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第百一話 西の倒木

【土曜日 13:37/北柵】


 西の倒木。


 ダリオがそう言った場所は、北柵から少し外れた先にあった。


 森の縁が浅くへこんでいる。


 太い木が一本、斜めに倒れている。


 その根元に土が盛り上がり、小さな壁のようになっていた。


 森の奥へは続いていない。


 少なくとも、正面からはそう見える。


 赤ゴブリンがさっき誘っていた場所とは違う。


 そちらは、木々の隙間が深かった。


 入れば、左右を取られる。


 声が響けば、距離も狂う。


 西の倒木は違う。


 見える。


 少しだけ開けている。


 ダリオが選んだ場所だった。


「本当にあそこが嫌なのか」


 ガンツが聞いた。


 ダリオは弓を下げたまま答える。


「赤が見てない」


「見てない?」


「見せたい場所は、よく見る。あそこは見ない」


 相沢は息を呑んだ。


 見ていない場所を見る。


 ダリオの「目」は、敵がどこを見るかまで拾っている。


「そこを使う」


 ガンツが槍を握り直す。


「どう出る」


 相沢は地面に簡単な線を引いた。


「ガンツと見張り二人は、北柵の前に出るふりをする」


「ふり?」


「本当に出すぎない。赤に、北から出ると思わせる」


「で?」


「ダリオは西を見る。赤が動いたら撃つ」


「お前は」


「広場と北の間。線の内側」


「また線か」


「線がいる」


 ガンツは不満そうに鼻を鳴らした。


「お前、線があっても破りそうだ」


「だから、お前がいる」


「俺を便利に使うな」


「使う」


「言い切るな」


 ダリオが短く言った。


「来る」


 空気が変わった。


 ガンツが森を見る。


 相沢も見た。


 赤ゴブリンは、まだ森の端にいる。


 動いていないように見える。


 だが、視線だけが動いている。


 広場。


 北。


 井戸。


 倉庫。


 相沢。


 そして、戻る。


 見ている。


 測っている。


「こっちも測る」


 相沢は小さく言った。


     ◇


【土曜日 13:44/広場中央】


 広場へ、短い指示だけが戻された。


 北が動く。


 西を見る。


 広場は動かない。


 倉庫を開けない。


 井戸へ集まらない。


 南は入口を空けたまま。


 治療所は受け入れ準備。


 それだけ。


 ミナは板に何も足さなかった。


 足したいものはある。


 北。


 西。


 赤。


 倒木。


 囮。


 全部描きたい。


 描けば、広場のみんなが何が起きているか分かる。


 だが、分かりすぎると、見る。


 見ると、動く。


 ミナは木炭を持たなかった。


「北が見る」


 ミナが言った。


 呼ぶ役が繰り返す。


「北が見る」


「広場は」


「火、水、呼ぶ」


「食料は」


「マルタさん」


「水は」


「ハルト」


「治療所は」


「リリアさん」


「南は」


「南の組」


 声が薄く広がる。


 呪文ではない。


 手順だ。


 広場の端で、先ほど倒れた子供の母親が、治療所の方を見ていた。


 行きたい。


 それが顔に出ている。


 リリアが治療所前から軽く頷いた。


 来なくていい。


 見ている。


 その合図だった。


 母親は唇を噛み、座り直した。


 ミナはそれを見ていた。


 広場は、まだ割れていない。


     ◇


【土曜日 13:51/北柵】


 ガンツが動いた。


 槍を持ち、北柵の前へ一歩。


 ただし、外へは出ない。


 見張り二人も、それに合わせる。


 足音を少し大きくする。


 赤に見せるため。


 北から出るように見せるため。


 相沢は広場と北の間、決められた線の内側に立っていた。


 地面に引いた線。


 もう何本目か分からない。


 線が、相沢を止めている。


 いや、線だけではない。


 ミナ。


 ガンツ。


 リリア。


 ダリオ。


 村全体が、相沢を止めている。


 赤ゴブリンが動いた。


 北へではない。


 右。


 いや、さらに西。


 倒木の方へ、ほんの少し。


 ダリオの目が動く。


「来た」


 相沢は息を止めた。


