第七十一話 水番
【土曜日 22:47/井戸前】
水番。
また一つ、役が増えた。
相沢は井戸の前に立つ。
暗い。
火から少し離れるだけで、足元が見えにくい。
昼間なら何でもない井戸が、夜になると穴に見えた。
実際、穴だ。
落ちたら終わる。
桶を落としても困る。
水が汚れても困る。
水を間違えても困る。
飲む水。
傷に使う水。
火に使う水。
全部、水。
でも、全部違う。
「面倒」
ミナが言った。
「そうだな」
「水って、水でしょ」
「昼ならな」
「夜は?」
「間違える」
相沢は井戸の縁を見る。
木の縁。
縄。
滑りやすそうな手触り。
暗い中で、眠い人間が桶を下ろす。
考えただけで嫌だった。
「水を汲む人は二人一組」
「一人じゃ駄目?」
「駄目だ」
「何で」
「一人が落ちたら、もう一人が叫ぶ」
「落ちる前提?」
「夜だからな」
「それ便利に使ってない?」
「使ってる」
ミナは少しだけ呆れた顔をした。
◇
【土曜日 22:52/井戸前】
相沢は井戸の周りに石を置いた。
近づいていい場所。
桶を置く場所。
人が立つ場所。
火に使う水の場所。
傷に使う水の場所。
飲む水の場所。
石。
布。
棒。
それだけで分ける。
文字が使えない。
いや、使えても今は読めない者がいる。
眠い者もいる。
暗い。
だから、見て分かる形にする。
「白い布は飲む水」
相沢は言った。
「細い布は傷に使う水」
「何もないのは火」
ミナが続ける。
「そう」
「覚えた」
「俺も忘れないようにする」
「回し屋が忘れたら終わりじゃん」
「だから、ミナも覚えろ」
「覚えたって言った」
「頼む」
ミナは少しだけ目を丸くした。
「今、頼むって言った?」
「言った」
「珍しい」
「そうか?」
「うん」
相沢は少し黙った。
頼む。
言えているなら、まだ大丈夫かもしれない。
自分一人で抱えようとしている時は、たぶん言えない。
◇
【土曜日 23:01/広場中央】
水番を決めるために、人を呼んだ。
元の村人が二人。
避難民が一人。
それから、村長が選んだ若い男が一人。
全部で四人。
二人ずつ。
前半と後半。
ただし、今夜は完全な交代ではない。
減ったら呼ぶ。
汲む。
戻す。
確認する。
その繰り返し。
「井戸に近づく時は二人で」
相沢が言う。
「一人は縄。
一人は足元を見る」
若い男が頷く。
避難民の男は少し顔をしかめた。
「足元を見るだけか」
「そうです」
「水を汲む方が仕事だろ」
「足元を見る方が大事な時もあります」
男は黙った。
納得していない顔。
相沢は続ける。
「落ちたら、水が止まります」
「……人じゃなくて水か」
声が少し荒くなる。
相沢は自分の言い方を間違えたと思った。
だが、言い直す。
「人も危ない。
水も止まる。
両方です」
男は少しだけ視線を逸らした。
「なら、見る」
「お願いします」
「頼むな。
気味が悪い」
マルタと同じようなことを言う。
相沢は少しだけ苦笑した。
◇
【土曜日 23:09/治療所前】
治療所の水が減っていた。
リリアは水の器を見ている。
「傷用の水です」
「どれくらい要りますか」
「今すぐは、少し。
ただ、夜中に布を替えるなら必要です」
「多めに置くと?」
「誰かが使うかもしれません」
「少なすぎると?」
「足りません」
「嫌な二択ですね」
「はい」
リリアは少しだけ頷いた。
疲れている。
だが、目はまだ細かいところを見ている。
相沢は水番の一人を呼んだ。
「細い布の桶を一つ、治療所へ。
置いたらリリアさんに確認」
「はい」
「勝手に飲ませない。
勝手に洗わない。
置いて、確認」
「はい」
若い男が桶を運んでいく。
相沢はその背中を見る。
同じことを何度も言う。
嫌になる。
でも、夜は一度言っただけでは足りない。
リリアが小さく言う。
「繰り返すのは、大事です」
「聞こえてましたか」
「はい」
「顔に出てました?」
「少し」
「まずいですね」
「いえ」
リリアは首を振る。
「疲れている時ほど、同じことを言ってください。
