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第百話 赤を動かす

【土曜日 9:18/広場中央】


 決戦準備。


 表示の言葉は、相沢の胸に残っていた。


 だが、広場には出さない。


 広場に出すのは、火、水、呼ぶ。


 人、水、食料、仕事、休む人。


 それだけでいい。


 相沢は板の前に座ったまま、各役を見た。


 ミナ。


 村長。


 マルタ。


 ハルト。


 リリア。


 伝令役。


 南の組。


 北のガンツとダリオ。


 全員が揃っているわけではない。


 揃えない方がいい。


 全員を一箇所に集めれば、村が止まる。


「まず、動きを減らす」


 相沢は言った。


 ミナが頷く。


「朝から、仕事は少なくする」


「必要なものだけ」


「水、食料、火、治療所、北、南」


「そう」


 村長が続ける。


「余分な修繕、片づけ、移動は止めましょう」


 マルタが腕を組む。


「倉庫の中も、今日は触らない。出すものは私が出す。勝手に覗いたら怒鳴るよ」


 ハルトが井戸側から言う。


「水は決めた桶だけ。運ぶ者も決める。飲みたい者は広場で言う。井戸へ集まるな」


 リリアが治療所の布を直しながら言う。


「治療所も同じです。見舞いは受けません。病人用の水と粥は別にします」


 ミナは板を見た。


「広場は?」


 相沢は答える。


「増やさない」


「赤が出たら?」


「増やさない」


「声がしたら?」


「誰、どこ、何」


「食料で揉めたら?」


「食料はマルタさん」


「水で揉めたら?」


「水はハルト」


「怪我人が出たら?」


「治療所はリリアさん」


「北は?」


「北が見る」


「回し屋は?」


 相沢は一拍置いた。


「決めた場所までしか動かない」


 ミナはじっと相沢を見る。


 まだ信用していない。


 それでいい。


 信用しきらない方が、今日は安全だった。


     ◇


【土曜日 9:41/北柵】


 北の空気は、昨日より軽くなかった。


 朝なのに、森が起きていない。


 鳥の声が少ない。


 虫の音も細い。


 風はある。


 枝は揺れている。


 だが、森全体が、こちらの音を聞いているようだった。


 ガンツは槍を持ち、柵の内側に立っていた。


 ダリオは少し右側。


 弓を持っている。


 矢は番えていない。


 だが、指はすぐ動く位置にある。


 相沢は、二人より少し後ろに立っていた。


 決めた場所。


 柵から三歩内側。


 それより前には出ない。


 地面には、小さな線が引いてある。


 ミナが引かせた。


 相沢が自分で引くと言ったら、ミナが首を振った。


 信用できないから。


 そう言われた。


 正しい。


「ここまでだな」


 ガンツが言った。


「ああ」


「越えたら殴る」


「分かってる」


「本当に殴るぞ」


「分かってる」


 ダリオが森を見たまま言う。


「少し左」


 相沢は反射的に左を見ようとした。


 ダリオが短く言う。


「見るな」


 相沢は止まった。


 ガンツが低く笑う。


「早速か」


「癖だ」


「今日、その癖が一番危ない」


「ああ」


 ダリオが続ける。


「左の奥。動いた」


「赤か」


 ガンツが聞く。


「違う。小さい」


「小ゴブリンか」


「たぶん」


 相沢は見たくなるのを堪えた。


 自分が見ても分からない。


 ダリオが見る。


 ガンツが止める。


 自分は、後ろを見ろ。


 相沢は広場の方を一度だけ見た。


 ミナが板の前にいる。


 遠い。


 だが、見える。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 板は変わっていない。


     ◇


【土曜日 10:03/広場中央】


 最初に動いたのは、森ではなかった。


 南だった。


