第七十五話 前を見る男
【日曜日 7:12/広場中央】
数える。
言葉にすると簡単だった。
だが、実際にやると面倒だった。
人を数える。
怪我を数える。
水桶を数える。
見張りに戻せる者を数える。
休ませなければならない者を数える。
そして、数えたものをもう一度見る。
数は、顔ではない。
でも、顔を見なければ数は嘘になる。
相沢は広場の土に線を引いた。
丸。
線。
小石。
枝。
布切れ。
それらを並べる。
「こっちが動ける人」
相沢は丸を指した。
「こっちが休ませる人」
線を引く。
「怪我人は布」
布切れを置く。
「水を運べる人は石」
小石を置く。
「見張りは枝」
枝を置く。
村長が隣で見ている。
ミナも立っている。
村人たちは、半分眠そうな顔でその土の表を見下ろしていた。
「字じゃないのか」
若い村人が言った。
「字だと、読める人しか読めない」
相沢は言った。
「これは見れば分かる」
「子供でも?」
「子供でも」
少し離れたところで、エルが顔を上げた。
相沢はエルを見て、もう一度言う。
「子供でも、分かる方がいい」
エルは小さく頷いた。
弟のそばに座ったまま、土の表を見ている。
「で、これは何?」
ミナが小石を指す。
「水を運べる人」
「じゃあ、これは?」
「休ませる人」
「回し屋は?」
相沢の手が止まった。
ミナはまっすぐ見ていた。
「回し屋の印は?」
「俺は全体を見る」
「それ、昨日も聞いた」
「便利だからな」
「便利に逃げてる」
相沢は返せなかった。
周りの村人が気まずそうに視線を逸らす。
村長だけが、静かに土の表を見ていた。
「では」
村長が言った。
「アイザワ殿の印も必要ですな」
「俺の印ですか」
「はい。倒れた時、誰が代わるか分かりません」
正論だった。
嫌な正論だった。
相沢は息を吐いた。
「じゃあ、これで」
相沢は、小さな枝を一本、表の端に置いた。
「全体を見る人」
ミナが言う。
「一人?」
「今は」
「今はって言った」
「言ったな」
「便利」
「便利だな」
ミナは不満そうだった。
だが、それ以上は言わなかった。
相沢は土にもう一本、短い枝を置いた。
「補助」
「誰?」
「ミナ」
「は?」
「広場を見る」
ミナが黙る。
「できないか」
「できる」
「じゃあ頼む」
「……言い方」
「悪かったか」
「悪くはない」
ミナは土の表を見る。
枝が二本。
一本は相沢。
一本は自分。
それを見て、少しだけ顔を引き締めた。
「見るだけ?」
「見るだけじゃない。
勝手に動きそうな人を止める。
走りそうな子を止める。
怪我人を勝手に動かす人を止める」
「止めるばっかり」
「大事だ」
「知ってる」
ミナは短く言った。
相沢は頷く。
村は、少しだけ形になっていく。
きれいではない。
正しくもない。
ただ、見える。
それだけで、昨日よりはましだった。
◇
【日曜日 7:28/倉庫前】
マルタは土の表を見るなり、鼻を鳴らした。
「倉庫は私だよ」
「分かってます」
「分かってない顔だね」
「顔まで管理できません」
「その返し、腹立つね」
マルタは倉庫の入口に立っていた。
焦げた袋。
湿った袋。
無事な袋。
怪しい袋。
それぞれに印がつけられ始めている。
丸。
線。
黒く塗った石。
布切れ。
簡単なものだった。
それでも、村人が勝手に触る数は減った。
「これは今日使う」
マルタが丸印の袋を叩く。
「これは残す」
線の印。
「これは私に聞くまで触るな」
黒い石。
若い女が頷く。
「はい」
「はい、じゃない。
言いな」
「丸は今日使う。
線は残す。
黒い石は触らない」
「よし」
マルタは満足そうではなかった。
だが、怒鳴る声は少しだけ整っていた。
相沢はそれを見て、思った。
これで全部は救えない。
でも、間違いは減る。
間違いで失う食料は、少し減る。
それだけでも、今は大きい。
「変な男」
マルタが言った。
「はい」
「褒めてないよ」
「知ってます」
「食い物を増やすんじゃなくて、減らさないようにするってわけかい」
