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第七十二話 夜明け前

【日曜日 1:07/広場中央】


 夜明け前の準備。


 まだ夜中だった。


 だが、相沢は地面に線を引いた。


 火の明かりだけでは、線が見えにくい。


 それでも引く。


 引かないと、頭の中で全部が混ざる。


 北柵。


 東柵。


 西柵。


 井戸。


 治療所。


 倉庫。


 広場。


 寝ている人。


 起きている人。


 起こす人。


 起こしてはいけない人。


 それを分ける。


「夜明け前って、何が違うの」


 ミナが聞いた。


 声が少し眠い。


 でも、目は起きている。


「一番眠い」


「それだけ?」


「それだけが大きい」


 相沢は棒で北柵を叩く。


「見張りが緩む。

 火が小さくなる。

 水が減る。

 怪我人の熱も上がりやすい。

 腹も減る」


「最悪じゃん」


「夜明け前だからな」


「それ、便利に使いすぎ」


「便利だからな」


 ミナは小さくため息をついた。


「で、何するの」


「起こす順番を決める」


「また交代?」


「少し違う」


 相沢は石を三つ置いた。


「今起きてる人。

 夜明け前に起こす人。

 朝まで寝かせる人」


 ミナが石を見る。


「朝まで寝かせる人も決めるんだ」


「決めないと、みんな起きる」


「起きたら駄目?」


「朝に全員潰れる」


「……そっか」


 ミナは広場を見る。


 寝ている子供。


 横になった避難民。


 槍を抱えたまま目を閉じているガンツ。


 壁にもたれているリリア。


 倉庫前で丸くなったマルタ。


 みんな、少しずつ壊れかけている。


 寝ているようで、寝ていない。


 休んでいるようで、休んでいない。


 夜は、人を休ませない。


     ◇


【日曜日 1:16/治療所前】


 治療所の火は小さくなっていた。


 消えそうではない。


 だが、弱い。


 火を見る女が、慌てて薪を足そうとする。


「少しだけ」


 相沢が止めた。


 女が手を止める。


「少しだけ?」


「強くしすぎると、外が見えなくなる」


「でも、暗いと」


「治療所前は、明るすぎても駄目です」


 女は不安そうにリリアを見る。


 リリアが頷く。


「少しだけで構いません」


 女は薪を細いもの一本だけ足した。


 火が少し戻る。


 リリアは壁にもたれたまま、目を開けた。


「アイザワ殿」


「起こしましたか」


「いえ」


「嘘ですね」


 リリアは少しだけ笑った。


「今のは、アイザワ殿の真似です」


「似てました?」


「便利でした」


「便利な言葉は危ないですよ」


「はい」


 リリアはそう言って、弟の方を見る。


 エルはまだ寝ている。


 弟は汗をかいている。


 ただ、息は乱れていない。


「熱は」


 相沢が聞く。


「少し下がったように見えます」


「よかった」


「まだ分かりません」


「ですよね」


「ですが、汗が出たのは悪くありません」


 相沢は頷いた。


 エルを起こさずに済んだ。


 それだけで、少し救われる。


「リリアさん」


「はい」


「夜明け前に、一度だけ全員見られますか」


「できます」


 即答だった。


 相沢は眉を寄せる。


「無理なら無理と言ってください」


「無理ではありません。

 ただし、一人では回りません」


「補助をつけます」


「はい」


 リリアは補助の女を見る。


「水を持つ人。

 布を見る人。

 呼びに行く人。

 三人いれば、回れます」


「三人」


「はい」


 相沢は頷いた。


 また役が増える。


 だが、役が増えるほど、一人の負荷は減る。


 たぶん。


「分かりました。

 夜明け前の見回りを作ります」


「お願いします」


 リリアは静かに言った。


 その声は疲れていた。


 だが、折れてはいなかった。


     ◇


【日曜日 1:25/倉庫前】


 マルタは寝ていなかった。


 目を閉じていただけだった。


 相沢が近づくと、すぐに言った。


「何だい」


「起きてますね」


「寝てるよ」


