ジャックの馬探し〜遊牧民の馬〜
連続投稿の2話目です!
新市街を南に進んだハルとジャックは、帝都の外壁がすぐ近くに聳える南端通りまで辿り着いた。1番大きな馬屋は新市街の東側にあるので、もう少し2人は東に進むことになる。
どこを見ても人、人、人がごった返す新市街で馬に乗って進むのは一苦労なので、2人はウンディーネから降りて進んでいる。ハルの姿を見て上流出身の見習い騎士と理解した通行人は、それとなく道を譲ってくれるのだが、それでも進みづらいことには変わらない。
右からは威勢の良い商人の呼び掛けが、左からは値引き交渉や地方特産物の競りなどの掛け合いが、絶え間なく続いて活気を帯びている。周りの建物はどれも商売をするための建物で、殆どはなんとしても他所よりも目立つようにと、煌びやかな垂れ幕や看板を掲げている。
「なあ、ハル……今日は何かの祭り事なのか?」
あまりの人の多さと溢れんばかりの熱気に、うんざり気味のジャックが馬の首越しからハルに訊く。
「いやいや、毎日こんなものだよ。お祝い事の行事がある日と比べれば、今日なんて全然静かな方さ」
「なんだと……」
ジャックはどっと疲れた顔をした。
先ほど女性たちに囲まれた通りも人は多かったが、ここに至っては目眩がするほど人がいる。
もちろん人といっても様々で、肌の色も恰好も多種多様だ。日傘を差している色白の貴婦人もいれば、動きやすい作業着を着て荷樽を運ぶ、屈強な有色人種の労働者もいる。中には狩人服や鎧を着込んだ冒険者と思われる者、こんな暖かい日でもローブを羽織っている魔術師もいる。
自然とジャックはそういった人間などを目で追っていた。
「冒険者だった頃が懐かしいかい?」
ジャックの様子を見たハルが問いかける。ジャックは首を横に振ろうとしたが、ふとマーシュとクレアや魔術師ダリアなどの顔を思い出して否定できなかった。
ジャックは冒険者という生き方に対して特に思い入れはないが、仲間だったマーシュとクレア、魔法という力を指し示してくれたグレンジャーとダリアなどは、出来れば別離せずに過ごしたかった人たちだ。
人狼エイドスを倒した後、あの面々が無事生き残ったのか分からない。
エイドスと戦ったあの時にクロスボウを撃ってくれたマーシュは、少なくともあの時点では生きていたが、それでも安否の確証はどこにもない。
言葉が詰まったジャックは、ひとまずそれなりの返事を返すことにした。
「まあ、その、懐かしいには懐かしいが、特別な思い入れはないからな。死ぬまで冒険者を続けるつもりでもなく、何となく続けていたことだ」
ジャックはそう言いながらハルから視線を外していた。
ハルは「ふぅん、なるほどね」と気の無い相槌をしたが、心の中でジャックは嘘が上手くないんだなと思っていた。
「ハル、そういえば馬屋まであとどのくらいだ?」
咳払いしてからジャックが訊き、ハルは前方の様子を見て答えた。
「このペースであと10分くらいかな。まだ朝だしのんびり行っても昼くらいには、君の愛馬が決まるだろうさ」
「そうか」
それからのジャックは、あまりハルに話しかけなかった。ハルもこれ以上、以前のジャックのことを訊き過ぎることはしなかった。
その後ジャックとハルが街路を東に進んでいくと、前方に大きなT字路が見えた。T字路の突き当たりは壁が立っているが、その壁は帝都を囲む外壁ではない。
ハルの説明によると、帝都の東側にある地方市場とは、広大な帝都の中でも壁によって仕切られている区域だという。
帝都の中心市街地まで入らず商売を済ませる者や、金銭的やコネなどの面で帝都の市街に入れなかった者は、こういった帝都の中でも限定された場所でしか商売できない。
