第七十三話 置かれた火
【日曜日 3:52/北柵】
三回。
板が鳴った。
乾いた音が、夜明け前の村に走る。
一回。
二回。
三回。
眠っていた者が起きる。
座っていた者が立つ。
立っていた者が、息を止める。
「北!」
ミナの声が飛んだ。
相沢は北柵を見る。
黒い森。
その奥。
一瞬だけ見えた赤い光。
火ではない。
目。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
「ガンツ!」
「見えてる!」
ガンツは槍を構えていた。
北柵の前。
火は低い。
森は暗い。
だが、影は見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
低い。
小さい。
ゴブリン。
その奥。
赤い影。
動かない。
見ている。
「来るぞ」
若い見張りが震えた声を出す。
ガンツが低く言う。
「まだだ」
「でも」
「まだ来てねぇ」
相沢は息を吸う。
叫ぶな。
全員を北に集めるな。
ここで集めたら。
東西が空く。
倉庫が空く。
井戸が空く。
「ミナ!」
「何!」
「全員動かすな!
北を見る人だけ!」
「分かった!」
ミナが広場へ振り返る。
「勝手に動かない!
自分の場所、見てて!」
声が通った。
半分は止まった。
半分は動きかけた。
その半分を、村長が止める。
「持ち場を離れないでください!」
村長の声も重なった。
相沢は北を見る。
赤い影は、まだ動かない。
違う。
これは。
見せている。
◇
【日曜日 3:55/北柵】
ゴブリンが前に出た。
一匹。
小さな黒い塊を持っている。
置き火。
またか。
相沢が叫ぶ前に、ガンツが言った。
「水!」
火の水を持つ若い見張りが動く。
今度は前より早い。
だが、手が震えている。
「半分でいい!」
ミナの声が広場から飛んだ。
若い見張りが頷く。
柵の隙間から水をかける。
黒い塊に水がかかる。
煙が上がる。
消えた。
だが。
その瞬間。
赤い影が少し動いた。
森の奥。
北ではない。
少し西。
赤い光が、横に流れた。
「……違う」
相沢は呟いた。
ガンツが聞く。
「何が」
「こっちを見せてる」
「は?」
「北は見せてるだけだ」
相沢は振り返る。
広場。
火。
治療所。
倉庫。
井戸。
どこだ。
どこを薄くした。
北に目が集まった。
見張りは残した。
東西も残した。
なら。
火。
水。
倉庫。
「倉庫」
相沢が言った。
ガンツが顔をしかめる。
「何?」
「倉庫だ!」
◇
【日曜日 3:57/倉庫前】
マルタは起きていた。
寝ていなかった。
半分寝ているふりをして、半分起きていた。
だから。
見えた。
倉庫の裏。
暗い影。
地面を這うように動く小さな影。
ゴブリン。
一匹。
手に、黒い塊。
マルタは息を吸った。
「火だよ!」
怒鳴った。
その声は、広場を切った。
「倉庫!」
ミナが叫ぶ。
相沢は走る。
足が重い。
だが、動く。
ハルトが井戸前から先に動いた。
水番。
火の水。
補充したばかりの桶。
ハルトはそれを掴む。
「飲む水じゃない!」
若い村人が反射的に言った。
「分かってる!」
ハルトが怒鳴る。
桶を半分だけ持ち上げる。
満杯ではない。
だから走れた。
全部ではない。
半分。
半分だから届く。
倉庫裏に、ゴブリンが黒い塊を置いた。
火がまだ出ていない。
だが、煙が細く上がる。
「そこ!」
マルタが指を差す。
ハルトが水を投げた。
ばしゃり。
水が塊にかかる。
煙が消える。
だが、ゴブリンは逃げない。
もう一つ。
腰の袋から、別の黒い塊を出す。
「二つ目!」
相沢が叫ぶ。
ハルトの桶は空に近い。
若い村人が迷う。
井戸へ戻るか。
倉庫へ行くか。
その時。
マルタが倉庫の横から砂の入った籠を蹴り出した。
「水だけだと思うんじゃないよ!」
砂。
焦げた袋を分けた時に出た灰混じりの土。
マルタが残していた。
何に使うか決めていなかったもの。
だが、そこにあった。
マルタが籠を掴んで、黒い塊にかぶせる。
煙が詰まる。
火は上がらない。
ゴブリンが一歩下がる。
その顔が火に照らされた。
普通のゴブリン。
だが、目がこちらを見ていない。
奥を見ている。
指示を待っている目。
「赤が見てる」
相沢は言った。
◇
【日曜日 3:59/広場中央】
村が動きかけた。
北へ。
倉庫へ。
両方へ。
それが一番危なかった。
人がぶつかる。
火のそばを走る。
水桶を蹴る。
寝ている子供を踏む。
相沢は息を吸った。
「止まれ!」
声が割れた。
それでも、通った。
「北は北!
