第八十一話 月曜の床
【月曜日 0:07/大阪・相沢の部屋】
床に座ったまま、相沢は動けなかった。
電気は点いている。
冷蔵庫は鳴っている。
スマホは充電ケーブルにつながったまま、床の上で光っている。
全部、見慣れたものだった。
だが、どれも少し遠い。
さっきまで火の明かりを見ていた。
木の板を見ていた。
ミナの顔を見ていた。
ガンツの声を聞いていた。
それが、急に蛍光灯の白い光に変わった。
「……途中だろ」
もう一度、相沢は呟いた。
返事はない。
オカンも出ない。
システム表示もない。
ただ、スマホの画面だけが、無神経に日付を示していた。
月曜日。
0:07。
村では、まだ夜のはずだった。
北の森は黒い。
倉庫の戸は少しだけ開いている。
井戸には枝の音鳴らしがある。
治療所にはリリアがいる。
ミナは広場を見る。
ガンツは前を見る。
相沢はそこにいない。
それが、頭では分かっているのに、体が理解しない。
相沢は膝に手をついた。
立とうとする。
立てない。
足が重い。
異世界で歩いた分。
走った分。
座らなかった分。
全部が、日本の部屋までついてきていた。
「……持ち帰り可かよ」
誰にともなく言った。
笑えなかった。
◇
【月曜日 0:51/大阪・相沢の部屋】
冷蔵庫を開けた。
眩しい。
小さな庫内灯が、やけに明るい。
ペットボトルの水。
パックの味噌汁。
卵。
納豆。
コンビニで買ったサラダ。
食べかけの惣菜。
全部、当たり前に冷えている。
腐らないように。
虫がつかないように。
湿気で駄目にならないように。
ただ置くだけで、守られている。
相沢はしばらく冷蔵庫の中を見ていた。
村の倉庫を思い出す。
焦げた袋。
湿った袋。
丸印。
二本線。
焦げ布。
マルタの声。
「物だけ増やしても、倉庫は広くならない。
間違えたら、飯が減る」
相沢はペットボトルの水を一本取った。
冷えている。
水が冷えている。
それだけで、少し腹が立った。
誰に対してでもない。
日本に対してでもない。
自分に対してでもない。
ただ、あまりにも簡単だった。
キャップをひねるだけで、水が飲める。
井戸へ行かなくていい。
木片を置かなくていい。
順番もない。
火の時に残すかどうかも考えなくていい。
相沢は水を飲んだ。
飲まない選択はなかった。
飲まないと倒れる。
それくらいは分かる。
だが、水が喉を通るたび、井戸のそばに座るハルトの顔が浮かんだ。
「……勝手に飲むな、か」
相沢はペットボトルを見た。
半分以上残っている。
それを冷蔵庫へ戻す。
戻してから、少し考えた。
置き場所。
定位置。
相沢は、冷蔵庫のドアポケットにペットボトルを揃えて入れ直した。
意味はない。
自分の部屋だ。
誰も困らない。
それでも、曲がったままにはできなかった。
◇
【月曜日 2:14/大阪・相沢の部屋】
眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
だが、眠れない。
頭の中で、何度も北の森が鳴る。
枝が折れる。
伝令が走りかける。
ミナが止める。
早歩きになる。
村が、自分を通らずに動く。
そこまではいい。
そこから先が分からない。
あの後、何かが来たのか。
火は出たのか。
井戸は守れたのか。
治療所で誰かが悪くなったのか。
赤ゴブリンは見ているだけだったのか。
朝になったのか。
分からない。
相沢は布団の中でスマホを見る。
2:14。
日本の時間は進んでいる。
村の時間も進んでいるはずだった。
だが、確認できない。
既読のつかないメッセージを待つより、ずっと悪い。
送ることすらできない。
相沢はスマホを伏せた。
目を閉じる。
リリアの声を思い出す。
「見えない場所で倒れられるのは、もっと困ります」
