第百二話 見えるものだけ
【土曜日 14:52/北柵】
ガンツの槍が、赤ゴブリンの胸を捉えた。
深い。
だが、貫いてはいない。
赤ゴブリンは倒れなかった。
槍の柄を、長い腕で掴む。
ガンツが歯を食いしばる。
「重てぇな……!」
赤ゴブリンが一歩、前へ出た。
胸に槍を受けたまま。
ガンツごと押す。
普通なら、そこで終わる。
槍を持つ者が下がり、赤が柵へ食い込む。
だが、今は違った。
「下!」
ダリオが短く言った。
ガンツは迷わなかった。
槍を押すのではなく、下へ落とす。
赤ゴブリンの体勢が崩れる。
膝。
足首。
矢の刺さった場所。
そこへ、見張りの棒が入った。
赤ゴブリンの足が滑る。
前のめりになる。
ガンツは槍を離さない。
体ごと沈み、肩で柄を押さえた。
「今だ!」
ダリオの矢が飛んだ。
狙いは目ではない。
喉でもない。
赤ゴブリンの右手。
槍を掴んでいた指。
矢が甲に刺さる。
赤ゴブリンの手が開いた。
ガンツが槍を抜く。
血が飛んだ。
赤ゴブリンが叫ぶ。
その声が、森へ広がった。
助けて。
ミナ。
アイザワ。
くれ。
戻れ。
逃げろ。
いくつもの意味に聞こえる声だった。
だが、広場から別の声が返った。
「声は声! 見えるものだけ!」
ミナだった。
それに呼ぶ役が続く。
「声は声! 見えるものだけ!」
広場の声が、森の声を押し返す。
相沢は線の内側で、それを聞いていた。
声に意味を渡さない。
それが、ここまで作ってきた答えだった。
◇
【土曜日 14:57/広場中央】
広場は、叫んでいた。
だが、崩れてはいない。
誰も森へ走っていない。
井戸へも群がっていない。
倉庫も開いていない。
治療所にも押し寄せていない。
ただ、決めた言葉を返している。
「声は声!」
「見えるものだけ!」
子供の声も混じっていた。
震えている。
泣いている。
それでも言っている。
ミナは板の前にいた。
木炭を持っていない。
今は描かない。
増やさない。
ただ、手で板を押さえている。
火。
水。
呼ぶ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
誰。
どこ。
何。
全部、残っている。
マルタは倉庫前で戸を背にしていた。
手には棒。
だが、戸は開けていない。
ハルトは井戸の前で、石と水を見ている。
リリアは治療所で怪我人の息を見ている。
村長は中央で、何度も同じ言葉を出す。
「役を離れるな!」
それだけ。
それだけが、今は強かった。
◇
【土曜日 15:03/北柵】
赤ゴブリンは後ろへ跳んだ。
胸から血を流している。
足を引きずっている。
右手も使いにくい。
それでも、まだ速い。
森へ戻ろうとする。
戻せば、また夜になる。
夜になれば、声が来る。
食料はない。
もう一晩は、持たない。
相沢は叫んだ。
「戻すな!」
ガンツが槍を構え直す。
「言われなくても!」
ダリオが森の奥を見ている。
矢は残り少ない。
相沢はその数を見た。
ダリオの手元。
残り二本。
無駄にできない。
赤ゴブリンが森へ一歩下がる。
その瞬間、南からまた煙が上がった。
小さな煙。
同時に、井戸側から声。
「石!」
さらに、治療所の方で子供が泣いた。
広場が揺れる。
赤は最後まで、広場を割ろうとしている。
相沢の足が、南へ向きかけた。
すぐにミナの声が来る。
「火、水、呼ぶ!」
相沢は止まる。
ガンツが怒鳴る。
「こっち見ろ!」
相沢は北へ戻す。
赤ゴブリンの姿。
血。
足。
森との距離。
見えるものだけ。
「南は?」
ガンツが聞く。
「南が見る!」
「井戸は?」
「ハルト!」
「治療所は?」
「リリアさん!」
「なら前を見ろ!」
「ああ!」
ガンツが一歩出た。
柵の外へは出ない。
だが、柵の際。
赤ゴブリンが森へ下がるなら、その前に踏み込む。
赤が腕を振った。
長い腕。
爪。
ガンツは槍で受ける。
木が軋む。
肩の傷から血がにじむ。
相沢は動きかける。
