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第六十八話 夜の形

【土曜日 16:18/広場中央】


 夜の形。


 言葉にすると簡単だった。


 だが、夜は昼と違う。


 見えない。


 冷える。


 眠くなる。


 不安が増える。


 声も届きにくくなる。


 そして。


 火が怖くなる。


 相沢は地面に線を引いた。


 広場。


 治療所。


 倉庫。


 井戸。


 東柵。


 西柵。


 北柵。


 避難民の寝る場所。


 元の村人の寝る場所。


 そして、火を置く場所。


「火は必要です」


 相沢は言った。


「でも、多すぎると危ない」


 村長が頷く。


「夜は明かりが要ります」


「はい。

 ただし、火を増やすと、火を見る人も増えます」


 マルタが腕を組む。


「薪も食うね」


「それもあります」


 相沢は地面を指す。


「火は三つ。

 広場中央。

 治療所前。

 北柵寄り」


 ガンツが眉を寄せる。


「北に火を置くのか」


「置く。

 でも柵から離す」


「何でだ」


「暗いと北が見えない。

 近すぎると、火を狙われる」


「面倒だな」


「夜だからな」


「理由になってるようで腹立つ」


 ミナが横で少し笑った。


     ◇


【土曜日 16:24/広場中央】


「見張りは三つに分ける」


 相沢は線を増やす。


「東。

 西。

 北」


「南は?」


 ミナが聞く。


「南は村の内側が広い。

 今夜は薄くていい」


「薄くていいって言うと危なくない?」


「危ない。

 でも全部厚くはできない」


 ミナは黙った。


 納得していない顔だった。


 でも、分かってはいる顔だった。


 相沢は続ける。


「東西はガンツが見る。

 北は見る人を置く。

 戦う人じゃない」


「北が来たら?」


「叫ぶ」


「またそれ」


「叫べば、間に合うかもしれない」


「間に合わなかったら?」


 ミナが聞いた。


 相沢は少しだけ止まる。


「その時は、次を考える」


「今、考えないの?」


「全部は無理だ」


 ミナは目を細める。


「疲れてるから?」


「それもある」


「正直」


「嘘が雑って言われたからな」


 ミナは少しだけ口を尖らせた。


「じゃあ、北に近いところに水も置く」


 相沢は顔を上げた。


「いいな」


「いいでしょ」


「かなり」


「偉そう」


「係長だからな」


「またそれ」


     ◇


【土曜日 16:31/井戸前】


 井戸前には、水桶が並んでいた。


 五つ。


 一つは割れた。


 五つしかない。


 五十五人の村には、少なかった。


「桶を分けます」


 相沢が言う。


 村人たちが見る。


「飲む水。

 傷に使う水。

 火に使う水」


「桶が足りません」


 村長が言う。


「足りません」


 相沢は頷く。


「だから、全部を満たさない。

 場所を決めます」


 地面に三つの印をつける。


「飲む水は井戸の近く。

 傷の水は治療所。

 火の水は北と倉庫」


 ミナが眉を寄せる。


「東と西は?」


「東西は見張りが多い。

 人が動ける。

 北と倉庫は遅れたら怖い」


「倉庫は分かる」


 マルタが言う。


「でも北に水を置くと、誰かが飲むよ」


「飲む桶と分けます」


「夜に分かるかい」


 相沢は黙った。


 暗い。


 疲れている。


 喉が渇く。


 水があれば飲む。


 当然だった。


「印をつけます」


「何で」


「布」


 リリアが言った。


 全員が見る。


「飲む水の桶には白い布。

 傷に使う水には細い布。

 火に使う水には何もつけない」


 マルタが鼻を鳴らす。


「布がもったいないね」


「小さくて構いません」


「なら出す」


 早い。


 相沢はリリアを見る。


「助かります」


「見えなければ、分けても混ざります」


「はい」


 やはりリリアは早い。


 だが、早い人ほど負荷が乗る。


     ◇


【土曜日 16:38/治療所前】


 治療所の前には、咳をする者が三人いた。


 避難民の老人。


 若い女。


 それから、エルの弟。


 弟はぼんやりしている。


 足に布を巻かれている。


