第七十八話 残す仕事
【日曜日 16:03/広場中央】
日が傾き始めていた。
まだ夕方ではない。
だが、朝の光ではなかった。
村の影が、少しずつ伸びている。
井戸の影。
倉庫の影。
北柵の影。
人の影。
相沢はその全部を見て、嫌な感覚を覚えた。
時間が減っている。
それは食料が減る感覚に似ていた。
見えている。
数えられる。
だが、増やせない。
「回し屋」
ミナが言った。
「顔が暗い」
「元からだ」
「そういう暗さじゃない」
「便利だな、その見分け」
「最近、見慣れたから」
相沢は板を見る。
簡易板。
村の板。
そこには、見る人、動く人、呼ぶ人、止める人、数える人、休む人が置かれている。
井戸。
倉庫。
治療所。
北柵。
森。
広場。
全部が、小さな印になっている。
印にすると簡単に見える。
だが、本当は簡単ではない。
印の裏には、疲れた人がいる。
腹を空かせた人がいる。
怪我人がいる。
避難民がいる。
赤ゴブリンがいる。
板の上だけで村は回らない。
でも、板がなければもっと回らない。
「次は何」
ミナが聞いた。
「夜の前に、見る順番を決める」
「もう決めたよ」
「場所は決めたな」
「違うの?」
「違う」
相沢は木炭を持つ。
板の端に、小さく三つの印を描いた。
三角。
波線。
黒い丸。
「火」
「水」
「怪しいところ」
ミナが読む。
「夜は、全部を見ようとしたら負ける」
「じゃあ?」
「最初に見るものを決める」
相沢は板を指した。
「火が出たら、全員が火を見るな。
水が詰まったら、全員が井戸へ行くな。
黒い影を見ても、全員が走るな」
ミナは黙って聞いている。
「見る人は見る。
動く人は動く。
呼ぶ人は呼ぶ。
止める人は止める」
「それ、何回も言ってる」
「何回も言う」
「オカンみたい」
「言うな」
「自分で言ってるじゃん」
「俺じゃない」
その時、視界の端に表示が浮いた。
⸻
【夜間防衛:
準備不足】
【確認項目:
火災対応】
【確認項目:
水運用】
【確認項目:
伝達経路】
【確認項目:
休息割当】
【対象:
相沢誠司】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
着座】
【再推奨:
着座】
⸻
相沢は表示を見た。
「……二回出すな」
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「夜の準備をしろ。あと座れ」
「まとも」
「腹立つくらいな」
ミナは板の横に置いてあった布切れを持つ。
相沢の印の横に置いた。
「じゃあ、座る人」
「今じゃない」
「出た」
「まだ決めることがある」
「座って決めれば」
相沢は反論しようとして、止まった。
それは、できる。
立っている必要はない。
相沢は板の前に座った。
座ると、足の重さが一気に来た。
ミナが少しだけ満足そうに頷く。
「よし」
「管理されてるな」
「されて」
「途中で切るな」
◇
【日曜日 16:18/広場中央】
子供たちを集めた。
全員ではない。
動ける子だけ。
避難民の子も、村の子も混ざっている。
エルも弟のそばを離れず、少し離れた場所から見ていた。
相沢は板を低い位置に置く。
子供の目線に合わせる。
これも営業で覚えたことだった。
売場の下段は、子供が最初に見る。
大人の目線で置いたものは、子供には届かない。
「この印は?」
相沢が波線を指す。
村の子供が言った。
「井戸」
「水でもいい」
次に三角。
「火」
「そう」
次に布。
エルが言った。
「怪我」
「うん」
黒い布。
避難民の子が、小さく言った。
「触らない」
「そう」
相沢は頷いた。
「夜に火が見えても、勝手に走らない」
子供たちが黙る。
「水が欲しくても、勝手に井戸へ行かない」
数人が顔を下げる。
「誰かが倒れても、勝手に動かさない」
エルが弟の手を握った。
「じゃあ、何をする?」
相沢は聞いた。
答えはすぐには出なかった。
ミナが隣で見ている。
相沢は待った。
待つ。
これが難しい。
答えを先に言えば早い。
でも、それでは残らない。
やがて、エルが言った。
「呼ぶ」
「そう」
相沢は頷いた。
「呼ぶ」
村の子供が言った。
「誰を?」
「見る人」
別の子が言う。
「近くの大人」
避難民の子が、小さく言う。
「ミナ」
ミナが少し目を丸くした。
「私?」
子供は頷いた。
「広場を見る人だから」
ミナは黙った。
相沢は少しだけ口元を緩めた。
「そう。広場ならミナ。
治療所ならリリアさん。
井戸ならハルト。
