第七十七話 残る印
【日曜日 12:24/広場中央】
二十分。
ミナはそう言った。
相沢は、広場の端に座らされた。
座らされた。
自分で座ったわけではない。
そう思うあたりが、もう駄目だった。
薄い粥を食べ終えて、器を膝に置く。
腹は満ちていない。
だが、体の奥に少しだけ熱が戻った。
食べる。
それだけのことが、こんなに重いとは思わなかった。
「寝れば」
ミナが言う。
「寝たら、起きない」
「起こす」
「蹴るのか」
「今は粥を取り上げた後だから、蹴る」
「順番があるんだな」
「ある」
ミナは板を指した。
そこには、相沢の枝の横に小さな布切れが置かれている。
休む人。
雑な印だった。
だが、雑だからこそ逃げられなかった。
「二十分」
「分かってる」
「本当?」
「本当」
「顔が嘘」
「顔まで管理できない」
「それ、便利に使いすぎ」
相沢は黙った。
反論する体力が惜しかった。
ミナは少しだけ表情を緩めた。
「広場は見るから」
「頼む」
「倉庫はマルタさん」
「ああ」
「井戸はハルト」
「ああ」
「治療所はリリアさん」
「ああ」
「北はガンツ」
「ああ」
「森はダリオ」
「ああ」
「じゃあ、回し屋は寝る」
相沢は目を閉じた。
閉じた瞬間、頭の中に線が浮かぶ。
倉庫。
井戸。
治療所。
北柵。
広場。
避難民。
食料。
水。
赤い影。
全部が、まぶたの裏に戻ってくる。
寝られない。
だが、目を閉じているだけでも違う。
そう自分に言い聞かせた。
◇
【日曜日 12:31/広場中央】
ミナは板の前に立っていた。
正直、怖かった。
広場を見る。
簡単に言う。
アイザワはいつも、そうしている。
けれど、実際に立つと、何を見ればいいのか分からなくなる。
人がいる。
座っている人。
立っている人。
水を持つ人。
子供を抱える人。
避難民を見る村人。
村人を見る避難民。
全部が動いている。
全部が少しずつずれている。
ミナは息を吸った。
走らない。
まず見る。
アイザワがよく言う。
全部は見ない。
順番を決める。
ミナは板を見た。
井戸。
治療所。
倉庫。
広場。
北。
森。
その中で、今一番ざわついている場所。
広場西側。
避難民の子供たちが固まっている。
村の子供たちは、少し離れた場所から見ている。
近づかない。
でも、見ている。
「……そこか」
ミナは呟いた。
走らない。
歩く。
相沢なら、たぶんそうする。
ミナは広場西側へ歩いた。
◇
【日曜日 12:36/広場西側】
避難民の子供が三人。
村の子供が四人。
微妙な距離を置いていた。
喧嘩ではない。
でも、喧嘩になる前の空気だった。
避難民の子供の一人が、焦げた小袋を抱えている。
村の子供がそれを見ている。
「何してるの」
ミナが声をかけた。
村の子供がびくっとした。
「何もしてない」
「何もしてない顔じゃない」
「ほんとに」
避難民の子供が小袋を抱きしめる。
目が尖っている。
泣きそうにも見える。
怒っているようにも見える。
「それ、何?」
ミナは小袋を指した。
子供は答えない。
村の子供が言った。
「食べ物かと思った」
「違う」
避難民の子供が小さく言った。
「じゃあ何」
「母さんの」
その一言で、空気が変わった。
村の子供たちは黙った。
ミナも、少しだけ言葉に詰まった。
小袋の中身は分からない。
布か。
小石か。
何かの欠片か。
食べ物ではない。
でも、その子にとっては食べ物より手放せないものなのだろう。
ミナはしゃがんだ。
「取らない」
避難民の子供がこちらを見る。
「でも、食べ物と間違えると揉める」
「食べ物じゃない」
「分かるようにしよう」
「どうやって」
ミナは板を思い出した。
丸。
線。
布。
石。
印。
「布を結ぶ」
「布?」
「食べ物じゃないって印」
村の子供が言った。
「印つけるの?」
「そう。
勝手に触らない印」
ミナは腰の布の端を少し裂こうとして、やめた。
勝手に裂いたら、アイザワみたいだと思った。
いや、アイザワでもたぶん誰かに聞く。
最近は。
「待ってて」
ミナは近くの女に声をかけた。
「余ってる布、少しある?」
「何に使うの」
「触らない印」
女は一瞬怪訝そうにしたが、すぐに焦げた端布を渡した。
ミナはそれを小袋に結んだ。
「これが付いてるものは、勝手に触らない」
村の子供たちを見る。
「分かった?」
「でも」
「食べ物かどうか気になったら、見る人に聞く」
