第六十七話 夜まで持たせる
【土曜日 14:52/広場中央】
止めないようにする。
そう言った直後に。
相沢は、自分の膝が少し笑っていることに気づいた。
笑うな。
今じゃない。
そう思っても、体は正直だった。
寝ていない。
火を見た。
叫んだ。
人を分けた。
怪我人を数えた。
食料を数えた。
考え続けた。
当然だった。
「回し屋」
ミナが横から言う。
「何だ」
「顔、白いよ」
「元からだ」
「嘘」
「最近、みんな嘘に厳しいな」
「嘘が雑だから」
否定できなかった。
相沢は広場を見る。
避難民。
元の村人。
怪我人。
見張り。
水桶。
布。
食料。
全てが増えた。
増えたのに、手は増えていない。
いや。
少しは増えた。
だが、今すぐ使える手ではない。
疲れた手。
震える手。
怪我を押さえる手。
何かを失って空いたままの手。
そういう手だった。
◇
【土曜日 14:56/広場中央】
「夜までです」
相沢は言った。
村長が顔を上げる。
「夜まで、ですか」
「はい。
今、全部を決めようとすると崩れます」
相沢は地面の線を見る。
「まず、日が落ちるまで持たせる。
その後、夜の配置を決める。
正式受け入れは明日の朝に」
村長は頷いた。
「では、今日の目的は」
「夜まで持たせることです」
ミナが小さく息を吐く。
「分かりやすい」
「分かりやすくしないと、俺が忘れる」
「そこ?」
「そこだ」
マルタが横から鼻を鳴らした。
「で、夜まで持たせるには何が要るんだい」
「水。
食料。
寝る場所。
見張り。
治療」
「全部だね」
「はい」
「嫌な返事だよ」
「俺も嫌です」
マルタは少しだけ口の端を上げた。
笑った、というより。
この男は本当に嫌そうだ、と確認した顔だった。
◇
【土曜日 15:00/広場中央】
相沢は地面に五つの丸を描いた。
水。
食料。
寝床。
見張り。
治療。
「水は井戸がある。
問題は桶と運ぶ人だ」
村長が頷く。
「桶は六つです」
「今使えるのは?」
「一つ割れました。
五つですな」
「五つ」
相沢は棒で印をつける。
「水運びは、元気な大人だけじゃなくていい。
半分だけ水が入った桶なら子供でも運べる」
ミナがすぐに言った。
「エルは半分」
「そうだ」
「他の子も?」
「無理のない範囲で」
ミナは少し考えた。
「半分なら、二人で一つより早いかも」
「転ばなければな」
「そこは見るね」
「頼む」
次。
「食料」
マルタが腕を組む。
「今日の分は出す。
ただし、腹いっぱいは無理だよ」
「怪我人と子供を優先してください」
「分かってる」
「粥にできますか」
「できる。
水を食うけどね」
「水と食料の交換ですね」
「また嫌な言い方するね」
「実際そうなので」
マルタは舌打ちした。
だが、否定はしなかった。
「寝床」
村長が答える。
「空き家が一つ。
納屋が二つ。
あとは広場の端になります」
「怪我人は治療所の近くで。
咳がひどい人は少し離す」
リリアが静かに言う。
「風下に」
「風下?」
相沢は顔を上げる。
リリアは広場の端を指した。
「咳の方を近くに固めると、他の方が不安になります。
ですが、見えない場所に置くのもよくありません」
「見えるけど、混ざらない場所」
「はい」
「分かりました」
相沢は線を引く。
リリアはすぐに現場に落とす。
ありがたい。
そして怖い。
この人に任せすぎると、リリアが倒れる。
◇
【土曜日 15:06/広場中央】
「見張り」
ガンツが腕を組む。
「東と西は外せねぇ」
「北は?」
「低い柵がある。普段は薄い」
相沢はすぐに顔を上げた。
「低い柵」
「ああ」
その言葉に、ダリオが少し反応した。
広場西側。
布をかけられて横になっている。
熱はある。
だが、目だけがこちらを向いた。
「北は」
ダリオがかすれた声で言う。
全員が見る。
「木が近い」
それだけ言って、咳き込んだ。
リリアがすぐに近づく。
「今は話さないでください」
「だが」
「今は、です」
静かな声だった。
ダリオは黙った。
ガンツが北側を見る。
「木が近い、か」