なんとなくジャックは長崎の出島を思い出した。鎖国制度を敷いていた江戸時代に唯一の貿易港として開かれていた出島も、しっかり城下と隔離されていた。
ハルが門番に身分を明かし、つつがなく2人は壁内の地方市場へと入っていった。
「ここが地方市場か、広いな」
「そうだね、敷地面積だけなら貴族の邸館の20倍は軽く越えるよ」
ジャックとハルが門を越えると、そこは地方市場が見渡せる高台の上だった。
地方市場は小さな町といっても過言ではなかった。
中央に流れる川を中心に、丸太づくりの宿が3軒建って煙突から煙が吹いている。右手では青果などを扱うテントが立ち並ぶバザーが開かれ、先ほどの新市街にも負けないほど賑わっている。
そして左手には目的地の馬屋があった。建物以外の敷地は芝で敷き詰めて柵で囲い、今も10頭以上の馬が外に出て芝を食んだり、数頭で固まって一休みしたりしている。
「意外と規模が大きな馬屋だな」
「それだけ扱う馬も多いのさ。農耕馬や隊商用の馬、軍馬なども扱っていたはずだ」
「で、結局俺に合うという馬はどんな馬なんだ?」
「そんな急かさなくてもいいじゃないか。お楽しみお楽しみ」
「1番楽しんでいるのはハルだぞ……」
石段で高台から降りるジャックとハルが話していると、ジャックが急に後ろを振り向いた。自分たちが降りて来た石段と、ハルの愛馬ウンディーネを見比べてハルに問いかける。
「なあハル、ウンディーネはこんな険しい石段を降りて危険ではないのか?」
「ああ、ウンディーネなら大丈夫さ。ウンディーネも選考大会のために特殊な訓練を積んでいるからね。このくらいの段差なんて物ともしないよ」
「そうか、それなら良かった」
そうこうしているうちに2人は石段を降り切って地方市場を進んでいく。新市街よりも個性的な人間が多かったが、特に絡まれることなく馬屋に到着した。
ウンディーネは建物の側にある客用の馬小屋を借り、ジャックとハルは中に入った。
馬屋の建物は縦長に広いが、入り口側は正四方形のこぢんまりした部屋だった。右手に受付とカウンターがあり、左手にソファとテーブルがある。さらに正面奥に扉がある。建物の大部分を占める飼育スペースは扉を進んだ先にあるようだ。
受付で本を開いていたパーマの主人が、入ってきたハルを見て早速声をかけてきた。
主人は背丈が低いが体格はがっちりしていて、汚れても良い茶色の作業つなぎや着ている。袖をまくった腕と髭を蓄えた顔はこんがりと日焼けして、見るからに行動派の中年男性だ。
「おお、イブリッツ様ではないですか! こんな辺鄙なところまでお越しになるとは、どのような風の吹き回しでしょうか?」
言葉だけで言えば嫌味に聞こえなくもないが、髭の主人は純粋にハルの来訪に驚いて嬉しがり、不快に感じさせない口調をしている。
「こんにちは、バウチさん。今日は遊牧部族の馬を探しに来ました。ここでは何頭か扱っていましたよね」
「遊牧部族の馬、ですか? いるにはいますが、どういった経緯で部族の馬をお探しに?」
ハルが隣のジャックの背中を叩いた。
「こいつに合った馬を選びに来たんです。ジャックっていいます」
背中を叩かれたジャックは、遊牧部族の馬と聞いてハルに質問したかったが、先にこの馬屋の主人バウチに挨拶することにした。
「ジャックです。よろしくお頼み申す」
「これはこれはご丁寧に。バウチといいます。あなたもイブリッツ様と同じく見習い騎士なのですか?」
「ええ、そういう所です」
それからはハルが馬屋のバウチに、選考大会のことや軍馬がジャックに合わないことを説明した。
「………ふむふむ、なるほど! では早速見て回りましょう。遊牧部族の地方から買った馬は3頭いたので、そこまで悩まずにお決めになれるでしょう」
「分かりました」
