第百六話 未確定
【日曜日 7:12/大阪・自室】
相沢は、目を開けた。
天井。
蛍光灯。
カーテンの隙間から入る朝の光。
冷蔵庫の低い音。
大阪だった。
腹が痛い。
昨日ほどではない。
だが、残っている。
傷はない。
血もない。
服も裂けていない。
それなのに、体の奥だけが、赤ゴブリンの爪を覚えていた。
相沢は、しばらく動かなかった。
スマホは枕元にある。
画面を見る。
日曜日。
7:12。
日曜日。
本来なら、まだ異世界にいるはずだった。
土曜日の〇時に転移した。
なら、日曜日の間は村にいる。
月曜日が平日なら、月曜日〇時に大阪へ戻る。
それが、これまでの流れだった。
だが、相沢は大阪にいる。
日曜日の朝。
自室にいる。
再転移は、起きていない。
視界の端に、表示が浮かんだ。
⸻
【対象:
相沢誠司】
【滞在状態:
強制終了後】
【転移条件:
異常】
【再転移条件:
未確定】
【生命活動:
安定化中】
【疼痛:
中】
【推奨:
安静】
⸻
相沢は、画面ではなく表示を見た。
再転移条件、未確定。
昨日も見た。
だが、日曜日の朝に見ても、同じだった。
「……戻れないのか」
声がかすれた。
返事はない。
表示はそれ以上、何も言わない。
オカンは喋らない。
喋らないくせに、こういう時だけ、妙に冷たい言葉を置く。
未確定。
照合不能ではない。
禁止でもない。
不能でもない。
ただ、未確定。
相沢は起き上がろうとした。
腹が痛む。
すぐに動きを止める。
昨日の病院。
薬。
安静。
七瀬のメッセージ。
思い出して、スマホを開く。
七瀬から、朝のメッセージが来ていた。
『体調どうですか。返信は起きてからでいいです』
時刻は七時ちょうど。
相沢は、少しだけ迷ってから打った。
『起きました。熱はまだ測ってません。腹痛は昨日より少しましです』
送る。
すぐ既読がついた。
『熱測ってください。薬は飲みました?』
相沢は小さく息を吐いた。
速い。
日曜の朝から、速い。
『まだです。今から測ります』
『お願いします。水も飲んでください』
表示が出る。
⸻
【推奨:
体温測定】
【推奨:
水分摂取】
【推奨:
投薬確認】
⸻
「同じことを言うな」
相沢は呟いた。
どちらに言ったのか分からない。
七瀬か。
表示か。
あるいは、村の誰かか。
リリアも、きっと同じようなことを言う。
水を飲んでください。
喋らないでください。
動かないでください。
相沢はゆっくり起き上がった。
今日は、まず水。
薬。
体温。
それだけだ。
村へ戻ることではない。
そう思おうとして、失敗した。
村は。
ミナは。
ガンツは。
リリアは。
ダリオは。
ハルトは。
マルタは。
村長は。
相沢は、台所へ向かった。
◇
【日曜日 7:41/大阪・自室】
体温は、三十七度一分だった。
下がっている。
腹の痛みも、昨日よりは鈍い。
だが、体は重い。
階段を降りるような動きだけで、腹の奥が引っ張られる。
相沢は水を飲み、薬を飲んだ。
七瀬へ送る。
『37.1です。薬飲みました。水も飲みました』
返信はすぐだった。
『少し下がってますね。でも今日は外出しないでください』
『分かりました』
『信用してません』
『でしょうね』
『今日は仕事もしないでください』
相沢は画面を見て、少しだけ指を止めた。
仕事。
現代の仕事。
見積もり。
D店資料。
展示会後処理。
全部ある。
だが、本当に気になるのは、そこではない。
村の仕事。
赤の死体。
食料。
森。
相沢が消えた後。
ミナがどうしたか。
そこばかりだった。
『最低限にします』
送ってから、しまったと思った。
すぐ返る。
