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第八十二話 準備二日目

【火曜日 6:58/大阪・相沢の部屋】


 アラームが鳴る前に目が覚めた。


 よく寝た。


 とは言えなかった。


 ただ、月曜の夜よりはましだった。


 布団の中で、相沢は天井を見る。


 白い天井。


 蛍光灯。


 エアコンの音。


 村ではない。


 当たり前だ。


 だが、起きて最初に確認したのは、スマホの時刻でも、会社の通知でもなかった。


 頭の中に残っている印だった。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 まだ消えていない。


 むしろ、寝たせいで輪郭が濃くなっていた。


 相沢は体を起こす。


 腰が痛い。


 肩が重い。


 足も張っている。


 日曜の疲労が、火曜の朝にも残っている。


「もう若くないな」


 自分で言って、嫌になった。


 若ければどうにかなったのか。


 たぶん、ならない。


 相沢は冷蔵庫を開けた。


 昨日揃えたペットボトルが、ドアポケットに並んでいる。


 妙にきれいだった。


 誰に見せるわけでもない。


 それでも、曲げられなかった。


 水を飲む。


 冷たい。


 喉を通る。


 それだけで、少しだけ体が戻る。


 リリアの声が頭の奥で言った。


 食べて、眠って、戻れるなら戻ってください。


「……食べるか」


 相沢は納豆と卵を出した。


 それから、昨日買った味噌汁を温める。


 朝食。


 普通の朝食。


 だが、白飯を茶碗によそう手が、いつもより慎重になった。


 多すぎると残す。


 少なすぎると、昼まで持たない。


 村なら、そういう話では済まない。


 だが、ここは日本だ。


 相沢は茶碗を見て、少しだけ減らした。


 残さない量。


 それでいい。


     ◇


【火曜日 8:34/会社・会議室】


 展示会準備二日目。


 会議室は、昨日よりひどかった。


 いや。


 正確には、昨日より見えている分、ひどく感じた。


 机の上には資料。


 床には段ボール。


 壁際には什器。


 冷蔵サンプルは別室。


 販促物は未確認。


 東京へ送る荷物は、午前中に確定しなければならない。


 水曜から本番。


 今日は最後の準備日。


 課長が言った。


「今日で全部固めるぞ。あと、東京組は今夜移動な」


 営業部の返事は重い。


 全員、昨日で削られている。


 相沢はホワイトボードを見る。


 昨日の分類が残っていた。


 展示。


 配布。


 試食。


 説明。


 触らない。


 その横に、丸や斜線。


 若手が出社してすぐ、それを見て言った。


「これ、残しといてよかったですね」


「消したらまた書くことになる」


「ですよね」


 その一言だけで、相沢は少しだけ息を吐いた。


 残っている。


 会社の会議室でも。


 板ではない。


 ホワイトボードだ。


 木炭ではない。


 マーカーだ。


 でも、意味は同じだった。


「相沢さん、どこからやります?」


 若手が聞く。


 相沢は机を見る。


 全部は見ない。


 順番を決める。


「冷蔵品」


「腐るから?」


「腐るから」


「その次は?」


「発送物」


「時間が決まってるから?」


「そう」


「販促物は?」


「最後。腐らないし、送れなくても手持ちできる」


「なるほど」


 若手はすぐホワイトボードに書いた。


 一、冷蔵品。


 二、発送物。


 三、試食備品。


 四、販促物。


 相沢はそれを見て、少しだけ止まった。


 自分で言う前に、相手が書いた。


 小さい。


 だが、気持ちがよかった。


 現場が一つ、自分を通らずに動いた。


「それでいい」


「はい」


 若手が頷く。


 相沢は机の上のサンプルを動かし始めた。


     ◇


【火曜日 9:27/会社・会議室】


 問題は、冷蔵品だった。


 数は合っている。


 だが、展示用と試食用が混ざっていた。


 展示用は開封しない。


 試食用は当日使う。


 説明用は予備。


 全部同じ商品名。


 箱の外見もほぼ同じ。


 混ざるために生まれてきたような荷物だった。


「これ、現場で間違えますね」


 若手が言った。


「間違える」


 相沢は即答した。


「どうします?」


「箱を変える」


「箱ですか」


「開ける箱、開けない箱、触らない箱」


 相沢は付箋を取る。


 赤丸。


 青線。


 黄色斜線。


 昨日と同じ。


 ただし、今回はさらに大きく貼った。


「現場で迷ったら負ける」


「展示会って、そこまでですか」


