第七十九話 夜に残すもの
【日曜日 18:27/広場中央】
夕飯とは呼べなかった。
薄い粥。
少しの根菜。
焦げた袋から取り出した穀物。
塩をほんの少し。
それだけだった。
だが、昼よりも列は乱れなかった。
マルタが配る。
村長が順番を告げる。
ミナが子供を止める。
ハルトが水の木片を見る。
リリアは病人用の椀を分ける。
避難民の女が、治療所の前に座っている。
エルは弟のそばにいる。
ガンツは北。
ダリオは森の音を聞いている。
相沢はそれを見ていた。
動いている。
まだ危うい。
まだ遅い。
まだ誰かが間違える。
それでも、昨日のように全員が同じ方向へ走ることはない。
その差は小さい。
だが、村を生かす差だった。
「見てるだけ?」
ミナが横から言った。
「見てる」
「動かないの?」
「今は動かない方がいい」
「珍しい」
「俺も成長する」
「自分で言うと薄い」
「粥みたいだな」
「うまくない」
「粥はうまかった」
「今のも、うまくない」
相沢は少しだけ笑った。
笑えるくらいには、体が戻っていた。
完全ではない。
だが、昼前よりはましだった。
ミナが板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
その三つの印が大きく描かれている。
「夜は、これだけなんだよね?」
「これだけは絶対に見る」
「他は?」
「見られるなら見る。
でも、迷ったらこの三つ」
「火、水、呼ぶ」
「そう」
ミナは小さく繰り返した。
「火、水、呼ぶ」
その声は、自分に覚えさせている声だった。
◇
【日曜日 18:46/北柵】
北柵の前には、土が盛られていた。
高くはない。
壁にもならない。
だが、火種が転がってきた時、直接柵に触れにくくなる。
それだけでいい。
全部を止めるものではない。
最初の一手を遅らせるものだ。
「雑だな」
ガンツが言った。
「応急だ」
「止まるのか」
「止まらなくても、遅れればいい」
「嫌な考え方だな」
「昨日からずっとそれだ」
「腹立つが、合ってる」
相沢は土の盛り方を見る。
綺麗ではない。
でも、火を見る役が分かる程度にはなっている。
近くに水桶。
土の山。
濡れた布。
枝の音鳴らし。
全部がばらばらに見える。
だが、役はある。
「来ると思うか」
ガンツが聞いた。
「来ると思って準備する採用」
「答えになってねぇ」
「来ないと思って準備しないよりはましだ」
「それはそうだ」
ガンツは森を見る。
夕方の森は、昼よりも濃い。
黒に近い緑。
奥が見えない。
「ダリオは、まだ静かだと言ってる」
「ああ」
「鳥が戻ってない」
「嫌な話だ」
「前の村でも、そうだったらしい」
ガンツの顔がわずかに動いた。
「聞いたのか」
「少し」
「そうか」
ガンツは短く答えた。
ダリオの村。
焼かれた村。
ガンツが助けに行けなかった村とは違う。
だが、煙は似ている。
誰かが見ていた。
誰かが間に合わなかった。
そういう話が、この村に集まり始めている。
「ガンツ」
「何だ」
「夜、俺がいなくなったら」
ガンツの目が相沢を向いた。
「今か」
「今だ」
「縁起でもねぇ」
「そういう話じゃない」
「分かってる」
相沢は北柵を見る。
「日曜が終わると、俺は日本に戻る」
「にほん」
「俺のいた場所」
「戻ったら、すぐ来られるのか」
「分からない。
たぶん、次の休みまでは無理だ」
ガンツは黙った。
槍を握る手だけが、少し強くなる。
「つまり、夜の途中で消えるかもしれねぇと」
「たぶん、日が完全に変わる時だ」
「分かりにくいな」
「俺にも分かりにくい」
「腹立つ」
「俺もだ」
ガンツは森を見る。
しばらく黙ってから言った。
「なら、消える前に言え」
「何を」
「今、見えてる嫌な場所」
相沢は息を吐いた。
「北柵。
倉庫裏。
井戸。
治療所と広場の間。
避難民の寝る場所。
あと、火が出た時に人が集まりそうな場所」
「多い」
「多い」
「全部は見られん」
