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第七十五話 前を見る男

【日曜日 7:12/広場中央】


 数える。


 言葉にすると簡単だった。


 だが、実際にやると面倒だった。


 人を数える。


 怪我を数える。


 水桶を数える。


 見張りに戻せる者を数える。


 休ませなければならない者を数える。


 そして、数えたものをもう一度見る。


 数は、顔ではない。


 でも、顔を見なければ数は嘘になる。


 相沢は広場の土に線を引いた。


 丸。


 線。


 小石。


 枝。


 布切れ。


 それらを並べる。


「こっちが動ける人」


 相沢は丸を指した。


「こっちが休ませる人」


 線を引く。


「怪我人は布」


 布切れを置く。


「水を運べる人は石」


 小石を置く。


「見張りは枝」


 枝を置く。


 村長が隣で見ている。


 ミナも立っている。


 村人たちは、半分眠そうな顔でその土の表を見下ろしていた。


「字じゃないのか」


 若い村人が言った。


「字だと、読める人しか読めない」


 相沢は言った。


「これは見れば分かる」


「子供でも?」


「子供でも」


 少し離れたところで、エルが顔を上げた。


 相沢はエルを見て、もう一度言う。


「子供でも、分かる方がいい」


 エルは小さく頷いた。


 弟のそばに座ったまま、土の表を見ている。


「で、これは何?」


 ミナが小石を指す。


「水を運べる人」


「じゃあ、これは?」


「休ませる人」


「回し屋は?」


 相沢の手が止まった。


 ミナはまっすぐ見ていた。


「回し屋の印は?」


「俺は全体を見る」


「それ、昨日も聞いた」


「便利だからな」


「便利に逃げてる」


 相沢は返せなかった。


 周りの村人が気まずそうに視線を逸らす。


 村長だけが、静かに土の表を見ていた。


「では」


 村長が言った。


「アイザワ殿の印も必要ですな」


「俺の印ですか」


「はい。倒れた時、誰が代わるか分かりません」


 正論だった。


 嫌な正論だった。


 相沢は息を吐いた。


「じゃあ、これで」


 相沢は、小さな枝を一本、表の端に置いた。


「全体を見る人」


 ミナが言う。


「一人?」


「今は」


「今はって言った」


「言ったな」


「便利」


「便利だな」


 ミナは不満そうだった。


 だが、それ以上は言わなかった。


 相沢は土にもう一本、短い枝を置いた。


「補助」


「誰?」


「ミナ」


「は?」


「広場を見る」


 ミナが黙る。


「できないか」


「できる」


「じゃあ頼む」


「……言い方」


「悪かったか」


「悪くはない」


 ミナは土の表を見る。


 枝が二本。


 一本は相沢。


 一本は自分。


 それを見て、少しだけ顔を引き締めた。


「見るだけ?」


「見るだけじゃない。

 勝手に動きそうな人を止める。

 走りそうな子を止める。

 怪我人を勝手に動かす人を止める」


「止めるばっかり」


「大事だ」


「知ってる」


 ミナは短く言った。


 相沢は頷く。


 村は、少しだけ形になっていく。


 きれいではない。


 正しくもない。


 ただ、見える。


 それだけで、昨日よりはましだった。


     ◇


【日曜日 7:28/倉庫前】


 マルタは土の表を見るなり、鼻を鳴らした。


「倉庫は私だよ」


「分かってます」


「分かってない顔だね」


「顔まで管理できません」


「その返し、腹立つね」


 マルタは倉庫の入口に立っていた。


 焦げた袋。


 湿った袋。


 無事な袋。


 怪しい袋。


 それぞれに印がつけられ始めている。


 丸。


 線。


 黒く塗った石。


 布切れ。


 簡単なものだった。


 それでも、村人が勝手に触る数は減った。


「これは今日使う」


 マルタが丸印の袋を叩く。


「これは残す」


 線の印。


「これは私に聞くまで触るな」


 黒い石。


 若い女が頷く。


「はい」


「はい、じゃない。

 言いな」


「丸は今日使う。

 線は残す。

 黒い石は触らない」


「よし」


 マルタは満足そうではなかった。


 だが、怒鳴る声は少しだけ整っていた。


 相沢はそれを見て、思った。


 これで全部は救えない。


 でも、間違いは減る。


 間違いで失う食料は、少し減る。


 それだけでも、今は大きい。


