第百八話 点は消えない
【火曜日 6:31/大阪・自室】
相沢は、いつもより早く目を覚ました。
腹の痛みは、まだある。
だが、昨日よりは軽い。
熱はない。
頭も少し戻っている。
それでも、体の奥には、ひどく疲れた芯が残っていた。
スマホを見る。
火曜日。
6:31。
大阪。
自室。
何も変わっていない。
いや、変わっていないように見えるだけだ。
相沢は、ゆっくり体を起こした。
昨日休んだ。
水を飲んだ。
薬も飲んだ。
食べた。
寝た。
七瀬にも報告した。
会社にも連絡した。
現代側でやるべきことは、最低限やった。
だから、今日は出社できる。
そう考えた瞬間、視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【対象:
相沢誠司】
【生命活動:
安定】
【疼痛:
軽中】
【職務復帰:
条件付き可】
【推奨:
負荷制限】
【再転移条件:
未確定】
【次回照合:
不能】
⸻
職務復帰、条件付き可。
再転移条件、未確定。
次回照合、不能。
現代の仕事には戻れる。
村には戻れない。
その差が、胸の奥で鈍く沈んだ。
「仕事は行けるのかよ」
相沢は呟いた。
表示は答えない。
相沢は布団から出た。
顔を洗う。
水が出る。
まだ、水を見るたびに井戸を思い出す。
蛇口の水は、透明で、冷たく、いくらでも出る。
ハルトの声が耳の奥に戻る。
水はまだ死んでない。
相沢は蛇口を閉めた。
出しっぱなしにしない。
それはもう、癖になっていた。
◇
【火曜日 7:08/広場中央】
ミナは、朝の板を描いていた。
火。
水。
呼ぶ。
夜の印を消す。
全部は消さない。
端の点は、そのまま残す。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
朝の五つを描く。
昨日より、広場は少しだけ落ち着いていた。
赤の声は来なかった。
夜も越えた。
森を見る組も戻った。
葉はまだ食料にはなっていない。
だが、可能性はある。
それだけで、人の顔は少し変わる。
空腹は消えない。
不安も消えない。
アイザワも戻らない。
それでも、朝は来る。
呼ぶ役が、点を見た。
「今日も残す?」
「残す」
ミナはすぐ答えた。
「村長に聞く?」
「聞かない」
「いいの?」
ミナは少し黙った。
それから、板の端を指で押さえた。
「消す時は、みんなで決める。でも、残すのは、今は私が決める」
「どうして?」
「私が置いたから」
呼ぶ役は頷いた。
分かったような、分からないような顔だった。
ミナも、完全には分かっていない。
ただ、消してはいけない。
それだけは分かる。
点は、広場の中心ではない。
火でもない。
水でもない。
呼ぶでもない。
人でも、食料でも、仕事でもない。
でも、消すと何かが閉じる。
そんな気がした。
◇
【火曜日 8:42/会社】
会社に着くと、若手がすぐ声をかけてきた。
「相沢さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
言ってから、相沢は自分で止まった。
大丈夫。
便利すぎる言葉だ。
七瀬に言えば、駄目な返事だと言われる。
「……昨日よりはましだ」
若手は少し驚いた顔をした。
「珍しいですね。相沢さんがそういう言い方するの」
「そうか」
「いつも、大丈夫です、で押し切るんで」
「押し切れてなかったらしい」
「七瀬さんにも怒られたんですか?」
相沢は少し止まる。
「怒られたというか、監視された」
「得意先に?」
「得意先に」
若手は苦笑した。
「相沢さん、何やってるんですか」
「俺もそう思う」
机に座る。
メールを開く。
通知が多い。
だが、思ったほど崩れていない。
若手が仮で整理している。
D店資料。
見積もり。
サンプル発送。
展示会後の礼メール。
全部、完璧ではない。
だが、動いている。
相沢は画面を見た。
自分が休んでも、会社は止まらなかった。
当たり前だ。
だが、その当たり前が、今は少し重い。
「昨日、ありがとう」
相沢が言うと、若手は目を丸くした。
「え、何ですか急に」
「資料、仮で整理してくれたんだろ」
「ああ、はい。相沢さんのメモ見ながらですけど」
「助かった」
若手は少し照れたように笑う。
「じゃあ、続きも見てもらっていいですか」
「ああ。ただ、今日は全部やらない」
「え?」
「今日は、負荷制限」
「病院で言われたんですか?」
「まあ、そんなところだ」
表示に言われたとは言えない。
だが、意味は同じだった。
◇
【火曜日 9:17/治療所】
ガンツは、座っていた。
寝ていろと言われた。
何度も言われた。