 熱がある。


 エルはそばに座っていた。


「エル」


 相沢が声をかける。


 エルが顔を上げる。


「はい」


「夜は、弟のそばにいるか」


 エルはすぐ頷いた。


「います」


「なら、役は一つだけ」


「水ですか」


「違う」


 相沢は弟を見る。


「弟が熱くなったら、リリアさんを呼ぶ。

 咳がひどくなったら、呼ぶ。

 起きなくなったら、呼ぶ」


 エルは顔を強張らせた。


「起きなく……」


「今すぐそうなるって意味じゃない」


 相沢は少し言い方を間違えたと思った。


 子供相手に、現場の言い方をしすぎた。


 しゃがむ。


「見るだけでいい。

 判断しなくていい。

 変だと思ったら呼ぶ」


 エルは少し息を吸った。


「変だと思ったら」


「そう」


「分かりました」


 リリアが横から静かに言う。


「エル」


「はい」


「眠くなったら、近くの大人に言ってください」


「でも」


「あなたも倒れます」


 エルは黙った。


「見る人が倒れると、見られている人も危なくなります」


 エルは弟を見る。


 それから、小さく頷いた。


「分かりました」


 相沢はリリアを見る。


 リリアはやはり、言い方がうまい。


 正確で。


 冷たすぎない。


     ◇


【土曜日 16:45/倉庫前】


 粥の匂いが広がり始めた。


 薄い。


 かなり薄い。


 だが、匂いがするだけで、人の目が動いた。


 腹が減っている。


 全員が。


 村人も。


 避難民も。


 怪我人も。


 子供も。


 戦った者も。


 何もできずに座っている者も。


 同じように腹は鳴る。


「先に怪我人と子供」


 マルタが言った。


「その次、見張り」


 相沢が続ける。


 マルタが見る。


「見張りを先にするのかい」


「倒れたら困ります」


「避難民が文句言うよ」


「言わせます」


「へえ」


「ただし、説明します」


 相沢は広場を見る。


「食べる順番は、価値の順番じゃない。

 倒れたら村が止まる順番です」


 マルタは少し黙る。


「それ、あんたが言うのかい」


「言います」


「嫌われるよ」


「もう慣れてます」


「慣れるな」


 マルタは若い村人を呼んだ。


「配るのはあんたたちだよ。

 多く盛ったら私が見る。

 少なく盛っても見る。

 適当にやったら殴る」


「全部殴るじゃないですか」


 若い村人が言う。


「言うだけなら安いって言ったろ」


 マルタは鍋を指した。


「ほら、やる」


 若い村人たちは顔を見合わせ、器を持った。


 相沢はその様子を見る。


 食料を配る。


 ただそれだけで、人の視線が集まる。


 怖い仕事だ。


 でも、誰かがやらないといけない。


     ◇


【土曜日 16:53/広場西側】


 避難民の一人が声を上げた。


「見張りが先なのか」


 やはり出た。


 相沢はそちらを見る。


 中年の男。


 腕に軽い傷。


 歩ける。


 腹が減っている。


 目が荒い。


「そうです」


 相沢は答えた。


「こっちは村を焼かれたんだぞ」


 その声に、周囲が静かになる。


 村人の顔も変わった。


 避難民の何人かが俯く。


 相沢は男を見た。


 怒り。


 空腹。


 恐怖。


 恥。


 それが混ざっている。


 言葉を間違えると、割れる。


「知っています」


 相沢は言った。


「でも、見張りが倒れたら、

 ここも焼かれます」


 男は黙る。


「先に食べるのは、

 偉いからじゃない」


 相沢は鍋を見る。


「今、倒れたら困る順番です」


「俺たちは困らないのか」


「困ります」


 相沢は即答した。


「だから全員に回します。

 ただ、順番を決めます」


 男は歯を食いしばる。


「少ない」


「少ないです」


「それで足りると思ってるのか」


「思っていません」


 男の顔が歪む。


 相沢は続けた。


「足りないから、数えています」


 沈黙が落ちた。


 男は何か言おうとして、言えなかった。


 そこへマルタが鍋の前から怒鳴る。


「文句があるなら、配る側に回りな!」


 男がそちらを見る。


「何だと」


「少ないのが分かるなら、あんたが器を見な!

 多く盛るな!

 こぼすな!