「人が多い。

 音が多い。

 上司が急に呼ぶ。

 得意先が来る。

 試食品が減る。

 ゴミが出る。

 誰かが何かを探す」


 相沢は箱を押した。


「そこで小さい字なんか読まない」


 言ってから、東柵を思い出した。


 火。


 石。


 丸太。


 下からの鉤。


 同時に来るもの。


 人はその時、細かい説明を読まない。


 見る。


 分かる。


 動く。


 それだけだ。


「相沢さん」


「何」


「今日も怖いです」


「悪い」


「でも、分かりやすいです」


「昨日も聞いた」


「昨日より分かりやすいです」


「ならいい」


「よくはないです」


「それも聞いた」


 若手は少し笑った。


 笑えるなら、まだ大丈夫だ。


 相沢は箱の位置を変えた。


 触る箱。


 触らない箱。


 開ける箱。


 運ぶ箱。


 残す箱。


 会議室の床に、道ができた。


 人が歩ける道。


 台車が通れる道。


 探し物で詰まらない道。


 会社の床に、異世界の広場が重なった。


     ◇


【火曜日 11:12/会社・営業部】


 電話が鳴った。


 D店からだった。


 七瀬。


 相沢は受話器を取る。


「お世話になっております。相沢です」


『食品スーパーD店、七瀬です。今、大丈夫ですか』


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 だが、得意先からの電話に「無理です」とは言えない。


『昨日の提案書、見ました。三連休の試食販売の件なんですけど』


 三連休。


 その言葉が、また胸に引っかかる。


「はい」


『土曜は厳しいです。人員が足りません。日曜か祝日なら、うちで一人つけられます』


「日曜か祝日ですね」


『相沢さん側は?』


「確認します」


『本音は?』


「かなり厳しいです」


 言ってから、相沢は少し驚いた。


 得意先に、ずいぶん正直に言った。


 七瀬は電話の向こうで少し黙った。


『展示会明けですもんね』


「はい」


『無理なら、翌週にずらしてもいいです』


「いえ、三連休は客数が取れるので」


『営業っぽいですね』


「営業なので」


『でも、今の声、休みを仕事で埋められた人の声です』


「顔だけじゃなくて声にも出ますか」


『出ます』


「困るな」


『管理してください』


 相沢は一瞬、受話器を握る手を止めた。


 リリア。


 顔を管理してください。


 七瀬。


 声にも出ます。


 管理してください。


 現代と異世界が、妙なところでつながる。


『相沢さん?』


「すみません。聞いてます」


『本当に大丈夫ですか』


「倒れてはいません」


『基準が低いです』


「最近よく言われます」


『誰にですか』


「いろいろです」


『……まあ、いいです。木曜、展示会行きます。午後の食品チーフ枠で』


「ありがとうございます」


『その時、D店用の展開場所も詰めましょう』


「お願いします」


『あと』


「はい」


『水飲んでください』


 相沢は机のペットボトルを見た。


「今から飲みます」


『今です』


「分かりました」


 相沢は受話器を耳に当てたまま、ペットボトルを開けた。


 水を飲む。


『飲みました?』


「飲みました」


『よし』


「得意先に管理されてますね」


『管理されるような顔と声をしてるからです』


「手厳しい」


『展示会前なので』


 便利な言葉だ。


 相沢は少しだけ笑った。


     ◇


【火曜日 12:43/会社・会議室】


 昼は会議室で食べた。


 食堂へ行く時間がなかった。


 コンビニおにぎり。


 カップ味噌汁。


 昨日と同じような食事。


 営業部の何人かも、机の端でパンや弁当を食べている。


 資料の横。


 サンプルの横。


 段ボールの横。


 食べる場所としては最低だった。


 だが、相沢は食べた。


 残さない。


 急ぎすぎない。


 水も飲む。


 自分で決めた。


 決めないと、後回しにする。


 後回しにすると、倒れる。


 倒れると、現場が止まる。


「相沢さん、味噌汁こぼれます」


 若手に言われた。


「ああ」


 相沢はカップを少し奥へ置いた。


 定位置。


 倒れない場所。


 手が当たらない場所。


 資料から離す。


 無駄に細かい。


 でも、気になる。


「今日、本当にどうしたんですか」


 若手が聞く。


「何が」


「全部、置き場所決めるじゃないですか」


「決めないと探す」


「まあ、そうですけど」


「探す時間は無駄だ」


「それ、誰かに怒られたんですか」


 相沢は味噌汁を飲む手を止めた。