 ガンツは北で派手に槍を構える。


「出るぞ!」


 声だけ。


 出ない。


 赤ゴブリンが、北を見た。


 そして、一瞬だけ西から目を外した。


 その瞬間、ダリオの矢が飛んだ。


 音は短かった。


 矢は赤ゴブリンではなく、西の倒木の手前に刺さった。


 土が跳ねる。


 そこから、小さな影が飛び出した。


 小ゴブリン。


 一匹ではない。


 二匹。


 三匹。


 倒木の陰に潜んでいた。


 ガンツが低く唸る。


「そこにいたのか」


 ダリオが二射目を放つ。


 一匹の足に刺さる。


 小ゴブリンが転がる。


 残りが森へ逃げようとする。


 赤ゴブリンが低く鳴いた。


 命令のような声。


 逃げかけた小ゴブリンが止まる。


 そして、広場側へ走った。


「伝令道!」


 相沢が叫んだ。


 赤は、西の倒木ではなく、そこに隠した小ゴブリンで伝令道を切るつもりだった。


 北を動かし、広場を見せ、西から小さいものを走らせる。


 伝令道を乱せば、火、水、呼ぶが切れる。


 ミナに声が届かなくなる。


「伝令、止まるな! 道を空けろ!」


 相沢が叫ぶ。


 ミナの声が広場から返る。


「呼ぶ役、下がらない!」


 ガンツが柵の内側を走る。


「見張り、一人残れ! 一人、右!」


 ダリオの三射目が飛ぶ。


 走る小ゴブリンの肩に刺さる。


 倒れない。


 小さい。


 速い。


 広場へ向かう。


     ◇


【土曜日 13:56/広場中央】


 小ゴブリンが見えた瞬間、広場が揺れた。


 子供が叫ぶ。


 避難民の女が身を伏せる。


 男が立つ。


 ミナが板を叩いた。


「広場、散らない!」


 小ゴブリンは一匹。


 いや、二匹。


 伝令道の端を走ってくる。


 武器は小さい。


 だが、狙いは人ではない。


 呼ぶ役。


 板。


 声の中心。


 ミナはそれに気づいた。


 自分を狙っているのではない。


 広場の役を狙っている。


「呼ぶ役、後ろ!」


 呼ぶ役が一歩下がる。


 逃げない。


 位置を変えるだけ。


 村長が前へ出ようとする。


 ミナが叫ぶ。


「村長、広場!」


 村長が止まる。


 その横を、南の若い男が棒を持って走った。


 走りすぎない。


 広場の端で待つ。


 小ゴブリンが入ってくる。


 棒が振られる。


 一匹の足を払う。


 転ぶ。


 もう一匹が横を抜ける。


 ミナの方へ。


 相沢の体が動いた。


 北から広場へ。


 線の内側から、半歩。


「火、水、呼ぶ!」


 ミナの声が飛んだ。


 相沢は止まった。


 止まった。


 小ゴブリンはミナへ跳んだ。


 その前に、マルタが倉庫前から投げた木の蓋が当たった。


 鈍い音。


 小ゴブリンが横へ吹き飛ぶ。


「倉庫は開けないって言ったろ」


 マルタが怒鳴る。


 蓋は、倉庫の戸ではない。


 外に置いていた空桶の蓋。


 倉庫は開いていない。


 相沢は息を吐いた。


 ミナは板の前から動いていない。


 顔は白い。


 だが、立っている。


「広場、そのまま!」


 ミナが叫ぶ。


「小さいのは広場の端! 火、水、呼ぶ!」


 倒れた小ゴブリンに、村の男が棒を向ける。


 殺しに行かない。


 近づきすぎない。


 押さえる。


 動きを止める。


 北から、ダリオの矢が飛んだ。


 広場に入った小ゴブリンのすぐ横に刺さる。


 威嚇。


 小ゴブリンが震えた。


 次の矢が、首に入った。


 動かなくなる。


 広場が息を呑む。


 ミナは板を見たまま言った。


「広場、戻す」


     ◇


【土曜日 14:04/北柵】


 赤ゴブリンは、動かなかった。


 小ゴブリンが止められたことを見ていた。


 広場が割れなかったことを見ていた。


 マルタが倉庫を開けなかったこと。


 ミナが動かなかったこと。


 相沢が止まったこと。


 全部を見ていた。


 ガンツが槍を構えたまま言う。


「今ので、何が分かった」


 相沢は息を整える。


「赤は、板を狙った」


「ミナか」


「ミナじゃなくて、役だ」


 ガンツは少し目を細めた。


「同じじゃねぇのか」


「違う。ミナを殺すだけなら、別のやり方がある。今のは、広場の声を切ろうとした」


