第六十三話 焦げた風
【土曜日 11:51/東柵】
鐘が鳴り終わる前に。
人が動いた。
走る者。
振り返る者。
水桶を抱える者。
槍を握り直す者。
その全部が、まだ少し遅い。
けれど。
止まってはいなかった。
「東に寄りすぎ!」
ミナの声が飛ぶ。
「西、空けない!
火台の水はそのまま!
怪我人はリリア!
走る人と見る人、
混ざらないで!」
村人たちがはっとして動く。
相沢は走りながら、それを見た。
悪くない。
いや。
かなりいい。
少なくとも、前なら全員が鐘の方へ走っていた。
今は違う。
誰かが残る。
誰かが見る。
誰かが止める。
それだけで、村は少し長く持つ。
東柵の前。
ガンツが先に着いた。
「状況は!」
若い見張りが叫ぶ。
「森の奥に影!
数はまだ少ない!
でも――」
言葉の途中で。
森の奥から、何かが飛んだ。
石ではない。
黒い塊。
放物線を描いて、柵の手前に落ちる。
べしゃり。
嫌な音。
次の瞬間。
火が広がった。
「火!」
誰かが叫ぶ。
小さい。
だが、確かに燃えている。
油を含んだ布。
相沢は即座に叫んだ。
「水を全部かけるな!」
水桶を持った村人が止まる。
「土!」
相沢は足元を指差す。
「土をかけろ!
踏むな、広げるな!」
「土! 土持ってきて!」
ミナがすぐに繰り返す。
「水は柵!
燃えてる布は土!
そこ、近づきすぎ!」
声が二重になる。
相沢。
ミナ。
二方向から同じ指示が飛ぶ。
村人の動きが速くなる。
◇
【土曜日 11:53/東柵】
⸻
【火災規模:小】
【延焼リスク:中】
【燃焼材:
油脂含有の可能性】
⸻
「油かよ……」
相沢は舌打ちした。
ただの火ではない。
水で流せば。
火が広がるかもしれない。
だから土。
砂。
濡れ布。
遮断。
現代なら消火器。
ここにはない。
ないなら、あるもので止めるしかない。
「燃えた布、木に近づけるな!
土で囲め!」
「囲めって何だ!」
「火の逃げ道を塞ぐ!」
「分かった!」
分かってない顔だった。
でも動く。
今はそれでいい。
ガンツは柵の外を睨んでいた。
「見えねぇ」
「赤か?」
「分からん。
だが、投げた奴はいる」
森の奥。
木の間。
影が動く。
ゴブリンの影。
小さい影が二つ。
三つ。
そのさらに奥。
一瞬。
赤いものが揺れた。
火ではない。
体。
相沢の背筋が冷える。
◇
【土曜日 11:55/東柵】
もう一つ飛んだ。
今度は高い。
柵の内側を狙っている。
「避けろ!」
ガンツが叫ぶ。
黒い塊が、柵を越えた。
落下地点。
倉庫側ではない。
火台の近く。
最悪ではない。
だが悪い。
火台の火と混ざれば、広がる。
相沢は走った。
水桶を持った男が反射的に近づく。
「水はまだ!」
相沢が叫ぶ。
男が止まる。
黒い布が地面に落ちる。
火がつく。
ぱっと広がる。
その横で、子供が泣いた。
「近づかない!」
ミナが子供を抱えて下がらせる。
「子供は後ろ!
