第六十四話 火を見るな
【土曜日 12:14/東柵】
黒い布が落ちる。
火が広がる。
村人の目が、そちらへ向いた。
足も。
動きかけた。
「見るだけ!」
ミナが叫んだ。
「動くのは決めた人だけ!」
その声で。
何人かの足が止まる。
止まった。
それだけで、相沢は息を吐きそうになった。
だが、まだ早い。
火は待たない。
ゴブリンも待たない。
火を見る役の村人が二人、前へ出る。
一人は土を持つ。
一人は濡れ布を持つ。
水桶を持った男は、井戸側で止まっていた。
柵の槍は、動いていない。
ガンツも動かない。
槍を構えたまま、森を見ている。
「よし」
相沢は短く言った。
「土!」
ミナが叫ぶ。
「広げない!
端から!」
村人が土をかける。
火が小さくなる。
濡れ布が被さる。
煙が上がる。
消える。
完全ではない。
だが、広がらない。
村も。
崩れない。
◇
【土曜日 12:16/東柵】
⸻
【火災対応:
初期運用を確認】
【混乱率:低下】
⸻
「初期運用って言うな……」
相沢は呟いた。
ミナが横で息を切らす。
「何?」
「褒められた」
「誰によ」
「オカン」
「それ、本当に慣れたくない」
「俺もだ」
その時。
石が飛んだ。
火の直後。
今度は石。
火を見た村人の顔が、まだ火の方を向いている。
そこを狙っている。
「前だ!」
ガンツが叫んだ。
石が柵に当たる。
乾いた音。
若い見張りが肩をすくめる。
「見るな!」
ガンツが怒鳴る。
「火を見る奴は決めた!
お前らは森を見ろ!」
その声で、見張りたちが顔を上げる。
森。
影。
小さいゴブリン。
石を持つ手。
焦げた布。
奥に片目。
さらに奥。
赤い影。
相沢はそこを見る。
赤は動いていない。
だが。
動かしている。
「火で目を取って、
石で前を削る」
「嫌なやり方だな」
ガンツが低く言う。
「嫌だから効く」
「効かせるな」
「やってる」
◇
【土曜日 12:19/広場中央】
村長は井戸前に立っていた。
水桶を持つ者たちが集まりかける。
「並ぶのです!」
村長の声が飛ぶ。
「空の桶はこちら!
満ちた桶はこちら!
戻る者と向かう者を混ぜてはなりません!」
村人たちは戸惑いながら動く。
水を汲む者。
運ぶ者。
空桶を戻す者。
最初は乱れる。
肩がぶつかる。
水がこぼれる。
だが。
前ほどではない。
村長は杖で地面に線を引く。
「こちらから来て、
こちらへ戻る!」
「村長、こっちでいいか!」
「違います!
満ちた桶は右です!」
「右ってどっちだ!」
「井戸を背にして右です!」
「細けぇ!」
「細かくせねば詰まります!」
村長が珍しく強い声を出した。
相沢がいつも言っていたこと。
細かい。
だが、その細かさで人はぶつからない。
村長は息を整える。
腰が痛い。
喉も痛い。
だが。
今は止まれない。
◇
【土曜日 12:22/簡易治療所】
リリアは濡れ布を絞っていた。
怪我人が顔を上げる。
「火は……」
「見ないでください」
リリアは静かに言う。
「あなたは休む役です」
「だが、外が」
「外を見る人はいます」
怪我人は黙る。
外の音。
鐘。
声。
石の音。
煙の匂い。
怖い。
怖いのは分かる。
だが、立ち上がられては困る。
傷が開く。
人が増える。
治療所が詰まる。
それもまた、村が止まる原因になる。
リリアは薬草箱を見る。
残りは多くない。
だから。
使う相手を選ぶ。
選びたくなくても、選ぶ。
「リリアさん」
外の男が、かすれた声で言った。
まだ熱がある。
目は怯えている。
「あれは……」
「赤いものですか」
男は小さく頷く。
「あれは、火を見せる……」
「火を見せる?」
「火を見た奴から……
動く……」
リリアの手が止まる。
外の声と、男の言葉が重なった。
「動いたところを……
喰う……」
リリアは、すぐに立ち上がった。
◇
【土曜日 12:25/東柵】
リリアが走ってきた。
珍しく、少し息が乱れている。
「アイザワ殿」
