第百九話 残された役
【水曜日 7:26/大阪・自室】
相沢は、出社の準備をしていた。
腹の痛みは、かなり引いている。
歩ける。
階段も使える。
長く座っても、昨日ほど響かない。
だが、体の奥にはまだ違和感があった。
傷はない。
なのに、傷の場所だけが覚えている。
相沢はシャツの腹を押さえた。
赤ゴブリンの爪。
裂けた鞄。
落ちた小板。
ミナの声。
火、水、呼ぶ。
戻れ。
相沢は目を閉じた。
戻れなかった。
いや、戻らなかった。
そこはまだ、言い換えてはいけない。
スマホを見る。
七瀬から朝のメッセージが来ていた。
『今日も無理しないでください。出社するなら、定時前提で』
相沢は短く返す。
『今日は定時前提で行きます』
すぐ既読がつく。
『前提ではなく予定にしてください』
相沢は少しだけ笑った。
『定時で帰る予定です』
『よろしいです』
得意先に、朝から勤務管理をされている。
普通ではない。
だが、その普通ではなさが、今は少し助かる。
相沢は鞄を持った。
仮の鞄。
元の営業鞄はない。
村に残った。
中身も、向こうに残った。
袋。
油性ペン。
小板。
塩飴。
乾燥わかめ。
計量スプーン。
どれも少量だった。
だが、村には残った。
相沢は玄関で靴を履く。
この靴は、転移で履いていたはずの靴ではない。
戻った時、靴は消えていた。
いや、正確には履いていなかった。
転移処理が、どこまで持ち帰ったのか分からない。
異常帰還。
未確定。
照合不能。
相沢は立ち上がった。
考えても、今は答えが出ない。
今日は会社へ行く。
ただし、全部は抱えない。
その予定だった。
◇
【水曜日 7:41/広場中央】
ミナは、点を残したまま朝の板を描いた。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
その五つの横に、今日は新しく小さな印を足した。
森を見る者。
ただし、大きくしない。
仕事の下に置く。
森だけを全員が見ないように。
呼ぶ役が聞く。
「森、今日は二回?」
「うん。朝と昼前」
「食べ物、増える?」
「まだ分からない」
「でも、昨日の葉は?」
「候補」
「候補」
呼ぶ役は頷く。
もう覚えている。
食料ではない。
食料候補。
食べられるかもしれないもの。
食べていいものではない。
その違いを、広場が少しずつ覚え始めている。
ミナは端の点を見た。
昨日、少し端に寄せた。
点の横に、座る場所の線もある。
戻ったら座らせる。
マルタが言った。
ミナもそう思った。
戻ったら、まず座らせる。
怒る。
泣く。
殴るのはガンツ。
治すのはリリア。
見るのはダリオ。
井戸はハルト。
倉庫はマルタ。
広場は、自分。
そこまで考えて、ミナは息を止めた。
戻ったら。
自然にそう考えていた。
戻るかどうかは分からない。
でも、戻る場所は残っている。
呼ぶ役が小さく言う。
「点、今日は黒いね」
「昨日、何回も触ったから」
「消えない?」
「消さない」
ミナは木炭を置いた。
「消えそうになったら、描き直す」
◇
【水曜日 9:18/会社】
相沢は、メールを三つに分けた。
今日返すもの。
若手へ渡すもの。
明日に回すもの。
以前なら、今日返すものを増やしていた。
今は、明日に回すものを意識して残す。
簡単ではない。
残すのは、怖い。
未処理が見える。
遅れている気がする。
だが、残さなければ全部が今日に集まる。
全部が今日に集まれば、自分が潰れる。
それはもう、村でも会社でも同じだった。
若手が横から覗く。
「今日、ほんとに絞ってますね」
「絞る」
「D店資料は?」
「午前中に一回見る。仕上げは明日」
「今日終わらせなくていいんですか」
「いい」
若手は少し驚いた顔をした。
「相沢さんが言うと説得力ありますね」
「今までが悪かっただけだ」
