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第百四話 アイザワのいない広場

【土曜日 15:57/広場中央】


 白い光が消えた。


 アイザワは、いなかった。


 血は残っている。


 裂けた鞄の布も残っている。


 散らばった小さな袋も。


 油性ペンも。


 割れた小板も。


 だが、アイザワだけがいなかった。


 誰も、すぐには声を出せなかった。


 リリアは血のついた手を伸ばしたまま固まっていた。


 その手の先には、もう何もない。


 ガンツは膝をついていた。


 槍を握ったまま。


 肩と脇腹から血が落ちている。


 ダリオは森を見ていた。


 一度だけ、アイザワが消えた場所を見た。


 だが、すぐに森へ目を戻した。


 ミナは板の前にいた。


 泣いていた。


 顔はぐしゃぐしゃだった。


 それでも、足は動かなかった。


 板から離れなかった。


 呼ぶ役が、小さく言った。


「回し屋は……」


 言葉がそこで止まった。


 誰も続きを言えない。


 回し屋は、どこ。


 治療所。


 広場。


 消えた。


 死んだ。


 戻った。


 どの言葉も違う気がした。


 ミナは息を吸った。


 喉が痛い。


 声が出ない。


 それでも出した。


「回し屋は、治療所」


 呼ぶ役が泣きながら見る。


「でも」


「治療所」


 ミナは繰り返した。


「見えなくても、治療所」


 リリアが、はっとしたように顔を上げた。


 ミナは続ける。


「広場は、呼ぶ」


 呼ぶ役の肩が震えた。


 それでも、頷いた。


「広場は、呼ぶ」


 村長が中央に立った。


 顔色は悪い。


 だが、声は出た。


「役を離れるな」


 広場に、低く落ちる。


「赤は倒れました。ですが、森は残っています。怪我人がいます。水が必要です。食料は少ないままです」


 その言葉で、止まっていた空気が少し動いた。


 赤は倒れた。


 アイザワはいない。


 それでも、まだ終わっていない。


 村長は続けた。


「北は確認。井戸は水。倉庫は食料。治療所は怪我人。広場は呼ぶ」


 ミナが板を押さえた。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が続ける。


「火、水、呼ぶ」


 声は小さい。


 だが、戻った。


     ◇


【土曜日 16:03/広場手前】


 リリアは、自分の手を見ていた。


 血がついている。


 アイザワ殿の血。


 さっきまで、そこに体があった。


 腹を押さえていた。


 息を見ていた。


 声を聞いていた。


 それが、消えた。


 傷も。


 体も。


 熱も。


 何も残らなかった。


 残ったのは、血と、手の感触だけだった。


「リリア」


 村の女が呼ぶ。


 リリアは顔を上げる。


 怪我人がいる。


 ガンツ。


 見張り。


 倒れた子供。


 赤ゴブリンの爪で裂かれた者。


 アイザワ殿はいない。


 だが、怪我人はいる。


 リリアは、深く息を吸った。


「布を替えます」


 声は出た。


 震えていない。


 震えていないことに、自分で少し驚いた。


「ガンツさんを治療所へ。歩かせないでください。肩と脇腹を押さえて。見張りの方は息を見ます。子供は水を少しずつ」


 女たちが動く。


 決められた者だけ。


 広場全体は動かない。


 リリアは血のついた手を一度だけ握った。


 アイザワ殿。


 呼びそうになった。


 呼ばなかった。


 今、呼ぶ声は広場を壊す。


「水を」


 リリアは言った。


「決めた水だけ。清い布も」


 ハルトの方から声が返る。


「水、出す!」


 マルタの方からも声が来る。


「布、出すよ! 倉庫は開けるが、私が出す!」


 リリアは頷いた。


 それぞれが、戻っている。


 なら、自分も戻る。


 治療所へ。


     ◇


【土曜日 16:12/北柵】


 ダリオは、赤ゴブリンの死体を見ていた。


 近づきすぎない。


 倒れている。


 胸。


 脇。


 喉。


 足。


 傷は深い。


 だが、死んだふりというものもある。


 赤は、そういう敵だった。


 声を使う。


 人影を使う。


 石を使う。


 煙を使う。


 死体さえ、罠にするかもしれない。


 ダリオは石を拾った。


 赤ゴブリンの近くへ投げる。


 反応なし。


 もう一つ。


 反応なし。


 見張りが息を呑む。


「死んでるのか」


 ダリオは答えない。


 弓はある。


 矢はない。


 だが、見ることはできる。


 赤ゴブリンの胸は動かない。


 指も動かない。


