい」


 即答だった。


 ガンツはマルタの管理能力を疑っていない。


 相沢も、そこは同じだった。


「北は?」


 相沢が聞く。


「静かだ」


「静かすぎる?」


「そうだ」


「赤は」


「見てる気がする」


「片目は」


「一度、木の間に見えた。弓のやつが気づいた」


「ダリオか」


「ああ。目はいい」


 ダリオ。


 弓。


 短剣。


 森を見る役。


 相沢は頷く。


「ダリオを呼べるか」


「今か」


「いや、後でいい。まず休ませてるなら休ませる」


「休んではいねぇ」


「だよな」


「お前もだ」


「分かってる」


「分かってねぇ顔だ」


 相沢は返せなかった。


 ガンツは少しだけ目を細める。


「戻ってすぐで悪いが」


「何だ」


「朝まで、まだ長い」


 相沢は広場の火を見る。


 火は小さい。


 だが、まだ燃えている。


 朝は来ていない。


 夜は続いている。


「分かった」


「分かるな。座れ」


「座ってる」


「なら、立つな」


 ガンツはそれだけ言って、北へ戻った。


 背中が広い。


 前を見る背中だった。


     ◇


【土曜日 0:51/広場中央】


 村長が来た。


 リリアも来た。


 リリアは相沢を見るなり、眉をひそめた。


「アイザワ殿」


「はい」


「座っていますね」


「はい」


「それは良いです」


「褒められた」


「ですが、顔色は良くありません」


「よく言われます」


「言われる数を誇らないでください」


「すみません」


 リリアは膝をつき、相沢の手首に触れた。


 脈を見る。


 相沢は少しだけ動きを止めた。


 現代では、七瀬に水を飲まされる。


 異世界では、リリアに脈を取られる。


 逃げ場がない。


「熱はありません」


「よかった」


「良くはありません。疲労が強いです」


「分かりますか」


「見れば分かります」


「顔ですか」


「顔もです」


 リリアは静かに言った。


「声も、手も、座り方もです」


 相沢は黙った。


 見られている。


 七瀬も見る。


 リリアも見る。


 見る人が増えている。


 ありがたい。


 逃げにくい。


「アイザワ殿」


「はい」


「戻ってくださったことは、助かります」


「はい」


「ですが、倒れられると困ります」


「はい」


「なので、今すぐ全部を見ようとしないでください」


 相沢は返事に詰まった。


 リリアは、まっすぐ刺してくる。


 静かに。


 正確に。


「……努力します」


「その返事は信用しません」


「それもよく言われます」


「では、改善してください」


 ミナが横で小さく頷いている。


 マルタも頷いている。


 村長まで頷いていた。


 相沢は軽く包囲されていた。


     ◇


【土曜日 1:03/広場中央】


 村長は、相沢が持ってきた物を見て、深く息を吐いた。


「これらが、アイザワ殿のいた場所の品ですか」


「一部です」


「ずいぶん、不思議ですな」


「便利です。でも、使い方を間違えると揉めます」


「では、まず使い方を決める」


「はい」


 村長は頷いた。


「マルタ」


「塩は私が預かる。開けないよ」


「よろしい」


「袋も一部だけ。全部は出さない」


「よろしい」


「甘いものは、リリアと相談して使う」


 村長がリリアを見る。


 リリアは飴を見る。


「薬を飲ませる時に使えるかもしれません」


「ただし、見せたら欲しがる」


 マルタが言う。


「なら、見せません」


 リリアの返事は早かった。


 相沢は少しだけ安心した。


 早い。


 この村は、以前より判断が早い。


 相沢にとっては数日ぶり。


 村にとっては夜の続き。


 それでも、変わっている。


「アイザワ殿」


 村長が言う。


「戻って早々に申し訳ありませんが、状況をお伝えします」


「お願いします」


「避難民十二名は、全員生きております」


 相沢は息を止めた。


 全員。


「ただし、二名は熱が出ております」


 リリアが続ける。


「煙を吸った子と、足の傷が深い男です」


「水は」