「見る人って誰」
ミナは自分を指した。
「今は私」
言ってから、少しだけ背中が重くなった。
今は私。
思ったより重い言葉だった。
避難民の子供は、小袋を見た。
焦げた布が結ばれている。
「取らない?」
「取らない」
「本当に?」
「本当に」
ミナは短く答えた。
アイザワなら、たぶんもっと理屈を言う。
でも、今はこれでよかった。
◇
【日曜日 12:49/広場中央】
相沢は目を開けた。
眠ったのかどうか分からない。
ただ、火の音と人の声が一瞬だけ遠くなっていた。
戻ってきた時、広場の空気が少し変わっていた。
ミナが板の前に戻ってくる。
「二十分」
「もう?」
「たぶん」
「たぶんか」
「正確には分からない」
「だろうな」
相沢は体を起こした。
首が重い。
だが、頭は少しだけましになっている。
「何かあったか」
「子供が揉めかけた」
相沢はすぐ顔を上げる。
「何でだ」
「避難民の子が持ってた袋。
村の子が食べ物かと思った」
「で、中身は?」
「食べ物じゃない。
たぶん、その子の大事なもの」
「取られた?」
「取らせてない」
「揉めた?」
「手前で止めた」
相沢はミナを見る。
ミナは少しだけ胸を張った。
だが、すぐに顔をしかめた。
「何その顔」
「いや」
「褒めるなら褒めて」
「助かった」
「それだけ?」
「かなり助かった」
「よし」
ミナは板に、焦げ布の印を足した。
「これは?」
相沢が聞く。
「触らないもの」
「倉庫の怪しいものと被るな」
「あ」
ミナが止まる。
相沢は板を見た。
黒い布は、倉庫で「怪しい袋」に使っている。
同じ印を別の意味に使うと、混乱する。
「じゃあ、どうする?」
ミナが聞く。
相沢は少し考える。
「布を結ぶ場所を変える」
「場所?」
「倉庫の怪しいものは、袋の口に黒い布。
触らない私物は、持ち手に布」
「それで分かる?」
「まだ分かりにくい」
「じゃあ」
「板に足す」
相沢は木炭で小さな絵を描いた。
袋。
口の部分に黒い印。
その横に、手の絵。
手に斜線。
「触るな」
「絵が下手」
「知ってる」
「潰れた虫よりは分かる」
「比較が低い」
ミナは少し笑った。
相沢は板を見る。
記号は増えた。
減らすべきだと思った矢先に増えた。
だが、必要な増え方だった。
村人と避難民が混ざれば、食料だけでなく、持ち物も揉める。
食べ物。
水。
寝る場所。
小さな袋。
形見。
触っていいもの。
触ってはいけないもの。
全部に置き場所がいる。
「受け入れるって、面倒だな」
相沢が呟く。
ミナが答える。
「今さら?」
「今さらだな」
◇
【日曜日 13:06/倉庫前】
マルタは、焦げた袋の中身を見ていた。
袋の外は黒い。
中身は無事に見える。
見えるだけかもしれない。
相沢は横に立つ。
「臭いはどうです?」
「薄い」
「使えますか」
「今日使う」
「全部ですか?」
「全部は使わない。
粥に混ぜる」
「残すと悪くなりますか」
「悪くなるかもしれない。
でも全部使えば、今日の分が重くなる」
「重くなる?」
「明日が軽くなる」
マルタの言い方は独特だった。
だが、分かる。
今日使いすぎれば、明日が減る。
当たり前の話。
しかし、焦げた袋は今日使わないと駄目になるかもしれない。
今日と明日の奪い合い。
相沢は腕を組んだ。
「半分使って、半分乾かしましょう」
「半分?」
「乾くか試す」
「失敗したら」
「半分失う」
「全部失うよりはましって顔だね」
「はい」
「嫌な顔だよ」
「よく言われます」
マルタは焦げた袋を見る。
「食い物で試すのは嫌いだよ」
「俺もです」
「嘘だね」
「食品メーカーで試作品は見てます。
でも、これは違います」
「どう違う」
「失敗したら、誰かの飯が消える」
マルタは相沢を見た。
少しだけ目つきが変わった。
「分かってきたじゃないか」
「まだです」
「そうだね。まだだ」
マルタは袋を叩いた。
「半分。
今日の粥に入れる。
残りは外で乾かす。
ただし、私が見る」
「お願いします」
「礼は」
「言いません」
「よし」
◇
【日曜日 13:24/治療所前】
リリアは水を分けていた。
病人用。
洗う用。
飲む用。
布を湿らせる用。
同じ水でも、用途が違う。
相沢はそれを見て、思わず口を出しかけた。
やめた。
リリアの場所だ。
口を出す前に、聞く。
「水、足りますか」
「足りません」