バウチがカウンターの裏から鍵を取り出し、奥への扉を開いて2人を招き入れた。
奥の厩舎は200mほどで、屋根も柱も高くて立派な部類だった。ズラリと両脇に馬たちが並び、入ってきたジャックたち3人に反応する馬もいる。
「こちらが2つあるうちの大きな方の厩舎です。特別な調教が必要な軍馬は別の厩舎ですが、それ以外の馬はこっちに収容しています」
バウチが奥へ進みながらジャックに説明し、ジャックは相槌をうちながら周りの馬に興味を持って見ていた。
長い厩舎の中間辺りで、ある馬が近くを通ったジャックに顔を近づけてきた。体格も大きく気性も若干荒そうな馬だったので、咄嗟にジャックは殺気を放ってしまった。
「ブルッ、ヒヒィン?!」
まともにジャックの殺気にあてられ、その若いオス馬は驚きで首を逸らして後ずさった。
「どっ、どうしました?」
馬屋のバウチとハルが、ジャックの方に振り返った。特にバウチは首を痛めるのではないかと思うほど、素早く振り向いてきた。
「ああ、いえ、なんでもありませぬ」
ジャックは平然とした様子で取り繕った。だがハルはなんとなく察したようで、ふふっと笑って前を向いた。
「ちょっと馬が興奮しただけですよ、バウチさん。さあ、早く遊牧部族の馬を見せてください」
ため息をついたハルが、まだ驚いているバウチを促した。
「そ、そうですか……」
再びバウチが前に進み、ジャックはハルに唇で「すまん」と言ったが、ハルは首を振って気にしてないことを伝えた。
「ええと、こちらが2才まで遊牧部族に育てられた馬です。性格は大人し過ぎず荒過ぎず、健康面も良いのでオススメですよ」
厩舎の左奥でバウチが1頭の馬を指し示した。
その馬は明るい栗毛のオス馬で、特筆して悪い所のない成馬だった。ハルが見たところによると、体格はそれなりに大きいが軍馬よりも小さいといった感じだ。
ハルとジャックはこの馬のことを「悪くない」と言いかけたが、2人ともある点が気になった。
『殺気に取り乱したりしないかどうか』
そう、先ほど若いオス馬がジャックの殺気に取り乱したように、この馬の度胸がジャックに見合うとは限らないのだ。
先ほどは偶然のことだったが、ジャックの愛馬となるからには、ジャック自身の殺気や剣気に怯えるようでは話にならない。
「ねえ、ジャック。一度試してみるかい?」
ハルが横にいるジャックを見て訊いてみる。
ジャックは無闇に動物を脅かすことに気が進まなかったが、ハルの言う通り馬の度胸を試すことは不可欠だ。
「わかった。……そうら……!」
パンッと弾けるような鋭い殺気が放たれる。目の前の馬のみならず、辺りにいた馬も飛び上がって驚いてしまい、近くにいたバウチも冷や汗をかきながら2、3歩後退した。
「な、な、いきなり何を……?!」
バウチは上ずった苦情の言葉しか言えなかったが、ハルがすかさず理由を説明した。
「すみません、バウチさん。これはただの度胸試しなので、大目に見てくれませんか?」
「度胸試し、ですか……」
「ええ。ジャックはまだまだ騎士としては修行中の身ですが、刀剣を用いた戦闘能力だけならば折り紙つきです。僕が彼と正面から戦っても、正直勝てる自信がありません」
ハルの口調は淡々としていたが、それがかえって真実味を帯びていた。イブリッツ家の長男ハルは容姿や礼節もさることながら、騎士としての武術も俊才として名高い。
そのハル・イブリッツが、ここまでジャックのことを評価している。バウチはジャックの方を見ながら、ごくりと唾を飲んだ。
「それゆえ、ジャックの殺気や気迫は凄まじい。本当は軍馬に乗せたいのですが、地上での剣術がウリのジャックの場合は、自由で型にはまらない性格の遊牧馬の方が良い。難点としては……今のように並の馬では肝を冷やして使い物にならない、というところだけですね」
