ハンデン邸にて その3
ワイン室から外に飛び出したクレアとマーシュのうち、クレアは飛ぶ蜂の姿が無いと確認して駆け出した。何かが意図的に作り出した密林は、白ブドウの木があった庭の方であってクレアが出てきたのは反対側、いわゆる『安全地帯』となっている。蜂による攻撃も少ないと考えたマーシュが、怪我しているクレアにこちら側を任せ、自身は密林のある庭側へ向かった。
『いくら山の中で狩りをしていたマーシュでも危険なはず。なら私はこっちから印をできるだけ付ける!』
廊下で襲ってきた蜂のせいでクレアの体はあちこちから血がにじむ。だが、ものともせずいつもと変わらない速さで塀の角まで走る。ハンデンからチョークで印す形は『何でも良い』と教えられているので、無造作にチョークを横一線に殴り書いた。
『あと2つ』
体を切り返して塀と平行に走り全速力でクレアは次の場所へ向かったその時、視界の右から小さな何かが飛んできて塀に突き刺さった。驚いたクレアだが走る速度は緩めず、できるだけ体勢を低くする。
ビスゥッガスゥンッバスゥンッビシィッ
走るクレアに気づいた蜂たちが続々とクレアを仕留めようと突撃を敢行し、それに捕まらないようにクレアは走る。右から飛んでくる蜂はクレアを捉えきれずハンデン邸の敷地を囲む石塀に突き刺さってもがく。
塀の角から角まで30メートルほどでしかないはずだったが、身の危険を感じて前方にある角がいやに遠く感じる。
何とか辿り着いたクレアは塀の角にチョークの線を付けた。
あと一つ残っている。だがクレアが振り返ると、すでに大量の蜂たちに囲まれ身動きは取れなくなっていた。
この時点で蜂たちはすぐ襲って来るわけではなく、どこからともなく現れてクレアを取り囲んでいった。徐々に数は増えていき、何十というジェット・ビーがクレアの喉元や腹に針を突き立てんと狙いを定めた。
思わず鳥肌が立つキュルキュルという空気吸入音を、揃って鳴らして一瞬、蜂たちの動きが止まる。
この瞬間クレアは恐怖でカチカチと鳴る自分の歯を必死に噛みしめ、逆に蜂たちへ突っ込んだ。
避けることも逃げることも度外視して、蜂の弾幕に対し火の輪くぐりのごとく飛び込んだのだ。
「ぐぁうううッ!」
数匹の蜂がクレアに被弾した。しかし、おかげでクレアは最小限の傷で済み、ほとんどの蜂たちは揃いも揃って壁に突き刺さってもたついた。
致命傷には至らなかったため、クレアはそのまま逃げ出してワイン室へ避難したが、扉を閉めると同時にへたり込んでしまった。
死ぬような傷ではないが、肩と脇腹を貫かれ、かすり傷は全身にある。大事な腱や筋こそ傷ついてはいないが、それでもズキズキとした痛みと生暖かい自分の血の感触で意識を手放しそうになる。ワインの匂いと自分の血の臭いで意識は混濁してしまい、昼に食べた物を吐き戻しそうにもなる。
しかしクレアは壁に手をついて立ち上がろうとした。震える足を踏ん張らせ、腹の傷口を乱暴に握って血を止める。
いずれ蜂たちはこの家の扉という扉を破壊し尽くす。そうなれば全身を穴ぼこだらけにされて死ぬのは明らかで、マーシュもホンバットもハンデン氏も危機に陥る。それ以前にクレアは、意識がないまま死ぬことの恐ろしさを身に染みて知っているのだ。
ようやく立ったクレアの後ろ、扉からあの蜂たちの音が聞こえる。逃げた場所がワイン室だとわかった蜂たちが扉を破ろうとして、顎で木を噛み砕き針を突き刺して穴を開けているのだ。
「く・・・扉が・・・」
酩酊する意識の中、床が濡れているような気がしたがクレアは構わずワイン室の物を漁り始めた。急いで扉を塞がなければならないと考え、無我夢中でガラクタを物色しているのだ。
