第八十話 消える前に
【日曜日 21:41/広場中央】
北の森は、それきり沈黙した。
何も起きない。
それが一番、疲れる。
火が来れば消せる。
石が来れば伏せられる。
ゴブリンが来れば、ガンツが前に立つ。
だが、何も来ない時間は、ただ削る。
目。
耳。
喉。
足。
心。
全部を少しずつ削る。
相沢は広場中央の板を見ていた。
火。
水。
呼ぶ。
その三つだけが、夜の村に残っている。
「回し屋」
ミナが低く言った。
「顔」
「またか」
「また」
「何が出てる」
「帰る顔」
相沢は黙った。
うまいことを言う。
そして、嫌なほど当たっている。
「まだいる」
「うん」
「でも、近い」
「うん」
ミナは板を見る。
「消える時って、分かるの?」
「分からない」
「急に?」
「たぶん」
「嫌だね」
「嫌だな」
相沢は広場を見た。
村長は板の横に座っている。
マルタは倉庫前。
ハルトは井戸。
リリアは治療所。
ガンツは北。
ダリオは治療所の奥で森の音を聞いている。
エルは弟の手を握っている。
それぞれが、それぞれの場所にいた。
完璧ではない。
でも、場所はあった。
それだけは、昨日と違う。
「ミナ」
「何」
「俺が消えたら」
「言わなくていい」
「言う」
「……じゃあ、三つだけ」
相沢は少しだけ笑った。
さっき自分が言った言葉を返された。
「火」
「見る人だけ見る」
「水」
「勝手に井戸へ行かない」
「呼ぶ」
「走らない。早歩きで呼ぶ」
「赤いのが出たら」
ミナが顔を上げた。
「追うな」
相沢は言った。
ミナは頷く。
「追わない」
「ガンツにも」
「ガンツは分かってる」
「分かってても言う」
「言う」
「ダリオの話は」
「聞く」
「リリアさんを」
「休ませる」
「マルタさんは」
「怒らせすぎない」
「それは無理かもしれない」
「無理だね」
ミナが少し笑った。
その笑いが、すぐに消える。
「回し屋」
「何だ」
「帰ったら、戻ってくる?」
相沢は即答できなかった。
戻る。
そう言いたかった。
だが、仕組みを完全に理解していない。
次の休日まで戻れないのか。
祝日なら戻れるのか。
平日は絶対に無理なのか。
分からない。
分からないことを、約束にするのは危ない。
でも、何も言わないのも違う。
「戻る方法を探す」
相沢は言った。
ミナはじっと見る。
「戻る、じゃないんだ」
「嘘は言わない」
「そういうところ、腹立つ」
「よく言われる」
「でも、そっちの方がいい」
ミナは板を見た。
「じゃあ、戻るまで回す」
相沢は黙った。
胸の奥に、何かが刺さった。
戻るまで。
その言葉が、村に置かれた。
◇
【日曜日 22:03/北柵】
相沢は北柵へ向かった。
行くなと言われる前に、歩き出した。
走らない。
早歩きでもない。
普通に歩く。
それだけでも、かなり抑えている方だった。
北柵では、ガンツが槍を持ったまま森を見ていた。
「来ると思った」
ガンツが言った。
「見るだけだ」
「俺の台詞だな」
「使えるものは使う」
「腹立つ」
相沢は柵の内側に立つ。
森は黒い。
風がある。
葉が鳴る。
どれが普通で、どれが異常なのか、相沢には分からない。
「ガンツ」
「あ?」
「俺が消えたら」
「聞いた」
「まだ言ってない」
「顔に書いてある」
「顔、多忙だな」
「管理しろ」
相沢は息を吐いた。
「赤いのが出ても追うな」
「追わねぇよ」
「言いたかった」
「なら聞いた」
「北に火が来たら」
「火を見る役が見る。
全員は動かさねぇ」
「井戸が騒がしくなったら」
「ハルトが怒鳴る」
「治療所は」
「リリアが刺す」
「言い方」
「違うのか」
「たぶん合ってる」
ガンツは少しだけ笑った。
目は森から離さない。
「お前がいねぇ間、村が燃えたらどうする」
ガンツが言った。
相沢は喉が詰まった。
「燃やさないでくれ」
「頼みか」
「頼みだ」
「なら、聞いてやる」
ガンツは槍を握り直した。