 相沢が聞く。


 ハルトが少し離れた場所から答えた。


「残ってる。でも少ない」


「井戸は使える?」


「使える。けど、夜に人を寄せすぎないようにしてる」


「木片は」


「戻してる」


「よし」


 ハルトは少しだけ顎を引いた。


 守られるだけの顔ではなかった。


 水場を任されてきた大人の顔だった。


「食料は」


 相沢が聞く。


 マルタが答える。


「朝に数える。今は触ってない」


「今、数えない?」


「暗い。間違える。朝でいい」


 相沢は頷いた。


「その判断がいい」


「当たり前だよ」


「俺なら数えたくなってました」


「だろうね」


 マルタは容赦なく言った。


     ◇


【土曜日 1:17/広場中央】


 広場の板に、新しい印が増えそうになった。


 村長が、相沢の持ち込んだ物を直接書き込もうとしたのを、マルタが止めた。


「夜の板に増やすんじゃないよ」


「しかし、記録は必要です」


「朝の板に書く。今の板は、火、水、呼ぶ」


 相沢は思わずマルタを見た。


 正しい。


 あまりにも正しい。


 夜の板は増やさない。


 今見るべきものを増やしすぎると、村が迷う。


「マルタさん」


「何だい」


「今の、すごく助かる」


「私は倉庫番だよ。混ぜるなって言ってるだけさ」


「それが助かる」


 マルタは少しだけ照れたように鼻を鳴らした。


「変な褒め方するね」


「よく言われます」


「誰に」


「最近、いろんな人に」


 ミナが笑った。


 リリアも、少しだけ目元を緩めた。


 その空気が、一瞬だけ広場を軽くした。


 だが、すぐに北から音がした。


 枝が折れる音。


 広場の全員が、同時にそちらを見そうになる。


「東と広場、そのまま!」


 ミナが叫んだ。


 相沢より早かった。


 声が通る。


 人が止まる。


 見る場所を持っている人間だけが、北を見る。


 それ以外は、動かない。


 相沢は動きかけて、止まった。


 ミナが見ている。


 ガンツが前にいる。


 ダリオが森を見る。


 今、相沢が走る場所ではない。


 相沢は座ったまま、拳を握った。


     ◇


【土曜日 1:20/北柵】


 伝令が来た。


 若い村人。


 息は荒いが、走りすぎてはいない。


 早歩きと小走りの間。


 自分で抑えたのが分かる。


「北、影!」


 ミナが聞く。


「数は!」


「三つ!」


「火は!」


「なし!」


「音は!」


「低い! でも近づいてない!」


 聞き方が変わっている。


 返し方も変わっている。


 相沢は、それを聞くだけで状況が少し見えた。


 影三つ。


 火なし。


 音あり。


 近づかない。


 試している。


 ミナが相沢を見る。


 判断を求める目ではない。


 確認の目だ。


「追わない」


 ミナが先に言った。


 相沢は頷く。


「追わない」


「北はガンツ」


「広場はミナ」


「倉庫はマルタ」


「治療所はリリア」


「井戸はハルト」


 ミナは一つずつ確認した。


 村が小さく応える。


「北は俺だ!」


 遠くからガンツの声。


「倉庫はこっちだよ!」


 マルタ。


「治療所、変化ありません!」


 リリア。


「井戸、詰まってない!」


 ハルト。


 声が返る。


 相沢は広場の板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 それだけで、まだ回っている。


 相沢の胸の奥に、熱いものが来た。


 自分がいなくても。


 戻ってきても。


 村は、少しだけ自分たちで回っている。


     ◇


【土曜日 1:32/広場中央】


 北の影は、それ以上近づかなかった。


 音も遠のいた。


 赤ゴブリンか。


 片目か。


 ただの斥候か。


 分からない。


 だが、村は崩れなかった。


 誰も一斉に走らなかった。


 倉庫にも、井戸にも、人が殺到しなかった。


 その事実が、何より大きい。


 相沢は座ったまま、深く息を吐いた。


 その瞬間、疲れが一気に戻ってきた。


 視界が少し揺れる。


 リリアがすぐ気づいた。