倉庫は倉庫!
持ち場を離れるな!」
ミナがすぐ続ける。
「勝手に動かない!
自分の場所、見てて!」
村長も叫ぶ。
「寝ている者を起こさない!
子供を中央へ!」
リリアは治療所前で立ち上がった。
だが、動かない。
動けば治療所が空く。
リリアは唇を噛み、補助の女に言う。
「火傷の用意を」
「はい!」
エルが起きた。
弟を見る。
それから、立とうとする。
「エル」
リリアが呼ぶ。
エルが止まる。
「弟のそばに」
「でも」
「それが役です」
エルは震えながら頷いた。
動かない。
それも、今は仕事だった。
◇
【日曜日 4:02/倉庫前】
ハルトは空の桶を握っていた。
肩で息をしている。
マルタは砂籠を持ったまま、倉庫の前に立っていた。
小さい。
年配の女。
だが、まったく退いていない。
「来るなら来な!」
マルタが怒鳴る。
相沢は倉庫裏を見る。
ゴブリンが二匹。
一匹は塊を置いた。
一匹は奥で見ている。
そのさらに後ろ。
赤い光。
一瞬。
消える。
「追うな!」
相沢が叫ぶ。
ハルトが動きかけて止まる。
「分かってる!」
「今のはハルトに言った!」
「分かってるって言ってるだろ!」
「二回言いたくなる!」
マルタが怒鳴る。
「あんたら喧嘩してる場合かい!」
「してません!」
「してない!」
二人の声が重なった。
マルタが鼻を鳴らす。
「息は合ってるじゃないか」
相沢は言い返せなかった。
ハルトも言い返せなかった。
その間に、ゴブリンは下がる。
森ではない。
家の影。
柵の隙間。
倉庫裏の低い柵。
「そこから入ったのか」
相沢は低く言った。
マルタが顔をしかめる。
「裏の柵かい」
「低い?」
「低くはない。
でも古い」
「古いは、低いと同じです」
「嫌なこと言うね」
「俺も嫌です」
◇
【日曜日 4:05/北柵】
北でも動きがあった。
置き火を消されたゴブリンが下がった。
だが、別の二匹が前に出る。
ガンツが槍を構える。
「来るなら来い」
低い声。
赤い影は、まだ奥にいる。
ガンツは追わない。
相沢に言われたからではない。
今、追えば崩れると分かったからだ。
若い見張りが震えている。
「来ますか」
「来るかもしれん」
「どうすれば」
「見る」
「戦わない?」
「俺が前に出る。
お前は見る」
「はい」
「板を持て」
老人が板を握り直す。
ガンツは森を見る。
その時、治療所の方から低い咳が聞こえた。
ダリオか。
ガンツは一瞬だけ振り返りそうになった。
だが、しなかった。
見る場所を離れない。
それが、今の役だった。
◇
【日曜日 4:08/治療所前】
ダリオは起きていた。
起き上がろうとして、リリアに止められていた。
「駄目です」
「森が」
「駄目です」
「赤いのは」
「駄目です」
三回。
全部、同じ声。
リリアは静かだった。
だが、絶対に通さない声だった。
ダリオは苦しそうに息をする。
「倉庫は、囮の後だ」
相沢が駆け込んだ時、ダリオはそう言った。
「北を見せて、裏を焼く」
「もう来た」
相沢が言う。
ダリオの目が動く。
「消したか」
「消した」
「次は」
リリアが遮る。
「そこまでです」
ダリオは黙らない。
「次は、同時に来る」
相沢は止まった。
「北と倉庫?」
「違う」
ダリオは息を吸う。
「水」
相沢の背中が冷えた。
水。
井戸。
火を消すために、水を使わせた。