あれは、効いた。
静かな言葉だった。
責めるでもない。
すがるでもない。
ただ、困ると言った。
その方が重かった。
「倒れないように、か」
相沢は呟いた。
現代の部屋で、異世界の治療師に言われたことを守ろうとしている。
意味が分からない。
でも、守るしかなかった。
相沢は目を閉じた。
眠れないまま、少しだけ意識が沈んだ。
◇
【月曜日 6:42/大阪・相沢の部屋】
アラームで起きた。
眠った気がしない。
スマホが鳴っている。
月曜の朝。
現代の強制イベント。
相沢は布団の上でしばらく固まった。
体が重い。
腰。
肩。
足。
喉。
全部が異世界からの持ち越しだった。
だが、会社は待たない。
展示会準備も待たない。
スマホの通知が出ている。
上司。
営業部グループ。
展示会搬入確認。
資料修正版。
サンプル着荷予定。
会場入り時間。
文字が並ぶ。
相沢は画面を見た。
役割表に似ていると思った。
誰が持つ。
誰が運ぶ。
誰が説明する。
誰が見る。
誰が呼ぶ。
誰が止める。
場所が違うだけだ。
相沢はベッドから起き上がる。
足がふらついた。
壁に手をつく。
視界の端に、表示は出ない。
オカンはいない。
現代では、誰も着座を推奨してくれない。
「……不便だな」
言ってから、少しだけ嫌になった。
自分で座ればいいだけだ。
相沢は一度、椅子に座った。
水を飲む。
昨日、いや数時間前に冷蔵庫へ戻したペットボトル。
冷たい。
飲む。
それから、立つ。
リリアに見られている気がした。
◇
【月曜日 7:38/大阪・コンビニ】
朝飯を買うために、コンビニへ寄った。
おにぎり。
パン。
サンドイッチ。
弁当。
惣菜。
カップ味噌汁。
水。
茶。
ゼリー飲料。
棚が埋まっている。
多い。
最初に思ったのは、それだった。
いつもなら、何を食うかで迷う。
今日は、量に圧された。
ここにあるだけで、村の何日分だろう。
考えかけて、やめる。
計算しても意味がない。
ここから村に運べるわけではない。
だが、目は勝手に見る。
賞味期限。
包装。
密封。
湿気。
軽さ。
持ち込みやすさ。
使い切れる量。
分けやすさ。
相沢は、乾燥わかめの小袋の前で足を止めた。
味噌汁用。
軽い。
水で戻る。
少量で増える。
塩気もある。
ただし、味に慣れるかは分からない。
次に、飴。
小分け。
すぐ配れる。
子供にも渡せる。
ただし、食料というより一時しのぎ。
次に、チャック袋。
棚ではなく、日用品の方。
相沢はそちらへ歩きかけて、止まった。
今は出勤前だ。
展示会準備がある。
買い込んで持っていく時間ではない。
だが、目はもう戻らなかった。
買うものが、食べるものではなくなっている。
守るもの。
分けるもの。
残すもの。
相沢はおにぎりを二つ取った。
鮭。
昆布。
それから、カップ味噌汁を一つ取る。
レジへ向かう途中、廃棄間近の値引きシールが貼られた弁当が目に入った。
足が止まった。
白飯。
唐揚げ。
卵焼き。
小さな漬物。
それだけで、村の薄い粥を思い出す。
相沢はしばらく見た。
「温めますか?」
レジの声で、我に返る。
「あ、いや。大丈夫です」
声が少し遅れた。
店員は何も気にしていない。
当たり前だ。
ただの月曜の朝だ。
◇
【月曜日 8:46/会社・営業部】
会社の空気は、いつも通りだった。
パソコンの起動音。
電話。
コピー機。
誰かの咳払い。
上司の声。
現代の村。
いや、違う。
村ではない。
だが、人がいて、物があり、締切がある。
止まると困る。
そこは同じだった。
「相沢」
課長が声を飛ばす。
「展示会のサンプル、今日の午前着予定だから、着いたら検品して。あと東京の会場に送る什器リスト、昨日の夜に修正版来てる」
「確認します」
