第八十五話 最終日の荷物
【金曜日 6:21/東京・ビジネスホテル】
アラームが鳴った。
今度は、先に起きられなかった。
スマホの振動音が、机の上でしつこく響く。
相沢は目を開けた。
天井。
白い。
ホテル。
東京。
展示会最終日。
順番に思い出す。
異世界ではない。
大阪の部屋でもない。
村でもない。
東京のビジネスホテルだ。
相沢はベッドから体を起こした。
肩が重い。
足が痛い。
喉が枯れている。
昨日より悪い。
だが、今日で展示会は終わる。
終わる。
その言葉に、少しだけ救われかけた。
すぐに打ち消される。
終わった後がある。
撤収。
荷物の仕分け。
大阪へ戻る。
買い物。
そして、土曜。
日付が変われば、戻る。
戻れるかもしれない、ではない。
もう、そういう段階ではない。
金曜の夜が終われば、土曜日になる。
土曜日になれば、異世界へ行く。
相沢は机を見る。
展示会資料。
名刺の束。
D店用のメモ。
乾燥わかめ。
ラベル。
油性ペン。
七瀬にもらった飴。
分けたはずなのに、視界の中では混ざっていた。
「今日は展示会」
相沢は言った。
昨日も言った気がする。
効果は薄い。
それでも言う。
言わないよりはましだ。
相沢は水を飲む。
パンを食べる。
残さない。
それからスマホを見る。
七瀬からメッセージが入っていた。
『最終日ですね。終わったら少しは休めますか』
相沢は画面を見たまま、しばらく止まった。
休めますか。
普通なら、三連休なので休めます、と返す。
だが、相沢にはその返事ができない。
『まだ分かりません』
送ってから、少し後悔した。
曖昧すぎる。
すぐに既読がついた。
『その返事、休めない人の返事です』
相沢は小さく笑った。
『たぶん、そうです』
『倒れない範囲でお願いします』
『努力します』
『信用できないです』
相沢はスマホを伏せた。
いつものやり取り。
それが、少しだけ朝の支えになっていた。
◇
【金曜日 8:19/東京・展示会場 自社ブース】
最終日の朝は、妙に散らかっていた。
昨日までの疲れが、物の置き方に出ている。
資料が少し曲がっている。
試食用の紙皿が二か所に分かれている。
ゴミ袋の予備が見えない。
水の箱が空に近い。
名刺受けは昨日のまま。
撤収用の段ボールが、なぜかブース奥の動線を塞いでいた。
相沢はそれを見て、眉を寄せる。
「朝の確認」
若手が自分からホワイトボードの前に立った。
「試食、資料、水、ゴミ、名刺。あと撤収」
「撤収は最後じゃない」
「え?」
「撤収の準備は今から。
撤収作業は最後」
若手が少し考え、頷いた。
「片付ける場所を先に決めるってことですか」
「そう」
「終わってから決めると詰まる」
「そう」
若手はホワイトボードに書く。
残す。
持ち帰る。
捨てる。
送る。
相沢はその四つを見る。
良い。
昨日より速い。
自分が言う前に、若手が形にし始めている。
「これでいいですか」
「いい」
「残すは、明日以降使う資料」
「持ち帰るは、名刺と商談メモ」
「捨てるは、古いPOPと開封済みの備品」
「送るは、未開封サンプルと什器」
「そう」
若手が大きく頷いた。
「撤収も、倉庫ですね」
「そうだな」
相沢はブースを見る。
展示会の最後は、村の夜明けに似ている。
何が残ったか。
何を捨てるか。
何を次に使うか。
どこへ戻すか。
勝ったかどうかではない。
残ったものをどう扱うかで、次が決まる。
◇
【金曜日 10:02/東京・展示会場】
開場した。
最終日の客足は、初日とも二日目とも違った。
午前中から、決めに来る客が多い。
昨日まで見た商品を、最後にもう一度確認する。
上司を連れてくる。
価格を詰める。
導入時期を聞く。
条件を探る。
笑顔の裏で、数字が動く。
「この条件、今日中に出せますか」
「確認します」
「来月の棚替えに間に合います?」
「物流と在庫を見ます」
「試食販売、販売員はそちらで出せますか」
「日程次第です」
相沢は答えながら、同時にブースを見る。
試食皿。
資料。
通路。
説明員。
水。
ゴミ。
撤収用の箱。
全部が少しずつ減り、少しずつ乱れていく。
最終日だからこそ、雑になりやすい。
終わりが見えると、人は油断する。