扉の向こうから響く羽音がはっきりしてきた。
間も無く扉が破られてしまう。そう思ったクレアの足首を突然誰かが掴んで彼女を引き倒した。何者かの手は、クレアの体を一番低い位置の空き樽の中に引き込もうとする。
「なッ?!このッ・・・!」
反射的に短剣を抜いて抵抗しようとしたクレアだったが、すぐに口を塞がれて短剣もねじり取られた。真っ暗な酒樽の中、何者かに捕まったクレアは眼を凝らすがそいつの顔は見えない。
しかし、すぐに落ち着いた。口を塞ぐその手の平の『マメ』でマーシュだと気づいたのだ。
「・・・蜂に気づかれる・・・・・・・静かに、な」
耳元でマーシュが囁いた。マーシュがここにクレアを引き込んだのは、蜂たちをやり過ごせるまでじっと待つことしかできないと踏んだからだ。理解したクレアは口を塞がれたまま小さく頷いた。
そこら中から無数の羽音が聞こえてくる。ワイン室にまで入ってきた蜂たちが飛び回っているのだろう。
樽の中は暗くてなにも見えないが、数センチ先にお互いの顔があるのはわかっている。クレアは疲労で速くなっている自分の鼓動や息使いが、マーシュに伝わるのではと考えると急に気恥ずかしさを覚え、目をつぶって顔だけでも逸そうとした。だが肩の傷が響いて動かせず、マーシュがその反応で気づいた。耳元でもう一度マーシュが囁いた。
「肩をやられたのか」
耳にかかる吐息にぞくりとしたが、クレアは小さく頷いた。
「・・・印は、何個つけた?」
マーシュのその問いにクレアは自分のノルマをこなせなかった悔しさを抱いたが、黙っているわけにもいかず、空いている指で2回マーシュの腰辺りを小突いた。
「そうかい・・・・・・・・じゅうぶんだぜ」
マーシュとクレアがワイン樽の中に身を隠していた頃、応接室にいたハンデン氏は魔力探知の文言を読み始めていた。
ホンバットが窓から注意深く確認すると、2つの角近くの地面に矢が突き刺さっていた。視力に自信のあるホンバットは鏃にチョークが塗りつけてあるのを確認できた。
「素晴らしい対応だ、マーシュ君」
ふっと笑ってホンバットは人知れず感嘆を漏らした。
床に座るハンデン氏は目を閉じて一心不乱に術を詠唱している。
長年戦いに身を置いているホンバットすら初めて聴く文言で、ハンデン氏の周囲には光の柱がうっすらと立ち、一つまた一つとその柱は増えていく。やがてすべての柱は真上から圧し潰されたように縮んで、極めて薄い膜になり、その膜は宙を泳いでからハンデン氏をドーム状に包んだ。
「あの2人は成功したようだ。よくやった・・・・・魔力探知を開始する」
ハンデンがそう告げると、ドームが急速に膨張して側にいたホンバットも応接室そのものも取り込んでいった。光のドームはさらに膨らんでいき、マーシュとクレアが付けた印の場所を角にして、ハンデン邸敷地内を完全に覆った。
ハンデンはうっすらと目を開け、探知したありのままの情報をホンバットに告げていく。
「34匹は地下まで侵入しているな・・・・あの2人は地下にいるがまだ生きている。む、クレア君の魔力が弱まっている・・・!外に48匹、そして巣の位置は・・・・・・・・・・・庭の密林じゃない!?」
「あの密林の中に巣が無い?ならば、どこに?」
「・・・上だ。この部屋の真上の部屋、だったのか。くそ、こんな近くに敵の中枢があったとは盲点だった・・・・・!」
悔しそうに舌打ちしてハンデンが立ち上がる。ハンデンがその場から動くと光のドームがゆっくりと縮んでいった。