『それ、仕事する人の返事です』
相沢は、返す言葉がなくなった。
少し間を空けて、七瀬から続く。
『今日だけは、本当に安静にしてください。病院で言われたんですよね?』
『はい』
『じゃあ守ってください』
守る。
約束を守る。
相沢は、その言葉を見るだけで腹が痛んだ気がした。
ミナの声。
火、水、呼ぶ。
戻れ。
戻らなかった。
守らなかった。
守れなかった。
いや、守らなかった。
そこは、ごまかすな。
相沢はスマホを伏せた。
机の上のノートを見る。
開きたい。
書きたい。
何が起きたか。
赤の動き。
声の性質。
音への反応。
ガンツとダリオの連携。
広場の維持。
ミナの声。
相沢の失敗。
全部、書かなければならない。
だが、表示が出た。
⸻
【推奨:
記録作業制限】
【推奨:
安静継続】
【警告:
疼痛再燃可能性】
⸻
「分かってる」
相沢は言った。
分かっている。
でも、書かないと混ざる。
混ざると、怖い。
相沢はノートを開かなかった。
代わりに、スマホのメモを一行だけ開いた。
長く書かない。
一行だけ。
そう決める。
指が震える。
相沢は打った。
『村は、継続。俺は、未確定。』
それ以上は書かなかった。
◇
【日曜日 9:12/大阪・自室】
眠っていた。
短い眠りだった。
夢は見なかった。
いや、見たのかもしれない。
起きた瞬間には忘れていた。
相沢はスマホを見た。
日曜日。
9:12。
まだ大阪。
まだ自室。
再転移なし。
表示は出ない。
出ないことが、逆に重い。
相沢は布団の中で、ゆっくり息をした。
痛みは中くらい。
熱は少し下がった。
水も飲んだ。
薬も飲んだ。
それだけなら、回復している。
だが、異世界側の時間は止まらない。
今、向こうはどうなっている。
日曜日の朝なのか。
昼なのか。
時差は同じなのか。
転移が異常になったことで、時間の流れも乱れているのか。
分からない。
分からないものを混ぜるな。
自分で言った言葉が返ってくる。
相沢は、分かることを並べた。
自分は大阪にいる。
生きている。
外傷はない。
痛みは残っている。
病院へ行った。
再転移条件は未確定。
村の最後の表示は、集落運用、継続。
分からないこと。
村の今。
赤の完全な後処理。
食料。
ガンツの傷。
ミナの状態。
自分が向こうでどう扱われているか。
次に戻れるか。
戻った時、何が残っているか。
相沢は、目を閉じた。
分けても、痛いものは痛い。
だが、混ざるよりはましだった。
◇
【日曜日 10:38/大阪・自室】
七瀬から、またメッセージが来た。
『昼は食べられそうですか?』
相沢は、少し考えた。
腹は痛い。
だが、食べないと薬がきつい。
冷蔵庫に、昨日買ったゼリー飲料があったはずだ。
あと、レトルトのお粥。
白飯ではない。
粥。
その言葉だけで、村の薄い粥を思い出す。
相沢は返信した。
『お粥かゼリーにします』
『いいと思います。刺激物はやめてください』
『分かりました』
『本当に?』
『本当に』
『ならよしです』
相沢は布団から出た。
ゆっくり。
台所へ行く。
レトルトのお粥を取り出す。
パックを見た。
一人分。
たった一人分。
温めれば、すぐ食べられる。
村なら、何人分だろう。
いや、考えるな。
これは日本の食事だ。
今、自分が食べるものだ。
食べないと、体が戻らない。
相沢は電子レンジに入れた。
温める。
数分。
簡単すぎる。
温かい粥を器に移す。
白い。
柔らかい。
村の粥より、ずっと濃い。
相沢は匙を持った。
口に入れる。
温かい。
腹に落ちる。
少し痛む。
でも、食べられる。
相沢はゆっくり食べた。
残さなかった。