火を見るな、足元見て!」
相沢は土を掴んだ。
手で投げる。
一回。
二回。
三回。
熱い。
煙い。
目が痛い。
村人が真似する。
土がかかる。
火が少し弱まる。
「濡れ布です!」
リリアの声。
簡易小屋から、濡らした布が投げられた。
相沢が受け取る。
火の端に被せる。
踏まない。
押さえる。
息を止める。
煙が上がる。
火が消えた。
「よし」
短く言った。
だが。
よしではない。
これは試しだ。
向こうは見ている。
どこへ投げれば混乱するか。
水をどう使うか。
誰が指示を出すか。
全部。
◇
【土曜日 11:58/東柵】
⸻
【敵行動:
火炎投擲】
【目的推定:
延焼誘発
防衛人員分散
水資源消耗】
⸻
「だよな……」
相沢は柵の外を見る。
赤い影は、もう見えない。
代わりに。
片目ゴブリンがいた。
森の少し奥。
こちらを見ている。
直接来ない。
いつもの位置。
いつもの距離。
その後ろに、赤がいる。
たぶん。
「ガンツ」
「見えてる」
「あれ、前に出てきてない」
「ああ」
「赤はさらに後ろだ」
「だろうな」
ガンツの声が低くなる。
「面倒だな」
「かなり」
「殴れねぇ」
「殴りに行ったら負ける」
「分かってる」
ガンツは悔しそうに歯を鳴らした。
戦える男にとって。
戦えない位置にいる敵は、一番嫌な相手だ。
相沢も同じだった。
クレームの原因が売場にない時。
配送。
天候。
本部指示。
広告。
現場で怒鳴られても、根っこに手が届かない。
そういう時ほど。
現場が削られる。
◇
【土曜日 12:01/広場中央】
ミナは息を切らしていた。
だが止まらない。
「火が落ちた場所、見て!
まだ煙出てない!?」
「水桶、空にした人は井戸!
でも一人ずつ!
ぶつからない!」
「子供はリリアの小屋の裏!
火台に近づけない!」
声を出す。
喉が痛い。
でも声を出す。
出さないと、人が止まる。
前は。
回し屋が出していた。
今は、自分が出す。
全部は無理。
でも。
今はこれでいい。
村長が近づいてきた。
「ミナ」
「何!」
「西側は落ち着いております。
見張り二人、残しております」
「分かった!
じゃあ、こっちは火を見る!」
「承知しました」
村長が頷く。
昔なら、村長に指示を出すなんて考えなかった。
でも今は違う。
役割。
立場。
年齢。
全部大事。
でも。
火は待たない。
ゴブリンも待たない。
なら、声を出すしかない。
◇
【土曜日 12:04/東柵】
三つ目は来なかった。
それが逆に嫌だった。
相沢は柵の前で息を整える。
火は消えた。
怪我人は少ない。
延焼もなし。
水も使い切っていない。
初手としては防げた。
だが。
向こうも分かったはずだ。
村は火に反応する。
水を動かす。
土を使う。
ミナが指示を出す。
リリアが濡れ布を出す。
ガンツが柵を守る。
相沢が火の処理を見る。
手札を見せた。
見せざるを得なかった。
「次は」
相沢が呟く。
「何だ」
「次は、同時に来る」
ガンツが顔をしかめる。
「火と突撃か」
「火と石。
火と丸太。
火で人を動かして、別の場所を突く。
どれでも嫌だ」
「全部嫌じゃねぇか」
「そういう相手だ」
ガンツが黙る。
相沢は森を見た。
火そのものは、まだ小さい。
だが。
火を見た人間は動く。
動いた場所は薄くなる。
薄くなった場所を、敵は見る。
単純だ。
単純だから、嫌だった。
「火を消してる間に、
柵を見る目が減る」
「ああ」
「柵を守ってる間に、
倉庫が燃えるかもしれない」
「……ああ」
「火を見た全員が走ったら、
村が空く」
ガンツが低く息を吐いた。
「面倒だな」
「かなり」
相沢は地面にしゃがみ込む。
棒で線を引く。
東柵。
火台。
井戸。
倉庫。