はるか遠方もしくは巧妙に潜む敵を察知するための技術が、ハンデンの魔力探知であり、よもや自分の灯台下暗しな面を曝け出されるとは思わなかったのだ。さらにはその自分の技術を信頼した、2人の若い冒険者が危険にさらされている。
「ムウウ・・・急いで2階に行こうホンバット君、早急に巣を叩かなければあの2人が危うい!」
甲冑の盾を荒々しくもぎ取りながらハンデンは扉に向かおうとしたが、その肩をホンバットは掴んで引き留めた。
何をする、と声を荒げたハンデンをホンバットが即座に引っ張った。
「廊下にもジェット・ビーが待ち構えています。今、扉から出ていっては危険です」
「どこも危険だ!だからさっさと・・・」
「別に扉からいかなくても良いじゃないですか。・・・修理代は後で必ず払います!」
言うやいなやホンバットは、ハンデンを自分の左脇に抱えた。グググッと深く深くしゃがみ込み、ホンバットは己の『魔力』を両足で爆発させて真上に跳躍した。
メキャバシャアアァッッ
ホンバットの頭突きが天井の木材も板もいとも容易く突き破り、そのままホンバットの足は2階の床に重々しく着地した。
頭をさするホンバットは脇に抱えたハンデンを床に下ろし、ふうと一息ついた。
「・・・相当無茶な性格だったらしいな。君は」
「多分ウチのギルド長の方が無茶苦茶な性格ですよ。少なくとも私は安全と効率を考えてます。・・・・・さて、あそこが『巣』で、あいつが『主』でしょうね」
ホンバットとハンデンが飛び出たのは客間の1つで、ベッドや読書机が備え付けられていた。
だが2人が目撃したのは、天井にぶらさがっている燭灯を骨組み代わりにして肥大形成したジェット・ビーの巣だった。巣と窓からは、ジェット・ビーたちがせわしなく入れ替わっている。巣から出た個体は外へ、窓から帰ってきた個体は巣の中に戻っていき、それを繰り返している。
そして、穴だらけの巣の周りを飛び回っているジェット・ビーたちの中心に、人の頭ほどの大きさをした虫型モンスターが滞空している。全体的にクワガタムシの特徴があり、赤黒い甲殻を持ち、クレアの短剣ほどはある『はさみ』の奥には類人猿系の口がちらりと見える。
巣を守るこの主はジェット・ビーより大きな体躯と頑丈な甲殻を持つCランクモンスター『マッドネス』だった。
「ハンデン氏、こいつには知性がありますよ。ジェット・ビーよりもしぶとく、不器用ながらも人の言葉を喋ります」
「ふん、もはや言葉は不要だろう。この事態の張本人がいないならば、せめてこの主を始末するぞ」
『グッゲゲゲッ!ずいぶん言ってくれるナぁ!オイボレと鼻欠け男の2人で何ができル?!』
マッドネスの猿の口からはいやなザラつきのある声が発せられた。巣の守護についていたマッドネスは2人を煽りながら部屋中を飛び回る。よほどなめきっているのか、この邸の主であるハンデンの目の前でわざとタンスを叩き壊したりベッドのシーツや綿を引きちぎって好き勝手に遊びだした。
知性のあるモンスターの舐めきった態度にハンデンはいらだちを隠せないようで、握り拳をぶるぶると震わせて今にも飛びかからんとした。その様子を見てホンバットは小声で「隙ができるまで待ちましょう」とハンデンをたしなめる。
それから一歩前に出たホンバットが、マッドネスとジェット・ビーたちに相対する。何かがあってもハンデンを守ることができる立ち位置だ。じっと構えて動かないホンバットに、マッドネスはケタケタと笑いながらさらに煽ってきた。足を振って小馬鹿にしたような踊りを見せながらマッドネスは飛び回る。
『どうした?!始末するんじゃあないのカ?』