また止まる。
ここはガンツの場所。
自分の場所ではない。
◇
【土曜日 15:08/井戸前】
井戸の石は、また道の端にあった。
今度は二つ。
どちらも泥がついている。
若い男が言う。
「触ってない!」
ハルトは頷いた。
「見た者」
「俺」
「どこ」
「井戸道の端」
「何」
「石二つ。水には入ってない。縁にも触ってない」
「よし」
ハルトは棒で石を押しのける。
井戸は見える。
水面も見える。
濁りなし。
匂いなし。
「水はまだ死んでない!」
ハルトが広場へ返す。
広場から声が戻る。
「水はまだ死んでない!」
井戸に人は集まらない。
若い男が震えながら笑った。
「言えるようになりましたね」
「笑うな」
「すみません」
「でも、言えた」
「はい」
ハルトは井戸を見る。
怖くないわけではない。
だが、動かない。
水を守るとは、井戸の前から離れないことだった。
◇
【土曜日 15:11/南の空き小屋】
南の煙は、また布だった。
今度は骨ではない。
焦げた草。
湿った布。
煙だけ。
火は広がっていない。
入口の若い男が、水を求めて振り向く。
村の男が先に言った。
「小桶」
「分かってる」
「大桶は動かさない」
「分かってる」
小桶の水で煙を消す。
子供たちは小屋の中。
入口は空いている。
誰も外へ走っていない。
避難民の女が、泣く子の口を押さえすぎないように抱いている。
「外へ出ない」
女が言う。
「火は?」
子供が聞く。
「火じゃない」
「煙」
「煙は大人が見る」
声は震えている。
だが、手順は残っている。
◇
【土曜日 15:15/北柵】
報告が広場を通じて戻る。
南、火ではない。
井戸、水は死んでいない。
治療所、受け入れ継続。
倉庫、開けていない。
相沢はそれを聞き、息を吐いた。
赤ゴブリンも聞いている。
こちらの声を。
戻った報告を。
崩れていないことを。
赤ゴブリンの顔が歪む。
怒りか。
痛みか。
苛立ちか。
分からない。
ただ、声が変わった。
もう人の声に似せていない。
低い。
割れた。
本来の声。
赤ゴブリンが、森へ戻るのをやめた。
こちらへ向いた。
ガンツが笑う。
「ようやく、その顔か」
ダリオが矢を構える。
「次で止める」
「倒せるか」
「止める」
「倒すのは?」
ダリオは短く言った。
「前」
ガンツが槍を握り直した。
「俺か」
「そう」
「いいねぇ」
相沢は二人を見る。
前と目。
ここで決める。
自分ではない。
自分が倒すのではない。
自分は、崩れないように後ろを見る。
そのはずだった。
◇
【土曜日 15:19/北柵】
赤ゴブリンが突っ込んだ。
速い。
傷があるとは思えない。
だが、まっすぐだ。
声で曲げない。
煙で割らない。
石で揺らさない。
力で来た。
ガンツが槍を低く構える。
胸ではない。
足。
ダリオの矢が先に飛ぶ。
赤の足元。
刺さらない。
だが、踏む場所をずらす。
赤ゴブリンの右足が、わずかに外へ流れる。
ガンツの槍がそこへ入る。
膝。
横から。
鈍い音。
赤ゴブリンが傾く。
だが、倒れながら腕を振った。
ガンツの脇腹をかすめる。
血が飛ぶ。
広場から悲鳴が上がる。
相沢の足が出た。
一歩。
線を踏む。
ガンツが倒れかける。
赤ゴブリンが、その隙を狙ってもう一度腕を伸ばす。
ガンツの首へ。
相沢の体が前へ出た。
その瞬間。
「火、水、呼ぶ!」
ミナの声。
続いて、リリアの声。
「約束です!」
さらに、ガンツの声。
「来るな!」
相沢は止まった。
止まった。
歯が鳴るほど強く噛んだ。
ガンツは自分で膝をつき、槍の柄を赤の腕に叩きつけた。
完全には防げない。
だが、首から逸らした。
ダリオの最後の一本が飛ぶ。
赤ゴブリンの開いた脇。
深く刺さる。
赤が大きく仰け反った。
ガンツが立ち上がる。
血を流しながら。
「俺の前だ」
ガンツは低く言った。
「俺が止める」
槍を両手で握る。
肩の傷。
脇腹の傷。
それでも前へ出る。
