表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
109/110

第百九話 残された役

【水曜日 7:26/大阪・自室】


 相沢は、出社の準備をしていた。


 腹の痛みは、かなり引いている。


 歩ける。


 階段も使える。


 長く座っても、昨日ほど響かない。


 だが、体の奥にはまだ違和感があった。


 傷はない。


 なのに、傷の場所だけが覚えている。


 相沢はシャツの腹を押さえた。


 赤ゴブリンの爪。


 裂けた鞄。


 落ちた小板。


 ミナの声。


 火、水、呼ぶ。


 戻れ。


 相沢は目を閉じた。


 戻れなかった。


 いや、戻らなかった。


 そこはまだ、言い換えてはいけない。


 スマホを見る。


 七瀬から朝のメッセージが来ていた。


『今日も無理しないでください。出社するなら、定時前提で』


 相沢は短く返す。


『今日は定時前提で行きます』


 すぐ既読がつく。


『前提ではなく予定にしてください』


 相沢は少しだけ笑った。


『定時で帰る予定です』


『よろしいです』


 得意先に、朝から勤務管理をされている。


 普通ではない。


 だが、その普通ではなさが、今は少し助かる。


 相沢は鞄を持った。


 仮の鞄。


 元の営業鞄はない。


 村に残った。


 中身も、向こうに残った。


 袋。


 油性ペン。


 小板。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 計量スプーン。


 どれも少量だった。


 だが、村には残った。


 相沢は玄関で靴を履く。


 この靴は、転移で履いていたはずの靴ではない。


 戻った時、靴は消えていた。


 いや、正確には履いていなかった。


 転移処理が、どこまで持ち帰ったのか分からない。


 異常帰還。


 未確定。


 照合不能。


 相沢は立ち上がった。


 考えても、今は答えが出ない。


 今日は会社へ行く。


 ただし、全部は抱えない。


 その予定だった。


     ◇


【水曜日 7:41/広場中央】


 ミナは、点を残したまま朝の板を描いた。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 その五つの横に、今日は新しく小さな印を足した。


