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第百十話 閉じない役

【金曜日 22:18/大阪・自室】


 金曜日の夜。


 相沢は、布団に入っていなかった。


 机の前に座っていた。


 ノートを開いている。


 だが、ほとんど書いていない。


 書こうとすると、手が止まる。


 書けることはある。


 体調。


 仕事。


 D店資料。


 定時退社。


 若手への引き継ぎ。


 再転移条件。


 接続基点。


 照合不能。


 だが、本当に書きたいことは、書いても答えにならない。


 村はどうなった。


 ミナは泣いていないか。


 ガンツは生きているか。


 リリアは怪我人を見ているか。


 ダリオは森を見ているか。


 ハルトは井戸を離れていないか。


 マルタは倉庫を守っているか。


 村長は、役を離れるなと言っているか。


 分からない。


 分からないものを、ノートに並べても、分からないままだ。


 相沢はペンを置いた。


 腹の痛みは、もう鈍い。


 だが、完全には消えない。


 傷がないのに、痛みだけが残っている。


 まるで、自分の一部がまだ向こうに置かれているようだった。


 スマホが鳴った。


 七瀬からだった。


『今日は定時で帰れました?』


 相沢は返信する。


『帰れました』


 すぐ既読がつく。


『実績追加ですね』


『まだ少ないですけど』


『少ない実績を積むのが大事です』


 相沢は画面を見て、少しだけ息を吐いた。


 少ない実績。


 小さな成功。


 火が消えなかった。


 水が守られた。


 呼ぶ声が残った。


 今日、定時で帰れた。


 昼を食べた。


 仕事を渡した。


 どれも、小さい。


 だが、小さいものがなければ、何も続かない。


 七瀬から次のメッセージが来る。


『明日は休みですよね。ちゃんと休んでください』


 明日。


 土曜日。


 本来なら、転移する日。


 相沢は画面を見つめた。


 指が止まる。


 休み。


 現代では休み。


 でも、以前の相沢にとっては、異世界へ行く日だった。


 土曜日〇時。


 あの白い感覚。


 足元が消える感覚。


 土の匂い。


 火の音。


 村の広場。


 ミナの板。


 相沢は短く返した。


『休みます』


 送信する。


 七瀬から返る。


『信じたいです』


『今日は寝ます』


『それがいいです。おやすみなさい』


 相沢はスマホを伏せた。


 寝る。


 寝るべきだ。


 だが、今夜は眠れない。


 土曜日〇時を、見ないまま寝ることはできない。


 それが無意味でも。


 それが体に悪くても。


 今夜だけは、見届けなければならなかった。


     ◇


【金曜日 23:31/大阪・自室】


 相沢は、布団の上に座っていた。


 靴は履いていない。


 鞄も持っていない。


 転移の準備はしていない。


 準備しても、意味がないかもしれない。


 それに、準備してしまうと、まだ戻れると決めつけてしまう。


 分からないものを、決めつけるな。


 相沢はスマホの画面を見る。


 二十三時三十一分。


 あと二十九分。


 以前なら、鞄を肩にかけていた。


 靴を履いていた。


 持ち物を確認していた。


 食品用袋。


 油性ペン。


 ラベルシール。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 計量スプーン。


 小板。


 どれも、今はない。


 あの鞄は、村に残った。


 赤ゴブリンの爪に裂かれて。


 相沢は、自分の手を見る。


 空いている。


 何も持っていない。


 それでいいのか。


 戻るなら、何か持つべきではないか。


 いや、戻れるかどうかも分からない。


 戻れたとしても、何を持ち込めるか分からない。


 異常帰還の後だ。


 通常のルールは壊れている。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【対象:

 相沢誠司】


【再転移条件:

 未確定】


【接続基点:

 照合不能】


【推奨:

 睡眠】


【推奨:

 過剰待機抑制】



「過剰待機」


 相沢は呟いた。


「言い方」


 返事はない。


 表示は消えた。


 相沢は布団に背を預ける。


 寝ない。


 目は閉じない。


 ただ、待つ。


 待つことしかできない。


     ◇


【土曜日 0:00/広場中央】


 村の夜は、静かだった。


 火は小さい。


 水桶は決めた場所にある。


 呼ぶ役は、眠そうな目をこすりながら立っている。


 ミナは板の前にいた。


 夜の板。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 そして、端に小さな点。


 戻る場所。


 点は、もうミナだけのものではなかった。


 呼ぶ役は、そこを避けて板を拭く。


 村長は、点を見ても何も言わない。


 マルタは、点の近くに小さな木箱を置いた。


 戻ってきたら、まず座らせるため。


 ハルトは、水桶の位置を少しずらした。


 点へ向かう道を塞がないように。


 リリアは、治療所の布を一枚、広場に近い場所へ置いている。


 万が一、戻ってきた時に使うため。


 ダリオは、森から戻るたびに、点が消えていないことだけを一度見る。


 ガンツは治療所で寝ている。


 だが、何度も言っている。


 そこに戻ったら、俺を呼べ。


 ミナは点を見た。


 最初は、自分が置いた。


 誰にも言わずに置いた。


 消したくなかったから。


 そこが空いていると、分かるように。


 でも、今は違う。


 村が、その点を避けて動いている。


 消さないものとして扱っている。


 広場の中に、閉じていない場所がある。


 呼ぶ役が小さく言った。


「火、水、呼ぶ」


 ミナも返す。


「火、水、呼ぶ」


 アイザワは戻らない。


 それでも、戻る場所は消えない。


     ◇


【金曜日 23:58/大阪・自室】


 スマホの画面が、二十三時五十八分を示していた。


 相沢は、布団の上で膝を抱えるように座っていた。


 腹の奥が、じわりと熱い。


 痛みではない。


 いや、痛みかもしれない。


 分からない。


 息が浅くなる。


 相沢は、自分に言い聞かせた。


 何も起きない可能性が高い。


 次回照合不能。


 接続基点照合不能。


 再転移条件未確定。


 表示は、何度もそう出ている。


 期待するな。


 だが、期待しないこともできない。


 二十三時五十九分。


 秒が進む。


 五十。


 五十一。


 五十二。


 大阪の夜。


 冷蔵庫の低い音。


 遠くの車。


 隣室の物音。


 森の音はしない。


 火の音もしない。


 ミナの声もしない。


 五十六。


 五十七。


 五十八。


 五十九。


 日付が変わった。


     ◇


【土曜日 0:00/大阪・自室】


 何も起きなかった。


 足元は消えない。


 胃が浮く感覚もない。


 白い光もない。


 土の匂いもない。


 煙の匂いもない。


 相沢は、大阪の部屋にいた。


 布団の上。


 スマホを握ったまま。


 土曜日。


 0:00。


 戻れなかった。


 分かっていたはずだった。


 それでも、実際に何も起きないと、胸の奥が空いた。


「……戻れないのか」


 声が小さく落ちた。


 返事はない。


 その代わり、視界の端に表示が走った。



【曜日境界:

 通過】


【暦日判定:

 土曜日】


【通常転移条件:

 照合不能】


【接続基点:

 探索中】



 相沢は息を止めた。


 探索中。


 初めて見る言葉だった。


 表示は続く。



【接続基点:

 照合不能】


【集落運用:

 参照】


【集落側参照点:

 微弱反応】


【参照名:

 戻る場所】



「戻る、場所」


 相沢の声が震えた。


 表示は、さらに続いた。



【保持状態:

 不安定】


【保持者:

 集落】


【再転移照合:

 部分成立】


【再転移:

 失敗】


【理由:

 対象状態不安定】


【理由:

 接続強度不足】



 戻れない。


 だが、完全には切れていない。


 相沢は画面ではなく、表示を見ていた。


 戻る場所。


 誰が。


 どこに。


 広場か。


 治療所か。


 板か。


 ミナか。


 村か。


 分からない。


 だが、何かが残っている。


 向こう側に、自分へつながる何かが、微かにある。


 表示が最後に変わった。



【推奨:

 生命活動安定化】


【推奨:

 接続強度回復待機】


【推奨:

 睡眠】



 相沢は、笑いそうになった。


 泣きそうにもなった。


 最後が睡眠。


 どこまでも、そこに戻す。


「分かったよ」


 声は、かすれていた。


「寝る」


 相沢はスマホを置いた。


 布団に横になる。


 戻れなかった。


 だが、戻る場所はあった。


 その言葉だけが、胸の奥に残った。


     ◇


【土曜日 0:03/広場中央】


 ミナは、板の端の点を見ていた。


 何かが起きたわけではない。


 白い光もない。


 アイザワが戻ったわけでもない。


 ただ、点の黒さが、ほんの少し濃く見えた。


 火の揺れのせいかもしれない。


 目の疲れかもしれない。


 泣きすぎたせいかもしれない。


 ミナは指を伸ばして、点に触れた。


 木炭が指につく。


 消えていない。


 呼ぶ役が聞く。


「どうしたの」


「分からない」


「消えそう?」


「違う」


「じゃあ」


 ミナは、点を見たまま言った。


「今、見られた気がした」


 呼ぶ役は首を傾げた。


「誰に?」


 ミナは答えられなかった。


 アイザワに。


 そう言いたかった。


 でも、分からない。


 分からないものは、広場に増やさない。


 ミナは首を振った。


「分からない」


「じゃあ」


「点は残す」


 呼ぶ役は頷いた。


「点は残す」


 ミナは、点の横に置かれた小さな木箱を見た。


 マルタが置いたもの。


 戻ったら、座らせるための箱。


 少し離れた場所に、水桶への道がある。


 ハルトが塞がないようにした道。


 治療所の方には、布が用意されている。


 リリアが置いた布。


 森の方では、ダリオが見ている。


 ガンツは治療所で寝ている。


 たぶん、寝ていない。


 村長は少し離れて、火を見ている。


 みんなが、少しずつ点を残している。


 ミナだけではない。


 広場だけでもない。


 村が、消していない。


     ◇


【土曜日 0:12/治療所】


 ガンツは目を開けていた。


 寝ていなかった。


 リリアには寝ろと言われている。


 だが、眠れない。


 傷は痛む。


 熱も少しある。


 体は重い。


 それでも、眠れない。


 治療所の外から、火、水、呼ぶの声が聞こえる。


 その中に、アイザワの声はない。


 当然だ。


 いない。


 だが、ガンツはまだ死んだとは決めていない。


 死体を見ていない。


 殴ってもいない。


 文句も言っていない。


 だから、決めない。


「起きていますね」


 リリアの声がした。


 ガンツは顔をしかめる。


「寝てる」


「目が開いています」


「気のせいだ」


「便利な言い訳ですね」


 リリアは水を差し出した。


「飲んでください」


 ガンツは受け取る。


 飲む。


「広場は」


「続いています」


「点は」


「残っています」


 ガンツは息を吐いた。


「そうか」


「消せとは言いませんでした」


「お前が?」


「はい」


「治療所にも、不明の印があります」


 ガンツはリリアを見た。


「不明?」


「アイザワ殿の状態です」


「死じゃねぇのか」


「私には、断定できません」


「生でもねぇのか」


「断定できません」


「戻ったでもねぇのか」


「断定できません」


 リリアは静かに言った。


「ですから、不明です」


 ガンツは少しだけ笑った。


 痛みで顔をしかめる。


「いいじゃねぇか」


「よくはありません」


「でも、死よりはいい」


 リリアは答えなかった。


 しばらくして、小さく頷いた。


「はい」


 ガンツは目を閉じた。


「戻ったら呼べ」


「まず治療所です」


「その後でいい」


「その前に寝てください」


 ガンツは今度こそ黙った。


     ◇


【土曜日 0:25/大阪・自室】


 相沢は、眠れなかった。


 寝ると言った。


 布団にも横になった。


 目も閉じた。


 だが、眠れない。


 戻る場所。


 保持者、集落。


 その表示が、頭から離れない。


 ミナだけではない。


 保持者は、集落。


 村が、自分の場所を閉じていない。