相沢は線の内側で、動けなかった。
動かないと決めたから。
動けないのではない。
動かない。
◇
【土曜日 15:22/広場中央】
ミナは叫んだ後、息が切れていた。
喉が痛い。
目の奥が熱い。
ガンツが血を流しているのが見えた。
相沢が前へ出かけたのも見えた。
止めた。
止めてしまった。
正しい。
正しいはずだ。
でも、胸が痛い。
ミナは板を叩いた。
「広場、戻す!」
声が少し泣いていた。
それでも言う。
「北が見る! 治療所は受ける! 井戸は水! 倉庫は食料!」
呼ぶ役が続く。
「火、水、呼ぶ!」
村長が言う。
「役を離れるな!」
マルタが倉庫の前で歯を食いしばっている。
「開けないよ」
誰に言ったのか分からない。
リリアは治療所前に立っている。
ガンツの血を見ている。
来るなら受ける。
だが、迎えに出ない。
ハルトは井戸の前で、棒を握る手に力を込めていた。
全員が、動きたい。
全員が、動かない。
その我慢が、広場を支えていた。
◇
【土曜日 15:25/北柵】
赤ゴブリンは、傷だらけだった。
だが、ガンツも傷だらけだった。
ダリオの矢は尽きた。
見張りの一人は治療所。
もう一人は槍を構えているが、腕が震えている。
相沢は線の内側で、状況を見る。
赤はまだ立つ。
こちらは前が限界。
どうする。
声は効きにくくなった。
誘導も潰れている。
だが、力で来られると押し切られる。
このままでは、ガンツが倒れる。
ガンツが倒れたら、北が開く。
北が開けば、広場が割れる。
相沢は考えた。
自分が出れば。
その考えが浮かぶ。
すぐに消せない。
自分が前に出て、赤の注意を引けば。
ガンツが刺せる。
ダリオに矢はない。
見張りは限界。
自分が。
その時、視界の端に表示が浮かんだ。
⸻
【警告:
過剰介入兆候】
【対象:
相沢誠司】
【行動予測:
役割逸脱】
【推奨:
停止】
【推奨:
後方確認】
⸻
「分かってる」
相沢は小さく言った。
分かっている。
自分が一番危ない。
分かっている。
なのに、考える。
ガンツが押される。
赤ゴブリンの腕が、また上がる。
ガンツの顔が歪む。
脇腹から血が落ちる。
相沢の足が、線を越えかけた。
「回し屋!」
ミナの声。
相沢は止まる。
ミナは叫んだ。
「火、水、呼ぶ!」
相沢は広場を見る。
ミナがいる。
板がある。
泣きそうな顔で、でも戻している。
相沢は奥歯を噛んだ。
自分が約束を破れば、あの板が壊れる。
ガンツを助けるために前へ出て、村を壊す。
それでは意味がない。
相沢は線の内側に戻った。
その時、ダリオが矢のない弓を下げた。
「石」
相沢が振り向く。
「何?」
「石」
ダリオは足元を指した。
北柵の内側。
小さな投石用の石。
見張りが赤に備えて集めていたもの。
矢はない。
だが、石はある。
ダリオは弓を置き、石を一つ拾った。
投げるのか。
相沢は一瞬そう思った。
違った。
ダリオは石を、見張りの槍の柄へ当てた。
乾いた音が鳴る。
赤ゴブリンの目が、そちらへ動いた。
音。
声ではない音。
意味のない音。
だが、赤は反応した。
相沢は気づいた。
「音に反応する」
ダリオが頷く。
「声を使うから」
「音を見てるのか」
「そう」
ガンツが赤を押さえながら叫ぶ。
「分かったなら、早くしろ!」
相沢は石を拾った。
見張りにも言う。
「槍じゃない! 音を鳴らせ! 右、左、ばらけて!」
見張りが石を拾う。
柵。
槍の柄。
木桶。
石。
乾いた音がいくつも鳴る。
赤ゴブリンの目が揺れた。
どの音が声か。
どの音が人か。
どの音が意味を持つのか。
赤が迷った。
ほんの一瞬。
ガンツがその一瞬を逃さなかった。
「おらぁ!」
槍を押し込む。
今度は胸ではない。
傷の入った脇。
ダリオの矢が刺さった場所。
槍先が入った。
赤ゴブリンが大きく仰け反る。
片膝をつく。
ついに、倒れかけた。
◇
【土曜日 15:31/広場中央】
北から音が鳴り始めた。
