第二章 八年前の教室
医局長室を出たあと、成瀬は当直室のベッドに横になった。眠るためではない。目を閉じると、決まってあの日に戻るからだ。
八年前、成瀬はまだ医師ではなかった。
大学病院附属の医療系専門学校で、非常勤講師として解剖生理学を教えていた。臨床に疲れ、教育の道に一時逃げ込んでいた時期だ。美咲は、そのクラスの学生だった。
覚えが早く、質問はいつも本質を突いていた。将来は看護師になりたい、と目を輝かせて言った。成瀬は、彼女に才能を感じていた。
だが美咲には、もう一つの顔があった。学校の理事長――権藤の甥にあたる人物からの、執拗な誘いだ。理事長は当時、学校の経営権を巡って権藤と密接な関係にあり、権藤はその「後ろ盾」として睨みを利かせていた。
美咲が理事長からの誘いを断り続けたことは、後に成瀬が知ることになる。そして彼女が「評価不正」の疑いをかけられ、退学寸前まで追い詰められたことも。
成瀬は、その不正の証拠が捏造だと気づいていた。彼女の答案は、他の誰よりも丁寧で、独自の思考の跡が残っていた。写せるはずがない。
彼は理事会に異議を申し立てた。だが翌週、権藤が「学校の評判を守るため」という理由で、内密の圧力をかけた。成瀬の非常勤契約は更新されず、美咲の処遇についても口を出す権利を失った。
三ヶ月後、美咲は屋上から身を投げた。
遺書はなかった。学校側は「個人的な事情」として処理し、事件は静かに幕を閉じた。
成瀬だけが知っていた。彼女を追い詰めたのが誰の意志だったかを。
当直室の天井を見つめながら、成瀬は右手を持ち上げた。指先が微かに震えている。
「先生、どうしてあの子を助けなかったの?」
美咲の声が、また聞こえる。
「助けようとした」成瀬は声に出さず、心の中で答えた。「だが俺には、まだ武器がなかった」
あの頃の自分は、ただの講師だった。組織の中で発言力を持たない、弱い立場の人間だった。だから彼は医師になった。そして、この病院に潜り込んだ。権藤が理事長職を経て、この大学病院のトップに登り詰めたのを追うようにして。
今の成瀬には武器がある。院内の力関係を読む目。誰が誰に借りを作り、誰が誰を恐れているかという、組織の「配線図」を正確に描く能力。そして何より、権藤自身が積み上げてきた「慈悲深い聖者」という虚像――それを崩す鍵を、成瀬は静かに集め続けてきた。
美咲の声が、また問いかける。
「それは復讐? それとも正義?」
成瀬は答えなかった。答えなど、とうに意味を失っていた。
天井の染みが、少しずつ人の形に見えてくる。彼はゆっくりと目を閉じた。
明日も、外来がある。明日も、権藤は微笑むだろう。
その微笑みの下にある骨を、成瀬は一本ずつ、確実に折っていくつもりだった。




