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第百二話 見えるものだけ

【土曜日 14:52/北柵】


 ガンツの槍が、赤ゴブリンの胸を捉えた。


 深い。


 だが、貫いてはいない。


 赤ゴブリンは倒れなかった。


 槍の柄を、長い腕で掴む。


 ガンツが歯を食いしばる。


「重てぇな……!」


 赤ゴブリンが一歩、前へ出た。


 胸に槍を受けたまま。


 ガンツごと押す。


 普通なら、そこで終わる。


 槍を持つ者が下がり、赤が柵へ食い込む。


 だが、今は違った。


「下!」


 ダリオが短く言った。


 ガンツは迷わなかった。


 槍を押すのではなく、下へ落とす。


 赤ゴブリンの体勢が崩れる。


 膝。


 足首。


 矢の刺さった場所。


 そこへ、見張りの棒が入った。


 赤ゴブリンの足が滑る。


 前のめりになる。


 ガンツは槍を離さない。


 体ごと沈み、肩で柄を押さえた。


「今だ!」


 ダリオの矢が飛んだ。


 狙いは目ではない。


 喉でもない。


 赤ゴブリンの右手。


 槍を掴んでいた指。


 矢が甲に刺さる。


 赤ゴブリンの手が開いた。


 ガンツが槍を抜く。


 血が飛んだ。


 赤ゴブリンが叫ぶ。


 その声が、森へ広がった。


 助けて。


 ミナ。


 アイザワ。


 くれ。


 戻れ。


 逃げろ。


 いくつもの意味に聞こえる声だった。


 だが、広場から別の声が返った。


「声は声! 見えるものだけ!」


 ミナだった。


 それに呼ぶ役が続く。


「声は声! 見えるものだけ!」


 広場の声が、森の声を押し返す。


 相沢は線の内側で、それを聞いていた。


 声に意味を渡さない。


 それが、ここまで作ってきた答えだった。


     ◇


【土曜日 14:57/広場中央】


 広場は、叫んでいた。


 だが、崩れてはいない。


 誰も森へ走っていない。


 井戸へも群がっていない。


 倉庫も開いていない。


 治療所にも押し寄せていない。


 ただ、決めた言葉を返している。


「声は声!」


「見えるものだけ!」


 子供の声も混じっていた。


 震えている。


 泣いている。


 それでも言っている。


 ミナは板の前にいた。


 木炭を持っていない。


 今は描かない。


 増やさない。


 ただ、手で板を押さえている。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 誰。


 どこ。


 何。


 全部、残っている。


 マルタは倉庫前で戸を背にしていた。


 手には棒。


 だが、戸は開けていない。


 ハルトは井戸の前で、石と水を見ている。


 リリアは治療所で怪我人の息を見ている。


 村長は中央で、何度も同じ言葉を出す。


「役を離れるな!」


 それだけ。


 それだけが、今は強かった。


     ◇


【土曜日 15:03/北柵】


 赤ゴブリンは後ろへ跳んだ。


 胸から血を流している。


 足を引きずっている。


 右手も使いにくい。


 それでも、まだ速い。


 森へ戻ろうとする。


 戻せば、また夜になる。


 夜になれば、声が来る。


 食料はない。


 もう一晩は、持たない。


 相沢は叫んだ。


「戻すな!」


 ガンツが槍を構え直す。


「言われなくても!」


 ダリオが森の奥を見ている。


 矢は残り少ない。


 相沢はその数を見た。


 ダリオの手元。


 残り二本。


 無駄にできない。


 赤ゴブリンが森へ一歩下がる。


 その瞬間、南からまた煙が上がった。


 小さな煙。


 同時に、井戸側から声。


「石!」


 さらに、治療所の方で子供が泣いた。


 広場が揺れる。


 赤は最後まで、広場を割ろうとしている。