「その前に聞きたいことがある。何が目的でこの邸を襲撃した?わざわざ庭に密林を作ってカモフラージュを施したり用意周到だったが・・・・・目的は何だ?」
『答えてやるギリはねぇなア!!』
「そうか。なら勝手にさせてもらうよ。―――――――こちとら、お前みたいな『使い魔』にかまってられないんだ」
ホンバットは言い終わると同時に、ハンデンに手渡してもらった盾を振りかぶってマッドネスに投げつけた。円盤のように投げた盾は油断していたマッドネスを取り巻くジェット・ビーたちを巻き込んで、マッドネスの甲殻が薄い腹の部分に回転して突き刺さった。
盾を投擲した後、間髪入れずホンバットは真上に跳躍する。今度は天井に頭突くことはせず、つり下がっている巣の管部分を手刀でへし折った。つり下がる部分が破壊された巨大な巣はそのまま穴に落下、一階のテーブルに衝突した。
「これで決まりだ・・・ジェット・ビーは高温多湿のピルカ出身ッ!つまりはその巣で一休みしなければすぐさま弱って死んでしまう、そうだろう?」
床に着地してそう述べたホンバットに、巣をやられて怒った6匹のジェット・ビーが突撃してきた。だがホンバットはその6匹をすべて指でつまんで即座に潰した。ホンバットは指にからみつく足や粘液を床に払うと、盾が刺さって空中でもがいているマッドネスに指を向けて淡々と言い放った。
「完全に不意をつけたり、背後から襲いかかったならばまだ別だがな、真っ正面からいくらかかってきても無意味だ。もう一度聞くぞ、チャンスをやる。おとなしくお前たちを使役していたやつがどこに逃げたのか・・・それだけ教えろ」
ジェット・ビーをあしらいながら悠然と歩み寄るホンバットは、現在武器らしいものは持っていない。それでも恐怖もなにも抱いておらず、そんなホンバットの態度が気に入らないマッドネスは顎の筋肉をヒクつかせながら罵声を浴びせる。
『ケェエエッ!!何がチャンスだ?オマエ、自分の立場がわかっていネェーーようだナ!素手でオレを殺せると思うナァーーーッ!』
体をバタつかせてマッドネスは腹に刺さっている盾を振り飛ばした。流れる自分の体液を見て叫びをあげながら怒りと本能のままマッドネスが飛び掛かってくる。
先ほどから飛んでいた羽を引っ込め、隠していた『戦闘用の』巨大な羽を出して、ホンバットの喉元目掛けて突っ込んできた。
「・・・せいッ!!」
マッドネスの顎がホンバットの首を挟み切ろうのした寸前、予備動作無しのホンバットの拳がマッドネスの体をかち上げた。
決して侮れない速度で向かってきたマッドネスの体が、紙くずのように真上に殴り飛ばされ、したたかに天井に衝突する。赤黒い体が一瞬停滞した後、崩れ落ちるように落下していく。
『グッ・・・ゲェッ?!』
この瞬間のマッドネス自身、何が起こったのかあまり理解はできておらず、確かなのは、岩で殴られたような衝撃を受けたことと自らの体が全く動かないことだった。
言うまでもなく、その瞬間を見逃すホンバットではない。
マッドネスが自分の胸あたりの高さまで落ちてきたところを見計らって中段蹴りを浴びせた。最初の拳の一撃ですでに甲殻はヒビだらけになっていたが、とどめの蹴撃はそんな甲殻を粉々に砕いて吹き飛ばし、マッドネスは砲弾のような勢いで窓の外へ飛んでいった。
足をおろしたホンバットは、落下した巣や残ったジェット・ビーを確認してから一息ついた。あたりに飛んでいったジェット・ビーは何匹かホンバットやハンデンに群がって攻撃してきたが、巣が無くなったことで動きが鈍っていき、やがて一匹また一匹と力尽きていった。