「自覚あるんですね」
「少しな」
相沢は資料を開いた。
若手の修正は、やはり荒い。
だが、骨は残っている。
売場作業の負担軽減。
補充判断。
誤認防止。
POPと作業用目印の分離。
この四つで十分だった。
提案商品を増やす必要はない。
資料を派手にする必要もない。
相手が使える形にする。
自分が説明しなくても、現場が動ける形にする。
相沢は、その一文を書いた。
担当者不在時も、現場が迷わない表示設計。
書いてから、手が止まった。
担当者不在時。
アイザワ不在時。
現場が迷わない表示設計。
相沢は一度、目を閉じた。
混ぜるな。
だが、切り離すな。
現代で使えるなら、使え。
異世界で得たものを、現代から逃げる言い訳にするな。
相沢は資料に戻った。
◇
【水曜日 10:06/西の倒木】
森を見る組は、昨日と同じ場所へ入った。
ダリオ。
村の男。
避難民の男。
今日は、もう一人増やしていない。
増やさないことを、村長が決めた。
森はまだ完全には戻っていない。
鳥はいる。
虫もいる。
だが、ところどころで沈黙が残っている。
赤ゴブリンの気配ではない。
赤が荒らした後の、空白のようなものだった。
ダリオは足跡を見た。
小ゴブリンの足跡はある。
だが、新しくない。
散っている。
集まってはいない。
「今日は、葉を少し多めに」
避難民の男が言う。
ダリオは首を振る。
「昨日と同じ」
「でも、食べられそうなら」
「昨日と同じ」
男は口を閉じた。
焦りが顔に出ている。
家族が腹を空かせている。
子供がいる。
早く持ち帰りたい。
分かる。
だが、そこで増やすと、森を見る目が食料だけになる。
食料だけを見ると、足元を見落とす。
ダリオは地面を指した。
細い糸のような蔓。
足首にかかる位置。
自然のものかもしれない。
罠かもしれない。
赤が死ぬ前に残したものかもしれない。
分からない。
「これを見る前に、葉を取ろうとした」
避難民の男の顔色が変わった。
「すみません」
「謝るより見る」
「はい」
村の男が棒で蔓を外す。
何も起きない。
ただの蔓。
だが、確認した。
それでいい。
ダリオは葉を少しだけ取る。
実を二つ。
昨日印をつけた根の場所は、まだ掘らない。
「戻る」
ダリオが言う。
今日は、誰も反論しなかった。
◇
【水曜日 11:32/会社】
七瀬から電話が入った。
D店資料の件だった。
相沢は会議スペースに移る。
「お世話になっております。相沢です」
『お世話になっております。体調はどうですか』
「昨日よりは戻っています」
『今日は何時に帰る予定ですか』
「定時です」
『予定ですね』
「予定です」
『よしとします』
相沢は少し笑った。
「資料の件ですよね」
『はい。若手さんが送ってくださった仮版、見ました』
「早いですね」
『売場の話なので』
「どうでした?」
『方向はいいです。相沢さんが作ったものより、少し言葉が素直かもしれません』
「それは褒めています?」
『半分』
「もう半分は」
『相沢さんは、最近、考えが重いです』
相沢は黙った。
『悪い意味だけではないです。現場の迷いを減らす視点はかなり良くなっています。でも、資料の言葉まで重くなると、店長が構えます』
「なるほど」
『若手さんの文は、少し粗いです。でも、現場には入りやすい』
「じゃあ、骨は残して、言葉を軽くします」
『それがいいと思います』
七瀬は少し間を置いた。
『相沢さん』
「はい」
『本当に、無理してません?』
「今日は午前で切る予定ではなく、定時で帰る予定です」
『それ、無理してない証明ではないです』
「確かに」
『腹痛は?』
「少しだけ」
『少しだけ、を信用していいか迷います』
「昨日よりは本当にましです」
『ならいいです。でも、定時です』
「はい」
『あと、昼は食べてください』
「分かっています」