食べ終えてから、七瀬へ送る。
『お粥食べました』
返信。
『よろしい。今日はそれで十分です』
相沢は、スマホを見て少しだけ笑った。
痛みは少し響いた。
◇
【日曜日 12:00/大阪・自室】
正午。
何も起きなかった。
日曜日の真ん中。
本来なら、異世界の昼にいるはずの時間。
相沢は、自室にいた。
表示が浮かぶ。
⸻
【対象:
相沢誠司】
【再転移条件:
未確定】
【滞在状態:
強制終了後】
【復帰判定:
保留】
【推奨:
安静】
⸻
復帰判定、保留。
相沢はその文字を見た。
保留。
七瀬が言いそうな言葉だ。
分からないものは保留。
だが、保留されているのは、自分の転移だ。
自分が村へ戻れるかどうかだ。
「保留で済むかよ」
呟いた。
だが、表示は変わらない。
相沢は布団に戻った。
体が重い。
起きているだけで疲れる。
目を閉じると、広場の声が聞こえる気がした。
火、水、呼ぶ。
声は声。
見えるものだけ。
広場、戻す。
回し屋は、治療所。
その声が、実際にあったのか。
自分の想像なのか。
分からない。
だが、ミナならそうする。
いや。
ミナなら、ではない。
ミナは、する。
そう思えた。
相沢は、少しだけ息を吐いた。
村は、継続。
表示が最後にそう言った。
信じるしかない。
◇
【日曜日 15:56/大阪・自室】
昨日、相沢が消えた時刻。
土曜日十五時五十六分。
その一日後ではない。
まだ二十四時間も経っていない。
だが、相沢はその時刻を見ていた。
スマホの画面。
15:56。
何か起きるかもしれない。
そう思っていた。
一日ごとの判定。
強制帰還から一定時間後の照合。
再転移。
通知。
何か。
だが、何も起きなかった。
視界に表示だけが浮かぶ。
⸻
【再転移条件:
未確定】
【復帰判定:
保留】
【推奨:
安静】
⸻
同じ。
相沢は、スマホを伏せた。
苛立ちが来る。
焦りが来る。
起き上がって、鞄を用意したくなる。
もう鞄はない。
向こうに残した。
営業鞄も。
小板も。
持ち込んだものも。
赤の爪に裂かれて、村に残った。
相沢は、畳の上に手を置いた。
空の手。
何も持っていない。
この手で、戻れない。
この手で、村を助けられない。
だが、村は継続している。
相沢がいなくても。
その事実が、慰めにもなり、痛みにもなった。
自分がいなくても、村は回った。
それを目指していた。
なのに、実際にそうなると、胸が重い。
「勝手だな」
相沢は小さく言った。
自分に。
◇
【日曜日 18:22/大阪・自室】
夕飯は、また軽いものにした。
ゼリー飲料。
味噌汁。
少しの白飯。
全部、食べた。
七瀬には、写真ではなく文章で送った。
『夕飯も食べました。薬も飲みます』
返信。
『いいです。明日も無理なら会社休んでください』
月曜日。
明日は仕事だ。
同時に、本来なら今夜〇時に大阪へ通常帰還するはずだった時刻でもある。
だが、相沢はすでに大阪にいる。
月曜〇時に何が起きる。
何も起きないのか。
再転移判定が入るのか。
完全に閉じるのか。
分からない。
相沢は返信を打つ。
『明日の朝の体調で判断します』
『自分に甘く判断しないでください』
相沢は苦笑した。
『努力します』
『行動です』
またそれだ。
七瀬の言葉。
リリアの言葉。
ミナの声。
ガンツの怒鳴り声。
全部が同じ方向から来る。
守れ。
動くな。
食べろ。
寝ろ。
約束しろ。
相沢はスマホを伏せた。
今日は、寝る。
月曜〇時まで起きていたい。
だが、体がもたない。
それでも、眠れるかは分からない。
◇
【日曜日 23:48/大阪・自室】
眠れなかった。
何度も目を閉じた。
