第二十八話 余計なお世話
【火曜日 18:16/食品メーカー大阪支店】
会議室を出たあとも。
課長の言葉が残っていた。
便利な奴ほど潰れる。
嫌な言葉だった。
嫌なのに。
妙に正しい。
相沢は自席へ戻り、パソコンを開く。
メール。
見積依頼。
棚替え資料。
得意先からの催促。
社内チャット。
いつもの火曜日の残骸が、画面の中に積み上がっていた。
「……帰りたい」
小さく言った。
誰にも聞こえない程度に。
いや。
聞こえたら負けだ。
そう思った瞬間。
視界の端。
⸻
【疲労蓄積:中】
【休息推奨】
⸻
「だからやめろって……」
思わず声が出た。
隣の席の営業社員が顔を上げる。
「相沢さん、何か言いました?」
「独り言」
「疲れてます?」
「普通」
「普通って顔じゃないっすよ」
最近。
それをよく言われる。
普通。
便利な言葉だった。
仕事でも。
生活でも。
自分をごまかす時でも。
◇
【火曜日 18:43/食品メーカー大阪支店】
「相沢さん」
坂口が近づいてきた。
手には資料。
嫌な予感。
「これ、明日の北エリアの販促一覧なんですけど」
「明日でいい」
「え」
「今日は見ない」
坂口が固まった。
「珍しいですね」
「珍しくない」
「いつもなら、ぱっと見て赤入れてくれるじゃないですか」
「ぱっと見たら帰れなくなる」
「あー……」
坂口は少し困った顔をする。
相沢は資料へ視線を落とした。
見た。
見てしまった。
特売平台。
飲料の積み位置。
冷ケース前の空き。
明日の雨予報。
客数。
詰まる場所。
頭の中で勝手に繋がる。
その瞬間。
⸻
【翌日混雑予測:中】
【要因】
・雨天
・特売平台集中
・冷ケース前導線狭小
⸻
「……見せるな」
「え?」
「いや、こっちの話」
坂口は目を瞬かせる。
「やっぱ見てもらった方がいいですか?」
「いや」
相沢は資料を押し返した。
「坂口」
「はい」
「自分で三つに分けろ」
「三つ?」
「売りたい場所」
「はい」
「詰まりそうな場所」
「はい」
「店長に怒られそうな場所」
「最後だけ雑じゃないですか?」
「一番大事だ」
坂口は苦笑した。
「分かりました。やってみます」
「やってから持ってこい。今日は見るだけにする」
「赤入れは?」
「明日」
「了解です」
坂口が戻っていく。
相沢は椅子にもたれた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
自分で全部見なかった。
それだけなのに、妙に落ち着かなかった。
◇
【火曜日 19:12/食品メーカー大阪支店】
支店内の人は減っていた。
コピー機の音。
キーボードの音。
電話の音は、少しだけ少ない。
相沢は残ったメールを処理していた。
だが。
頭の隅に村がある。
火。
倉庫。
井戸。
北側柵。
見張り台。
ミナ。
ガンツ。
リリア。
村長。
あの村は今、夜だろうか。
いや。
向こうの時間とこちらの時間は同じはずだ。
なら。
火曜日の夜。
相沢がいない村の火曜日。
誰が倉庫を見ている。
誰が見張り台にいる。
ミナは走り過ぎていないか。
リリアは薬草をちゃんと乾かせているか。
ガンツは寝ているか。
村長は帳簿を抱え込んでいないか。
考え出すと止まらない。
その時。
⸻
【思考負荷:上昇】
⸻
「……もう黙れ」
相沢は額を押さえた。
システムは答えない。
ただ表示する。
それが腹立たしい。
人の心配を勝手に数値にするな。
そう思った。
だが。
便利だった。
便利だから腹立たしい。
◇
【火曜日 19:38/食品メーカー大阪支店】
「相沢」
課長が上着を持って立っていた。