「あと、POPの差し替え。新商品の価格表、古いの混ざってるらしいから」
「古いのは捨てますか」
「いや、念のため持っといて」
相沢は一瞬止まった。
混ざる。
古いものと新しいもの。
必要なものと不要なもの。
持っておくものと、使ってはいけないもの。
「分けます」
「あ?」
「古い価格表は封筒を変えて、会場では触らない箱に入れます」
「ああ、まあ、任せる」
課長はすでに別の人間を呼んでいた。
相沢は資料棚へ向かう。
新しい価格表。
古い価格表。
販促チラシ。
名刺受け。
試食用の紙皿。
スプーン。
アルコール。
手袋。
全部が棚にある。
だが、見え方が違う。
倉庫だ。
会社の棚が、倉庫に見える。
丸印。
二本線。
触るな。
今使う。
残す。
確認する。
相沢は付箋を取った。
赤。
青。
黄色。
そこで手が止まる。
記号の方がいい。
文字だけでは、忙しい時に見落とす。
相沢は赤い付箋に大きく丸を書いた。
青には線を二本。
黄色には斜線。
それを封筒に貼る。
見れば分かる。
忙しい時でも、間違えにくい。
誰かが相沢に聞かなくても動ける。
それが大事だった。
◇
【月曜日 10:37/会社・会議室】
展示会準備は、すぐに現実へ戻った。
会議室の長机に、資料とサンプルが並ぶ。
新商品。
既存品。
試食品。
冷蔵品。
常温品。
販促物。
説明パネル。
名刺入れ。
紙皿。
スプーン。
アルコール。
手袋。
足りないもの。
多すぎるもの。
混ざっているもの。
全部が一つの机に乗っている。
「一回、分けましょう」
相沢が言った。
営業部の若手が顔を上げる。
「もう分けてません?」
「用途で分ける」
「用途?」
「展示するもの。
配るもの。
食べさせるもの。
説明するもの。
触らせないもの」
若手がホワイトボードに書く。
展示。
配布。
試食。
説明。
触らない。
相沢はその横に記号を描いた。
丸。
袋。
皿。
紙。
斜線。
「文字も書くけど、印もつける」
「なんか倉庫みたいですね」
若手が言った。
相沢は手を止めた。
「そうだな」
倉庫。
その言葉が、胸に刺さる。
マルタの声。
物だけ増やしても、倉庫は広くならない。
間違えたら、飯が減る。
会社の会議室なら、間違えても飯は減らない。
せいぜい怒られる。
せいぜい得意先に迷惑をかける。
せいぜい売上が落ちる。
だが、その「せいぜい」が現代では大きい。
相沢は息を吐いた。
「混ぜると、現場で詰まる」
言葉が自然に出た。
「現場で詰まると、誰かが走る。
走ると、余計に崩れる。
だから、今分ける」
会議室が少し静かになった。
課長も見る。
「……相沢、今日やけに厳しいな」
「展示会前なので」
「まあ、そうだな。続けて」
相沢は頷く。
机の上のサンプルを動かす。
赤丸。
青線。
黄色斜線。
見れば分かる。
忙しい時でも、間違えにくい。
誰かが相沢に聞かなくても動ける。
それが大事だった。
会社でも、同じことをしている。
自分がいなくても回るように。
だが、会社ではそれを評価される。
村では、それが生死に関わる。
差はある。
でも、手の動きは同じだった。
◇
【月曜日 11:58/食品スーパーD店・バックヤード】
相沢は食品スーパーD店にいた。
展示会準備の合間。
得意先への資料確認。
新商品の採用前提の確認。
それから、展示会当日に来場する予定の食品チーフへの案内。
理由はいくらでもあった。
理由がありすぎる時ほど、仕事は断れない。
バックヤードには、段ボールが積まれている。
日配。
菓子。
調味料。
飲料。
平台用の販促物。
売場に出る前の商品。
会社の会議室より、こちらの方がずっと倉庫に近かった。
賞味期限。
入荷日。
売場展開日。
値引き予定。
廃棄予定。
全部が紙と数字で管理されている。
だが、忙しくなれば混ざる。