『分かってる人はよく抜きます』
「今日は食べます」
『なら、よしです』
電話を切った後、相沢はしばらくスマホを見ていた。
七瀬は何も知らない。
だが、こちら側の線を引いている。
定時。
昼食。
腹痛。
休息。
現代側の板。
相沢は、ノートではなく資料に戻った。
◇
【水曜日 12:14/広場中央】
昼の粥には、少しだけ葉が入った。
全員ではない。
大人の一部。
見張り。
井戸。
森を見る組。
病人と子供には入れない。
マルタが説明した。
「今日は、少しだけ入れる。食べた者は、腹がおかしくなったらすぐ言いな。隠すな」
リリアが続ける。
「腹痛、吐き気、熱、手足のしびれ。小さくても言ってください」
ハルトが井戸から言う。
「水は決めた量で出す。腹がおかしい者が出たら、先に治療所へ回す」
ミナは板を指す。
「食料候補は、今日少しだけ。勝手に取らない。勝手に食べない」
呼ぶ役が繰り返す。
「勝手に取らない。勝手に食べない」
粥は苦かった。
葉の匂いがある。
食べた男の一人が顔をしかめる。
「まずい」
マルタがすぐ言う。
「まずいなら、まだましだよ。毒なら文句も言えない」
広場に少しだけ笑いが起きた。
昨日より、笑いが戻るのが早い。
ミナはその音を聞いた。
広場が、少し戻ってきている。
でも、戻る場所の点は、まだ端にある。
それは消えない。
◇
【水曜日 13:02/会社・休憩スペース】
相沢は、昼を食べた。
コンビニのおにぎり。
味噌汁。
ヨーグルト。
いつもなら、資料を見ながら済ませる。
今日は、資料を閉じた。
食べる時は、食べる。
七瀬に言われたからではない。
いや、言われたからだ。
相沢はおにぎりを見た。
白い米。
海苔。
鮭。
簡単に買える。
棚に並んでいる。
廃棄されることもある。
村では、粥が薄い。
葉を少し入れただけで、全員が見ている。
相沢は、包装を丁寧に開けた。
食べる。
残さない。
味噌汁を飲む。
水も飲む。
腹は少し痛むが、食べられる。
若手が横に座った。
「相沢さん、今日はちゃんと昼食べてますね」
「今日は?」
「いつもは仕事しながら食べてます」
「見られてるな」
「そりゃ見ますよ。最近、怖いくらい働いてたんで」
「怖いくらいか」
「はい。なんか、急に全部背負ってる人みたいな」
相沢は箸を止めた。
「そう見えてたか」
「見えてました」
「よくないな」
「よくないです」
若手は味噌汁を飲んだ。
「でも、今日は普通です」
「普通か」
「はい。ちょっと疲れてる普通の人です」
相沢は少しだけ笑った。
それは、悪くない評価だった。
◇
【水曜日 15:27/治療所】
葉を食べた者のうち、一人が腹を押さえた。
軽い腹痛。
すぐ治療所に来た。
隠さなかった。
それだけで、リリアは少し安心した。
「どれくらいですか」
「少し痛い。動ける」
「吐き気は」
「ない」
「しびれは」
「ない」
「熱は」
「ないと思う」
「座ってください」
男は座る。
リリアは水を少し飲ませる。
すぐに食べ物を増やさない。
様子を見る。
マルタが来た。
「葉かい」
「分かりません。空腹と疲れもあります」
「じゃあ、今日の追加は止める」
「はい」
マルタは即断した。
広場へ戻る。
ミナへ伝える。
ミナは板の前で頷いた。
「食料候補、一度止める」
呼ぶ役が広場へ返す。
「葉を食べた人に腹痛! 今日の追加は止める! マルタさんとリリアさんが見る!」
広場がざわつく。
「やっぱり毒か」
「食えないのか」
「どうするんだ」
マルタが怒鳴る。
「だから止めたんだよ! 騒いでも腹は治らない!」
リリアが治療所前から言う。
「まだ毒とは決めません。体調を見ます」
ミナが続ける。
「決めない! 止める! 見る!」
呼ぶ役が繰り返す。
「決めない! 止める! 見る!」
ざわめきが少しずつ下がる。