「そうです」
「地味だね」
「地味な方が残ります」
「またそれか」
「便利なので」
マルタは少しだけ笑った。
笑ったというより、口の端が歪んだだけだった。
「嫌な便利さだよ」
◇
【日曜日 7:41/井戸前】
ハルトは井戸のそばに座っていた。
立ってはいない。
座っている。
だが、目は井戸を見ている。
リリアに怒られたのだろう。
腕の布は巻き直されていた。
「座ってるな」
相沢が言う。
「見てる」
「立たなくても見えるか」
「見える」
「なら、それでいい」
ハルトは不満そうに鼻を鳴らす。
「座って見てるだけで役になるのか」
「なる」
「楽すぎる」
「傷が開いたら、もっと面倒になる」
「そればっかりだな」
「事実だからな」
ハルトは井戸の縄を見た。
傷のついた場所には、布が巻かれている。
目印だ。
まだ使える。
でも、油断はできない。
「桶は夜、離すんだったな」
「ああ」
「面倒だ」
「面倒にする」
「取られにくくするためか」
「そう」
ハルトは少し黙った。
「俺の村でも、井戸はあった」
相沢はハルトを見る。
ハルトは井戸から目を離さなかった。
「焼かれる前の日、縄が切れてた」
「切れてた?」
「誰かが古いまま使ってた。
取り替えるのを後にした」
「それで」
「火が出た時、水を汲むのが遅れた」
ハルトの声は低い。
怒っているようで、違った。
自分に向いている声だった。
「俺は、その時も水場にいた。
でも、遅かった」
相沢は何も言わなかった。
言えることがなかった。
ハルトは腕を押さえる。
「だから、座って見てるだけってのが腹立つ」
「見てなかったら、また遅れる」
「分かってる」
「なら、見てろ」
ハルトが相沢を見る。
少しだけ、目が鋭い。
「命令か」
「頼みだ」
「なら、聞いてやる」
「助かる」
「礼を言うな」
「最近、それ言う人が増えたな」
「言われるような顔してるんだろ」
相沢は返さなかった。
そうかもしれないと思った。
◇
【日曜日 7:56/北柵】
ガンツは、まだ北を見ていた。
朝になっても、森は森だった。
明るくなった分だけ、影が増えたようにも見える。
相沢は北柵まで歩いた。
足が重い。
だが、歩ける。
歩けるうちは、見に行ってしまう。
それが悪い癖だと、さっきミナに言われたばかりだった。
「また来たのか」
ガンツが言った。
「見に来た」
「寝ろ」
「お前もな」
「俺はいい」
「便利な言葉だな」
「お前が言うな」
相沢は柵にもたれた。
焦げた跡。
濡れた土。
踏み固められた場所。
ガンツの肩の布。
全部を見る。
「肩」
「動く」
「動くと使えるは違う」
「それ、さっき聞いた」
「何度でも言う」
「腹立つな」
「よく言われる」
ガンツは森を見たまま、少しだけ黙った。
それから言う。
「お前、俺を寝かせたいのか」
「寝てほしい」
「何で」
「前に立つ人が倒れたら困る」
「理由が仕事だな」
「他の言い方が要るか」
「いや」
ガンツは鼻を鳴らした。
「それでいい」
相沢は横を見る。
ガンツの目は森に向いたままだった。
「ガンツ」
「あ?」
「何で、この村にいるんだ」
ガンツの目だけが少し動いた。
「急だな」
「前から思ってた」
「何を」
「腕が立つ。
もっと大きい場所にいてもおかしくない」
「いた」
短い答えだった。
相沢は黙った。
ガンツは森を見る。
「若い頃、村を出た」
「この村の出身なのか」
「ああ」
相沢は少し意外だった。
ガンツは、ずっとここにいる男のようにも見えたし、どこからか流れてきた男のようにも見えた。
「兵みたいなことをしてた。
街道を守ったり、魔物を斬ったりな」
「領主の?」
「そんなもんだ」
「戻ったのか」
「ああ」
「何で」
ガンツはすぐには答えなかった。
森の奥で、鳥が一羽鳴いた。
その声が、やけに遠い。
「命令じゃ、守れねぇ場所がある」
相沢は何も言わなかった。
「助けに行くなと言われた村があった」
ガンツの声は低かった。
怒鳴っていない。
だから余計に重かった。