「だから三つにした。
火、水、呼ぶ」
ガンツは短く頷いた。
「前は俺が見る」
「ああ」
「後ろは」
相沢は広場の方を見た。
ミナが板の前にいる。
村長がその横にいる。
ハルトが井戸を見る。
マルタが倉庫にいる。
リリアが治療所にいる。
エルが弟のそばで呼ぶ。
ダリオが森を聞く。
「後ろは、少しずつ置いてきた」
「ならいい」
ガンツはそう言った。
簡単に。
だが、その言葉は重かった。
◇
【日曜日 19:12/倉庫前】
倉庫の戸は閉められていた。
ただし、完全には閉じていない。
中にいるマルタが、わずかに隙間を残している。
「火が出た時、開かない戸は邪魔だよ」
マルタが言った。
「でも、開けっぱなしも危ない」
「だから少しだけ」
「加減が難しいな」
「食い物は全部そうだよ」
マルタは倉庫の入口に立つ。
倉庫の中は薄暗い。
丸印。
二本線。
焦げ布。
病人用の布。
それぞれが見える。
見えるだけで、少し安心する。
だが、見えるからこそ、減っていることも分かる。
「夜は動かさない」
マルタが言った。
「ええ」
「火が出ても、倉庫の袋を全部出すな」
「ええ」
「出すなら、丸の袋だけ。
あとは戸を閉めて守る」
「誰に伝えました?」
「三人に言った。
同じことを三回言った。
腹が立つ」
「助かります」
「礼を言うな」
「言ってません」
今のは近い」
相沢は倉庫の印を見る。
「日本に戻ったら、袋を持ってきます」
「まだ言うかい」
「袋と、塩と、乾いたものと、印をつけるもの」
「食い物は?」
「少し」
「少しじゃ足りない」
「足りません」
「なら、何で少し持ってくる」
「少しでも、粥に混ぜられる。
でも、本命は食料を守る道具だ」
マルタは相沢をじっと見た。
「米を山ほど持ってこられるなら、持ってくるかい」
相沢は少し黙った。
持ってこられるなら。
五十五人分。
十日分。
一ヶ月分。
そんな量は運べない。
だが、もし運べるなら。
「たぶん、持ってくる」
「正直だね」
「でも、それだと次も足りなくなる」
「そうだよ」
「だから、減らない形も作る」
マルタは鼻を鳴らした。
「やっと倉庫番みたいなことを言うようになったね」
「まだ営業です」
「えいぎょう?」
「物を売る仕事」
「なら、食い物を売る男が、食い物を守る仕事を覚えな」
相沢は頷いた。
「覚えます」
「覚えるだけじゃない。
残しな」
マルタは倉庫の印を指した。
「忘れるやつが見ても分かるように。
腹が減ったやつが見ても間違えないように。
泣いてるやつが来ても、勝手に触らないように」
相沢は黙った。
マルタの言葉は、板より重かった。
「ええ」
「今の返事はましだよ」
「少しだけ?」
「少しだけ」
◇
【日曜日 19:38/治療所前】
治療所には、夜の呼ぶ印が置かれた。
昼に決めたことを、夜へ移すだけ。
そう言えば簡単だった。
だが、実際には違う。
昼は顔が見える。
夜は、息の音だけになる。
誰かが咳をした時。
誰かが熱でうめいた時。
泣いている子供を抱き上げたくなった時。
その手を止めて、呼びに行けるか。
そこが違う。
リリアは治療所の入口に、小さな手の印を置いた。
「夜は、昼より触りたくなります」
リリアが言った。
「見えないからですか」
「はい。
不安になると、人は動かしたくなります」
相沢は頷いた。
分かる。
止まっているものを見ると、動かしたくなる。
動かした方が、何かをしている気になる。
でも、それで悪くなることがある。
「夜の治療所は、触る場所じゃない。
呼ぶ場所にします」
相沢は言った。
リリアが静かに頷く。
「はい」
治療所の入口には、避難民の女が一人座っていた。
昼に老人を見ていた女だ。
名前は聞いていない。
まだ聞かない方がいい気もした。
それでも、その女はもう役の中にいた。
相沢は女を見る。
「夜、治療所で見るのは三つです」
相沢は指を折る。
「息。
熱。
勝手に動かさない」
女は頷いた。