石。
木。
槍の柄。
意味のない音。
広場の何人かが驚いて北を見る。
ミナがすぐ言った。
「北が見る!」
呼ぶ役が続ける。
「北、音! 作戦! 広場はそのまま!」
作戦。
その一言だけで、広場は少し戻った。
何が起きているか、全部は分からない。
だが、北が勝手に崩れているわけではない。
決めてやっている。
それだけで、人は少し止まれる。
マルタが倉庫前で言う。
「音に釣られるんじゃないよ」
ハルトが井戸側で続ける。
「水はここだ」
リリアは治療所で、怪我人の呼吸を聞いている。
外の音を追わない。
自分の前の息を見る。
村長は静かに言った。
「見えるものだけです」
その声が、また広場の中に落ちた。
◇
【土曜日 15:35/北柵】
赤ゴブリンは膝をついた。
片膝。
片手。
それでも、まだ倒れない。
胸と脇から血が落ちる。
足は震えている。
右手も動きが鈍い。
だが、目だけはまだ死んでいない。
相沢を見ている。
いや。
相沢の後ろを見ている。
広場。
ミナ。
呼ぶ役。
相沢はその視線に気づいた。
「後ろ」
ダリオが同時に言った。
赤ゴブリンが動いた。
前ではない。
横。
ガンツを避ける。
倒れたふりからの横跳び。
ありえない速度。
傷ついた体で、まだそれを残していた。
狙いは相沢ではなかった。
広場。
板。
呼ぶ役。
ミナ。
ガンツが追う。
だが、脇腹の傷で一歩遅れる。
ダリオに矢はない。
見張りは反応が遅れた。
赤ゴブリンが低く跳ぶ。
柵の浅い部分を越え、広場へ向かう。
相沢の中で、何かが切れた。
呼ぶ役が潰されれば、広場の声が切れる。
ミナが狙われれば、板が崩れる。
赤が広場へ入れば、火、水、呼ぶが割れる。
相沢は線を見た。
線。
約束。
火、水、呼ぶ。
ミナの声が飛ぶ。
「火、水、呼ぶ!」
聞こえた。
はっきり聞こえた。
戻る声。
約束の言葉。
相沢は、それでも線を越えた。
◇
【土曜日 15:36/広場手前】
足が土を蹴った。
線の外。
決めた場所の外。
相沢は走っていた。
赤ゴブリンは広場へ向かっている。
ミナと呼ぶ役がいる場所へ。
間に合うか。
間に合わないか。
そんな計算はなかった。
ただ、体が前へ出た。
視界の端に表示が弾ける。
⸻
【警告:
役割逸脱】
【対象:
相沢誠司】
【過剰介入:
発生】
【推奨:
停止】
【推奨:
停止】
【推奨:
停止】
⸻
止まらない。
「回し屋!」
ミナの声。
「戻れ!」
ガンツの声。
「右!」
ダリオの声。
相沢は、赤ゴブリンの右側へ入った。
広場と赤の間。
呼ぶ役の前。
ミナの前。
赤ゴブリンの目が、初めて大きく見開かれた。
狙い通りだったのか。
予想外だったのか。
分からない。
ただ、その爪が相沢へ向いた。
相沢は鞄を前に出した。
営業鞄。
袋。
小板。
油性ペン。
塩飴。
乾燥わかめ。
村を回すために持ってきたもの。
それが、赤の爪を一瞬だけ受けた。
布が裂ける。
中身が散る。
小板が宙に舞う。
人。
場所。
目。
その印が、空中で回った。
赤ゴブリンの爪が、鞄を裂いて、そのまま相沢の腹に入った。
熱い。
痛みは、少し遅れて来た。
最初に来たのは、息が抜ける感覚だった。
「あ」
声が漏れた。
足が止まる。
赤ゴブリンの顔が近い。
古い傷。
新しい傷。
血。
目。
そこに、怒りがあった。
声はもうなかった。
ただ、赤ゴブリンそのものがいた。
相沢は両手で、その腕を掴んだ。
離さない。
自分が前に出てしまった。
約束を破った。
なら、せめて。
「ガンツ!」
声は、思ったより小さかった。
だが、届いた。
◇
【土曜日 15:37/広場中央】
ミナは、叫べなかった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
相沢が線を越えた。
止める声を聞いたのに、止まらなかった。
赤の爪が、相沢に入った。
鞄が裂けた。
小板が落ちた。
人。
場所。
目。