即答だった。
「ですよね」
「ただ、先ほどよりは混乱していません」
「木片ですか」
「はい」
リリアは小さな枝を見せた。
水が必要な人の印。
「水を求める声が、少しだけ整理されました」
「面倒ですけど」
「面倒だから、助かります」
リリアは言った。
相沢は少し黙る。
その言い方は、相沢の中に残った。
面倒だから、助かる。
簡単なことほど、勝手に人が動く。
勝手に動くと、詰まる。
面倒にして、止める。
止めて、見る。
見て、動く。
「アイザワ殿」
「はい」
「また考えすぎています」
「顔に出てましたか」
「出ています」
「顔まで」
「管理してください」
言い切られた。
相沢は返せなかった。
リリアは淡々と続ける。
「食事は取りましたか」
「はい」
「休みましたか」
「二十分」
「短いです」
「ミナにも言われました」
「では、増やしてください」
「今は」
「今は、ではありません」
まただ。
相沢は少しだけ息を吐いた。
「リリアさんも休んでください」
「私は」
「リリアさんも役割表に入れます」
リリアの手が止まった。
「治療役として、入っています」
「休む人としても」
「……」
「倒れたら、治療所が止まります」
リリアは静かに相沢を見た。
自分の言葉を返された顔だった。
少しだけ不満そうにも見えた。
「それは」
「必要です」
相沢は言った。
リリアは目を伏せた。
「嫌な返し方をしますね」
「最近、学びました」
「誰からですか」
「リリアさんからです」
リリアは少しだけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「では、半刻だけ」
「短いです」
「今のアイザワ殿には言われたくありません」
「ですよね」
それでも、相沢は板へ戻ったらリリアの休む印を置こうと思った。
置かないと、リリアは休まない。
自分と同じだ。
◇
【日曜日 13:47/北柵】
ガンツは粥を受け取っていた。
食べてはいない。
器を横に置いて、森を見ている。
「食え」
相沢が言った。
「お前、休んでたんじゃねぇのか」
「休んだ」
「短ぇだろ」
「お前が言うな」
「俺はいい」
「便利だな」
「お前が言うな」
二人は同じような会話をして、同じように黙った。
ガンツは器を手に取る。
一口食べた。
「薄い」
「塩が少し入ってる」
「そうか」
「うまいか」
「食える」
「最高評価だな」
「褒めるな」
「褒めてない」
相沢は北柵の外を見る。
森は相変わらず静かだった。
「ダリオが、鳥が戻ってないと言ってた」
「ああ」
「分かるか」
「少しはな」
「まずいか」
「気持ち悪い」
ガンツは粥をもう一口食べる。
「だが、来るなら夜だろうな」
「なぜだ」
「昼はこっちが見える。
向こうも見える。
夜の方が火が効く」
「じゃあ、夜までに」
「寝ろ」
ガンツが言った。
相沢は言葉に詰まる。
「何で先に」
「顔に書いてある」
「また顔か」
「顔まで管理しろ」
「それ、流行ってるのか」
「知らん」
ガンツは森を見た。
「夜までにやることは多い。
だから、今寝ろ」
「お前も」
「俺は後で寝る」
「嘘だな」
「半分」
「残りは」
「たぶん」
「信用できないな」
「お前よりはできる」
相沢は何も言えなかった。
ガンツは器を空にして、相沢へ突き出した。
「食った。
満足か」
「少し」
「なら戻れ」
「森は」
「俺が見る」
短い。
それだけで、相沢の足は少しだけ止まった。
前は俺が見る。
さっきの言葉が、まだ残っている。
相沢は頷いた。
「頼む」
「礼を言うな」
「増えすぎだろ、それ」
「お前が悪い」
◇
【日曜日 14:08/広場中央】
板の上に、休む印が増えた。
相沢。
リリア。
額を切った若い見張り。
水を運んでいた女。
夜から起きていた老人。
休む人。
それを見て、村人の一人が言った。
「休む者ばかり増えてないか」
不満というより、不安だった。
相沢は板を見る。
確かに、増えている。
動く人が減るように見える。
だが、違う。
「夜に動く人を残すためです」
「夜?」
「赤いのが来るなら、夜の可能性が高い」
村人の顔が強張る。
「また来るのか」
「来ないとは言えません」
「昼のうちに逃げた方が」
「どこへ?」
相沢が聞く。
村人は黙った。
逃げる場所がない。
森は見られている。
道は焼かれているかもしれない。