「前は俺が見る」
「ああ」
「後ろは、お前が置いていったやつらが見る」
相沢は広場の方を見る。
火明かり。
板。
人影。
声。
「そうだな」
「不安か」
「不安だ」
「だろうな」
「普通、励ますところじゃないのか」
「無理だろ」
「まあな」
ガンツは短く言った。
「でも、昨日よりはましだ」
それだけだった。
それだけで十分だった。
◇
【日曜日 22:26/倉庫前】
マルタは、倉庫の戸にもたれていた。
寝ていない。
休んでいるとも言い難い。
ただ、立っていないだけだった。
「帰る前の挨拶かい」
相沢が近づく前に、マルタが言った。
「顔に出てますか」
「背中に出てるよ」
「顔以外も駄目か」
「全部だね」
相沢は倉庫を見る。
「夜は動かさない」
「聞いたよ」
「丸の袋だけ」
「聞いた」
「焦げ布は触らない」
「聞いた」
「火が出たら」
「全員で袋を出さない」
「ええ」
マルタが睨んだ。
「今のは、ましだね」
「どうも」
「礼に近い」
「難しい」
「難しくしてるんだよ」
相沢は倉庫の入口に置かれた印を見た。
丸。
二本線。
焦げ布。
病人用の布。
火明かりでは、昼ほどはっきり見えない。
それでも、あるのとないのとでは違う。
「持ってくるもの」
マルタが言った。
「忘れるんじゃないよ」
「袋」
「塩」
「乾いたもの」
「印をつけるもの」
「あと」
相沢は考える。
「量を測るもの」
マルタは目を細めた。
「量?」
「毎回、勘で配ると揉める」
「揉めるね」
「少しでも同じに見える形がいる」
「同じにはならないよ」
「見えるだけでも違う」
マルタはしばらく黙る。
それから、鼻を鳴らした。
「持ってきな」
「持ってきます」
「持ってこられたら、だろ」
「そうなります」
「正直すぎる男は面倒だね」
「よく言われる」
「袋だの印だの、こっちにない物を持ってくるなら、使い方まで考えてきな」
「塩は?」
「塩は分かるよ」
マルタは低く言った。
「だからこそ怖いんだ。
誰が使うか決めてなきゃ、すぐ消える」
相沢は頷いた。
「ええ」
「どこに置くか。
誰が触るか。
いつ使うか。
どれくらい使うか」
マルタは倉庫の戸を軽く叩いた。
「物だけ増やしても、倉庫は広くならない。
間違えたら、飯が減る」
相沢はもう一度頷いた。
「ええ」
「だから、戻ってきな」
その言い方は乱暴だった。
だが、逃げ道はなかった。
「戻る方法を探します」
「探すんじゃない。戻るんだよ」
強い。
マルタの言葉は、いつも強い。
食料と同じで、ごまかしがない。
◇
【日曜日 22:49/治療所前】
治療所は、夜の匂いがした。
薬草。
湿った布。
汗。
薄い粥。
小さな呼吸。
リリアは入口近くに座っていた。
避難民の女が、奥を見ている。
エルは弟の手を握ったまま、眠りかけている。
でも、完全には寝ていない。
「エル」
相沢が小さく呼ぶ。
エルが目を開ける。
「はい」
「寝ていい」
「呼ぶ役です」
「呼ぶ役も寝る」
エルは困った顔をした。
リリアが静かに言う。
「交代です」
「でも」
「弟さんは、私が見ます」
「リリアさんも休む人です」
エルが言った。
相沢は少しだけ目を見開いた。
リリアも、一瞬だけ動きを止めた。
エルは板を見ていない。
だが、覚えている。
休む人。
それを、リリアに向けて言った。
リリアはしばらく黙った。
それから、小さく頷いた。
「そうですね」
相沢は笑いそうになった。
笑うと、泣きそうにもなった。
だから、何も言わなかった。
「では、少しだけ交代しましょう」
リリアが避難民の女を見る。
女が頷く。
「見ています」
「触らない」
エルが言った。
「はい。触らず、変なら呼びます」
エルは安心したのか、弟の横に体を丸めた。
それでも手は離さない。
相沢はその小さな手を見る。
教えたことが、また相沢を通らずに渡った。
気持ちがいい。
怖い。
残っている。
だから、置いていくのが怖い。
