第百話 赤を動かす
【土曜日 9:18/広場中央】
決戦準備。
表示の言葉は、相沢の胸に残っていた。
だが、広場には出さない。
広場に出すのは、火、水、呼ぶ。
人、水、食料、仕事、休む人。
それだけでいい。
相沢は板の前に座ったまま、各役を見た。
ミナ。
村長。
マルタ。
ハルト。
リリア。
伝令役。
南の組。
北のガンツとダリオ。
全員が揃っているわけではない。
揃えない方がいい。
全員を一箇所に集めれば、村が止まる。
「まず、動きを減らす」
相沢は言った。
ミナが頷く。
「朝から、仕事は少なくする」
「必要なものだけ」
「水、食料、火、治療所、北、南」
「そう」
村長が続ける。
「余分な修繕、片づけ、移動は止めましょう」
マルタが腕を組む。
「倉庫の中も、今日は触らない。出すものは私が出す。勝手に覗いたら怒鳴るよ」
ハルトが井戸側から言う。
「水は決めた桶だけ。運ぶ者も決める。飲みたい者は広場で言う。井戸へ集まるな」
リリアが治療所の布を直しながら言う。
「治療所も同じです。見舞いは受けません。病人用の水と粥は別にします」
ミナは板を見た。
「広場は?」
相沢は答える。
「増やさない」
「赤が出たら?」
「増やさない」
「声がしたら?」
「誰、どこ、何」
「食料で揉めたら?」
「食料はマルタさん」
「水で揉めたら?」
「水はハルト」
「怪我人が出たら?」
「治療所はリリアさん」
「北は?」
「北が見る」
「回し屋は?」
相沢は一拍置いた。
「決めた場所までしか動かない」
ミナはじっと相沢を見る。
まだ信用していない。
それでいい。
信用しきらない方が、今日は安全だった。
◇
【土曜日 9:41/北柵】
北の空気は、昨日より軽くなかった。
朝なのに、森が起きていない。
鳥の声が少ない。
虫の音も細い。
風はある。
枝は揺れている。
だが、森全体が、こちらの音を聞いているようだった。
ガンツは槍を持ち、柵の内側に立っていた。
ダリオは少し右側。
弓を持っている。
矢は番えていない。
だが、指はすぐ動く位置にある。
相沢は、二人より少し後ろに立っていた。
決めた場所。
柵から三歩内側。
それより前には出ない。
地面には、小さな線が引いてある。
ミナが引かせた。
相沢が自分で引くと言ったら、ミナが首を振った。
信用できないから。
そう言われた。
正しい。
「ここまでだな」
ガンツが言った。
「ああ」
「越えたら殴る」
「分かってる」
「本当に殴るぞ」
「分かってる」
ダリオが森を見たまま言う。
「少し左」
相沢は反射的に左を見ようとした。
ダリオが短く言う。
「見るな」
相沢は止まった。
ガンツが低く笑う。
「早速か」
「癖だ」
「今日、その癖が一番危ない」
「ああ」
ダリオが続ける。
「左の奥。動いた」
「赤か」
ガンツが聞く。
「違う。小さい」
「小ゴブリンか」
「たぶん」
相沢は見たくなるのを堪えた。
自分が見ても分からない。
ダリオが見る。
ガンツが止める。
自分は、後ろを見ろ。
相沢は広場の方を一度だけ見た。
ミナが板の前にいる。
遠い。
だが、見える。
火。
水。
呼ぶ。
板は変わっていない。
◇
【土曜日 10:03/広場中央】
最初に動いたのは、森ではなかった。
南だった。
南の小屋から、短い声が上がる。
「火!」
広場が反応する。
呼ぶ役がすぐ声を出した。
「南、何!」
伝令が南から走りかける。
ミナが叫んだ。
「走らない!」
伝令は足を緩めた。
早歩きに変える。
息を切らして広場へ来る。
「南の小屋の外、煙みたいなの!」
ミナが板を見る。
誰。
どこ。
何。
「誰が見た!」
「入口の男!」
「どこ!」
「南の小屋の外!」
「何を見た!」
「煙! 火はまだ見てない!」
広場が動きかける。
マルタが倉庫前から怒鳴った。
「倉庫は動かないよ!」