 相沢の足が、南へ向きかけた。


 すぐにミナの声が来る。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は止まる。


 ガンツが怒鳴る。


「こっち見ろ!」


 相沢は北へ戻す。


 赤ゴブリンの姿。


 血。


 足。


 森との距離。


 見えるものだけ。


「南は?」


 ガンツが聞く。


「南が見る!」


「井戸は?」


「ハルト!」


「治療所は?」


「リリアさん!」


「なら前を見ろ!」


「ああ!」


 ガンツが一歩出た。


 柵の外へは出ない。


 だが、柵の際。


 赤ゴブリンが森へ下がるなら、その前に踏み込む。


 赤が腕を振った。


 長い腕。


 爪。


 ガンツは槍で受ける。


 木が軋む。


 肩の傷から血がにじむ。


 相沢は動きかける。


 また止まる。


 ここはガンツの場所。


 自分の場所ではない。


     ◇


【土曜日 15:08/井戸前】


 井戸の石は、また道の端にあった。


 今度は二つ。


 どちらも泥がついている。


 若い男が言う。


「触ってない!」


 ハルトは頷いた。


「見た者」


「俺」


「どこ」


「井戸道の端」


「何」


「石二つ。水には入ってない。縁にも触ってない」


「よし」


 ハルトは棒で石を押しのける。


 井戸は見える。


 水面も見える。


 濁りなし。


 匂いなし。


「水はまだ死んでない!」


 ハルトが広場へ返す。


 広場から声が戻る。


「水はまだ死んでない!」


 井戸に人は集まらない。


 若い男が震えながら笑った。


「言えるようになりましたね」


「笑うな」


「すみません」


「でも、言えた」


「はい」


 ハルトは井戸を見る。


 怖くないわけではない。


 だが、動かない。


 水を守るとは、井戸の前から離れないことだった。


     ◇


【土曜日 15:11/南の空き小屋】


 南の煙は、また布だった。


 今度は骨ではない。


 焦げた草。


 湿った布。


 煙だけ。


 火は広がっていない。


 入口の若い男が、水を求めて振り向く。


 村の男が先に言った。


「小桶」


「分かってる」


「大桶は動かさない」


「分かってる」


 小桶の水で煙を消す。


 子供たちは小屋の中。


 入口は空いている。


 誰も外へ走っていない。


 避難民の女が、泣く子の口を押さえすぎないように抱いている。


「外へ出ない」


 女が言う。


「火は?」


 子供が聞く。


「火じゃない」


「煙」


「煙は大人が見る」


 声は震えている。


 だが、手順は残っている。


     ◇


【土曜日 15:15/北柵】


 報告が広場を通じて戻る。


 南、火ではない。


 井戸、水は死んでいない。


 治療所、受け入れ継続。


 倉庫、開けていない。


 相沢はそれを聞き、息を吐いた。


 赤ゴブリンも聞いている。


 こちらの声を。


 戻った報告を。


 崩れていないことを。


 赤ゴブリンの顔が歪む。


 怒りか。


 痛みか。


 苛立ちか。


 分からない。


 ただ、声が変わった。


 もう人の声に似せていない。


 低い。


 割れた。


 本来の声。


 赤ゴブリンが、森へ戻るのをやめた。


 こちらへ向いた。


 ガンツが笑う。


「ようやく、その顔か」


 ダリオが矢を構える。


「次で止める」


「倒せるか」


「止める」


「倒すのは?」


 ダリオは短く言った。


「前」


 ガンツが槍を握り直した。


「俺か」


「そう」


「いいねぇ」


 相沢は二人を見る。


 前と目。


 ここで決める。


 自分ではない。


 自分が倒すのではない。


 自分は、崩れないように後ろを見る。


 そのはずだった。