「アイザワ殿」


「大丈夫」


「信用しません」


「早い」


「横になってください」


「今?」


「今です」


 七瀬と同じ言い方だった。


 相沢は反論しようとして、言葉を失った。


 ミナが腕を組む。


「寝て」


 マルタも言う。


「寝な」


 村長まで言う。


「アイザワ殿、今は村が見ます」


 その言葉が、一番効いた。


 今は村が見ます。


 相沢は広場を見る。


 ミナ。


 マルタ。


 リリア。


 ハルト。


 村長。


 北にはガンツ。


 森にはダリオ。


 全員が完璧ではない。


 だが、場所にいる。


 役にいる。


 相沢だけが全部を見る必要はない。


「……分かった」


 相沢は言った。


 ミナが目を丸くする。


「素直」


「今、驚くな」


「だって」


「俺も驚いてる」


 相沢は、リリアに支えられながら立ち上がった。


 鞄はマルタが持つ。


「これは私が預かる」


「中身を」


「開けないよ。決める前にはね」


「頼みます」


「頼まれた」


 マルタは短く答えた。


     ◇


【土曜日 1:46/治療所前】


 治療所の前に、相沢用の場所が作られた。


 中ではない。


 中は病人と怪我人がいる。


 相沢は、入口横の壁にもたれる形で座らされた。


 横になるほどではない。


 だが、動けない位置。


 見えるが、走れない位置。


 リリアの判断だった。


「ここなら、見えます」


「はい」


「ですが、すぐ走れません」


「はい」


「そこが良いです」


「分かりやすい」


 リリアは薄い布を相沢にかけた。


「少し眠ってください」


「眠れるかな」


「目を閉じるだけでも」


「はい」


 治療所の中から、小さな咳が聞こえる。


 避難民の子供か。


 相沢は目を開けたまま、そちらを見る。


「アイザワ殿」


「はい」


「今、見るのは私です」


 リリアが言った。


 静かな声。


 だが、強い。


 相沢は息を吐く。


「お願いします」


「はい」


 リリアは少しだけ頷いた。


 相沢は目を閉じる。


 暗い。


 すぐに眠れるわけではない。


 頭の中には、まだ火、水、呼ぶが残っている。


 その横に、袋。


 塩。


 飴。


 守るため。


 増やすためではない。


 そして、もう一つ。


 村が見ます。


 その言葉が、ゆっくり沈んでいく。


     ◇


【土曜日 2:03/治療所前】


 相沢は眠っていなかった。


 だが、目は閉じていた。


 呼吸は少しだけ整った。


 その耳に、村の声が届く。


「北、変化なし」


「井戸、問題なし」


「倉庫、閉めたよ」


「治療所、熱一人」


「火、弱い。薪足す?」


「少しだけ」


「呼ぶ人、交代」


「走るなよ」


「分かってる」


 声が細くつながっている。


 相沢を通っていない。


 村の中で、声が回っている。


 それは完璧ではない。


 たぶん、抜けもある。


 間違いも起きる。


 でも、回っている。


 相沢は目を閉じたまま、少しだけ笑いそうになった。


 その時、視界の端に表示が浮かんだ。


 目を閉じているのに、見える。



【集落運用:

 夜間継続中】


【外部持込品:

 仮管理】


【依存率:

 低下傾向】


【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 限界域】


【推奨:

 睡眠】



 相沢は声に出さずに思った。


 分かってる。


 今度は、少しだけ従えそうだった。


 遠くで、ガンツの声がした。


「北、見る」


 ミナの声が返る。


「広場、見る」


 マルタの声。


「倉庫、触らせない」


 リリアの声。


「治療所、見ます」


 ハルトの声。


「井戸、見る」


 火明かりが、まぶたの裏で揺れる。


 相沢は、ようやく意識を手放した。


 夜はまだ終わっていない。


 だが、今度は相沢一人の夜ではなかった。

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