 目は開いたまま。


 こちらを見ていない。


「死んでる」


 ダリオはようやく言った。


 見張りが膝をつきそうになる。


 ダリオが短く言う。


「座るな」


 見張りは踏みとどまった。


「森を見る」


「……ああ」


 ダリオは森へ目を戻す。


 赤が死んでも、森は終わらない。


 小ゴブリンが残っているかもしれない。


 獣が来るかもしれない。


 赤の声に釣られた何かがいるかもしれない。


 ガンツが、少し離れた場所で運ばれている。


 顔色が悪い。


 それでも、ダリオに向かって言った。


「森、見とけ」


「見てる」


「赤は」


「死んだ」


「アイザワは」


 ダリオは答えなかった。


 ガンツの顔が歪む。


「答えろ」


「消えた」


「死んだとは言ってねぇ」


 ダリオは森を見たまま、短く言った。


「言ってない」


 ガンツはそれ以上言わなかった。


 運ばれていく。


 ダリオは森を見る。


 涙は出ない。


 出ている時間がない。


     ◇


【土曜日 16:24/倉庫前】


 マルタは倉庫の戸を開けた。


 全開にはしない。


 自分が入れるだけ。


 布。


 水を受ける器。


 少しの塩。


 病人用の袋。


 必要なものだけを出す。


 村人の何人かが、倉庫の方を見ていた。


 アイザワが消えた。


 赤が倒れた。


 腹は減っている。


 目が食料へ向かう。


 当然だ。


 マルタは戸の前に立ち、低く言った。


「見るな」


 誰も返事をしない。


「見ても増えないよ」


 それでも視線は残る。


 マルタは棒を戸に立てかけた。


「必要な分は出す。勝手に入れば、飯はもっと死ぬ」


 飯は少ない。


 赤を倒しても、増えない。


 アイザワが消えても、増えない。


 泣いても、増えない。


 だから、守る。


 マルタは、倉庫の奥で小さな袋を見た。


 アイザワが持ってきた乾燥した海草のようなもの。


 塩飴。


 袋。


 印。


 鞄の中身の一部は、血の近くに散った。


 拾えるものは拾わせた。


 だが、今は全部見せない。


 甘いものは、揉める。


 珍しいものは、揉める。


 アイザワが残したものなら、なおさら揉める。


「死んでも面倒なもん残していくね」


 マルタは小さく言った。


 すぐに、言い直す。


「……死んだかどうかも、分かりゃしない」


 腹が立つ。


 泣きたい。


 だが、倉庫番が倉庫を開け放して泣くわけにはいかない。


 マルタは布を抱えて外へ出た。


「リリア! 布、持ってくよ!」


 声を出す。


 手を動かす。


 怖い時ほど、手を動かす。


     ◇


【土曜日 16:37/井戸前】


 ハルトは井戸の前にいた。


 アイザワが消えた瞬間、走りそうになった。


 片腕が痛んだ。


 それが、止めた。


 痛みではない。


 役を思い出させた。


 井戸。


 水。


 ここを離れれば、次に怪我人へ渡す水が乱れる。


 だから、離れない。


「ハルトさん」


 若い男が言う。


「水、次は治療所へ?」


「そうだ」


「どれだけ」


「小桶二つ。清い方。飲ませる分と洗う分」


「井戸に人が来ています」


 ハルトは見る。


 数人が、少し離れた場所に立っている。


 不安そうに。


 何かをしたそうに。


 水を取りたいのか。


 アイザワのところへ行きたいのか。


 赤の死体を見たいのか。


 自分でも分かっていない顔だった。


 ハルトは声を張った。


「水は出す! だが、井戸には集まるな!」


 一人が言う。


「手伝えることは」


「決めた者だけ運ぶ」


「でも」


「今増えると、井戸が死ぬ」


 その言葉で、数人が止まった。


 井戸が死ぬ。


 水が死ぬ。


 アイザワが何度も言っていたわけではない。


 だが、今は村の言葉になっている。


 ハルトは若い男に小桶を渡した。


「治療所へ。こぼすな。走りすぎるな」


「はい」


「戻ったら、次を見る」


「はい」


 若い男が行く。


 ハルトは井戸を見た。


 水面は暗い。


 だが、ある。


 アイザワが消えても、水はある。


 なら、守る。


     ◇


【土曜日 17:04/治療所】


 治療所はいっぱいだった。


 だが、崩れてはいなかった。


 ガンツは布の上に座らされている。


 寝ろと言われても、寝ない。


 肩と脇腹を押さえられ、顔をしかめている。


 見張りの一人は横になっている。


 息は戻った。


 もう一人は腕を縛られている。


 子供は水を少しずつ飲んでいる。


 リリアは順番を間違えなかった。


 重い傷。


 息。


 水。


 熱。