 子供の分を減らすな!

 できるなら文句を言いな!」


 男は黙った。


 黙ったが、怒りは消えていない。


 相沢は言う。


「できますか」


 男が相沢を見る。


「何を」


「配る側です」


「俺が?」


「歩ける。

 腕も動く。

 腹が減ってる。

 だから量の少なさも分かる」


 男は顔をしかめる。


「嫌味か」


「役です」


 相沢は短く言った。


「嫌なら座っていていい。

 ただ、文句は減らしてください」


 マルタが鼻を鳴らす。


「減らすんじゃないよ。

 飲み込ませるんだよ」


「表現が強い」


「腹が減ってるからね」


 男はしばらく相沢を睨んでいた。


 それから、乱暴に立った。


「……器を寄越せ」


 若い村人がびくりとする。


 マルタがすぐ怒鳴る。


「乱暴に持つんじゃないよ!

 割ったらあんたの分は薄くする!」


「もう薄いだろ!」


「なら水だ!」


 周りで、少しだけ笑いが漏れた。


 小さい。


 弱い。


 でも、笑いだった。


 相沢は息を吐いた。


 割れなかった。


 まだ。


     ◇


【土曜日 17:02/東柵】


 ガンツは粥を受け取っていた。


 器を片手に持ち、柵の外を見る。


「食え」


 相沢が言う。


「見ながら食う」


「こぼすぞ」


「子供じゃねぇ」


 その瞬間、少しこぼした。


 相沢は黙って見る。


 ガンツも黙った。


「見るな」


「見てない」


「見てただろ」


「見た」


「腹立つ」


 ガンツは器を口へ運ぶ。


 薄い粥。


 熱いだけで、味は薄い。


 だが、腹には入る。


「肩は」


 相沢が聞く。


「動く」


「それはさっき聞いた」


「なら聞くな」


「痛いんだな」


「うるせぇ」


 相沢は東柵の外を見る。


 森は静かだった。


 静かすぎるのか。


 普通なのか。


 分からない。


「夜、ガンツをどこに置くかで変わる」


「俺を物みたいに言うな」


「戦力だからな」


「人だ」


「そうだな」


 相沢は頷く。


「だから休ませたい」


 ガンツは横目で見る。


「無理だ」


「知ってる」


「なら言うな」


「言わないと、休ませる選択肢が消える」


 ガンツは舌打ちした。


「面倒な男だな」


「よく言われる」


「誰に」


「最近、村の人に」


 ガンツは少し笑った。


「だろうな」


     ◇


【土曜日 17:10/北柵】


 北柵には、老人が一人座っていた。


 足が悪い。


 槍は持っていない。


 代わりに、木の板を持っている。


 何かあれば叩いて音を出す。


 相沢が考えたというより、村長が持ってきた。


「昔、獣避けに使っておりました」


 そう言って、板と棒を渡した。


 単純。


 だが、夜にはいい。


 声が出なくても、音は出せる。


「見えますか」


 相沢が聞く。


 老人は目を細める。


「昼ならな」


「夜は?」


「火があれば、少しは」


「無理はしないでください」


「戦えんからな」


「見るだけでいいです」


「見るだけも、仕事か」


「仕事です」


 老人は少しだけ笑った。


「なら、まだ役に立つな」


 相沢は言葉に詰まった。


 すぐには返せなかった。


「かなり」


 ようやく言う。


 老人は頷き、北の森を見た。


 木が近い。


 ダリオの言葉。


 鳥が少ない。


 それが頭に残る。


 相沢は、北柵のそばに火用の水桶を置かせた。