「気づいてなかった?」
ミナが聞く。
「知ってはいたさ」
ガンツは苦い顔をした。
「ただ、正面の方が来やすいと思ってた」
相沢は地面の図に北柵を描く。
「正面が来やすい場所。
北は嫌な場所」
「またそれか」
ガンツが言う。
「嫌な場所は、後で刺さる」
「分かったよ」
「北、一人増やせるか」
「人が足りねぇ」
「立つ人じゃなくていい。
見る人でいい」
ガンツが考える。
「見るだけか」
「異変があったら叫ぶ。
戦わない」
「なら、年寄りでもいけるか」
村長が口を挟む。
「足の悪い者でも、座って見ることはできます」
「それでいいです」
相沢は頷く。
強い人を置く場所。
見るだけの人を置く場所。
同じではない。
同じにすると、全部足りなくなる。
◇
【土曜日 15:12/治療所前】
治療所の前に、線が増えた。
待つ場所。
重い怪我。
軽い怪我。
咳。
水。
布。
使用済みの布。
最初はただの地面だった場所が、少しずつ役を持っていく。
相沢はそれを見て、少し気持ち悪くなった。
現場が整っていくのはいい。
だが、整うほど、そこに人がいることが見えてくる。
怪我人。
咳をする老人。
熱でうなされる男。
膝を抱える子供。
整えれば整えるほど、問題の形がはっきりする。
それは楽ではなかった。
「回し屋」
ミナの声。
「何だ」
「顔」
「また白いか」
「今度は青い」
「色の種類が増えたな」
「笑い事じゃないよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
ミナが睨む。
相沢は返す言葉を探した。
ない。
その時。
リリアが横から言った。
「座ってください」
「今は」
「座ってください」
同じ言葉。
音量は変わらない。
だが、二回目の方が怖かった。
相沢は黙って座った。
ミナが少しだけ勝ち誇った顔をする。
「何だその顔」
「リリアには勝てないね」
「勝ち負けじゃない」
「負けてる顔」
「うるさい」
◇
【土曜日 15:16/治療所前】
リリアは相沢の手を見た。
触れない。
ただ、見る。
「震えています」
「さっきも言われました」
「治っていません」
「すぐには」
「では、座ってください」
「座っています」
「しばらく」
「しばらくの定義は」
「私がよいと言うまで」
「厳しい」
「必要です」
またそれだった。
相沢は苦笑しそうになって、やめた。
笑う体力が惜しい。
リリアは水を差し出す。
「少しずつですよ」
「俺は患者じゃないです」
「倒れる前の人です」
「言い方」
「正確に言いました」
相沢は受け取った。
水はぬるかった。
だが、喉に落ちると、体が少しだけ戻った。
リリアは怪我人の方を見る。
「アイザワ殿」
「はい」
「さきほどの表示は、正しいと思います」
相沢は黙る。
「受け入れれば、悪くなることもあります」
「はい」
「でも、私は」
リリアは少し言葉を止めた。
「見えている怪我人を、見なかったことにはできません」
静かな声だった。
強い声ではない。
でも、曲がらない声だった。
相沢は水の器を見る。
「俺もです」
「なら、同じです」
「同じですか」
「はい」
リリアは少しだけ笑った。
「ただ、同じなら、倒れないでください」
「そこに戻るんですね」
「戻ります」
相沢は、今度は少しだけ笑った。
◇
【土曜日 15:24/倉庫前】
マルタは食料を数えていた。
数えている、というより。
睨んでいた。
袋。
壺。
干し肉。
乾いた豆。
麦。
焦げた袋。
湿った袋。
それぞれの前に、石が置かれている。
「これは?」
相沢が聞く。
「今日出す分」
「こっちは」
「明日の朝まで触らない分」
「こっちは」
「駄目かもしれない分」
「分かりやすい」
「文字なんか書いてる暇ないからね」
相沢は頷いた。
文字。
村人の中には読めない者もいる。
線や石の方が、今は早い。
「石、いいですね」
「褒めてるのかい」
「かなり」
「変な男だね」
「よく言われます」
マルタは袋を叩いた。
「今日の夜は薄い粥だよ」
「文句が出ますか」
「出る」