 森を見る者。


 ただし、大きくしない。


 仕事の下に置く。


 森だけを全員が見ないように。


 呼ぶ役が聞く。


「森、今日は二回?」


「うん。朝と昼前」


「食べ物、増える?」


「まだ分からない」


「でも、昨日の葉は?」


「候補」


「候補」


 呼ぶ役は頷く。


 もう覚えている。


 食料ではない。


 食料候補。


 食べられるかもしれないもの。


 食べていいものではない。


 その違いを、広場が少しずつ覚え始めている。


 ミナは端の点を見た。


 昨日、少し端に寄せた。


 点の横に、座る場所の線もある。


 戻ったら座らせる。


 マルタが言った。


 ミナもそう思った。


 戻ったら、まず座らせる。


 怒る。


 泣く。


 殴るのはガンツ。


 治すのはリリア。


 見るのはダリオ。


 井戸はハルト。


 倉庫はマルタ。


 広場は、自分。


 そこまで考えて、ミナは息を止めた。


 戻ったら。


 自然にそう考えていた。


 戻るかどうかは分からない。


 でも、戻る場所は残っている。


 呼ぶ役が小さく言う。


「点、今日は黒いね」


「昨日、何回も触ったから」


「消えない?」


「消さない」


 ミナは木炭を置いた。


「消えそうになったら、描き直す」


     ◇


【水曜日 9:18/会社】


 相沢は、メールを三つに分けた。


 今日返すもの。


 若手へ渡すもの。


 明日に回すもの。


 以前なら、今日返すものを増やしていた。


 今は、明日に回すものを意識して残す。


 簡単ではない。


 残すのは、怖い。


 未処理が見える。


 遅れている気がする。


 だが、残さなければ全部が今日に集まる。


 全部が今日に集まれば、自分が潰れる。


 それはもう、村でも会社でも同じだった。


 若手が横から覗く。


「今日、ほんとに絞ってますね」


「絞る」


「D店資料は?」


「午前中に一回見る。仕上げは明日」


「今日終わらせなくていいんですか」


「いい」


 若手は少し驚いた顔をした。


「相沢さんが言うと説得力ありますね」


「今までが悪かっただけだ」


「自覚あるんですね」


「少しな」


 相沢は資料を開いた。


 若手の修正は、やはり荒い。


 だが、骨は残っている。


 売場作業の負担軽減。


 補充判断。


 誤認防止。


 POPと作業用目印の分離。


 この四つで十分だった。


 提案商品を増やす必要はない。


 資料を派手にする必要もない。


 相手が使える形にする。


 自分が説明しなくても、現場が動ける形にする。


 相沢は、その一文を書いた。


 担当者不在時も、現場が迷わない表示設計。


 書いてから、手が止まった。


 担当者不在時。


 アイザワ不在時。


 現場が迷わない表示設計。


 相沢は一度、目を閉じた。


 混ぜるな。


 だが、切り離すな。


 現代で使えるなら、使え。


 異世界で得たものを、現代から逃げる言い訳にするな。


 相沢は資料に戻った。


     ◇


【水曜日 10:06/西の倒木】


 森を見る組は、昨日と同じ場所へ入った。


 ダリオ。


 村の男。


 避難民の男。


 今日は、もう一人増やしていない。


 増やさないことを、村長が決めた。


 森はまだ完全には戻っていない。


 鳥はいる。


 虫もいる。


 だが、ところどころで沈黙が残っている。


 赤ゴブリンの気配ではない。


 赤が荒らした後の、空白のようなものだった。


 ダリオは足跡を見た。


 小ゴブリンの足跡はある。


 だが、新しくない。


 散っている。


 集まってはいない。


「今日は、葉を少し多めに」


 避難民の男が言う。


 ダリオは首を振る。


「昨日と同じ」


「でも、食べられそうなら」


「昨日と同じ」


 男は口を閉じた。


 焦りが顔に出ている。


 家族が腹を空かせている。


 子供がいる。


 早く持ち帰りたい。


 分かる。


 だが、そこで増やすと、森を見る目が食料だけになる。


 食料だけを見ると、足元を見落とす。


 ダリオは地面を指した。


 細い糸のような蔓。


 足首にかかる位置。


 自然のものかもしれない。


 罠かもしれない。


 赤が死ぬ前に残したものかもしれない。


 分からない。


「これを見る前に、葉を取ろうとした」


 避難民の男の顔色が変わった。


「すみません」


「謝るより見る」


「はい」


 村の男が棒で蔓を外す。


 何も起きない。


 ただの蔓。


 だが、確認した。


 それでいい。


 ダリオは葉を少しだけ取る。


 実を二つ。


 昨日印をつけた根の場所は、まだ掘らない。


「戻る」


 ダリオが言う。


 今日は、誰も反論しなかった。


     ◇


【水曜日 11:32/会社】


 七瀬から電話が入った。


 D店資料の件だった。


 相沢は会議スペースに移る。


「お世話になっております。相沢です」


『お世話になっております。体調はどうですか』


「昨日よりは戻っています」


『今日は何時に帰る予定ですか』


「定時です」


