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第百三話 白い天井

【土曜日 15:57/大阪・自室】


 最初に戻ってきたのは、音だった。


 冷蔵庫の低い音。


 遠くの車。


 隣室の物音。


 大阪の音。


 次に、匂い。


 畳。


 洗剤。


 乾いた空気。


 血の匂いはしなかった。


 相沢は目を開けた。


 天井が見えた。


 大阪の自室。


 蛍光灯。


 カーテンの隙間から入る午後の光。


 土曜日の部屋だった。


 体が動かない。


 いや、動かせない。


 動かそうとした瞬間、腹の奥に焼けるような痛みが走った。


「っ……!」


 声にならない声が漏れた。


 相沢は畳の上に倒れていた。


 鞄はない。


 靴は履いていない。


 服は、出発前のままだった。


 血はない。


 腹に穴もない。


 だが、痛みだけがあった。


 爪が入った場所。


 赤ゴブリンの腕を掴んだ感触。


 ガンツの声。


 ミナの声。


 リリアの手。


 全部が残っている。


 相沢は腹を押さえた。


 服の上から触る。


 裂けていない。


 濡れていない。


 だが、体の中だけが、まだ向こうに置いてきたようだった。


 スマホが、畳の上に落ちていた。


 画面が光っている。


 相沢は震える手で、それを取った。


 土曜日。


 15:57。


 平日ではない。


 通常の帰還時刻でもない。


 転移してから、まだ半日も経っていない。


 異常帰還。


 そうとしか言えなかった。


 視界の端に、表示が浮かぶ。



【帰還処理:

 完了】


【滞在状態:

 強制終了】


【転移条件:

 異常】


【対象:

 相沢誠司】


【生命活動:

 安定化中】


【疼痛:

 高】


【推奨:

 安静】



「……安静、ばっかりだな」


 声がかすれた。


 返事はない。


 オカンは喋らない。


 表示だけが、相沢を見ている。


 相沢は起き上がろうとした。


 腹が焼ける。


 視界が揺れる。


 すぐに表示が増えた。



【警告:

 起立非推奨】


【推奨:

 横臥継続】


【推奨:

 水分摂取】


【推奨:

 医療機関受診】



「医療機関……」


 相沢は畳の上で、短く笑いそうになった。


 受診。


 何と言う。


 赤ゴブリンに腹を裂かれました。


 異世界から強制帰還しました。


 外傷はありませんが、痛みがあります。


 言えるわけがない。


 だが、痛みは本物だった。


 体が冷える。


 汗が出る。


 呼吸が浅くなる。


 相沢はスマホを握ったまま、天井を見た。


 村は。


 あの後、どうなった。


 赤は倒れたのか。


 ガンツは生きているのか。


 リリアは。


 ミナは、広場を戻したのか。


 ハルトは井戸を離れなかったのか。


 マルタは倉庫を開けなかったのか。


 ダリオは森を見続けたのか。


 村長は、役を離れるなと言い続けたのか。


 表示は、答えなかった。


 ただ、最後に見た文字だけが、頭の中に残っている。


 集落運用、継続。


 継続。


 それだけが、今の相沢に渡された情報だった。


     ◇


【土曜日 16:19/大阪・自室】


 相沢は、ようやく水を飲んだ。


 這うようにして台所へ行き、コップを取った。


 蛇口を捻る。


 水が出る。


 透明な水。


 いくらでも出る水。


 手が震えた。


 コップの水が少しこぼれる。


 もったいない。


 その言葉が、反射のように出た。


「……もったいない」


 相沢は自分で驚いた。


 大阪の水だ。


 蛇口を捻れば出る。


 それでも、こぼれた水を見てしまう。


 井戸。


 石。


 泥。


 水はまだ死んでいない。


 ハルトの声がよみがえる。


 相沢は水を飲んだ。


 一口。


 二口。


 喉が痛い。


 腹も痛い。


 飲むだけで、体の奥がきしむ。


 だが、飲んだ。


 コップを置き、壁にもたれる。


 立っていられない。


 床に座り込む。


 スマホを見る。


 通知がある。


 会社のグループ。


 広告。


 配送通知。


 そして、七瀬からのメッセージ。


『週末、休めてますか?』


 送信時刻は十五時四十分。


 相沢が、まだ村で血を流していた頃だ。


 相沢は画面を見つめた。


 返信しなければ。


 普通に。


 普通の人間として。


 だが、指が動かない。


 どう返す。


 休めています。


 嘘だ。


 大丈夫です。


 嘘だ。


 少し寝ています。


 それなら、近い。


 相沢は震える指で打った。


『少し寝ています。返信遅くなりました』


 送信する。


 すぐに既読がついた。


『寝てる人は返信しません』


 相沢は、少しだけ笑った。


 腹が痛んだ。


 すぐに笑うのをやめた。


 次のメッセージが来る。


『声は出ますか?』


 電話ではないのに、声の心配をしてくる。


 相沢は返信に迷った。


『出ます』


『熱は?』


『たぶんありません』


『たぶん?』


 相沢は、体温計を探す気力がなかった。


 正直に打つ。


『測ってません』


 少し間が空いた。


『測ってください』


 相沢はスマホを見たまま、壁にもたれた。


 表示がまた出る。



【推奨:

 体温測定】


【推奨:

 水分摂取】


【推奨:

 安静】



「……お前もか」


 相沢は呟いた。


 七瀬とオカンの指示が重なる。


 妙に腹が立つ。


 妙にありがたい。


 相沢は、ゆっくり立った。


 体温計を探すために。


     ◇


【土曜日 16:42/大阪・自室】


 体温は、三十七度六分だった。


 高い。


 だが、救急車を呼ぶほどではない。


 たぶん。


 腹の痛みは、数字には出ない。


 相沢は布団に横になり、七瀬に送った。


『37.6です。水は飲みました』


 すぐ返る。


『微熱ありますね。病院行けます?』


 相沢は画面を見た。


 病院。


 行くべきかもしれない。


 だが、歩けるか。


 説明できるか。


 腹に傷はない。


 外傷はない。


 痛みだけがある。


 精神的なものと言われるかもしれない。


 いや、実際に精神だけではない。


 でも、証明できない。


 相沢は返信を打つ。


『少し休んで、悪化したら行きます』


 七瀬からすぐ返る。


『それ、行かない人の返事です』


 相沢は目を閉じた。


 分かっている。


 自分でも分かる。


 行かない人の返事。


 休まない人の返事。


 戻らない人の返事。


 全部同じだ。


 約束を破る人間の返事だ。


 相沢はスマホを置いた。


 天井を見る。


 ミナの声が耳に残る。


 火、水、呼ぶ。


 戻れ。


 戻れ。


 自分は戻らなかった。


 止まれなかった。


 線を越えた。


 その結果、今ここにいる。


 大阪に。


 血のない部屋に。


 痛みだけを持って。


 村に、死体を残したのか。


 いや、体は消えた。


 血と鞄の破片と小板だけを残して。


 村人から見れば、どう見える。


 相沢は、赤に刺されて倒れた。


 白く光って消えた。


 死んだようにしか見えない。


 死体もない。


 墓も作れない。


 ミナは。


 相沢は、目を閉じた。


 考えるな。


 いや、考えろ。


 でも、混ぜるな。


 分かること。


 自分は大阪にいる。


 生きている。


 痛みはある。


 表示は強制帰還完了。


 再転移条件は、未確定。


 分からないこと。


 村のその後。


 赤の完全な死。


 ガンツの傷。


 ミナの状態。


 次に戻れるか。


 相沢は息を吐いた。


 吐いた息が震えた。


     ◇


【土曜日 17:18/大阪・自室】


 眠っていたのか、気を失っていたのか。


 分からない。


 相沢は、スマホの振動で目を開けた。


 七瀬からだった。


 今度は電話。


 出るべきではない。


 声で分かる。


 七瀬は、声で分かる。


 だが、出ない方がもっと怪しまれる。


 相沢は、通話ボタンを押した。


「……はい」


『相沢さん?』


「はい」


『声、死んでますね』


「寝起きです」


『寝起きだけじゃないです』


「大丈夫です」


『それも駄目です』


「何がですか」


『大丈夫な人の大丈夫じゃないです』


 相沢は目を閉じた。


 返す言葉がない。


『今、家ですか』


「はい」


『一人ですか』


「はい」


『食べました?』


「まだです」


『水は?』


「飲みました」


『病院は?』


「様子を見ます」


『それ、行かない人の返事です』


「さっき聞きました」


『何度でも言います』


 ガンツみたいだ。


 相沢はそう思った。


 後で殴る。


 何度でも言う。


 声が重なる。


『相沢さん、本当に何があったんですか』


 七瀬の声が、少しだけ低くなった。


 仕事の声ではない。


 雑談でもない。


 相沢は天井を見た。


 何があった。


 赤ゴブリンに刺された。


 村を守る約束を破った。


 でも、村は崩れなかった。


 自分は死んだように見えて、帰ってきた。


 言えない。


 言えるはずがない。


「ちょっと、無理をしました」


『仕事で?』


「仕事ではないです」


 言ってから、相沢は失敗したと思った。


 電話の向こうが、少し静かになる。


『仕事ではない無理を、土曜日に、家で、一人で、微熱出して、声が死ぬほどしたんですか』


「まとめると変ですね」


『変です』


「ですよね」


『笑い事じゃないです』


「笑ってません。腹に響くので」


 また、失敗した。


『腹?』


 七瀬の声が鋭くなる。


『お腹痛いんですか』


「少し」


『どれくらい』


「動くと、結構」


『病院行ってください』


「外傷はないです」


『外傷がない腹痛でも病院行くことあります』


「そうですね」


『相沢さん』


「はい」


『今から救急相談に電話してください。自分で判断しないでください』


 相沢は黙った。


 自分で判断しない。


 今日、何度も言われたことに近い。


 全部見るな。


 役に渡せ。


 自分で全部決めるな。


『聞いてます?』


「聞いてます」


『じゃあ、電話切ったら、救急相談です』


「はい」


『“はい”だけだと信用できません』


 相沢は、少しだけ息を吐いた。


「電話します」


『何分後?』


「今から」


『よし』


 得意先に、よし、と言われる営業。


 そんなことを考えた。


 だが、今回は笑えなかった。


     ◇


【土曜日 17:46/大阪・自室】


 救急相談に電話した。


 腹痛。


 微熱。


 強い疲労。


 外傷なし。


 意識はある。


 水は飲める。


 ただし、痛みが強い。


 相沢は、事実だけを伝えた。


 異世界のことは言わない。


 赤ゴブリンのことも言わない。


 爪が入ったことも言わない。


 それでも、相談員は受診を勧めた。


 休日診療。


 近くの救急外来。


 痛みが強くなるなら救急車。


 相沢はメモした。


 七瀬へも短く送った。


『救急相談に電話しました。受診を勧められました。近くの外来を確認します』


 返信はすぐだった。


『行ってください。タクシー使ってください。自分で運転しないでください』


 相沢は、少しだけ笑いそうになった。


 運転する気力などない。


『タクシーにします』


『病院着いたら一報ください』


 相沢はスマホを置いた。


 行く準備をしなければならない。


 着替え。


 財布。


 保険証。


 スマホ。


 鍵。


 普通の持ち物。


 異世界へ行く時の鞄は、もうない。


 向こうに残した。


 袋も。


 小板も。


 塩飴も。


 油性ペンも。


 全部、向こうに残した。


 相沢は、ふと机を見た。


 ノートだけが残っている。


 改善メモ。


 土曜〇時、転移想定。


 持ち込み品。


 声対策。


 食料逼迫。


 赤を動かす。


 そこまで書いてある。


 その先は、ない。


 相沢はペンを取ろうとした。


 腹が痛んだ。


 表示が出る。



【推奨:

 記録作業中止】


【推奨:

 医療機関受診】



「……分かったよ」


 相沢はペンを置いた。


 記録は後だ。


 今は、受診。


 役に渡す。


 自分の体は、医療に渡す。


 それだけのことが、妙に難しかった。


     ◇


【土曜日 18:22/大阪・救急外来】


 病院の待合は、明るかった。


 白い床。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


 受付の声。


 番号表示。


 子供の泣き声。


 高齢者の咳。


 現代の治療所。


 相沢は椅子に座っていた。


 腹を押さえて。


 問診票には、腹痛、微熱、倦怠感と書いた。


 原因の欄で、少し止まった。


 不明。


 そう書いた。


 正しい。


 この世界では不明だ。


 順番を待つ間、スマホを開く。


 七瀬に送る。


『病院着きました。待ちです』


 すぐ返る。


『よかったです。診てもらってください。返信は後でいいです』


 返信は後でいい。


 その言葉が、少しだけありがたかった。


 相沢はスマホを伏せる。


 目を閉じる。


 閉じると、村が見える。


 白い病院の椅子ではなく、広場の板。


 消毒液ではなく、煙と血の匂い。


 番号表示ではなく、オカンの表示。


 呼ばれる。


「相沢さん」


 現代の声だった。


 看護師が立っている。


「診察室へどうぞ」


 相沢は立ち上がる。


 腹が痛む。


 歩く。


 診察室へ。


 治療所ではなく、病院へ。


     ◇


【土曜日 19:37/大阪・救急外来】


 診断は、はっきりしなかった。


 血液検査。


 腹部の触診。


 簡単な画像検査。


 大きな異常は見えない。


 ただし、痛みと発熱がある。


 強いストレスや過労で、自律神経や胃腸が乱れている可能性もある。


 医師はそう言った。


 相沢は頷いた。


 強いストレス。


 過労。


 間違いではない。


 間違いではないが、足りない。


 痛み止め。


 胃薬。


 解熱剤。


 水分補給。


 安静。


 症状が悪化すれば再受診。


 そう説明された。


 相沢は薬を受け取り、待合の端に座った。


 腹の痛みは少しだけましになっている。


 だが、消えてはいない。


 スマホを見る。


 七瀬に送る。


『大きな異常は見つかりませんでした。薬をもらって帰ります。安静と言われました』


 返信。


『よかったです。でも安静してください。大きな異常がないから大丈夫、ではないです』


 相沢は画面を見て、苦笑した。


 まったくその通りだった。


『分かりました』


『信用はしてません』


『でしょうね』


『今日は寝てください。明日も無理しないでください』


 明日。


 日曜日。


 本来なら、まだ異世界にいるはずの日。


 だが、相沢は大阪にいる。


 再転移条件は未確定。


 明日、戻れるのか。


 戻れないのか。


 戻るべきなのか。


 体は戻れる状態なのか。


 村は、相沢を死んだと思っているのか。


 相沢はスマホを閉じた。


 考えても、今は答えが出ない。


 今は帰る。


 寝る。


 薬を飲む。


 それが、今日の役だった。


     ◇


【土曜日 20:26/大阪・自室】


 部屋に戻ると、畳の上に倒れた跡はなかった。


 血もない。


 白い光もない。


 ただ、スマホの充電器が少しずれている。


 水の入ったコップが置かれている。


 現実は、何も知らない顔でそこにある。


 相沢は薬を飲んだ。


 水を飲む。


 布団に入る。


 腹はまだ痛い。


 だが、病院へ行った。


 七瀬に報告した。


 薬も飲んだ。


 最低限、現代側の役は果たした。


 視界の端に表示が浮かぶ。



【医療機関受診:

 完了】


【水分摂取:

 実施】


【投薬:

 実施】


【対象:

 相沢誠司】


【推奨:

 睡眠】


【再転移条件:

 未確定】



 再転移条件。


 やはり出る。


 相沢は天井を見る。


「明日、戻れるのか」


 表示は答えない。


 ただ、項目だけが残る。



【再転移条件:

 未確定】



 村はどう見ているのだろう。


 死んだ。


 消えた。


 帰った。


 どれだ。


 リリアは、どう判断する。


 ガンツは、怒るだろう。


 ミナは。


 相沢は目を閉じた。


 考えると、痛みが強くなる気がした。


 だが、考えずにはいられない。


 最後に見た表示。


 集落運用、継続。


 それだけを、何度も思い出す。


 継続。


 続いている。


 なら、今はそれを信じるしかない。


 相沢は布団の中で、腹に手を置いた。


 傷はない。


 だが、痛みはある。


 約束を破った痛み。


 赤に裂かれた痛み。


 村を置いてきた痛み。


 全部が同じ場所にあった。


「……火、水、呼ぶ」


 相沢は小さく呟いた。


 大阪の部屋には、誰もいない。


 それでも、呟いた。


「広場、戻せ」


 自分に言ったのか。


 ミナに言ったのか。


 分からない。


 返事はない。


 ただ、冷蔵庫の低い音だけが、夜の部屋に残った。

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