     ◇


【土曜日 15:19/北柵】


 赤ゴブリンが突っ込んだ。


 速い。


 傷があるとは思えない。


 だが、まっすぐだ。


 声で曲げない。


 煙で割らない。


 石で揺らさない。


 力で来た。


 ガンツが槍を低く構える。


 胸ではない。


 足。


 ダリオの矢が先に飛ぶ。


 赤の足元。


 刺さらない。


 だが、踏む場所をずらす。


 赤ゴブリンの右足が、わずかに外へ流れる。


 ガンツの槍がそこへ入る。


 膝。


 横から。


 鈍い音。


 赤ゴブリンが傾く。


 だが、倒れながら腕を振った。


 ガンツの脇腹をかすめる。


 血が飛ぶ。


 広場から悲鳴が上がる。


 相沢の足が出た。


 一歩。


 線を踏む。


 ガンツが倒れかける。


 赤ゴブリンが、その隙を狙ってもう一度腕を伸ばす。


 ガンツの首へ。


 相沢の体が前へ出た。


 その瞬間。


「火、水、呼ぶ!」


 ミナの声。


 続いて、リリアの声。


「約束です!」


 さらに、ガンツの声。


「来るな!」


 相沢は止まった。


 止まった。


 歯が鳴るほど強く噛んだ。


 ガンツは自分で膝をつき、槍の柄を赤の腕に叩きつけた。


 完全には防げない。


 だが、首から逸らした。


 ダリオの最後の一本が飛ぶ。


 赤ゴブリンの開いた脇。


 深く刺さる。


 赤が大きく仰け反った。


 ガンツが立ち上がる。


 血を流しながら。


「俺の前だ」


 ガンツは低く言った。


「俺が止める」


 槍を両手で握る。


 肩の傷。


 脇腹の傷。


 それでも前へ出る。


 相沢は線の内側で、動けなかった。


 動かないと決めたから。


 動けないのではない。


 動かない。


     ◇


【土曜日 15:22/広場中央】


 ミナは叫んだ後、息が切れていた。


 喉が痛い。


 目の奥が熱い。


 ガンツが血を流しているのが見えた。


 相沢が前へ出かけたのも見えた。


 止めた。


 止めてしまった。


 正しい。


 正しいはずだ。


 でも、胸が痛い。


 ミナは板を叩いた。


「広場、戻す!」


 声が少し泣いていた。


 それでも言う。


「北が見る! 治療所は受ける! 井戸は水! 倉庫は食料!」


 呼ぶ役が続く。


「火、水、呼ぶ!」


 村長が言う。


「役を離れるな!」


 マルタが倉庫の前で歯を食いしばっている。


「開けないよ」


 誰に言ったのか分からない。


 リリアは治療所前に立っている。


 ガンツの血を見ている。


 来るなら受ける。


 だが、迎えに出ない。


 ハルトは井戸の前で、棒を握る手に力を込めていた。


 全員が、動きたい。


 全員が、動かない。


 その我慢が、広場を支えていた。


     ◇


【土曜日 15:25/北柵】


 赤ゴブリンは、傷だらけだった。


 だが、ガンツも傷だらけだった。


 ダリオの矢は尽きた。


 見張りの一人は治療所。


 もう一人は槍を構えているが、腕が震えている。


 相沢は線の内側で、状況を見る。


 赤はまだ立つ。


 こちらは前が限界。


 どうする。


 声は効きにくくなった。


 誘導も潰れている。


 だが、力で来られると押し切られる。


 このままでは、ガンツが倒れる。


 ガンツが倒れたら、北が開く。


 北が開けば、広場が割れる。


 相沢は考えた。


 自分が出れば。


 その考えが浮かぶ。


 すぐに消せない。


 自分が前に出て、赤の注意を引けば。


 ガンツが刺せる。


 ダリオに矢はない。


 見張りは限界。


 自分が。


 その時、視界の端に表示が浮かんだ。



【警告:

 過剰介入兆候】


【対象:

 相沢誠司】


【行動予測:

 役割逸脱】


【推奨:

 停止】


【推奨:

 後方確認】



「分かってる」


 相沢は小さく言った。


 分かっている。


 自分が一番危ない。


 分かっている。


 なのに、考える。


 ガンツが押される。


 赤ゴブリンの腕が、また上がる。


 ガンツの顔が歪む。


 脇腹から血が落ちる。


 相沢の足が、線を越えかけた。


「回し屋!」


 ミナの声。


 相沢は止まる。


 ミナは叫んだ。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は広場を見る。


 ミナがいる。


 板がある。


 泣きそうな顔で、でも戻している。


 相沢は奥歯を噛んだ。


 自分が約束を破れば、あの板が壊れる。


 ガンツを助けるために前へ出て、村を壊す。


 それでは意味がない。


 相沢は線の内側に戻った。


 その時、ダリオが矢のない弓を下げた。


「石」


 相沢が振り向く。


「何?」


「石」


 ダリオは足元を指した。


 北柵の内側。


 小さな投石用の石。


 見張りが赤に備えて集めていたもの。


 矢はない。


 だが、石はある。


 ダリオは弓を置き、石を一つ拾った。


 投げるのか。


 相沢は一瞬そう思った。


 違った。


 ダリオは石を、見張りの槍の柄へ当てた。


 乾いた音が鳴る。


 赤ゴブリンの目が、そちらへ動いた。


 音。


 声ではない音。


 意味のない音。


 だが、赤は反応した。


 相沢は気づいた。


「音に反応する」


 ダリオが頷く。


「声を使うから」


「音を見てるのか」


「そう」


 ガンツが赤を押さえながら叫ぶ。


「分かったなら、早くしろ!」


 相沢は石を拾った。


 見張りにも言う。


「槍じゃない! 音を鳴らせ! 右、左、ばらけて!」


 見張りが石を拾う。


 柵。


 槍の柄。


 木桶。


 石。


 乾いた音がいくつも鳴る。


 赤ゴブリンの目が揺れた。


 どの音が声か。


 どの音が人か。


 どの音が意味を持つのか。


 赤が迷った。


 ほんの一瞬。


 ガンツがその一瞬を逃さなかった。


「おらぁ!」


 槍を押し込む。


 今度は胸ではない。


 傷の入った脇。


 ダリオの矢が刺さった場所。


 槍先が入った。


 赤ゴブリンが大きく仰け反る。


 片膝をつく。


 ついに、倒れかけた。


     ◇


【土曜日 15:31/広場中央】


 北から音が鳴り始めた。


 石。


 木。


 槍の柄。


 意味のない音。


 広場の何人かが驚いて北を見る。


 ミナがすぐ言った。


「北が見る!」


 呼ぶ役が続ける。


「北、音! 作戦! 広場はそのまま!」


 作戦。


 その一言だけで、広場は少し戻った。


 何が起きているか、全部は分からない。


 だが、北が勝手に崩れているわけではない。


 決めてやっている。


 それだけで、人は少し止まれる。


 マルタが倉庫前で言う。


「音に釣られるんじゃないよ」


 ハルトが井戸側で続ける。


「水はここだ」


 リリアは治療所で、怪我人の呼吸を聞いている。


 外の音を追わない。


 自分の前の息を見る。


 村長は静かに言った。


「見えるものだけです」


 その声が、また広場の中に落ちた。


     ◇


【土曜日 15:35/北柵】


 赤ゴブリンは膝をついた。


 片膝。


 片手。


 それでも、まだ倒れない。


 胸と脇から血が落ちる。


 足は震えている。


 右手も動きが鈍い。


 だが、目だけはまだ死んでいない。


 相沢を見ている。


 いや。


 相沢の後ろを見ている。


 広場。


 ミナ。


 呼ぶ役。


 相沢はその視線に気づいた。


「後ろ」


 ダリオが同時に言った。


 赤ゴブリンが動いた。


 前ではない。


 横。


 ガンツを避ける。


 倒れたふりからの横跳び。


 ありえない速度。


 傷ついた体で、まだそれを残していた。


 狙いは相沢ではなかった。


 広場。


 板。


 呼ぶ役。


 ミナ。


 ガンツが追う。


 だが、脇腹の傷で一歩遅れる。


 ダリオに矢はない。


 見張りは反応が遅れた。


 赤ゴブリンが低く跳ぶ。


 柵の浅い部分を越え、広場へ向かう。


 相沢の中で、何かが切れた。


 呼ぶ役が潰されれば、広場の声が切れる。


 ミナが狙われれば、板が崩れる。


 赤が広場へ入れば、火、水、呼ぶが割れる。


 相沢は線を見た。


 線。


 約束。


 火、水、呼ぶ。


 ミナの声が飛ぶ。


「火、水、呼ぶ!」


 聞こえた。


 はっきり聞こえた。


 戻る声。


 約束の言葉。


 相沢は、それでも線を越えた。


     ◇


【土曜日 15:36/広場手前】


 足が土を蹴った。


 線の外。


 決めた場所の外。


 相沢は走っていた。


 赤ゴブリンは広場へ向かっている。


 ミナと呼ぶ役がいる場所へ。


 間に合うか。


 間に合わないか。


 そんな計算はなかった。


 ただ、体が前へ出た。


 視界の端に表示が弾ける。



【警告:

 役割逸脱】


【対象:

 相沢誠司】


【過剰介入:

 発生】


【推奨:

 停止】


【推奨:

 停止】


【推奨:

 停止】



 止まらない。


「回し屋!」


 ミナの声。


「戻れ!」


 ガンツの声。


「右!」


 ダリオの声。


 相沢は、赤ゴブリンの右側へ入った。


 広場と赤の間。


 呼ぶ役の前。


 ミナの前。


 赤ゴブリンの目が、初めて大きく見開かれた。


 狙い通りだったのか。


 予想外だったのか。


 分からない。


 ただ、その爪が相沢へ向いた。


 相沢は鞄を前に出した。


 営業鞄。


 袋。


 小板。


 油性ペン。


 塩飴。


 乾燥わかめ。


 村を回すために持ってきたもの。


 それが、赤の爪を一瞬だけ受けた。


 布が裂ける。


 中身が散る。


 小板が宙に舞う。


 人。


 場所。


 目。


 その印が、空中で回った。


 赤ゴブリンの爪が、鞄を裂いて、そのまま相沢の腹に入った。


 熱い。


 痛みは、少し遅れて来た。


 最初に来たのは、息が抜ける感覚だった。


「あ」


 声が漏れた。


 足が止まる。


 赤ゴブリンの顔が近い。


 古い傷。


 新しい傷。


 血。


 目。


 そこに、怒りがあった。


 声はもうなかった。


 ただ、赤ゴブリンそのものがいた。


 相沢は両手で、その腕を掴んだ。


 離さない。


 自分が前に出てしまった。


 約束を破った。


 なら、せめて。


「ガンツ!」


 声は、思ったより小さかった。


 だが、届いた。


     ◇


【土曜日 15:37/広場中央】


 ミナは、叫べなかった。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 相沢が線を越えた。


 止める声を聞いたのに、止まらなかった。


 赤の爪が、相沢に入った。


 鞄が裂けた。


 小板が落ちた。


 人。


 場所。


 目。


 誰。


 どこ。


 何。


 地面に転がる。


 ミナの視界が白くなった。


 だが、次の瞬間、村長の声がした。


「役を離れるな!」


 その声で、息が戻った。


 ミナは板を掴んだ。


 手が震える。


 木炭が落ちる。


 それでも叫ぶ。


「広場、戻す!」


 声は泣いていた。


 完全に泣いていた。


 だが、言葉は出た。


「火、水、呼ぶ!」


 呼ぶ役が泣きながら続ける。


「火、水、呼ぶ!」


「北、前!」


「治療所、受ける!」


「井戸、動かない!」


「倉庫、開けない!」


 マルタの声が飛ぶ。


「開けない!」


 ハルトの声。


「井戸は動かない!」


 リリアの声。


「治療所、受けます!」


 広場は割れなかった。


 相沢が倒れかけている。


 それでも、広場は割れなかった。


     ◇


【土曜日 15:38/広場手前】


 ガンツが来た。


 血を流しながら。


 槍を持って。


 相沢が赤の腕を掴んでいる。


 赤ゴブリンは爪を抜こうとしている。


 抜けば、相沢が崩れる。


 だが、その一瞬だけ、赤は止まっている。


 ガンツは叫ばなかった。


 怒鳴らなかった。


 ただ、踏み込んだ。