『予定ですね』


「予定です」


『よしとします』


 相沢は少し笑った。


「資料の件ですよね」


『はい。若手さんが送ってくださった仮版、見ました』


「早いですね」


『売場の話なので』


「どうでした?」


『方向はいいです。相沢さんが作ったものより、少し言葉が素直かもしれません』


「それは褒めています?」


『半分』


「もう半分は」


『相沢さんは、最近、考えが重いです』


 相沢は黙った。


『悪い意味だけではないです。現場の迷いを減らす視点はかなり良くなっています。でも、資料の言葉まで重くなると、店長が構えます』


「なるほど」


『若手さんの文は、少し粗いです。でも、現場には入りやすい』


「じゃあ、骨は残して、言葉を軽くします」


『それがいいと思います』


 七瀬は少し間を置いた。


『相沢さん』


「はい」


『本当に、無理してません?』


「今日は午前で切る予定ではなく、定時で帰る予定です」


『それ、無理してない証明ではないです』


「確かに」


『腹痛は?』


「少しだけ」


『少しだけ、を信用していいか迷います』


「昨日よりは本当にましです」


『ならいいです。でも、定時です』


「はい」


『あと、昼は食べてください』


「分かっています」


『分かってる人はよく抜きます』


「今日は食べます」


『なら、よしです』


 電話を切った後、相沢はしばらくスマホを見ていた。


 七瀬は何も知らない。


 だが、こちら側の線を引いている。


 定時。


 昼食。


 腹痛。


 休息。


 現代側の板。


 相沢は、ノートではなく資料に戻った。


     ◇


【水曜日 12:14/広場中央】


 昼の粥には、少しだけ葉が入った。


 全員ではない。


 大人の一部。


 見張り。


 井戸。


 森を見る組。


 病人と子供には入れない。


 マルタが説明した。


「今日は、少しだけ入れる。食べた者は、腹がおかしくなったらすぐ言いな。隠すな」


 リリアが続ける。


「腹痛、吐き気、熱、手足のしびれ。小さくても言ってください」


 ハルトが井戸から言う。


「水は決めた量で出す。腹がおかしい者が出たら、先に治療所へ回す」


 ミナは板を指す。


「食料候補は、今日少しだけ。勝手に取らない。勝手に食べない」


 呼ぶ役が繰り返す。


「勝手に取らない。勝手に食べない」


 粥は苦かった。


 葉の匂いがある。


 食べた男の一人が顔をしかめる。


「まずい」


 マルタがすぐ言う。


「まずいなら、まだましだよ。毒なら文句も言えない」


 広場に少しだけ笑いが起きた。


 昨日より、笑いが戻るのが早い。


 ミナはその音を聞いた。


 広場が、少し戻ってきている。


 でも、戻る場所の点は、まだ端にある。


 それは消えない。


     ◇


【水曜日 13:02/会社・休憩スペース】


 相沢は、昼を食べた。


 コンビニのおにぎり。


 味噌汁。


 ヨーグルト。


 いつもなら、資料を見ながら済ませる。


 今日は、資料を閉じた。


 食べる時は、食べる。


 七瀬に言われたからではない。


 いや、言われたからだ。


 相沢はおにぎりを見た。


 白い米。


 海苔。


 鮭。


 簡単に買える。


 棚に並んでいる。


 廃棄されることもある。


 村では、粥が薄い。


 葉を少し入れただけで、全員が見ている。


 相沢は、包装を丁寧に開けた。


 食べる。


 残さない。


 味噌汁を飲む。


 水も飲む。


 腹は少し痛むが、食べられる。


 若手が横に座った。


「相沢さん、今日はちゃんと昼食べてますね」


「今日は?」


「いつもは仕事しながら食べてます」


「見られてるな」


「そりゃ見ますよ。最近、怖いくらい働いてたんで」


「怖いくらいか」


「はい。なんか、急に全部背負ってる人みたいな」


 相沢は箸を止めた。


「そう見えてたか」


「見えてました」


「よくないな」


「よくないです」


 若手は味噌汁を飲んだ。


「でも、今日は普通です」


「普通か」


「はい。ちょっと疲れてる普通の人です」


 相沢は少しだけ笑った。


 それは、悪くない評価だった。


     ◇


【水曜日 15:27/治療所】


 葉を食べた者のうち、一人が腹を押さえた。


 軽い腹痛。


 すぐ治療所に来た。


 隠さなかった。


 それだけで、リリアは少し安心した。


「どれくらいですか」


「少し痛い。動ける」


「吐き気は」


「ない」


「しびれは」


「ない」


「熱は」


「ないと思う」


「座ってください」


 男は座る。


 リリアは水を少し飲ませる。


 すぐに食べ物を増やさない。


 様子を見る。


 マルタが来た。


「葉かい」


「分かりません。空腹と疲れもあります」


「じゃあ、今日の追加は止める」


「はい」


 マルタは即断した。


 広場へ戻る。


 ミナへ伝える。


 ミナは板の前で頷いた。


「食料候補、一度止める」


 呼ぶ役が広場へ返す。


「葉を食べた人に腹痛! 今日の追加は止める! マルタさんとリリアさんが見る!」


 広場がざわつく。