誰。
どこ。
何。
地面に転がる。
ミナの視界が白くなった。
だが、次の瞬間、村長の声がした。
「役を離れるな!」
その声で、息が戻った。
ミナは板を掴んだ。
手が震える。
木炭が落ちる。
それでも叫ぶ。
「広場、戻す!」
声は泣いていた。
完全に泣いていた。
だが、言葉は出た。
「火、水、呼ぶ!」
呼ぶ役が泣きながら続ける。
「火、水、呼ぶ!」
「北、前!」
「治療所、受ける!」
「井戸、動かない!」
「倉庫、開けない!」
マルタの声が飛ぶ。
「開けない!」
ハルトの声。
「井戸は動かない!」
リリアの声。
「治療所、受けます!」
広場は割れなかった。
相沢が倒れかけている。
それでも、広場は割れなかった。
◇
【土曜日 15:38/広場手前】
ガンツが来た。
血を流しながら。
槍を持って。
相沢が赤の腕を掴んでいる。
赤ゴブリンは爪を抜こうとしている。
抜けば、相沢が崩れる。
だが、その一瞬だけ、赤は止まっている。
ガンツは叫ばなかった。
怒鳴らなかった。
ただ、踏み込んだ。
槍を、赤ゴブリンの横腹へ突き込む。
今度は、深い。
赤ゴブリンが体を捻る。
相沢の体も揺れる。
痛みが爆発する。
目の前が白くなる。
それでも、相沢は腕を離さなかった。
ダリオが石を拾っていた。
矢はない。
弓も置いた。
石。
その石を、赤ゴブリンの古い傷へ投げた。
正確だった。
石が傷に当たる。
赤の顔が一瞬だけ歪む。
ガンツが槍をさらに押し込む。
「倒れろ!」
赤ゴブリンが咆哮した。
意味のない声。
本物の声。
その喉へ、見張りの槍が入った。
震える腕で。
だが、入った。
赤ゴブリンの声が潰れる。
ガンツが最後に槍をひねった。
赤ゴブリンの体が、大きく震えた。
そして、崩れた。
相沢ごと。
◇
【土曜日 15:39/広場中央】
赤ゴブリンが倒れた。
誰かが叫んだ。
誰かが泣いた。
誰かが立ち上がりかけた。
ミナが叫ぶ。
「動かない!」
自分でも信じられない声だった。
赤が倒れた。
相沢も倒れた。
走りたい。
行きたい。
手を伸ばしたい。
だが、広場が走れば、全部が崩れる。
「運ぶ役!」
リリアが治療所前から叫んだ。
「二人! アイザワ殿を! 首と腹を動かさない!」
村の男二人が動く。
決められた者。
他は動かない。
ミナは板を押さえる。
涙が落ちた。
板に落ちた。
火の印の横に、黒い染みができた。
「火、水、呼ぶ」
ミナは言った。
声は小さくなっていた。
それでも言った。
「火、水、呼ぶ」
呼ぶ役が続ける。
「火、水、呼ぶ」
広場全体が、震えながら繰り返した。
相沢が倒れても。
赤が倒れても。
村は、言葉を失わなかった。
◇
【土曜日 15:42/広場手前】
相沢は空を見ていた。
空が青い。
こんな時でも、空は青い。
腹が熱い。
手が冷たい。
誰かが体を押さえている。
リリアの声が聞こえる。
「布を。強く押さえて。水は少し。口にはまだ入れない」
リリアの声は震えていない。
すごいな、と相沢は思った。
こんな時でも。
いや。
こんな時だからか。
ガンツの顔が見えた。
血だらけだった。
怒っている。
泣いてはいない。
でも、怒っている。
「馬鹿野郎」
ガンツが言った。
相沢は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……止まれなかった」
「知ってる」
「悪い」
「後で殴る」
「それ、さっきも聞いた」
「何度でも言う」
ダリオが少し離れて立っている。
森を見ている。
相沢ではなく、森を。
まだ終わっていないものを見るために。
その姿に、相沢は少し安心した。
ミナの声が聞こえる。
「広場、戻す!」
泣いている。
でも、戻している。
相沢は目を閉じそうになった。
表示が浮かぶ。
⸻
【生命活動:
急速低下】
【対象:
相沢誠司】
【外傷:
重度】
【出血:
危険域】
【意識:
低下傾向】
【推奨:
安静】
⸻