避難民が来た以上、外も安全ではない。
「だから、夜に備えます」
相沢は板を指した。
「今、全員が動くと、夜に全員が倒れる。
今、休む人を決めます」
「でも、休ませる余裕なんか」
「余裕がないから決めます」
マルタが遠くから言った。
「その通りだよ。
余裕がある時は、勝手に休める。
余裕がない時ほど、決めないと休めない」
相沢はマルタを見る。
マルタは倉庫前で腕を組んでいる。
「食い物と同じだ。
減ってから慌てるやつほど、先に食いすぎる」
村人は黙った。
マルタの言葉は強い。
食料を握っているからではない。
飢えた年を知っているからだ。
相沢の言葉より、重い。
「では」
村長が言った。
「休む者も、村の役として扱います」
その言葉で、また一つ決まった。
休むことが、怠けではなくなった。
完全には。
まだ誰もそう思いきれない。
でも、板の上には置かれた。
置かれたものは、少しだけ守られる。
◇
【日曜日 14:31/広場中央】
相沢は板を見下ろした。
見る人。
動く人。
呼ぶ人。
止める人。
数える人。
休む人。
村人。
避難民。
子供。
怪我人。
井戸。
倉庫。
治療所。
北柵。
森。
全部を一枚に置くには、板が小さすぎた。
だが、村も小さい。
小さいのに、複雑だった。
相沢は木炭を持つ。
線を一本引いた。
倉庫から広場。
広場から井戸。
井戸から治療所。
治療所から北柵。
「それ何?」
ミナが聞く。
「人の動く道」
「道?」
「物を運ぶ道。
水を運ぶ道。
呼びに行く道。
怪我人を運ぶ道」
「線が多い」
「多いな」
「分かる?」
「今は分からない」
「駄目じゃん」
「だから減らす」
相沢は線を消す。
全部を描こうとして、駄目になる。
よくある。
売場でも同じだった。
全部のPOPを貼ると、何も伝わらない。
全部の商品を前に出すと、客は選べない。
全部の情報を板に置くと、誰も見なくなる。
「三つにする」
相沢は言った。
「三つ?」
「水の道。
食料の道。
呼ぶ道」
ミナは板を覗き込む。
「怪我人は?」
「呼ぶ道」
「火は?」
「水の道」
「子供は?」
「呼ぶ道」
「避難民は?」
「全部」
「難しいよ」
「難しい」
「じゃあ、どうするの」
「難しいことを、三つに分ける」
相沢は線を描いた。
波線。
石の印へ続く道。
水の道。
丸と袋の印。
食料の道。
小さな手の印。
呼ぶ道。
絵は下手だった。
でも、三つなら見える。
「これなら、子供でも分かる?」
ミナが言う。
「子供に聞いてみる」
相沢はエルを見た。
エルは弟のそばにいた。
こちらを見ている。
最近、よく見るようになった。
呼ばれたら来る。
でも、勝手には離れない。
それでいい。
「エル」
「はい」
「これ、何に見える?」
エルは板を見る。
「水」
「うん」
「食べ物」
「うん」
「呼ぶ」
「呼ぶに見えるか?」
「手だから」
「よし」
相沢は頷いた。
ミナが小さく言う。
「子供判定、通った」
「大事だ」
「うん」
◇
【日曜日 14:52/治療所前】
リリアが休む番になった。
本人は最後まで渋った。
「半刻だけです」
「短いです」
「では、四半刻」
「減りましたよ」
「では、半刻」
相沢とリリアの会話を聞いて、ミナが横から言った。
「リリアさん、休む人」
板を持ってきた。
そこに布の印がある。
休む人。
リリアはそれを見た。
「……板を持ってくるのは卑怯です」
「便利だから」
ミナが言う。
相沢は少し笑いそうになった。
リリアは治療所の中を見る。
エルが弟のそばにいる。
もう一人の村の女が、水を持って立っている。
軽い傷の者は、外で座っている。
呼ぶ人も決めた。
完全ではない。
だが、半刻なら止まらない。
「では、半刻だけ」
リリアが言った。
相沢は頷いた。
「お願いします」
「なぜ、あなたがお願いしますと言うのですか」
「治療所が止まると困るので」
「仕事の理由ですね」
「他の言い方が要りますか」
リリアは少しだけ目を細めた。
「いりません」
どこかで聞いた返しだった。
ガンツに似ていた。
相沢はそう思って、少しだけ笑った。
◇
【日曜日 15:18/広場中央】
午後の光は、思ったより重かった。
眠気を連れてくる。
気を抜くと、全員が座り込みそうになる。
だが、夜が来る。
それが分かっているから、誰も完全には眠れない。
相沢は板を広場中央に置いた。
もう土の表ではない。