「出たら?」
「私が怒鳴る」
「助かります」
「でも、怒鳴るだけじゃ腹は膨れない」
「はい」
相沢は倉庫の中を見る。
七日。
いや、怪我人に粥を増やせばもっと短い。
食料は数字より早く減る。
こぼれる。
腐る。
盗まれる。
多く盛る。
少なく感じる。
食料は、物ではなく不安になる。
「配る人を決めましょう」
相沢が言う。
「誰でもよくないです」
「そうだね」
「マルタさんが全部配ると倒れます」
「倒れないよ」
「倒れます」
「勝手に決めるんじゃないよ」
「経験上、強い人ほど倒れるまでやります」
マルタは少しだけ黙った。
「……嫌なことを言うね」
「はい」
「誰にする」
「二人。
マルタさんが見る。
手は別の人」
「私が見て、若いのに配らせる」
「それでいきましょう」
マルタは広場を見た。
「文句を言いそうな奴に配らせるか」
「なぜです」
「配る側になったら、少しは分かるだろうさ」
「怖い教育ですね」
「腹が減ると、人は馬鹿になる。
先に仕事を持たせた方がいい」
相沢は少しだけ感心した。
マルタは倉庫の人だ。
ただ物を守っているわけではない。
物の周りで人がどう動くかを知っている。
「マルタさん」
「何だい」
「やっぱり、倉庫は任せます」
「最初から私の場所だよ」
「ですよね」
「分かればいいんだ」
◇
【土曜日 15:32/広場西側】
エルは水を運んでいた。
半分だけ入れた桶。
それでも、細い腕には重い。
一歩。
二歩。
少し揺れる。
「エル!ゆっくり!」
ミナが声をかける。
エルは頷く。
声は出さない。
弟のそばまで水を運ぶと、しゃがみ込んだ。
「飲ませる前に、リリアさんに聞け」
相沢が言う。
エルははっとして、器を止めた。
「……聞いてきます」
「走らない」
相沢が言う前に、ミナが言った。
「分かってます」
エルは小さく答え、早歩きで治療所へ向かう。
ミナが相沢を見る。
「覚えてきた」
「いいことだ」
「でも、子供だよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
ミナの声は責めているわけではなかった。
ただ、重かった。
相沢はエルの背中を見る。
「何もしないで座ってる方が、
きつい時もある」
「……そうなの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺は医者でも先生でもない」
「回し屋でしょ」
「それも怪しい」
「じゃあ、何なの」
相沢は答えられなかった。
何なのか。
自分でも分からない。
営業係長。
回し屋。
異世界に来た男。
村の外から来た人間。
いくつもある。
だが、どれも今の答えにはならなかった。
「今は、止めない人」
相沢は言った。
ミナは少し黙る。
「それ、かっこいいと思って言った?」
「思ってない」
「ならいいけど」
「いいのか」
「思ってたら蹴ってた」
「基準が厳しい」
◇
【土曜日 15:41/北柵】
北柵は低かった。
東や西よりも、作りが粗い。
森が近い。
木の根が柵のそばまで伸びている。
影が濃い。
昼なのに、少し暗い。
「嫌な場所だな」
相沢が言う。
「言っただろ」
ガンツが答える。
「知ってたなら言え」
「普段は何もねぇんだよ」
「普段は、だろ」
「うるせぇ」
ガンツは肩を少し動かした。
顔をしかめる。
「痛むか」
「痛まねぇ」
「嘘」
「お前まで言うな」
相沢は北柵の根元を見る。
草。
土。
低い段差。
火を投げるには近い。
置くには近い。
ダリオの言葉が頭に残る。
木が近い。
ただの地形の話ではない。
隠れて近づける。
火を置ける。
柵の根元を狙える。
「ここは戦う人じゃなくて、見る人を置く」
相沢が言う。
「見てどうする」
「早く叫ぶ」
「それだけか」
「それだけで変わる」
ガンツは黙った。
そして、低く笑った。
「お前は本当に、そればっかりだな」
「何が」
「早く見る。
早く分ける。
早く叫ぶ」
「倒すより簡単だ」
「倒す方が簡単な時もある」
「それはガンツの話だ」
「そうかもな」