 南の小屋から、短い声が上がる。


「火!」


 広場が反応する。


 呼ぶ役がすぐ声を出した。


「南、何!」


 伝令が南から走りかける。


 ミナが叫んだ。


「走らない!」


 伝令は足を緩めた。


 早歩きに変える。


 息を切らして広場へ来る。


「南の小屋の外、煙みたいなの!」


 ミナが板を見る。


 誰。


 どこ。


 何。


「誰が見た!」


「入口の男!」


「どこ!」


「南の小屋の外!」


「何を見た!」


「煙! 火はまだ見てない!」


 広場が動きかける。


 マルタが倉庫前から怒鳴った。


「倉庫は動かないよ!」


 ハルトも井戸側で言う。


「井戸も動かない!」


 ミナが続ける。


「南の組が見る! 広場は火、水、呼ぶ!」


 相沢は北の方から、その声を聞いた。


 南。


 煙。


 火かもしれない。


 行きたくなる。


 だが、南は南の組。


 広場は広場。


 相沢は線の内側に立ったまま、拳を握った。


     ◇


【土曜日 10:08/南の空き小屋】


 南の小屋の外で、煙が上がっていた。


 火ではない。


 湿った草と古い布が、くすぶっているだけだった。


 入口の若い男が水を取りに行こうとした。


 村の男が止めた。


「待て」


「煙だぞ」


「火が見えてない」


「でも」


「水を呼ぶ前に見る」


 若い男は歯を食いしばる。


 小屋の中で子供が泣きかける。


 避難民の女が抱き寄せる。


「外へ出ない」


 声は震えていた。


 だが、言葉は決まっている。


 南の組の一人が棒でくすぶる布を広げる。


 火は小さい。


 草に移っていない。


「水、少し!」


 入口の男が広場へ返す。


 水の役が、決められた小桶だけを持ってくる。


 大桶は動かさない。


 井戸へ人を増やさない。


 小桶の水で、布の煙を消す。


 じゅ、と音がした。


 煙が薄くなる。


 その下に、小さな骨のようなものが見えた。


 鳥の骨。


 布に巻かれている。


 若い男の顔が歪む。


「また、嫌なものを」


 村の男が低く言う。


「触るな。広場へ言う」


     ◇


【土曜日 10:19/広場中央】


 南から報告が戻った。


「火ではない! 布と鳥の骨! 煙は消した! 水は小桶だけ!」


 広場がざわつく。


「骨?」


「鳥?」


「またか」


「赤いのか」


 ミナが板を見る。


「火じゃない! 南が処理! 広場は戻す!」


 戻す。


 その言葉を、何度も使う。


 火。


 水。


 呼ぶ。


 人。


 水。


 食料。


 仕事。


 休む人。


 食料の印を見た者が、すぐ顔を伏せる。


 腹が減っている。


 煙が出た。


 骨が出た。


 それでも動けない。


 相沢は北から伝令の報告を聞いた。


 赤は、南を使った。


 火に見せた。


 水を動かそうとした。


 人を小屋から出そうとした。


 だが、水は小桶だけ。


 小屋は出なかった。


 井戸は空かなかった。


「効いてる」


 相沢は小さく言った。


 ガンツが聞く。


「何が」


「村が、崩れてない」


「なら次が来る」


 ガンツは森を睨んだ。


 その通りだった。


     ◇


【土曜日 10:37/北柵】


 森の奥で、声がした。


 助けて、ではなかった。


 今度は、笑い声だった。


 小さな笑い。


 子供にも聞こえる。


 女にも聞こえる。


 男にも聞こえる。


 喉の奥で転がすような音。


 見張りの一人が肩を震わせた。


 ダリオが言う。


「声だけ」


 ガンツが続ける。


「誰、どこ、何」


 見張りが答える。


「誰、分からない。どこ、森の奥。何、笑い声。何も見えない」


「よし」


 ガンツは短く言った。


 笑い声が少し大きくなる。


 腹の底を撫でるような、不快な声だった。