混ざれば、誰かが探す。
探す時間は無駄。
無駄な時間は、現場を詰まらせる。
「相沢さん」
声がした。
七瀬だった。
白い作業着の上に、食品部門のエプロン。
髪はきちんとまとめている。
食品スーパーD店の食品チーフ。
相沢の得意先側の担当者。
同僚ではない。
相沢の商品を売場で扱う側の人間だ。
だから、七瀬の一言は軽くない。
売場が動くかどうかを知っている人の声だった。
「お疲れ様です」
相沢が頭を下げる。
七瀬は資料を見る前に、相沢の顔を見た。
「顔、死んでます」
「月曜なので」
「月曜の顔じゃないです」
「展示会前なので」
「展示会前の顔でもないです」
「じゃあ何の顔ですか」
「休日に休んでない人の顔です」
相沢は返事に詰まった。
正確だった。
嫌になるくらい。
「休みました」
「嘘ですね」
「少しは寝ました」
「その言い方、寝てない人です」
七瀬は相沢の持っていた資料を見る。
赤丸。
青線。
黄色斜線。
「これは?」
「展示会用の資料を混ぜないための印です」
「文字じゃ駄目なんですか」
「忙しいと読まない」
「それは分かります」
七瀬はバックヤードの棚を見た。
「うちも、忙しい時は値引き札すら見落としますから」
「ですよね」
「赤丸が今日使うもの?」
「はい」
「青線が予備?」
「はい」
「黄色斜線が触らない?」
「はい」
「分かりやすいですね」
相沢は少しだけ止まった。
分かりやすい。
その一言が、妙に効いた。
エルの声を思い出す。
丸は人。
布は怪我。
波は井戸。
見れば分かる。
「……子供でも分かる方がいいので」
「子供?」
「あ、いや。売場でも、ぱっと見で分かる方がいいですから」
七瀬は少し首を傾げた。
それ以上は聞かなかった。
代わりに、資料をめくる。
「展示会、今週の水曜からでしたよね」
「水木金です」
「食品チーフ向けの説明枠、木曜の午後に行きます」
「ありがとうございます」
「展示会前に、D店用の提案書だけ先に見ておきたくて」
「今、確認します」
「その前に」
七瀬は相沢を見た。
「朝ごはん、食べました?」
「買いました」
「食べました?」
「……一つは」
「二つ買ったんですね」
「はい」
「もう一つ食べてください」
「今ですか」
「今です」
「バックヤードで?」
「休憩室行きましょう」
相沢は資料を見た。
「先に資料を」
「食べてからです」
「展示会前ですよ」
「だからです。倒れられたら、うちの提案も止まります」
言い方が、少しリリアに似ていた。
静かではない。
七瀬はもっと現代的で、遠慮もある。
それでも、言っていることは同じだった。
相沢は反論を飲み込んだ。
◇
【月曜日 12:18/食品スーパーD店・休憩室】
休憩室のテーブルに、相沢はおにぎりを置いた。
昆布。
朝、コンビニで買ったものだ。
七瀬は自販機で買ったお茶を置き、自分はカップスープのふたを開けている。
「得意先の休憩室で飯食う営業って、どうなんですか」
相沢が言った。
「顔死んでる営業を商談に出すよりましです」
「厳しいですね」
「食品チーフなので」
「関係あります?」
「あります。食べない人に食品の提案されても、説得力ないです」
「正論ですね」
「はい」
相沢は包装を開ける。
白飯。
海苔。
昆布。
塩。
味が濃い。
うまい。
うまいのに、少し重い。
村の薄い粥を思い出す。
塩をほんの少し。
それだけで村人が顔を上げた。
今、自分は一人で一つのおにぎりを食べている。
普通のことだ。
日本では、当たり前の昼飯だ。
それなのに、米粒の一つまで目がいく。
相沢は黙って食べた。
包装に残った米粒も、指で取る。
七瀬がそれを見ていた。
「相沢さん」
「何ですか」
「今日、やけに綺麗に食べますね」
「普段、汚いみたいに言わないでください」