聞く方も、忘れます」
相沢は頷いた。
「覚えておきます」
「それも、忘れそうです」
「厳しい」
「必要です」
◇
【土曜日 23:18/倉庫前】
マルタは起きていた。
予想通りだった。
横にはなっていた。
だが、起きていた。
「寝てませんね」
「寝てるよ」
「目が開いてます」
「開けて寝るんだよ」
「怖い」
「文句あるかい」
「あります」
「あっても聞かないよ」
マルタは倉庫の戸を見る。
食料。
器。
布。
縄。
薪。
全部がそこにある。
夜になると、倉庫は宝の山に見える。
そして、揉め事の種にも見える。
「水番を決めました」
相沢が言う。
「今度は水かい」
「はい」
「次は何だい」
「たぶん薪です」
「当たるから嫌だね」
マルタは起き上がろうとした。
相沢は止める。
「起きなくていいです」
「あんたに言われると起きたくなる」
「俺もそういうタイプです」
「知ってるよ」
「なら寝てください」
「腹立つね」
マルタは少しだけ黙った。
それから、低く言った。
「倉庫はね」
「はい」
「食べ物を守ってるだけじゃない」
「はい」
「明日の朝、誰がどんな顔でここを見るか。
それも見てる」
相沢は黙った。
マルタは続ける。
「食い物が少ないと、人は人を疑う。
避難民も。
村の者も。
あんたも」
「俺も?」
「数える奴は、疑う奴だよ」
痛いところを突かれた。
相沢は否定できなかった。
数える。
分ける。
見る。
それは信じていないからでもある。
「だから、私が見る」
マルタは言った。
「でも、寝ないと見間違える」
相沢は言う。
マルタは顔をしかめる。
「……嫌な返しだね」
「はい」
「少しだけ目を閉じる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
マルタは本当に目を閉じた。
たぶん、寝ない。
それでも。
少しだけ前進だった。
◇
【土曜日 23:31/北柵】
水を置き直した。
火の水。
白い布はなし。
飲む水ではない。
若い見張りが何度も頷く。
「これは火の水」
「はい」
「飲むな」
「はい」
「誰かが飲もうとしたら止めろ」
「はい」
相沢が言うと、ガンツが横から言った。
「飲んだら殴るでいい」
「分かりやすいけど駄目だ」
「分かりやすい方がいいだろ」
「水より先に揉める」
「面倒だな」
「夜だからな」
「またそれか」
ガンツは北の森を見る。
相沢も見る。
黒い。
さっき置き火をした場所は濡れている。
焦げ跡が残っている。
水で消した。
消せた。
だが、相手は見ていた。
たぶん、見ていた。
「次はどう来ると思う」
ガンツが聞いた。
相沢は少し驚く。
ガンツが聞いた。
自分に。
「分からない」
「それは知ってる」
「なら聞くな」
「考えろ」
相沢は森を見る。
置き火。
北柵。
偵察。
東西が薄くなるかを見る。
火の水を減らす。
人を起こす。
疲れさせる。
「本命じゃないかもしれない」
「何が」
「さっきの置き火」
「嫌がらせか」
「確認と、消耗」
ガンツの顔が険しくなる。
「こっちを起こすためか」
「そうかもしれない」
「じゃあ寝るのが勝ちか」
「寝られればな」
「無理だな」
「だから交代する」
ガンツは舌打ちした。
「腹立つが、合ってる」
「珍しく褒めたな」
「褒めてねぇ」
◇
【土曜日 23:44/広場中央】
水番が一度、井戸へ向かった。
二人。
一人が縄。
一人が足元。
遅い。
昼の三倍は遅い。
でも、それでいい。
急いで落ちたら終わる。
桶が下りる音。
水に触れる音。
縄を引く音。
重い。
腕に来る。
途中で一度、桶が井戸の壁に当たった。
ごつん。
広場の何人かが振り向く。
「大丈夫!」
水番の一人が小さく叫んだ。
小さく。
だが、届いた。
相沢は頷いた。
報告があるだけで違う。
何が起きたか分かれば、慌てなくて済む。
水は汲まれた。
半分。
満杯にはしない。
重すぎるから。
相沢は桶を見る。
「半分でいい」
ミナが隣で言う。
「便利な言葉になったな」