「アイザワ殿」
リリアが言った。
「はい」
「顔が忙しいです」
「最近、顔の仕事が多いですね」
「管理してください」
「努力します」
「努力ではなく、休息です」
「……はい」
リリアは相沢を静かに見た。
「帰るのですね」
相沢は頷いた。
「近いと思います」
「戻れますか」
「分かりません」
「そうですか」
リリアは、それ以上聞かなかった。
その代わり、言った。
「戻れない間に、誰かが悪くなるかもしれません」
「はい」
「それでも、こちらで見ます」
リリアはそう言った。
だが、その手は膝の上で少しだけ握られていた。
相沢は初めて気づいた。
リリアは落ち着いているのではない。
落ち着いている形を、崩さないようにしているだけだ。
「リリアさん」
「はい」
「怖くないんですか」
聞いてから、相沢は少し後悔した。
聞くことではなかったかもしれない。
リリアはすぐには答えなかった。
治療所の奥で、誰かが小さく咳をした。
避難民の女が顔を上げる。
リリアはその音を聞いてから、静かに言った。
「怖いです」
相沢は黙った。
「ですが、私が怖がると、ここにいる人がもっと怖がります」
「それは、しんどいですね」
「はい」
リリアは少しだけ目を伏せた。
「だから、今だけは怖がらないことにしています」
相沢は何も言えなかった。
治療所を見る人。
そう書けば一つの役になる。
だが、その役の中にいる人は、一人だった。
「リリアさんも、見られる側です」
相沢は言った。
リリアが目を上げる。
「俺が言うのも、変ですけど」
「はい。変です」
「即答ですね」
「ですが、必要なことです」
リリアは膝の上の手をゆっくり開いた。
「アイザワ殿」
「はい」
「こちらで倒れられるのも困りますが、見えない場所で倒れられるのは、もっと困ります」
「治療できないからですか」
「はい」
リリアは少しだけ間を置いた。
「それだけではありません」
相沢は返事ができなかった。
リリアはいつものように表情を大きく変えない。
だが、その言葉だけが、治療所の薄暗さの中に残った。
「食べて、眠って、戻れるなら戻ってください」
相沢は頷いた。
「はい」
「今の返事は、少しましです」
「少しだけですか」
「はい」
相沢は少しだけ笑った。
それくらいでいい。
今は、それ以上を言葉にすると、たぶん崩れる。
◇
【日曜日 23:11/広場中央】
村の板は、火明かりの中にあった。
焦げた木箱の蓋。
丸。
枝。
石。
布。
火。
水。
呼ぶ。
下手な手の印。
黒い布。
全部が、一枚の板に詰まっている。
相沢はその前に座った。
村長が隣にいる。
「ずいぶん、増えましたな」
村長が言った。
「増えすぎです」
「ですが、見えます」
「見えすぎると、使いにくくなります」
「では、残すものを選ぶ必要がありますな」
「はい」
相沢は木炭を取った。
大きな印だけを、板の上にもう一度なぞる。
火。
水。
呼ぶ。
「夜はこれだけ」
村長が頷く。
「朝になれば?」
「朝になれば、人と食料と水を数えます」
「朝になれば」
村長は同じ言葉を繰り返した。
祈りのようだった。
朝になれば。
燃えなければ。
止まらなければ。
誰かが生きていれば。
その時、また数えられる。
「アイザワ殿」
「はい」
「あなたがいない間、この板は村で預かります」
「お願いします」
「誰の板でもなく、村の板として」
「はい」
村長は杖を板の横に置いた。
「ミナ」
少し離れていたミナが顔を上げる。
「はい」
「広場を見る者として、この板も見てください」
ミナは一瞬だけ固まった。
そして、頷いた。
「分かった」
「マルタ」
倉庫前から声が返る。
「聞こえてるよ」
「倉庫の印は」
「私が見る」
「ハルト」
「井戸だろ。分かってる」
「リリア殿」
「治療所の呼ぶ印は、こちらで見ます」
「ガンツ」
北から、低い声が飛んだ。
「北は俺が見る」
村長は頷いた。
相沢はその声を聞いた。