Cランクモンスターのジェット・ビーとマッドネスをまるで寄せ付けないホンバットの戦いぶりに、ハンデン氏は思わず快哉を上げ、穴をよけて歩み寄りホンバットの背中を叩いて賞賛する。
「おおっ、これほどまでとは!・・・盾をよこせと言ったときはどうなるかと思ったが、予想以上だったぞ」
「それほどでもありませんよ。こればっかりは『慣れ』です」
「謙遜はよせ。見ろ、庭の密林がみるみるうちに萎れていく・・・やはりあのモンスターが元凶だったらしいな」
「いや、それは少し違います」
「というと?」
「確かにジェット・ビーを管理していたのはあのマッドネスのやつでしょう。ですが、そもそも庭に密林を作り出したり巣を一から作り出したりする能力はマッドネスにはありません」
「この可能性はないか?・・・君たちが言っていた『掛け合わせた』モンスターだったというのは」
「その可能性も無くはありません。しかしそれならもっと手強くても良かった・・・・・やはり、この事態を作り出したのは紛れもなく、特殊な能力を持っている人間です」
この後、ホンバットとハンデンは階段で1階に下りて巣の処理をしてから地下に降りた。地下室に2人が降りると、惨惨たる光景が広がっていた。酒樽は無造作に破壊し尽くされ、石床は足首の深さまでワインが浸されていた。窓の破片とドアの木片がジェット・ビーの死骸とともに酒の海にぷかぷかと漂っている。
強烈なワインの香りと血のにおいが混じっていてホンバットは少しばかり顔をしかめた。一方のハンデンはこのワイン室の有様を見て完全に絶句したが、何とか落ち着いてマーシュとクレアの名を呼んだ。返事はなく、最悪の事態をハンデンは想像し、いてもたってもいられずワインの中をバシャバシャと進んでいった。ホンバットもワイン室から出て庭を探したが、マーシュとクレアの姿はどこにもなかった。
「いたか?」
「いえ、外にはいませんでした」
「そうか、こっちもだ。あれだけ地下室が手ひどく破壊されていたのに、なぜあの2人はいないんだ?」
「もしや」
「何だ?」
「ハンデン氏、もしかしたらあの2人・・・マッドネスやジェット・ビーを襲撃させた張本人を追ったのかもしれません。もしくはその張本人に連れ去られた可能性もあります。・・・ハンデン氏はここに残って警備隊に知らせてください」
そのホンバットは言い残し、ハンデン邸の門を開けて外へ向かった。
ーーーー時は少し遡る。
ハンデンが魔力探知を開始した時、ワイン樽に隠れていたマーシュとクレアだったが、その時マーシュはクレアの肩に顔をうずめていた。クレアが肩に傷を受けていると気づくと、迷うことなくマーシュは傷口に顔を近づけて鼻を押し当てたのだ。
「な、何なのよ?・・・こんな時に・・・・・・・いったいどうしたの?」
マーシュの不可解な行動に困惑するクレアは、周りにジェット・ビーが飛び回っているこの状況のため、大きな声を出したり体を動かして振り払うことはできない。不用意に音をたててしまえば瞬く間に、それこそ2人もろとも『蜂の巣』にされてしまうからだ。
「あの、さ・・・いい加減にしないと・・・・」
首を逸らしながらクレアは小声でマーシュに訴える。だがマーシュは逃さないとばかりに両手でクレアの体を押さえつけ、さらに深く鼻を沈み込ませた。
いくら慣れ親しんだ相棒とはいえ、さすがにぞくりとした何かがクレアの背筋に走り、早く終わって欲しいと願った直後マーシュが顔を上げて耳元に囁いてきた。
「別にやましいことは考えてねえ・・・落ち着けよ。もうちょっとでわかりそうなんだ」
そしてマーシュはもう一度、クレアの肩の傷に鼻を押し当てた。クレアに落ち着くよう言い聞かせた時のマーシュは、いたって真剣な声をしていて、クレアもひとまずは彼を信じてじっと動かないことにした。