ハルトも井戸側で言う。
「井戸も動かない!」
ミナが続ける。
「南の組が見る! 広場は火、水、呼ぶ!」
相沢は北の方から、その声を聞いた。
南。
煙。
火かもしれない。
行きたくなる。
だが、南は南の組。
広場は広場。
相沢は線の内側に立ったまま、拳を握った。
◇
【土曜日 10:08/南の空き小屋】
南の小屋の外で、煙が上がっていた。
火ではない。
湿った草と古い布が、くすぶっているだけだった。
入口の若い男が水を取りに行こうとした。
村の男が止めた。
「待て」
「煙だぞ」
「火が見えてない」
「でも」
「水を呼ぶ前に見る」
若い男は歯を食いしばる。
小屋の中で子供が泣きかける。
避難民の女が抱き寄せる。
「外へ出ない」
声は震えていた。
だが、言葉は決まっている。
南の組の一人が棒でくすぶる布を広げる。
火は小さい。
草に移っていない。
「水、少し!」
入口の男が広場へ返す。
水の役が、決められた小桶だけを持ってくる。
大桶は動かさない。
井戸へ人を増やさない。
小桶の水で、布の煙を消す。
じゅ、と音がした。
煙が薄くなる。
その下に、小さな骨のようなものが見えた。
鳥の骨。
布に巻かれている。
若い男の顔が歪む。
「また、嫌なものを」
村の男が低く言う。
「触るな。広場へ言う」
◇
【土曜日 10:19/広場中央】
南から報告が戻った。
「火ではない! 布と鳥の骨! 煙は消した! 水は小桶だけ!」
広場がざわつく。
「骨?」
「鳥?」
「またか」
「赤いのか」
ミナが板を見る。
「火じゃない! 南が処理! 広場は戻す!」
戻す。
その言葉を、何度も使う。
火。
水。
呼ぶ。
人。
水。
食料。
仕事。
休む人。
食料の印を見た者が、すぐ顔を伏せる。
腹が減っている。
煙が出た。
骨が出た。
それでも動けない。
相沢は北から伝令の報告を聞いた。
赤は、南を使った。
火に見せた。
水を動かそうとした。
人を小屋から出そうとした。
だが、水は小桶だけ。
小屋は出なかった。
井戸は空かなかった。
「効いてる」
相沢は小さく言った。
ガンツが聞く。
「何が」
「村が、崩れてない」
「なら次が来る」
ガンツは森を睨んだ。
その通りだった。
◇
【土曜日 10:37/北柵】
森の奥で、声がした。
助けて、ではなかった。
今度は、笑い声だった。
小さな笑い。
子供にも聞こえる。
女にも聞こえる。
男にも聞こえる。
喉の奥で転がすような音。
見張りの一人が肩を震わせた。
ダリオが言う。
「声だけ」
ガンツが続ける。
「誰、どこ、何」
見張りが答える。
「誰、分からない。どこ、森の奥。何、笑い声。何も見えない」
「よし」
ガンツは短く言った。
笑い声が少し大きくなる。
腹の底を撫でるような、不快な声だった。
相沢の背中にも汗がにじむ。
笑われている。
村が。
薄い粥を。
動かない人間を。
餌にされても出てこない相沢を。
そう聞こえる。
だが、決めつけるな。
声は声。
見えていない。
ダリオが弓を上げた。
前回と同じ。
音の横。
だが、今度は放たない。
「撃たないのか」
ガンツが聞く。
「遠い」
「小さいのか」
「たぶん。でも、誘ってる」
相沢は言った。
「撃った後を見たいのかもしれない」
ダリオが少しだけ頷く。
「そう」
声はしばらく続いた。
誰も出ない。
誰も撃たない。
森の奥で、笑い声だけが浮く。
やがて、消えた。
ガンツが低く吐き捨てる。
「腹立つな」
「腹立てるためだ」
相沢が言う。
「分かってる」
「怒ると」
「見えるものが減る。昨日聞いた」
ガンツは不機嫌そうに言った。
ダリオが森を見たまま、短く言う。
「覚えた」
「うるせぇ」
そのやり取りで、北の空気が少しだけ戻った。
◇
【土曜日 11:02/井戸前】
井戸では、ハルトが座っていた。
座っている。
だが、目は動いている。