 槍を、赤ゴブリンの横腹へ突き込む。


 今度は、深い。


 赤ゴブリンが体を捻る。


 相沢の体も揺れる。


 痛みが爆発する。


 目の前が白くなる。


 それでも、相沢は腕を離さなかった。


 ダリオが石を拾っていた。


 矢はない。


 弓も置いた。


 石。


 その石を、赤ゴブリンの古い傷へ投げた。


 正確だった。


 石が傷に当たる。


 赤の顔が一瞬だけ歪む。


 ガンツが槍をさらに押し込む。


「倒れろ!」


 赤ゴブリンが咆哮した。


 意味のない声。


 本物の声。


 その喉へ、見張りの槍が入った。


 震える腕で。


 だが、入った。


 赤ゴブリンの声が潰れる。


 ガンツが最後に槍をひねった。


 赤ゴブリンの体が、大きく震えた。


 そして、崩れた。


 相沢ごと。


     ◇


【土曜日 15:39/広場中央】


 赤ゴブリンが倒れた。


 誰かが叫んだ。


 誰かが泣いた。


 誰かが立ち上がりかけた。


 ミナが叫ぶ。


「動かない!」


 自分でも信じられない声だった。


 赤が倒れた。


 相沢も倒れた。


 走りたい。


 行きたい。


 手を伸ばしたい。


 だが、広場が走れば、全部が崩れる。


「運ぶ役!」


 リリアが治療所前から叫んだ。


「二人! アイザワ殿を! 首と腹を動かさない!」


 村の男二人が動く。


 決められた者。


 他は動かない。


 ミナは板を押さえる。


 涙が落ちた。


 板に落ちた。


 火の印の横に、黒い染みができた。


「火、水、呼ぶ」


 ミナは言った。


 声は小さくなっていた。


 それでも言った。


「火、水、呼ぶ」


 呼ぶ役が続ける。


「火、水、呼ぶ」


 広場全体が、震えながら繰り返した。


 相沢が倒れても。


 赤が倒れても。


 村は、言葉を失わなかった。


     ◇


【土曜日 15:42/広場手前】


 相沢は空を見ていた。


 空が青い。


 こんな時でも、空は青い。


 腹が熱い。


 手が冷たい。


 誰かが体を押さえている。


 リリアの声が聞こえる。


「布を。強く押さえて。水は少し。口にはまだ入れない」


 リリアの声は震えていない。


 すごいな、と相沢は思った。


 こんな時でも。


 いや。


 こんな時だからか。


 ガンツの顔が見えた。


 血だらけだった。


 怒っている。


 泣いてはいない。


 でも、怒っている。


「馬鹿野郎」


 ガンツが言った。


 相沢は笑おうとした。


 うまく笑えなかった。


「……止まれなかった」


「知ってる」


「悪い」


「後で殴る」


「それ、さっきも聞いた」


「何度でも言う」


 ダリオが少し離れて立っている。


 森を見ている。


 相沢ではなく、森を。


 まだ終わっていないものを見るために。


 その姿に、相沢は少し安心した。


 ミナの声が聞こえる。


「広場、戻す!」


 泣いている。


 でも、戻している。


 相沢は目を閉じそうになった。


 表示が浮かぶ。



【生命活動:

 急速低下】


【対象:

 相沢誠司】


【外傷:

 重度】


【出血:

 危険域】


【意識:

 低下傾向】


【推奨:

 安静】



「安静……」


 相沢は小さく呟いた。


 リリアが顔を寄せる。


「喋らないでください」


「表示が」


「喋らないでください」


「厳しい」


「今は黙ってください」


 リリアの手が、腹を押さえている。


 血が広がっている。


 相沢にも分かる。


 これは、駄目だ。


 駄目だと、体が先に分かっている。


 だが、広場の声が聞こえる。


 火、水、呼ぶ。


 誰、どこ、何。


 声は声。


 見えるものだけ。


 まだ、聞こえる。


 村は、崩れていない。


     ◇


【土曜日 15:45/広場中央】


 村長は、赤ゴブリンが倒れた方を見なかった。


 いや、見た。


 一瞬だけ。


 だが、すぐに広場へ戻した。


「役を離れるな」


 声は静かだった。


 だが、全員に届いた。


「赤は倒れました。ですが、まだ森があります。怪我人がいます。水が必要です。食料は少ないままです」


 その言葉で、広場が少し現実へ戻る。


 赤が倒れた。


 それで終わりではない。


 生きるには、水がいる。


 食料がいる。


 怪我人を運ぶ道がいる。


 森を見る目がいる。


「北は確認を続けます」


 村長が言う。


「井戸は水を守ります。倉庫は食料を守ります。治療所は怪我人を受けます。広場は呼ぶ」


 ミナが、泣きながら頷いた。


「広場は呼ぶ」


 呼ぶ役も頷く。


「広場は呼ぶ」


 マルタが倉庫前から叫ぶ。


「飯は少ないままだよ! 勝ったからって増えない!」


 その言い方に、何人かが泣きながら笑った。


 笑いはすぐ消えた。


 だが、空気が少し戻った。


 ハルトが井戸から声を出す。


「水はある! 決めた桶で運べ!」


 リリアが治療所から言う。


「布! 清い水! 手の空いている者は指示を待ってください!」


 村は、動き始めた。


 相沢が倒れている場所へ、全員が走ることはなかった。


 走りたいのに。


 走らなかった。


     ◇


【土曜日 15:49/広場手前】


 相沢の視界が揺れていた。


 リリアの声が遠い。


 ガンツの声も遠い。


 ミナの声だけが、妙にはっきり聞こえる。


「火、水、呼ぶ」


 そうだ。


 それでいい。


 広場を戻せ。


 俺を見るな。


 いや、見てほしい。


 でも、見るな。


 相沢は自分でも矛盾していると思った。


 意識が薄くなる。


 表示が増える。



【生命活動:

 低下】


【滞在状態:

 異常】


【転移条件:

 不一致】


【安全判定:

 失敗】


【帰還処理:

 照合中】



 帰還。


 その言葉が見えた。


 相沢は目を開けようとする。


 リリアが何か言っている。


 ガンツが怒鳴っている。


 ダリオが森を見ている。


 ミナが板の前で泣いている。


 ハルトが井戸を離れていない。


 マルタが倉庫を開けていない。


 村長が中央に立っている。


 全部、見える。


 見えるものだけ。


 相沢は、少しだけ笑った。


「……回ってる」


 リリアが顔を近づける。


「何ですか」


「村」


「喋らないで」


「回ってる」


 リリアの表情が、初めて崩れた。


「黙ってください」


「はい」


 返事をしたつもりだった。


 声になったかは分からない。


 表示がまた変わる。



【生命活動:

 危険域】


【対象:

 相沢誠司】


【帰還条件:

 異常】


【強制帰還:

 準備】


【警告:

 処理不安定】



 処理不安定。


 相沢はぼんやりと思った。


 オカンでも、慌てるのか。


 そんなことを考えた自分が、少しおかしかった。


     ◇


【土曜日 15:52/広場中央】


 ミナは板の前に立っていた。


 相沢を見たい。


 見たくない。


 見れば、動く。


 動けば、広場が動く。


 だから、板を見る。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 その上に涙が落ちる。


 ミナは袖で雑に拭いた。


 字が、印が、にじむ。


 描き直す。


 手が震える。


 それでも描く。


「広場、戻す」


 何度目か分からない。


 声が枯れている。


 呼ぶ役が横に立つ。


「広場、戻す」


 ミナは頷いた。


「北は?」


「北が見る」


「井戸は?」


「ハルト」


「倉庫は?」


「マルタさん」


「治療所は?」


「リリアさん」


「回し屋は?」


 呼ぶ役が止まった。


 ミナも止まった。


 その言葉だけが、出ない。


 回し屋は。


 ミナは歯を食いしばった。


「治療所」


 やっと言った。


「回し屋は、治療所」


 呼ぶ役が泣きながら頷いた。


「回し屋は、治療所」


「広場は?」


「広場は、呼ぶ」


「そう」


 ミナは板を押さえた。


 相沢は、ここに置かない。


 治療所へ渡す。


 広場から外す。


 忘れるのではない。


 渡す。


 そうしないと、広場が全部相沢になる。


     ◇


【土曜日 15:55/広場手前】


 相沢は、その声を聞いた。


 回し屋は、治療所。


 広場は、呼ぶ。


 ミナが言った。


 相沢は目を開けた。


 空が白く見える。


 いや、視界が白いのかもしれない。


 リリアの手。


 ガンツの影。


 ダリオの背中。


 赤ゴブリンの倒れた赤。


 広場の板。


 全部が遠くなる。


 表示が、視界いっぱいに広がった。



【生命活動:

 低下】


【外傷:

 致命域】


【滞在継続:

 危険】


【帰還条件:

 異常】


【帰還処理:

 強制実行】


【対象:

 相沢誠司】



「リリアさん」


 相沢は言った。


 リリアが顔を寄せる。


「喋らないでください」


「村」


「はい」


「広場」


「戻っています」


「水」


「守っています」


「食料」


「少ないままです」


 相沢は少し笑った。


 正直だ。


「ガンツ」


「生きています」


「ダリオ」


「見ています」


「ミナ」


 リリアの声が詰まった。


 でも、答えた。


「板の前です」


 相沢は目を閉じた。


「かなり、いい」


 リリアが何か言った。


 聞こえなかった。


 ガンツが怒鳴った。


 それも、遠い。


 ミナの声だけが、最後に聞こえた。


「火、水、呼ぶ!」


 その声の中で、相沢の視界が白くなった。


     ◇


【土曜日 15:56/広場中央】


 相沢の体が、光った。


 最初は、誰も分からなかった。


 血の中で、白い光がにじんだ。


 リリアが手を止める。


「アイザワ殿?」


 ガンツが膝をついたまま、目を見開く。


「おい」


 ダリオが森から視線を外した。


 ほんの一瞬。


 ミナは板の前で、それを見てしまった。


 白い光。


 相沢の体。


 薄くなる輪郭。


「回し屋!」


 叫んだ。


 だが、足は動かなかった。


 板から離れなかった。


 離れられなかった。


 相沢の姿が、白くほどける。


 血も。


 鞄の破片も。


 散らばった小板も。


 全部を残して。


 相沢だけが、消えていく。


 リリアが手を伸ばした。


 その手は、空を掴んだ。


 ガンツが低く唸った。


 獣のような声だった。


 ダリオは、森を見直した。


 赤は倒れている。


 だが、森はまだある。


 ミナは泣きながら板を叩いた。


「広場、戻す!」


 誰も返事ができなかった。


 ミナはもう一度叫んだ。


「広場、戻す!」


 呼ぶ役が、泣きながら続けた。


「広場、戻す!」


 村長が中央に立つ。


 声は震えていた。


 だが、出た。


「役を離れるな」


 広場は、崩れなかった。


 相沢が消えても。


 崩れなかった。


     ◇


【???/???】


 音がない。


 体がない。


 いや、ある。


 痛みだけがある。


 腹。


 胸。


 指先。


 全部が遠い。


 相沢は、自分が落ちているのか、浮いているのか分からなかった。


 表示だけが見えた。



【帰還処理:

 実行中】


【条件照合:

 失敗】


【生命活動:

 低下】


【転移条件:

 異常】


【処理優先:

 対象保全】


【対象:

 相沢誠司】



 対象保全。


 その文字が、ぼやける。


 相沢は、笑ったつもりだった。


 保全。


 そんな言い方をするのか。


 オカンのくせに。


 いや。


 オカンは喋らない。


 表示だけ。


 表示が、また揺れた。



【帰還先:

 大阪】


【滞在状態:

 強制終了】


【再転移条件:

 未確定】


【警告:

 意識低下】



 大阪。


 その文字を見た瞬間、相沢は思った。


 村は。


 ミナは。


 ガンツは。


 ダリオは。


 リリアは。


 ハルトは。


 マルタは。


 村長は。


 表示は答えない。


 ただ、最後に一つだけ出た。



【集落運用:

 継続】



 相沢は、その文字を見た。


 継続。


 続いている。


 なら。


 それで。


 そこで、意識が途切れた。

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