倉庫に水を運ばせた。
北にも水を置かせた。
次に狙うなら。
「井戸か」
ダリオは目を閉じた。
「水が止まれば、火は勝つ」
リリアがダリオの肩を押さえる。
「もう話さないでください」
今度は、ダリオも黙った。
相沢は振り返る。
「ミナ!」
広場から返事。
「何!」
「井戸を見ろ!」
◇
【日曜日 4:10/井戸前】
井戸前には、ハルトが戻っていなかった。
倉庫に走ったからだ。
若い村人が一人。
縄を握って立っている。
もう一人は足元を見る役。
だが、二人とも倉庫の方を見ていた。
見てしまっていた。
井戸の奥。
暗い。
その縁に、小さな影が近づいていた。
ゴブリン。
水ではない。
縄を狙っている。
井戸の縄。
桶。
それを切られたら、水が止まる。
完全には止まらなくても、遅れる。
「井戸!」
ミナが叫んだ。
若い村人が振り返る。
遅い。
ゴブリンが縄へ手を伸ばす。
その瞬間。
ハルトが横から飛び込んだ。
倉庫から戻っていた。
息も整っていない。
それでも戻った。
「触るな!」
ハルトがゴブリンに体当たりする。
ゴブリンが倒れる。
縄から手が離れる。
ハルトも転ぶ。
若い村人が固まる。
「板!」
ミナが叫ぶ。
板は北だけではなかった。
井戸前にも、予備の板が置かれていた。
音を出すため。
若い村人がそれを掴む。
叩く。
一回。
二回。
三回。
井戸の警戒音。
村の視線が井戸に集まる。
だが、もう全員は動かない。
決めていたからだ。
井戸に動く人。
北に残る人。
倉庫に残る人。
治療所に残る人。
相沢は走りながら、それを見た。
地味な準備が。
今、村を止めている。
◇
【日曜日 4:13/井戸前】
ゴブリンは立ち上がった。
小さい。
だが、速い。
ハルトの腕に爪を立てる。
「ぐっ」
ハルトが顔を歪める。
ミナが石を投げた。
当たらない。
だが、ゴブリンが一瞬そちらを見る。
その一瞬で、若い村人が縄を引いた。
桶を井戸から離す。
縄を抱える。
守った。
相沢はゴブリンの前に出た。
武器はない。
棒だけ。
何をしている。
自分でも思う。
だが、井戸の前からどかなければならない。
ゴブリンが相沢を見る。
歯を剥く。
その時。
横からハルトが、空の桶を叩きつけた。
ごん。
鈍い音。
ゴブリンがよろめく。
「何突っ立ってる!」
ハルトが怒鳴る。
「助かった!」
「礼を言うな!」
「今それか!」
ゴブリンが逃げる。
井戸の影から、柵の方へ。
追わない。
追えない。
追ってはいけない。
相沢は叫ぶ。
「追うな!
縄を見ろ!
桶を見ろ!
井戸を見ろ!」
ハルトが腕を押さえながら言う。
「俺を見る選択肢はないのか」
「リリアさんを呼ぶ!」
「それならいい!」
◇
【日曜日 4:17/広場中央】
北。
倉庫。
井戸。
三つ。
同時ではない。
少しずつずらしてきた。
北で見せる。
倉庫を焼く。
井戸を切る。
順番。
嫌な順番だった。
相沢は広場中央に戻る。
息が切れる。
膝が笑う。
だが、止まれない。
「被害!」
相沢が叫ぶ。
ミナが答える。
「倉庫、燃えてない!」
マルタが続く。
「火種二つ、潰した!」
井戸前から若い村人。
「縄、無事!
桶も無事!」
ハルトが怒鳴る。
「俺は少し無事じゃない!」
リリアが治療所前から声を出す。
「こちらへ!」
ガンツが北から叫ぶ。
「北、下がった!