「どうしました」
「外の男が言いました」
リリアは短く告げる。
「赤いのは、
火を見せて、人を動かすと」
相沢は目を細める。
「やっぱりか」
「火そのものより、
動いたところを狙うそうです」
ガンツが舌打ちした。
「性格悪ぃな」
「魔物に性格ってあるのか」
「今あるだろ」
「否定できない」
相沢は森を見る。
赤い影はまだ奥にいる。
直接、突っ込んでこない。
火を見せる。
人を動かす。
薄くなった場所を突く。
それはもう、戦い方というより。
運用だった。
「火を使ってるんじゃない」
相沢は言った。
ガンツが横を見る。
「何?」
「人を動かしてる」
その言葉に、ミナが黙った。
村長も、井戸側からこちらを見た。
リリアは静かに頷く。
「なら」
相沢は地面を見る。
火の跡。
土。
水。
足跡。
「動かされなきゃいい」
◇
【土曜日 12:29/東柵】
次は、火ではなかった。
石。
丸太。
小さいゴブリン三体が、細い丸太を運んでくる。
大きくはない。
柵を壊すほどではない。
だが、火の後だ。
人の目が散っている時なら、十分に嫌な負荷になる。
「丸太くるぞ!」
見張りが叫ぶ。
ガンツが前へ出そうになる。
足が半歩。
動いた。
だが止まる。
相沢が見た。
ガンツも自分で気づいて、歯を食いしばる。
「動くな、俺」
自分に言った。
「偉い」
「うるせぇ」
「褒めてる」
「腹立つ褒め方すんな」
ガンツは柵から動かない。
代わりに、槍を構える位置を変える。
「右寄れ!
丸太は正面じゃねぇ!
斜めに来る!」
見張りたちが動く。
相沢は地面の図を見る。
火を見る役。
水を運ぶ役。
柵を見る役。
怪我人を見る役。
まだ粗い。
でも、ある。
役があるだけで、人は迷う時間が減る。
丸太が柵に当たった。
鈍い音。
柵が軋む。
だが、前ほど大きくは揺れない。
「支柱見ろ!」
若い見張りが叫ぶ。
「まだ持ってる!」
「縄は!」
「緩んでる!」
「結び直しは後!」
相沢が叫ぶ。
「今は前を見る!」
若い見張りが頷く。
いい。
全部直そうとしない。
今やることと、後でやることを分ける。
それだけで、村は長く持つ。
◇
【土曜日 12:34/東柵】
⸻
【複合攻撃を確認】
【火炎投擲】
【投石】
【柵負荷】
【防衛維持率:改善傾向】
⸻
「改善で済む状況か、これ」
相沢は呟く。
だが、表示は正しい。
状況は悪い。
でも、さっきよりは崩れていない。
火が来ても、全員が走らない。
石が来ても、火を見る役は戻らない。
丸太が来ても、ガンツは持ち場から離れない。
村長の井戸前も詰まっていない。
リリアの治療所からも人が溢れていない。
まだ。
止まっていない。
森の奥で、赤い影が揺れた。
その瞬間。
咆哮。
低く。
長く。
腹に響く声。
ゴブリンたちの動きが変わる。
石を持つ個体が下がる。
火を持つ個体が前に出る。
丸太の個体は横へずれる。
まるで、配置を変えたように。
相沢の背筋が冷える。
◇
【土曜日 12:36/東柵】
⸻
【敵性群体:
行動連動性上昇】
【指揮個体の存在を推定】
⸻
「知ってる」
相沢は短く返した。
ガンツが槍を構える。
「赤か」
「たぶん」
「片目は?」
「前を見てる」
相沢は森の奥を見る。
片目ゴブリンは、動かない。
赤い影の少し前。
そこからこちらを見ている。
赤はさらに奥。
片目が前線。
赤が全体。
嫌な構図だった。
「ガンツ」
「何だ」
「片目は現場。
赤は全体を見てる」
「現場って何だ」
「今は分からなくていい」
「分からんが、嫌なのは分かった」
「十分」
相沢は村の方を振り返る。
ミナがいる。
リリアがいる。
村長がいる。
水を運ぶ者がいる。
火を見る者がいる。
柵を守る者がいる。
まだ。
ばらばらではない。
「ミナ!」
「何!」
「次、火が複数来る!」
「分かった!」
「火だけ見るな!」
「分かってる!」
ミナは振り返り、声を張った。
「火、二つ来ても走らない!