 相沢の背中にも汗がにじむ。


 笑われている。


 村が。


 薄い粥を。


 動かない人間を。


 餌にされても出てこない相沢を。


 そう聞こえる。


 だが、決めつけるな。


 声は声。


 見えていない。


 ダリオが弓を上げた。


 前回と同じ。


 音の横。


 だが、今度は放たない。


「撃たないのか」


 ガンツが聞く。


「遠い」


「小さいのか」


「たぶん。でも、誘ってる」


 相沢は言った。


「撃った後を見たいのかもしれない」


 ダリオが少しだけ頷く。


「そう」


 声はしばらく続いた。


 誰も出ない。


 誰も撃たない。


 森の奥で、笑い声だけが浮く。


 やがて、消えた。


 ガンツが低く吐き捨てる。


「腹立つな」


「腹立てるためだ」


 相沢が言う。


「分かってる」


「怒ると」


「見えるものが減る。昨日聞いた」


 ガンツは不機嫌そうに言った。


 ダリオが森を見たまま、短く言う。


「覚えた」


「うるせぇ」


 そのやり取りで、北の空気が少しだけ戻った。


     ◇


【土曜日 11:02/井戸前】


 井戸では、ハルトが座っていた。


 座っている。


 だが、目は動いている。


 道。


 桶。


 縁。


 縄。


 水面。


 いつも通り。


 そこへ、小さな石が転がってきた。


 井戸へ続く道の端。


 昨日と同じ場所に近い。


 若い男が息を呑む。


「石」


 ハルトは立たない。


「見た者」


「俺です」


「どこ」


「井戸道の端」


「何」


「石。今、転がってきた」


「誰か見たか」


「見てない」


「井戸へ触るな」


 ハルトは低く言った。


 若い男が頷く。


 ハルトは近くの棒を取った。


 手では触らない。


 石を少し動かす。


 下に、何か塗られている。


 泥。


 それだけではない。


 腐った匂い。


 若い男が顔をしかめた。


「水、死ぬ?」


「まだ死んでない」


 ハルトは即答した。


「石は井戸に入ってない。縁にも触ってない。水はまだ見る」


「広場へ?」


「言う。だが、井戸は空けない」


 報告が広場へ行く。


 ハルトは井戸から離れない。


 石は外にある。


 水は中にある。


 混ぜない。


     ◇


【土曜日 11:15/広場中央】


 南の煙。


 北の笑い声。


 井戸の石。


 三つ目だった。


 広場の疲れが、目に見えて濃くなる。


 腹が減っている。


 眠れていない。


 怖い。


 それでも、ミナは板の前にいる。


「井戸、石! 水はまだ死んでない! ハルトが見る!」


 声が割れかける。


 だが、割れない。


「井戸へ集まらない!」


 何人かが立ち上がりかけて、座り直す。


 水。


 食料。


 どちらも命に近い。


 そこを触られると、人は動く。


 赤は分かっている。


 相沢は北でその報告を聞いた。


 胃の奥が重くなる。


 南。


 北。


 井戸。


 同時ではない。


 少しずつずらしている。


 村の集中を削るためだ。


 赤は、村を疲れさせている。


 腹と不安で、判断を鈍らせている。


「まだ本体じゃない」


 相沢が言う。


 ガンツが頷く。


「ああ。嫌がらせだ」


 ダリオが低く言う。


「違う」


「何が」


「測ってる」


「何を」


「どこで崩れるか」


 相沢は森を見た。


 見えない。


 だが、赤はどこかで見ている。


 南で水が動くか。


 北で矢が出るか。


 井戸で人が集まるか。


 広場でミナが増やすか。


 相沢が線を越えるか。


 測っている。


 なら、こちらも測らせる。


 崩れていないと見せる。


 ただし、余裕があるふりはしない。


 腹は減っている。


 食料はない。


 時間もない。