「そうじゃなくて」
七瀬は少し迷う。
「残さないんだな、と思って」
相沢は手元の包装を見る。
米粒は残っていない。
「……もったいないですから」
「食品メーカーの人っぽいです」
相沢は少し黙った。
「今のは、たぶん仕事じゃないです」
七瀬は何か言いかけて、やめた。
その沈黙が、妙にありがたかった。
休憩室の隅には、廃棄予定品を一時的に入れるケースが置かれていた。
値引きしても売れなかった弁当。
消費期限の近い惣菜。
傷みかけのカット野菜。
相沢は、見ないようにした。
だが、見えた。
唐揚げ。
白飯。
小さなポテトサラダ。
粥に入れたら、何人分の匂いになるだろう。
そんな計算が、勝手に頭に浮かんだ。
「相沢さん?」
「すみません」
「何かありました?」
相沢はお茶を飲む。
言えるわけがない。
日曜に異世界で村を回していた。
赤いゴブリンがいる。
今朝まで火と水と呼ぶことを考えていた。
そんなことを言えるわけがない。
「食べ物の見え方が、ちょっと変わっただけです」
結局、それだけ言った。
七瀬はすぐには返さなかった。
「食品メーカーだから?」
「たぶん、それもあります」
「それ以外も?」
「あります」
「聞いてもいいやつですか」
「今は、説明できないです」
七瀬は少し考えた。
そして、頷いた。
「じゃあ、今は聞きません」
「助かります」
「ただし、水飲んでください」
「お茶は飲みました」
「水もです」
「オカンが増えたな」
「誰がオカンですか」
「何でもないです」
七瀬は少し不満そうにした。
だが、それ以上は言わなかった。
◇
【月曜日 13:04/食品スーパーD店・食品売場】
商談は短かった。
短くするしかなかった。
相沢の会社は展示会準備で詰まっている。
D店側も、昼過ぎの品出しと夕方の売場づくりがある。
七瀬は食品売場を歩きながら、相沢の提案書を見た。
「展示会で出す新商品、うちでも試食販売できます?」
「できます。日程を合わせれば」
「土日は人が多いので、できれば三連休のどこかで」
相沢の足が止まりそうになった。
三連休。
土日祝。
異世界に戻れるかもしれない三日間。
だが、現代では得意先の売場予定も入ってくる。
「三連休ですか」
「難しいですか」
「いえ、確認します」
「顔」
「出てました?」
「出てました」
「何の顔ですか」
「休みの予定を聞いたのに、仕事を増やされた人の顔です」
「正しいです」
「すみません」
「いえ。仕事なので」
相沢は売場を見る。
平台。
冷蔵ケース。
棚。
通路。
客の流れ。
昼過ぎで客数は多くない。
それでも、カートが二台並ぶと通路が細くなる。
試食台を置くなら、ここは詰まる。
販促物を立てすぎると、視界が切れる。
冷蔵品の補充動線と客の流れがぶつかる。
「ここ、試食台を置くと詰まります」
相沢が言った。
七瀬が顔を上げる。
「そこまで見ます?」
「癖です」
「前からですか」
「前から、たぶん。でも今はもっと気になります」
「じゃあ、どこがいいですか」
相沢は少し歩く。
青果側から流れてくる客。
精肉へ向かう客。
惣菜へ抜ける客。
冷蔵平台の横。
少し空きがある。
「ここなら、流れを止めにくいです」
「でも、目立ちにくくないですか」
「目立たせるのはPOPで。
人は詰まらせない方がいい」
七瀬は少し黙った。
「相沢さん、今日、本当に現場の見方が細かいですね」
「展示会前なので」
「それ、便利に使ってますよね」
「はい」
「認めるんだ」
七瀬は小さく笑った。
その笑いで、少しだけ息ができた。
◇
【月曜日 15:46/会社・会議室】
会社に戻ると、サンプルの箱が届いていた。
予定より遅い。
しかも、一部が別便だった。
会議室が一気にざわつく。
「え、これ水曜の朝で間に合います?」