「変な男」


 マルタが言った。


「はい」


「褒めてないよ」


「知ってます」


「食い物を増やすんじゃなくて、減らさないようにするってわけかい」


「そうです」


「地味だね」


「地味な方が残ります」


「またそれか」


「便利なので」


 マルタは少しだけ笑った。


 笑ったというより、口の端が歪んだだけだった。


「嫌な便利さだよ」


     ◇


【日曜日 7:41/井戸前】


 ハルトは井戸のそばに座っていた。


 立ってはいない。


 座っている。


 だが、目は井戸を見ている。


 リリアに怒られたのだろう。


 腕の布は巻き直されていた。


「座ってるな」


 相沢が言う。


「見てる」


「立たなくても見えるか」


「見える」


「なら、それでいい」


 ハルトは不満そうに鼻を鳴らす。


「座って見てるだけで役になるのか」


「なる」


「楽すぎる」


「傷が開いたら、もっと面倒になる」


「そればっかりだな」


「事実だからな」


 ハルトは井戸の縄を見た。


 傷のついた場所には、布が巻かれている。


 目印だ。


 まだ使える。


 でも、油断はできない。


「桶は夜、離すんだったな」


「ああ」


「面倒だ」


「面倒にする」


「取られにくくするためか」


「そう」


 ハルトは少し黙った。


「俺の村でも、井戸はあった」


 相沢はハルトを見る。


 ハルトは井戸から目を離さなかった。


「焼かれる前の日、縄が切れてた」


「切れてた?」


「誰かが古いまま使ってた。

 取り替えるのを後にした」


「それで」


「火が出た時、水を汲むのが遅れた」


 ハルトの声は低い。


 怒っているようで、違った。


 自分に向いている声だった。


「俺は、その時も水場にいた。

 でも、遅かった」


 相沢は何も言わなかった。


 言えることがなかった。


 ハルトは腕を押さえる。


「だから、座って見てるだけってのが腹立つ」


「見てなかったら、また遅れる」


「分かってる」


「なら、見てろ」


 ハルトが相沢を見る。


 少しだけ、目が鋭い。


「命令か」


「頼みだ」


「なら、聞いてやる」


「助かる」


「礼を言うな」


「最近、それ言う人が増えたな」


「言われるような顔してるんだろ」


 相沢は返さなかった。


 そうかもしれないと思った。


     ◇


【日曜日 7:56/北柵】


 ガンツは、まだ北を見ていた。


 朝になっても、森は森だった。


 明るくなった分だけ、影が増えたようにも見える。


 相沢は北柵まで歩いた。


 足が重い。


 だが、歩ける。


 歩けるうちは、見に行ってしまう。


 それが悪い癖だと、さっきミナに言われたばかりだった。


「また来たのか」


 ガンツが言った。


「見に来た」


「寝ろ」


「お前もな」


「俺はいい」


「便利な言葉だな」


「お前が言うな」


 相沢は柵にもたれた。


 焦げた跡。


 濡れた土。


 踏み固められた場所。


 ガンツの肩の布。


 全部を見る。


「肩」


「動く」


「動くと使えるは違う」


「それ、さっき聞いた」


「何度でも言う」


「腹立つな」


「よく言われる」


 ガンツは森を見たまま、少しだけ黙った。


 それから言う。


「お前、俺を寝かせたいのか」


「寝てほしい」


「何で」


「前に立つ人が倒れたら困る」


「理由が仕事だな」


「他の言い方が要るか」


「いや」


 ガンツは鼻を鳴らした。


「それでいい」


 相沢は横を見る。


 ガンツの目は森に向いたままだった。


「ガンツ」


「あ?」


「何で、この村にいるんだ」


 ガンツの目だけが少し動いた。


「急だな」


「前から思ってた」


「何を」


「腕が立つ。

 もっと大きい場所にいてもおかしくない」


「いた」


 短い答えだった。


 相沢は黙った。


 ガンツは森を見る。


「若い頃、村を出た」


「この村の出身なのか」


「ああ」


 相沢は少し意外だった。


 ガンツは、ずっとここにいる男のようにも見えたし、どこからか流れてきた男のようにも見えた。


「兵みたいなことをしてた。

 街道を守ったり、魔物を斬ったりな」


「領主の?」


「そんなもんだ」


「戻ったのか」


「ああ」


「何で」


 ガンツはすぐには答えなかった。


 森の奥で、鳥が一羽鳴いた。


 その声が、やけに遠い。


「命令じゃ、守れねぇ場所がある」