「そういうことでしたか。ならばやっぱり勇猛果敢で厳しい調教を受けた軍馬くらいしか……」
そう言ってバウチが周囲の馬たちを見渡していたが、さっき紹介した遊牧部族の馬の向かい側の部屋を見て、あっと驚いた顔をした。
「どうしました?」
ハルとジャックが後ろを振り向く。
向かい側の仕切り部屋にいたのは黒鹿毛の馬だった。その馬は体格こそバウチが紹介した遊牧部族の馬より小さいが、部屋の奥で平然と脚をたたんで座っていた。
「ジャック、あれ……」
「ああ、この馬だけは俺の殺気に臆さなかったようだな」
そう話しながらジャックとハルは黒鹿毛の馬に近づく。
黒鹿毛は2人が仕切りに近づいても、無頓着な態度のままでくつろいでいた。図太そうに干し草の寝床にうずくまるその姿は、他の馬とは一味違う達観した何かを感じさせる。
「余程の間抜けか、大物か……だな」
「そうだね。あれだけの殺気に反応しないワケがないし、もしジャックの殺気に微塵も怯えてないのだとしたら……体力などはともかく、精神力は満点合格だほう」
2人が目の前の黒鹿毛を品定めしているところで、バウチが割って入ってきた。
「あの、お2人とも盛り上がってるところ言うのもなんですが……この馬は選ばない方が良いと思います」
「どうしてですか?」
ハルが理由を問うと、バウチは渋い顔で黒鹿毛を見ながら話し出した。
「実はこのオスの黒鹿毛も遊牧部族の馬ですが、健康面に難がある馬なのです。あまり餌も食べず、水も積極的に飲まず、運動させようと外に出しても、積極的に走り回ったりしません」
「ふぅん、ずいぶん大人しいんですね」
「はい。先ほどのジャックさんにも驚かなかったのも、私からすれば、怯えて暴れるような元気が無かっただけに思えます。満足に水も飲まないでいるのですから、他の馬より衰弱しているからなのでは」
バウチが黒鹿毛について話し終え、それから10秒ほど沈黙が続いた。馬たちの呼吸や体動の音だけが聞こえているだけで、3人はうまく結論を出せずにいた。
ジャックが何気なく黒鹿毛が収容されている部屋を見た。仕切られたスペースの中は小綺麗にされており、ちゃんと清掃が行き届いているようだ。黒鹿毛の周りの干し草もどれも汚れておらず、黒鹿毛の身なりも清潔だ。
次にジャックが隣の部屋を見る。隣の仕切り部屋も汚くはなかったが、黒鹿毛の馬と比べてみれば清潔感に欠けていた。
この黒鹿毛の馬は何かが違う。
他の馬は平気なのに餌と水を進んで摂らない。
他の馬は少々の汚れがあるのに、異常なほど綺麗な環境で過ごしている。
「……もしや」
ある仮説をジャックは立てた。
この黒鹿毛はもしかしたら、自身の体質や体調を鑑みて意図的に不潔なものを避けているのでは、と。他の馬よりもデリケートで知恵があるゆえに、ここの馬屋の環境を嫌っているのかもしれないと考えた。
「試してみるか」
そしてジャックは左手から『水球』を生み出した。
突然、ジャックが魔法を使ったことにバウチは目を剥いたが、ハルはじっと観察していた。
ジャックの水球は金属のごとく艶やかな光沢を帯び、その濃密で凝縮された力は一目で分かる。
たまらずバウチが止めようとしたが、ハルが肩に手をかけて落ち着かせた。
「むん……!」
狙いを定め、ジャックは水球をゆっくりと発射した。なるべく黒鹿毛に警戒心を与えぬよう、ハエも止まりそうなスピードで水球を黒鹿毛へ進ませる。
黒鹿毛は静かに立ち上がり、だんだんと近づいてくる魔力の水を間近で眺める。その目は冷静で動じず、どこまでも客観的に見定めるような目だった。
「お気に召さないか? お前の生きる糧になるには不充分か? ……そうして飢えるくらいなら、試しに飲んでみたらどうなのだ?」
