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第八十三話 展示会初日

【水曜日 6:12/東京・ビジネスホテル】


 アラームが鳴る前に起きた。


 眠れた。


 たぶん。


 だが、体は納得していなかった。


 ベッドから起き上がると、肩が重い。


 腰が痛い。


 足の裏が張っている。


 日曜の異世界。


 月曜の展示会準備。


 火曜の発送作業。


 火曜夜の新幹線。


 全部が、体の奥でまだ在庫として残っていた。


「在庫過多だな」


 相沢は呟いた。


 誰も返事をしない。


 オカンも出ない。


 現代では、疲労蓄積も推奨休息も表示されない。


 不便だ。


 不便だが、出たら出たで腹が立つ。


 相沢は机を見る。


 昨夜並べたものが、まだそこにある。


 乾燥わかめ。


 飴。


 油性ペン。


 小さなラベル。


 展示会の資料とは別に、机の端へ寄せてある。


 今日は持っていかない。


 展示会場へ、異世界用の乾燥わかめを持っていくわけにはいかない。


 だが、視界に入るだけで、頭が勝手に動く。


 わかめは粥に混ぜる。


 量は少なく。


 塩と合わせるなら濃くなりすぎないようにする。


 飴は子供だけに配ると揉める。


 怪我人。


 見張り。


 泣いている子供。


 誰に渡すかを決める必要がある。


 相沢は目を逸らした。


「今日は展示会」


 自分に言い聞かせる。


 水曜。


 展示会初日。


 東京。


 搬入。


 設営。


 来場者。


 得意先。


 説明。


 試食。


 名刺。


 上司。


 全部、現代側の負荷だ。


 村のことは考えない。


 そう思った瞬間、頭の中に三つの印が浮かぶ。


 火。


 水。


 呼ぶ。


「考えてるな」


 相沢はため息をついた。


 ホテルの小さな冷蔵庫から水を取り、飲む。


 冷たくはない。


 だが、水だった。


 それから、昨夜買っておいたおにぎりを一つ食べた。


 残さない。


 米粒も。


 包装の端についた分も。


 食べ終えてから、スマホを見る。


 七瀬から昨夜の返信が来ていた。


『倒れないようにしてください。木曜、展示会で確認します』


 得意先に体調確認される営業。


 かなりまずい。


 相沢は返信を打つ。


『展示会場で倒れたら営業失格なので、倒れません』


 少し考えて、消す。


 代わりに打つ。


『気をつけます。木曜お待ちしています』


 送信。


 すぐ既読はつかなかった。


 七瀬も朝の売場準備だろう。


 相沢は鞄を持った。


 現代の戦場へ行く時間だった。


     ◇


【水曜日 8:18/東京・展示会場搬入口】


 会場は、すでに騒がしかった。


 台車。


 段ボール。


 パネル。


 工具の音。


 出展社の声。


 警備員の誘導。


 業者の怒号。


 空調の低い音。


 全部が混ざっている。


 ゴブリンはいない。


 火もない。


 だが、混乱はある。


 人が多い。


 物が多い。


 時間がない。


 それだけで、現場は簡単に詰まる。


「相沢、こっち!」


 課長が手を振っている。


 自社ブースは、通路の角にあった。


 悪くない場所だ。


 だが、角は流れが溜まりやすい。


 来場者が足を止める。


 試食品を取る。


 説明員が前へ出る。


 後ろから別の客が来る。


 詰まる。


 相沢は、まだ何も置かれていないブースを見て、嫌な予感を覚えた。


「相沢さん、何か気になるところありますか」


 若手が段ボールを下ろしながら聞いた。


「詰まる」


「詰まる?」


「このままだと、試食台が通路を殺す」


「通路を殺す……ですか」


「言い方は悪いが、合ってる」


 相沢はブースの床を指した。


「試食台はここじゃない。

 半歩内側」


「内側に入れると目立たなくないですか」


「目立たせるのはPOP。

 人は通路で止めすぎない」


 若手は少し考える。


「D店で言ってたやつですね」


「ああ」


 D店。


 七瀬。


 売場導線。


 異世界の広場。


 全部、同じところに重なっていく。


 課長が近づいてきた。


「相沢、配置決まったか」


「試食台を内側にします。説明パネルは通路正面。冷蔵サンプルは後ろ。配布資料は右」


「理由は?」


「客が止まる場所と、スタッフが動く場所を分けます」


「分かりやすく」


「客は前。

 試食は内。

 スタッフは後ろ。

 補充は右から」


 課長はブースを見た。


 少し黙る。


「それでいこう」