倉庫ならマルタさん。
北ならガンツ」
「ガンツは怖い」
村の子が言った。
「怖くても呼ぶ」
ミナが即答した。
「怖いけど、呼ぶ」
「怖いけど?」
「怖いけど」
子供たちの何人かが、小さく笑った。
緊張が少しほどける。
相沢は板に小さな手の印を描いた。
「これは、呼ぶ」
「手?」
「手」
「下手」
「知ってる」
子供が笑った。
それでいい。
少し笑えるくらいでいい。
夜に思い出せればいい。
◇
【日曜日 16:41/倉庫前】
マルタは粥用の袋を分けていた。
焦げた袋の半分。
乾かす袋の半分。
無事な袋。
怪しい袋。
それぞれの前に、印が置かれている。
「子供にまで印を教えるのかい」
マルタが言った。
「子供が一番、勝手に動くので」
「大人も動くよ」
「大人も教えます」
「大人の方が聞かないよ」
「それは分かります」
マルタは鼻を鳴らした。
「食い物はね。
人を正直にする」
「腹が減るからですか」
「腹が減ると、いい人ぶる余裕がなくなる」
相沢は倉庫の奥を見る。
食料は減っている。
今日の粥で、また減る。
焦げた袋を失わずに済んだとしても、増えるわけではない。
相沢は考える。
日本に帰ったら、何を持ってくるか。
米。
缶詰。
レトルト。
頭に浮かぶ。
だが、五十五人。
一食で消える。
重さもある。
運べる量も分からない。
相沢は首を振った。
違う。
持ってくるべきは、食料そのものだけではない。
袋。
塩。
乾物。
ラベル。
計量。
食料を守るもの。
「何を考えてる顔だい」
マルタが言った。
「日本に戻ったら、持ってくるものです」
「にほん」
「俺のいた場所です」
「食い物かい」
「少しは」
「少し?」
「五十五人には足りません」
「だろうね」
「だから、食料を守るものを持ってきます」
マルタの目が細くなる。
「袋かい」
「袋も」
「食い物じゃなくて袋」
「食い物を減らさないための袋です」
マルタはしばらく黙った。
それから、低く笑った。
「変な男だね」
「よく言われます」
「でも、悪くない」
それは、マルタにしてはかなりの評価だった。
「塩はありますか」
相沢が聞く。
「少しはね」
「大事ですか」
「当たり前だよ」
「持ってこられるかもしれません」
マルタの顔が変わった。
怒りではない。
欲でもない。
警戒だった。
「簡単に言うんじゃないよ」
「はい」
「塩は飯じゃない。
でも、飯の顔を変える」
「分かります」
「分かった顔をするな」
「すみません」
「謝るな。
持って来るなら、使い方を決めてから持ってきな」
相沢は頷いた。
「はい」
「配るな。
混ぜるな。
隠すな。
決めろ」
「はい」
「それから持ってきな」
相沢は少しだけ息を吐いた。
「仕事みたいですね」
「食い物は仕事より怖いよ」
「そうですね」
マルタは袋を叩く。
「そうだよ」
◇
【日曜日 17:06/井戸前】
井戸前では、ハルトが水の木片を見ていた。
箱の中に、枝が数本。
飲む水。
治療所へ運ぶ水。
布を濡らす水。
それぞれ分けるには、まだ粗い。
だが、誰かが椀を持って勝手に井戸へ向かう回数は減っていた。
「増えたな」
相沢が言う。
「減った」
「枝が?」
「怒鳴る回数」
ハルトは井戸から目を離さない。
「枝は増えた。
怒鳴るのは減った」
「なら成功だな」
「成功ってほどじゃない」
「じゃあ、継続」
「それは合ってる」
ハルトは腕を押さえた。
布は赤くなっていない。
少なくとも、今は。
「夜、水を狙われたらどうする」
ハルトが聞いた。
「桶を離す。
縄に印をつける。
予備の縄を探す。
井戸の周りに枝を置く」
「踏んだら鳴るやつか」
「ああ」
「倉庫裏と同じだな」
「同じでいい」
ハルトは頷いた。
「水を汲む時、邪魔になるな」
「夜だけだ」
「誰が外す」
「水役」
「誰が戻す」
「水役」
「もし忘れたら」
「朝、怒られる」
「誰に」
「マルタさん」
ハルトは少し笑った。
「それは戻すな」
「効果あるだろ」
「ある」
相沢は井戸を見る。
村の中心。
命の元。
ここが止まれば、全部止まる。
「ハルト」
「あ?」
「夜、無理に立つな」
「またそれか」
「またそれだ」
「座って見える範囲は座って見る」
「それでいい」
「立つ時は?」
「呼ぶ」
「誰を」
「近くの水役」
ハルトは舌打ちした。
「面倒だな」
「面倒にする」
「聞いた」
それでも、ハルトは拒まなかった。
役があるからだ。
座っているだけではない。
井戸を見ている。
自分の場所がある。
その違いは大きい。
◇