道。
桶。
縁。
縄。
水面。
いつも通り。
そこへ、小さな石が転がってきた。
井戸へ続く道の端。
昨日と同じ場所に近い。
若い男が息を呑む。
「石」
ハルトは立たない。
「見た者」
「俺です」
「どこ」
「井戸道の端」
「何」
「石。今、転がってきた」
「誰か見たか」
「見てない」
「井戸へ触るな」
ハルトは低く言った。
若い男が頷く。
ハルトは近くの棒を取った。
手では触らない。
石を少し動かす。
下に、何か塗られている。
泥。
それだけではない。
腐った匂い。
若い男が顔をしかめた。
「水、死ぬ?」
「まだ死んでない」
ハルトは即答した。
「石は井戸に入ってない。縁にも触ってない。水はまだ見る」
「広場へ?」
「言う。だが、井戸は空けない」
報告が広場へ行く。
ハルトは井戸から離れない。
石は外にある。
水は中にある。
混ぜない。
◇
【土曜日 11:15/広場中央】
南の煙。
北の笑い声。
井戸の石。
三つ目だった。
広場の疲れが、目に見えて濃くなる。
腹が減っている。
眠れていない。
怖い。
それでも、ミナは板の前にいる。
「井戸、石! 水はまだ死んでない! ハルトが見る!」
声が割れかける。
だが、割れない。
「井戸へ集まらない!」
何人かが立ち上がりかけて、座り直す。
水。
食料。
どちらも命に近い。
そこを触られると、人は動く。
赤は分かっている。
相沢は北でその報告を聞いた。
胃の奥が重くなる。
南。
北。
井戸。
同時ではない。
少しずつずらしている。
村の集中を削るためだ。
赤は、村を疲れさせている。
腹と不安で、判断を鈍らせている。
「まだ本体じゃない」
相沢が言う。
ガンツが頷く。
「ああ。嫌がらせだ」
ダリオが低く言う。
「違う」
「何が」
「測ってる」
「何を」
「どこで崩れるか」
相沢は森を見た。
見えない。
だが、赤はどこかで見ている。
南で水が動くか。
北で矢が出るか。
井戸で人が集まるか。
広場でミナが増やすか。
相沢が線を越えるか。
測っている。
なら、こちらも測らせる。
崩れていないと見せる。
ただし、余裕があるふりはしない。
腹は減っている。
食料はない。
時間もない。
だから、赤を動かさなければならない。
◇
【土曜日 11:42/北柵】
ダリオが、急に息を止めた。
ガンツがすぐ気づく。
「何だ」
「赤」
声は小さかった。
相沢の背筋が伸びる。
「見えたのか」
「見えた」
ダリオの目は森の奥、左寄りを見ている。
ガンツが槍を構える。
「距離は」
「遠い。でも、見える位置」
「わざとか」
「たぶん」
相沢は見ようとした。
何も分からない。
だが、木々の間に、一瞬だけ赤いものが揺れた気がした。
それが本体なのか。
布なのか。
目なのか。
分からない。
ダリオが言う。
「動いてない」
「見せてるだけか」
ガンツが低く言う。
相沢は線の内側に立っている。
足が前へ出そうになる。
線。
ミナが引かせた線。
ガンツが見る。
「越えるなよ」
「分かってる」
「顔が前に出てる」
「顔は線に入らない」
「屁理屈言うな」
相沢は一歩、後ろへ下がった。
自分で下がった。
それだけで、少し息が戻る。
ダリオが短く言う。
「赤も見た」
「何を」
「下がったのを」
相沢は森を見る。
赤が見ている。
自分が止まったことを。
それなら、次はもっと強く来る。
相沢を線の外へ出すために。
◇
【土曜日 12:03/広場中央】
昼の粥は、さらに薄かった。
ほとんど湯。
それでも、全員に渡す。
少しずつ。
子供。
老人。
見張り。
井戸。
治療所。
順番を決める。
揉めそうになる。
マルタが睨む。
村長が言う。
ミナが板を指す。
食料は、マルタ。
水は、ハルト。
治療所は、リリア。
広場は、呼ぶ。
椀を受け取った男が、不満そうに言った。
「これじゃ、動けない」