「まだいたのか」
「もう帰ります」
「今すぐ帰れ」
「はい」
「はいじゃなくて、今」
課長は時計を見る。
「お前、今日もう十分働いた」
「まだメールが」
「明日で死ぬメールか?」
「多分死にません」
「じゃあ帰れ」
正論だった。
相沢はパソコンを閉じる。
課長は少しだけ声を落とした。
「さっきの話、冗談じゃねぇからな」
「便利な奴ほど潰れる、ですか」
「そう」
課長は営業フロアを見る。
「仕事できる奴に仕事が集まる」
「はい」
「で、周りは悪気なく頼る」
「はい」
「本人も、悪気なく受ける」
相沢は黙る。
「それで潰れる」
課長は短く言った。
「俺も何人か見た」
その言い方は重かった。
営業成績。
担当店舗。
クレーム対応。
急な欠員。
棚替え。
配送トラブル。
全部、誰かが拾う。
拾える人間に集まる。
それは異世界でも同じだった。
村で。
自分は。
どれだけ拾っていたのだろう。
「……気をつけます」
「それ、気をつけない奴の返事だぞ」
「ですね」
「分かってるなら帰れ」
「帰ります」
相沢は鞄を持った。
支店を出る直前、坂口が顔を上げる。
「相沢さん、お疲れ様です!」
「お疲れ」
「明日の資料、自分で分けときます!」
「ああ」
「でも分かんなかったら送っていいですか?」
「緊急なら」
「緊急の基準は?」
「店長が怒鳴る一歩前」
「難しいっすね!」
「現場は大体難しい」
坂口が笑う。
その笑い声を背中に、相沢は支店を出た。
◇
【火曜日 20:06/大阪・駅前】
雨は弱くなっていた。
傘を差すほどではない。
だが、地面は濡れている。
駅前のスーパーから、人が流れてくる。
仕事帰り。
学生。
主婦。
老人。
人の流れ。
傘。
自転車。
買い物袋。
相沢は無意識に見てしまう。
入口前で詰まる人。
レジ袋を詰める台の位置。
駐輪場の角。
出入口の幅。
通路の死角。
その瞬間。
⸻
【歩行導線:軽度混雑】
【接触リスク:低】
⸻
「駅前まで見るなよ……」
相沢は小さく呟いた。
もう仕事でもない。
村でもない。
ただの駅前だ。
それなのに。
見えてしまう。
止まりかける場所。
ぶつかりそうな場所。
困っている人。
苛立っている人。
疲れている人。
見えない方が、楽だった。
たぶん。
◇
【火曜日 20:24/コンビニ】
夕飯を買うためにコンビニへ入った。
弁当。
おにぎり。
サラダ。
カップ味噌汁。
いつもの選択肢。
相沢は弁当棚の前で止まる。
値引きシール。
売れ残り。
補充位置。
客の手の伸び方。
棚の前で、少しだけ人が詰まっている。
平台ではない。
棚。
狭い導線。
弁当を選ぶ客が長く止まる。
後ろを通る客が避ける。
小さな詰まり。
現代なら誰かが直す。
たぶん。
明日には。
いや、直らないかもしれない。
相沢は弁当を一つ取った。
何も言わない。
言う立場ではない。
仕事でもない。
それでも気になる。
その時。
⸻
【介入不要】
⸻
「……」
相沢は無言で表示を見た。
初めてだった。
何かを勧めるのではなく。
止められた。
「本当に生活指導か」
小さく言う。
近くの客がちらっと見る。
相沢は何でもない顔でレジへ向かった。
◇
【火曜日 21:03/大阪・ワンルーム】
部屋に帰る。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
ネクタイを緩める。
蛍光灯をつける。
狭い部屋。
ベッド。
机。
洗濯物。
コンビニ袋。
現代の生活。
相沢は手を洗おうとして、ふと爪を見る。
もう落としたと思っていた。
だが。