「はい」


 相沢はすぐに段ボールを動かす。


 冷蔵。


 常温。


 手持ち。


 昨日つけた印が、そのまま効いていた。


 赤丸。


 青線。


 黄色斜線。


 見れば分かる。


 若手が勝手に箱を動かし始める。


「赤丸、開けます」


「青線、後ろですね」


「黄色は触らない」


 相沢は一瞬だけ手を止めた。


 自分が言う前に動いている。


 会社の現場が、小さく自走している。


 気持ちがいい。


 だが、同時に胸が冷える。


 村はどうなった。


 あの夜、ミナは同じように動けただろうか。


 相沢はその考えを押し込めた。


 今は展示会だ。


     ◇


【水曜日 9:07/東京・展示会場 自社ブース】


 開場まで一時間を切っていた。


 試食用の紙皿。


 スプーン。


 アルコール。


 手袋。


 ゴミ袋。


 名刺受け。


 資料。


 どれも小さい。


 だが、一つ欠けるだけで詰まる。


 相沢はブース奥の棚に、付箋を貼った。


 補充。


 予備。


 触らない。


 ゴミ。


 水。


「水?」


 若手が聞いた。


「試食の後、手を拭く人がいる。

 説明員も喉が死ぬ。

 水の置き場を決めておく」


「細かいですね」


「細かいところで止まる」


「それ、今日何回聞きます?」


「何回でも」


 相沢は水のペットボトルを箱ごと下に置きかけて、やめた。


 足元は詰まる。


 蹴る。


 倒す。


 探す。


「上に二本。

 残りは後ろの箱」


「了解です」


 若手が動く。


 相沢は小さく頷いた。


 ブース全体が、少しずつ形になる。


 食料ではない。


 村でもない。


 だが、仕組みが見える瞬間は同じだった。


 散らばっていたものが、場所を持つ。


 人が迷わなくなる。


 現場が少し軽くなる。


 この瞬間は、やはり気持ちがいい。


 その時、スマホが震えた。


 七瀬からだった。


『今日からですね。倒れてませんか』


 相沢は短く返す。


『まだ』


 すぐ返ってきた。


『まだ、じゃないです』


 相沢は少し笑った。


 若手が見る。


「何ですか」


「得意先から監視されてる」


「売上ですか」


「体調」


「何したんですか」


「何も」


「何もしてない人は、得意先に体調監視されません」


「正論だな」


 相沢はスマホをしまった。


 開場のアナウンスが流れ始めた。


     ◇


【水曜日 10:03/東京・展示会場】


 開場した。


 人が流れ込む。


 スーツ。


 名札。


 紙袋。


 パンフレット。


 スマホ。


 名刺入れ。


 視線。


 足音。


 声。


 現代の群れだった。


 相沢はブースの内側に立つ。


 最初の客が足を止める。


「こちら、新商品ですか」


「はい。今秋発売予定の――」


 説明が始まる。


 口は動く。


 資料も渡す。


 試食も出す。


 名刺も受ける。


 体は営業の動きを思い出していた。


 だが、目は別のものを見ている。


 通路の詰まり。


 試食皿の減り。


 説明員の偏り。


 ゴミ袋の膨らみ。


 冷蔵サンプルの残量。


 資料の山。


 水。


 人の流れ。


 全部を見ようとする。


 全部は見られない。


 だから、見る順番を決める。


 試食。


 通路。


 冷蔵。


 説明員。


 ゴミ。


 呼ぶ。


「相沢さん、試食皿減ってます」


 若手が言った。


「補充。二束だけ」


「全部出さない?」


「出すと散る」


「了解」


 若手が後ろへ動く。


 すぐに戻る。


 客は途切れない。


 相沢は説明を続けながら、通路を見る。


 右側が詰まり始めている。


 試食を取った客が、その場で資料を読み始めた。


 止まっている。


 後ろの客が避ける。


 動線が細くなる。


「資料は一歩内側でご覧ください」


 相沢は笑顔で言った。


「こちらに簡単な比較表もございます」


 客をブース内側へ誘導する。


 通路が少し空く。


 詰まりがほどける。


 小さい。


 だが、効く。


 売場でも同じ。


 村でも同じ。


 入口を塞がない。


 逃げ道を残す。


 流れを殺さない。


 相沢は次の客へ向き直った。


     ◇


【水曜日 12:22/東京・展示会場 休憩スペース脇】


 昼休憩は、休憩ではなかった。


 交代で弁当を食べる。


 それだけだ。


 相沢は支給された弁当を受け取った。


 白飯。


 唐揚げ。


 焼き魚。


 卵焼き。


 漬物。