 マルタの顔が浮かぶ。


 探す時間は無駄。


 決めた場所に戻さないと、次に探す。


 オカンの表示にも似ている。


 マルタにも似ている。


「まあ、怒られたな」


「誰にですか」


「倉庫番みたいな人」


「物流の人ですか?」


「そんなところ」


「怖そうですね」


「怖い」


 相沢は即答した。


 若手は笑った。


 相沢も少し笑った。


 笑いながら、味噌汁の底を見る。


 わかめが少し残っていた。


 相沢は箸で取って食べた。


 若手がそれを見て、何か言いかけた。


 言わなかった。


 それでよかった。


     ◇


【火曜日 14:28/会社・会議室】


 午後になって、別の問題が出た。


 東京会場へ送る荷物の送り状が足りない。


 冷蔵便と通常便。


 会場直送とホテル受け取り。


 営業部持ち込み。


 四つの流れが混ざっていた。


 相沢は頭を押さえた。


「水の道、食料の道、呼ぶ道」


「え?」


 若手が聞き返す。


「何でもない」


 相沢はホワイトボードを消した。


 大きく三本線を引く。


 冷蔵。


 常温。


 手持ち。


「三つにする」


「ホテル受け取りは?」


「手持ちに含める」


「会場直送は?」


「冷蔵か常温」


「販促物は?」


「常温」


「予備資料は?」


「手持ち」


「なるほど」


 若手がすぐ付箋を貼り替える。


 青。


 赤。


 黄色。


 会社の会議室に、三つの流れができる。


 細かい差はある。


 だが、今は三つでいい。


 細かく分けすぎると、誰も見なくなる。


 相沢は、村の板を思い出す。


 増えすぎた印。


 減らした三つ。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 ここでは。


 冷蔵。


 常温。


 手持ち。


 同じだ。


 意味は違う。


 だが、考え方は同じ。


「相沢」


 課長が会議室に入ってきた。


「何だこれ」


「荷物の流れです」


「三つだけか?」


「今は三つにした方が動けます」


「細かい行き先は?」


「送り状に書きます。でも、現場で見るのはこの三つです」


 課長はホワイトボードを見る。


 少し黙る。


「分かりやすいな」


「ありがとうございます」


「これ、明日の朝も残しとけ」


「はい」


 相沢は頷いた。


 残る。


 ホワイトボードに書いた線が。


 それが少しだけ、村の板と重なった。


     ◇


【火曜日 17:56/会社・発送口】


 発送口は戦場だった。


 台車。


 段ボール。


 冷蔵便の発泡箱。


 送り状。


 ガムテープ。


 営業部の人間。


 物流担当。


 集荷のトラック。


 全部が狭い場所に集まっている。


「これ冷蔵ですか?」


「常温!」


「こっち手持ちじゃなかった?」


「誰か送り状持ってません?」


「テープ切れた!」


 声が飛ぶ。


 人が寄る。


 詰まりかける。


 相沢は一度、深呼吸した。


 走るな。


 全部に行くな。


 見る順番。


「冷蔵、左」


 声を出す。


「常温、右。

 手持ちは壁際。

 送り状はここ」


 机の角を叩く。


「テープは一か所。

 持って歩くな」


 物流担当の一人が顔を上げる。


「誰ですか、テープ持っていったの」


 若手が慌てて戻す。


「すみません」


「謝る前に戻す」


 相沢は言ってから、マルタみたいだと思った。


 嫌だった。


 少しだけ頼もしくもあった。


 荷物の流れが少しずつ整う。


 冷蔵。


 常温。


 手持ち。


 三つに分けるだけで、人の足が止まる。


 止まるべき場所で止まる。


 動くべき場所で動く。


 全部は完璧ではない。


 それでも、崩れない。


「相沢さん、冷蔵便これで全部です!」


「リスト」


「丸ついてます!」


「箱数」


「六!」


「送り状」


「貼りました!」


「出して」


 冷蔵品が出る。


 台車が動く。


 発送口の空気が少し軽くなる。


 相沢は息を吐いた。


 現代の仕事だ。


 得意先に商品を見せるための準備。


 売上のため。


 会社のため。


 でも、体は村と同じ動き方をしている。


 止まるな。


 詰まらせるな。


 分けろ。


 置け。


 呼べ。


 水ではなく冷蔵便。


 火ではなく締切。


 ゴブリンではなく集荷時間。


 それでも、負荷は負荷だった。


     ◇


【火曜日 20:18/会社・営業部】


 二日目が終わった。


 明日は水曜。


 展示会本番。


 東京。


 会場入り。


 搬入。