マルタが即答する。
「だから動くな」
男は黙った。
「動く者に回す。見張り、井戸、治療所。文句は後で聞く」
「後で飯はあるのか」
その言葉に、広場が凍る。
マルタの顔が険しくなる。
だが、村長が先に言った。
「後で飯を作るために、今、村を崩さないのです」
男は顔を伏せた。
納得はしていない。
腹は納得しない。
だが、言葉は止まった。
相沢は粥を飲む。
薄い。
大阪の味噌汁を思い出す。
白飯を思い出す。
七瀬の「ちゃんと食べてください」を思い出す。
今ここでは、ちゃんと食べるものがない。
だから、今日決めるしかない。
◇
【土曜日 12:37/広場中央】
赤は、昼に来た。
最初に鳴ったのは、北の笛だった。
一度。
二度。
短く、鋭い。
広場が反応する。
呼ぶ役が声を張る。
「北、何!」
伝令が来る前に、北からガンツの声が飛んだ。
「赤、見える!」
広場が止まりかける。
ミナが叫ぶ。
「広場そのまま!」
次の瞬間、南から声が上がった。
「煙!」
井戸側からも声。
「石!」
さらに森の奥から、名前を呼ぶ声がした。
ミナ。
アイザワ。
助けて。
全部が重なった。
広場の空気が割れた。
だが、ミナが板を叩いた。
「火、水、呼ぶ!」
木炭が折れる音がした。
「誰、どこ、何!」
呼ぶ役が叫ぶ。
「北、赤! 南、煙! 井戸、石! 声は森!」
ミナが続ける。
「南は南! 井戸はハルト! 北は北! 広場は動かない!」
村長がすぐ前に出る。
「役を離れるな!」
マルタが倉庫前で怒鳴る。
「倉庫は開けない!」
ハルトが井戸で声を返す。
「水はまだ死んでない!」
リリアが治療所前で言う。
「治療所は動かしません!」
相沢は北へ向かっていた。
決めた通り。
走らない。
だが、速い。
広場から北へ。
線の場所まで。
赤に見せるため。
餌に見せるため。
本当に餌にならないため。
森の奥で、赤いものが揺れた。
そして、声がした。
今度は、はっきりと。
「アイザワ」
相沢の足が止まりかけた。
自分の名ではない。
村の発音でもない。
だが、そう聞こえた。
アイザワ。
助けて。
こちらへ。
足が、線の前で止まる。
止まった。
だが、次の瞬間、森の端に人影が見えた。
小さい。
倒れかけている。
片手を伸ばしている。
ミナの声が、広場から飛んだ。
「火、水、呼ぶ!」
相沢は奥歯を噛んだ。
戻れ。
約束だ。
戻れ。
ガンツの声が北から響く。
「越えるな!」
ダリオの声が続く。
「本体、右!」
赤い影が、左ではなく右に動いた。
見せていた赤は囮。
本体は右。
ダリオが見つけた。
相沢は線の内側で止まったまま、叫んだ。
「右! ガンツ!」
「見えてる!」
ガンツが槍を構え、右へ踏み出す。
ダリオの矢が飛んだ。
森の右奥で、赤い影が初めて大きく動いた。
赤ゴブリンが、姿を現した。
人より少し低い。
だが、太い。
腕が長い。
顔の片側に、古い傷。
目が、こちらを見ていた。
相沢ではなく。
広場を。
そして、ミナを。
相沢の血が冷えた。
「ミナ!」
叫びかけた。
その前に、ミナの声が来た。
「広場、そのまま!」
ミナは動いていなかった。
板の前にいた。
泣いてもいない。
逃げてもいない。
広場を戻している。
赤ゴブリンが、初めて低く唸った。
誘導が、外れた。
◇
【土曜日 12:44/北柵】
ガンツが前に出た。
柵の外へは出ない。
柵の際。
決めた場所。
赤ゴブリンは森の端を走る。
真正面ではない。
斜め。
北柵と井戸の間を狙っている。
そこを抜ければ、広場の目が割れる。
ダリオが矢を放つ。
一射目。
赤ゴブリンの足元。
止める矢。
赤ゴブリンが跳ぶ。
速い。
ガンツが吠える。
「前!」
見張りが槍を構える。
だが、赤ゴブリンは当たらない距離で止まる。
また声がした。
南。
井戸。
助けて。
アイザワ。
ミナ。