村でもそうだった。
赤ゴブリンが引いた後。
勝ったように見えた。
だが、その後に避難民が来た。
終わりの顔をした瞬間、次の負荷が来る。
相沢はブースの奥へ声を飛ばす。
「試食皿、今出してる分で止めて。次は半分だけ」
「全部じゃないんですね」
「最終日だから余らせすぎない。でも切らすな」
「難しいですね」
「現場はだいたいそうだ」
若手が笑う余裕もなく、紙皿を数える。
その手つきは、昨日より迷いがない。
◇
【金曜日 12:14/東京・展示会場 自社ブース裏】
昼飯は、また弁当だった。
三日連続。
弁当の内容は少し違う。
だが、相沢にはほぼ同じに見えた。
白飯。
主菜。
副菜。
漬物。
仕切り。
一人分。
十分すぎる量。
相沢は箸を割る。
食べる。
米粒を残さない。
煮物の欠片も残さない。
昨日より手が自然に動く。
慣れた。
いや、違う。
慣れたのではない。
習慣になり始めている。
「相沢さん」
若手が隣で言った。
「最終日終わったら、飲み会あるらしいですよ」
相沢は箸を止めた。
「誰が言ってた」
「課長です」
「撤収後に?」
「はい。軽く打ち上げって」
打ち上げ。
現代の強制イベント。
異世界より疲れる瞬間が、また一つ来た。
「無理だな」
「ですよね」
若手が即答した。
「分かるのか」
「顔が無理って言ってます」
「顔の発言権が強すぎる」
「でも、課長には言いにくいですよね」
「言いにくい」
相沢は弁当を見る。
まだ半分残っている。
食べる。
飲み会に行くなら食べすぎると重い。
だが、行かないなら食べないと持たない。
いや、そもそも行くべきではない。
金曜夜。
大阪へ戻る。
買い物をする。
袋。
塩。
乾物。
だしの素。
計量スプーン。
ラップ。
それから、日付が変わる。
飲み会に行っている場合ではない。
若手が小声で言う。
「相沢さん、撤収後に大阪戻るんですよね」
「ああ」
「じゃあ、飲み会無理って言いやすいんじゃないですか」
「東京泊じゃないからな」
「それで逃げましょう」
「逃げるって言うな」
「避難です」
相沢は少しだけ笑った。
避難。
その言葉は、重い。
だが、今は軽く使えるのがありがたかった。
◇
【金曜日 14:36/東京・展示会場 自社ブース】
午後二時を過ぎると、会場の空気が変わった。
終わりが近い。
出展社側は、それを感じ始める。
来場者も少しずつ減る。
だが、完全には切れない。
撤収準備を始めたい。
でも、客はまだ来る。
ここが一番危ない。
半分終わった気で、半分動く。
その時に間違える。
「黄色斜線、触らない」
相沢が言う。
別の営業が手を止める。
「あ、またやるところだった」
「古い価格表です」
「すまん。最終日で頭回ってない」
「全員同じです」
だから印がいる。
そう言いかけて、言わなかった。
もう分かっている。
相沢はブース奥を見る。
若手が、撤収用の箱に大きく紙を貼っていた。
残す。
持ち帰る。
捨てる。
送る。
その文字の横に、記号もついている。
丸。
矢印。
斜線。
箱。
相沢は一瞬だけ足を止める。
「それ、自分で?」
「はい」
「いい」
「ありがとうございます」
若手は少し嬉しそうにした。
その顔を見て、相沢は思う。
こういう瞬間を、村でも増やしたい。
相沢が言う前に、誰かが印を置く。
誰かが分ける。
誰かが止める。
誰かが呼ぶ。
そうなれば、村は少し強くなる。
ただし、その前に朝を迎えていれば。
胸の奥が、また冷える。
◇
【金曜日 16:01/東京・展示会場】
閉場一時間前。
課長が戻ってきた。
「相沢、今日の打ち上げ、撤収終わったら軽く行くぞ」
来た。
相沢は資料を揃えながら、顔を上げる。
「すみません。今日中に大阪へ戻ります」
「明日休みだろ」
「はい」
「なら泊まって明日帰ればいいじゃないか」
「明日、朝から予定があります」
「仕事か?」
相沢は少しだけ詰まった。
仕事ではない。
だが、仕事より重い。
「私用です」
課長は少し不満そうにした。
「まあ、仕方ないな。撤収は最後まで頼むぞ」
「もちろんです」
「新幹線、間に合うように動けよ」
「はい」
課長は別の営業を呼びに行った。
若手が小さく親指を立てる。
相沢は見なかったことにした。