「会話してます」


「寝言だよ」


「器用ですね」


「用があるなら早く言いな」


 相沢はしゃがんだ。


「夜明け前に、粥を少し出せますか」


 マルタの目が開いた。


「何だって?」


「全員ではなくていいです。

 見張り。

 治療所。

 水番。

 火番。

 少しだけ」


「食料を減らす気かい」


「眠気で倒れる方が怖い」


「水っぽい粥だよ」


「それでいいです」


「腹は膨れない」


「手が温まればいい」


 マルタは黙った。


 それから、ゆっくり起き上がる。


「夜明け前か」


「はい」


「嫌な時間だね」


「はい」


「一番、盗みたくなる時間でもある」


 相沢は顔を上げた。


「そうなんですか」


「腹が減って。

 眠くて。

 みんな見てないと思う」


 マルタは倉庫の戸を見る。


「そういう時、人は手を伸ばす」


「見張りをつけます」


「見張りが腹を減らしてるんだよ」


「……面倒ですね」


「だから言ったろ」


 マルタは鼻を鳴らす。


「食い物は、人を馬鹿にする」


「水と似てますね」


「水より悪い」


「でしょうね」


 相沢は少し考える。


「粥を作る時、ハルトを呼びます」


「避難民の男かい」


「はい」


「何で」


「避難民側から見える人が必要です」


 マルタは相沢を見る。


「疑わせないためかい」


「疑われにくくするためです」


「同じだね」


「少し違います」


「面倒な男だ」


「よく言われます」


 マルタは低く笑った。


「いいよ。

 薄いのを作る。

 文句が出るくらい薄いやつをね」


「助かります」


「礼を言うな」


     ◇


【日曜日 1:37/井戸前】


 ハルトは水番に戻っていた。


 目の下が黒い。


 それでも、足元を見ている。


 縄を持つ若い男が水を汲む。


 ハルトは井戸の縁と足の位置を見る。


 ただ見る。


 地味な役。


 だが、今の夜には必要だった。


「ハルト」


 相沢が声をかける。


 ハルトが振り向く。


「何だ」


「夜明け前に粥を少し出す」


「全員か」


「無理だ」


「だろうな」


「見張りと、火番と、水番と、治療所」


 ハルトの顔が少し険しくなる。


「避難民は後か」


「今、倒れたら困る順番です」


「またそれか」


「またです」


 ハルトは黙る。


 怒るかと思ったが、怒鳴らなかった。


「俺を呼びに来たってことは」


「ああ」


「見ろってことか」


「見てほしい」


「配る側か」


「今回は、作るところから」


 ハルトは井戸の中を見る。


 それから、短く笑った。


「疑われるからか」


「疑われる前に、見える形にする」


「嫌な言い方だな」


「はい」


「正直ではある」


 ハルトは若い男に縄を渡した。


「少し外す」


「はい」


 ハルトは相沢の横に来る。


「俺は、あんたを信用してるわけじゃない」


「分かってる」


「でも、見えないよりはいい」


「それでいい」


「良くはない」


「今夜は、それでいい」


 ハルトは不満そうに鼻を鳴らした。


「回し屋って呼ばれてるんだったな」


「ああ」


「面倒な名だ」


「俺がつけたわけじゃない」


「似合ってる」


「褒めてるか?」


「少しも」


「そうか」


 ハルトは倉庫の方へ歩いた。


 足取りは重い。


 だが、逃げてはいない。


     ◇


【日曜日 1:48/広場中央】


 夜明け前の石を並べ直す。


 相沢は棒で地面を叩いた。


 小さく。


 大きな音は出さない。


 ミナが横であくびを噛み殺す。


「寝ろ」


 相沢が言う。


「今それ言う?」


「言う」


「回し屋は?」


「俺も後で寝る」


「それ、後でのやつ」


「便利だな、その指摘」


「便利だから」


 ミナは石を見る。


「これ、誰が見るの」


「村長」


「村長も寝てない」


「少し寝かせる」


「誰が起こすの」


「俺」


「回し屋も寝ない」


 詰んでいる。


 相沢は少し黙った。


 ミナがじっと見る。


「ほら」


「ほらとは」


「回ってない」


 痛い言葉だった。