「安静……」
相沢は小さく呟いた。
リリアが顔を寄せる。
「喋らないでください」
「表示が」
「喋らないでください」
「厳しい」
「今は黙ってください」
リリアの手が、腹を押さえている。
血が広がっている。
相沢にも分かる。
これは、駄目だ。
駄目だと、体が先に分かっている。
だが、広場の声が聞こえる。
火、水、呼ぶ。
誰、どこ、何。
声は声。
見えるものだけ。
まだ、聞こえる。
村は、崩れていない。
◇
【土曜日 15:45/広場中央】
村長は、赤ゴブリンが倒れた方を見なかった。
いや、見た。
一瞬だけ。
だが、すぐに広場へ戻した。
「役を離れるな」
声は静かだった。
だが、全員に届いた。
「赤は倒れました。ですが、まだ森があります。怪我人がいます。水が必要です。食料は少ないままです」
その言葉で、広場が少し現実へ戻る。
赤が倒れた。
それで終わりではない。
生きるには、水がいる。
食料がいる。
怪我人を運ぶ道がいる。
森を見る目がいる。
「北は確認を続けます」
村長が言う。
「井戸は水を守ります。倉庫は食料を守ります。治療所は怪我人を受けます。広場は呼ぶ」
ミナが、泣きながら頷いた。
「広場は呼ぶ」
呼ぶ役も頷く。
「広場は呼ぶ」
マルタが倉庫前から叫ぶ。
「飯は少ないままだよ! 勝ったからって増えない!」
その言い方に、何人かが泣きながら笑った。
笑いはすぐ消えた。
だが、空気が少し戻った。
ハルトが井戸から声を出す。
「水はある! 決めた桶で運べ!」
リリアが治療所から言う。
「布! 清い水! 手の空いている者は指示を待ってください!」
村は、動き始めた。
相沢が倒れている場所へ、全員が走ることはなかった。
走りたいのに。
走らなかった。
◇
【土曜日 15:49/広場手前】
相沢の視界が揺れていた。
リリアの声が遠い。
ガンツの声も遠い。
ミナの声だけが、妙にはっきり聞こえる。
「火、水、呼ぶ」
そうだ。
それでいい。
広場を戻せ。
俺を見るな。
いや、見てほしい。
でも、見るな。
相沢は自分でも矛盾していると思った。
意識が薄くなる。
表示が増える。
⸻
【生命活動:
低下】
【滞在状態:
異常】
【転移条件:
不一致】
【安全判定:
失敗】
【帰還処理:
照合中】
⸻
帰還。
その言葉が見えた。
相沢は目を開けようとする。
リリアが何か言っている。
ガンツが怒鳴っている。
ダリオが森を見ている。
ミナが板の前で泣いている。
ハルトが井戸を離れていない。
マルタが倉庫を開けていない。
村長が中央に立っている。
全部、見える。
見えるものだけ。
相沢は、少しだけ笑った。
「……回ってる」
リリアが顔を近づける。
「何ですか」
「村」
「喋らないで」
「回ってる」
リリアの表情が、初めて崩れた。
「黙ってください」
「はい」
返事をしたつもりだった。
声になったかは分からない。
表示がまた変わる。
⸻
【生命活動:
危険域】
【対象:
相沢誠司】
【帰還条件:
異常】
【強制帰還:
準備】
【警告:
処理不安定】
⸻
処理不安定。
相沢はぼんやりと思った。
オカンでも、慌てるのか。
そんなことを考えた自分が、少しおかしかった。
◇
【土曜日 15:52/広場中央】
ミナは板の前に立っていた。
相沢を見たい。
見たくない。
見れば、動く。
動けば、広場が動く。
だから、板を見る。
火。
水。
呼ぶ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
その上に涙が落ちる。
ミナは袖で雑に拭いた。
字が、印が、にじむ。
描き直す。
手が震える。
それでも描く。
「広場、戻す」
何度目か分からない。
声が枯れている。
呼ぶ役が横に立つ。
「広場、戻す」
ミナは頷いた。
「北は?」
「北が見る」
「井戸は?」
「ハルト」
「倉庫は?」
「マルタさん」
「治療所は?」
「リリアさん」
「回し屋は?」