だが、座るところまでは許された。
立つことは許されていない。
リリアは、ガンツの肩の布を替えながら言った。
「立たないでください」
「立ってねぇ」
「立とうとしています」
「まだしてねぇ」
「目がしています」
ガンツは舌打ちした。
「お前、最近ずいぶん強くなったな」
「怪我人が言うことを聞かないからです」
「アイザワみたいなこと言いやがる」
リリアの手が一瞬止まる。
ガンツもそれに気づいた。
治療所の空気が、少しだけ沈む。
だが、リリアはすぐに手を動かした。
「似ているなら、なおさら聞いてください」
「……そう来るか」
「はい」
ガンツは黙った。
治療所の入口には、布が掛かっている。
見えすぎないように。
だが、声は少し届く。
広場の声。
火、水、呼ぶ。
人、水、食料、仕事、休む人。
アイザワがいなくても、広場は声を出している。
ガンツは、ぼそりと言った。
「戻ってきたら、殴る」
「昨日も聞きました」
「今日も言う」
「傷が開かない程度にしてください」
「殴るのは俺だ」
「その前に治ってください」
リリアは淡々と言った。
ガンツはまた黙った。
負けたような顔だった。
◇
【火曜日 10:32/会社・会議スペース】
D店資料の修正は、思ったより進んでいた。
若手が分類していた。
提案商品。
売場作業の負担軽減。
誤認防止。
担当者不在時の補充判断。
商品POP。
作業用目印。
相沢のメモをそのまま使ったような整理だった。
荒い。
言葉も少し固い。
だが、方向は合っている。
「これでいい」
相沢が言うと、若手は驚いた。
「直すところ多いと思ってました」
「直すところはある。でも、骨は合ってる」
「骨」
「骨組み」
「ああ」
相沢は資料を見ながら、赤ゴブリンの骨を思い出しそうになった。
すぐに止める。
混ぜるな。
今はD店資料。
村ではない。
だが、完全には切れない。
売場を回す表示。
村を回す印。
担当者不在でも回る仕組み。
アイザワ不在でも回る広場。
全部がつながっている。
「相沢さん?」
「悪い。少し止まった」
「やっぱり無理してません?」
「少しだけ」
「少しなら帰った方がいいんじゃないですか」
「今日は午前中で切る」
「本当に?」
「本当に」
若手は疑うような顔をした。
相沢は苦笑する。
自分は、そんなに信用がないのか。
ないのだろう。
約束を守らない顔をしているのだ。
◇
【火曜日 11:08/倉庫前】
葉の試しは、少し進んだ。
昨日舌に触れた避難民の男に、大きな異常は出ていない。
今日は、煮た葉をほんの少しだけ飲み込む。
リリアが時間を見る。
マルタが量を見る。
ミナは広場で待つ。
ダリオは森を見る。
ハルトは水を用意する。
役が分かれている。
マルタは煮た葉を小さな器に入れた。
「これだけ」
避難民の男が頷く。
飲む。
顔をしかめる。
「苦いです」
「うまいとは聞いてないよ」
「でも、食べられるかもしれません」
リリアがすぐ言う。
「まだ決めません。しばらく待ちます」
マルタは頷く。
「食料候補」
ミナが板の前で聞いていた。
「食料じゃなくて、食料候補」
呼ぶ役が繰り返す。
「食料候補」
ミナは板に新しく描くか迷った。
候補。
描けば、みんな見る。
見れば、期待する。
期待しすぎると、崩れる。
だから、描かない。
「広場には、まだ増やさない」
ミナが言う。
「言葉だけで戻す」
呼ぶ役が頷いた。
「食料候補。まだ食べない」
「そう」
その時、村長が板の端の点を見た。
しばらく黙る。
ミナは気づいた。
「消さない」
「消せとは言っていません」
「でも、見た」
「見ました」
「邪魔?」
村長は首を振った。
「いいえ」
ミナは少しだけ息を吐いた。
村長は静かに言った。
「それは、今の村では、何の役ですか」
ミナは答えに詰まった。
戻る場所。
でも、それは役なのか。
願いなのか。
未練なのか。
分からない。
「分からない」
正直に言った。
村長は頷いた。
「では、分からないものとして置きましょう」
「広場に増やさないんじゃ」
「中心には置かない。ですが、端に置かれているものを無理に消す必要もありません」
ミナは板を見る。
端の点。
小さい。
でも、ある。
「分からないものでも、消さない?」
「すぐに消さない、という判断もあります」
ミナは、その言葉をゆっくり受け取った。
すぐに決めない。
すぐに消さない。
それも、判断。
◇
【火曜日 12:06/会社】
相沢は、本当に午前で仕事を切った。
上司にも言った。
若手にも引き継いだ。
D店資料は、明日の午前に再確認。
急ぎのメールだけ返す。
見積もりは一件だけ。
それ以外は残す。
帰る準備をしていると、若手が言った。