 小さな煮物。


 展示会用の弁当。


 冷めている。


 だが、十分すぎる。


 相沢は弁当を見下ろす。


 多い。


 また、それだった。


 もう慣れたと思っていた。


 慣れていなかった。


 村の粥。


 五十五人。


 焦げた袋。


 塩。


 マルタの手。


 リリアの病人用の椀。


 エルの弟。


 全部が、白飯の上に乗る。


「食べないんですか」


 若手が隣で聞く。


「食べる」


 相沢は箸を割った。


 食べる。


 食べないと午後が持たない。


 仕事にならない。


 村へ戻る前に倒れる。


 七瀬にも、リリアにも、顔向けできない。


 顔向け。


 何を言っているのか分からない。


 だが、そう思った。


 相沢は弁当を食べた。


 米粒を残さない。


 唐揚げの下にある小さなパスタも食べる。


 煮物の汁も、弁当箱を傾けて少しだけ口に入れる。


 若手が見ていた。


「相沢さん、綺麗に食べますね」


「普段、汚いみたいに言うな」


「七瀬さんみたいなこと言われた」


「誰ですか?」


「得意先」


「ああ、D店の食品チーフの」


「知ってるのか」


「明日来るって課長が言ってました。相沢さんの担当先ですよね」


「ああ」


 若手は少し笑った。


「相沢さん、得意先にも飯チェックされてるんですか」


「されてる」


「何したんですか」


「何も」


「絶対何かしてますね」


 相沢は返事をしなかった。


 弁当の最後の米粒を取る。


 白飯の粘りが、箸に少し残る。


 それすら捨てるのが嫌だった。


     ◇


【水曜日 14:08/東京・展示会場 自社ブース】


 午後は、午前より荒れた。


 来場者が増える。


 試食が減る。


 説明員が疲れる。


 上司が得意先を連れてくる。


 別の営業が資料を探す。


 冷蔵サンプルの補充が遅れる。


 全部が一度に来る。


「相沢、A社さん来た!」


 課長が言う。


「説明入って!」


「今、B社対応中です」


「こっちは大口だぞ」


「若手、B社の資料継続。試食は出さない。説明だけ」


「はい!」


 相沢はA社の方へ向かう。


 途中で、資料棚を見る。


 黄色斜線の封筒に手を伸ばしかけている別の営業がいた。


「それ触らない」


 声が出た。


 相手が止まる。


「え?」


「古い価格表です。赤丸の封筒」


「あ、すまん」


 止まった。


 間に合った。


 相沢はA社へ向き直る。


 笑顔を作る。


 説明する。


 だが、胸の奥が少し冷えている。


 黄色斜線。


 触らない。


 あれがなかったら、古い価格を出していた。


 現代なら謝罪で済むかもしれない。


 済まないかもしれない。


 村なら、間違えた袋を開ける。


 湿ったものと無事なものが混ざる。


 飯が減る。


 相沢は資料を差し出しながら、思う。


 印は、地味だ。


 でも、止める。


 それだけで意味がある。


     ◇


【水曜日 16:37/東京・展示会場 自社ブース裏】


 一度、ブース裏に下がった。


 喉が痛い。


 足が重い。


 背中が張っている。


 若手が水を渡してくる。


「飲んでください」


「ありがとう」


「七瀬さんに言われてるんですよね」


「何で知ってる」


「相沢さん、昼にスマホ見ながら水飲んでたので」


「観察力あるな」


「今日は全員、相沢さんが倒れないか見てます」


「迷惑かけてるな」


「いや、倒れたら迷惑なので」


「正直でいい」


 相沢は水を飲む。


 ぬるい。


 だが、水だ。


 井戸ではない。


 木片もいらない。


 それでも、飲む場所が決まっているだけで楽だった。


 ブース裏。


 水。


 補充。


 休む人。


 相沢は壁にもたれる。


 目を閉じる。


 ほんの少し。


 その瞬間、視界の奥に村が出た。


 夜明け。


 まだ見ていない朝。


 ミナが板を見る。


 ガンツが北を見る。


 リリアが治療所を見る。


 マルタが袋を見る。


 ハルトが井戸を見る。


 自分はいない。


 その朝が、来たのか。


 分からない。


「相沢さん」


 若手の声で目を開ける。


「大丈夫ですか」


「ああ」


「顔、今ちょっと危なかったです」


「顔も疲労困憊だな」


「顔だけじゃないですよ」


「分かってる」


 相沢は立ち上がる。


 まだ終わっていない。


 展示会初日も。


 村の夜も。


 どちらも、自分の中では終わっていなかった。


     ◇


【水曜日 18:12/東京・展示会場】