 相沢は何も言わなかった。


「助けに行くなと言われた村があった」


 ガンツの声は低かった。


 怒鳴っていない。


 だから余計に重かった。


「行かなかった。

 命令だったからな」


 相沢は柵の焦げ跡を見た。


「次の日、煙だけ見えた」


 ガンツは続けた。


「細い煙だった。

 遠かった。

 でも、見えた」


 相沢は息を止めていた。


「それからだ。

 でかい旗の下で戦うのが嫌になった」


「それで、この村に戻った」


「ああ」


「ここなら」


 相沢が言う。


「煙が上がる前に見える」


 ガンツは少しだけ相沢を見た。


「分かったようなことを言うな」


「悪い」


「合ってるから腹立つ」


 相沢は黙った。


 ガンツはまた森を見た。


「ここなら、見えると思った。

 北も、西も、倉庫の煙も。

 少なくとも、見えないまま終わることはないと思った」


「でも、全部は見えない」


「ああ」


「だから腹立つ」


「そうだ」


 ガンツは槍を握り直した。


「赤いのは、それを知ってやがる」


「見えない場所を作る」


「そうだ」


「走らせる」


「そうだ」


「前に立つ人を、後ろへ振り向かせる」


 ガンツは笑わなかった。


「嫌な奴だ」


「敵側の回し屋だからな」


「その言い方はやめろ。

 腹立つ」


「俺も嫌だ」


 相沢は森を見る。


 朝の森。


 燃えなかった村の向こう側。


 そこに、まだ赤い影はいない。


 でも、いないだけだった。


「ガンツ」


「何だ」


「俺は戦えない」


「知ってる」


「即答だな」


「見りゃ分かる」


「そこまでか」


「そこまでだ」


 相沢は少しだけ笑った。


 笑ったつもりだった。


 うまく笑えているかは分からなかった。


「でも、お前は後ろを見る」


 ガンツが言った。


 相沢は横を見る。


「妙な場所を見る。

 人の足とか、水桶とか、逃げ道とか。

 俺はそういうのは苦手だ」


「俺は前に立てない」


「立たなくていい」


 ガンツは森を見たまま言った。


「お前は後ろを見ろ」


 相沢は黙った。


「前は?」


 聞くつもりはなかった。


 だが、言葉が出た。


 ガンツは短く答えた。


「俺が見る」


 それだけだった。


 大げさな約束ではない。


 友情という言葉にもならない。


 ただの役割分担。


 それでも、相沢には十分だった。


「助かる」


「礼を言うな」


「それも増えたな」


「お前が言わせる顔してるんだろ」


「さっきも言われた」


「なら直せ」


「顔まで管理できない」


「腹立つ」


 ガンツは鼻を鳴らした。


 相沢は森を見る。


 前を見る男がいる。


 だから、後ろを見られる。


 それは、今の村に必要な形だった。


     ◇


【日曜日 8:18/広場中央】


 村長が人を集めた。


 全員ではない。


 動ける者。


 聞いて伝えられる者。


 村人側。


 避難民側。


 治療所からはリリア。


 倉庫からはマルタ。


 井戸からはハルトが、座ったまま少し離れて聞いている。


 ガンツは北から戻らなかった。


 戻らなくていい。


 前を見る人が必要だった。


 村長が杖を地面についた。


「まず、決めなければなりません」


 広場が静かになる。


「昨日来た者たちを、この村で受け入れるかどうかです」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 避難民たちの顔が強張る。


 村人たちも、視線を落とす。


 助けたい。


 だが、食料は増えない。


 水も増えない。


 寝床も足りない。


 赤いゴブリンは、まだ森にいる。


 その全部を、みんな分かっていた。


「今さら追い出せっていうのか」


 避難民の一人が低く言った。


 村人の男が顔を上げる。


「そうは言ってない。

 だが、うちの子の飯が減る」


「俺たちは好きで来たんじゃない」


「それは分かってる」


「分かってる顔じゃない」


 空気が固くなる。


 ミナが一歩動きかけた。


 相沢は手で止めた。


 今は、止めるだけでは駄目だった。


 言わせる必要がある。


 村人側の不安も。


 避難民側の怒りも。


 言葉にしないまま役だけ決めても、あとで腐る。


 その時、視界の端に表示が浮かんだ。



【集落人口:

 増加状態】


【食糧消費量:

 上昇】


【治療負荷:

 上昇】


【防衛負荷:

 上昇】


【内部対立リスク:

 上昇】


【受け入れ判断:

 高リスク】


【推奨:

 集落外退去】



 相沢は、表示を見た。


「……切れって言ってるのか」


 小さく呟いた。


 ミナが横を見る。


「オカン?」


「ああ」


「何て?」


「受け入れるなって」


 ミナの顔が少し強張った。


 相沢は表示から目を離した。


 正しい。


 たぶん、オカンは正しい。


 食料は減る。


 水は詰まる。


 治療所は潰れかける。


 村人と避難民は揉める。


 赤いゴブリンに、また狙われる。


 運用だけで見れば、切った方が軽い。


 だが。


 広場の西側には、煤けた子供が座っていた。


 エルが弟の手を握っていた。


 ハルトが井戸のそばで、腕を押さえながらこちらを見ていた。


 リリアは何も言わない。


 マルタも何も言わない。


 ガンツは北を見ている。


 村長は相沢を見ていた。


 相沢は息を吐いた。


「受け入れるなら、条件が要ります」


 村人たちがこちらを見る。


 避難民たちも。


「食料は増えません。

 水も増えません。

 寝床も足りません。

 だから、ただ置くだけなら村が止まります」


 ハルトが低く言った。


「置くだけにする気はない」


 相沢は頷いた。


「なら、役を持ってもらう」


「怪我人にもか」


「怪我人には、怪我人の役です」


「子供にもか」


「子供には、子供の役です」


 村人の男が言う。


「役があれば、飯を食わせるのか」


 相沢は首を振った。


「違います」


 広場が少しざわつく。


「食事を罰にしない。

 働けない人を飢えさせる形にはしない」


「じゃあ、働ける奴と同じか」


「それも違います」


 相沢は土の表を見る。


「倒れると困る人には、倒れない量がいる。

 病人には、食べられる形がいる。

 子供には、消化できるものがいる。

 見張りには、立っていられる量がいる」


 マルタが鼻を鳴らした。


「きれいごとじゃないね」


「きれいではないです」


「なら続けな」


 相沢は頷いた。


「受け入れるなら、村人と避難民を分けたままにはしない。

 ただし、混ぜるだけでも駄目です」


 ハルトが眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「役で置く」


 相沢は言った。


「井戸を見る人。

 子供を見る人。

 治療所へ呼ぶ人。

 倉庫に触らないよう止める人。

 柵を見る人。

 休む人」


 村長が静かに続けた。


「この村にいるなら、村の役を持つ」


 ハルトは黙った。


 それから、短く言った。


「それならいい」


 避難民の男がハルトを見る。


「ハルト」


「助けられるだけなのが嫌なんだよ」


 ハルトは腕を押さえたまま言った。


「ここに置くなら、俺たちにも役を寄こせ」


 その言葉は、避難民側に届いた。


 村人側にも届いた。


 村長はゆっくりと頷いた。


「では、決めましょう」


 杖の先が、土を叩く。


「昨日来た十二人を、この村で受け入れます。

 ただし、客としてではありません。

 村を続けるための役を持つ者として、受け入れます」


 反対の声はあった。


 小さく。


 低く。


 消えたわけではない。


 だが、広場全体を止めるほどではなかった。


 相沢はそれを見て、思った。


 受け入れた。


 でも、解決したわけではない。


 問題が、村の中に置かれただけだ。


 だから、次にやることは決まっている。


 相沢は土の表の前に立った。


「では、朝の役を決めます」


     ◇


【日曜日 8:36/広場中央】


 役は、きれいには決まらなかった。


 当然だった。


 誰が動けるか。


 誰が本当は休むべきか。


 誰が無理をしているか。


 誰が避難民を嫌がっているか。


 誰が村人を怖がっているか。


 全部が混ざっていた。


 それでも、少しずつ置いていく。


 井戸を見る人。


 水を運ぶ人。


 倉庫に触っていい人。


 治療所へ呼びに行く人。


 子供を見る人。


 東を見る人。


 西を見る人。


 北を見る人。


 休む人。


「俺は休まなくていい」


 若い見張りが言った。


 額に昨日の傷が残っている。


 相沢が言う前に、ミナが言った。


「休む」


「でも」


「額、切れてる」


「動ける」


「動けると使えるは違う」


 相沢は思わずミナを見た。


 ガンツに言った言葉だった。


 ミナは気づいていないのか、気づいていて言ったのか分からない。