逃げ道を確保した。
それだけで、少しだけ体が軽くなる。
だが、まだ終わっていない。
◇
【金曜日 17:04/東京・展示会場 自社ブース】
閉場アナウンスが流れた。
展示会が終わった。
拍手はない。
勝利画面もない。
ただ、来場者が減り、出展社が一斉に動き始める。
撤収。
ここからが、もう一つの現場だった。
「残す、持ち帰る、捨てる、送る」
若手が声に出す。
「残す、持ち帰る、捨てる、送る」
別の営業も繰り返す。
相沢は少し驚いた。
声になっている。
揃ってはいない。
弱い。
だが、声になった。
火、水、呼ぶ。
あの夜の広場を思い出す。
村人たちが繰り返した声。
火、水、呼ぶ。
ここは東京の展示会場だ。
だが、似ている。
「試食の開封済みは捨てる!」
「未開封は送る!」
「名刺は持ち帰る!」
「古いPOPは捨てる!」
「什器は送る!」
動く。
人が動く。
全部ではない。
雑なところもある。
間違えそうな手もある。
それでも、朝に置いた四つの印が効いている。
現場は崩れなかった。
相沢は台車の位置を直し、通路を空ける。
撤収時に通路を殺すと、周囲のブースにも迷惑がかかる。
自分たちだけではない。
隣のブース。
業者。
警備員。
搬入口。
流れはつながっている。
村も同じだ。
井戸が詰まると、火が消せない。
倉庫が詰まると、食料が配れない。
治療所が詰まると、前線が不安になる。
全部がつながる。
だから、一つずつ分ける。
◇
【金曜日 18:22/東京・展示会場 搬出口】
搬出口は、発送口よりもひどかった。
各社の荷物。
台車。
業者。
スタッフ。
空箱。
崩れた段ボール。
急ぐ人間。
疲れた人間。
怒っている人間。
全部が一か所に集まる。
相沢は自社の荷物を壁際へ寄せた。
「ここで広げるな」
「でも送り状が」
「送り状はこっち。荷物は壁。台車は通路に置かない」
「はい!」
若手が動く。
別の営業も動く。
課長も、何も言わずに送り状をまとめ始めた。
少し前なら、相沢が全部指示していた。
今は、周りも勝手に拾い始めている。
展示会三日間の結果だった。
小さい。
だが、確かに残った。
「相沢、冷蔵サンプルは?」
「残り二箱。廃棄確認済み。未開封は大阪戻し」
「販促物」
「送る箱に入れました」
「名刺」
「俺が持ちます」
「よし」
課長が頷く。
「今日、助かったわ」
相沢は一瞬、返事に困った。
「いえ」
「お前、現場回すのうまくなったな」
相沢は苦笑しかけて、やめた。
なった。
そうなのか。
もともと営業としてやっていた。
だが、今の自分は違う。
村の火と水と人を見た後の自分だ。
「展示会前に、色々ありまして」
「何だそれ」
「自分でもよく分かりません」
課長は疲れた顔で笑った。
「まあいい。新幹線、間に合わせろ」
「はい」
◇
【金曜日 19:11/東京駅】
東京駅は明るかった。
人が多い。
新幹線の改札前は、出張帰りの人間で溢れている。
相沢はキャリーケースではなく、肩掛けの鞄だけを持っていた。
それでも重い。
名刺。
資料。
着替え。
ノート。
乾燥わかめ。
ラベル。
油性ペン。
七瀬の飴。
展示会の荷物と、村の荷物が一つの鞄に入っている。
相沢は売店に寄った。
水。
弁当。
そして、棚を見る。
小さな食卓塩があった。
業務用ではない。
袋入りでもない。
量も少ない。
だが、塩だった。
相沢は手に取る。
マルタに言った。
塩を持ってくる、と。
忘れる選択肢はなかった。
ただし、これを持って行けば終わりではない。
むしろ、ここからが難しい。
誰が使うか。
いつ使うか。
どれだけ使うか。
誰にも見えるようにするか。
隠して管理するか。
病人用に残すか。
粥に使うか。
相沢は小さな容器を見る。
これをそのまま渡したら、すぐ消える。
誰かが多く使う。
誰かが隠す。
誰かが病人用に取っておこうとする。
そして、たぶん揉める。
「持ってくるより、渡し方の方が難しいな」
相沢は呟いた。
隣にあった小袋のだしの素も取る。
乾燥野菜のスープも一つ。
食品用ポリ袋は、駅ナカの雑貨売場で買った。
高い。
大阪で買うより高い。
だが、今日中に買っておけば、少しでも安心できる。
塩。
袋。
だし。
乾物。