 初日の閉場アナウンスが流れた。


 客が引き始める。


 通路に散ったパンフレット。


 空いた試食皿。


 名刺の束。


 減った資料。


 ぬるくなった水。


 疲れた説明員。


 それらが残る。


 勝ったわけではない。


 終わっただけだ。


 相沢はブースの前に立ったまま、しばらく動かなかった。


「相沢、集計」


 課長が言う。


「名刺枚数と案件見込み。あと明日の補充確認」


「はい」


 終わらない。


 戦闘が終わっても、焦げた柵は残る。


 展示会が閉まっても、片付けと明日の準備は残る。


 同じだ。


 相沢は名刺受けを取り、机に並べる。


 Aランク。


 Bランク。


 要フォロー。


 D店。


 木曜午後。


 七瀬。


 明日来る。


 相沢は名刺を分けながら、明日の導線を考える。


 D店は食品チーフとして来る。


 売場を知っている。


 相沢の提案が売場で回るかどうかを見る。


 ごまかせない。


 七瀬なら、たぶん見抜く。


 相沢の顔も。


 ブースの詰まりも。


 試食の出し方も。


 食べ物を残さない癖も。


 全部。


「明日、D店さん来ますよね」


 若手が言った。


「ああ」


「七瀬さんって、厳しいんですか」


「厳しい」


「怖いですか」


「怖くはない」


「じゃあ?」


 相沢は少し考えた。


「見てる」


「何をですか」


「売場に出した後のこと」


 若手は少し黙った。


「それ、怖いですね」


「だろ」


 相沢は名刺を束ねた。


 明日は、七瀬が来る。


 現代側の、見ている人が。


     ◇


【水曜日 21:03/東京・ビジネスホテル】


 ホテルの部屋に戻った。


 ベッド。


 机。


 テレビ。


 小さな冷蔵庫。


 ユニットバス。


 昨夜と同じ部屋。


 だが、昨日より狭く感じた。


 相沢は鞄を置き、ベッドに座った。


 体が沈む。


 動きたくない。


 だが、やることはある。


 明日の資料確認。


 D店用提案書の修正。


 試食台の配置見直し。


 補充品の確認。


 そして、三連休用の買い物リスト。


 相沢はノートを開く。


 ページの上に、二つの見出しを書く。


 展示会。


 村。


 それから、少し考えて、真ん中に線を引いた。


 分ける。


 混ぜると詰まる。


 展示会側。


 D店説明。


 試食品補充。


 名刺分類。


 価格表確認。


 村側。


 袋。


 塩。


 乾物。


 印。


 計量。


 飴。


 持ち込み量。


 配布ルール。


 相沢はペンを止めた。


 どちらも仕事に見える。


 展示会は仕事だ。


 村は仕事ではない。


 なのに、村の方が重い。


 スマホが震える。


 七瀬からだった。


『初日、お疲れ様です。倒れてませんか』


 相沢は返信する。


『倒れてません』


 すぐ既読。


『食べましたか』


 相沢は机の上を見る。


 コンビニで買ったおにぎりが一つある。


 まだ食べていない。


『これから食べます』


『今食べてください』


 相沢は少し笑った。


 どこにいても、食べろと言われる。


 現代にもオカンがいる。


 ただし、こちらは得意先だ。


 相沢はおにぎりの包装を開ける。


 写真は送らない。


 そこまですると本当におかしい。


 食べる。


 米。


 海苔。


 塩。


 コンビニの味。


 うまい。


 そして、重い。


 それでも食べる。


 食べ終えてから、返信する。


『食べました』


 七瀬から少し間を置いて返ってきた。


『明日、売場目線で見ます』


 相沢はその一文を見た。


 展示会の話だ。


 商品の話。


 提案の話。


 売場導線の話。


 それなのに、妙に緊張した。


『お願いします』


 送信。


 スマホを伏せる。


 相沢はノートを見る。


 展示会。


 村。


 線を引いたはずなのに、どちらも同じ字で書かれている。


 疲れている。


 かなり。


 だが、明日はまだ木曜日。


 展示会本番二日目。


 七瀬が来る。


 そして、三連休まで、あと二日。


 相沢はペンを置いた。


 ベッドに倒れる。


 眠りに落ちる直前、頭の中でまた三つの印が浮かんだ。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 その横に、もう一つ。


 売場。


 現代側の印が、勝手に増えていた。

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