 相沢は地面を見る。


 自分が起こす。


 自分が見る。


 自分が確認する。


 それは回しているようで、回っていない。


「じゃあ」


 相沢は石を一つ取る。


「起こす役を作る」


「また役」


「そう」


「誰?」


 相沢は広場を見る。


 ミナ。


 村長。


 リリア。


 マルタ。


 ガンツ。


 みんな駄目だ。


 疲れている。


 役を持ちすぎている。


 エルは子供。


 ダリオは病人。


 ハルトは水番と粥。


 残り。


 名もない村人。


 それでいい。


「若い村人を一人。

 起こすだけの役」


「起こすだけ?」


「そう。

 火が小さくなったら、交代の人を起こす。

 起こしたら戻る」


「戦わない」


「戦わない」


「水も運ばない」


「運ばない」


「起こすだけ」


「それが大事」


 ミナは少し考える。


「いいかも」


「だろ」


「偉そう」


「係長だから」


「寝不足の係長」


「最悪だな」


     ◇


【日曜日 2:02/広場中央】


 起こす役の若い村人は、不安そうだった。


「起こすだけでいいんですか」


「はい」


 相沢は答えた。


「間違えたら」


「もう一度聞いてください」


「誰に」


「俺か、ミナか、村長」


 ミナが横から言う。


「私でもいいよ」


 若い村人は少し安心した顔をした。


「いつ起こせば」


 相沢は火を見る。


「広場の火が小さくなった時。

 それから、北の火を見る人が合図した時。

 治療所から呼ばれた時」


「多いです」


「多いですね」


「覚えられるか」


「全部覚えなくていい」


 相沢は石を三つ置く。


「この石が広場。

 この棒が北。

 この布が治療所」


 若い村人は見る。


「石、棒、布」


「そう」


「石、棒、布」


「声に出していい」


「石、棒、布」


 ミナが小さく言う。


「呪文みたい」


「呪文でいい」


 相沢は頷く。


「夜に動けるなら、呪文でもいい」


 若い村人は真面目に頷いた。


「石、棒、布」


 その声が、少しだけ夜に残った。


     ◇


【日曜日 2:15/倉庫前】


 薄い粥が作られた。


 本当に薄い。


 湯に、少しだけ穀物が浮いている。


 マルタは鍋を見て言う。


「これを粥と呼ぶのは、粥に失礼だね」


「でも温かい」


 ハルトが言った。


 マルタが見る。


「分かってるじゃないか」


「前の村では、火が上がってから水を飲んだ」


 ハルトは鍋を見る。


「温かいものなんてなかった」


 マルタは黙った。


 相沢も黙った。


 ハルトは続けなかった。


 続ける必要もなかった。


「配る順番は」


 マルタが言う。


「北。

 東西。

 治療所。

 水番。

 火番」


 相沢が答える。


「倉庫番は?」


 ハルトが聞く。


 マルタが鼻を鳴らす。


「私はいらないよ」


「いる」


 相沢とハルトが同時に言った。


 マルタが二人を見る。


「何だい」


 ハルトが先に言う。


「倉庫を見てる奴が倒れたら、飯が終わる」


 相沢は頷く。


「同意です」


 マルタは苦い顔をした。


「嫌な組み合わせだね」


「俺も嫌だ」


 ハルトが言う。


「こっちもです」


 相沢も言う。


 マルタは少しだけ笑った。


「じゃあ、少しだけだよ」


「少しだけ」


「本当に少しだけだからね」


「はい」


 マルタは自分の器に、鍋の底が見えるほど薄くすくった。


 ハルトが見る。


「少なすぎる」


「文句言うんじゃないよ」


「あんたが倒れたら困るんだろ」


「避難民に言われる筋合いはないね」


「避難民だから言ってる」


 空気が少し固まった。


 だが、ハルトは続ける。


「ここに置いてもらってる間は、倉庫が残らないと俺たちも困る」


 マルタは黙った。


 それから、少しだけ粥を足した。


「これで満足かい」


「少しは」


「腹立つ男だね」


「よく言われる」


 相沢は二人を見た。


 似ている。


 少しだけ。


 言えば怒るだろうから、言わない。


     ◇


【日曜日 2:29/北柵】