飴。
ラベル。
油性ペン。
全部が、鞄の中で現代の荷物として収まる。
だが、相沢にはもう展示会の荷物には見えなかった。
◇
【金曜日 19:47/東海道新幹線・車内】
新幹線が動き出した。
東京が遠ざかる。
相沢は座席に沈み込む。
体はもう限界だった。
だが、まだ眠れない。
鞄からノートを出す。
展示会。
村。
もう線を引く気力もなかった。
同じページに書く。
袋。
塩。
乾燥わかめ。
だしの素。
乾燥野菜。
飴。
ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
食品用ラップ。
水は持っていける量に限界。
食料そのものは増やせない。
守る。
分ける。
使う順番。
相沢はペンを止めた。
駅で買った弁当を開ける。
食べる。
冷めている。
それでもうまい。
白飯がある。
肉がある。
野菜がある。
相沢は無言で食べた。
窓の外は暗い。
車内は明るい。
周囲の人間は、ビールを飲んだり、眠ったり、パソコンを開いたりしている。
普通の金曜夜。
三連休前。
本来なら、少し浮かれる時間だ。
相沢だけが、村の倉庫のことを考えている。
スマホが震えた。
七瀬だった。
『撤収、終わりましたか』
相沢は返信する。
『終わりました。新幹線です』
『大阪戻りですか』
『はい』
『今日も食べました?』
相沢は弁当を見る。
『今食べています』
『なら七割維持です』
『八割にはなりませんか』
『寝たら八割です』
相沢は少し笑った。
寝たら八割。
条件が明確だ。
『努力します』
『それは六割に下がります』
『厳しい』
『食品チーフなので』
相沢は画面を見た。
食品チーフ。
売場を見る人。
食べ物を見る人。
人も見る人。
『七瀬さん』
『はい』
『飴、助かりました』
少し間が空いた。
『食べました?』
『まだです』
『じゃあ何に助かったんですか』
相沢は返事に迷った。
正直には言えない。
でも、嘘も言いたくない。
『持っているだけで、少し考えがまとまりました』
送信。
今度は、少し長く間が空いた。
『変な返事です』
『自覚はあります』
『でも、少し分かります』
相沢は画面を見る。
七瀬は続けた。
『売場でも、物があるだけで落ち着くことがあります。使うかどうかより、あると分かっていることが大事な時があります』
相沢は小さく息を吐いた。
そうだ。
村でも同じかもしれない。
飴がある。
袋がある。
塩がある。
それだけで、少し落ち着く人がいるかもしれない。
ただし、管理しなければ揉める。
相沢は返信する。
『使い方を間違えないようにします』
『相沢さんらしいですね』
『そうですか』
『はい。休むことも間違えないでください』
相沢は何も返せなかった。
しばらくして、短く打つ。
『はい』
送信する。
既読がついた。
返事はなかった。
それでよかった。
◇
【金曜日 22:34/大阪・相沢の部屋】
部屋に戻った。
東京のホテルより、狭く感じなかった。
自分の部屋だ。
だが、安心は薄い。
床に鞄を置く。
すぐに中身を出す。
展示会資料。
名刺。
着替え。
ノート。
乾燥わかめ。
だしの素。
乾燥野菜スープ。
油性ペン。
ラベル。
ポリ袋。
小さな食卓塩。
七瀬の飴。
机の上に並べる。
さらに、数日前に買っていたチャック袋、食品用ポリ袋、ラップ、計量スプーンを出す。
少しずつ、机の上が埋まる。
現代の小物。
日本では当たり前のもの。
村では、扱いを間違えれば揉めるもの。
相沢は深呼吸した。
眠い。
かなり。
だが、今やらないと、転移直前に雑になる。
雑になると、持ち込みで失敗する。
相沢は紙を一枚出した。
大きく書く。
最初に全部渡さない。
次に書く。
マルタと確認。
次。
塩は開ける前に使い方を決める。
次。
子供に飴を直接配らない。
次。
袋は用途別。
次。
記号を先に決める。
相沢は手を止める。
眠気で字が少し曲がっている。
だが、読める。
読めればいい。
視界の端に、表示は出ない。
だが、出るならこうだ。
⸻
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
極めて高】
【推奨:
休息】
⸻
「分かってる」