治療所。
西柵。
ざっくりした村の図。
「火が来た時、
全員が火を見ると終わる」
ミナが近づいてきた。
「さっきみたいに?」
「さっきはまだ小さい。
次はもっと嫌な場所に来る」
「例えば?」
「倉庫」
ミナの顔が強張る。
「治療所」
リリアも近づいていた。
静かに息を呑む。
「井戸」
村長が目を細める。
「……水を使わせるためですな」
「はい」
相沢は頷く。
「火を消すために水を使う。
水を使うために人が動く。
人が動くと柵が薄くなる」
棒で線を引く。
火。
人。
水。
柵。
全部が繋がる。
「火は火だけじゃない」
相沢は言う。
「人を動かす道具だ」
◇
【土曜日 12:08/東柵内側】
村人たちが黙る。
嫌な沈黙だった。
火が怖い。
ゴブリンが怖い。
赤が怖い。
そして。
自分たちが動かされることが怖い。
相沢は息を吐いた。
「だから決める」
「何を?」
ミナが聞く。
「火が落ちた時の役」
「役?」
「火を見る。
水を運ぶ。
柵から動かない。
怪我人を見る」
相沢は地面に丸を描く。
「全員で全部見るな。
それだけだ」
ガンツが顔をしかめる。
「また細けぇな」
「細かくしないと、
全員が火に走る」
「それは困るな」
「かなり」
少しだけ笑いが起きる。
緊張が少し緩む。
その隙に、相沢は続けた。
「火が落ちても、
柵の人間は勝手に動くな」
村人がざわつく。
「でも、火が」
「火を見るなとは言ってない。
動くなと言ってる」
強めに言う。
「火を見る役が行く。
水を運ぶ役が行く。
柵は柵を見る」
ガンツが槍を持ち直す。
「東柵は俺が見る。
勝手に抜けた奴は殴る」
「殴るのは後で」
「後ならいいんだな」
「よくはない」
また少しだけ笑いが起きた。
笑いがあるうちに。
人は動ける。
「ミナ」
「何」
「火を見る役の声出し」
「分かった」
「リリアさん」
「はい」
「怪我人を見る役は火に近づけない。
治療所に火が来たら、まず人を動かす。
薬草は二番目」
リリアは一瞬だけ目を伏せた。
そして頷く。
「分かりました」
「村長」
「はい」
「水運びを井戸前で詰まらせないでください。
列を作る。
空の桶と満タンの桶を混ぜない」
「承知しました」
「ガンツ」
「柵から動くな、だろ」
「そう」
ガンツは笑った。
「一番難しいな」
「一番頼みたい」
ガンツの笑みが消える。
そして、短く頷いた。
「任せろ」
◇
【土曜日 12:13/東柵】
⸻
【防火対応:
暫定編成】
【持続性:微増】
⸻
「微増かよ」
相沢が呟く。
ミナが横目で見る。
「またオカン?」
「微妙に褒められた」
「よかったじゃん」
「褒め方が地味」
「回し屋に合ってる」
「否定しづらい」
その時。
森の奥で影が動いた。
小さいゴブリンが三体。
出てきた。
だが、突っ込まない。
柵の外。
距離を取る。
手には石。
そして、一体だけ。
焦げた布を持っている。
「来るぞ!」
ガンツが叫ぶ。
村人たちが構える。
だが。
前ほどは崩れない。
ミナが一歩前に出る。
「東に寄りすぎない!」
声が通った。
「火を見る人は決めた!
勝手に走らない!
西、空けない!
水桶、混ぜない!」
ゴブリンが布を振りかぶる。
火は小さい。
でも、村を動かすには十分だった。
相沢はその動きを見て、息を止めた。
次に見るべきは、火ではない。
火を見た人の動き。
そこに、村が崩れる場所がある。
ゴブリンが投げた。
黒い布が空を飛ぶ。
村人たちは見上げた。
だが。
全員は動かなかった。
柵に残る者。
水桶を持つ者。
子供を下げる者。
土を掴む者。
それぞれが、自分の場所にいた。
相沢は短く言う。
「……よし」
勝ったわけではない。
ただ。
今度は、村が止まらなかった。