 ダリオが短く言う。


「呼ぶ役」


「ああ」


 相沢は広場を見る。


 呼ぶ役は下がった。


 だが、逃げなかった。


 板も残っている。


 ミナも残っている。


「赤は、分かってる」


 相沢は言った。


「この村は、誰か一人じゃなくて、役で動いてることを」


 ガンツが槍を握る手に力を込める。


「なら、役を潰しにくる」


「そうだ」


「次はどこだ」


 相沢は考える。


 北。


 広場。


 井戸。


 倉庫。


 治療所。


 南。


 全部が狙われる。


 だが、赤は今、小ゴブリンを使った。


 数は残っているのか。


 どこにいるのか。


 ダリオが森を見ながら言った。


「赤、下がらない」


「まだ来るか」


 ガンツが言う。


「来る」


 ダリオは短く答えた。


「次、本体」


 赤ゴブリンが、森の端で身を低くした。


 長い腕が地面に近づく。


 獣のような姿勢。


 だが、目は人より嫌な光を持っている。


 相沢は線を見た。


 ここから先は、前の役。


 相沢は後ろ。


 後ろを見る。


 広場は戻っている。


 井戸は持っている。


 倉庫は閉じている。


 治療所は受け入れ準備。


 南は入口を空けている。


 赤は、それでも来る。


     ◇


【土曜日 14:11/北柵】


 赤ゴブリンが走った。


 真正面。


 速い。


 小細工なし。


 いや、小細工を全部重ねた後の正面だった。


 ガンツが叫ぶ。


「構えろ!」


 見張り二人が槍を出す。


 赤ゴブリンは止まらない。


 一本目の槍を腕で弾く。


 皮膚が裂ける。


 だが、止まらない。


 二本目を体で受け、横へずらす。


 ガンツの槍が胸を狙う。


 赤ゴブリンは腕を交差させて受けた。


 重い音。


 ガンツの足が下がる。


 一歩。


 二歩。


 柵が軋む。


 ダリオの矢が飛ぶ。


 赤ゴブリンの太腿に刺さる。


 赤が唸る。


 だが、下がらない。


 相沢は叫んだ。


「足! 止めろ!」


 ガンツが怒鳴り返す。


「分かってる!」


 ガンツは槍を引かず、押し込む。


 赤ゴブリンの力を正面で受ける。


 見張りが横から槍を入れる。


 赤が腕を振る。


 見張りの一人が吹き飛んだ。


 柵の内側へ転がる。


 血は少ない。


 だが、息が詰まっている。


 リリアの方へ運びたい。


 相沢の足が動きかける。


 すぐに、ミナの声。


「火、水、呼ぶ!」


 止まる。


 怪我人は治療所。


 運ぶ役がいる。


 相沢ではない。


 リリアが治療所前から叫ぶ。


「運ぶ者二人! 首を動かさない!」


 村の男二人が動く。


 決められた者。


 広場は動かない。


 相沢は線の内側で拳を握った。


 できている。


 だから、自分は動くな。


     ◇


【土曜日 14:19/北柵】


 赤ゴブリンは、ガンツと押し合っていた。


 力は赤が上。


 だが、ガンツは下がりきらない。


 地面に足を食い込ませる。


 槍を斜めにして、赤の胸ではなく肩を押す。


 正面から勝つのではない。


 向きをずらす。


 ダリオが矢を番える。


 撃てる。


 だが、ガンツに近すぎる。


 無駄に撃たない。


 ダリオは、赤の足だけを見ていた。


 赤が踏み込む瞬間。


 膝が伸びる瞬間。


 矢が飛んだ。


 赤ゴブリンの足首。


 深くは刺さらない。


 だが、踏み込みが乱れる。


 ガンツがその瞬間に槍を押し上げた。


 赤の体が少し浮く。


「今!」


 相沢が叫ぶ。


 見張りが横から棒を入れる。


 赤の膝裏。


 赤ゴブリンが初めて膝をついた。


 広場から、息を呑む声が聞こえた。


 ガンツが叫ぶ。


「見てるな! 役を見ろ!」


 広場が戻る。


 ミナが板を叩く。


「火、水、呼ぶ!」


 赤ゴブリンが膝をついたまま、顔を上げた。


 その目が、相沢を見た。


 ぞっとするほど、まっすぐに。


 声がした。


「アイザワ」


 今までで一番、近かった。


 相沢の足が、線を踏んだ。


 踏んだだけ。


 越えていない。


 だが、ガンツが見た。


「越えるな!」