 血。


 それだけを見る。


 アイザワ殿の血は、もう手から洗った。


 完全には落ちていない気がする。


 だが、見ない。


「ガンツさん、肩を動かさないでください」


「動かしてねぇ」


「動かそうとしています」


「赤は」


「倒れました」


「確認は」


「ダリオさんが見ています」


「アイザワは」


 リリアの手が一瞬止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、止まった。


「治療所です」


 ガンツがリリアを見る。


「いねぇだろ」


「治療所です」


 リリアは同じ言葉を返した。


 ガンツの顔が歪む。


 怒鳴るかと思った。


 だが、怒鳴らなかった。


「……そうか」


「はい」


「じゃあ、俺も治療所か」


「はい」


「なら、治せ」


「そのために、黙っていてください」


 ガンツは黙った。


 かなり不満そうに。


 だが、黙った。


 リリアは布を押さえた。


 血は止まりつつある。


 完全ではない。


 だが、間に合う。


 ガンツは生きる。


 見張りも生きる可能性が高い。


 子供も。


 アイザワ殿は。


 リリアは考えそうになり、止めた。


 治療所は、今いる者を見る。


 いない者は、広場へ渡す。


 いや。


 違う。


 いない者も、治療所に置く。


 ミナがそう決めた。


 なら、治療所は受け持つ。


 リリアは小さく息を吐いた。


「アイザワ殿は、治療所」


 誰にも聞こえない声で言った。


 それから、次の布を取った。


     ◇


【土曜日 17:31/広場中央】


 赤ゴブリンの死体は、まだ動かしていない。


 日が落ちる前に処理しなければならない。


 だが、急いで全員で向かうわけにはいかない。


 村長は広場中央に立ち、役を分けた。


「北は、ダリオと見張り二人で確認を続けます。赤の死体には、決めた者だけが近づきます」


 呼ぶ役が繰り返す。


「決めた者だけ」


「井戸は水を出します。倉庫は食料を動かしません。治療所は怪我人を見ます。南は小屋を維持」


 ミナは板を見ている。


 木炭を持つ。


 増やさない。


 でも、必要な印は置く。


 赤。


 死体。


 森。


 それを広場に大きく描けば、全員がそちらを見る。


 だから、描かない。


 代わりに、仕事の下に小さく印を置く。


 外を見る者。


 運ぶ者。


 残る者。


 ミナは自分で決めた。


 アイザワに聞けない。


 聞けないなら、自分で決めるしかない。


「これでいい?」


 思わず言った。


 誰に聞いたのか分からない。


 アイザワにか。


 村長にか。


 自分にか。


 村長が静かに答えた。


「よいと思います」


 ミナは頷いた。


「じゃあ、これ」


 木炭で線を引く。


 手は震えている。


 だが、止まらない。


     ◇


【土曜日 18:06/北柵】


 赤ゴブリンの死体を動かす時、ガンツは来なかった。


 来たがった。


 リリアに止められた。


 代わりに、ダリオが見た。


 村の男が二人。


 避難民の男が一人。


 ハルトは井戸から動かない。


 マルタは倉庫から動かない。


 リリアは治療所から動かない。


 村長は広場から動かない。


 アイザワなら、そう言ったはずだ。


 全員で見るな。


 決めた者だけ見る。


 ダリオは、赤ゴブリンの死体の周囲を確認した。


 罠。


 小ゴブリン。


 毒。


 石。


 何もない。


 少なくとも、見える範囲では。


「引く」


 ダリオが言う。


 男たちは縄をかける。


 直接触らない。


 赤ゴブリンの体は重かった。


 引くたびに、土が削れる。


 血が線を作る。


 誰も言葉を出さない。


 赤が死んだ。


 それは勝ちだ。


 だが、勝ちの形は、思っていたものとは違った。


 アイザワがいない。


 その事実が、死体よりも重かった。


 避難民の男が小さく言った。


「あの人は」


 ダリオが見る。


 男は言葉を止めた。


 ダリオは短く言う。


「今は、赤を見る」


 男は頷いた。


 アイザワのことは、今見ない。


 忘れない。


 だが、今は赤を見る。


     ◇


【土曜日 18:44/広場中央】


 夕方の粥は、さらに薄かった。


 赤を倒しても、粥は濃くならない。


 マルタが言った通りだった。


 だが、少しだけ違う。


 森を見に行ける可能性が出た。


 食料を探しに出られる可能性が出た。


 道が開くかもしれない。


 それだけで、薄い粥の重さが少し変わる。


 マルタは配膳の前に言った。


「今日は、まだ薄いよ」