「行かなかった。
命令だったからな」
相沢は柵の焦げ跡を見た。
「次の日、煙だけ見えた」
ガンツは続けた。
「細い煙だった。
遠かった。
でも、見えた」
相沢は息を止めていた。
「それからだ。
でかい旗の下で戦うのが嫌になった」
「それで、この村に戻った」
「ああ」
「ここなら」
相沢が言う。
「煙が上がる前に見える」
ガンツは少しだけ相沢を見た。
「分かったようなことを言うな」
「悪い」
「合ってるから腹立つ」
相沢は黙った。
ガンツはまた森を見た。
「ここなら、見えると思った。
北も、西も、倉庫の煙も。
少なくとも、見えないまま終わることはないと思った」
「でも、全部は見えない」
「ああ」
「だから腹立つ」
「そうだ」
ガンツは槍を握り直した。
「赤いのは、それを知ってやがる」
「見えない場所を作る」
「そうだ」
「走らせる」
「そうだ」
「前に立つ人を、後ろへ振り向かせる」
ガンツは笑わなかった。
「嫌な奴だ」
「敵側の回し屋だからな」
「その言い方はやめろ。
腹立つ」
「俺も嫌だ」
相沢は森を見る。
朝の森。
燃えなかった村の向こう側。
そこに、まだ赤い影はいない。
でも、いないだけだった。
「ガンツ」
「何だ」
「俺は戦えない」
「知ってる」
「即答だな」
「見りゃ分かる」
「そこまでか」
「そこまでだ」
相沢は少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
うまく笑えているかは分からなかった。
「でも、お前は後ろを見る」
ガンツが言った。
相沢は横を見る。
「妙な場所を見る。
人の足とか、水桶とか、逃げ道とか。
俺はそういうのは苦手だ」
「俺は前に立てない」
「立たなくていい」
ガンツは森を見たまま言った。
「お前は後ろを見ろ」
相沢は黙った。
「前は?」
聞くつもりはなかった。
だが、言葉が出た。
ガンツは短く答えた。
「俺が見る」
それだけだった。
大げさな約束ではない。
友情という言葉にもならない。
ただの役割分担。
それでも、相沢には十分だった。
「助かる」
「礼を言うな」
「それも増えたな」
「お前が言わせる顔してるんだろ」
「さっきも言われた」
「なら直せ」
「顔まで管理できない」
「腹立つ」
ガンツは鼻を鳴らした。
相沢は森を見る。
前を見る男がいる。
だから、後ろを見られる。
それは、今の村に必要な形だった。
◇
【日曜日 8:18/広場中央】
村長が人を集めた。
全員ではない。
動ける者。
聞いて伝えられる者。
村人側。
避難民側。
治療所からはリリア。
倉庫からはマルタ。
井戸からはハルトが、座ったまま少し離れて聞いている。
ガンツは北から戻らなかった。
戻らなくていい。
前を見る人が必要だった。
村長が杖を地面についた。
「まず、決めなければなりません」
広場が静かになる。
「昨日来た者たちを、この村で受け入れるかどうかです」
誰も、すぐには返事をしなかった。
避難民たちの顔が強張る。
村人たちも、視線を落とす。
助けたい。
だが、食料は増えない。
水も増えない。
寝床も足りない。
赤いゴブリンは、まだ森にいる。
その全部を、みんな分かっていた。
「今さら追い出せっていうのか」
避難民の一人が低く言った。
村人の男が顔を上げる。
「そうは言ってない。
だが、うちの子の飯が減る」
「俺たちは好きで来たんじゃない」
「それは分かってる」
「分かってる顔じゃない」
空気が固くなる。
ミナが一歩動きかけた。
相沢は手で止めた。
今は、止めるだけでは駄目だった。
言わせる必要がある。
村人側の不安も。
避難民側の怒りも。
言葉にしないまま役だけ決めても、あとで腐る。
その時、視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【集落人口:
増加状態】
【食糧消費量:
上昇】
【治療負荷:
上昇】
【防衛負荷:
上昇】
【内部対立リスク:
上昇】
【受け入れ判断:
高リスク】
【推奨:
集落外退去】
⸻
相沢は、表示を見た。
「……切れって言ってるのか」
小さく呟いた。
ミナが横を見る。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「受け入れるなって」
ミナの顔が少し強張った。
相沢は表示から目を離した。
正しい。
たぶん、オカンは正しい。
食料は減る。
水は詰まる。
治療所は潰れかける。
村人と避難民は揉める。
赤いゴブリンに、また狙われる。
運用だけで見れば、切った方が軽い。
だが。
広場の西側には、煤けた子供が座っていた。
エルが弟の手を握っていた。
ハルトが井戸のそばで、腕を押さえながらこちらを見ていた。
リリアは何も言わない。
マルタも何も言わない。
ガンツは北を見ている。
村長は相沢を見ていた。
相沢は息を吐いた。
「受け入れるなら、条件が要ります」
村人たちがこちらを見る。
避難民たちも。
「食料は増えません。
水も増えません。
寝床も足りません。
だから、ただ置くだけなら村が止まります」
ハルトが低く言った。
「置くだけにする気はない」
相沢は頷いた。
「なら、役を持ってもらう」
「怪我人にもか」
「怪我人には、怪我人の役です」
「子供にもか」
「子供には、子供の役です」
村人の男が言う。
「役があれば、飯を食わせるのか」
相沢は首を振った。
「違います」
広場が少しざわつく。
「食事を罰にしない。
働けない人を飢えさせる形にはしない」
「じゃあ、働ける奴と同じか」
「それも違います」
相沢は土の表を見る。
「倒れると困る人には、倒れない量がいる。
病人には、食べられる形がいる。
子供には、消化できるものがいる。
見張りには、立っていられる量がいる」
マルタが鼻を鳴らした。
「きれいごとじゃないね」
「きれいではないです」
「なら続けな」
相沢は頷いた。
「受け入れるなら、村人と避難民を分けたままにはしない。
ただし、混ぜるだけでも駄目です」
ハルトが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「役で置く」
相沢は言った。
「井戸を見る人。
子供を見る人。
治療所へ呼ぶ人。
倉庫に触らないよう止める人。
柵を見る人。
休む人」
村長が静かに続けた。
「この村にいるなら、村の役を持つ」
ハルトは黙った。
それから、短く言った。
「それならいい」
避難民の男がハルトを見る。
「ハルト」
「助けられるだけなのが嫌なんだよ」
ハルトは腕を押さえたまま言った。
「ここに置くなら、俺たちにも役を寄こせ」
その言葉は、避難民側に届いた。
村人側にも届いた。
村長はゆっくりと頷いた。
「では、決めましょう」
杖の先が、土を叩く。
「昨日来た十二人を、この村で受け入れます。
ただし、客としてではありません。
村を続けるための役を持つ者として、受け入れます」
反対の声はあった。
小さく。
低く。
消えたわけではない。
だが、広場全体を止めるほどではなかった。
相沢はそれを見て、思った。
受け入れた。
でも、解決したわけではない。
問題が、村の中に置かれただけだ。
だから、次にやることは決まっている。
相沢は土の表の前に立った。
「では、朝の役を決めます」
◇
【日曜日 8:36/広場中央】
役は、きれいには決まらなかった。
当然だった。
誰が動けるか。
誰が本当は休むべきか。
誰が無理をしているか。
誰が避難民を嫌がっているか。
誰が村人を怖がっているか。
全部が混ざっていた。
それでも、少しずつ置いていく。
井戸を見る人。
水を運ぶ人。
倉庫に触っていい人。
治療所へ呼びに行く人。
子供を見る人。
東を見る人。
西を見る人。
北を見る人。
休む人。
「俺は休まなくていい」
若い見張りが言った。
額に昨日の傷が残っている。
相沢が言う前に、ミナが言った。
「休む」
「でも」
「額、切れてる」
「動ける」