 だから、赤を動かさなければならない。


     ◇


【土曜日 11:42/北柵】


 ダリオが、急に息を止めた。


 ガンツがすぐ気づく。


「何だ」


「赤」


 声は小さかった。


 相沢の背筋が伸びる。


「見えたのか」


「見えた」


 ダリオの目は森の奥、左寄りを見ている。


 ガンツが槍を構える。


「距離は」


「遠い。でも、見える位置」


「わざとか」


「たぶん」


 相沢は見ようとした。


 何も分からない。


 だが、木々の間に、一瞬だけ赤いものが揺れた気がした。


 それが本体なのか。


 布なのか。


 目なのか。


 分からない。


 ダリオが言う。


「動いてない」


「見せてるだけか」


 ガンツが低く言う。


 相沢は線の内側に立っている。


 足が前へ出そうになる。


 線。


 ミナが引かせた線。


 ガンツが見る。


「越えるなよ」


「分かってる」


「顔が前に出てる」


「顔は線に入らない」


「屁理屈言うな」


 相沢は一歩、後ろへ下がった。


 自分で下がった。


 それだけで、少し息が戻る。


 ダリオが短く言う。


「赤も見た」


「何を」


「下がったのを」


 相沢は森を見る。


 赤が見ている。


 自分が止まったことを。


 それなら、次はもっと強く来る。


 相沢を線の外へ出すために。


     ◇


【土曜日 12:03/広場中央】


 昼の粥は、さらに薄かった。


 ほとんど湯。


 それでも、全員に渡す。


 少しずつ。


 子供。


 老人。


 見張り。


 井戸。


 治療所。


 順番を決める。


 揉めそうになる。


 マルタが睨む。


 村長が言う。


 ミナが板を指す。


 食料は、マルタ。


 水は、ハルト。


 治療所は、リリア。


 広場は、呼ぶ。


 椀を受け取った男が、不満そうに言った。


「これじゃ、動けない」


 マルタが即答する。


「だから動くな」


 男は黙った。


「動く者に回す。見張り、井戸、治療所。文句は後で聞く」


「後で飯はあるのか」


 その言葉に、広場が凍る。


 マルタの顔が険しくなる。


 だが、村長が先に言った。


「後で飯を作るために、今、村を崩さないのです」


 男は顔を伏せた。


 納得はしていない。


 腹は納得しない。


 だが、言葉は止まった。


 相沢は粥を飲む。


 薄い。


 大阪の味噌汁を思い出す。


 白飯を思い出す。


 七瀬の「ちゃんと食べてください」を思い出す。


 今ここでは、ちゃんと食べるものがない。


 だから、今日決めるしかない。


     ◇


【土曜日 12:37/広場中央】


 赤は、昼に来た。


 最初に鳴ったのは、北の笛だった。


 一度。


 二度。


 短く、鋭い。


 広場が反応する。


 呼ぶ役が声を張る。


「北、何!」


 伝令が来る前に、北からガンツの声が飛んだ。


「赤、見える!」


 広場が止まりかける。


 ミナが叫ぶ。


「広場そのまま!」


 次の瞬間、南から声が上がった。


「煙!」


 井戸側からも声。


「石!」


 さらに森の奥から、名前を呼ぶ声がした。


 ミナ。


 アイザワ。


 助けて。


 全部が重なった。


 広場の空気が割れた。


 だが、ミナが板を叩いた。


「火、水、呼ぶ!」


 木炭が折れる音がした。


「誰、どこ、何!」


 呼ぶ役が叫ぶ。


「北、赤! 南、煙! 井戸、石! 声は森!」


 ミナが続ける。


「南は南! 井戸はハルト! 北は北! 広場は動かない!」


 村長がすぐ前に出る。


「役を離れるな!」


 マルタが倉庫前で怒鳴る。


「倉庫は開けない!」


 ハルトが井戸で声を返す。


「水はまだ死んでない!」


 リリアが治療所前で言う。


「治療所は動かしません!」


 相沢は北へ向かっていた。