「治療は」
「しなくていいです」
リリアが言った。
「できないことをしない。
分からないことを呼ぶ。
それが必要です」
女は少し驚いた顔をした。
「何もしないのも、役になるんですか」
「勝手にしないなら、なります」
相沢は言った。
女は、小さく頷いた。
エルが弟の手を握ったまま、小さく言った。
「走らない」
「そうです」
リリアが言う。
「早歩きで、呼びます」
避難民の女が、その言葉を繰り返した。
「早歩きで、呼ぶ」
それだけだった。
だが、昼に置いた役が、夜にも残った。
相沢はそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
教えたことが、相沢を通らずに誰かへ渡る。
その瞬間は、気持ちがいい。
これだ。
全部の工程を書くより、この瞬間が大事なのだと思った。
◇
【日曜日 20:04/広場中央】
夜が降りた。
完全な夜ではない。
火の明かりがある。
だが、森の奥はもう黒かった。
広場中央の板は、火の近くに置かれた。
近すぎない。
燃えない距離。
でも、見える距離。
村長が板の横に座る。
ミナが立つ。
相沢はその向かいにいる。
「夜の確認をします」
村長が言った。
広場にいる者たちが顔を上げる。
全員ではない。
見張り。
水役。
呼び役。
止める人。
倉庫の手伝い。
治療所の呼び役。
それぞれの代表だけ。
相沢は板を指した。
「火」
ミナが続ける。
「火が見えても、全員は走らない」
相沢は頷く。
「水」
ハルトが井戸の方から言った。
「水がいるなら、木片。
勝手に井戸へ来るな」
「呼ぶ」
エルが小さく言った。
「変だと思ったら、呼ぶ」
声は小さかった。
だが、聞こえた。
相沢はエルを見た。
エルは弟の手を握ったままだ。
ミナが繰り返す。
「火、水、呼ぶ」
村人たちが、少し遅れて繰り返した。
「火、水、呼ぶ」
避難民たちも、何人かが続けた。
「火、水、呼ぶ」
揃っていない。
弱い。
だが、声になった。
相沢は、その声を聞いていた。
地味だ。
剣も魔法もない。
派手な勝利もない。
でも、昨日の夜にはなかった声だった。
◇
【日曜日 20:31/広場端】
相沢は少し離れた場所に座った。
座っただけだ。
寝てはいない。
それでも、ミナは満足そうだった。
「座ってる」
「見れば分かるだろ」
「言わないと立つから」
「信用がないな」
「実績がある」
「嫌な言い方だ」
「事実でしょ」
相沢は空を見る。
星が出ている。
日本の街では、こんなには見えない。
綺麗だと思う余裕は、少しだけあった。
だが、すぐに時計を思い出す。
日曜の夜。
帰還が近づいている。
何時かは分からない。
ただ、体の奥に近づいてくる感覚がある。
明日の仕事。
月曜。
日本。
会社。
展示会の準備。
七瀬。
コンビニ。
社員食堂。
白飯。
薄い粥。
全部が一つに混ざる。
視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【休日残存時間:
減少】
【集落運用:
夜間体制へ移行】
【重点項目:
火】
【重点項目:
水】
【重点項目:
伝達】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【食事:
少量摂取済】
【水分:
不足傾向】
【推奨:
水分補給】
【推奨:
休息】
【再推奨:
休息】
⸻
「見てる場所が細かい」
相沢は呟いた。
「オカン?」
ミナが聞く。
「ああ」
「何て?」
「帰る時間が近い。
村は夜の形に入った。
俺は水飲んで寝ろ」
「正しい」
「正しいから腹立つ」
ミナは少し黙った。
それから、低く聞いた。
「帰る時間、近いの?」
相沢は答えなかった。
答えなかったが、ミナは理解した。
「どれくらい」
「分からない」
「オカンは?」
「減ってるとしか出ない」
「役に立たない」
「たまにそうだ」