自分の場所で!
自分の役を!
東に寄りすぎない!
西、空けない!」
声が村を叩く。
村人の顔が上がる。
赤い影が、火を掲げた。
それは。
こちらが準備できたのを見ているようだった。
◇
【土曜日 12:39/東柵】
火が二つ飛んだ。
一つは柵の手前。
一つは倉庫寄り。
村人たちの目が割れる。
足も。
動きかける。
「見るだけ!」
ミナが叫ぶ。
「動く人は決めた!」
火を見る役が二手に分かれる。
片方は柵前。
片方は倉庫寄り。
水運びは井戸で止まらない。
村長が叫ぶ。
「満ちた桶は右!
空は左!」
「また右か!」
「覚えてください!」
リリアは治療所の入口に立つ。
「怪我人は動かないでください。
動くなら、私が言います」
ガンツは柵から動かない。
動かない。
顔だけが険しい。
足は、止まっている。
相沢は火ではなく、人を見た。
動き。
止まり。
迷い。
遅れ。
重なり。
まだ粗い。
だが、前より少ない。
火が広がる。
土がかかる。
煙が上がる。
倉庫寄りの火に村人が集まりかける。
「寄りすぎ!」
ミナが叫ぶ。
「二人でいい!
三人目、戻って!」
三人目が止まる。
戻る。
柵を見る。
戻った。
相沢は、そこで初めて少しだけ笑いそうになった。
笑う場面ではない。
でも。
止まらなかった。
◇
【土曜日 12:43/東柵】
火は消えた。
柵は持った。
怪我人は増えたが、軽い。
水は減った。
だが、尽きていない。
倉庫は焦げた。
だが、燃えていない。
村はざわついている。
だが、崩れていない。
森の奥。
片目ゴブリンがこちらを見ていた。
その奥の赤い影が、わずかに揺れる。
怒ったのか。
考えたのか。
分からない。
ただ。
次を考えている。
相沢はそう感じた。
ガンツが低く言う。
「来るか?」
「来る」
「今すぐか」
「分からない」
「面倒だな」
「かなり」
相沢は膝に手をつく。
息が荒い。
熱い。
煙い。
眠い。
全部が重い。
その時。
⸻
【疲労蓄積:高】
【判断精度低下リスク】
【休息推奨】
⸻
「今かよ……」
相沢は顔をしかめた。
だが。
今だから、なのだろう。
オカンは本当に嫌なタイミングで正しい。
ミナが横に来る。
「休める?」
「休めない」
「嘘」
「……少しなら」
ミナはじっと見る。
相沢は視線をそらした。
三十九年も生きていれば。
分からないふりをした方がいい空気くらいある。
でも今は。
その話ではない。
「五分」
ミナが言った。
「五分だけ座って」
「五分で何が変わる」
「立ったまま倒れるよりマシ」
「言い方」
「回し屋に似てきたでしょ」
「嫌な成長だな」
「褒めて」
「……よく見てる」
ミナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐに顔をそらす。
「知ってる」
声が少しだけ小さかった。
相沢は、それ以上は言わなかった。
今は。
名前を付ける時ではない。
◇
【土曜日 12:48/東柵内側】
相沢は柵の内側に腰を下ろした。
本当に五分だけ。
ガンツが前を見る。
ミナが声を出す。
村長が井戸を見る。
リリアが怪我人を見る。
火を見る役が、火の跡を確認する。
水を運ぶ役が、桶を戻す。
柵から動かない役が、森を見る。
それぞれが、自分の場所にいる。
完璧ではない。
遅い。
迷う。
間違える。
でも。
動いている。
相沢は焦げた地面を見た。
燃えた。
でも。
止まっていない。
それが今は、一番大きかった。