「動けると使えるは違う」
相沢は思わずミナを見た。
ガンツに言った言葉だった。
ミナは気づいていないのか、気づいていて言ったのか分からない。
若い見張りは黙った。
「二刻だけ」
ミナが言う。
「寝なくてもいい。
座る。
水飲む。
リリアさんにもう一回見てもらう」
「……分かった」
相沢は土の表に、若い見張りの印を休む場所へ移した。
小さな動き。
でも、昨日ならたぶんできなかった。
村は、少しずつ覚えている。
◇
【日曜日 8:52/治療所横】
相沢は水を飲んだ。
薄い。
ぬるい。
でも、水だった。
喉に落ちるだけで、体が少し戻る。
リリアが隣に立った。
「飲めましたか」
「はい」
「食べましたか」
「まだ」
「食べてください」
「後で」
「今です」
「リリアさん」
「今です」
相沢は黙った。
リリアは小さな器を差し出した。
粥だった。
かなり薄い。
少しだけ焦げた匂いがする。
「病人用ではありません」
「分かります」
「マルタさんが、動く人用に分けたものです」
「俺は」
「動いています」
「……はい」
相沢は器を受け取る。
熱い。
薄い。
でも、腹に入る。
一口食べると、急に空腹が分かった。
自分が空腹だったことを、忘れていた。
「忘れていた顔ですね」
リリアが言った。
「何を」
「食べることです」
「忘れては」
「いました」
相沢は反論しなかった。
リリアには、反論しても無駄な時がある。
「アイザワ殿」
「はい」
「役を分けるなら、あなたの食事も役に入れてください」
「食事が役ですか」
「はい」
リリアは静かに言った。
「倒れないための役です」
相沢は粥を見る。
薄い粥。
焦げた匂い。
少ない食料。
それでも、今は食べる必要がある。
食べなければ、見られない。
「分かりました」
「今の返事は、少しだけましです」
「少しだけですか」
「はい」
リリアは表情を変えずに言った。
相沢は粥をもう一口食べた。
◇
【日曜日 9:07/広場中央】
朝は完全に来ていた。
村は燃えていない。
だが、村は休んでいない。
休む人を決めても、休めない人がいる。
見る場所を決めても、見落としはある。
食料を分けても、腹は減る。
それでも、昨日よりは少しだけ形があった。
土の表。
倉庫の印。
井戸を見るハルト。
弟のそばで、異変があれば呼ぶと決めたエル。
治療所のリリア。
北を見るガンツ。
広場を見るミナ。
そして、森を見るダリオ。
まだ寝かされているはずのダリオが、治療所の入口から外を見ていた。
相沢は近づく。
「寝てろと言われてないか」
「言われた」
「なら寝てろ」
「森が静かだ」
相沢は足を止めた。
ダリオの目は、森の方を向いている。
「静かなのは、いいことじゃないのか」
「普通の静かさじゃない」
ダリオはかすれた声で言った。
「鳥が戻ってない」
相沢は森を見る。
鳥。
そう言われても、相沢には分からない。
大阪の朝なら、車の音と人の声と空調の音で埋まる。
この森の普通を、相沢は知らない。
だから、知っている者の言葉を聞くしかない。
「どのくらいまずい」
「すぐ来るとは言わない」
「でも」
「見てる」
ダリオは言った。
「赤いのは、まだ見てる」
相沢は頷いた。
「分かった」
「信じるのか」
「分からないことは、分かる人に聞く」
ダリオは少しだけ相沢を見た。
驚いたような顔だった。
「前の村では」
言いかけて、咳き込む。
リリアがすぐに振り向いた。
「ダリオさん」
「分かってる」
「分かっていません」
リリアが近づく。
ダリオは目を閉じた。
「前の村では、言い切れなかった」
相沢は黙る。
「鳥が少ない。
獣の音がない。
煙が低い。
そう言った。
でも、強くは言わなかった」
リリアは止めようとした。
だが、相沢が小さく首を振った。
今だけは、聞く必要があると思った。
「次の日、焼けた」
ダリオの声は、ほとんど息だった。
「だから、今度は言う」
相沢は頷いた。
「言ってくれ」
「外には出すな。
森に入るな。
特に北と倉庫裏。