ガンツは北の森を見た。
「ダリオ」
「ああ」
「あいつの目、使えると思うか」
「まだ分からん」
ガンツは少し考える。
「でも、森を見る目はしてた」
「助かるな」
「まだ助かったわけじゃねぇ」
「そうだな」
「だが」
ガンツは肩を押さえた。
「俺一人で全部見るよりはいい」
相沢は頷いた。
それが聞きたかった。
◇
【土曜日 15:52/広場中央】
役が増えていく。
水を見る人。
水を運ぶ人。
粥を配る人。
食料を見るマルタ。
治療を見るリリア。
子供を見るミナ。
柵を見るガンツ。
森を見るかもしれないダリオ。
そして。
それを地面に線で描く相沢。
完璧ではない。
穴だらけだ。
誰かが倒れれば崩れる。
赤ゴブリンが今すぐ戻れば危ない。
食料は足りない。
水桶も足りない。
布も足りない。
だが、何もないよりはましだった。
その時。
⸻
【暫定運用:
形成中】
【水運搬効率:
改善】
【食料配分:
管理開始】
【北柵監視:
追加】
【治療担当負荷:
依然高】
⸻
「最後だけ残すな」
相沢は呟いた。
⸻
【未解消項目です】
【対応継続を推奨】
⸻
「仕事を増やすな」
近くにいたミナが振り向く。
「またオカン?」
「ああ」
「何て?」
「リリアさんがまだ危ないって」
ミナの顔が真面目になる。
「それは見れば分かる」
「そうなんだよな」
見れば分かる。
分かることが多すぎる。
だから、見落とす。
相沢は治療所を見る。
リリアはまだ立っていた。
エルは水を運んでいる。
マルタは粥の準備を始めている。
ガンツは北柵へ人を回している。
村長は空き家の戸を開けさせている。
村は動いていた。
止まってはいない。
だが。
止まらないことと、壊れないことは違う。
◇
【土曜日 16:03/治療所前】
ダリオがまた咳き込んだ。
リリアが膝をついて様子を見る。
「熱が上がっています」
相沢が聞く。
「危ないですか」
「今すぐではありません。
ただ、無理に話すと悪くなります」
「分かりました」
ダリオは目だけで相沢を見る。
「北」
かすれた声。
「話すな」
ガンツが言った。
ダリオはそれでも続ける。
「鳥が……少ない」
相沢とガンツが顔を上げる。
「鳥?」
「森が……静かすぎる」
リリアが眉を寄せる。
「もう話さないでください」
ダリオは黙った。
ガンツが北の森を見る。
相沢も見る。
鳥。
言われるまで気にしていなかった。
煙。
火。
人。
食料。
水。
そればかり見ていた。
森そのものを見ていなかった。
「ガンツ」
「ああ」
「北、もう一人」
「分かってる」
ガンツはすぐ動いた。
相沢はダリオを見る。
まだ戦えない。
立てもしない。
だが。
見た。
それだけで、村の配置が変わる。
受け入れたことの意味が、少しだけ形になった気がした。
まだ、早い。
助かったと決めるのは早い。
だが。
切っていたら、この目はなかった。
◇
【土曜日 16:10/広場中央】
日が少し傾いていた。
夜までは、まだある。
だが、昼の勢いはもうない。
人は疲れている。
声も減っている。
泣き声も、叫び声も、怒鳴り声も。
全部が少し低くなった。
相沢は地面の図を見下ろす。
線が増えすぎている。
丸も増えすぎている。
何度も踏まれて、薄くなっている。
それでも、まだ読める。
今の村そのものだった。
踏まれて。
焦げて。
増えて。
薄くなって。
それでも、まだ形はある。
「夜までだ」
相沢は呟いた。
まず、夜まで。
その後、夜を越える。
その後、朝に決める。
全部はできない。
一つずつしかできない。
相沢は棒を握り直した。
「回し屋」
ミナが言う。
「何だ」
「次は?」
相沢は広場を見る。
治療所。
倉庫。
井戸。
北柵。
広場西側。
そして、沈み始めた太陽。
「夜の形を作る」
ミナは頷いた。
「分かった」
相沢は息を吸った。
まだ休みたい。
今すぐ座りたい。
寝たい。
何も考えたくない。
だが、夜は待ってくれない。
相沢は地面に、新しい線を引いた。
夜まで持たせるために。
そして。
夜に、村を止めないために。