「冷蔵品は?」
「東京へ送る分、今日出さないとまずくないですか」
「誰がチェックするんですか」
声が増える。
人が箱の周りへ寄る。
詰まる。
相沢は立ち上がった。
「箱から離れて」
声が出た。
少し強かった。
会議室が止まる。
「見る人と動く人を分ける」
若手がホワイトボードの前へ行く。
相沢は箱を指す。
「開ける人は二人。
中身を読む人は一人。
リストに印をつける人は一人。
足りないものを営業部へ戻す人は一人」
「自分、リストやります」
若手が言った。
「頼む」
相沢は箱を見る。
焦るな。
全部に手を出すな。
箱は逃げない。
だが、時間は逃げる。
「冷蔵品は最優先。
常温品は後。
販促物は最後」
「販促物、最後でいいんですか」
「腐らない」
言ってから、少しだけマルタを思い出した。
食い物は黙って腐る。
会社の会議室で、その言葉が刺さるとは思わなかった。
箱が開く。
中身が出る。
リストに印が入る。
足りないものが見える。
人の動きが少しずつ整う。
現代の会議室で、村の板と同じことをしている。
「相沢さん」
若手がリストに丸をつけながら言った。
「今日、怖いです」
「悪い」
「でも、分かりやすいです」
相沢は手を止めなかった。
「ならいい」
「よくはないです」
「どっちだ」
「倒れない範囲で怖くしてください」
「難しい注文だな」
「できます?」
「たぶん」
「信用できないですね」
相沢は返せなかった。
◇
【月曜日 19:32/会社・営業部】
展示会準備の一日目が終わった。
終わったというより、今日はここで切るしかなかった。
会議室には箱が残っている。
資料も残っている。
確認待ちもある。
だが、人間の方が先に限界だった。
「明日、朝イチで続き」
課長が言った。
「水曜搬入だからな。明日で全部固めるぞ」
営業部の何人かが、力なく返事をする。
相沢は机に戻った。
足が重い。
肩が硬い。
頭の奥が熱い。
だが、倒れてはいない。
それだけは守った。
スマホが震えた。
七瀬からだった。
『今日はありがとうございました。
提案書、D店用に一部だけ修正お願いします。
あと、ちゃんと食べてください』
相沢は画面を見た。
最後の一文で、少しだけ息が抜けた。
返信を打つ。
『修正します。食べます』
送信する。
すぐ既読がついた。
『信用していいですか?』
相沢は少し考える。
『努力します』
すぐに返ってきた。
『信用できない返事ですね』
相沢は、会社の机で小さく笑った。
その横で、コンビニで買った飴の袋が目に入る。
朝、買うつもりはなかった。
でも、帰りに買っていた。
個包装。
小さい。
軽い。
分けやすい。
子供にも渡せる。
口に入れれば、少しだけ気が紛れる。
ただし、配り方を決めないと揉める。
誰に渡すか。
いつ渡すか。
何個までか。
相沢は頭を押さえた。
日本で飴を見て、異世界の配布ルールを考えている。
疲れている。
かなり。
それでも、頭は止まらない。
七瀬から、もう一通来た。
『水も飲んでください』
「オカンが増えたな」
相沢は呟いた。
会社の誰も反応しない。
相沢はペットボトルを取った。
水を飲む。
それから、窓の外を見た。
大阪の夜。
ビルの明かり。
車の音。
コンビニの看板。
どこにも森はない。
火も見えない。
水も足りている。
呼べば誰かが来る。
それなのに、胸の奥ではまだ村の夜が続いていた。
火。
水。
呼ぶ。
そして、三連休。
戻れるかもしれない時間が、今度は希望ではなく、次の負荷として見えていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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