 設営。


 来場者。


 得意先。


 説明。


 試食。


 名刺。


 上司。


 全部が来る。


 だが、相沢の一日はまだ終わっていなかった。


「相沢、新幹線、間に合うか」


 課長が言った。


「間に合わせます」


「明日、朝イチで会場入りな」


「分かってます」


 展示会の荷物は先に出した。


 人間はこれから東京へ向かう。


 相沢は机に戻った。


 足が重い。


 肩が硬い。


 頭の奥が熱い。


 だが、倒れてはいない。


 それだけは守った。


 スマホが震えた。


 七瀬からだった。


『今日はありがとうございました。

 提案書、D店用に一部だけ修正お願いします。

 あと、ちゃんと食べてください』


 相沢は画面を見た。


 最後の一文で、少しだけ息が抜けた。


 返信を打つ。


『修正します。食べます。今から東京へ移動です』


 送信する。


 すぐ既読がついた。


『今から?』


『明日朝イチ会場入りなので』


 少し間があった。


『本当に倒れないでください』


 相沢は返信を打つ。


『倒れないようにします』


 すぐ返ってきた。


『信用は半分にしておきます』


 半分。


 悪くない。


 相沢はスマホを伏せる。


 机の横に置いた鞄を見る。


 展示会資料。


 着替え。


 ノート。


 充電器。


 そして、コンビニで買った飴の袋。


 朝、買うつもりはなかった。


 でも、帰りに買っていた。


 個包装。


 小さい。


 軽い。


 分けやすい。


 子供にも渡せる。


 口に入れれば、少しだけ気が紛れる。


 ただし、配り方を決めないと揉める。


 誰に渡すか。


 いつ渡すか。


 何個までか。


 相沢は頭を押さえた。


 日本で飴を見て、異世界の配布ルールを考えている。


 疲れている。


 かなり。


 それでも、頭は止まらない。


     ◇


【火曜日 21:06/新大阪駅】


 新大阪駅は明るかった。


 夜なのに、人が多い。


 出張帰りのスーツ。


 キャリーケース。


 土産袋。


 改札の音。


 構内放送。


 売店の光。


 弁当の棚。


 飲み物の棚。


 全部が、まだ動いている。


 相沢は新幹線の表示を見る。


 東京行き。


 まだ乗れる。


 間に合った。


 間に合ってしまった。


「現代の方が疲れるな」


 本気でそう思った。


 異世界ではゴブリンがいた。


 火もあった。


 水も足りなかった。


 だが、現代は現代で、人を休ませない。


 月曜。


 火曜。


 展示会準備。


 発送。


 得意先対応。


 そのまま東京。


 休みとは何なのか。


 相沢は売店で弁当を見た。


 白飯。


 肉。


 魚。


 惣菜。


 小さな漬物。


 多い。


 また、そう思う。


 食べるべきだ。


 新幹線で食べないと、ホテルに着く頃には面倒になっている。


 相沢は弁当を一つ取った。


 それから水。


 少し迷って、乾燥わかめの小袋も手に取った。


 新幹線で食べるものではない。


 だが、軽い。


 小さい。


 水で戻る。


 少量で増える。


 塩気もある。


 村へ持っていけるかもしれない。


 相沢はそれを見て、ため息をついた。


 展示会のために東京へ行く途中で、異世界の倉庫を考えている。


 かなりまずい。


 それでも、棚へ戻さなかった。


     ◇


【火曜日 21:38/東海道新幹線・車内】


 新幹線が動き出した。


 窓の外の明かりが流れる。


 大阪が後ろへ遠ざかる。


 相沢は座席に沈んだ。


 体が限界を訴えている。


 だが、頭はノートを開いた。


 ページの上に、二つの見出しを書く。


 展示会。


 村。


 それから、少し考えて、真ん中に線を引いた。


 分ける。


 混ぜると詰まる。


 展示会側。


 D店説明。


 試食品補充。


 名刺分類。


 価格表確認。


 村側。


 袋。


 塩。


 乾物。


 印。


 計量。


 飴。


 持ち込み量。


 配布ルール。


 相沢はペンを止めた。


 どちらも仕事に見える。


 展示会は仕事だ。


 村は仕事ではない。


 なのに、村の方が重い。


 車内販売はない。


 代わりに、駅で買った弁当が膝の上にある。


 相沢はふたを開けた。


 白飯。


 焼き魚。


 唐揚げ。


 卵焼き。


 煮物。


 漬物。


 日本の弁当は、きちんと仕切られている。


 味が混ざらないように。


 水分が移らないように。


 食べる順番を選べるように。


 相沢はその仕切りを見て、村の袋を思い出した。