 白い布はつけない。


 火の水。


 飲む水ではない。


 それを何度も説明した。


 説明しながら思う。


 夜になれば忘れる。


 疲れれば間違える。


 だから、繰り返すしかない。


     ◇


【土曜日 17:18/治療所前】


 リリアはまだ動いていた。


 だが、動きが少し遅い。


 本人は気づいているのか。


 分からない。


 相沢は治療所の外から見る。


 入らない。


 入ると邪魔になる。


 だが、見ないわけにもいかない。


 エルが弟のそばに座っている。


 手は膝の上。


 眠そうだ。


 でも、目は弟を見ている。


「エル」


 リリアが言う。


「はい」


「少し目を閉じてください」


「でも」


「私が見ています」


「でも」


「見る役は、交代します」


 エルは迷う。


 相沢は横から言った。


「交代しない役は、壊れる」


 エルが相沢を見る。


「壊れる?」


「倒れるってことだ」


「……分かりました」


 エルは弟の隣で、少しだけ体を丸めた。


 目を閉じる。


 閉じた瞬間、眠ったようだった。


 リリアはその様子を見て、小さく息を吐いた。


「子供です」


「はい」


「役を渡すのは、必要です」


「はい」


「でも、子供です」


 相沢は黙った。


 同じことを、さっきミナにも言われた。


「忘れないようにします」


「お願いします」


 リリアは静かに言った。


 責めていない。


 でも、預けている。


 それが分かった。


     ◇


【土曜日 17:27/広場中央】


 粥は行き渡った。


 多くはない。


 足りてもいない。


 だが、全員が何かを口にした。


 それだけで、広場の空気は少しだけ変わった。


 怒鳴り声が減る。


 泣き声も少し小さくなる。


 腹が満ちたわけではない。


 ただ、何もない時間が終わっただけだ。


 相沢は地面の線を見る。


 火。


 水。


 寝床。


 見張り。


 治療。


 食料。


 子供。


 咳。


 北柵。


 全部が線で繋がっている。


 そして、全部が細い。


「回し屋」


 ミナが来た。


「何だ」


「子供、三人寝た」


「避難民?」


「二人。

 村の子が一人」


「混ざったか」


「うん」


「喧嘩は?」


「今はない」


「今は、か」


「うん」


 ミナは広場を見る。


「明日の朝、決めるんだよね」


「ああ」


「受け入れるって」


「その方向だ」


「方向?」


「正式には、まだ」


「そこ、曖昧にするんだ」


「曖昧じゃない。

 段階を分けてる」


「言い方が回し屋」


「褒め言葉か?」


「半分」


「残り半分は」


「腹立つ」


「だろうな」


 ミナは少し笑った。


 その笑いも、疲れていた。


     ◇


【土曜日 17:36/広場中央】


 日がさらに傾く。


 影が伸びる。


 北柵の影が、広場の端に届き始める。


 その時。


 板を叩く音がした。


 乾いた音。


 一回。


 二回。


 村の空気が止まる。


「北!」


 ミナが叫ぶ。


 相沢は走りかけた。


 足が重い。


 それでも動く。


 ガンツが先に走っていた。


「走るな!」


 相沢が叫ぶ。


「誰に言ってる!」


 ガンツが返す。


「自分にもだ!」


「遅ぇ!」


 ミナが後ろから叫ぶ。


「東西、見る人はそのまま!