スゥ・・・スン、スン、スゥ
マーシュが顔を密着させてから、クレアはずっとある音を聴いていた。マーシュの突然の行動に戸惑っていた時はよくわからなかったが、ここでようやくクレアは、マーシュが自分の血の臭いを嗅いでいるのだと理解した。
傷口に限りなく鼻を近づけ、流れ出る血の臭いをまるで動物のように執拗に嗅いでいる。
何故、自分の血を嗅ぐのか。
ワインの香りや度重なる出血により、半ば意識が酩酊しているクレアはどうしてもそのわけを思いつくことができなかった。
おとなしくしていることに専念して待つこと20秒ほど、マーシュが顔を離して耳元で囁いた。
「いいか、よく聞け・・・・・今から俺はタイミングを見計らってここから出る。ああ今さ。この事態を引き起こしたやつを、今なら追えるんだ」
「どういう、こと?」
「説明は後だ。・・・任せてくれ、クレアはここで待ってろ」
マーシュはクレアの頭に1度手を当ててから、素早く樽から出られるように窮屈な体勢を入れ替え始めた。
スン・・・スゥ、スン
樽から頭だけ出して周囲の臭いを嗅ぐマーシュを見て、クレアはどこか動物めいていると考える。
マーシュが樽から飛び出した。感づいたジェット・ビーの羽音がやかましくなった時には、すでにマーシュの足音はワイン室の扉を蹴破って外に消えていった。
1人残されたクレアはふと、ある違和感を感じた。
いくらマーシュが自分よりも傷が少なく、いつも通りの身軽さで動き回れたにしても、ワイン室にはジェット・ビーが大勢飛び回っていた。それこそ、なんとか2人が樽の中に隠れなければ死んでいたほどに。
だが、マーシュはいとも簡単に外へ出て行ってしまった。
『羽音が・・・少なくなっている?』
樽からマーシュが飛び出た時にはある程度ジェット・ビーの羽音が聞こえていた。だが今となってはその数は少なく、しかも残った羽音も何だか弱々しくなっている。
詳しい理由はわからない。しかしクレアは今ならば大丈夫だと判断して、マーシュを追うために樽から飛び出した。
「どうなってるのよ?・・・あんなにいたジェット・ビーがこんな短時間で弱っているわ」
ワイン樽から出ても外に出てもジェット・ビーはもはや飛行しておらず、まさしく虫の息になって地面に散らばっていた。
もしやホンバットがどうにかしてくれたのだほうか、自分やマーシュよりも格上の冒険者の姿を頭に浮かべながらも、クレアはハンデン邸の門から出てワインで濡れたマーシュの足跡を追って住宅街を走っていく。
「いた!」
脇腹や肩の痛みに耐えながら、およそ30秒ほど走って追うとマーシュの背中が見えた。マーシュも走ってくるクレアに気づいて振り向いた。
クレアがマーシュに近づくと、彼の10メートル向こうに植物紋様のローブを着た1人の女が片足に矢を受けて倒れているのに気づいた。その女にはまだ意識があり、矢が突き刺さっている痛みで呻いている。
女性には優しい、いや甘いと言ってもいいほどのマーシュが、この時ばかりは油断なく矢を番えて立っていた。
「マーシュ、この女は?」
クレアの問いかけに、マーシュは構えを崩さず声だけを返す。
「クレアの傷口からジェット・ビーの臭いを嗅ぎ分けて追ったんだ。こいつがジェット・ビーを操ったり庭に密林を創り出したに違いないぜ。・・・・・気をつけろよ、さっきそのローブの袖口から死にかけのジェット・ビーを発射してきやがったからな」