村が答えている。
相沢ではなく、板に。
役に。
自分たちの場所に。
そのことが、胸に来た。
◇
【日曜日 23:42/広場中央】
体の奥に、違和感が出た。
最初はめまいかと思った。
違う。
疲労ではない。
空腹でもない。
眠気でもない。
もっと事務的なものだった。
終業時刻。
強制終了。
そういう言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
相沢は板を見た。
火。
水。
呼ぶ。
まだ言うことがある。
北を見る。
倉庫を閉める。
井戸の枝を戻す。
水を詰まらせない。
病人を勝手に動かさない。
赤ゴブリンを追わない。
ダリオの言葉を聞け。
エルに背負わせすぎるな。
ガンツを休ませろ。
リリアを一人にするな。
マルタに使い方を聞け。
全部、言っておきたい。
全部は無理だ。
ミナが相沢の顔を見た。
「何」
「来たかもしれない」
「帰るやつ?」
「ああ」
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【休日残存時間:
残り僅少】
【帰還準備:
開始】
【集落運用:
夜間継続中】
【重点項目:
火】
【重点項目:
水】
【重点項目:
伝達】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
着座】
⸻
「この状況で座れって出るのか」
相沢は呟いた。
ミナが腕を掴む。
「座って」
「いや」
「オカンも言ってるんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ座って」
相沢は座った。
認めたくないが、正しかった。
足に力が入りにくい。
村長が近づく。
リリアも治療所から顔を出す。
マルタが倉庫前で腕を組む。
ハルトが井戸から立ちかけて、座り直す。
ガンツは北から動かない。
動かない。
それでいい。
前を見る人は、前を見ている。
「アイザワ」
ガンツの声が、北から飛んだ。
「後ろは見るな」
相沢は北を見た。
ガンツは森を向いたままだ。
「前は俺が見る」
相沢は息を吸った。
「ああ」
声がかすれた。
「頼む」
「礼を言うな」
いつもの返し。
それが、ありがたかった。
◇
【日曜日 23:55/広場中央】
相沢は、まだ言うことを探していた。
火。
水。
呼ぶ。
それだけでは足りない。
だが、それ以上置くと、夜の村は迷う。
ミナが目の前にいる。
泣いてはいない。
怒ってもいない。
ただ、広場を見る顔になっている。
「火」
ミナが言った。
「水」
相沢が言う。
「呼ぶ」
ミナが続ける。
「追わない」
「走らない」
「勝手に動かさない」
「食料は」
「丸だけ」
「水は」
「木片」
「リリアさんは」
「休ませる」
「ガンツは」
「前を見る」
「ミナは」
ミナが止まった。
相沢は言う。
「広場を見る」
ミナは唇を噛んだ。
「分かった」
相沢は頷いた。
そして、まだ言いたかった。
「もし、北で――」
⸻
【休日残存時間:
終了】
【帰還処理:
実行】
⸻
視界が落ちた。
◇
【月曜日 0:00/大阪・相沢の部屋】
床だった。
冷たい。
硬い。
蛍光灯の白い光。
冷蔵庫の低い音。
スマホの充電器。
畳ではない。
土でもない。
煙の匂いもない。
相沢は、自分の部屋の床に倒れていた。
「……途中だろ」
声だけが出た。
返事はない。
相沢は起き上がろうとした。
体が重い。
異世界での疲れが、そのまま残っている。
スマホが光った。
月曜日。
0:00。
その表示を見た瞬間、胸の奥が沈んだ。
帰った。
でも、村の夜は終わっていない。
相沢は床に座ったまま、しばらく動けなかった。
頭の中で、三つの印だけが残っていた。
火。
水。
呼ぶ。
そして、もう一つ。
朝になれば。
その言葉が、蛍光灯の下で、いつまでも消えなかった。