「やっぱり毒か」


「食えないのか」


「どうするんだ」


 マルタが怒鳴る。


「だから止めたんだよ! 騒いでも腹は治らない!」


 リリアが治療所前から言う。


「まだ毒とは決めません。体調を見ます」


 ミナが続ける。


「決めない! 止める! 見る!」


 呼ぶ役が繰り返す。


「決めない! 止める! 見る!」


 ざわめきが少しずつ下がる。


 失敗ではない。


 止められた。


 隠さず言えた。


 広場に返せた。


 ミナは、そう考えた。


 それも、運用だった。


     ◇


【水曜日 17:36/会社】


 相沢は、定時で帰る準備をした。


 本当に、定時。


 残りのメールは明日。


 D店資料も明日。


 見積もりも一件残す。


 若手が見ている。


「本当に帰る」


「帰る」


「すごい」


「すごいことじゃない」


「相沢さん基準ではすごいです」


 上司も声をかけてきた。


「相沢、今日は帰れよ」


「はい。帰ります」


「資料は明日でいい。先方にも無理する案件じゃない」


「分かりました」


「あと、体調悪いなら明日も調整しろ」


「はい」


 相沢は、鞄を持った。


 帰る。


 仕事を残して。


 人に渡して。


 定時で。


 それだけのことが、やけに難しかった。


 会社を出る前に、七瀬へ短く送る。


『定時で帰ります』


 すぐ返る。


『実績一件追加ですね』


 相沢は画面を見て、少しだけ笑った。


     ◇


【水曜日 18:22/広場中央】


 腹痛を訴えた男は、大きく悪化しなかった。


 葉が原因かは分からない。


 空腹かもしれない。


 疲労かもしれない。


 それでも、今日は追加しない。


 明日、量をさらに減らして確認する。


 マルタがそう決めた。


 リリアも頷いた。


 ミナは板に、候補の印を描かなかった。


 描かないが、言葉では残す。


「食料候補は、今日は止める。明日また少し見る」


 呼ぶ役が繰り返す。


 広場は不安そうだった。


 だが、昨日のようには崩れない。


 失敗しても、止める手順がある。


 止めても、終わりではない。


 見る。


 戻す。


 また決める。


 ミナは板の端の点を見た。


 アイザワの点も、同じかもしれない。


 戻らない。


 でも、消して終わりではない。


 分からないまま、置く。


 それも、村が覚え始めている手順だった。


     ◇


【水曜日 21:44/大阪・自室】


 相沢は、定時で帰った。


 夕飯を食べた。


 薬も飲んだ。


 風呂は短く済ませた。


 ノートは開いたが、長くは書かなかった。


 今日の記録。


 出社、定時退社。


 D店資料、若手引き継ぎ。


 接続基点、照合不能。


 戻る場所、仮説。


 そこまで。


 それ以上は書かない。


 相沢は布団に入った。


 表示が出る。



【職務負荷:

 軽減成功】


【休養:

 必要】


【再転移条件:

 未確定】


【接続基点:

 照合不能】


【推奨:

 睡眠】



「成功って言うのか」


 相沢は呟いた。


 小さな成功。


 定時で帰った。


 昼を食べた。


 仕事を渡した。


 たったそれだけ。


 だが、村もそうだった。


 火が消えなかった。


 水が守られた。


 呼ぶ声が残った。


 小さな成功を積むしかなかった。


 相沢は目を閉じた。


 戻れない。


 でも、向こうも続いているはずだ。


 こちらも続ける。


 今は、それしかできない。


     ◇


【水曜日 22:06/広場中央】


 夜の板の端に、点がある。


 ミナは、その点を指で触れた。


 今日は、描き直さなくていい。


 まだ残っている。


 呼ぶ役が、隣で小さく言った。


「戻る場所」


 ミナは頷いた。


「戻る場所」


「誰が決めたのかな」


「最初は、私」


「今は?」


 ミナは少し考えた。


 村長は消せと言わなかった。


 マルタは端に寄せろと言った。


 呼ぶ役は避けて板を描く。


 リリアは治療所に不明を置いている。


 ガンツは戻ったら殴ると言っている。


 ダリオは森を見る。


 ハルトは水を守る。


 誰も、点を消していない。


 ミナは答えた。


「今は、広場」


 呼ぶ役は頷いた。


「広場の点」


「うん」


 ミナは火を見た。


 小さい。


 でも、消えていない。


 水を見た。


 桶は決めた場所にある。


 呼ぶ役を見る。


 眠そうだが、立っている。


 そして、点を見る。


 戻る場所。


 広場の端。


 閉じていない役。


 ミナは静かに言った。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が続ける。


「火、水、呼ぶ」


 夜は続く。


 アイザワは戻らない。


 それでも、戻る場所は、村の中に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。 続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