人の言葉が通じるわけではない。しかしジャックの問いかけに黒鹿毛は反応し、覚悟を決めて宙を漂う水球を飲み込んだ。
黒鹿毛は粛々とジャックの水球を味わい、飲み干し、臓腑へと落とす。
3人は黙ってそれを見守る。ジャック自身も確証は無い行為だったが、この黒鹿毛の求めていることが今はなんとなく理解出来ていた。
水球を飲み終わった黒鹿毛が、柵の向こうに立つジャックに近づいてきた。その足取りはゆったりとしていたが、いざジャックのもとに辿り着くと、顔と鼻を擦り寄せてきた。
「ぅ、おあ、なんだこいつ」
ジャックは黒鹿毛の行動に戸惑いつつも、表情はそれなりに嬉しそうだった。ぎこちない手つきでジャックも黒鹿毛の頰を撫でる。
「ハル! これはどうなのだ? この黒鹿毛は喜んでいるのか? うわっ、鼻息がかかったっ!」
「ああ、うん、そうだね……というか、君って案外動物好きなんだね。てっきり慣れるまで、こういうスキンシップを毛嫌いすると思っていたけど」
「そんなことはいい! どうしたらこいつは落ち着く?」
見るからに戸惑っているジャックに、ハルとバウチがくすくすと面白そうに笑った。
それからバウチが急いで馬具を取ってきて、ジャックに渡してあげた。
さっきまでバウチは黒鹿毛の健康状態を悪いと判断していたが、ジャックに甘え始めている黒鹿毛を見て、この遊牧民育ちの黒鹿毛の走りを見てみたくなったのだ。
バウチから馬具を渡されたジャックが、黒鹿毛に馬具をつけて厩舎の外に出た。黒鹿毛の体格や皮膚の具合はまずまずといったところだが、それでも弱った素振りを見せずジャックに従っている。
ハルとバウチも外に出て、ジャックのことを見守っている。ハルはジャックが馬に乗ったところを見たことはないが、ジャックの轡や鞍、鐙をつける所作は手慣れていることに気づいた。
『ふむ、この世界の馬具のつくりは難しくないな。これくらいなら慣れれば俺でも整備できる』
ジャックは馬具をつけ終わり、黒鹿毛の背に乗った。
「こうしてみると意外と高いな」
馬の背に乗ればグンと目線が高くなり、自然と人は気持ちが昂ぶる。ジャックもそれは例外ではなく、人間には無い馬の力強さは男児にとって憧れを抱くものだ。
「ジャックさん! 早速歩き回ってみたらどうですか?」
バウチが手を筒状にして口に当て、ジャックに言ってきた。
本来なら素人を馬に乗せるはずないのだが、バウチもハルと同じく、ジャックが馬に関して素人でないことを察していた。
ジャックはバウチに頷いてから周りを見る。敷地内にちらほらいる馬は遠くにいるので、ある程度勝手に動いても大丈夫だろう。
気を落ち着けてから、バウチから貸してもらった手綱と鞭を握り直す。
「よし」
ジャックは重心を整え、ふくらはぎの横で黒鹿毛の腹を軽く締めた。
黒鹿毛が歩き出すとジャックの体も上下に揺れた。そんな久しぶりの感覚に少し慣れなかったが、すぐにジャックは馬の動きに合わせることができた。
「うむ、問題ない。足取りもしっかりしている」
次は右へ体重を移動させて適度に手綱も右へ引く。黒鹿毛はその指示に逆らわず右へ曲がった。
この黒鹿毛は予想以上に賢かった。足や体重移動、それにジャックの声にもちゃんと反応していて、少しばかり高度なことをしても問題ないはずだ。
「少しばかり早い気もするが……速歩でいってみるか」
すぐさま黒鹿毛が乗り手のジャックに合わせて速度を上げた。ジャックも激しくなった上下運動に慌てず、体幹に力を込めて姿勢を維持した。
『む、中々揺れるな。これは体で覚えるまで気が抜けないぞ』
乗馬に関してズブの素人ではないが、それでもジャックの経験はまだ浅い。速歩になれば馬に慣れる難しさが改めて分かってきた。