 誰も文句を言わなかった。


 言う力が残っていない者もいる。


 言わないと決めた者もいる。


 子供が椀を受け取る。


 さっき、おかわりを聞いた子だった。


 今度は何も言わなかった。


 ただ、椀を両手で持つ。


 ミナはそれを見て、唇を噛んだ。


 食料。


 まだ足りない。


 赤は倒した。


 でも、明日から食べるものを探さなければならない。


 アイザワはいない。


 それでも、探さなければならない。


 村長が言う。


「明朝、森の浅い場所を確認します。全員ではありません。決めた者だけです」


 呼ぶ役が繰り返す。


「明朝、決めた者だけ」


 ミナは板を見る。


 明日の板が必要になる。


 でも、今は夜の板。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 今夜も、夜は来る。


     ◇


【土曜日 19:27/治療所】


 ガンツは横になっていた。


 ようやく。


 リリアに何度も言われたからではない。


 血が足りなくなってきたからだ。


 顔色が悪い。


 だが、目だけは強い。


「リリア」


「喋らないでください」


「アイザワは」


「喋らないでください」


「答えろ」


 リリアは布を替える手を止めた。


 しばらく沈黙する。


「分かりません」


 正直に言った。


「死んだのか」


「分かりません」


「あの傷でか」


「私の知る限り、助かる傷ではありませんでした」


 ガンツの顔が硬くなる。


「ですが」


 リリアは続けた。


「消えました」


「ああ」


「死体はありません」


「ああ」


「血はあります。傷は見ました。呼吸も落ちていました。ですが、最後に光って消えました」


「じゃあ、分からねぇな」


「はい」


 リリアは頷いた。


「分かりません」


 ガンツは天井を見る。


 治療所の布の天井。


「俺は、あいつをまだ殴ってねぇ」


「そうですか」


「だから、死んだって決めねぇ」


「それは、治療の判断ではありません」


「俺の判断だ」


「では、そうしてください」


 リリアは布を結び直した。


「ただし、今は寝てください」


「……お前も大概だな」


「誰かの影響かもしれません」


 ガンツは少しだけ笑った。


 すぐに顔をしかめた。


「痛ぇ」


「当然です」


 リリアは淡々と言った。


 その淡々さで、自分を支えていた。


     ◇


【土曜日 20:13/広場中央】


 夜の板になった。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 誰。


 どこ。


 何。


 ミナは、そこにもう一つ描きそうになった。


 回し屋。


 描きかけて、止めた。


 描けば、広場がそこを見る。


 アイザワを見る。


 いない人を見る。


 今夜、それを広場の中心に置くと、広場が崩れる。


 だから、描かない。


 でも、消すわけではない。


 ミナは板の端。


 火でも水でも呼ぶでもない場所に、小さな点を置いた。


 誰にも説明しない。


 呼ぶ役が見た。


「それは?」


 ミナは少し黙った。


「戻る場所」


「誰の」


 ミナは答えなかった。


 呼ぶ役も、それ以上聞かなかった。


 点は小さい。


 誰も気づかないかもしれない。


 でも、ミナには見える。


 戻る場所。


 回し屋が戻る場所。


 戻るかどうかは分からない。


 でも、場所だけは消さない。


     ◇


【土曜日 21:02/広場中央】


 夜は静かだった。


 赤の声はしない。


 森の奥も、いつもより静かだった。


 その静けさが、逆に怖かった。


 だが、広場は動いている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 ミナは板の前にいる。


 呼ぶ役が横にいる。


 村長は少し離れて座っている。


 井戸にはハルト。


 倉庫にはマルタ。


 治療所にはリリア。


 北にはダリオ。


 ガンツは治療所。


 アイザワは、いない。


 いない。


 その言葉が、何度も胸に刺さる。


 ミナは涙を拭いた。


 もう泣かない、とは決めていない。


 泣く。


 たぶん、また泣く。


 でも、板の前で泣いても、板は戻す。


 それだけ決めた。


 呼ぶ役が小さく言う。


「火、水、呼ぶ」


 ミナも言う。


「火、水、呼ぶ」


 夜が続く。


 アイザワのいない夜。


 それでも、火は消えなかった。


 水は守られていた。


 呼ぶ声は、残っていた。

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