いつになく真剣な様子でマーシュが説明している最中も、ローブをきた女は刺さっている矢の痛みからか、ひどく青ざめた顔で脂汗を流して呻いていた。つり上がった三白眼に細い顎、白髪混じりのパサついた髪もあいまって、神経質そうな性格が読み取れる。
一応だが、クレアも短剣を抜いてマーシュの言う通り警戒しておいた。そして、万が一逃げられることがないように
、少しだけ倒れている女の左側に回ってから問うことにした。
「あなたの名前は?何が目的でハンデン邸を襲撃したの?」
厳しい口調でクレアは問いただそうとしたが、女は何も答えず矢を痛がって「うぅ、うぅ」といった呻き声を上げるばかりである。
これでは何も聞けない。だが足の傷を処置してしまっては、逆にこちらが危険になってしまう。
このままホンバットか警備隊が駆けつけるまで待つか、とクレアが考えたその時、マーシュが女に質問を投げかけた。
「あんた、もしかしたら誰かの指図を受けてきたんじゃないか?俺もクレアもあんたみたいな人には会ったことないはずだし、ホンバットさんもハンデン氏も、まったく心当たりがなかった感じだったからよ」
質問というよりも推理に近かったが的を射ていたようで、女はどうにかして距離をとろうと腕を引きずりだした。
「おい、逃げるなよ。どのみちそんな細身の体で足を使わないで逃げられるわけないだろ。こっち向け」
その言葉を聞いた女は、とりあえずは逃げようとする素振りをやめたがマーシュの顔を恨みがましそうに睨んできた。
マーシュはさらに質問を続ける。
「目的はなんだ?ハンデン氏の金・・・ってわけじゃなさそうだな。誰かを殺すためか?ハンデン氏か?それとも俺やクレアか、ホンバットさんか?」
女は下唇を強く噛み締めて睨み続けている。次第に下唇からは血が滲んでいくが、女は意に介さずマーシュに殺気を込めた視線をぶつけている。
「もしかして・・・・・いや、まさかな」
「何?マーシュ」
「・・・・・・・エイドスの差し向けたやつじゃねえよな」
エイドスの名をマーシュが口にすると、女は突如形相を変えて烈火の如く叫びだし、何かに取り憑かれたように言葉をまくしたてた。
「く、く・・・クァァァアッ!!どうしてッどうしてこんなことになってしまったのよォォッ!最もわたしがあなた様に尽くして添い遂げようと考えていたのにッ真なる『力』の使い方を示したのにッどうして、こんな仕打ちをッ・・・!!」
嗚咽し、泣き叫ぶ女は迷いもなく自分の髪の毛を乱暴に引き千切っていく。半狂乱になった女を見てマーシュもクレアも唖然としていたが、さらに劇的な変化が起こった。
女の耳からちろちろと黄土色の液体が流れ出たかと思えば、女の頭はみるみるうち膨れ上がり、ところどころから血の混じった黄土色の液が決壊した土堰から水が漏れるように噴き出ていった。
「お、おいッ様子がおかしいぞ!何なんだ?!」
「知らないわよ!こんなっ、まるで皮の下を虫が這いずり回っているような・・・ッ!」
2人がうろたえている間も、女の頭は膨らみ続けていき、女の叫び声もくぐもっていく。そんな時でも女は、最期に慕っていた男の名を喉から絞り出した。
「エ、イッ・・・ドス・・・・・さっ・・ま」
そして女は血と脳漿をぶちまけて呆気なく、それこそ、虫が殺されるのと同じくらい呆気なく破裂して死んだ。
それからホンバットと警備隊が、2人のもとに駆け付けたのはすぐのことだった。
ラ・ミル・ジュリエッタ
警備隊がローブの裏の刺繍から名前が判明した。10年以上前にごくごく短い間、冒険者をやっていたそうだがその後は消息不明だった。
現在分かっている能力は、虫型モンスターと植物を操るという魔法でも魔術でもない極めて『異端な』能力だけである。