混ざった声。
見張りの一人が一瞬だけ横を見る。
ガンツが怒鳴る。
「前を見ろ!」
見張りが戻る。
ダリオが二射目を放つ。
今度は赤ゴブリンの肩をかすめた。
赤い皮膚が裂ける。
赤ゴブリンが笑った。
笑ったように見えた。
相沢は線の内側にいる。
足が動きそうになる。
自分が行けば。
いや、行くな。
後ろを見ろ。
広場を見る。
ミナが板を叩いている。
ハルトが井戸を離れていない。
マルタが倉庫を閉めている。
リリアが治療所を開けすぎていない。
村長が立っている。
崩れていない。
まだ。
赤ゴブリンが右へ走る。
井戸側。
ハルトの方。
相沢の体が動きかけた。
その瞬間、ミナの声が飛んだ。
「火、水、呼ぶ!」
相沢は止まった。
ハルトが井戸側で棒を構える。
腕は負傷している。
だが、立っている。
いや、井戸の前に座るように腰を落としている。
動かないための構え。
「井戸は俺が見る!」
ハルトの声が響いた。
赤ゴブリンは、井戸へ来なかった。
途中で止まる。
見ている。
ハルトが動くかを。
相沢が動くかを。
誰も動かない。
赤ゴブリンの目が細くなった。
◇
【土曜日 12:51/広場中央】
広場は、揺れていた。
だが、割れていなかった。
南の煙は、また布だった。
小桶で消した。
井戸の石は、縁の外で止まっていた。
ハルトが棒で押しのけた。
声は、森から来ているだけ。
見えていない。
呼ぶ役が、何度も繰り返す。
「誰、分からない! どこ、森! 何、声だけ!」
ミナが叫ぶ。
「声だけなら走らない!」
子供が泣く。
母親が抱く。
避難民の若い男が立ち上がりかける。
村の男が肩を押さえる。
「座れ」
「でも」
「入口を空ける」
「分かってる!」
若い男は座り直した。
マルタが倉庫前で戸に手を置いている。
開けない。
倉庫の中に食料は少ない。
少ないからこそ、開けない。
リリアは治療所前で、布を少しだけ上げた。
中を見すぎない。
だが、受け入れる準備はある。
村長が広場中央で言う。
「役を離れるな!」
その声が、広場の杭になっていた。
◇
【土曜日 13:04/北柵】
赤ゴブリンは、初めて正面に来た。
森の端。
北柵の前。
距離はある。
だが、見える。
古い傷のある顔。
長い腕。
片手に、骨のようなものを持っている。
鳥の骨か。
人の骨か。
分からない。
赤ゴブリンは、それをゆっくり掲げた。
声が出た。
今度は、はっきりと人の声に近い。
「くれ」
誰かが息を呑んだ。
食料をくれ。
水をくれ。
命をくれ。
そう聞こえる。
相沢は、気づいた。
違う。
これは言葉ではない。
こちらが意味を乗せている。
腹が減っているから、くれに聞こえる。
怖いから、助けてに聞こえる。
名前を呼ばれたいから、名前に聞こえる。
赤は、声そのものではなく、こちらの中にあるものを揺らしている。
「聞くな!」
相沢は叫んだ。
ガンツが少しだけ振り返る。
「聞こえる!」
「決めるな!」
相沢は続けた。
「意味を決めるな! 声は声だ!」
ダリオが矢を構える。
「見えるものだけ」
「ああ!」
ガンツが槍を構え直す。
「見えるものだけだ!」
赤ゴブリンが動いた。
真正面。
速い。
ガンツが前へ出る。
槍が赤の腕を弾く。
重い音。
ガンツの足が土を削る。
ダリオの矢が飛ぶ。
赤ゴブリンの脇をかすめる。
赤は止まらない。
柵へ手をかける。
見張り二人が槍で押す。
ガンツが横から打つ。
赤ゴブリンが唸る。
その声に、広場がまた揺れる。
相沢は動きかけた。
線。
足元の線。
ここまで。
ここから先は、ガンツの場所。
相沢は線の内側で叫んだ。
「広場、戻せ!」
ミナの声がすぐ返る。
「戻してる!」
相沢は、少しだけ笑いそうになった。
怒られた。
それでいい。
◇
【土曜日 13:11/北柵】
赤ゴブリンは、一度退いた。
逃げたのではない。