爪の端に、ほんの少しだけ茶色いものが残っていた。
土。
異世界の土。
相沢は水を出す。
指先を洗う。
水が流れる。
土が消える。
消えてしまう。
それを見て、少しだけ胸が詰まった。
変だと思う。
土だ。
ただの土だ。
だが。
あの村にいた証拠でもあった。
ミナが走っていた道。
ガンツが立っていた柵。
リリアが薬草を干していた棚。
村長が帳簿を開いていた倉庫。
そのどこかの土。
相沢は蛇口を止めた。
「……何やってんだ、俺」
答えはない。
あるのは、冷えた弁当と、明日の仕事だけだ。
◇
【火曜日 21:31/ワンルーム】
弁当を食べる。
味は分かる。
でも薄い。
いや。
味が薄いわけではない。
頭が別の場所にある。
村の食事を思い出す。
硬いパン。
薄いスープ。
焼いた芋。
不便だった。
不十分だった。
なのに。
あの広場で食べた飯の方が、妙に残っている。
ミナの声。
子供の笑い声。
ガンツの大声。
リリアの静かな笑み。
村長の疲れた顔。
火の匂い。
煙。
土。
獣の声。
全部、現代の部屋にはない。
相沢は箸を置く。
スマホを見る。
圏外ではない。
通知がある。
社内チャット。
販促資料。
ニュース。
天気。
現代は繋がっている。
繋がりすぎている。
それなのに。
一番気になる村には、何も届かない。
「……無事でいろよ」
誰に向けたのか分からない声。
部屋に落ちた。
その時。
視界の端。
⸻
【精神負荷:微増】
【休息推奨】
⸻
「分かってる」
相沢は短く言った。
分かっている。
寝た方がいい。
休んだ方がいい。
考えても仕方がない。
全部、正しい。
正しいから。
腹が立つ。
◇
【火曜日 22:18/ワンルーム】
シャワーを浴びる。
湯が肩に当たる。
思ったより体が重い。
筋肉痛。
営業車。
売場。
階段。
村で走った分。
全部が混ざっている。
相沢は壁に手をついた。
目を閉じる。
暗い森。
柵の穴。
ゴブリンの目。
村人の悲鳴。
売場のクレーム。
配送遅延。
課長の声。
七瀬の顔。
坂口の焦った声。
ミナの声。
リリアの声。
ガンツの笑い声。
多い。
多すぎる。
頭の中で、全部が同じ場所に積まれている。
仕分けされていない在庫みたいに。
「……最悪だな」
自分の頭まで倉庫扱いしている。
相沢はシャワーを止めた。
◇
【火曜日 23:04/ワンルーム】
ベッドに倒れる。
今度こそ寝る。
スマホのアラームを確認する。
六時三十分。
いつもの時間。
画面に自分の顔が映る。
ひどい顔だ。
課長が言った通り。
普通ではないかもしれない。
でも。
普通ではないと言ったところで。
明日は来る。
仕事も来る。
たぶん、トラブルも来る。
相沢は目を閉じた。
その直前。
視界の端に、また表示。
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【睡眠不足リスク:中】
【推奨睡眠時間:7時間】
⸻
「うるさい」
相沢は布団をかぶった。
少しして。
また表示。
⸻
【現在確保可能睡眠時間:7時間26分】
⸻
「細かい」
返事はない。
相沢は息を吐いた。
便利だ。
本当に便利だ。
便利すぎる。
だからこそ。
少し怖い。
自分の生活まで。
自分の疲れまで。
自分の気持ちまで。
全部、見られている気がする。
それでも。
目を閉じる。
村の火が、まぶたの裏に残っていた。
現代の蛍光灯より。
ずっと頼りない火。
頼りないのに。
消えてほしくない火。
「……まだ、戻る」
小さく呟く。
誰にも聞こえない。
システムにも。
たぶん。
聞こえなくていい。
相沢はようやく眠りに落ちた。