 北の見張りに、薄い粥が渡された。


 湯気が白い。


 暗い中で、湯気だけが見えた。


 見張りの若い男は、器を両手で持った。


「熱い」


「少しずつ飲め」


 ハルトが言う。


「はい」


 若い男は少し驚いていた。


 避難民に言われたからか。


 ハルトも少し居心地が悪そうだった。


 ガンツは目を開けた。


「俺はいい」


「飲め」


 相沢が言う。


「いらねぇ」


「飲め」


「二回言うな」


「言いたくなる」


 ハルトが器を差し出す。


「見張りが倒れたら、ここも焼かれるんだろ」


 ガンツがハルトを見る。


 ハルトは視線を逸らさなかった。


 少しだけ、空気が張る。


 相沢は黙る。


 ここは口を挟まない方がいい。


 ガンツは器を受け取った。


「……借りるぞ」


「返せるものならな」


「器の話か」


「村の話だ」


 ガンツは少しだけ目を細めた。


 だが、怒らなかった。


「朝まで燃やさなきゃ、返せるかもな」


「なら燃やすな」


「そっちも騒ぐな」


「水は見る」


「ならいい」


 短い会話だった。


 雑だった。


 だが、何かが少しだけ繋がった。


     ◇


【日曜日 2:41/治療所前】


 治療所にも薄い粥が届いた。


 リリアは最初、断ろうとした。


 相沢が言う前に、補助の女が言った。


「飲んでください」


 リリアが見る。


「私は」


「倒れたら困ります」


 同じ言葉。


 広がっている。


 相沢は少し驚いた。


 リリアも少し驚いた顔をした。


 そして、器を受け取る。


「ありがとうございます」


 補助の女は少し照れたように頷いた。


 エルが目を覚ました。


 匂いで起きたのかもしれない。


「弟は」


 最初の言葉がそれだった。


 リリアが答える。


「今は落ち着いています」


 エルは弟を見る。


 それから、粥の器を見る。


「私は」


「飲む」


 相沢が言った。


 エルが見る。


「でも」


「寝る役の次は、飲む役だ」


「そんな役ありますか」


「今作った」


 エルは少し戸惑った。


 リリアが器を差し出す。


「少しだけです」


 エルは受け取った。


 両手で。


 小さく口をつける。


 薄い粥。


 ほとんど湯。


 それでも、エルの肩が少しだけ下がった。


 緊張が解けたのだと分かった。


     ◇


【日曜日 2:55/広場中央】


 夜明け前の粥は、全員には回らなかった。


 それでも、必要な場所には届いた。


 北。


 東。


 西。


 治療所。


 水番。


 火番。


 倉庫。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 相沢は地面の石を見た。


 交代。


 水。


 粥。


 火。


 治療。


 北。


 線が増えすぎている。


 だが、今夜はもう仕方ない。


「回し屋」


 ミナが言う。


「何だ」


「私の分は?」


「ない」


「ひどい」


「寝る番だからな」


「寝ないって言った」


「却下」


「誰が決めたの」


「俺」


「権限は」


「回し屋権限」


「腹立つ」


「寝ろ」


 ミナは不満そうに睨む。


 相沢は見る。


 ミナの目の下にも疲れがある。


 声にも眠気が混じっている。


 それでも立つ気でいる。


「ミナ」


「何」


「明け方に起こす」


「本当?」


「ああ」


「嘘なら蹴る」


「それはもう聞いた」


「何回でも言う」


「分かった」


 ミナはしばらく相沢を睨んでいた。


 それから、火の近くに座る。


「寝られないかも」


「目を閉じるだけでいい」


「それ、さっき言われてたやつ」


「便利だから使った」


「便利な言葉は危ない」


「寝ろ」


「強引」


 ミナは膝を抱えて、目を閉じた。


 寝たかどうかは分からない。


 でも、目は閉じた。


 それでいい。


     ◇


【日曜日 3:08/広場中央】



【夜明け前対応:

 準備進行】


【温食配布:

 限定完了】


【見張り覚醒度:

 一時改善】


【中核運用者:

 休息不足】



「そこは見逃せ」


 相沢は呟いた。



【未解消項目です】



「だろうな」


 返事をしながら、相沢は笑いそうになった。


 笑えない。


 けれど。


 少しだけ、慣れてきた。


 オカンは慰めない。


 褒めない。


 ただ、残っている問題を出す。


 嫌な表示だ。


 だが、今夜はそれで助かっている。


 相沢は火を見た。


 火の向こうで、ミナが目を閉じている。


 リリアは器を置いて、短く息を吐いている。


 ガンツは北で粥を飲んだ。


 マルタは倉庫前で器を抱えている。


 ハルトは水番に戻った。


 エルは弟のそばで、少し粥を飲んだ。


 ダリオは眠っている。


 たぶん。


 村は、まだ動いている。


 まだ。


     ◇


【日曜日 3:21/西柵】


 西柵は静かだった。


 静かすぎるほどではない。


 風がある。


 草が鳴る。


 遠くで虫のような音がする。


 相沢は見張りに声をかける。


「変わりは」


「ありません」


「眠気は」


「あります」


「正直でいい」


 見張りの男は苦笑した。


「粥、助かりました」


「足りないだろ」


「足りません」


「それも正直でいい」


 相沢は西の森を見る。


 黒い。


 だが、北ほど嫌な感じはない。


 そう思った瞬間、自分を疑う。


 嫌な感じがないから安全。


 そんなわけがない。


 人は見たいものを見る。


 見やすいものを見る。


 危ないものだけを見る。


 そして、他を見落とす。


「西も、見るだけでいい。

 何かあれば叫ぶ。

 動くな」


「はい」


「倒そうとしなくていい」


「はい」


「追わなくていい」


「はい」


 相沢は同じことを繰り返す。


 見張りの男は少し笑った。


「何度も言いますね」


「夜だからな」


「ガンツみたいに腹立つとは言いませんよ」


「助かる」


 相沢は少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


【日曜日 3:34/広場中央】


 戻ると、ミナが目を開けていた。


「寝てないだろ」


「ちょっと寝た」


「嘘」


「雑だった?」


「かなり」


 ミナは悔しそうに目を逸らした。


「でも、目は閉じた」


「それでいい」


「起こしてくれるって言った」


「まだ早い」


「じゃあ、また閉じる」


「そうしろ」


 ミナはもう一度目を閉じる。


 その横で、起こす役の若い村人が小さく呟いていた。


「石、棒、布」


 まだ覚えている。


 相沢は頷く。


 こういう小さいことが、夜を繋いでいる。


 その時。


 北の方で、板が一度鳴った。


 一回。


 確認。


 相沢は顔を上げる。


 二回目はない。


 北の火が揺れる。


 誰かが手を上げている。


 大丈夫。


 相沢は息を吐いた。


 ミナは目を閉じたまま言う。


「一回?」


「ああ」


「なら寝る」


「寝ろ」


 ミナは返事をしなかった。


 今度は少しだけ、本当に眠ったようだった。


     ◇


【日曜日 3:49/北柵】


 北柵の空気が変わっていた。


 夜が薄くなる前の、一番濃い時間。


 黒が深い。


 音が少ない。


 火が小さい。


 人の眠気が重い。


 ガンツは起きていた。


 結局、起きていた。


 相沢はもう怒る気力もなかった。


「寝たか」


 相沢が聞く。


「少し」


「嘘か」


「少しは本当だ」


「ならいい」


 ガンツは森を見る。


「来るなら、そろそろだな」


「ああ」


「嫌な時間だ」


「ああ」


 相沢は森を見る。


 見えない。


 だが、見張る。


 見えないから、見張る。


 その時。


 森の奥で、鳥が飛んだ。


 一羽。


 いや、二羽。


 遅れて、低い音。


 草を踏む音ではない。


 木を引く音でもない。


 何かを擦る音。


 ガンツの手が上がった。


 板はまだ鳴らさない。


 相沢は息を止める。


 黒い森。


 低い影。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 昨日より多い。


「来たか」


 ガンツが低く言う。


 相沢は答えなかった。


 まだ分からない。


 だが。


 分からないまま、準備する時間は終わりつつあった。


 森の奥で。


 赤い光が、一瞬だけ見えた。


     ◇


【日曜日 3:52/北柵】


 三回。


 板が鳴った。


 夜明け前の村に、乾いた音が走った。

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