「いい言葉でしょ」
「ああ」
本当にそう思った。
全部運ぼうとしない。
半分でも届けばいい。
今夜の全部が、それだった。
◇
【土曜日 23:57/治療所前】
エルが目を覚ました。
ぱちりと。
突然だった。
起きた瞬間、弟を見る。
手を伸ばす。
布に触れる。
熱を確かめようとして、止まる。
リリアに言われたことを覚えていた。
勝手に触らない。
勝手に飲ませない。
変だと思ったら呼ぶ。
「リリアさん」
小さな声。
リリアがすぐ振り向く。
「はい」
「弟、汗」
相沢も見る。
弟の額に汗が出ていた。
リリアが近づく。
布を少しずらす。
顔色を見る。
息を見る。
「汗が出ています」
「悪いんですか」
エルの声が震える。
「今は、悪いとは限りません」
リリアは静かに言った。
「ただ、布を替えます」
「水、持ってきます」
エルが立とうとする。
相沢が止めた。
「エル」
エルが止まる。
「水番がいる」
「でも」
「呼ぶのが役だ」
エルは少し戸惑った。
自分で動きたい顔。
弟のために、何かしたい顔。
相沢は言う。
「夜は、勝手に動くと迷う」
「……呼びます」
「それでいい」
エルは水番を呼びに行った。
走らない。
早歩き。
それだけで、少し安心した。
◇
【日曜日 0:08/広場中央】
日付が変わった。
たぶん。
時計はない。
だが、夜の深さが変わった。
火の色が濃くなった。
眠気も濃くなった。
声が減った。
咳と、火の音と、時々の足音だけ。
相沢は空を見た。
星が見えた。
この世界の星。
日本と同じなのか、違うのか。
分からない。
比べる余裕もない。
「回し屋」
ミナが言う。
「何だ」
「上見てる」
「星」
「星?」
「ああ」
「余裕あるじゃん」
「ない」
「ないのに星見るの?」
「ないから見たのかもな」
ミナも空を見た。
しばらく黙る。
「綺麗だね」
「そうだな」
「でも、寒い」
「そうだな」
「眠い」
「そうだな」
「腹減った」
「そうだな」
「全部そうだなじゃん」
「処理能力が落ちてる」
「しょり……?」
「頭が遅い」
「寝たのに?」
「少しだけだからな」
ミナは膝を抱える。
「朝まで長いね」
「ああ」
「でも、半分くらい来た?」
「どうだろうな」
「そこは嘘でも来たって言って」
「半分は来た」
「嘘っぽい」
「注文が難しい」
◇
【日曜日 0:21/井戸前】
水番の避難民の男が、井戸の前で座り込んだ。
倒れたわけではない。
腰を下ろした。
だが、顔が暗い。
相沢は近づく。
「交代しますか」
「いや」
「なら、少し座って」
「座ってる」
「そうですね」
男は井戸の中を見ていた。
深い闇。
「前の村にも井戸があった」
男が言った。
相沢は黙った。
「燃えた時、みんな水を汲もうとした」
「はい」
「でも、桶が足りなかった。
人が押した。
子供が泣いた。
誰かが落ちそうになった」
男は手を見る。
「俺は、何もできなかった」
相沢は何も言えなかった。
言う言葉がない。
「ここでは、二人で汲むんだな」
「はい」
「遅い」
「はい」
「でも、落ちない」
「そのためです」
男は少しだけ笑った。
笑ったというより、息が漏れた。
「遅い方がいい時もあるのか」
「あります」
「腹立つな」
「よく言われます」
「お前、嫌われるだろ」
「最近、慣れてきました」
「慣れるな」
マルタと同じことを言う。
相沢は少しだけ、笑いそうになった。
男は井戸から目を離した。
「名は、ハルト」
相沢を見る。
「俺の名だ」
「ハルト」
「ああ」
「水番、頼む」
「頼むな。気味が悪い」
「この村、それ多いな」
「変な頼み方するからだ」
ハルトは立ち上がった。
足元を見る役に戻る。
その背中は、少しだけ先ほどよりましだった。
◇
【日曜日 0:34/広場中央】
⸻
【水運用:
暫定安定】
【井戸作業:
二名運用により事故リスク低下】
【火災対応水:
残量低下】
【補充を推奨】
⸻
「安定したと思ったら次か」
相沢は呟いた。
ミナが横から覗き込むように見る。