【日曜日 17:33/治療所前】
リリアは休んだ。
正確には、座った。
目は閉じていない。
だが、手を止めた。
それだけでも大きい。
治療所の前では、エルが弟の額を見ていた。
勝手に水を飲ませない。
勝手に動かさない。
息が変なら呼ぶ。
それを繰り返している。
相沢は治療所の入口で足を止めた。
「入っても?」
リリアが顔を上げる。
「入口までなら」
「厳しいですね」
「中は人が多いです」
「正しい」
相沢は入口に立つ。
「夜の呼ぶ人を増やしたいです」
「治療所ですか」
「はい」
リリアは少し考える。
「エルには、これ以上増やせません」
「分かってます」
「大人が一人必要です」
「誰がいいですか」
リリアは広場を見る。
村の女。
避難民の女。
軽い怪我の男。
全員、何かを抱えている。
「治療をする人ではなく、呼ぶ人ですね」
「はい」
「では、避難民の女の方が一人。
弟さんではなく、老人を見ていた方です」
「理由は」
「泣いている子供を動かしませんでした。
勝手に水を飲ませませんでした。
呼びに来ました」
相沢は頷いた。
「呼ぶ人に向いてる」
「はい」
リリアは少しだけ目を伏せる。
「治療所は、できる人を増やす場所ではありません」
「はい」
「勝手にやらない人を増やす場所です」
相沢はその言葉を板に書きたくなった。
だが、長い。
記号にできない。
だから、覚えるしかない。
「リリアさん」
「はい」
「それ、すごく大事です」
「そうですか」
「はい」
「では、覚えておいてください」
「板に残したいんですが」
「絵にできますか」
「……難しいです」
「では、覚えてください」
リリアは静かに言った。
少しだけ、意地悪だった。
◇
【日曜日 18:04/広場中央】
夕方になった。
今度は、はっきりと夕方だった。
火の準備が始まる。
夜の見張りの準備も。
水の枝。
倉庫の印。
治療所の呼ぶ人。
子供への安全教育。
北柵の土。
井戸の枝。
全部が、まだ粗い。
粗すぎる。
それでも、昨日よりはある。
相沢は板の前に座る。
木炭で、最後に大きく三つの印を描いた。
火。
水。
呼ぶ。
ミナが覗き込む。
「大きい」
「夜は、細かいものは見えない」
「三つだけ?」
「三つだけ」
「食料は?」
「夜は動かさない」
「怪我人は?」
「呼ぶ」
「ゴブリンは?」
「北と森」
「回し屋は?」
相沢は少し黙った。
「間を見る」
「またそれ」
「便利だからな」
「便利に逃げてない?」
「少し」
「認めた」
ミナは板の端に小さな布を置いた。
「休む人も」
「夜は」
「夜こそ」
相沢は反論できなかった。
その時、表示が浮いた。
⸻
【夜間防衛:
準備中】
【重点項目:
火】
【重点項目:
水】
【重点項目:
伝達】
【記録媒体:
簡易板】
【管理担当:
複数化】
【対象:
相沢誠司】
【食事:
少量摂取済】
【水分:
不足傾向】
【疲労蓄積:
高】
【推奨:
水分補給】
【推奨:
休息】
【再推奨:
休息】
⸻
相沢は表示を見た。
「だから二回出すな」
ミナが笑う。
「また?」
「ああ」
「何て?」
「水を飲め。休め。もう一回休め」
「オカンだ」
「会話はしてないんだけどな」
「見てる場所がオカン」
「それが腹立つ」
ミナは水の入った木椀を渡してきた。
「はい」
「用意がいいな」
「板にあったから」
「何が」
「水分不足」
「見えないだろ」
「顔に出てる」
「顔まで管理しろってか」
「そう」
相沢は木椀を受け取った。
水はぬるい。
少し土の匂いがした。
でも、水だった。
飲む。
体の奥が、少しだけ戻る。
「夜までに」
相沢が言いかける。
ミナが遮った。
「夜までに、全部は無理」
相沢は黙る。
「だから、三つでしょ」
ミナは板を指した。
火。
水。
呼ぶ。
「それだけは残す」
相沢はミナを見る。
ミナは疲れていた。
でも、目は逃げていない。
「ああ」
相沢は頷いた。
「それだけは、残す」
広場の向こうで、ガンツが北柵からこちらを見た。
マルタが倉庫の戸を閉める。
リリアが治療所の入口に布を掛ける。
ハルトが井戸の枝を並べる。
エルが弟の手を握る。
ダリオが横になったまま、森の音を聞いている。
村は夜を迎える準備をしていた。
完全ではない。
足りない。
粗い。
それでも、昨日よりは少しだけ違う。
相沢は板に手を置いた。
残る印。
消えないように置いた印。
自分がいなくなっても、誰かが見られるようにした印。
日曜の夕方が、村に落ちていく。
帰還までの時間は、確実に減っていた。




