第六十二話 戻る時間
【土曜日 11:25/西の森】
森に入った瞬間。
音が変わった。
村の声が遠くなる。
代わりに。
葉の擦れる音。
枝の軋む音。
土を踏む音。
自分の息。
全部が大きく聞こえる。
相沢は足元を見る。
湿った土。
折れた小枝。
踏まれた草。
煙は、まだ森の奥から上がっていた。
「距離は?」
ガンツが低く聞く。
「真っ直ぐならすぐだ」
「真っ直ぐ行けりゃな」
「だな」
森で真っ直ぐは危ない。
売場なら通路がある。
倉庫なら棚がある。
道路なら線がある。
森にはない。
いや。
ある。
獣道。
踏み跡。
折れた枝。
誰かが通った痕。
そういうものが、通路の代わりになる。
相沢は目を細めた。
◇
【土曜日 11:29/西の森】
若い見張りが、後ろで息を殺していた。
まだ十代後半くらい。
槍を持つ手が固い。
「怖いか」
相沢が小さく聞く。
若い見張りがびくりとした。
「こ、怖くないです」
「嘘はいい」
「……怖いです」
「その方がいい」
若い見張りが相沢を見る。
「怖くない奴から、
音を立てる」
ガンツが鼻で笑った。
「お前、
こういう時だけ妙に戦士みてぇな事言うな」
「営業も怖いからな」
「またそれか」
「怖い相手に近づいて、
相手が何を考えてるか見る仕事だ」
「やっぱり怖ぇよ、お前の仕事」
少しだけ空気が緩む。
だが。
すぐに戻る。
煙の匂いがした。
焦げた匂い。
木だけではない。
もっと嫌な。
布。
油。
何かが混じった匂い。
相沢は立ち止まる。
◇
【土曜日 11:32/西の森】
⸻
【臭気成分:
燃焼物混在】
【警戒推奨】
⸻
「混在って何だよ……」
「何か見えたか」
「燃えてるの、
木だけじゃないかもしれない」
ガンツの顔が険しくなる。
「家か」
「まだ分からない」
分からない。
分からないことが多すぎる。
煙。
赤いゴブリン。
火を投げる。
村が燃えた。
それが全部、頭の中で繋がりかける。
だが。
繋げすぎるのも危ない。
先入観で動くと事故る。
現場でも同じだった。
売場の詰まりを、いつもの原因だと決めつける。
配送遅延を、いつもの運送会社のせいだと決めつける。
そういう時ほど。
本当の原因を見落とす。
「ガンツ」
「何だ」
「煙を見る。
敵を探す。
でも、追わない」
「分かってる」
「見張り」
「は、はい」
「見たものだけ言え。
思ったことは後でいい」
「見たものだけ……」
「そうだ」
相沢は森の奥を見る。
「怖い時ほど、
話を盛る」
若い見張りが唇を噛んだ。
「……はい」
◇
【土曜日 11:36/村・広場中央】
ミナは広場に立っていた。
相沢たちが森へ入ってから、まだ十分ほど。
それなのに。
妙に長い。
村人たちは何度も西側を見る。
火台のそばの水桶。
倉庫前の湿った土。
簡易小屋の怪我人。
東柵。
全部が気になる。
全部へ走りたくなる。
でも。
それをやると崩れる。
ミナは息を吸った。
「西ばっかり見ない!」
声を出す。
思ったより大きく出た。
村人が振り向く。
「火台の水、減ってる!
二人、補充!」
「お、おう!」
「倉庫前、
濡れてるところ踏まないで!
袋を動かすなら板を敷いて!」
「分かった!」
「東柵の交代、時間見て!
疲れた顔してる人、前に出さない!」
言いながら。
ミナは自分で驚いていた。
回し屋ならどうするか。
分からない。
でも。
回し屋が何を見ていたかは、少しだけ分かる。
止まりそうな場所。
人が集まりすぎる場所。
誰も見ていない場所。
声が届かない場所。
それを見ればいい。
全部は無理でも。
一つずつ。
「ミナ」
リリアが簡易小屋から顔を出す。
「外の男、また熱が上がっています」
「水いる?」
「必要です。ただ、薬草も替えたいです」
ミナは一瞬迷う。
水桶。
火台。
怪我人。
リリア。
東柵。
西の森。
多い。
多すぎる。
でも。
今、決めるしかない。
「水は火台の分から取らない。
井戸の二人に頼む。
薬草は……上段の残ってるやつ?」
「はい」
「じゃあ私が取ってくる」
「一人で?」
「近いから平気。
リリアは男を見てて」
リリアが少しだけ笑う。
「はい」
その笑顔で、ミナの足が少し軽くなった。
◇
【土曜日 11:39/西の森】
煙が近くなった。
木々の間。
薄い黒が上へ伸びる。
ガンツが手を上げる。
止まれ。
三人が止まる。
ガンツはしゃがみ、地面を見る。
「足跡だ」
相沢も見る。
小さい。
人ではない。
ゴブリン。
複数。
だが。
向きが変だ。
煙の方へ行った跡。
煙の方から戻った跡。
行き来している。
「……作業してる?」
相沢が呟く。
「ゴブリンがか?」
「分からん」
ガンツの顔がさらに険しくなる。
「火を見に来てるだけじゃねぇな」
その時。
木の奥から、ぱき、と音がした。
若い見張りが槍を構えそうになる。
相沢が手で制した。
動くな。
ガンツだけが、音の方へ半歩ずれる。
低い姿勢。
槍の先。
目。
森の奥。
何かがいる。
小さい影。
ゴブリン。
一匹。
こちらを見ていた。
緑色の顔。
黄色い目。
手には、短い枝。
枝の先が黒く焦げている。
火のついた枝ではない。
燃え残り。
「……」
相沢は息を止める。