 若い見張りは黙った。


「二刻だけ」


 ミナが言う。


「寝なくてもいい。

 座る。

 水飲む。

 リリアさんにもう一回見てもらう」


「……分かった」


 相沢は土の表に、若い見張りの印を休む場所へ移した。


 小さな動き。


 でも、昨日ならたぶんできなかった。


 村は、少しずつ覚えている。


     ◇


【日曜日 8:52/治療所横】


 相沢は水を飲んだ。


 薄い。


 ぬるい。


 でも、水だった。


 喉に落ちるだけで、体が少し戻る。


 リリアが隣に立った。


「飲めましたか」


「はい」


「食べましたか」


「まだ」


「食べてください」


「後で」


「今です」


「リリアさん」


「今です」


 相沢は黙った。


 リリアは小さな器を差し出した。


 粥だった。


 かなり薄い。


 少しだけ焦げた匂いがする。


「病人用ではありません」


「分かります」


「マルタさんが、動く人用に分けたものです」


「俺は」


「動いています」


「……はい」


 相沢は器を受け取る。


 熱い。


 薄い。


 でも、腹に入る。


 一口食べると、急に空腹が分かった。


 自分が空腹だったことを、忘れていた。


「忘れていた顔ですね」


 リリアが言った。


「何を」


「食べることです」


「忘れては」


「いました」


 相沢は反論しなかった。


 リリアには、反論しても無駄な時がある。


「アイザワ殿」


「はい」


「役を分けるなら、あなたの食事も役に入れてください」


「食事が役ですか」


「はい」


 リリアは静かに言った。


「倒れないための役です」


 相沢は粥を見る。


 薄い粥。


 焦げた匂い。


 少ない食料。


 それでも、今は食べる必要がある。


 食べなければ、見られない。


「分かりました」


「今の返事は、少しだけましです」


「少しだけですか」


「はい」


 リリアは表情を変えずに言った。


 相沢は粥をもう一口食べた。


     ◇


【日曜日 9:07/広場中央】


 朝は完全に来ていた。


 村は燃えていない。


 だが、村は休んでいない。


 休む人を決めても、休めない人がいる。


 見る場所を決めても、見落としはある。


 食料を分けても、腹は減る。


 それでも、昨日よりは少しだけ形があった。


 土の表。


 倉庫の印。


 井戸を見るハルト。


 弟のそばで、異変があれば呼ぶと決めたエル。


 治療所のリリア。


 北を見るガンツ。


 広場を見るミナ。


 そして、森を見るダリオ。


 まだ寝かされているはずのダリオが、治療所の入口から外を見ていた。


 相沢は近づく。


「寝てろと言われてないか」


「言われた」


「なら寝てろ」


「森が静かだ」


 相沢は足を止めた。


 ダリオの目は、森の方を向いている。


「静かなのは、いいことじゃないのか」


「普通の静かさじゃない」


 ダリオはかすれた声で言った。


「鳥が戻ってない」


 相沢は森を見る。


 鳥。


 そう言われても、相沢には分からない。


 大阪の朝なら、車の音と人の声と空調の音で埋まる。


 この森の普通を、相沢は知らない。


 だから、知っている者の言葉を聞くしかない。


「どのくらいまずい」


「すぐ来るとは言わない」


「でも」


「見てる」


 ダリオは言った。


「赤いのは、まだ見てる」


 相沢は頷いた。


「分かった」


「信じるのか」


「分からないことは、分かる人に聞く」


 ダリオは少しだけ相沢を見た。


 驚いたような顔だった。


「前の村では」


 言いかけて、咳き込む。


 リリアがすぐに振り向いた。


「ダリオさん」


「分かってる」


「分かっていません」


 リリアが近づく。


 ダリオは目を閉じた。


「前の村では、言い切れなかった」


 相沢は黙る。


「鳥が少ない。

 獣の音がない。

 煙が低い。

 そう言った。

 でも、強くは言わなかった」


 リリアは止めようとした。


 だが、相沢が小さく首を振った。


 今だけは、聞く必要があると思った。


「次の日、焼けた」


 ダリオの声は、ほとんど息だった。


「だから、今度は言う」


 相沢は頷いた。


「言ってくれ」


「外には出すな。

 森に入るな。

 特に北と倉庫裏。

 あそこは、見られてる」


「分かった」


「弓があれば」


「まだ駄目だ」


 リリアが先に言った。


「今は弓を引ける状態ではありません」


 ダリオは不満そうに目を細める。