 決めた通り。


 走らない。


 だが、速い。


 広場から北へ。


 線の場所まで。


 赤に見せるため。


 餌に見せるため。


 本当に餌にならないため。


 森の奥で、赤いものが揺れた。


 そして、声がした。


 今度は、はっきりと。


「アイザワ」


 相沢の足が止まりかけた。


 自分の名ではない。


 村の発音でもない。


 だが、そう聞こえた。


 アイザワ。


 助けて。


 こちらへ。


 足が、線の前で止まる。


 止まった。


 だが、次の瞬間、森の端に人影が見えた。


 小さい。


 倒れかけている。


 片手を伸ばしている。


 ミナの声が、広場から飛んだ。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は奥歯を噛んだ。


 戻れ。


 約束だ。


 戻れ。


 ガンツの声が北から響く。


「越えるな!」


 ダリオの声が続く。


「本体、右!」


 赤い影が、左ではなく右に動いた。


 見せていた赤は囮。


 本体は右。


 ダリオが見つけた。


 相沢は線の内側で止まったまま、叫んだ。


「右! ガンツ!」


「見えてる!」


 ガンツが槍を構え、右へ踏み出す。


 ダリオの矢が飛んだ。


 森の右奥で、赤い影が初めて大きく動いた。


 赤ゴブリンが、姿を現した。


 人より少し低い。


 だが、太い。


 腕が長い。


 顔の片側に、古い傷。


 目が、こちらを見ていた。


 相沢ではなく。


 広場を。


 そして、ミナを。


 相沢の血が冷えた。


「ミナ!」


 叫びかけた。


 その前に、ミナの声が来た。


「広場、そのまま!」


 ミナは動いていなかった。


 板の前にいた。


 泣いてもいない。


 逃げてもいない。


 広場を戻している。


 赤ゴブリンが、初めて低く唸った。


 誘導が、外れた。


     ◇


【土曜日 12:44/北柵】


 ガンツが前に出た。


 柵の外へは出ない。


 柵の際。


 決めた場所。


 赤ゴブリンは森の端を走る。


 真正面ではない。


 斜め。


 北柵と井戸の間を狙っている。


 そこを抜ければ、広場の目が割れる。


 ダリオが矢を放つ。


 一射目。


 赤ゴブリンの足元。


 止める矢。


 赤ゴブリンが跳ぶ。


 速い。


 ガンツが吠える。


「前!」


 見張りが槍を構える。


 だが、赤ゴブリンは当たらない距離で止まる。


 また声がした。


 南。


 井戸。


 助けて。


 アイザワ。


 ミナ。


 混ざった声。


 見張りの一人が一瞬だけ横を見る。


 ガンツが怒鳴る。


「前を見ろ!」


 見張りが戻る。


 ダリオが二射目を放つ。


 今度は赤ゴブリンの肩をかすめた。


 赤い皮膚が裂ける。


 赤ゴブリンが笑った。


 笑ったように見えた。


 相沢は線の内側にいる。


 足が動きそうになる。


 自分が行けば。


 いや、行くな。


 後ろを見ろ。


 広場を見る。


 ミナが板を叩いている。


 ハルトが井戸を離れていない。


 マルタが倉庫を閉めている。


 リリアが治療所を開けすぎていない。


 村長が立っている。


 崩れていない。


 まだ。


 赤ゴブリンが右へ走る。


 井戸側。


 ハルトの方。


 相沢の体が動きかけた。


 その瞬間、ミナの声が飛んだ。


「火、水、呼ぶ!」


 相沢は止まった。


 ハルトが井戸側で棒を構える。


 腕は負傷している。


 だが、立っている。


 いや、井戸の前に座るように腰を落としている。


 動かないための構え。


「井戸は俺が見る!」


 ハルトの声が響いた。


 赤ゴブリンは、井戸へ来なかった。


 途中で止まる。


 見ている。


 ハルトが動くかを。


 相沢が動くかを。


 誰も動かない。