「本当に帰るんですね」
「帰ると言った」
「いや、相沢さんって、帰ると言って一時間くらい残るタイプなんで」
「今日は帰る」
「いいと思います」
若手は少し真面目な顔になった。
「昨日、相沢さんいなくても、何とか回りました」
「ああ」
「でも、やっぱり確認してもらえると助かります」
「そうか」
「だから、ちゃんと回復してください」
相沢は鞄を持った。
営業鞄ではない。
昨日、仮で使った別の鞄。
元の鞄は、村に残った。
裂けた。
血の近くに。
相沢は、持ち手を握った。
「分かった」
「それ、本当に分かってるやつですか?」
「たぶん」
「駄目そうですね」
若手は苦笑した。
相沢も少し笑った。
◇
【火曜日 13:24/大阪・自室】
帰宅した相沢は、布団に横になった。
午前だけでも疲れた。
体力が落ちている。
腹の痛みも、少し戻っている。
表示が出る。
⸻
【職務負荷:
中】
【疼痛:
再燃傾向】
【推奨:
休息】
【推奨:
水分摂取】
【再転移条件:
未確定】
⸻
相沢は水を飲んだ。
薬は時間を見て飲む。
スマホを開く。
七瀬からメッセージが来ていた。
『出社しました?』
相沢は正直に返す。
『午前だけ出て、帰りました』
すぐ返る。
『午前だけで帰ったのは評価します。出社したのは保留です』
相沢は少し笑った。
『厳しいですね』
『体調不良者には厳しくします』
『食品チーフなので?』
『今回は関係ないです』
相沢は画面を見た。
現代のやり取り。
軽いようで、軽くない。
七瀬は何も知らない。
でも、相沢の崩れかけたところを、何度も押し戻している。
火、水、呼ぶ。
ではない。
熱、水、薬。
出社、帰宅、休息。
現代にも、板があるのかもしれない。
見えないだけで。
◇
【火曜日 15:11/広場中央】
避難民の男に、大きな異常は出ていなかった。
葉は、少量なら食べられる可能性が出た。
ただし、まだ全員には使わない。
少しずつ。
大人から。
病人と子供には後。
煮る。
水を替える。
苦味を抜く。
それでも、うまくはない。
マルタは、広場で説明した。
「これは飯じゃない。飯にできるか見るものだよ」
呼ぶ役が繰り返す。
「飯にできるか見るもの」
「勝手に取りに行くな」
「勝手に取りに行かない」
「勝手に食うな」
「勝手に食わない」
子供が聞く。
「おいしい?」
避難民の男が、少しだけ顔をしかめた。
「苦い」
子供は椀を抱えたまま言った。
「じゃあ、いらない」
広場に小さな笑いが起きた。
本当に小さい。
でも、笑いだった。
マルタが鼻を鳴らす。
「まずいもんでも、食えるなら飯だよ」
子供は嫌そうな顔をした。
その顔を見て、何人かがまた少し笑った。
ミナはその笑いを聞いた。
赤の声ではない。
人の声。
村の声。
広場が戻ってきている音だった。
◇
【火曜日 17:48/大阪・自室】
相沢は、ノートを開いた。
今日は少しだけ長く書ける。
腹の痛みは落ち着いている。
水も飲んだ。
薬も飲んだ。
七瀬にも、帰宅したことを伝えた。
だから、少しだけ。
ノートの前回の続き。
村は、継続。
俺は、未確定。
その下に書く。
次回照合、不能。
通常の土日祝ルールから外れた可能性。
異常帰還の影響。
接続基点喪失?
相沢はペンを止めた。
接続基点。
そんな言葉は、表示に出ていない。
だが、感覚として近い。
自分は、村とつながる場所を失った。
土曜日〇時という曜日の入口では、もう足りない。
どこへ戻ればいいのか、照合できない。
相沢は、広場を思い出す。
板。
火。
水。
呼ぶ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
そこに、自分の場所はあったのか。
回し屋。
いや、最後にミナは何と言った。
回し屋は、治療所。
広場は、呼ぶ。
自分は治療所へ渡された。
その後、消えた。
なら、自分の場所は閉じられたのか。
それとも、残っているのか。
相沢には分からない。
相沢はノートに書いた。
戻る場所が必要。
書いた瞬間、腹の奥が少し熱くなった。
痛みではない。
いや、痛みかもしれない。
視界の端に、表示が浮かぶ。
⸻
【再転移条件:
未確定】
【接続基点:
照合不能】
【対象:
相沢誠司】
【推奨:
記録継続制限】
⸻
接続基点。
今、出た。
相沢は息を止めた。
「照合不能……」
接続基点が、ない。
いや、見つからない。
相沢はペンを握った。
どこに戻ればいい。
広場。
治療所。
線の内側。
戻る場所。
その言葉が頭に浮かんだ。
だが、表示はそれ以上変わらなかった。
相沢はノートに、小さく書いた。
接続基点、照合不能。
戻る場所?