馬上のジャックは一旦速度を落として馬首を返し、バウチとハルのもとへ戻ろうとした。
「……ハルがいない?」
だが、厩舎の近くでこちらを見ているのはバウチだけだった。いつの間にかバウチの隣にいたハルの姿が見えなくなっている。
その直後、背後から大きな足音が軽快なリズムで迫ってきた。
「後ろかっ! ハル!」
ジャックが振り返ると、愛馬ウンディーネに乗ったハルがジャックを追い越した。ハルの背には矢筒が、右肩には弓が掛けてあった。
手綱を握る手が無意識に汗ばんだジャックは、そこで初めて、自分がハルの殺気を肌で感じていることを理解した。
まるで絹のナプキンで覆われた銀ナイフの如く、淀みなく鋭利な殺気をそっと纏い、なんとハルは弓と矢を手に持ったのだ。
「おいおい……!」
走る馬の上でハルは手綱も持たず振り向き、ジャックに対して矢を引き絞る。
ジャックも直ちに黒鹿毛へ向けて呼び掛ける。言葉は通じなくとも、何も言わずにいるよりはマシだろう。
「臆するなよ、怖気づいてしまえばお前も死ぬぞ。俺にも矢にも毅然としていろ!」
そのジャックの叫びと同時に、ハルは本物の矢を射ち放った。
ジャックも愛刀『兎月』の柄に右手を掛け、風の魔力を込めて抜き払う。
「空刃ッ!!」
飛来する一条の矢はジャックへ襲いかかるが、その前に風の刃が矢を切り割った。鏃から割られた矢は失速して地面に転がる。そのまま迫ってくる風の刃をハルは難なく躱した。
ジャックは刀を納めて黒鹿毛の首を撫でる。
黒鹿毛は耳をピクピクと動かして警戒しているが、刀を抜いたジャックの殺気や飛んでくる矢に恐慌していなかった。
「よしよし、よく耐えたな」
馬に労いの言葉をかけるジャックへ、ウンディーネに乗ったハルが駆け寄ってきた。
ジャックはハルを咎めるように睨みつけたが、ハルは悪びれもせず拍手した。
「凄いものを見させてもらったよ。まさか正面から矢を切断するなんて!」
「……おいハル、その前に何か言うことがあるじゃないか? いきなり俺を射るとはどういう了見だ」
「ごめんごめん、君とこの黒鹿毛を試してみたくなったんだ。君の本気の技も見ることができたし、僕としては嬉しい事づくしだ」
ため息をついたジャックはもう何も言い返さなかった。ハルのジャックに対する好奇心は、今に始まったことではないし、ジャックもジャックでこの調子に随分と慣れてきた。
ジャックはバウチの方へ黒鹿毛を歩ませ、ハルもジャックに並んできた。
「そういえば、この黒鹿毛の名前はどうするんだい?」
「名前か、考えてなかったな」
天を仰いでジャックは考えるが、そう簡単に思いつくものでもない。
手綱を握ったままう〜んと考え込むジャックを見て、ハルが黒鹿毛の名を提案してきた。
「『ソルダート』って名前はどうだい? 君に忠実に従う勇猛な兵士、という意味を込めて」
「兵士……俺が偉そうなヤツに思えるな」
「そうでもないさ。少なくともこの黒鹿毛は、君に対して信頼と忠誠を抱いているのだから。君の魔力を込めた水球の恩を忘れないだろうよ」
ジャックは視線を下の黒鹿毛に向けた。
この黒鹿毛のことは、まだまだ分からないことが多い。遊牧部族にどう育てられたのか、どういった経緯でこの国に来たのか不明だ。
だが、これだけは分かる。
ジャックが放った水球を飲んだ黒鹿毛は、本当に満足したのだ。ここの厩舎の水や飼料を嫌っていた黒鹿毛にとって、ジャックが魔法で生み出した水は極上の味に感じられたのだろう。
お互いが故郷や馴染み深い土地から離れたこの国で出会い、こうして巡り会ったということは、これも何かの縁だとジャックは思った。
「ひとまず、よろしくな。ソルダート」
下馬したジャックがソルダートの首を撫で、ソルダートはその手を静かに受け入れていた。