あそこは、見られてる」
「分かった」
「弓があれば」
「まだ駄目だ」
リリアが先に言った。
「今は弓を引ける状態ではありません」
ダリオは不満そうに目を細める。
「引ける」
「引けません」
「牽制くらいなら」
「駄目です」
リリアの声は静かだった。
しかし、強かった。
相沢はダリオを見る。
「今は、見るだけでいい」
「見るだけか」
「見るだけが足りない」
ダリオは黙った。
相沢は続ける。
「ガンツは前を見る。
ダリオは森を見る。
それだけで助かる」
ダリオは少しだけ目を伏せた。
「見るだけで」
「役になる」
相沢は言った。
「今は、それでいい」
ダリオは小さく頷いた。
その頷きは弱かった。
でも、確かだった。
◇
【日曜日 9:24/広場中央】
土の表に、新しい印が増えた。
森を見る人。
相沢は細い枝を一本、北側の線の外に置いた。
「これは?」
ミナが聞く。
「森を見る人」
「ダリオ?」
「ああ」
「動けないのに?」
「動かなくていい」
ミナは少し考えた。
「見るだけ」
「見るだけ」
「それ、役だね」
「そうだな」
相沢は枝を置く。
前を見るガンツ。
森を見るダリオ。
広場を見るミナ。
倉庫を見るマルタ。
治療所を見るリリア。
井戸を見るハルト。
全体を見る相沢。
そして、相沢を見ている者たち。
多すぎる。
足りない。
矛盾している。
でも、昨日よりはましだった。
ミナが言った。
「回し屋」
「何だ」
「これ、残した方がいい」
「土の表か」
「うん。消えるから」
相沢は土を見る。
線。
丸。
枝。
石。
布。
簡単なもの。
でも、消える。
足で踏めば消える。
雨が降れば消える。
相沢が日本に戻れば、誰かが覚えていなければ消える。
「板がいるな」
相沢は言った。
「板?」
「土じゃなくて、板に残す」
「字?」
「字じゃなくていい。
記号でいい」
ミナの目が少しだけ動いた。
「誰が作るの」
相沢は広場を見る。
村人。
避難民。
子供。
老人。
疲れた顔。
眠い顔。
それでも、見ている顔。
「作れる人を探す」
「また役?」
「また役」
「便利だね」
「便利だからな」
ミナは笑った。
疲れた顔で。
それでも、少しだけ笑った。
◇
【日曜日 9:38/広場中央】
村は燃えなかった。
でも、終わっていない。
赤ゴブリンは生きている。
食料は増えていない。
怪我人はいる。
避難民もいる。
水も油断できない。
ガンツは寝ない。
ダリオはまだ弓を引けない。
リリアは疲れている。
マルタは怒っている。
ハルトは井戸の前で苛立っている。
ミナは広場を見始めている。
相沢は土の表を見る。
自分の印は、端に置いた細い枝だった。
全体を見る人。
便利な役。
危ない役。
自分だけが逃げ込める役。
ミナの言葉が残っている。
自分だけ例外にしてる。
相沢は、その枝を少しだけ動かした。
端ではなく、他の印と同じ列へ。
ミナが見ていた。
「何」
「いや」
相沢は言った。
「見やすい場所にしただけだ」
「嘘」
「雑だったか」
「かなり」
相沢は何も言わなかった。
土の表の上で、小さな枝が一本、他の印と同じ場所に並んでいた。
それだけだった。
だが、相沢には妙に重く見えた。
視界の端に、表示が浮かぶ。
⸻
【集落運用:
暫定再編】
【役割分類:
未固定】
【記録媒体:
未整備】
【個人依存:
高】
⸻
「知ってる」
相沢は呟いた。
表示は続く。
⸻
【推奨:
記録の固定化】
【推奨:
代替担当の設定】
【推奨:
休息】
⸻
「最後だけ雑だな」
相沢が言う。
ミナが首を傾げる。
「オカン?」
「ああ」
「何て?」
「板を作れ。
代わりを決めろ。
寝ろ」
「まともじゃん」
「腹立つくらいな」
「じゃあ、寝る?」
「板を作ってから」
ミナはため息をついた。
「そう言うと思った」
「便利だな」
「便利」
村の朝は、ようやく始まっていた。
燃えなかっただけの朝。
止まらなかっただけの朝。
だが、その朝に、役が置かれ始めていた。