距離を取っただけ。
ガンツの息が荒い。
腕が痺れているのが見える。
見張りも汗を流している。
ダリオは三本目の矢を番えている。
相沢は水を持ってこさせた。
自分では行かない。
伝令に渡す。
北の見張りへ。
ガンツへ。
ダリオへ。
少しずつ。
水は命だ。
だが、今ここで飲ませなければ、前が落ちる。
ハルトからの許可は出ている。
決めた水。
決めた量。
水の役が運ぶ。
ガンツが水を飲み、相沢を睨んだ。
「来るなよ」
「行ってない」
「顔が来てる」
「顔は線に入らない」
「また言ったな」
ダリオが短く言う。
「次、本命」
ガンツの顔が変わる。
「今のは本命じゃねぇのか」
「試した」
「何を」
「ガンツ。柵。広場。アイザワ」
ダリオは森の右奥を見る。
「次は、抜ける場所を変える」
相沢は地面の図を思い出す。
北。
井戸。
南。
倉庫。
治療所。
どこが一番弱い。
赤から見て。
人が動く場所。
食料。
食料だ。
「倉庫」
相沢が言う。
ガンツが振り向く。
「何」
「次、倉庫を狙うかもしれない」
ダリオが少しだけ目を動かす。
「森からは遠い」
「だから、小さいのを使う」
相沢は広場へ向かって叫んだ。
「倉庫、見るだけ! 開けるな!」
マルタの声がすぐ返った。
「言われなくても開けないよ!」
赤ゴブリンが、森の中で低く笑った。
今度は、相沢にも見えた。
赤の目が、倉庫ではなく、相沢を見ていた。
読まれた。
いや、読ませたのか。
相沢が倉庫と言ったことで、広場の目が倉庫へ向いた。
その一瞬。
南から悲鳴が上がった。
「子供が!」
相沢の心臓が跳ねた。
南。
子供。
赤の声。
今度は、本物か。
ミナの声が飛ぶ。
「誰!」
南から返る。
「子供!」
「どこ!」
「南の小屋の中!」
「何を見た!」
「倒れた! 火なし! 血なし!」
リリアが治療所前から叫ぶ。
「南の大人が見る! 動かせるなら治療所へ! 広場は動かない!」
相沢は動かなかった。
動けなかったのではない。
動かなかった。
南は南。
治療所はリリア。
広場は広場。
北は北。
赤ゴブリンは、森の端でじっと見ていた。
相沢が動かないことを。
村が、まだ割れないことを。
◇
【土曜日 13:24/広場中央】
南の子供は、空腹と疲労で倒れた。
怪我ではなかった。
火でもなかった。
リリアが治療所で受ける。
病人用の水。
塩飴の欠片。
ほんの少し。
マルタが管理する。
広場は動かない。
だが、空気は重くなった。
赤の攻撃ではない。
村の限界だった。
相沢はそれを聞き、拳を握った。
赤を倒すだけでは足りない。
その後、食料を取りに出なければならない。
森を通れるようにしなければならない。
だから、今日決める。
赤ゴブリンが、森の端で動いた。
今度は、逃げるように見えた。
ダリオが低く言う。
「誘ってる」
ガンツが唸る。
「追うなよ」
相沢は線を見る。
追わない。
追えば森だ。
森は赤の場所。
だが、追わなければ赤は戻る。
食料はない。
待てない。
相沢は息を吐いた。
「追わない」
ガンツが少しだけ安堵した顔をした。
だが、相沢は続けた。
「追わずに、出る場所を変える」
「何?」
「赤が誘ってる森には行かない。こっちが決めた場所に出る」
ダリオが森を見る。
「西の倒木」
相沢が見る。
「見えるのか」
「見える。赤が嫌がる場所」
ガンツが笑う。
「ようやく、こっちが嫌がらせする番か」
相沢は頷いた。
「全員で出ない。ガンツ、ダリオ、見張り二人。俺は線より前へ出ない」
「また餌か」
「餌じゃない。赤に、俺が出ると思わせる」
「同じだ」
「違う」
「後で殴る」
「今じゃないならいい」
ガンツは槍を持ち直した。
ダリオは森の西側を見ている。
赤ゴブリンは、まだ森の端でこちらを見ていた。
見ていろ。
相沢は思った。
今度は、こちらが動かす。