 全員動かない!」


 声が通る。


 人が止まる。


 相沢は北柵へ向かった。


     ◇


【土曜日 17:39/北柵】


 老人が板を握っていた。


 顔が強張っている。


「何だ」


 ガンツが聞く。


 老人は森を指した。


「音がした」


「どんな」


「草を踏む音じゃない。

 木を引く音だ」


 相沢は森を見る。


 暗い。


 昼より見えない。


 でも、完全な夜ではない。


 木々の間。


 低い影。


 動いた気がした。


「ゴブリンか」


 ガンツが槍を握る。


「まだ分からない」


 相沢は言った。


「分からないなら構える」


「それは合ってる」


「お前に言われると腹立つ」


 その時。


 森の奥で、鳥が一羽だけ飛んだ。


 遅れて。


 木の影が揺れた。


 ガンツの顔が変わる。


「いるな」


「ああ」


 相沢は北柵の根元を見る。


 火の水。


 火。


 見る人。


 叫ぶ人。


 ギリギリ間に合った。


 まだ攻撃ではない。


 偵察か。


 準備か。


 それとも、こちらを見ているのか。


「赤か?」


 ガンツが低く言う。


「分からない」


「分からないばっかりだな」


「分かったふりよりましだ」


「それはそうだ」


 森の奥で、何かが下がった。


 影が消える。


 静かになる。


 静かすぎる。


 相沢は息を止めていたことに気づく。


 吐く。


 ゆっくり。


「北は正解だったな」


 ガンツが言った。


「ダリオだ」


「ああ」


 ガンツは森を見たまま頷いた。


「あいつ、使える」


「まだ寝かせる」


「分かってる」


「ガンツもだ」


「それは分からん」


「分かれ」


「嫌だ」


「子供か」


「お前よりは大人だ」


「そういう返しが子供だ」


「うるせぇ」


 相沢は少しだけ笑いそうになった。


 笑わなかった。


 森がまだ暗かった。


     ◇


【土曜日 17:47/広場中央】


 北で何かがいた。


 それだけで、村の空気は変わった。


 夜の形を作っていてよかった。


 そう思うには早い。


 だが、作っていなければ、もっと遅れていた。


 相沢は地面の線に、北の印を濃く描き直した。


 木が近い。


 鳥が少ない。


 板の音。


 火の水。


 見る人。


 線が繋がる。


 その時。



【夜間警戒:

 暫定移行】


【北柵接近兆候:

 確認】


【警戒度:

 上昇】


【推奨:

 夜間配置の即時確定】



「今やってる」


 相沢は呟いた。



【遅延リスク:高】



「分かってる」


 今度は、返事をした。


 表示にではない。


 自分に。


 村に。


 夜に。


 相沢は顔を上げる。


「ミナ」


「何」


「夜の配置、今決める」


「分かった」


「村長」


「はい」


「寝る場所を確定してください。

 動かすのは今だけです。

 暗くなってからは動かさない」


「承知しました」


「マルタ」


「何だい」


「粥の鍋は片づける。

 火のそばに残さない」


「分かってるよ」


「リリアさん」


「はい」


「治療所の火は残します。

 でも、人を減らします」


「付き添いは一人までのまま。

 夜は交代にします」


「交代?」


「はい。

 付き添いが倒れれば、患者も見られません」


「お願いします」


「ガンツ」


「ああ」


「北を厚くする。

 でも東西は空けない」


「分かってる」


「ダリオは寝かせる」


「分かってるって言ってるだろ」


「二回言いたくなる」


「腹立つ」


 ミナが少しだけ笑った。


 だが、すぐに顔を引き締める。


 夜が来る。


 今度は、火ではなく。


 暗さとして。


     ◇


【土曜日 17:55/広場中央】


 村が動く。


 ゆっくり。


 疲れた足で。


 それでも動く。


 子供を寝かせる。


 怪我人を移す。


 咳の強い者を風下へ。


 飲む水を井戸前へ。


 傷の水を治療所へ。


 火の水を北と倉庫へ。


 見張りを東西北へ。


 火を見る人を三つの火へ。


 粥の鍋を下げる。


 器を集める。


 使用済みの布を分ける。


 全部、地味だった。


 派手な勝利ではない。


 誰も叫ばない。


 誰も敵を倒していない。


 ただ、夜になる前に場所を決めている。


 それだけだった。


 だが。


 相沢には、それが一番大事に見えた。


 夜は、村をばらばらにする。


 だから、夜になる前に繋ぐ。


 そのための線。


 そのための役。


 そのための声。


「回し屋」


 ミナが言う。


「何だ」


「これで夜、越せる?」


 相沢はすぐには答えなかった。


 答えたかった。


 越せる。


 大丈夫だ。


 そう言えれば、楽だった。


 でも、嘘になる。


「分からない」


 ミナは少しだけ眉を寄せる。


 相沢は続けた。


「でも、何もしないよりは越せる」


「それ、安心していいの?」


「少しだけ」


「少しだけか」


「今は、それくらいでいい」


 ミナは広場を見た。


 火が三つ。


 人の影。


 焦げた柵。


 寝かされた避難民。


 粥の匂い。


 水桶。


 そして、北の森。


「少しだけでも、ないよりいいか」


「そうだな」


 相沢は頷く。


 日が沈み始める。


 夜の入口が、村に降りてくる。


 相沢は地面の線を最後にもう一度見た。


 踏まれて薄くなっている。


 だが、まだ残っている。


 村も同じだ。


 相沢は棒を置いた。


「夜を始めるぞ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 ミナか。


 村か。


 それとも。


 自分にか。


 だが、ミナは頷いた。


「うん」


 広場の火が、少しだけ強くなった。


 夜が来た。

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