 湿った袋。


 焦げた袋。


 無事な袋。


 分ける。


 混ぜない。


 守る。


「……弁当まで倉庫に見えてきた」


 かなり末期だ。


 それでも食べた。


 米粒を残さない。


 煮物の汁も、こぼさない。


 箸袋の上に、使った箸をきちんと置く。


 全部が、少し過剰だった。


 だが、やめられなかった。


     ◇


【火曜日 22:46/東海道新幹線・車内】


 七瀬からメッセージが来た。


『新幹線、乗れましたか』


 相沢は返信する。


『乗れました。弁当も食べました』


 すぐ既読。


『証拠は?』


 相沢は空の弁当箱を見た。


 写真を撮るのは、さすがに変だ。


『完食しました』


『信用は六割に上げます』


『上がるんですね』


『食べたなら上がります』


 相沢は小さく笑った。


 車内で一人、スマホを見て笑う営業。


 かなり疲れている。


『明後日、展示会行きます。売場目線で見ます』


 相沢はその一文を見る。


 展示会の話だ。


 商品の話。


 提案の話。


 売場導線の話。


 それなのに、妙に緊張した。


『お願いします』


 送信。


 スマホを伏せる。


 ノートを見る。


 展示会。


 村。


 線を引いたはずなのに、どちらも同じ字で書かれている。


 疲れている。


 かなり。


 だが、明日は水曜。


 展示会本番初日。


 その先に木曜。


 七瀬が来る。


 その先に金曜。


 展示会最終日。


 その先に三連休。


 戻れるかもしれない日。


 希望ではない。


 負荷だ。


 相沢はペンを置いた。


 窓の外を見る。


 暗い。


 自分の顔が映る。


 ひどい顔だった。


「顔、管理しろって言われるわけだ」


 相沢は目を閉じた。


 眠れそうで、眠れない。


 新幹線の揺れが、村の夜とは違うリズムで体を揺らしていた。


     ◇


【火曜日 23:48/東京・ビジネスホテル】


 ホテルの部屋は狭かった。


 ベッド。


 机。


 テレビ。


 小さな冷蔵庫。


 ユニットバス。


 それだけ。


 相沢は鞄を置き、ベッドに座った。


 体が沈む。


 動きたくない。


 だが、やることはある。


 明日の資料確認。


 D店用提案書の修正。


 試食台の配置案。


 補充品の確認。


 そして、三連休用の買い物リスト。


 相沢は机の上に、買ったものを並べた。


 乾燥わかめ。


 飴。


 油性ペン。


 小さなラベル。


 大阪の部屋に置いてきた物もある。


 全部は持ってきていない。


 当然だ。


 これは展示会出張だ。


 異世界遠征ではない。


 だが、机の上の小物は、どう見ても村のためのものだった。


 相沢は乾燥わかめの袋を手に取る。


 軽い。


 これなら持てる。


 ただし、使い方を決めないと駄目だ。


 粥に入れる量。


 戻す水。


 塩との兼ね合い。


 誰が管理するか。


 マルタに渡す。


 いや、最初は一緒に試す。


 勝手に配らない。


 子供に直接渡さない。


 相沢はそこまで考えて、机に額をつけそうになった。


 疲れている。


 相当。


 現代にはシステム表示はない。


 だが、今なら分かる。


 表示が出ていたら、きっとこうだ。



【対象:

 相沢誠司】


【疲労蓄積:

 高】


【推奨:

 休息】



「分かってる」


 相沢は小さく言った。


 誰も答えない。


 それでいい。


 スマホが震えた。


 七瀬からだった。


『着きましたか』


 相沢は返信する。


『着きました』


『明日、倒れないでくださいね』


 相沢は返信を打つ。


『倒れません』


 少し考えて、消す。


 もう一度打つ。


『倒れないようにします』


 送信。


 少し間があって、返ってきた。


『その方が信用できます。おやすみなさい』


 相沢は画面を見た。


 おやすみなさい。


 その普通の言葉が、妙に遠かった。


『おやすみなさい』


 送信。


 スマホを伏せる。


 相沢は机の上の袋とラベルを、まとめて一か所に置いた。


 定位置。


 明日の展示会が終わったら、足りないものを買えるかもしれない。


 水曜。


 木曜。


 金曜。


 その先に三連休がある。


 休みではない。


 戻れるかもしれない日だ。


 相沢はベッドへ倒れ込んだ。


 目を閉じる。


 村の夜は、もう朝になっただろうか。


 答えはない。


 ただ、明日の展示会本番だけが、確実に近づいていた。

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