「また?」
「ああ」
「何て?」
「火に使う水が減ってる」
「さっき消したから?」
「たぶん」
「補充?」
「補充」
「水番だね」
「水番だな」
相沢は立ち上がろうとして、少しふらついた。
ミナが腕を掴む。
「ほら」
「ほらって何だ」
「ふらついた」
「地面が悪い」
「嘘が雑」
「便利な指摘だな」
「便利」
ミナは腕を離さない。
「私も行く」
「寝ろ」
「今は起きる番」
「そうだったな」
「忘れた?」
「忘れかけた」
「危ない」
「かなり」
二人は井戸へ向かった。
夜の中で、水を運ぶ。
ただそれだけのことが、今は村を守る作業だった。
◇
【日曜日 0:46/北柵】
火の水が補充された。
半分。
満杯ではない。
重すぎるから。
ハルトと村の若い男が運んだ。
ミナが足元を見た。
相沢は北柵の影を見ていた。
森は静か。
板は鳴らない。
ガンツは休んでいるはずだった。
だが、少し離れたところにいた。
座っている。
目を閉じている。
槍は持っている。
「寝てないな」
相沢が言う。
「寝てる」
ガンツが目を閉じたまま言う。
「起きてるだろ」
「目は閉じてる」
「マルタと同じこと言うな」
「一緒にするな」
「なら寝ろ」
「うるせぇ」
ミナが小声で言う。
「蹴る?」
「やめとけ」
「何で」
「本当に怒る」
「ちょっと見たい」
「やめろ」
相沢はガンツの横にしゃがんだ。
「北は補充した」
「ああ」
「東西も残ってる」
「ああ」
「ダリオは寝てる」
「そうか」
「ガンツも寝ろ」
「しつこい」
「しつこいのが仕事だ」
ガンツは目を開けた。
火が少し映る。
「赤いのは、しつこいぞ」
「だろうな」
「なら、こっちもしつこく見る」
「見るために寝ろ」
ガンツは相沢を睨んだ。
しばらく睨んだ。
それから、目を閉じた。
「少しだけだ」
「それでいい」
「何かあったら」
「起こす」
「蹴るなよ」
「ミナに言え」
「蹴るな」
ミナは少し不満そうにした。
「分かった」
ガンツはようやく黙った。
寝たかどうかは分からない。
だが、少なくとも話すのはやめた。
◇
【日曜日 0:58/広場中央】
夜は続く。
水は少し戻った。
火は小さく保たれている。
治療所では、弟の布が替えられた。
エルはまた眠った。
リリアは短く目を閉じた。
マルタは半分寝て、半分起きている。
村長は倉庫前で背中を丸めている。
ハルトは井戸前で足元を見ている。
ガンツは北柵近くで目を閉じている。
ミナは広場を歩いている。
相沢は、地面の石を少し動かした。
水番。
夜番。
治療補助。
火番。
北柵。
倉庫。
全部、少しずつ回っている。
完璧ではない。
全然足りない。
穴だらけ。
それでも。
止まっていない。
その時。
⸻
【夜間運用:
第二段階移行】
【水運用:
暫定安定】
【火災対応:
継続可能】
【疲労蓄積:
深刻】
【夜明け前警戒を推奨】
⸻
「最後に嫌なのを置くな」
相沢は呟いた。
夜明け前。
まだ遠い。
だが、そこが危ない。
ガンツも分かっている。
ダリオも、たぶん分かっている。
赤ゴブリンも。
きっと分かっている。
「回し屋」
ミナが戻ってくる。
「何だ」
「次は?」
相沢は森の方を見た。
真っ黒だった。
その黒の向こうに、朝までの時間がある。
「夜明け前の準備」
「まだ夜中だよ」
「だから今やる」
「また仕事」
「そうだな」
「嫌になるね」
「ああ」
「でも、やるんでしょ」
「やる」
ミナは頷いた。
疲れている。
眠そうだ。
それでも立っている。
相沢は言う。
「ミナ」
「何」
「次の交代で寝ろ」
「嫌」
「即答か」
「回し屋が寝たら寝る」
「子供か」
「そっちに言われたくない」
相沢は言葉に詰まった。
本当に。
言われたくないだろう。
火が小さく鳴った。
夜はまだ終わらない。
村は、まだ止まれない。
相沢は棒を握り直した。
朝までの線を、もう一度引くために。
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