ゴブリンも動かない。
逃げない。
襲っても来ない。
見ている。
こっちを。
人数を。
武器を。
距離を。
「偵察か」
ガンツが低く言う。
次の瞬間。
ゴブリンが口を開いた。
鳴き声。
短い。
鋭い。
「ギッ」
森の奥で、別の音が返った。
ひとつ。
ふたつ。
多い。
「下がるぞ」
ガンツが言う。
相沢も即座に頷いた。
「まだ、煙の元を見てません」
若い見張りが小声で言う。
「見に来させられてる可能性がある」
相沢は言った。
「え?」
「煙は餌かもしれない」
若い見張りの顔が青くなる。
その時。
⸻
【警告】
【周辺敵性反応:増加】
【退路遮断リスク:低】
【退避推奨】
⸻
「オカン、
判断早いな」
「何だ」
「戻れって」
「従え」
「異論なし」
だが。
その時、風が動いた。
煙が横へ流れる。
木々の隙間。
黒いものが見えた。
相沢は一瞬だけ目を凝らす。
燃えている。
小屋ではない。
家でもない。
荷車。
いや。
荷車の残骸。
積まれていたものが焼けている。
布。
木箱。
縄。
そして。
その横に、倒れた標識のような木片。
道しるべ。
村と村をつなぐ途中に置かれるものかもしれない。
「……荷を置く場所か」
「何だそれ」
「村と村の間で、
一度休む場所。
荷を置いたり、人を待ったりする場所だと思う」
「補給か」
「たぶん」
燃やされたのは村そのものではない。
だが。
意味は悪い。
道を燃やす。
物を燃やす。
移動先を潰す。
助けを呼びに行く経路を潰す。
配送で言えば。
倉庫ではなく、積み替え場所を潰すようなものだ。
そこが死ぬと。
全部が遅れる。
全部が孤立する。
◇
【土曜日 11:43/西の森】
ゴブリンの鳴き声が増えた。
近づいてはいない。
だが。
こちらの退路を測っている。
ガンツが槍を握り直す。
「走るか」
「走らない」
「何でだ」
「見張りが転ぶ」
「転びません!」
「転ぶ声してる」
「えっ」
ガンツが短く笑った。
だが目は笑っていない。
「じゃあ歩いて戻る」
「早歩き」
「変な注文だな」
「現場は大体変な注文だ」
三人は下がり始めた。
ガンツが後ろを見ない。
相沢が横を見る。
若い見張りが足元を見る。
役割。
自然に分かれた。
森の奥で、ゴブリンが動く音。
枝。
葉。
小石。
追ってくる。
だが、襲ってこない。
距離を保っている。
試している。
戻るか。
焦るか。
誰が遅れるか。
誰が振り返るか。
誰が孤立するか。
「嫌な連中だな」
相沢が言う。
「前から嫌だろうが」
「前より嫌だ」
その時。
森の奥。
煙の向こう。
低い声が聞こえた。
鳴き声ではない。
命令。
そう感じる声。
「……」
ガンツが止まりそうになる。
相沢が小さく言った。
「止まるな」
ガンツの足が動く。
偉い。
止まらなかった。
森の奥の声は、一度だけだった。
だが。
その一度で、ゴブリンの足音が止まった。
一斉に。
「……今の」
若い見張りが震えた声で言う。
「赤か?」
ガンツが低く言う。
相沢は答えない。
答えられない。
だが。
嫌な予感は、形を持ち始めていた。
◇
【土曜日 11:48/西の森入口】
森の出口が見えた。
光。
村側の開けた空間。
そこまで来て、ようやく三人は足を速めた。
村の見張りがこちらに気づく。
「戻ったぞ!」
声が広がる。
ミナが走ってくる。
「遅いよ!」
「時間内だ」
「心配した!」
「それは悪い」
「で、何見たの」
相沢は息を整える。
「燃えてたのは村じゃない」
ミナの顔が少しだけ緩む。
だが相沢は続けた。
「道の途中の荷車か、
荷を置く場所みたいなものだと思う」
「それって……」
「助けを呼ぶ道を潰してる」
ミナの表情が固まる。
ガンツが低く言った。
「ゴブリンもいた。
見てた。
追ってきたが、襲っては来なかった」
「何で」
相沢は西の森を振り返る。
「こっちが何人出すか。
どう戻るか。
村がどう動くか。
見てた」
ミナが黙る。
村長も近づいていた。
リリアも簡易小屋の前からこちらを見ている。
相沢は短く言う。
「煙は、
火事じゃなくて合図かもしれない」
「合図?」
「こっちを動かすための」
その瞬間。
東柵の方から鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
村の空気が変わる。
ガンツが歯を食いしばる。
「来たか」
相沢は走り出す前に、ミナを見る。
「ミナ」
「何」
「村側、
お前が先に声出せ」
ミナが一瞬だけ目を見開く。
でも。
すぐに頷いた。
「分かった!」
ミナが振り向き、叫ぶ。
「東に寄りすぎ!
西、空けない!
火台の水はそのまま!
怪我人はリリア!
走る人と見る人、
混ざらないで!」
声が飛ぶ。
人が動く。
相沢はそれを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
その時。
⸻
【役割分担:維持】
【単独負担:軽減】
⸻
「今それ褒めてる場合か」
相沢は走りながら呟いた。
東柵の向こう。
森の奥から。
低い咆哮が聞こえた。
朝より近い。
そして。
その声に混じって。
焦げた匂いが、また風に乗ってきた。