 赤ゴブリンの目が細くなった。


     ◇


【土曜日 12:51/広場中央】


 広場は、揺れていた。


 だが、割れていなかった。


 南の煙は、また布だった。


 小桶で消した。


 井戸の石は、縁の外で止まっていた。


 ハルトが棒で押しのけた。


 声は、森から来ているだけ。


 見えていない。


 呼ぶ役が、何度も繰り返す。


「誰、分からない! どこ、森! 何、声だけ!」


 ミナが叫ぶ。


「声だけなら走らない!」


 子供が泣く。


 母親が抱く。


 避難民の若い男が立ち上がりかける。


 村の男が肩を押さえる。


「座れ」


「でも」


「入口を空ける」


「分かってる!」


 若い男は座り直した。


 マルタが倉庫前で戸に手を置いている。


 開けない。


 倉庫の中に食料は少ない。


 少ないからこそ、開けない。


 リリアは治療所前で、布を少しだけ上げた。


 中を見すぎない。


 だが、受け入れる準備はある。


 村長が広場中央で言う。


「役を離れるな!」


 その声が、広場の杭になっていた。


     ◇


【土曜日 13:04/北柵】


 赤ゴブリンは、初めて正面に来た。


 森の端。


 北柵の前。


 距離はある。


 だが、見える。


 古い傷のある顔。


 長い腕。


 片手に、骨のようなものを持っている。


 鳥の骨か。


 人の骨か。


 分からない。


 赤ゴブリンは、それをゆっくり掲げた。


 声が出た。


 今度は、はっきりと人の声に近い。


「くれ」


 誰かが息を呑んだ。


 食料をくれ。


 水をくれ。


 命をくれ。


 そう聞こえる。


 相沢は、気づいた。


 違う。


 これは言葉ではない。


 こちらが意味を乗せている。


 腹が減っているから、くれに聞こえる。


 怖いから、助けてに聞こえる。


 名前を呼ばれたいから、名前に聞こえる。


 赤は、声そのものではなく、こちらの中にあるものを揺らしている。


「聞くな!」


 相沢は叫んだ。


 ガンツが少しだけ振り返る。


「聞こえる!」


「決めるな!」


 相沢は続けた。


「意味を決めるな! 声は声だ!」


 ダリオが矢を構える。


「見えるものだけ」


「ああ!」


 ガンツが槍を構え直す。


「見えるものだけだ!」


 赤ゴブリンが動いた。


 真正面。


 速い。


 ガンツが前へ出る。


 槍が赤の腕を弾く。


 重い音。


 ガンツの足が土を削る。


 ダリオの矢が飛ぶ。


 赤ゴブリンの脇をかすめる。


 赤は止まらない。


 柵へ手をかける。


 見張り二人が槍で押す。


 ガンツが横から打つ。


 赤ゴブリンが唸る。


 その声に、広場がまた揺れる。


 相沢は動きかけた。


 線。


 足元の線。


 ここまで。


 ここから先は、ガンツの場所。


 相沢は線の内側で叫んだ。


「広場、戻せ!」


 ミナの声がすぐ返る。


「戻してる!」


 相沢は、少しだけ笑いそうになった。


 怒られた。


 それでいい。


     ◇


【土曜日 13:11/北柵】


 赤ゴブリンは、一度退いた。


 逃げたのではない。


 距離を取っただけ。


 ガンツの息が荒い。


 腕が痺れているのが見える。


 見張りも汗を流している。


 ダリオは三本目の矢を番えている。


 相沢は水を持ってこさせた。


 自分では行かない。


 伝令に渡す。


 北の見張りへ。


 ガンツへ。


 ダリオへ。


 少しずつ。


 水は命だ。


 だが、今ここで飲ませなければ、前が落ちる。


 ハルトからの許可は出ている。


 決めた水。


 決めた量。


 水の役が運ぶ。


 ガンツが水を飲み、相沢を睨んだ。


「来るなよ」


「行ってない」


「顔が来てる」


「顔は線に入らない」


「また言ったな」