赤いのはまだ奥!」
村長が広場を見る。
「子供、中央に残っています!」
エルが弟のそばで震えながら頷く。
動いていない。
それも守ったことだった。
相沢は息を吸う。
情報が集まる。
声が繋がる。
村が割れていない。
まだ。
割れていない。
◇
【日曜日 4:20/広場中央】
⸻
【夜明け前襲撃:
進行中】
【北柵:陽動】
【倉庫:火災誘発未遂】
【井戸:水運用妨害未遂】
【被害】
【人的損傷:軽度】
【火災:未発生】
【水運用:継続可能】
⸻
「軽度って言うな」
相沢は呟いた。
ハルトが腕を押さえている。
血が出ている。
軽度。
数字ならそうかもしれない。
だが、本人には痛い。
リリアがハルトの腕を見る。
「深くはありません」
「痛い」
「痛いと思います」
「そこは否定しろ」
「嘘はよくありません」
「この村、嘘に厳しいな」
相沢は少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
北の森を見る。
赤い光。
まだいる。
まだ終わっていない。
⸻
【推奨】
【北柵防衛維持】
【倉庫裏監視追加】
【井戸防護継続】
【中核指揮者の判断継続】
⸻
「最後が一番嫌だ」
相沢は言った。
ミナが横に来る。
「何て?」
「まだ終わってない」
「見れば分かる」
「そうだな」
「次は?」
相沢は赤い光を見る。
赤ゴブリンは、こちらを見ている。
たぶん。
学んでいる。
だが、こちらも学んだ。
北だけではない。
倉庫。
井戸。
水。
火。
役。
全部、繋がっている。
「次は、こっちから崩れない」
「どうやって」
「動かない場所を決める」
「また?」
「ああ」
相沢は広場を見る。
全員が動きたがっている。
怖いから。
守りたいから。
何かしないと不安だから。
でも、今それをやれば負ける。
「北はガンツ。
倉庫はマルタ。
井戸はハルト。
治療所はリリアさん。
広場はミナ」
ミナが目を開く。
「私?」
「人を止めろ」
「止めるの?」
「動かないようにする」
「……分かった」
相沢は言う。
「村長」
「はい」
「村人を座らせてください。
動ける人ほど、動きたがる」
「承知しました」
「エル」
エルが顔を上げる。
「弟のそば」
「はい」
震えている。
だが、返事はした。
「ダリオは」
相沢が言いかけると、リリアが先に言った。
「寝かせます」
「お願いします」
リリアは頷いた。
そこだけは譲らない顔だった。
◇
【日曜日 4:24/北柵】
赤い光は、まだ森にあった。
ガンツは槍を構えたまま動かない。
若い見張りは板を握っている。
老人は座ったまま森を見ている。
「来るか」
相沢が聞く。
「来るかもしれん」
「来ないかもしれない」
「ああ」
「見てるだけかもしれない」
「それが一番腹立つ」
「同感だ」
赤い光が揺れた。
普通のゴブリンが一匹、前に出る。
手には何も持っていない。
ゆっくり。
ゆっくり。
柵に近づく。
「挑発か」
ガンツが言う。
「かもしれない」
「倒すか」
「近づいたら」
「今じゃないのか」
「今出たら、釣られる」
ガンツは舌打ちした。
「お前のそういうところ、本当に腹立つ」
「俺も自分で嫌だ」
ゴブリンは柵の外、少し離れたところで止まった。
歯を剥く。
声を出す。
甲高い。
不快な音。
広場の子供が泣きかける。
ミナの声が飛ぶ。
「見なくていい!
耳ふさいで!」
ミナらしい言い方だった。
相沢は一瞬だけそちらを見る。
広場でミナが子供たちの前に立っている。
動いていない。
自分の場所を見ている。
相沢は北に戻る。
ゴブリンはまだ鳴いている。
赤い光は、奥で動かない。
◇
【日曜日 4:28/倉庫前】
マルタは倉庫の裏に砂を追加させていた。
「水がないなら土だよ!
火は食わせなきゃ消える!」
若い村人が土を運ぶ。
ハルトは腕に布を巻かれたまま、井戸の前に戻ろうとしていた。
「動いていいとは言ってません」
リリアが言う。
「井戸を見る」
「その前に止血です」
「血は止まる」
「止めます」
リリアの声は静かだった。
ハルトは一瞬黙り、腕を差し出した。
「この村の女は怖いな」
「必要です」
「それも流行ってるのか」
「はい」
リリアは短く答えた。
ハルトは少しだけ笑った。
痛そうだった。
◇
【日曜日 4:32/広場中央】
相沢は北と倉庫と井戸を同時に見ようとしていた。
無理だった。
人間の目は一つの方向しか見られない。
だから、声を聞く。
北。
ガンツ。
倉庫。
マルタ。
井戸。
ハルト。
広場。
ミナ。
治療所。
リリア。
村長。
エル。
ダリオ。
全部を自分で見るのは無理だ。
それでも。
声があれば見える。
その時。
⸻
【役割分散:
有効】
【複数拠点同時対応:
維持】
【敵性個体:
観察行動継続】
⸻
「見てるのはお互い様か」
相沢は呟いた。
赤ゴブリンは村を見ている。
村も赤ゴブリンを見ている。