呼ぶ役が止まった。
ミナも止まった。
その言葉だけが、出ない。
回し屋は。
ミナは歯を食いしばった。
「治療所」
やっと言った。
「回し屋は、治療所」
呼ぶ役が泣きながら頷いた。
「回し屋は、治療所」
「広場は?」
「広場は、呼ぶ」
「そう」
ミナは板を押さえた。
相沢は、ここに置かない。
治療所へ渡す。
広場から外す。
忘れるのではない。
渡す。
そうしないと、広場が全部相沢になる。
◇
【土曜日 15:55/広場手前】
相沢は、その声を聞いた。
回し屋は、治療所。
広場は、呼ぶ。
ミナが言った。
相沢は目を開けた。
空が白く見える。
いや、視界が白いのかもしれない。
リリアの手。
ガンツの影。
ダリオの背中。
赤ゴブリンの倒れた赤。
広場の板。
全部が遠くなる。
表示が、視界いっぱいに広がった。
⸻
【生命活動:
低下】
【外傷:
致命域】
【滞在継続:
危険】
【帰還条件:
異常】
【帰還処理:
強制実行】
【対象:
相沢誠司】
⸻
「リリアさん」
相沢は言った。
リリアが顔を寄せる。
「喋らないでください」
「村」
「はい」
「広場」
「戻っています」
「水」
「守っています」
「食料」
「少ないままです」
相沢は少し笑った。
正直だ。
「ガンツ」
「生きています」
「ダリオ」
「見ています」
「ミナ」
リリアの声が詰まった。
でも、答えた。
「板の前です」
相沢は目を閉じた。
「かなり、いい」
リリアが何か言った。
聞こえなかった。
ガンツが怒鳴った。
それも、遠い。
ミナの声だけが、最後に聞こえた。
「火、水、呼ぶ!」
その声の中で、相沢の視界が白くなった。
◇
【土曜日 15:56/広場中央】
相沢の体が、光った。
最初は、誰も分からなかった。
血の中で、白い光がにじんだ。
リリアが手を止める。
「アイザワ殿?」
ガンツが膝をついたまま、目を見開く。
「おい」
ダリオが森から視線を外した。
ほんの一瞬。
ミナは板の前で、それを見てしまった。
白い光。
相沢の体。
薄くなる輪郭。
「回し屋!」
叫んだ。
だが、足は動かなかった。
板から離れなかった。
離れられなかった。
相沢の姿が、白くほどける。
血も。
鞄の破片も。
散らばった小板も。
全部を残して。
相沢だけが、消えていく。
リリアが手を伸ばした。
その手は、空を掴んだ。
ガンツが低く唸った。
獣のような声だった。
ダリオは、森を見直した。
赤は倒れている。
だが、森はまだある。
ミナは泣きながら板を叩いた。
「広場、戻す!」
誰も返事ができなかった。
ミナはもう一度叫んだ。
「広場、戻す!」
呼ぶ役が、泣きながら続けた。
「広場、戻す!」
村長が中央に立つ。
声は震えていた。
だが、出た。
「役を離れるな」
広場は、崩れなかった。
相沢が消えても。
崩れなかった。
◇
【???/???】
音がない。
体がない。
いや、ある。
痛みだけがある。
腹。
胸。
指先。
全部が遠い。
相沢は、自分が落ちているのか、浮いているのか分からなかった。
表示だけが見えた。
⸻
【帰還処理:
実行中】
【条件照合:
失敗】
【生命活動:
低下】
【転移条件:
異常】
【処理優先:
対象保全】
【対象:
相沢誠司】
⸻
対象保全。
その文字が、ぼやける。
相沢は、笑ったつもりだった。
保全。
そんな言い方をするのか。
オカンのくせに。
いや。
オカンは喋らない。
表示だけ。
表示が、また揺れた。
⸻
【帰還先:
大阪】
【滞在状態:
強制終了】
【再転移条件:
未確定】
【警告:
意識低下】
⸻
大阪。
その文字を見た瞬間、相沢は思った。
村は。
ミナは。
ガンツは。
ダリオは。
リリアは。
ハルトは。
マルタは。
村長は。
表示は答えない。
ただ、最後に一つだけ出た。
⸻
【集落運用:
継続】
⸻
相沢は、その文字を見た。
継続。
続いている。
なら。
それで。
そこで、意識が途切れた。