何度も寝返りを打とうとして、腹が痛んだ。
結局、相沢は目を開けていた。
スマホの画面。
23:48。
あと十二分。
月曜日〇時。
通常なら、帰還の時刻。
今回、何が起きる。
もう帰還している。
だから何も起きない。
そう考えるのが自然だ。
だが、転移条件は異常。
再転移条件は未確定。
復帰判定は保留。
自然なことなど、何も残っていない。
相沢は布団の中で、ゆっくり呼吸した。
痛みは鈍い。
熱は下がっている。
体は重い。
表示は出ない。
23:57。
23:58。
23:59。
相沢は、画面を見ていた。
秒が進む。
五十。
五十一。
五十二。
大阪の部屋は静かだ。
冷蔵庫の音。
車の音。
隣室の物音。
森の音はしない。
火の音もしない。
ミナの声もしない。
五十七。
五十八。
五十九。
日付が変わった。
◇
【月曜日 0:00/大阪・自室】
何も起きなかった。
白い光はない。
胃が浮く感覚もない。
土の匂いもない。
煙の匂いもない。
ただ、大阪の部屋だった。
相沢は、しばらく画面を見ていた。
月曜日。
0:00。
それでも、表示は出た。
⸻
【曜日境界:
通過】
【暦日判定:
月曜日】
【通常帰還処理:
対象外】
【滞在状態:
強制終了後】
【再転移条件:
未確定】
【次回照合:
不能】
⸻
次回照合、不能。
相沢はその文字を見た。
未確定より、重い。
不能。
次にいつ行けるのか。
そもそも行けるのか。
分からない。
表示は続いた。
⸻
【対象:
相沢誠司】
【生命活動:
安定化中】
【疼痛:
中】
【推奨:
睡眠】
【推奨:
職務負荷軽減】
⸻
「職務負荷軽減……」
相沢は呟いた。
今、それを言うのか。
現代の仕事まで見ているのか。
いや、いつもそうだった。
村の危機と、自分の食事を同列に出す。
赤ゴブリンと、水分摂取を同じ表示で並べる。
そのズレた世話焼きが、今は少しだけ堪えた。
相沢はスマホを伏せた。
月曜日になった。
戻らない。
戻れない。
村は、相沢なしで月曜日を迎えた。
相沢も、村なしで月曜日を迎えた。
その事実だけが、部屋に残った。
◇
【月曜日 0:07/広場中央】
夜は、静かだった。
ミナは、日付が変わったことを知らない。
だが、夜が深くなったことは分かった。
火が小さくなる。
水桶の影が伸びる。
呼ぶ役の声が少し眠くなる。
森は静か。
赤の声はない。
白い光もない。
アイザワは戻らない。
ミナは、板の端の点を見た。
小さな点。
戻る場所。
消さなかった。
けれど、そこばかり見ないようにした。
広場は、火。
水。
呼ぶ。
今見るものは、それ。
分からないものは、広場に増やさない。
呼ぶ役が小さく言った。
「戻らないね」
ミナは少し黙った。
「うん」
「死んだのかな」
その言葉で、胸が痛くなった。
ミナはすぐには答えなかった。
嘘は言えない。
でも、決めることもできない。
「分からない」
ようやく言った。
「分からないものは?」
呼ぶ役が聞く。
ミナは板を見た。
「広場に増やさない」
「でも、点は?」
「点は、戻る場所」
「うん」
「見る場所じゃない」
呼ぶ役は、少し考えてから頷いた。
「戻る場所」
「そう」
ミナは、火の方を見た。
火は小さい。
でも、消えていない。
水もある。
呼ぶ声もある。
アイザワはいない。
それでも、広場はある。
ミナは喉の奥の痛みを飲み込んだ。
「火、水、呼ぶ」
呼ぶ役が続ける。
「火、水、呼ぶ」
月曜日の夜が、村の上にあった。
アイザワのいないまま。
それでも、村は続いていた。
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