ミナは板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
「帰る前に、言うことある?」
相沢は考えた。
言うこと。
多すぎる。
北を見る。
倉庫を閉める。
井戸の枝を戻す。
水を詰まらせない。
病人を勝手に動かさない。
火を見たら全員走らない。
赤ゴブリンを追わない。
ガンツを寝かせる。
リリアを休ませる。
マルタを怒らせすぎない。
ハルトの腕を見ろ。
エルに背負わせすぎるな。
ダリオの言葉を聞け。
全部言いたい。
全部は無理だ。
「三つだけ」
相沢は言った。
「火」
ミナが言う。
「水」
「呼ぶ」
二人で板を見る。
「それだけ?」
「それだけは」
ミナは頷いた。
「分かった」
◇
【日曜日 21:02/北柵】
森が鳴った。
風ではなかった。
鳥でもない。
枝が折れる音。
遠い。
だが、確かにあった。
北柵の見張りが身を固くする。
ガンツが槍を持ち直した。
「見るだけだ」
ガンツが低く言う。
「動くな」
見張りが頷く。
広場へ伝令が走りかけた。
ミナが、少し離れたところで叫ぶ。
「走らない!」
伝令が止まる。
早歩きになる。
相沢はそれを見た。
自分が言う前だった。
ミナが言った。
相沢は広場の板を見る。
呼ぶ。
印がある。
伝令は早歩きで広場へ向かう。
村長が受ける。
水役は井戸から動かない。
倉庫の前ではマルタが戸の隙間を押さえたまま、周りを睨んでいる。
治療所の入口でリリアが顔を上げるが、中から出ない。
ハルトは井戸に座ったまま、桶を見ている。
エルは弟のそばで、動かない。
村が動いた。
全部ではない。
小さく。
ぎこちなく。
でも、相沢を通らずに動いた。
その瞬間、相沢は息を忘れた。
気持ちがいい。
同時に、怖い。
自分がいなくても動く。
それは、望んでいたことだった。
なのに、少しだけ胸が痛かった。
◇
【日曜日 21:08/広場中央】
伝令が来た。
「北の森で音!」
ミナが聞き返す。
「影は?」
「見えない!」
「火は?」
「なし!」
「ガンツは?」
「動くなって!」
「よし!」
ミナは村長を見る。
村長が頷く。
「北を見る者はそのまま。
他は持ち場を離れない」
相沢は口を開きかけた。
必要なかった。
言葉はもう出ていた。
視界の端に表示が浮かぶ。
⸻
【伝達経路:
機能】
【持ち場維持:
一部成功】
【過剰集中:
抑制】
【集落運用:
自走傾向】
【対象:
相沢誠司】
【心拍:
上昇】
【推奨:
深呼吸】
⸻
「そこも拾うのか」
相沢は呟いた。
ミナがこちらを見る。
「オカン?」
「深呼吸しろって」
「しなよ」
「ああ」
相沢は息を吸った。
吐いた。
森はまだ黒い。
赤ゴブリンがいるかもしれない。
いないかもしれない。
ただの獣かもしれない。
罠かもしれない。
分からない。
だが、村は走らなかった。
それだけで、昨日とは違った。
◇
【日曜日 21:26/広場中央】
北の音は、それきりだった。
ガンツからの伝令が戻る。
「影なし。
火なし。
音は一度だけ。
見張り継続」
村長が頷いた。
「そのまま」
伝令は頷いて戻った。
走らない。
早歩き。
相沢は見送る。
ミナが横に来る。
「どう?」
「いい」
「本当に?」
「かなりいい」
「よし」
ミナは少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「回し屋」
「何だ」
「帰る前に、見られてよかったね」
相沢は黙った。
それは、そうだった。
村が自分なしで少し動くところ。
見られてよかった。
でも、見てしまったから、余計に帰るのが怖くなった。
置いていくものが、顔を持ってしまった。
板ではない。
印ではない。
声になった。
人になった。
相沢は夜の広場を見る。
火。
水。
呼ぶ。
その三つの印が、火明かりに照らされている。
夜はまだ長い。
日曜は、残り少ない。
その二つが、同じ場所に並んでいた。