相沢は呟いた。
分かっている。
だが、もう少しだけ。
その「もう少しだけ」が危ない。
それも分かっている。
相沢はペンを置いた。
袋を一つにまとめる。
塩は小さい。
十分な量ではない。
でも、ある。
乾燥野菜も少ない。
だしの素も試すだけ。
乾燥わかめも少量。
飴も全部は渡さない。
相沢は紙の端に書いた。
増やすためではない。
守るため。
その一文を書いた瞬間、少しだけ頭が静かになった。
◇
【金曜日 23:41/大阪・相沢の部屋】
シャワーを浴びた。
髪を乾かす気力は半分しかなかった。
それでも、乾かした。
風邪をひくわけにはいかない。
倒れたら、全部止まる。
自分の体が、現場の一部になっている。
それは危ない考え方だ。
だが、今はまだ抜け出せない。
スマホを見る。
七瀬から一通。
『寝ましたか』
相沢は少し笑った。
まだ寝ていない。
だが、正直に返すと怒られる気がした。
嘘はつきたくない。
『今から寝ます』
送る。
すぐ既読。
『今すぐ寝てください』
『はい』
『明日は休みですよね』
相沢は手を止めた。
休み。
土曜日。
相沢にとっては、異世界へ戻る日。
スマホの上部に表示された時刻を見る。
23:47。
忘れていたわけではない。
土曜日になれば戻る。
それは、ずっと頭の中にあった。
だが、展示会の撤収。
新幹線。
買い物。
七瀬への返信。
シャワー。
その全部を処理している間に、準備だけが後ろへ押し出されていた。
「……まずい」
寝る時間ではない。
明日の朝でもない。
土曜日は、あと十三分で来る。
相沢は机を見る。
袋。
ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
乾燥わかめ。
だしの素。
乾燥野菜スープ。
ポリ袋。
ラップ。
七瀬の飴。
小さな食卓塩。
全部がある。
全部ではない。
足りない。
量も少ない。
整理も甘い。
それでも、手ぶらよりはましだ。
相沢は紙を見る。
最初に全部渡さない。
マルタと確認。
塩は開ける前に使い方を決める。
子供に飴を直接配らない。
袋は用途別。
記号を先に決める。
増やすためではない。
守るため。
相沢は紙ごと折りたたみ、鞄に入れた。
展示会資料は抜く。
名刺も抜く。
着替えも抜く。
村にいらないものを減らす。
鞄の中を空ける。
そこへ入れる。
チャック袋。
食品用ポリ袋。
ラップ。
ラベル。
油性ペン。
計量スプーン。
乾燥わかめ。
だしの素。
乾燥野菜スープ。
小さな食卓塩。
七瀬の飴。
手に取れるものから、順に入れる。
雑だ。
だが、迷っている時間はない。
スマホが震えた。
七瀬からだった。
『ちゃんと寝てくださいね』
相沢は画面を見た。
返事を打つ時間はある。
だが、何と返す。
寝ます。
嘘になる。
休みます。
もっと嘘になる。
相沢は短く打った。
『おやすみなさい』
送信。
既読がついた。
返事は来ない。
相沢はスマホを置いた。
23:58。
心臓が早くなる。
視界の端には、何も出ない。
現代では、オカンは出ない。
だが、出ていたらきっとこうだ。
⸻
【休日開始時刻:
接近】
【携行物:
未整理】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
極めて高】
【推奨:
着座】
⸻
「座ってる場合じゃない」
相沢は呟いた。
だが、足はふらついていた。
鞄を肩にかける。
重い。
展示会の資料は抜いた。
それでも重い。
完璧ではない。
むしろ穴だらけだ。
だが、約束した塩はある。
袋もある。
印もある。
少しだけ、守る道具はある。
23:59。
相沢は部屋の中央に立った。
火。
水。
呼ぶ。
村が朝を迎えたかどうか。
ミナが広場を見ていたか。
ガンツが北を守ったか。
リリアが倒れていないか。
マルタが倉庫を守ったか。
ハルトが井戸を見たか。
エルが弟の手を握っていたか。
分からない。
分からないまま、戻る。
スマホの表示が変わった。
土曜日。
0:00。
⸻
【休日開始】
【転移条件:
成立】
【帰還地点:
前回離脱地点周辺】
【携行物:
確認中】
【転移処理:
実行】
⸻
「待っ――」
視界が落ちた。