 相沢は、布団の中で拳を握った。


 嬉しい、とは少し違う。


 痛い。


 ありがたい。


 苦しい。


 全部が混ざる。


 自分は約束を破った。


 線を越えた。


 赤に刺された。


 異常帰還した。


 村から見れば、死んだようなものだ。


 それでも、村は戻る場所を残している。


 閉じていない。


 相沢は目を開けた。


 ノートに書きたくなる。


 接続基点。


 戻る場所。


 保持者、集落。


 再転移照合、部分成立。


 だが、起き上がらなかった。


 今、書くと止まらない。


 睡眠。


 表示が出なくても、もう分かっている。


 相沢は小さく呟いた。


「すぐ戻るとか、言えないな」


 戻れる保証はない。


 戻ったとして、いつかも分からない。


 でも、完全には切れていない。


 それだけで、今夜は十分だった。


     ◇


【土曜日 5:42/広場中央】


 朝が来た。


 ミナは、夜の板を消す。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 それを消して、朝の五つに替える。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 点は消さない。


 点の横の箱もそのまま。


 ただし、朝の仕事の邪魔にならないように少し整える。


 呼ぶ役が、眠そうな顔で言う。


「点、朝も残す?」


「残す」


「今日、森は?」


「見る」


「葉は?」


「少しだけ。昨日みたいに止めるかもしれない」


「食料候補」


「うん」


 村長が近づいてくる。


 板を見る。


 点を見る。


 何も言わない。


 ミナの方から聞いた。


「村長」


「はい」


「この点、邪魔なら言って」


「邪魔ではありません」


「広場のものにしていい?」


 村長は、少しだけ黙った。


 ミナは言葉を探す。


「私だけで置いた。でも、もう私だけじゃないと思う。マルタさんも、ハルトも、リリアさんも、呼ぶ役も、みんな避けてる。ガンツも、戻ったら呼べって言ってる」


「そうですね」


「だから、私の点じゃなくて、広場の点にしたい」


 村長は、ゆっくり頷いた。


「よいと思います」


 ミナは息を吐いた。


「でも、真ん中には置かない」


「はい」


「火、水、呼ぶの邪魔にしない」


「はい」


「食料の邪魔にもしない」


「はい」


「戻る場所。でも、見る場所じゃない」


 村長は、その言葉を聞いて、深く頷いた。


「それでよいでしょう」


 ミナは木炭を持った。


 点を、もう一度描き直す。


 小さく。


 端に。


 でも、はっきりと。


 戻る場所。


 村の点。


     ◇


【土曜日 7:11/大阪・自室】


 相沢は、少しだけ眠っていた。


 目を覚ますと、朝だった。


 土曜日。


 7:11。


 大阪。


 戻れていない。


 だが、昨夜の表示は残っている。


 夢ではない。


 たぶん。


 相沢はスマホを見た。


 七瀬からメッセージが来ていた。


『おはようございます。今日は休めそうですか』


 相沢は返信する。


『休みます。昨日よりは体調いいです』


 少し迷って、付け加える。


『今日は、何もしない予定です』


 すぐに返る。


『それはかなり良い予定です』


 相沢は少し笑った。


『実績追加します』


『はい。休む実績を積んでください』


 相沢はスマホを伏せた。


 休む実績。


 戻らない土曜日。


 何もしない土曜日。


 以前なら、何もしない土曜日など存在しなかった。


 土曜日は、村へ行く日だった。


 村で動く日だった。


 何かを直し、何かを決め、何かを守る日だった。


 今は、行けない。


 だが、向こうに戻る場所はある。


 相沢は、ゆっくり起き上がる。


 水を飲む。


 薬を飲む。


 お粥を温める。


 食べる。


 残さない。


 それだけをする。


 視界の端に、表示が浮かんだ。



【対象:

 相沢誠司】


【生命活動:

 安定】


【再転移照合:

 保留】


【接続基点:

 微弱反応維持】


【参照名:

 戻る場所】


【推奨:

 休養】



 微弱反応維持。


 相沢は、その文字を見た。


 消えていない。


 向こうも、消していない。


 相沢はお粥を口に運ぶ。


 温かい。


 村の粥より濃い。


 でも、今日は残さないだけでいい。


 焦らない。


 今は、戻る準備ではなく、戻れる体を作る。


 それが今日の役だった。


     ◇


【土曜日 9:36/広場中央】


 広場では、森へ向かう組が準備していた。


 ダリオ。


 村の男。


 避難民の男。


 今日は、葉を少しだけ追加で見る。


 根はまだ掘らない。


 実も増やしすぎない。


 食料候補を、食料へ近づける。


 少しずつ。


 ミナは板の前で、確認する。


「誰が見た」


「ダリオたち」


「どこ」


「西の倒木の浅いところ」


「何」


「葉、実、根の場所」


「食べる?」


「まだ決めない」


「戻ったら?」


「マルタさんとリリアさん」


 呼ぶ役が頷く。


 広場へ声を出す。


「森を見る組、出ます! 西の浅いところ! 食料候補を見るだけ! 勝手に取りに行かない!」


 広場が聞いている。


 大きな混乱はない。


 腹は減っている。


 だが、待てるようになってきた。


 完全ではない。


 でも、昨日よりは。


 ミナは、点を一度だけ見た。


 戻る場所。


 そこには誰も立っていない。


 小さな木箱だけがある。


 空いている。


 空いているが、空きっぱなしではない。


 誰かが戻るために空いている。


 ミナは視線を戻した。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が続ける。


「火、水、呼ぶ」


 広場は、今日も動いている。


     ◇


【土曜日 12:00/大阪・自室】


 正午。


 相沢は、何もしていなかった。


 正確には、水を飲み、食事を取り、薬を飲み、少し眠った。


 それだけ。


 ノートも開いていない。


 会社のメールも見ていない。


 七瀬にも、昼を食べたとだけ送った。


 休む実績。


 そう思わないと、落ち着かない。


 視界の端に表示が出る。



【休養:

 実施中】


【疼痛:

 軽】


【接続基点:

 微弱反応維持】


【再転移:

 不可】


【理由:

 対象状態未達】



 対象状態未達。


 相沢は、その文字を見た。


 今の自分では、戻れない。


 接続は微かにある。


 だが、体が足りない。


 状態が足りない。


 なら、休むことには意味がある。


 相沢は布団に横になった。


 戻れない理由が、少しだけ形になった。


 それだけで、焦りは完全には消えないが、少し整理された。


「体、戻せってことか」


 返事はない。


 だが、表示は消えなかった。


     ◇


【土曜日 15:18/広場中央】


 葉は、少量なら使える可能性が高くなった。


 ただし、苦い。


 水を使う。


 煮る手間もある。


 大量には取れない。


 それでも、粥を少しだけ伸ばせる。


 マルタは、広場で言った。


「飯が増えたわけじゃないよ」


 呼ぶ役が繰り返す。


「飯が増えたわけじゃない」


「でも、少し伸ばせる」


「少し伸ばせる」


「勝手に取りに行けば、森で死ぬ」


「勝手に取りに行かない」


「煮ないで食えば、腹を壊す」


「煮ないで食べない」


 村人たちは聞いている。


 子供が小さく言う。


「苦いやつ」


 何人かが笑う。


 マルタが言う。


「苦くても飯だよ」


「えー」


 また、少し笑いが起きた。


 ミナは、その笑いを聞いた。


 赤のあとに、笑いが戻っている。


 小さい。


 まだ弱い。


 でも、ある。


 ミナは板を見る。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 点。


 全部がそこにある。


 アイザワはいない。


 でも、アイザワだけで埋まっていない。


 広場は、広場のまま動いている。


     ◇


【土曜日 18:47/大阪・自室】


 夕方。


 相沢は、ようやくノートを開いた。


 今日は短く書く。


 そう決めている。


 昨夜の表示。


 接続基点、探索中。


 集落側参照点、微弱反応。


 参照名、戻る場所。


 保持者、集落。


 再転移照合、部分成立。


 再転移、失敗。


 理由、対象状態不安定。


 理由、接続強度不足。


 相沢は、一つずつ書いた。


 書きながら、手が震えた。


 戻る場所。


 保持者、集落。


 そこだけ、何度も見てしまう。


 ミナ一人ではない。


 村が保持している。


 なら、村は自分を完全には閉じていない。


 相沢は、ノートの下に書いた。


 戻るために、休む。


 それは、今までの相沢なら書かなかった言葉だった。


 動くために休む。


 戻るために休む。


 村に行くために、今は行かない。


 矛盾しているようで、たぶん正しい。


 表示が出る。



【記録作業:

 短時間内】


【推奨:

 終了】



「はいはい」


 相沢はペンを置いた。


 今日は、言うことを聞く。


 それも実績だ。


     ◇


【土曜日 21:33/広場中央】


 夜の板になった。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 点。


 小さな木箱。


 水桶への道。


 治療所の布。


 全部が、夜の中にある。


 ミナは、点を見た。


 今日は、消えそうにない。


 強く描きすぎてもいない。


 広場の邪魔にもなっていない。


 ただ、そこにある。


 村長が近くに立った。


「ミナ」


「はい」


「その点は、しばらく残しましょう」


 ミナは顔を上げた。


「村長が言うの?」


「はい」


「いいの?」


「今の村には、閉じていない役があります」


 ミナは黙った。


 村長は続ける。


「アイザワ殿が戻るかどうかは分かりません。ですが、アイザワ殿の役を、死んだものとして閉じるには、まだ早い」


「うん」


「だから、戻る場所として残します」


 ミナは、目に涙が浮かぶのを感じた。


 でも、こぼさなかった。


「広場の点?」


「村の点です」


 ミナは息を止めた。


 村の点。


 その言葉は、静かに重かった。


 呼ぶ役も聞いていた。


 小さく繰り返す。


「村の点」


 ミナは頷いた。


「村の点」


 マルタが倉庫前から声を出す。


「点でも何でもいいけど、戻ったらまず座らせるんだよ」


 ハルトが井戸側から言う。


「水は出す。だが、走らせるな」


 リリアが治療所前から言う。


「治療所へ連れてきてください。先に説教はしないでください」


 治療所の中から、ガンツの声が聞こえた。


「俺は殴る」


 リリアがすぐ返す。


「治ってからにしてください」


 広場に、笑いが起きた。


 小さい。


 震えている。


 でも、確かに笑いだった。


 ミナは泣きながら笑った。


 呼ぶ役も笑った。


 村長も、少しだけ目を伏せた。


 火は小さい。


 水はある。


 呼ぶ声は残っている。


 そして、戻る場所は、村のものになった。


     ◇


【土曜日 23:58/大阪・自室】


 相沢は、布団の中にいた。


 今日は、起きて待たない。


 そう決めた。


 それでも、眠りは浅い。


 スマホの画面は見ない。


 見たら、また待ってしまう。


 戻れる状態ではない。


 接続は微弱。


 再転移は不可。


 理由は、対象状態未達。


 なら、寝る。


 相沢は目を閉じる。


 火、水、呼ぶ。


 その声を思い出す。


 今夜も、向こうで誰かが言っている気がする。


 実際に言っているかは分からない。


 だが、言っていると思える。


 相沢は小さく息を吐いた。


「戻る場所、か」


 返事はない。


 だが、怖さは少しだけ薄くなっていた。


 戻れない夜ではある。


 でも、完全に切れた夜ではない。


 相沢は、眠りに落ちかけた。


 その直前、視界の端に薄く表示が浮かんだ。



【接続基点:

 微弱反応維持】


【参照名:

 戻る場所】


【保持者:

 集落】


【再転移照合:

 保留】


【推奨:

 睡眠】



 相沢は、目を開けなかった。


 そのまま、眠った。


     ◇


【日曜日 0:00/広場中央】


 夜の交代が行われた。


 火を見る者が替わる。


 水を見る者が替わる。


 呼ぶ役が替わる。


 ミナは、板の前にいた。


 点は残っている。


 村の点。


 戻る場所。


 閉じていない役。


 アイザワは、戻らない。


 それでも、村は止まらない。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 それらの端に、小さな点。


 ミナは、そっと板に手を置いた。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が続ける。


「火、水、呼ぶ」


 夜の広場に、声が残った。


 アイザワがいなくても、村は続いていた。


 アイザワが戻らなくても、戻る場所は残っていた。


 火は消えなかった。


 水は守られていた。


 呼ぶ声は、途切れなかった。


 そして、閉じない役が、村の端に置かれていた。

第一部はこれにて完結です。

ご愛読ありがとうございました。

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