 ダリオが短く言う。


「次、本命」


 ガンツの顔が変わる。


「今のは本命じゃねぇのか」


「試した」


「何を」


「ガンツ。柵。広場。アイザワ」


 ダリオは森の右奥を見る。


「次は、抜ける場所を変える」


 相沢は地面の図を思い出す。


 北。


 井戸。


 南。


 倉庫。


 治療所。


 どこが一番弱い。


 赤から見て。


 人が動く場所。


 食料。


 食料だ。


「倉庫」


 相沢が言う。


 ガンツが振り向く。


「何」


「次、倉庫を狙うかもしれない」


 ダリオが少しだけ目を動かす。


「森からは遠い」


「だから、小さいのを使う」


 相沢は広場へ向かって叫んだ。


「倉庫、見るだけ! 開けるな!」


 マルタの声がすぐ返った。


「言われなくても開けないよ!」


 赤ゴブリンが、森の中で低く笑った。


 今度は、相沢にも見えた。


 赤の目が、倉庫ではなく、相沢を見ていた。


 読まれた。


 いや、読ませたのか。


 相沢が倉庫と言ったことで、広場の目が倉庫へ向いた。


 その一瞬。


 南から悲鳴が上がった。


「子供が!」


 相沢の心臓が跳ねた。


 南。


 子供。


 赤の声。


 今度は、本物か。


 ミナの声が飛ぶ。


「誰!」


 南から返る。


「子供!」


「どこ!」


「南の小屋の中!」


「何を見た!」


「倒れた! 火なし! 血なし!」


 リリアが治療所前から叫ぶ。


「南の大人が見る! 動かせるなら治療所へ! 広場は動かない!」


 相沢は動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動かなかった。


 南は南。


 治療所はリリア。


 広場は広場。


 北は北。


 赤ゴブリンは、森の端でじっと見ていた。


 相沢が動かないことを。


 村が、まだ割れないことを。


     ◇


【土曜日 13:24/広場中央】


 南の子供は、空腹と疲労で倒れた。


 怪我ではなかった。


 火でもなかった。


 リリアが治療所で受ける。


 病人用の水。


 塩飴の欠片。


 ほんの少し。


 マルタが管理する。


 広場は動かない。


 だが、空気は重くなった。


 赤の攻撃ではない。


 村の限界だった。


 相沢はそれを聞き、拳を握った。


 赤を倒すだけでは足りない。


 その後、食料を取りに出なければならない。


 森を通れるようにしなければならない。


 だから、今日決める。


 赤ゴブリンが、森の端で動いた。


 今度は、逃げるように見えた。


 ダリオが低く言う。


「誘ってる」


 ガンツが唸る。


「追うなよ」


 相沢は線を見る。


 追わない。


 追えば森だ。


 森は赤の場所。


 だが、追わなければ赤は戻る。


 食料はない。


 待てない。


 相沢は息を吐いた。


「追わない」


 ガンツが少しだけ安堵した顔をした。


 だが、相沢は続けた。


「追わずに、出る場所を変える」


「何?」


「赤が誘ってる森には行かない。こっちが決めた場所に出る」


 ダリオが森を見る。


「西の倒木」


 相沢が見る。


「見えるのか」


「見える。赤が嫌がる場所」


 ガンツが笑う。


「ようやく、こっちが嫌がらせする番か」


 相沢は頷いた。


「全員で出ない。ガンツ、ダリオ、見張り二人。俺は線より前へ出ない」


「また餌か」


「餌じゃない。赤に、俺が出ると思わせる」


「同じだ」


「違う」


「後で殴る」


「今じゃないならいい」


 ガンツは槍を持ち直した。


 ダリオは森の西側を見ている。


 赤ゴブリンは、まだ森の端でこちらを見ていた。


 見ていろ。


 相沢は思った。


 今度は、こちらが動かす。

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