木の蓋だ。
汚れている。
欠けている。
でも、残る。
村長がそれを見た。
「これは、広場に置きますか」
「はい」
「誰でも見られるように」
「はい。ただし、勝手に動かさない」
「誰が管理しますか」
相沢は少し考えた。
自分と言いかける。
飲み込んだ。
違う。
それでは残らない。
「ミナ」
「え」
「広場を見る人だから」
「私?」
「できるか?」
「……できるけど」
「安心しろ、一人じゃない」
相沢は村長を見る。
「村長にも見てもらいます」
「承知しました」
「子供に印を教えるのは、エルに手伝ってもらう」
エルが顔を上げる。
「私?」
「分かる印かどうか、見てもらうだけだ」
「はい」
「マルタさんは倉庫の印」
「勝手に決めるんじゃないよ」
「駄目ですか」
「やるよ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「はい」
ハルトが井戸の方から言った。
「水の木片は俺が見る」
「頼む」
「礼を言うな」
「はい」
増えている。
明らかに増えている。
相沢は少しだけ笑いそうになった。
村長が杖をつく。
「では、この板は村の板とします」
村の板。
妙な言葉だった。
でも、悪くない。
相沢の板ではない。
ミナの板でもない。
村の板。
そこに、避難民の役も置かれている。
村人の役も。
休む人も。
触ってはいけないものも。
水を求める木片も。
全部、まだ仮だ。
だが、仮でも置かれた。
◇
【日曜日 15:42/広場中央】
視界の端に、表示が浮かんだ。
⸻
【記録媒体:
簡易板】
【管理担当:
複数化】
【役割分類:
暫定安定】
【村人・避難民:
仮統合】
【個人依存:
低下傾向】
⸻
相沢は表示を見た。
「低下傾向、か」
消えたわけではない。
下がっただけ。
それでいい。
急にゼロになる方が怖い。
表示は続く。
⸻
【未解決項目】
【夜間防衛】
【食料持続】
【水資源保全】
【治療継続】
【内部対立】
【敵性個体:赤】
⸻
「知ってる」
相沢は呟いた。
ミナが横から覗く。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「問題は山積みだって」
「知ってる」
「だよな」
ミナは板を見る。
「でも、ちょっと見えるようになったね」
「ああ」
「見えると、嫌だね」
「でも、見えないよりはいい」
「それも知ってる」
ミナは広場を見る。
村人と避難民。
完全に混ざってはいない。
でも、完全に分かれてもいない。
井戸の前で、ハルトが村の男に何か言っている。
倉庫前で、マルタが避難民の女に印を教えている。
治療所では、エルが弟のそばでリリアを呼ぶタイミングを待っている。
北柵では、ガンツが前を見ている。
森の方では、ダリオが寝かされたまま、耳だけを外へ向けている。
村は、少しだけ動いている。
相沢は息を吐いた。
その時、空を見た。
日が傾き始めている。
まだ夕方ではない。
だが、朝ではなかった。
日曜の午後。
相沢の胸の奥が、少しだけ冷えた。
日本なら。
この時間になると、明日の仕事が見え始める。
日曜の夕方が近づく時の、あの嫌な重さ。
だが今は、それだけではない。
日曜が終われば、相沢は帰る。
この村から、消える。
土曜の夜も。
日曜の朝も。
火も。
水も。
食料も。
赤い影も。
全部を置いて。
相沢は、日本に戻る。
「……夜までに、もっと残さないとな」
相沢が呟いた。
ミナが聞いた。
「何を?」
「俺がいなくても分かるもの」
「回し屋」
「何だ」
「また、自分がいない話してる」
相沢は黙った。
ミナの声は、少しだけ硬かった。
「帰るの?」
相沢は答えなかった。
答えられなかった。
でも、沈黙が答えになった。
ミナは板を見た。
それから、広場を見た。
「じゃあ、もっと残して」
相沢はミナを見る。
ミナは、泣いてはいなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、まっすぐ言った。
「帰るなら、ちゃんと残して」
相沢は頷いた。
「ああ」
日曜の午後が、少しずつ村に落ちていく。
夜までに残せるものは、少ない。
でも、少ないからこそ、選ばなければならない。
相沢は板を見る。
残すもの。
消えるもの。
誰かに渡すもの。
それを分ける時間が、もう始まっていた。