失敗ではない。
止められた。
隠さず言えた。
広場に返せた。
ミナは、そう考えた。
それも、運用だった。
◇
【水曜日 17:36/会社】
相沢は、定時で帰る準備をした。
本当に、定時。
残りのメールは明日。
D店資料も明日。
見積もりも一件残す。
若手が見ている。
「本当に帰る」
「帰る」
「すごい」
「すごいことじゃない」
「相沢さん基準ではすごいです」
上司も声をかけてきた。
「相沢、今日は帰れよ」
「はい。帰ります」
「資料は明日でいい。先方にも無理する案件じゃない」
「分かりました」
「あと、体調悪いなら明日も調整しろ」
「はい」
相沢は、鞄を持った。
帰る。
仕事を残して。
人に渡して。
定時で。
それだけのことが、やけに難しかった。
会社を出る前に、七瀬へ短く送る。
『定時で帰ります』
すぐ返る。
『実績一件追加ですね』
相沢は画面を見て、少しだけ笑った。
◇
【水曜日 18:22/広場中央】
腹痛を訴えた男は、大きく悪化しなかった。
葉が原因かは分からない。
空腹かもしれない。
疲労かもしれない。
それでも、今日は追加しない。
明日、量をさらに減らして確認する。
マルタがそう決めた。
リリアも頷いた。
ミナは板に、候補の印を描かなかった。
描かないが、言葉では残す。
「食料候補は、今日は止める。明日また少し見る」
呼ぶ役が繰り返す。
広場は不安そうだった。
だが、昨日のようには崩れない。
失敗しても、止める手順がある。
止めても、終わりではない。
見る。
戻す。
また決める。
ミナは板の端の点を見た。
アイザワの点も、同じかもしれない。
戻らない。
でも、消して終わりではない。
分からないまま、置く。
それも、村が覚え始めている手順だった。
◇
【水曜日 21:44/大阪・自室】
相沢は、定時で帰った。
夕飯を食べた。
薬も飲んだ。
風呂は短く済ませた。
ノートは開いたが、長くは書かなかった。
今日の記録。
出社、定時退社。
D店資料、若手引き継ぎ。
接続基点、照合不能。
戻る場所、仮説。
そこまで。
それ以上は書かない。
相沢は布団に入った。
表示が出る。
⸻
【職務負荷:
軽減成功】
【休養:
必要】
【再転移条件:
未確定】
【接続基点:
照合不能】
【推奨:
睡眠】
⸻
「成功って言うのか」
相沢は呟いた。
小さな成功。
定時で帰った。
昼を食べた。
仕事を渡した。
たったそれだけ。
だが、村もそうだった。
火が消えなかった。
水が守られた。
呼ぶ声が残った。
小さな成功を積むしかなかった。
相沢は目を閉じた。
戻れない。
でも、向こうも続いているはずだ。
こちらも続ける。
今は、それしかできない。
◇
【水曜日 22:06/広場中央】
夜の板の端に、点がある。
ミナは、その点を指で触れた。
今日は、描き直さなくていい。
まだ残っている。
呼ぶ役が、隣で小さく言った。
「戻る場所」
ミナは頷いた。
「戻る場所」
「誰が決めたのかな」
「最初は、私」
「今は?」
ミナは少し考えた。
村長は消せと言わなかった。
マルタは端に寄せろと言った。
呼ぶ役は避けて板を描く。
リリアは治療所に不明を置いている。
ガンツは戻ったら殴ると言っている。
ダリオは森を見る。
ハルトは水を守る。
誰も、点を消していない。
ミナは答えた。
「今は、広場」
呼ぶ役は頷いた。
「広場の点」
「うん」
ミナは火を見た。
小さい。
でも、消えていない。
水を見た。
桶は決めた場所にある。
呼ぶ役を見る。
眠そうだが、立っている。
そして、点を見る。
戻る場所。
広場の端。
閉じていない役。
ミナは静かに言った。
「火、水、呼ぶ」
呼ぶ役が続ける。
「火、水、呼ぶ」
夜は続く。
アイザワは戻らない。
それでも、戻る場所は、村の中に残っていた。