ただし。
向こうは一匹の意思で見ている。
こちらは五十五人で、ばらばらに見ている。
ばらばらだから弱い。
ばらばらだから、広く見える。
どちらが勝つかは分からない。
だが、今は。
まだ。
村は燃えていない。
◇
【日曜日 4:37/北柵】
赤い光が、ゆっくり下がった。
普通のゴブリンも鳴くのをやめる。
一匹。
二匹。
森の奥へ消える。
ガンツは追わない。
相沢も追わせない。
誰も動かない。
ただ、見る。
赤い光が最後に一度だけ揺れた。
それから。
消えた。
静かになった。
静かすぎる。
若い見張りが息を吐く。
「終わり、ですか」
ガンツが言う。
「分からん」
相沢も言う。
「分からない」
「二人とも同じこと言うんですね」
若い見張りが、引きつった顔で笑った。
ガンツが睨む。
「笑うな」
「すみません」
相沢は森を見る。
終わった。
とは言えない。
だが、引いた。
それは事実だった。
◇
【日曜日 4:43/広場中央】
村は燃えていなかった。
倉庫も。
井戸も。
北柵も。
焦げ跡はある。
濡れた土もある。
血も少し出た。
子供は泣いた。
大人も震えている。
だが、燃えていない。
水は使える。
食料も残っている。
治療所も空いていない。
相沢はその事実を、ひとつずつ拾った。
拾わないと、怖さだけが残る。
「被害、もう一度」
相沢が言う。
ミナが広場を見る。
「子供、全員いる」
村長が続ける。
「村人、避難民ともに大きな混乱なし」
マルタが言う。
「倉庫は無事。
ただし裏の柵を見る必要があるね」
ハルトが腕を押さえながら言う。
「井戸は無事。
縄も桶もある」
リリアが言う。
「ハルトさんの傷は浅いです。
ただし、清潔にします」
ハルトが顔をしかめる。
「さん付けされると落ち着かない」
「では、ハルト」
「それも落ち着かない」
「我慢してください」
相沢は少しだけ息を吐いた。
笑えそうだった。
まだ笑えない。
でも、少しだけ。
息はできた。
◇
【日曜日 4:50/広場中央】
⸻
【夜明け前襲撃:
退避を確認】
【火災:未発生】
【水運用:継続】
【食料保管:維持】
【人的損傷:軽度】
【集落機能:
継続】
⸻
相沢は表示を見た。
集落機能。
継続。
その無機質な言葉が、今だけは少しありがたかった。
「止まってないな」
相沢が呟く。
ミナが隣に来る。
「うん」
「燃えてない」
「うん」
「井戸もある」
「うん」
「倉庫もある」
「うん」
「ハルトはうるさいけど生きてる」
「聞こえてるぞ!」
井戸前からハルトが怒鳴った。
マルタが続ける。
「生きてるなら働けるね!」
「怪我人だぞ!」
「軽度だってさ!」
「誰が言った!」
「オカンだ!」
「誰だそれ!」
広場に、小さな笑いが起きた。
今度はさっきより、少しだけ大きかった。
相沢はその笑いを聞いた。
弱い。
疲れている。
すぐ消える。
それでも、笑いだった。
◇
【日曜日 4:58/北柵】
空の端が、ほんの少しだけ薄くなっていた。
夜明けにはまだ早い。
だが、完全な黒ではなくなり始めている。
ガンツが森を見ていた。
相沢も横に立つ。
「引いたと思うか」
相沢が聞く。
「今はな」
「また来るか」
「来るだろ」
「だよな」
ガンツは槍を下ろさない。
「だが、今夜は燃えなかった」
「ああ」
「お前の線とやらも、少しは役に立った」
「少しか」
「調子に乗るな」
「乗る体力がない」
「だろうな」
ガンツは少しだけ笑った。
相沢も、少しだけ口元を動かした。
北の森は静かだった。
だが、もうただの静けさではない。
見られている静けさ。
見返している静けさ。
そういうものになっていた。
◇
【日曜日 5:06/広場中央】
朝の前。
まだ夜の残り。
相沢は広場に戻る。
ミナが待っていた。
「次は?」
相沢は地面を見る。
線は踏まれている。
石はずれている。
布も乱れている。
それでも、形は残っている。
「朝まで持たせる」
「まだ?」
「まだ」
「もう襲撃あったじゃん」
「朝までは夜だ」
「最悪」
「同感」
ミナは疲れた顔で笑った。
相沢は広場を見る。
リリアはハルトの腕を処置している。
ハルトは文句を言っている。
マルタは倉庫裏を睨んでいる。
ガンツは北にいる。
村長は寝ている者を確認している。
エルは弟の手を握っている。
ダリオは、今度こそ目を閉じている。
村は、まだ止まっていない。
そして。
少しだけ、朝に近づいていた。
相沢は棒を拾った。
「最後の交代を決めるぞ」
ミナが顔をしかめる。
「まだ仕事」
「まだ仕事」
「回し屋」
「何だ」
「朝になったら、蹴ってもいい?」
「なぜ」
「腹立つから」
「理不尽だな」
「回し屋向け」
相沢は少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
火が小さく揺れる。
空の端が、もう一段だけ薄くなった。