 ミナが同時に叫ぶ。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は歯を食いしばる。


 戻る。


 一歩後ろへ。


 下がった。


 赤ゴブリンの目が、わずかに細くなる。


 苛立ったように見えた。


 そこへ、ダリオの矢が飛んだ。


 赤の頬を裂く。


 古い傷の横に、新しい傷。


 赤ゴブリンが叫んだ。


 初めて、怒りの声だった。


 人の声ではない。


 獣の声でもない。


 ただの怒り。


「今のは、本物だな」


 ガンツが歯を見せて笑った。


     ◇


【土曜日 14:27/広場中央】


 赤の怒声で、子供たちが泣いた。


 無理もない。


 大人でも足が震える。


 だが、南の小屋の入口は塞がっていない。


 火は入れていない。


 水は決めた桶だけ。


 倉庫は閉じたまま。


 治療所は怪我人を受けた。


 リリアが、息を詰まらせた見張りの胸と背を確認する。


「息は戻ります。水、少し」


 水の役が小椀で運ぶ。


 ハルトが井戸から許可した水。


 決めた量。


 決めた道。


 誰も井戸へ群がらない。


 村長が広場中央で声を出す。


「役を離れるな!」


 それだけ。


 余計な説明はしない。


 ミナは板の前に立っている。


 呼ぶ役が少し震えている。


 ミナはその横に立ち、同じ言葉を言った。


「誰、どこ、何」


 呼ぶ役が頷く。


「誰、どこ、何」


「見たものだけ」


「見たものだけ」


「声は」


「声だけ」


「北は」


「北が見る」


 呼ぶ役の呼吸が少し戻る。


 ミナは北を見たい。


 相沢を見たい。


 赤を見たい。


 だが、板を見る。


 広場を見る。


 それが今の役だった。


     ◇


【土曜日 14:36/北柵】


 赤ゴブリンは傷ついていた。


 足首。


 太腿。


 頬。


 肩。


 だが、まだ立っている。


 ガンツの腕は重い。


 見張りの一人は治療所へ運ばれた。


 残りの見張りは息が荒い。


 ダリオの矢も減っている。


 相沢は水を配る指示を出した。


 少しだけ。


 北に。


 井戸は許可済み。


 倉庫は動かさない。


 食料は増えない。


 時間もない。


 赤がまた距離を取った。


 森の端。


 今度は逃げる構えではない。


 低く、深く。


 飛ぶ前の構え。


 ダリオが言う。


「次、どちらか」


「どちらか?」


 相沢が聞く。


「ガンツか、アイザワ」


 ガンツが笑う。


「俺に来い」


「赤は選ぶ」


 ダリオが言う。


 相沢は線を見る。


 自分を狙わせる。


 それが作戦だった。


 だが、本当に来たら。


 止まれるか。


 逃げないでいられるか。


 前へ出ずにいられるか。


 赤ゴブリンが動いた。


 相沢へ。


 一直線ではない。


 ガンツの横を抜ける角度。


 ガンツが槍を出す。


 赤は腕で弾く。


 ダリオの矢が飛ぶ。


 赤は肩で受ける。


 止まらない。


 相沢へ来る。


 線の内側。


 相沢は下がる。


 一歩。


 もう一歩。


 決めた通り。


 赤が迫る。


 長い腕が伸びる。


 ガンツが横から追う。


「下がれ!」


 相沢は下がる。


 線の内側で。


 だが、その時、森の奥から声がした。


「ミナ」


 同時に、広場側で短い悲鳴。


 相沢の目が動いた。


 ミナ。


 見るな。


 赤がそこを待っていた。


 腕が伸びる。


 相沢の肩を掴もうとする。


 その瞬間、ガンツが間に入った。


 槍ではない。


 体で。


 赤の腕を肩で受ける。


 鈍い音。


 ガンツの顔が歪む。


「前を見るって、言ったろうが!」


 ガンツが叫ぶ。


 相沢は息を呑んだ。


 自分が横を見た。


 ミナの声に反応した。


 その一瞬で、ガンツが受けた。


 赤ゴブリンが笑う。


 ガンツの肩に爪が食い込む。


 血が出る。


 ダリオが叫んだ。


「右目!」


 相沢は反射的に叫ぶ。


「ガンツ、下!」


 ガンツが膝を落とす。


 ダリオの矢が飛んだ。


 赤ゴブリンの右目に向かって。


 赤は顔を逸らした。


 矢は目ではなく、古い傷の上に刺さった。


 浅くない。