そこでペンを置いた。
今は、分からない。
分からないものを無理に決めるな。
◇
【火曜日 18:02/広場中央】
夕方の板に替える前、ミナは点を見ていた。
朝からずっとある。
誰も消していない。
村長も消せと言わなかった。
呼ぶ役も避けて描くようになった。
板を拭く時も、そこだけ残す。
マルタが通りかかり、板を見た。
「まだ残してるのかい」
ミナは身構えた。
「邪魔?」
「邪魔なら、もっと端に寄せな」
「消せって言わないの?」
「言わないよ」
「どうして」
マルタは腕を組んだ。
「消したら、あんたが余計に壊れそうだからね」
ミナは何も言えなかった。
マルタは続けた。
「それに」
「それに?」
「アイザワが戻ってきた時、立つ場所がないと、また変なところに出てきて邪魔だろ」
ミナは目を見開いた。
マルタは乱暴に言った。
「戻るかは知らないよ。死んだかどうかも知らない。でも、戻るなら端に立たせな。広場の真ん中に落ちてこられたら困る」
ミナの目に涙が浮かんだ。
でも、少しだけ笑った。
「うん」
「泣くな。板が濡れる」
「うん」
「点、少し端に寄せな。火と水の邪魔にならないように」
ミナは頷いた。
木炭を持つ。
点を消さない。
ただ、少し端に寄せる。
戻る場所。
広場の中心ではない。
でも、広場から消さない。
呼ぶ役が、それを見ていた。
「戻る場所、端」
ミナが頷く。
「うん。端」
マルタが鼻を鳴らす。
「これで、あいつが戻ってきても、まず座らせられる」
ミナは、今度は少し声を出して笑った。
泣きながら。
◇
【火曜日 21:09/大阪・自室】
相沢は布団に入っていた。
今日は、昨日より体が少し楽だ。
だが、心は落ち着かない。
接続基点。
照合不能。
戻る場所。
表示は、あれ以来出ていない。
ノートには書いた。
だが、答えはない。
相沢はスマホを見る。
七瀬からの最後のメッセージ。
『今日は早めに寝てください。明日も無理しないでください』
相沢は返信する。
『今日は早めに寝ます』
既読。
『信じたいです』
『信じてください』
『実績が少ないです』
相沢は少し笑った。
実績。
約束を守った実績。
少ない。
本当に少ない。
『積みます』
送る。
少し間が空いた。
『では今日は寝てください。それが一件目です』
相沢は画面を伏せた。
一件目。
約束の実績。
寝る。
それだけ。
相沢は目を閉じた。
森の音はしない。
広場の声もしない。
大阪の夜。
冷蔵庫の音。
隣室の生活音。
車の音。
その奥で、まだ小さく、火、水、呼ぶが聞こえる気がした。
相沢は呟いた。
「戻る場所」
表示は出なかった。
だが、腹の奥の痛みが、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
◇
【火曜日 21:18/広場中央】
夜の板ができた。
火。
水。
呼ぶ。
誰。
どこ。
何。
そして端に、小さな点。
昨日より、少し端。
でも、消えていない。
ミナはその点の横に、小さな線を引いた。
座る場所。
何となく、そう見える線。
呼ぶ役が聞く。
「それも?」
「戻ったら、座らせる」
「すぐ?」
「すぐ」
「ガンツさんが言いそう」
「マルタさんも言った」
呼ぶ役が少し笑った。
ミナも少し笑った。
それから、すぐに板へ戻る。
火。
水。
呼ぶ。
今夜も見るものはそれ。
戻る場所は、見るものではない。
消さないもの。
閉じないもの。
ミナは、その点を指で軽く触れた。
木炭が少し指につく。
「消さない」
小さく言った。
呼ぶ役が隣で頷いた。
「消さない」
その声は、広場の外へは広げなかった。
だが、板の前には残った。
火は小さい。
水はある。
呼ぶ声は残っている。
そして、戻る場所も、残っていた。