「引ける」


「引けません」


「牽制くらいなら」


「駄目です」


 リリアの声は静かだった。


 しかし、強かった。


 相沢はダリオを見る。


「今は、見るだけでいい」


「見るだけか」


「見るだけが足りない」


 ダリオは黙った。


 相沢は続ける。


「ガンツは前を見る。

 ダリオは森を見る。

 それだけで助かる」


 ダリオは少しだけ目を伏せた。


「見るだけで」


「役になる」


 相沢は言った。


「今は、それでいい」


 ダリオは小さく頷いた。


 その頷きは弱かった。


 でも、確かだった。


     ◇


【日曜日 9:24/広場中央】


 土の表に、新しい印が増えた。


 森を見る人。


 相沢は細い枝を一本、北側の線の外に置いた。


「これは?」


 ミナが聞く。


「森を見る人」


「ダリオ?」


「ああ」


「動けないのに?」


「動かなくていい」


 ミナは少し考えた。


「見るだけ」


「見るだけ」


「それ、役だね」


「そうだな」


 相沢は枝を置く。


 前を見るガンツ。


 森を見るダリオ。


 広場を見るミナ。


 倉庫を見るマルタ。


 治療所を見るリリア。


 井戸を見るハルト。


 全体を見る相沢。


 そして、相沢を見ている者たち。


 多すぎる。


 足りない。


 矛盾している。


 でも、昨日よりはましだった。


 ミナが言った。


「回し屋」


「何だ」


「これ、残した方がいい」


「土の表か」


「うん。消えるから」


 相沢は土を見る。


 線。


 丸。


 枝。


 石。


 布。


 簡単なもの。


 でも、消える。


 足で踏めば消える。


 雨が降れば消える。


 相沢が日本に戻れば、誰かが覚えていなければ消える。


「板がいるな」


 相沢は言った。


「板?」


「土じゃなくて、板に残す」


「字?」


「字じゃなくていい。

 記号でいい」


 ミナの目が少しだけ動いた。


「誰が作るの」


 相沢は広場を見る。


 村人。


 避難民。


 子供。


 老人。


 疲れた顔。


 眠い顔。


 それでも、見ている顔。


「作れる人を探す」


「また役?」


「また役」


「便利だね」


「便利だからな」


 ミナは笑った。


 疲れた顔で。


 それでも、少しだけ笑った。


     ◇


【日曜日 9:38/広場中央】


 村は燃えなかった。


 でも、終わっていない。


 赤ゴブリンは生きている。


 食料は増えていない。


 怪我人はいる。


 避難民もいる。


 水も油断できない。


 ガンツは寝ない。


 ダリオはまだ弓を引けない。


 リリアは疲れている。


 マルタは怒っている。


 ハルトは井戸の前で苛立っている。


 ミナは広場を見始めている。


 相沢は土の表を見る。


 自分の印は、端に置いた細い枝だった。


 全体を見る人。


 便利な役。


 危ない役。


 自分だけが逃げ込める役。


 ミナの言葉が残っている。


 自分だけ例外にしてる。


 相沢は、その枝を少しだけ動かした。


 端ではなく、他の印と同じ列へ。


 ミナが見ていた。


「何」


「いや」


 相沢は言った。


「見やすい場所にしただけだ」


「嘘」


「雑だったか」


「かなり」


 相沢は何も言わなかった。


 土の表の上で、小さな枝が一本、他の印と同じ場所に並んでいた。


 それだけだった。


 だが、相沢には妙に重く見えた。


 視界の端に、表示が浮かぶ。



【集落運用:

 暫定再編】


【役割分類:

 未固定】


【記録媒体:

 未整備】


【個人依存:

 高】



「知ってる」


 相沢は呟いた。


 表示は続く。



【推奨:

 記録の固定化】


【推奨:

 代替担当の設定】


【推奨:

 休息】



「最後だけ雑だな」


 相沢が言う。


 ミナが首を傾げる。


「オカン?」


「ああ」


「何て?」


「板を作れ。

 代わりを決めろ。

 寝ろ」


「まともじゃん」


「腹立つくらいな」


「じゃあ、寝る?」


「板を作ってから」


 ミナはため息をついた。


「そう言うと思った」


「便利だな」


「便利」


 村の朝は、ようやく始まっていた。


 燃えなかっただけの朝。


 止まらなかっただけの朝。


 だが、その朝に、役が置かれ始めていた。

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