 赤ゴブリンが大きく仰け反る。


 ガンツがその隙に槍を押し込んだ。


 胸ではない。


 腹でもない。


 足。


 赤の膝へ。


 赤ゴブリンが崩れた。


     ◇


【土曜日 14:44/広場中央】


 広場に、赤の叫びが届いた。


 今までで一番大きい。


 何人かが立ち上がった。


 ミナが叫ぶ。


「座って!」


 声が割れた。


 それでも届いた。


「北が見る! 広場は戻す!」


 呼ぶ役が続ける。


「北、赤! ガンツ怪我! でも北が見る!」


 リリアが治療所前から顔を上げた。


 ガンツの怪我。


 行きたい。


 治療所として行きたい。


 だが、怪我人が来る場所を空けてはいけない。


「運ばれたら受けます!」


 リリアは言った。


「こちらからは出ません!」


 ハルトが井戸前で棒を握る。


 井戸を離れない。


 マルタが倉庫の戸の前に立つ。


 開けない。


 村長が中央で言う。


「役を離れるな!」


 広場は揺れる。


 だが、まだ割れない。


     ◇


【土曜日 14:51/北柵】


 赤ゴブリンは膝をついた。


 だが、終わっていない。


 ガンツは肩から血を流している。


 それでも槍を離さない。


 ダリオは矢を番える。


 残り少ない。


 相沢は線の内側で立っている。


 息が荒い。


 自分のミスだ。


 ミナの声に反応した。


 赤にそこを使われた。


 ガンツが受けた。


「悪い」


 相沢が言うと、ガンツが怒鳴った。


「後で言え!」


 赤ゴブリンが動く。


 膝をついたまま、長い腕を地面へ伸ばす。


 土を掴む。


 投げた。


 泥。


 石。


 腐ったもの。


 北の見張りの顔にかかる。


 一瞬、視界が消える。


 赤が跳ねる。


 ガンツを避けて、横へ。


 西。


 倒木の方。


 逃げる。


 いや、誘う。


 ダリオが叫ぶ。


「追うな!」


 ガンツが踏み出しかけて止まる。


 相沢も止まる。


 赤ゴブリンは西の倒木の手前で振り向いた。


 傷だらけ。


 片目の上に矢傷。


 肩に矢。


 足を引きずっている。


 それでも、笑っているように見える。


 森の奥から、声がした。


 助けて。


 ミナ。


 アイザワ。


 ガンツ。


 全部混ざる。


 赤ゴブリンは、森へ戻ればまだ終わらない。


 また夜が来る。


 食料はない。


 こちらは待てない。


 だが、追えば森だ。


 森は赤の場所。


 相沢は息を吸った。


 ここで、決める。


「追わない」


 ガンツが横目で見る。


「じゃあどうする」


「出させる」


「どうやって」


 相沢は広場を見る。


 ミナが板の前にいる。


 マルタが倉庫を守っている。


 ハルトが井戸を守っている。


 リリアが治療所を守っている。


 村長が中央に立っている。


 相沢は叫んだ。


「広場!」


 ミナが振り向く。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は続けた。


「声は声! 見えるものだけ!」


 ミナが一瞬だけ目を見開く。


 すぐに板を叩いた。


「声は声! 見えるものだけ!」


 広場が繰り返す。


 最初は小さい。


 次第に広がる。


「声は声! 見えるものだけ!」


 赤ゴブリンの表情が変わった。


 初めて、明確に。


 声が効かない。


 名前が効かない。


 広場が、意味を渡さない。


 赤ゴブリンが低く唸る。


 森へ戻る動きが、一瞬止まった。


 ダリオが矢を構えた。


「今、見える」


 ガンツが槍を握る。


「行くぞ」


 相沢は線を見た。


 自分は行かない。


 行くのは前の役。


「ガンツ!」


「ああ!」


 ガンツが前へ出た。


 柵の際まで。


 森へは入らない。


 赤ゴブリンが怒りで一歩、森から出る。


 その一歩。


 ダリオの矢が飛んだ。


 今度は、右目ではない。


 足。


 すでに傷ついた足首。


 矢が刺さる。


 赤ゴブリンが崩れた。


 ガンツが踏み込んだ。


 槍が、赤の胸を捉えた。

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